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Ep.3 教育の季節
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春が過ぎ、王都に緑が戻った
王城の回廊には光が差し、庭の木々がやわらかく芽吹いている。
クラリッサは公爵家の馬車で城へ通うようになってから、もう三年が過ぎていた。
朝の鐘が鳴るたび、彼女は静かに筆を取り、書物と向き合う。
文字を学ぶというより、意味を整える日々だった。
授業は王立学院の特別講義室で行われる。
王族と高位貴族の子女が同じ机を並べる場。
講師の声が響き、羊皮紙の擦れる音が続く。
その中にあっても、クラリッサは常に筆を止めず、姿勢を崩さない。
丁寧に、確かに、言葉を積み上げていく。
隣の席では、ルーファスが退屈そうにしていた。
彼は勉強が嫌いではない。
ただ、同じ空気の中に長く留まることが苦手なのだ。
剣の訓練なら体が動くが、書物は沈黙を強いる。
沈黙は、彼にとって小さな牢のようだった。
講義が終わると、クラリッサは本を閉じ、立ち上がる。
「今日の内容、覚えましたか?」
彼女の問いに、ルーファスは肩をすくめた。
「覚えようとはしたよ」
「それでは、半分くらいは成功ですね」
軽い冗談だったが、彼の表情は少し曇った。
「君は、いつも正しいことを言う」
「それは悪いことでしょうか」
「いや……たまに退屈なんだ」
クラリッサは微笑んだ。
「退屈でも、正しいほうが安心します」
その言葉は何気なかった。
けれど、ルーファスは心のどこかで小さな棘のようにそれを感じ取った。
安心という言葉の裏には、距離があった。
◇◇◇
王立学院の裏庭では、午後の訓練が行われていた。
兵士見習いたちの剣の音が遠くに響く。
ルーファスはその音を耳にすると、筆を置いた。
窓辺に立ち、外を見下ろす。
青空の下で汗を流す者たちが、自由に見えた。
彼の視線の先に、王家付きの教官が声を張る。
「殿下も午後には訓練へ」
ルーファスは小さくうなずき、椅子を引いた。
廊下でクラリッサとすれ違う。
「午後は剣ですか」
「うん。机より気楽だ」
「怪我をなさらないでください」
「君は心配性だな」
「役目柄です」
軽いやりとりのはずなのに、どこかぎこちない。
二人の距離は、ほんのわずかずつ、見えない形で伸びていった。
◇◇◇
その頃、クラリッサの家でも変化があった。
エドガーは外務会議に出ることが増え、家を空ける時間が長くなった。
娘は父の不在を寂しいと思いながらも、その理由を理解していた。
外交は、戦よりも静かな闘いだ。
彼女は父の背中を思い出し、机に向かうたびにその姿勢をなぞった。
夜、蝋燭の明かりのもとで書き物をしていると、リアが茶を運んできた。
「お嬢さま、休まれませんか?」
「もう少しだけ。明日の史学の予習をしておきたいの」
リアは湯気の立つ茶を置き、少し考えてから口を開く。
「殿下は、最近お元気ですか?」
クラリッサは手を止めた。
「ええ。少し、無理をなさっているように見えますけれど」
「お会いになったんですか?」
「授業で」
リアは嬉しそうに笑った。
「小さいころのお二人を思い出しますね」
「……そうね」
クラリッサは微かに笑い、カップを口に運んだ。
茶の温度が、言葉よりも確かな慰めだった。
◇◇◇
夏になると、王立学院は一時の休講を迎える。
王城の中庭では舞踏会の準備が進み、若い貴族たちが行き交う。
クラリッサは招かれた茶会で、王女シャーロットと再会した。
彼女は以前よりも背が伸び、軽やかな口調の中に自信が宿っていた。
「久しぶりね、クラリッサ。婚約者として忙しいんでしょう?」
「学びが多い日々です」
「それはつまり、忙しいということね」
シャーロットはからかうように笑った。
その横顔に、どこか兄ルーファスと似た影が見えた。
「殿下とはお話できていますか?」
「必要なことは」
「必要なこと、ね。あなたらしいわ」
王女はカップを傾けて小声で言う。
「でも、兄はそれじゃ少し寂しいかも」
クラリッサは目を伏せた。
