前世の記憶しかない元侯爵令嬢は、訳あり大公殿下のお気に入り。(注:期間限定)

miy

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第12章

169 休養3

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レティシアの休養も七日目。
同化後の体調に大きな問題はなく、四日目以降は大公邸へ移って穏やかな毎日を過ごしていた。

大公邸の門前で仰々しく出迎えられ、新しい侍女や護衛騎士を大勢紹介された時には、誘拐事件の後だけに多少堅苦しい生活も覚悟しなければと身構えていたというのに…今では、それが嘘のように居心地がいい。

侍女や護衛騎士、使用人から向けられる温かい眼差しは予想以上。女性と一切関わりを持って来なかったアシュリーの初の恋人として歓迎されているらしく、巨大な城とは思えない程のアットホーム感がある。
侍女たちとは一緒にピクニックランチやお茶を楽しむ時もあり、いつもお喋りに花が咲く。騎士たちは何かあればすぐに対処できる距離にいながらも、レティシアの行動の自由を邪魔せず干渉し過ぎない理想的な環境。そっと見守る周りの姿勢が大変好ましい。


ユティス公爵邸での暮らしは、誘拐事件によって突然終わりを迎えてしまった。アシュリーの秘書官とはいえ、魔力を持たない平民の居候が不自由なく生活できるよう便宜を図ってくれた公爵夫妻に、レティシアは心から感謝している。
見ず知らずの異世界人を快く受け入れてくれたからこそ、ラファエル、ザック、そして…ロザリーや今の侍女たちに出会えた。




──────────




仕事が休みの間、お世話になった公爵夫妻やお見舞いに来てくれた友人たちに手紙を書いていたレティシアも流石に暇を持て余すようになり、興味本位で手を出したのが“淑女の嗜み”の代表ともいうべき刺繍。…といっても、始めたのはまだほんの二日前。
侍女たちに『いい時間潰しはないか?』と尋ねたところ、見事に全員が『刺繍』と答えたからだ。

時を同じくして、宮殿で執務をするアシュリーが昼休みとお茶休憩ティータイムを合わせて作った一時間程を、大公邸の離れ…つまり休養中のレティシアの部屋で過ごすようになった。



    ♢



苺ジャムを挟んだクッキーとバターの風味豊かなパウンドケーキを食べ、上機嫌で紅茶を飲み終えたレティシアが刺繍をし始めた三時過ぎ、部屋へとやって来たアシュリーは、刺繍針を扱う繊細な作業を邪魔しないよう向かい側のソファーに座って話をした後、静かに本を読み出す。


「…いっ…!」

「レティシア?!」


アシュリーの気遣いも虚しく…針が指先に軽く当たって、レティシアは小さな悲鳴を上げた。
分厚い本を座面に置いて側へ寄ると、涙目になったレティシアが膝の上に投げ出した刺繍枠を恨めしげに睨んでいる。
同化して感覚が敏感になったせいか、以前よりも感情が表面へ出易い。少し口を窄めたその様子は、ふて腐れた子供のようで可愛らしいのに…妙に蠱惑的だ。

アシュリーは抱き締めたくなる衝動を抑え込むと、針が中途半端に刺さった刺繍枠を拾い上げた。枠に嵌った小花柄を見れば、布に図案を写し色分けがしてある初心者用のものだと分かる。


「…上手くできている…」


実際には、刺繍に気が乗らないのだろう…レティシアがむくれた顔をする本当の理由を、アシュリーは知っていた。

帝国へ出掛けたルークが予定より遅れて明日戻るとの知らせが今朝届き、それに伴ってレティシアの仕事復帰も一日先へ延ばしたと伝えたのがショックだったに違いない。表面上は理解を示したものの、黙り込んで刺繍を続けた。
邸から外へ出られない状況の割に、毎日機嫌よく過ごしていると報告を受けてホッとしていたアシュリーは、一日延びても問題ないと思っていたのだが、どうやら見誤ってしまったらしい。

ルークが不在なら、明日だけ別の従者に護衛を任せれば済む話。アシュリーは、誤った判断を下したことを詫びるべきだと思う反面、不機嫌な姿を取り繕うことなく見せるレティシアにどこか喜びを覚えていた。


「本当に…私を翻弄させる…困った人だ」

「…ん?」


手に持った刺繍枠を眺めて立ったままブツブツと独り言を言うアシュリーを、レティシアが見上げる。


「私…刺繍は向いていないみたい」

「まだ数日なのに?珍しく音を上げたな」

「そうね、殿下にお似合いの淑女にはなれそうにないわ」

「…どうにも虫の居所が悪そうだ…」

「殿下はニヤニヤして、何だか変よ」

「レティシア、私は君の全てが愛おしい。だから、刺繍の技量に問題があっても、淑女であろうとなかろうと一向に構わない。それよりも…私の側では君らしくいて欲しいと思う」

