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Ep.4 小さなすれ違い
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王宮の夜会は、秋の始まりを告げる合図だった。
広間の天井は高く、燭台の光が静かに揺れる。
音楽は控えめで、会話はその上を滑る。
杯が触れ合う音は小さく、所作は整っている。
この国の華やかさは、いつも節度の中にあった。
クラリッサは父の後ろに立ち、入室の礼を終えた。
列はゆっくりと動き、王の前で止まる。
エドガーが短く言う。
「陛下、季節のご機嫌よう」
王はうなずく。王妃は穏やかな笑みを見せた。
形式が整えば、夜は流れ始める。
広間の中央では、若い貴族が輪を作っていた。
舞曲の拍子に合わせて、床の上を軽く回る。
クラリッサは誘いを待つ立場ではない。
婚約者は王太子であり、彼女は無用に目立たぬ方がよかった。
彼女は人の流れを見守り、必要な挨拶を交わす。
言葉は短く、笑みは控えめに。
それで十分だった。
やがて、ルーファスが姿を見せた。
軍装ではない。深い青の礼服に、白の飾り紐が光る。
髪は整い、顔の表情は少し硬い。
彼は多くの視線を受け止め、まっすぐ歩いた。
王族は、歩くときに空気が変わる。
「クラリッサ」
彼は近づくと、小さく声をかけた。
「殿下」
「少し、ここで」
彼は視線で柱の陰を示した。
二人は人の流れを避け、壁際へ移る。
音楽の音が、わずかに遠くなった。
「今日は、よく似合っている」
ルーファスは視線を外したまま言った。
「ありがとうございます」
「舞は……踊るか?」
「必要であれば」
「必要で、か」
彼は肩で短く息をした。
「君は、いつも“必要”を選ぶ」
「務めを優先しているだけです」
「それが、たまに難しく感じる」
彼はそこで言葉を止め、微笑を作った。
「すまない。今は愚痴を言う場ではないな」
「いいえ。お話しくださってかまいません」
「あとで」
彼はそう言って、列へ戻った。
クラリッサは柱に手を添え、呼吸を整えた。
会話は短かったが、心は少し揺れた。
彼の「難しい」という言葉が、胸の奥に軽い重さを残した。
それは痛みというほどではない。
ただ、落ち着かない余韻が残った。
「ごきげんよう、エインズワース嬢」
澄んだ声がした。
振り向くと、ロシュフォール家の令嬢、マリアンヌが立っている。
年はクラリッサと同じ頃。
柔らかな髪を肩に流し、淡い色のドレスがよく似合っていた。
目元は愛らしく、笑みは人を警戒させない。
「はじめまして。マリアンヌ・ロシュフォールと申します」
「クラリッサ・エインズワースです。お目にかかれて光栄です」
「まあ、そのお声。落ち着いていて、聞いていると安心します」
マリアンヌは軽く手を合わせた。
「殿下はお元気ですか」
「はい。お変わりなく」
「良かった。先日、慈善会で少しお話ししたのです。
とても真面目で、やさしい方ですね」
「……ええ」
言葉が浅い水に落ちて、すぐ沈んだ。
クラリッサはかすかな違和感を覚えたが、表に出さなかった。
マリアンヌの笑みは柔らかい。
「あなたは殿下とよく話されますか」
「必要なことは」
「まあ。公爵家の務めがあるのですね」
「はい」
「ええと……言いにくいのですけれど」
マリアンヌは声をさらに落とした。
「殿下、たまに寂しそうに見えます。
私の思い過ごしかもしれませんけれど」
「……そう見えることは、あります」
「やっぱり」
マリアンヌは胸に手を当て、安心したように息をついた。
「よかった。私、間違っていないのですね」
彼女は微笑み、軽く頭を下げた。
「変なことを言ってしまってごめんなさい。
今夜はどうか、殿下が楽しいといいですね」
その言葉は、祈りの形をしていた。
マリアンヌが去ると、すぐに別の声が近づく。
「公爵令嬢は、いつも静かね」
二人組の若い伯爵令嬢が、扇を口元に寄せてささやいた。
「冷たいのかしら」
「勤勉なのよ。きっと」
「勤勉は大切。でも、王太子殿下の隣に立つには……」
言葉は刃より鈍いが、時に長く刺さる。
そこへ、王女シャーロットが現れた。