「そうでしょうか」
「ええ。あの人、案外単純なの。褒められるとすぐ調子に乗る」
「それは困りました」
「困っても、優しくしてあげて」
シャーロットの声は軽いが、思いやりが滲んでいた。
クラリッサは微笑んでうなずいた。
「気をつけます」
◇◇◇
夏の終わり。
訓練場の風が乾いて、木立の葉が揺れる。
クラリッサはルーファスに書簡を届けに来ていた。
父に頼まれた正式な文書の写しだ。
警護の兵に案内されて入ると、訓練場の隅で少年の姿が見えた。
ルーファスは額に汗を光らせ、剣を振っていた。
打ち合う音が響き、砂が舞う。
教官が合図を送ると、動きが止まった。
彼は剣を収め、こちらを振り向いた。
「クラリッサ?」
「お届けものです。父からの文書を」
「ありがとう」
彼は受け取り、息を整える。
「……見てた?」
「はい」
「下手だった?」
「少し。ですが、努力は伝わりました」
ルーファスは苦笑した。
「厳しいな」
「正直に申しました」
「君はいつもそうだ」
口調に棘はなかったが、どこか遠さを感じる言葉だった。
沈黙の中、風が二人のあいだを抜けた。
クラリッサは軽く頭を下げ、帰ろうとした。
「クラリッサ」
呼び止める声に振り向く。
「君は……楽しいか?」
「楽しい、とは?」
「こういう生活だよ。勉強ばかりで、礼儀と義務ばかりで」
彼女は少し考えた。
「それがわたしたちの務めです」
「務めだけで、心は生きていけるのかな」
その問いに、答えはなかった。
彼女は静かに微笑んで、言葉を返さなかった。
風が一度吹き抜け、音だけが残る。
◇◇◇
秋が近づき、王都の空が高くなった。
クラリッサは手帳を閉じ、外を眺めた。
彼との距離が広がっていることを感じていた。
けれど、それをどうすることもできなかった。
彼女にとっての愛は、まだ「誠実であること」と同じ意味だった。
窓の外に、王城の塔が見える。
夕陽の中で金色がかすかに光る。
あの日の庭と同じ色。
けれど、光は遠い。
クラリッサはそっと息を吐いた。
――これが、教育の季節。
成長とは、少しずつ離れていくことなのだと、
彼女は薄々感じ始めていた。
王城の回廊には光が差し、庭の木々がやわらかく芽吹いている。
クラリッサは公爵家の馬車で城へ通うようになってから、もう三年が過ぎていた。
朝の鐘が鳴るたび、彼女は静かに筆を取り、書物と向き合う。
文字を学ぶというより、意味を整える日々だった。
授業は王立学院の特別講義室で行われる。
王族と高位貴族の子女が同じ机を並べる場。
講師の声が響き、羊皮紙の擦れる音が続く。
その中にあっても、クラリッサは常に筆を止めず、姿勢を崩さない。
丁寧に、確かに、言葉を積み上げていく。
隣の席では、ルーファスが退屈そうにしていた。
彼は勉強が嫌いではない。
ただ、同じ空気の中に長く留まることが苦手なのだ。
剣の訓練なら体が動くが、書物は沈黙を強いる。
沈黙は、彼にとって小さな牢のようだった。
講義が終わると、クラリッサは本を閉じ、立ち上がる。
「今日の内容、覚えましたか?」
彼女の問いに、ルーファスは肩をすくめた。
「覚えようとはしたよ」
「それでは、半分くらいは成功ですね」
軽い冗談だったが、彼の表情は少し曇った。
「君は、いつも正しいことを言う」
「それは悪いことでしょうか」
「いや……たまに退屈なんだ」
クラリッサは微笑んだ。
「退屈でも、正しいほうが安心します」
その言葉は何気なかった。
けれど、ルーファスは心のどこかで小さな棘のようにそれを感じ取った。
安心という言葉の裏には、距離があった。
◇◇◇
王立学院の裏庭では、午後の訓練が行われていた。
兵士見習いたちの剣の音が遠くに響く。
ルーファスはその音を耳にすると、筆を置いた。
窓辺に立ち、外を見下ろす。
青空の下で汗を流す者たちが、自由に見えた。
彼の視線の先に、王家付きの教官が声を張る。
「殿下も午後には訓練へ」
ルーファスは小さくうなずき、椅子を引いた。
廊下でクラリッサとすれ違う。
「午後は剣ですか」
「うん。机より気楽だ」
「怪我をなさらないでください」
「君は心配性だな」