「…………」

「私は、今のレティシアが好きなんだよ」


前屈みになって耳元でそう囁いた瞬間、レティシアはカァッと頬を朱に染めて俯く。アシュリーは満足気に目を細めた。
こうした些細な言動にも一喜一憂する度合いが、同化後一番変化した部分かもしれない。より大人びた容姿は人を惹きつける魅力が増し、最近では肌に触れて唇を指でなぞるだけでも色っぽく反応するため…アシュリーは理性を試されている。勿論、最終的には口付けて咥内を吸い尽くすのだが、初日に無理をさせた後『お手柔らかに』と釘を刺され、可能な限り自重しているつもりだった。


「…私らしくいられるように、お邸でもいろいろと心配りをしてくれて…ありがとう」

「当然だろう?レティシアは私のお気に入りで、好きな人で…愛しい恋人だ。こんなところに住めないって出て行かれたくはないからね、何だってする」

「…もう…大袈裟…」

「信じてくれないの?」


アシュリーはサッと格好よく跪いて恭しくレティシアの手を取り、指先にチュッと口付けてみせる。普通ならば笑う場面であると思うのに、あまりにも様になっていて…全く笑えない。


「…暮らしは快適か?護衛には、レティシアの意思を尊重しつつ、安全を確保できる能力に長けた騎士を厳選した。彼らは貴族の次男、三男で、後継者のような押しの強さがなく親しみやすい。その上、姉妹を思いやる優しい人柄らしいから…」

「えぇ…侍女たちも、皆よくしてくれるわ。昨日からは、朝晩のランニングも再開したの。侍女が増えたから、時間に余裕のできたロザリーが付き合ってくれて…」

「そうらしいね。身体を動かすのはいい…コースは気に入った?」

「整備されていて走りやすい…って、え?!まさか、私のために作っておいたとか言わないわよね?」

「ハハッ…ご想像にお任せするよ。…体調はどう?」

「…月のものも終わったし、いつでも仕事に戻れる。ルークが帰って来たらだけど…」

「明日、ゴードンを護衛につけようか?」

「…いいえ、ゴードンさんにも大事な仕事があるはずよ。それに、ルークに護衛して欲しいってこの前私が頼んだの。だから、一日待って彼と一緒に復帰するわ」

「………妬けるね…」

「殿下ったら、そんなに沸点が低いお方じゃないでしょう?」


すっかり機嫌の直ったレティシアがクスクスと笑うのを横目で見ながら、アシュリーは隣へ腰掛けて顎に手を当てた。


「…いや…どうかな?いつだったか、君とパトリックが二人きりになると知っただけで嫉妬した記憶がある…」

「アンダーソン卿と?…絶対に仕事よ」

「レティシアが絡むと駄目みたいだ。さて…そろそろ戻ろう」


しれっとそう言って部屋を出るのかと思いきや、そこから甘い口付けがスタートするのだから…困ったものだ。




──────────




「明日、王宮にレイヴン様が?」


夜になって部屋を訪ねてきたアシュリーは、ひどく憂鬱そうな表情をしていた。


「事件について、直接こちらへ報告に来られる…ルークも一緒だ。レティシアとロザリーは、その報告を聞く権利がある。書類だけならば王宮へ行く必要はなかったが、少し状況が変わった。ルークは、ロザリーには聞かせたくないと先に連絡を寄越して来たから、彼女は王宮へ連れて行かない」

「私がルークの立場でも、そうしたでしょうね」

「君たちは被害者だ。知りたくなければ拒否できるし、話を聞かなくても後で報告書を見る方法もある…選べるんだよ」

「私は…真実を知りたい。王宮へ行くわ」

「…そう言う気がしていた…それならば、君に…話しておかなければいけないことがある」

「何…?」

「…庭師のザックについてだ…」

「え?」


ザックが殺害されたと…話を聞いたレティシアは、その場で泣き崩れる。アシュリーが強く抱く腕の中で、レティシアの涙は止めどなく流れ続けた。



    ♢



人知れず余命宣告を受けていた庭師ザックは、後進の育成に力を注いでいたある日、薔薇園で聖女サオリに出会う。

弟子たちに、大きな庭園の手入れを学ばせたいと熱く語るザック。
聖女宮では庭園を魔法で管理しているため、学びの場としては物足りないだろうと考えたサオリは、代わりに広大な敷地を持つユティス公爵家を紹介する。

ザックは日に焼けた顔に笑みを浮かべ、とても喜んだ。



    ♢



「彼は、残り少ない命を擲って犯罪を防ごうとした立派な人だった。レティシアと同じように、聖女様や…多くの人たちが悲嘆に暮れている」


アシュリーは、泣きじゃくるレティシアを朝まで抱き締めていた。










────────── next 170 報告

後一週間で4月ですね。皆様が新年度を笑顔で迎えられますよう、お祈り申し上げます。
いつも読んで下さいまして、誠にありがとうございます。






    
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