明るい歩幅で近づき、クラリッサの手を取る。
「ねえ、踊った?」
「いえ」
「では――曲の間だけ、私とお話ししましょう。
あの輪に入る前に、少し息を整えておきたいの」
シャーロットは人目を気にせず、柱の陰へ引いた。
「兄はどう?」
「少し緊張なさっているようです」
「ええ、顔が硬いものね。
あなたが笑ってくだされば、少しは楽になると思うの」
「……笑うのは、得意ではございません」
「そういうところが、いいのよ」
王女はくすりと笑った。
「あなたの笑みは、少ないからこそ価値があるの。
だから、ここぞというときに使いなさい」
「“ここぞ”とは、いつでしょうか」
「今夜の“ここぞ”は二つ。
一つは、兄が誰かに話しかけているとき。
もう一つは、あなたが誰かに何か言われたとき」
クラリッサは目を伏せ、静かに微笑んだ。
「ご助言をありがとうございます。」
シャーロットは目を細め、声を少し落とした。
「さっき、ロシュフォールの令嬢と話していたでしょう?」
「ご挨拶を少し」
「感じの良い子ね。けれど――あの柔らかさは、人をほどいてしまう」
クラリッサは小さく首を傾げた。
「ほどく……、とは?」
「結び目を、よ。
本来、固くしておきたいものまで、ゆるめてしまうことがあるの」
王女の声は穏やかだった。
忠告でありながら、どこか優しい響きを持っていた。
「……肝に銘じておきます」
「それで十分よ」
シャーロットは柔らかく微笑み、手を放した。
「さあ、行きましょう」
音楽が新しい旋律へと変わる。
人々が円を描き、足音が床に響く。
クラリッサは列の端に立ち、タイミングを計った。
ルーファスは遠くで誰かと言葉を交わしている。
相手はマリアンヌだった。
彼はこわばりを少し緩め、短く笑った。
笑うと少年の顔になる。
それは昔と同じだった。
ただ、今は少し遠い。
「エインズワース嬢、踊っていただけますか」
年長の侯爵が声をかけた。
「光栄です」
クラリッサは礼をし、輪に入る。
二人の足は拍子に従い、過不足なく進む。
相手は礼儀正しく、無駄に話しかけない。
それはクラリッサに合っていた。
曲が終わると、彼は短く褒めた。
「所作が美しい」
「ありがとうございます」
お辞儀を交わして離れる。
彼女は再び広間を見渡した。
人の輪の向こうで、ルーファスが微かに眉をひそめていた。
すぐに表情は戻る。
だが、その一瞬は、彼をよく見る者にはわかった。
クラリッサは近づかなかった。
今は、彼の場だ。
彼女の役目は、乱さないことだった。
夜が更けると、噂は形を整える。
ささやきは線になり、線は網になる。
その網は、誰かの肩に軽く引っかかる。
痛みは弱いが、取れにくい。
「公爵令嬢は冷たい」
「王太子殿下には、もっと明るい人が必要では」
「ロシュフォールの令嬢は、よく気がつく」
クラリッサは正面から受け止めなかった。
ただ、背で感じた。
夜会の終わりに近い頃、エドガーが娘の側へ来た。
「帰るぞ」
「はい」
歩き出す前に、彼は短く言葉を付け足した。
「よくやった」
クラリッサは小さくうなずいた。
父の評価は多くを語らない。
けれど、それで足りた。
不安な気持ちが、少し落ち着いた。
廊下に出ると、空気がひんやりしていた。
夜の王宮は、音が少ない。
足音と衣擦れが、淡く続く。
外庭には月が出ていた。
灯りは控えめで、影は深い。
「クラリッサ」
背後から呼ぶ声があった。
ルーファスだった。
彼は早足で近づき、言葉を探しているように口を開いた。
「今夜は、ありがとう」
「殿下」
「……うまく話せない。君はいつも正しくて、それが少し怖くなる」
クラリッサは言葉を飲み込んだ。
「私は、殿下の力になりたいだけです」
「それが、距離になる」
ルーファスは短く笑った。
「変な話だね」
「変ではありません」
「どうして」
「距離があるから、守れることもあるからです」
彼は目を伏せた。
「そうかもしれない」
言葉はそこまでだった。
彼は礼をし、去っていった。
背中はまっすぐで、歩幅は早い。
追いかければ追いつけた。
けれど、彼女は動かなかった。
動かないことを選ぶ日がある。
それが、この夜だった。
馬車に戻ると、リアが毛布を用意していた。
