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Ep.6 孤立の兆し
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王都の朝は澄んでいた。
けれど、澄んだ空気の下で、言葉は形を変える。
ささやきは線になり、線は網になって、静かに人を包む。
最近、クラリッサはよく“見られている”と感じた。
視線は正面からではなく、斜めから。
礼を交わすと一拍遅れて笑みが続く。
その笑みは礼儀だが、温度が足りない。
王宮の回廊で、侍女二人が囁いた。
「殿下はお優しいのに」
「公爵令嬢は冷たく見えるわ」
足音が近づくと、囁きは途切れた。
頭を下げる角度は正確。
その正確さが、かえって距離の印になっていた。
噂の端々には、マリアンヌの名が小さく混じる。
明るさ、行動力、そして“殿下の傍らにいる”という事実。
◇◇◇
王妃主催の午餐会。
長卓に白布が張られ、銀器が控えめに光る。
席順は定められており、クラリッサは王妃から見て斜向かいの位置だった。
ルーファスは来賓の貴族と話し、そのさらに向こうにマリアンヌがいた。
彼女は明るすぎない声で、要点を外さずに返す。
笑うと、場がやわらぐ。
そのやわらぎは、居心地をよくする。
ルーファスは答えに迷うたび、無意識にマリアンヌの方へと視線を送った。
返ってきた頷き一つで、話の向きが定まる。
王妃がクラリッサに声を向けた。
「先日の帳簿、完璧だったわ。助かりました」
「身に余るお言葉です」
「ただ……」
王妃は言いよどみ、穏やかな微笑のまま続ける。
「完璧は、時に人を遠ざけるものよ」
「心得ます」
声の調子は変えず、視線も落とさない。
心の奥に小さな冷えだけが残った。
食後の談話で、若い伯爵令嬢が近づく。
「エインズワース嬢、殿下の新しい狩猟計画をご存じ?」
「詳細は存じません」
「まあ。てっきり真っ先にお耳に入るかと」
隣の令嬢が扇を傾ける。
「殿下は最近、ロシュフォール家の狩猟地をご覧になるそうよ」
「安全であるよう祈ります」
クラリッサは穏やかに答え、会釈して離れた。
言葉を足せば足すほど、何かが削れる音がした。
◇◇◇
控えの間に戻ると、リアが茶を用意していた。
「お嬢さま、温かいものを」
「ありがとう」
湯気が立ち上る。
香りは落ち着きを運ぶ。
カップを置くと、リアが迷いながら口を開いた。
「……噂に、心を傷めておられませんか」
「噂は水のようなもの。いずれ流れます」
「けれど、濡れるのは今です」
クラリッサは微笑み、指先で受け皿の縁をなぞった。
「濡れたら拭けばいいわ。拭き方を覚えるのが大事」
リアは小さくうなずき、声を落とす。
「殿下は、きっとお気づきです」
「何に?」
「お嬢さまが、殿下を傷つける言葉を選ばないことに」
クラリッサは返事をしなかった。
答えは心の奥で揺れ、形にならなかった。
扉が叩かれ、侍従が顔を覗かせる。
「殿下がこちらに。廊下でお待ちです」
「承りました」
廊下には、背を窓に預けたルーファスがいた。
光が横から差し、顔の陰影が深い。
「少し、いいかな」
「はい」
二人は窓辺に並んだ。
外では衛兵の交代が行われ、短い号令が響いた。
ルーファスの表情には、迷いが見えた。
「君に話があるときほど、言葉がまとまらない」
「ゆっくりで構いません」
「最近、僕の周りが騒がしい」
「はい」
「僕は……」
彼は言葉を探し、短く息を吐く。
「僕は君に、笑ってほしい」
クラリッサは驚いて彼を見た。
彼は目を伏せ、続けた。
「僕が間違える前に。
君の笑いは、僕を止める」
「止める?」
「うん。君が微笑むと、僕は足を止めて考える。
その一呼吸が、今の僕には必要なんだ」
静かな沈黙が落ちた。
クラリッサはゆっくり頷いた。
「努力します」
「努力、か」
彼は苦笑した。
「君はいつも努力と言う。
でも君の笑いは、努力の産物ではないと思う」
「……では、何でしょう」
彼はそこで言葉を切り、視線を遠くへ投げた。
「今夜、ロシュフォール卿と“狩猟計画”の件で話す。――
マリアンヌが示した流れを具体化したいから、君も同席してほしい」
「承知しました」
「ありがとう」
彼は軽く頭を下げ、去っていった。
窓の外に雲が流れ、光が陰った。
去っていく背中に迷いはなくなっていた。
◇◇◇
その夜の小会議。
円卓に簡素な地図が広げられた。
会議には、ロシュフォール卿とマリアンヌ、王太子、エドガー、そしてクラリッサが同席した。
ロシュフォール卿とマリアンヌの後ろには、軍属と文官が数名、控えていた。
狩猟計画の名目は“領地見分”。
だが、軍の視察と人事の下見が主目的であった。
ロシュフォール卿が静かに口火を切る。
「国境に近い森道は、護衛の訓練にもよい。
殿下に相応しい“勇姿”をお見せできよう」
そこにマリアンヌも補った。
「国境付近の部隊は、下級貴族や平民出身の兵士で構成されています。
国境に近い森道で行えば、彼らに活躍の場が広がりますわ。」
流れを断ち切るように、エドガーは資料に目を落としたまま、短く言った。
「道が悪い」
場の空気が微かに揺れる。
「雨が続けば馬は取られる。護衛の整列が崩れやすい。
そのとき、殿下を守る配置が薄くなる」
ロシュフォール卿は眉を動かした。
