婚約破棄を申し入れたのは、父です ― 王子様、あなたの企みはお見通しです!

みかぼう。

文字の大きさ
6 / 29

Ep.5 マリアンヌの微笑

しおりを挟む
春が二度巡り、クラリッサは十七歳になった。
王都の空は高く、風はやわらかい。
季節は穏やかでも、宮廷の空気はどこか変わり始めていた。

最近、王宮ではある名がよく語られていた。
――マリアンヌ・ロシュフォール。

侯爵家の令嬢。教会の慈善事業に熱心で、詩の朗読会でも評判を集めている。
声が美しく、笑うと誰もがつられて笑うという。
そして、殿下が彼女とよく言葉を交わす姿が見られる、と。

クラリッサは、その噂をリアから聞いた。
朝の支度の途中、侍女がためらいがちに口を開いたのだ。

「お嬢さま、殿下は最近……」
「ロシュフォール家のご令嬢と親しくされているのね」
「ご存じでしたか」
「噂話は、放っておくのが一番です」

それ以上、リアは何も言わなかった。
クラリッサの声は落ち着いていたが、
鏡の中の表情は、ほんの少し硬くなっていた。


◇◇◇


数日後、王妃主催の慈善市が開かれた。
広場には白い天幕が並び、王族と貴族の娘たちがそれぞれの持ち場に立つ。
クラリッサは会計と記録を任されていた。

人々の寄付を受け、名前を書き留め、王妃付きの侍従に渡す。
その仕事は静かで、几帳面さが求められる。
彼女は淡々と手を動かし、途中で茶をひと口だけ飲んだ。

「クラリッサ嬢、こちらは終わりました」
隣の席の侯爵夫人が帳簿を渡してくる。

「ありがとうございます。確認いたします」
筆が止まることはなかった。

視線だけが、遠くを一度だけかすめた。
広場の中央で、マリアンヌが笑っていた。

淡い薔薇色のドレス。
手に持つ籠には花が入っており、通りかかる客に一輪ずつ渡している。

仕草が柔らかく、声が明るい。
分け隔てなく花を配る彼女の周りには、自然に人々が集まり、雰囲気が一段と明るくなる。
ルーファスがその隣に立ち、笑みを返していた。

マリアンヌの笑顔には、計算の影がなかった。だが、視線の動きは常に広場全体を見ていた。
誰が近づき、誰が去るか。どの言葉が響くか。
まるで舞台の上で、場を読むように。

クラリッサは帳簿に視線を戻した。
線を一本引き、数字をそろえる。
筆先がかすかに震えた。

「お嬢さま?」
リアが小声で尋ねる。

「ええ。少し風が冷たいだけ」
「肩掛けをお持ちしますか」
「いいの。すぐ終わるから」

言葉は穏やかだったが、声は少し乾いていた。


◇◇◇


夕刻、慈善市は無事に終わった。
人々が散り、天幕が片づけられる。
クラリッサは最後の帳簿を閉じ、王妃の侍従に渡した。

「ご苦労さまでした、エインズワース嬢」
「光栄です」

彼女は深く礼をし、広場をあとにした。
馬車までの道を歩く途中、後ろから声がした。

「クラリッサ嬢」

振り向くと、マリアンヌが立っていた。
日差しの残りを受け、金色に近い栗髪が光っている。

「今日は本当にお疲れさまでした。
 あなたの帳簿の書き方、とても整っていて美しかったわ」
「ありがとうございます」
「お仕事のようでいて、祈りのようでもあるのね」