「役目柄です」
軽いやりとりのはずなのに、どこかぎこちない。
二人の距離は、ほんのわずかずつ、見えない形で伸びていった。
◇◇◇
その頃、クラリッサの家でも変化があった。
エドガーは外務会議に出ることが増え、家を空ける時間が長くなった。
娘は父の不在を寂しいと思いながらも、その理由を理解していた。
外交は、戦よりも静かな闘いだ。
彼女は父の背中を思い出し、机に向かうたびにその姿勢をなぞった。
夜、蝋燭の明かりのもとで書き物をしていると、リアが茶を運んできた。
「お嬢さま、休まれませんか?」
「もう少しだけ。明日の史学の予習をしておきたいの」
リアは湯気の立つ茶を置き、少し考えてから口を開く。
「殿下は、最近お元気ですか?」
クラリッサは手を止めた。
「ええ。少し、無理をなさっているように見えますけれど」
「お会いになったんですか?」
「授業で」
リアは嬉しそうに笑った。
「小さいころのお二人を思い出しますね」
「……そうね」
クラリッサは微かに笑い、カップを口に運んだ。
茶の温度が、言葉よりも確かな慰めだった。
◇◇◇
夏になると、王立学院は一時の休講を迎える。
王城の中庭では舞踏会の準備が進み、若い貴族たちが行き交う。
クラリッサは招かれた茶会で、王女シャーロットと再会した。
彼女は以前よりも背が伸び、軽やかな口調の中に自信が宿っていた。
「久しぶりね、クラリッサ。婚約者として忙しいんでしょう?」
「学びが多い日々です」
「それはつまり、忙しいということね」
シャーロットはからかうように笑った。
その横顔に、どこか兄ルーファスと似た影が見えた。
「殿下とはお話できていますか?」
「必要なことは」
「必要なこと、ね。あなたらしいわ」
王女はカップを傾けて小声で言う。
「でも、兄はそれじゃ少し寂しいかも」
クラリッサは目を伏せた。
「そうでしょうか」
「ええ。あの人、案外単純なの。褒められるとすぐ調子に乗る」
「それは困りました」
「困っても、優しくしてあげて」
シャーロットの声は軽いが、思いやりが滲んでいた。
クラリッサは微笑んでうなずいた。
「気をつけます」
◇◇◇
夏の終わり。
訓練場の風が乾いて、木立の葉が揺れる。
クラリッサはルーファスに書簡を届けに来ていた。
父に頼まれた正式な文書の写しだ。
警護の兵に案内されて入ると、訓練場の隅で少年の姿が見えた。
ルーファスは額に汗を光らせ、剣を振っていた。
打ち合う音が響き、砂が舞う。
教官が合図を送ると、動きが止まった。
彼は剣を収め、こちらを振り向いた。
「クラリッサ?」
「お届けものです。父からの文書を」
「ありがとう」
彼は受け取り、息を整える。
「……見てた?」
「はい」
「下手だった?」
「少し。ですが、努力は伝わりました」
ルーファスは苦笑した。
「厳しいな」
「正直に申しました」
「君はいつもそうだ」
口調に棘はなかったが、どこか遠さを感じる言葉だった。
沈黙の中、風が二人のあいだを抜けた。
クラリッサは軽く頭を下げ、帰ろうとした。
「クラリッサ」
呼び止める声に振り向く。
「君は……楽しいか?」
「楽しい、とは?」
「こういう生活だよ。勉強ばかりで、礼儀と義務ばかりで」
彼女は少し考えた。
「それがわたしたちの務めです」
「務めだけで、心は生きていけるのかな」
その問いに、答えはなかった。
彼女は静かに微笑んで、言葉を返さなかった。
風が一度吹き抜け、音だけが残る。
◇◇◇
秋が近づき、王都の空が高くなった。
クラリッサは手帳を閉じ、外を眺めた。
彼との距離が広がっていることを感じていた。
けれど、それをどうすることもできなかった。
彼女にとっての愛は、まだ「誠実であること」と同じ意味だった。
窓の外に、王城の塔が見える。
夕陽の中で金色がかすかに光る。
あの日の庭と同じ色。
けれど、光は遠い。
クラリッサはそっと息を吐いた。
――これが、教育の季節。
成長とは、少しずつ離れていくことなのだと、
彼女は薄々感じ始めていた。
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