「お疲れさまです」
「ありがとう」
車輪が動き出す。
石畳の震えが足元に伝わる。
静かな揺れは、緊張した体をほぐしてくれた。
クラリッサは少しだけ目を閉じた。
夜会の光と音が、ゆっくり遠ざかる。
「お嬢さま」
リアが小声で言う。
「殿下は、お優しそうでした」
「ええ」
「お嬢さまも、お優しいです」
「……そう見えますか」
「はい」
リアは迷いなくうなずいた。
「言葉が少ないだけです」
クラリッサは小さく笑った。
「それなら、少し増やしてみましょうか」
「きっと、殿下はお喜びになります」
「明日、考えてみます」
リアは満足そうに微笑んだ。
「お茶の香りを強くしましょう。落ち着きますから」
「お願い」
ささやかな会話が、体温を戻す。
今夜の網は、まだ肩に引っかかったまま。
けれど、取れないものではない。
彼女はそう思うことにした。
屋敷に戻ると、玄関の灯がついていた。
エドガーは先に降り、娘を振り返る。
「冷えたか」
「少し」
「茶を用意させる」
父はそれだけ言って、歩を進めた。
廊下には夜の匂いが残り、遠くで時計が時を告げる。
クラリッサは自室に入り、首飾りを外した。
鏡の中で、表情が少し固い。
息を吐くと、わずかに緩んだ。
机に向かい、短い覚え書きを作る。
夜会で交わした名、笑み、言葉。
必要なものだけを並べる。
彼女の作業はいつも通りだ。
ただ、最後に一行を付け足した。
――言葉を一つ、増やす。
蝋燭の火が低くなった。
窓の外は静かで、庭の木が風にさざめく。
眠りにつく前、彼女は目を閉じて、小さく祈った。
祈りは短く、誰にも聞こえない。
それで十分だった。
この夜の終わりは穏やかだった。
けれど、穏やかさの下で、少しずつ何かがずれていく。
それは大きな音を立てない。
音がしないから、気づきにくい。
小さなすれ違いは、静かに積もっていくのだった。
広間の天井は高く、燭台の光が静かに揺れる。
音楽は控えめで、会話はその上を滑る。
杯が触れ合う音は小さく、所作は整っている。
この国の華やかさは、いつも節度の中にあった。
クラリッサは父の後ろに立ち、入室の礼を終えた。
列はゆっくりと動き、王の前で止まる。
エドガーが短く言う。
「陛下、季節のご機嫌よう」
王はうなずく。王妃は穏やかな笑みを見せた。
形式が整えば、夜は流れ始める。
広間の中央では、若い貴族が輪を作っていた。
舞曲の拍子に合わせて、床の上を軽く回る。
クラリッサは誘いを待つ立場ではない。
婚約者は王太子であり、彼女は無用に目立たぬ方がよかった。
彼女は人の流れを見守り、必要な挨拶を交わす。
言葉は短く、笑みは控えめに。
それで十分だった。
やがて、ルーファスが姿を見せた。
軍装ではない。深い青の礼服に、白の飾り紐が光る。
髪は整い、顔の表情は少し硬い。
彼は多くの視線を受け止め、まっすぐ歩いた。
王族は、歩くときに空気が変わる。
「クラリッサ」
彼は近づくと、小さく声をかけた。
「殿下」
「少し、ここで」
彼は視線で柱の陰を示した。
二人は人の流れを避け、壁際へ移る。
音楽の音が、わずかに遠くなった。
「今日は、よく似合っている」
ルーファスは視線を外したまま言った。
「ありがとうございます」
「舞は……踊るか?」
「必要であれば」
「必要で、か」
彼は肩で短く息をした。
「君は、いつも“必要”を選ぶ」
「務めを優先しているだけです」
「それが、たまに難しく感じる」
彼はそこで言葉を止め、微笑を作った。
「すまない。今は愚痴を言う場ではないな」
「いいえ。お話しくださってかまいません」
「あとで」
彼はそう言って、列へ戻った。
クラリッサは柱に手を添え、呼吸を整えた。
会話は短かったが、心は少し揺れた。
彼の「難しい」という言葉が、胸の奥に軽い重さを残した。
それは痛みというほどではない。
ただ、落ち着かない余韻が残った。
「ごきげんよう、エインズワース嬢」
澄んだ声がした。
振り向くと、ロシュフォール家の令嬢、マリアンヌが立っている。
年はクラリッサと同じ頃。
柔らかな髪を肩に流し、淡い色のドレスがよく似合っていた。
目元は愛らしく、笑みは人を警戒させない。
「はじめまして。マリアンヌ・ロシュフォールと申します」