クラリッサは微笑んだ。
「祈りと仕事は、似ています」

「素敵な言葉」
マリアンヌは一瞬、目を細めた。

「祈りと仕事。生まれに関係なく、みんなが真摯に取り組んでいる。
 だからこそ、それが形にならないとき、人は苦しむのね。
 ……殿下も、そうおっしゃっていたわ」

「殿下が?」
「ええ。あの方は“人の心を守るのが、自分の務めだ”と。
 でも、守るだけでは人は動かない――そうも言っていた」

マリアンヌの声は、まるで彼の言葉を己の中に溶かし込むようだった。
その響きの奥に、理と情が並び立つ。

クラリッサは、さざ波を立てる心を押し殺した。
「優しい方ですよ、殿下は」

「ええ。けれど、優しさは時に孤独よ」
マリアンヌは微笑んだ。

その笑みは明るく、まるで春そのもののようだった。
けれど、その春には、芽吹きだけでなく、競い合う強さもあった。

リアが迎えに来たので、クラリッサは短く礼をし、馬車に乗り込んだ。
扉が閉まると、車輪の音が遠ざかる。
彼女は窓の外を見た。

広場の端に、マリアンヌとルーファスが立っていた。
二人は話していたが、距離は保たれていた。
それでも、言葉の間に柔らかな空気が流れているように見えた。

その空気の中に、クラリッサが知らない“鼓動の速さ”があった。

クラリッサは視線をそらし、膝の上で手を組んだ。
掌の中に残るのは、冷えた風と、整いすぎた文字の感触だった。


◇◇◇


夜、エインズワース邸。
食後の静けさの中、父が書斎から出てきた。

「慈善市は無事だったか」
「はい。大きな混乱もなく」
「そうか」

エドガーはソファに腰を下ろし、紅茶を受け取った。
湯気の向こうにある横顔は変わらない。
冷静で、沈黙を恐れない人。

クラリッサは少し間をおいてから言った。
「ロシュフォール家のご令嬢が、殿下と親しくされているようです」

「そうか」
それだけで、父は何も続けなかった。

問いも、驚きもない。
静寂が部屋を満たす。

「……気になります」
クラリッサが問うと、エドガーは茶を一口飲んで言った。

「気にするのは、見失う前兆だ」
「見失う?」
「務めの中心をだ。
 お前が殿下の感情にとらわれれば、正しい判断が鈍る」
「……はい」

彼の言葉は厳しくはなかった。
ただ、重かった。

その重さの向こうで、クラリッサは初めて“感情を秤にかける女”が自分以外にもいることを、
うすうす感じていた。

クラリッサはその重さを正面から受け止め、頭を下げた。
「心得ます」

「それでいい」
父は立ち上がり、書斎へ戻っていった。

扉が静かに閉じる。
残された湯気だけが、少しの温度を残した。

リアが静かに入ってきた。

「お嬢さま」
「はい」
「お顔の色が少し……」
「大丈夫。紅茶をもう一杯だけ」

リアは頷き、茶を注いだ。
湯の音が柔らかく響く。

クラリッサはカップを手に取り、窓の外を見た。
夜の王都は静かで、灯が点々と続いている。
遠くに王城の影があった。

あの塔のどこかに、彼がいる。
そう思うだけで、胸の奥が静かに痛んだ。

「お嬢さま」
リアの声がやわらかく響く。

「殿下は、きっとお分かりになります」
「何を?」
「お嬢さまが、いつもお支えしてきたことを」
「……そうだといいわね」

クラリッサは微笑もうとしたが、頬が動かなかった。
静かに目を閉じ、紅茶の香りを吸い込む。
それは少し甘く、どこか遠い春の匂いがした。


◇◇◇


翌朝、王宮に呼ばれた。
王妃から、慈善事業の帳簿整理の追加報告を求められたのだ。

クラリッサは整った服で出仕し、淡々と報告を済ませた。
王妃は満足げにうなずき、言葉を添える。

「あなたのような人がいると安心です」
「身に余るお言葉です」
「ルーファスにも、少しは見習ってほしいくらいね」

王妃の声は冗談めいていた。
クラリッサは丁寧に微笑み、礼を取った。
けれど、その言葉の響きが胸の奥で小さく波紋を広げた。

――“見習う”のは、どちらだろう。
思いがけず浮かんだその考えを、彼女はすぐに沈めた。

帰り際、王女シャーロットが廊下で呼び止めた。

「クラリッサ」
「殿下」
「昨日の市、見たわ。マリアンヌ嬢、すごい人気ね」
「はい。人を引きつける力をお持ちです」
「あなた、あの笑顔をどう思う?」
「……きれいだと思います」
「そうね。きれいで、そして強い」

シャーロットの言葉に、クラリッサはわずかに息をのんだ。
“強い”という形容は、これまで自分に向けられたことしかなかったからだ。

王女の声が少しだけ低くなる。
「兄はきっと、あの強さに気づいていない。だから惹かれるのかもしれないわ」

クラリッサは何も言わなかった。
シャーロットは息をつき、表情を和らげる。

「でも、あなたの強さは違う。気づかれにくいけど、折れない。
 それは、時々孤独に見えるの」
「孤独は、悪いことではありません」
「ええ。でも、痛いものでもあるでしょう?」