「クラリッサ・エインズワースです。お目にかかれて光栄です」
「まあ、そのお声。落ち着いていて、聞いていると安心します」
マリアンヌは軽く手を合わせた。
「殿下はお元気ですか」
「はい。お変わりなく」
「良かった。先日、慈善会で少しお話ししたのです。
とても真面目で、やさしい方ですね」
「……ええ」
言葉が浅い水に落ちて、すぐ沈んだ。
クラリッサはかすかな違和感を覚えたが、表に出さなかった。
マリアンヌの笑みは柔らかい。
「あなたは殿下とよく話されますか」
「必要なことは」
「まあ。公爵家の務めがあるのですね」
「はい」
「ええと……言いにくいのですけれど」
マリアンヌは声をさらに落とした。
「殿下、たまに寂しそうに見えます。
私の思い過ごしかもしれませんけれど」
「……そう見えることは、あります」
「やっぱり」
マリアンヌは胸に手を当て、安心したように息をついた。
「よかった。私、間違っていないのですね」
彼女は微笑み、軽く頭を下げた。
「変なことを言ってしまってごめんなさい。
今夜はどうか、殿下が楽しいといいですね」
その言葉は、祈りの形をしていた。
マリアンヌが去ると、すぐに別の声が近づく。
「公爵令嬢は、いつも静かね」
二人組の若い伯爵令嬢が、扇を口元に寄せてささやいた。
「冷たいのかしら」
「勤勉なのよ。きっと」
「勤勉は大切。でも、王太子殿下の隣に立つには……」
言葉は刃より鈍いが、時に長く刺さる。
そこへ、王女シャーロットが現れた。
明るい歩幅で近づき、クラリッサの手を取る。
「ねえ、踊った?」
「いえ」
「では――曲の間だけ、私とお話ししましょう。
あの輪に入る前に、少し息を整えておきたいの」
シャーロットは人目を気にせず、柱の陰へ引いた。
「兄はどう?」
「少し緊張なさっているようです」
「ええ、顔が硬いものね。
あなたが笑ってくだされば、少しは楽になると思うの」
「……笑うのは、得意ではございません」
「そういうところが、いいのよ」
王女はくすりと笑った。
「あなたの笑みは、少ないからこそ価値があるの。
だから、ここぞというときに使いなさい」
「“ここぞ”とは、いつでしょうか」
「今夜の“ここぞ”は二つ。
一つは、兄が誰かに話しかけているとき。
もう一つは、あなたが誰かに何か言われたとき」
クラリッサは目を伏せ、静かに微笑んだ。
「ご助言をありがとうございます。」
シャーロットは目を細め、声を少し落とした。
「さっき、ロシュフォールの令嬢と話していたでしょう?」
「ご挨拶を少し」
「感じの良い子ね。けれど――あの柔らかさは、人をほどいてしまう」
クラリッサは小さく首を傾げた。
「ほどく……、とは?」
「結び目を、よ。
本来、固くしておきたいものまで、ゆるめてしまうことがあるの」
王女の声は穏やかだった。
忠告でありながら、どこか優しい響きを持っていた。
「……肝に銘じておきます」
「それで十分よ」
シャーロットは柔らかく微笑み、手を放した。
「さあ、行きましょう」
音楽が新しい旋律へと変わる。
人々が円を描き、足音が床に響く。
クラリッサは列の端に立ち、タイミングを計った。
ルーファスは遠くで誰かと言葉を交わしている。
相手はマリアンヌだった。
彼はこわばりを少し緩め、短く笑った。
笑うと少年の顔になる。
それは昔と同じだった。
ただ、今は少し遠い。
「エインズワース嬢、踊っていただけますか」
年長の侯爵が声をかけた。
「光栄です」
クラリッサは礼をし、輪に入る。
二人の足は拍子に従い、過不足なく進む。
相手は礼儀正しく、無駄に話しかけない。
それはクラリッサに合っていた。
曲が終わると、彼は短く褒めた。
「所作が美しい」
「ありがとうございます」
お辞儀を交わして離れる。
彼女は再び広間を見渡した。
人の輪の向こうで、ルーファスが微かに眉をひそめていた。
すぐに表情は戻る。
だが、その一瞬は、彼をよく見る者にはわかった。
クラリッサは近づかなかった。
今は、彼の場だ。
彼女の役目は、乱さないことだった。
夜が更けると、噂は形を整える。
ささやきは線になり、線は網になる。
その網は、誰かの肩に軽く引っかかる。
痛みは弱いが、取れにくい。
「公爵令嬢は冷たい」
「王太子殿下には、もっと明るい人が必要では」
「ロシュフォールの令嬢は、よく気がつく」
クラリッサは正面から受け止めなかった。
ただ、背で感じた。
夜会の終わりに近い頃、エドガーが娘の側へ来た。
「帰るぞ」
「はい」
歩き出す前に、彼は短く言葉を付け足した。
「よくやった」
クラリッサは小さくうなずいた。
父の評価は多くを語らない。
けれど、それで足りた。
不安な気持ちが、少し落ち着いた。
廊下に出ると、空気がひんやりしていた。
夜の王宮は、音が少ない。
足音と衣擦れが、淡く続く。
外庭には月が出ていた。
灯りは控えめで、影は深い。
「クラリッサ」
背後から呼ぶ声があった。
ルーファスだった。
彼は早足で近づき、言葉を探しているように口を開いた。
「今夜は、ありがとう」
「殿下」
「……うまく話せない。君はいつも正しくて、それが少し怖くなる」
クラリッサは言葉を飲み込んだ。
「私は、殿下の力になりたいだけです」
「それが、距離になる」
ルーファスは短く笑った。
「変な話だね」
「変ではありません」
「どうして」
「距離があるから、守れることもあるからです」
彼は目を伏せた。
「そうかもしれない」
言葉はそこまでだった。
彼は礼をし、去っていった。
背中はまっすぐで、歩幅は早い。
追いかければ追いつけた。
けれど、彼女は動かなかった。
動かないことを選ぶ日がある。
それが、この夜だった。
馬車に戻ると、リアが毛布を用意していた。
「お疲れさまです」
「ありがとう」
車輪が動き出す。
石畳の震えが足元に伝わる。
静かな揺れは、緊張した体をほぐしてくれた。
クラリッサは少しだけ目を閉じた。
夜会の光と音が、ゆっくり遠ざかる。
「お嬢さま」
リアが小声で言う。
「殿下は、お優しそうでした」
「ええ」
「お嬢さまも、お優しいです」
「……そう見えますか」
「はい」
リアは迷いなくうなずいた。
「言葉が少ないだけです」
クラリッサは小さく笑った。
「それなら、少し増やしてみましょうか」
「きっと、殿下はお喜びになります」
「明日、考えてみます」
リアは満足そうに微笑んだ。
「お茶の香りを強くしましょう。落ち着きますから」
「お願い」
ささやかな会話が、体温を戻す。
今夜の網は、まだ肩に引っかかったまま。
けれど、取れないものではない。
彼女はそう思うことにした。
屋敷に戻ると、玄関の灯がついていた。
エドガーは先に降り、娘を振り返る。
「冷えたか」
「少し」
「茶を用意させる」
父はそれだけ言って、歩を進めた。
廊下には夜の匂いが残り、遠くで時計が時を告げる。
クラリッサは自室に入り、首飾りを外した。
鏡の中で、表情が少し固い。
息を吐くと、わずかに緩んだ。
机に向かい、短い覚え書きを作る。
夜会で交わした名、笑み、言葉。
必要なものだけを並べる。
彼女の作業はいつも通りだ。
ただ、最後に一行を付け足した。
――言葉を一つ、増やす。
蝋燭の火が低くなった。
窓の外は静かで、庭の木が風にさざめく。
眠りにつく前、彼女は目を閉じて、小さく祈った。
祈りは短く、誰にも聞こえない。
それで十分だった。
この夜の終わりは穏やかだった。
けれど、穏やかさの下で、少しずつ何かがずれていく。
それは大きな音を立てない。
音がしないから、気づきにくい。
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しかし、王国には彼女を取り巻く新たな陰謀の影が忍び寄っていた。
暗躍する謎の勢力、消える手紙、そして不審な襲撃──。
そんな中、王国軍の若きエリート将校ガブリエルと出会い、アナスタシアは自らの運命に立ち向かう決意を固める。
「私はもう、誰かに振り回されるつもりはありません。この王国の未来も、私自身の未来も、私の手で切り拓きます」
婚約破棄を経て、さらに強く、賢くなった公爵令嬢の痛快ざまぁストーリー!
自らの誇りを貫き、王国を揺るがす陰謀を暴く彼女の華麗なる活躍をお楽しみください。
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