クラリッサは静かに微笑んだ。
「痛みは、動ける証拠です」

シャーロットは小さく笑った。
「あなたらしい答えね。……好きよ、そういうところ」

王女は肩を軽く叩き、去っていった。

その後ろ姿を見送りながら、クラリッサは自分の指先を見た。
そこに、何もないのに重さを感じた。
首飾りの石が、衣の下で冷たく触れた。


◇◇◇


その夜、日記に一行だけ記した。
――痛みを恐れないこと。

筆を置いたあと、彼女は長いあいだ窓の外を見ていた。
星が穏やかに瞬いている。
誰の言葉も届かない、静かな光。
胸の奥で、なにかがゆっくり形を変えていく。

――春の微笑みの裏に、動き出した意志がある。
その気配だけが、まだ名を持たないまま、夜の底で息をしていた。

悲しみは涙にならず、沈黙として積もった。
そして、その沈黙が、彼女を少しだけ強くしていった。
しおりを挟む
感想 3

あなたにおすすめの小説

「偽物の聖女は要らない」と追放された私、隣国で本物の奇跡を起こしたら元の国が滅びかけていた件

歩人
ファンタジー
聖女リーゼロッテは、王太子カールに「お前の加護は偽物だ」と断じられ、 婚約を破棄された。代わりに聖女の座に就いたのは、愛らしく微笑む男爵令嬢エルゼ。 追放されたリーゼロッテが隣国に辿り着いたとき、その地は疫病に苦しんでいた。 彼女が祈ると、枯れた泉が蘇り、病は癒え、荒野に花が咲いた。 ——本物の聖女の力が、ようやく枷を外されて目覚めたのだ。 一方、リーゼロッテを失った王国では結界が綻び始め、魔物が溢れ出す。 カールは今さら「戻ってくれ」と使者を送るが、リーゼロッテの隣には、 彼女の力を最初から信じていた隣国の若き王がいた。 「あの国に戻る理由が、もう一つもないのです」

選ばれなくてよかったと、今は思います

たくわん
恋愛
五年間の婚約を、一夜で破棄された。 理由は「家格の不一致」。 傷ついた翌朝、私は泣くのをやめて仕事着を着た。 王立文書院の渉外部職員として、今日も書類と向き合う。それだけでいいと思っていた。 出勤すると、一枚の張り紙があった。 新長官着任。エドワード・ヴァルツ・シュタイン侯爵。 昨夜の晩餐会で、遠くに座っていた「氷の侯爵」がそのまま上司になった。 彼は口数が少なく、笑わず、感情を見せない。 でも仕事の評価だけは正確だった。 「君の報告書は読みやすい」「渉外部はあの職員が要になっている」——誰かに選ばれたくて生きてきたわけではないのに、仕事を通じて初めて、自分の輪郭がはっきりしてくる気がした。

婚約お断り令嬢ですわ ~奇行で縁談を潰していたら本命騎士に再会しました~

鍛高譚
恋愛
婚約話? 結構ですわ。 私には――子供の頃に命を救ってくれた“黒髪の騎士”がいるのですから。 公爵令嬢アンネローゼ・フォン・グレイシアは、才色兼備の完璧令嬢……だった。 だが、ある日から突如“奇行”に走り始める。正座で舞踏会に参加? スープにストロー? 謎のポエム朗読? そう、それはすべて――望まぬ婚約をぶち壊すため! 王族、貴族、策略家、演技派……次々と舞い込む政略結婚の話。 アンネローゼはあの手この手で縁談をぶった斬り、恋も名誉も自由も手に入れる! すべての婚約破棄は、たった一人の人に出会うため―― 「破談のアンネローゼ様」が貫く、“本当の婚約”とは? 痛快!恋愛ざまぁ×ラブコメディ×ハッピーエンド! 破談上等のお嬢様が、本物の愛を掴むまでの逆転劇が今、始まりますわ!

遺産は一円も渡さない 〜強欲な夫と義実家に捨てられた私、真の相続人と手を組み全てを奪い返す~ (全10話)

スカッと文庫
恋愛
「お前の価値なんて、その遺産くらいしかないんだよ」 唯一の肉親だった祖父を亡くした夜、夫の健一と義母から放たれたのは、あまりにも無慈悲な言葉だった。 四十九日も待たず、祖父が遺した1億2000万円の遺産をアテに贅沢三昧を目論む夫。だが、彼には隠し通している「裏切り」があった――。 絶望の淵に立たされた由美の前に現れたのは、亡き祖父が差し向けた若き凄腕弁護士・蓮。 「おじい様は、すべてお見通しでしたよ」 明かされる衝撃の遺言内容。そして、強欲な夫たちを地獄へ叩き落とすための「相続条件」とは? 虐げられてきた妻による、一発逆転の遺産争奪&復讐劇がいま幕を開ける!

【完結】この運命を受け入れましょうか

なか
恋愛
「君のようは妃は必要ない。ここで廃妃を宣言する」  自らの夫であるルーク陛下の言葉。  それに対して、ヴィオラ・カトレアは余裕に満ちた微笑みで答える。   「承知しました。受け入れましょう」  ヴィオラにはもう、ルークへの愛など残ってすらいない。  彼女が王妃として支えてきた献身の中で、平民生まれのリアという女性に入れ込んだルーク。  みっともなく、情けない彼に対して恋情など抱く事すら不快だ。  だが聖女の素養を持つリアを、ルークは寵愛する。  そして貴族達も、莫大な益を生み出す聖女を妃に仕立てるため……ヴィオラへと無実の罪を被せた。  あっけなく信じるルークに呆れつつも、ヴィオラに不安はなかった。  これからの顛末も、打開策も全て知っているからだ。  前世の記憶を持ち、ここが物語の世界だと知るヴィオラは……悲運な運命を受け入れて彼らに意趣返す。  ふりかかる不幸を全て覆して、幸せな人生を歩むため。     ◇◇◇◇◇  設定は甘め。  不安のない、さっくり読める物語を目指してます。  良ければ読んでくだされば、嬉しいです。

婚約破棄はあなたの意思でしたわね? ~王太子を廃嫡に追い込み、義妹を平民に落とした公爵令嬢は新時代の王妃になります~

鷹 綾
恋愛
王立学園の卒業舞踏会―― 公爵令嬢ヴェルミリアは、王太子アルヴァリオから突然の婚約破棄を言い渡された。 「俺は、君の義妹セシルを愛している」 涙を浮かべる“可哀想な妹”。 それを守ると宣言する王太子。 社交界はヴェルミリアを冷酷な姉と断じた。 けれど彼女は、ただ微笑んだ。 なぜなら―― 王家が回っていたのは、彼女の裏調整と資金管理のおかげだったから。 婚約破棄の翌日、王家の事業は次々と停止。 王太子の無責任な契約、義妹の盗用、不正資金の流れが暴かれていく。 守ると誓ったはずの義妹を、王太子は切り捨てる。 だがもう遅い。 王太子は廃嫡。 義妹は爵位剥奪のうえ平民落ち。 二人はすべてを失う。 そして―― 「責任を共有できるなら、共に歩みましょう」 冷静沈着な第二王子との正式婚約。 王国再建の中心に立つのは、かつて捨てられたはずの公爵令嬢だった。 婚約破棄はあなたの意思でしたわね? 選んだ未来の責任を―― きちんとお取りいただきます。

さよなら王子、古い聖女は去るものなのです

唯崎りいち
恋愛
元聖女の私は、自分が無能だと思い、有能な新しい聖女に任せるために王都を去ることを選んだ。しかし幼なじみの王子は、私を追いかけてくる。王子の真剣な想いと、自分の無自覚な力が国や人々に影響を与えていることに気づき、私は王都へ戻る決意をする。こうして二人は互いの気持ちを確かめ合い、結ばれる――自己評価の低い少女が本当の価値と愛に気づく、ハッピーラブファンタジー。

婚約破棄は了承済みですので、慰謝料だけ置いていってください

鍛高譚
恋愛
公爵令嬢アナスタシア・オルステッドは、第三王子アレンの婚約者だった。 しかし、アレンは没落貴族の令嬢カリーナと密かに関係を持っていたことが発覚し、彼女を愛していると宣言。アナスタシアとの婚約破棄を告げるが── 「わかりました。でも、それには及びません。すでに婚約は破棄されております」 なんとアナスタシアは、事前に国王へ婚約破棄を申し出ており、すでに了承されていたのだ。 さらに、慰謝料もしっかりと請求済み。 「どうぞご自由に、カリーナ様とご婚約なさってください。でも、慰謝料のお支払いはお忘れなく」 驚愕するアレンを後にし、悠々と去るアナスタシア。 ところが数カ月後、生活に困窮したアレンが、再び彼女のもとへ婚約のやり直しを申し出る。 「呆れたお方ですね。そんな都合のいい話、お受けするわけがないでしょう?」 かつての婚約者の末路に興味もなく、アナスタシアは公爵家の跡取りとして堂々と日々を過ごす。 しかし、王国には彼女を取り巻く新たな陰謀の影が忍び寄っていた。 暗躍する謎の勢力、消える手紙、そして不審な襲撃──。 そんな中、王国軍の若きエリート将校ガブリエルと出会い、アナスタシアは自らの運命に立ち向かう決意を固める。 「私はもう、誰かに振り回されるつもりはありません。この王国の未来も、私自身の未来も、私の手で切り拓きます」 婚約破棄を経て、さらに強く、賢くなった公爵令嬢の痛快ざまぁストーリー! 自らの誇りを貫き、王国を揺るがす陰謀を暴く彼女の華麗なる活躍をお楽しみください。

処理中です...