「現地の兵は雨天の行軍にも慣れております」
「慣れは油断を呼ぶ」
エドガーの声は平板だった。
感情の影がない分、反論の余地が少ない。
ルーファスが口を開く。
「公爵、代案は?」
「王都近郊の旧演習場。地面が締まっている。
見学の名目で、市井の目に触れるのも悪くない」
マリアンヌが静かに微笑む。
「殿下が民と近いのは、とても良いことですわ」
ロシュフォール卿は、笑みを崩さぬまま視線を細めた。
「旧演習場では“勇姿”が映えぬのでは?」
「必要なのは安全であり、映えではない」
エドガーが応じ、次の資料を差し出す。
クラリッサは父の資料から必要な紙を抜き、順に配った。
“危険箇所一覧”、“降雨時の路面情報”、“護衛隊形案”。
手は穏やかに動き、声は出さない。
しかし、その沈黙は議論の骨組みになった。
ルーファスは結論を告げる前に、一度だけマリアンヌを見た。
返ってきたのは、短い頷き。
最終的に、王太子の一声で代案が採用された。
「旧演習場で行う」
マリアンヌは微笑みを保ち、深く頭を下げた。
会議は滞りなく終わった。
形の上では、全員が納得した。
退出時、ルーファスは部隊編成について付記するよう事務官に命じた。
退出の折、マリアンヌがクラリッサに言った。
「さすがエインズワース家。
あなたの資料の配り方、迷いがなくて美しかったわ」
「ありがとうございます」
「殿下も安心なさったでしょうね」
そう言い残し、マリアンヌはルーファスと共に退出した。
言葉の端に、柔らかな針があった。
痛むほどではないが、刺さる場所は覚えている。
遠ざかる二人の背を、灯が薄く照らす。歩調は同じで、迷いがない。
◇◇◇
日が変わると、噂はふたたび形を変えた。
曲がり角で、若い伯爵が立ち話をしている。
「殿下は気の毒だな。自由に動けない」
「公爵家の女狐に繋がれている」
クラリッサは歩みを止めなかった。
ただ、足音のリズムを乱さないように意識した。
乱せば、相手は気づく。
窓硝子に映る自分の横顔は、静かで、少し青い。
階段を降りると、シャーロット王女が待っていた。
「顔色が悪いわね」
「大丈夫です」
「......大丈夫じゃない顔」
シャーロットはため息をひとつ落とし、歩調を合わせた。
「今夜、私の部屋に来て。短いお茶会をするの。
噂話は外へ置いて、暖かい飲み物と静かな音楽だけ」
「ありがたく」
「いい返事」
シャーロットは満足げに頷いた。
◇◇◇
その夜。
王女の部屋は、柔らかな灯りに包まれていた。
音楽は遠く、窓辺のカーテンが夜風にわずかに揺れている。
小皿には甘くない焼き菓子が並び、香ばしい香りが静かに漂っていた。
シャーロットはカップを差し出した。
「蜂蜜をほんの一滴。心が和らぐの」
「ありがとうございます」
二人でしばし黙って飲む。
言葉は少なくても、沈黙が苦にはならなかった。
しばらくして、王女がぽつりと問う。
「――クラリッサ。あなたは、泣ける?」
クラリッサは少し考えてから、静かに答えた。
「……泣けます」
「いつ、泣くの?」
「誰も見ていないときに、です」
シャーロットは微笑んだ。
「それなら、泣けるのね。
“泣けない人”というのは、泣く場所を知らないだけよ」
クラリッサはカップを置き、両手を膝に重ねた。
「泣いたあと、私は……何をすればよろしいのでしょう」
「明日すべきことをするのよ。
今日できなかったことを、少しだけ続けて」
クラリッサは小さく息を吸った。
「……それは、励ましですか」
「いいえ。現実の話よ」
王女は肩をすくめ、穏やかに笑った。
「現実というのは、ときどき人に優しいの。
――忘れないで」
「はい」
クラリッサは静かにうなずいた。
胸の奥で固くなっていた何かが、少しだけほぐれる。
温かさが、誰のものでもない形で心に残った。
その静けさだけが、夜の終わりまで寄り添っていた。
◇◇◇
屋敷に戻ると、エドガーが書斎で地図を見ていた。
扉の前で足を止めると、彼は視線だけを上げた。
「起きていたのか」
「はい」
「噂は聞いた」
「気にしていません」
「気にしろ」
クラリッサは目を見開いた。
父は地図から目を離し、静かに言う。
「気にしない者は、足元をすくわれる。
気にしすぎる者は、歩けなくなる。
お前は“気にしながら歩け”」
「……難しいです」
「難しいことしか残っていない」
エドガーは地図を巻き、筒に収めた。
「明日、お前は王妃の書庫で文書整理だな」
「はい」
「王家の年譜のうち、継承規定に関する部分を別に写せ。
“徳による継承”の前例が、奥の棚に一件だけある」
クラリッサは息を呑んだ。
「失礼ながら……なぜ今、それを」
「無駄な準備はない」
父はそれ以上言わず、灯を落とした。
暗がりで、言葉の輪郭だけが残った。
無駄な準備はない。
それは、静かな予告でもあった。
◇◇◇
寝所で、クラリッサは短い日記を開いた。
――気にしながら歩く。
一行だけ記し、筆を置く。
窓の外に星がいくつか見えた。
光は弱いが、消えない。
弱いから、長く続くのかもしれない。
孤立は、彼女の周りに形を取りつつあった。
けれど、完全ではない。
手を伸ばせば触れられる温度が、まだ残っている。
王女の茶の甘さ。
父の短い言葉。
リアの湯気。
それらを数えることは、明日を数えることだった。
夜は静かに更けた。
明日もまた、噂は流れるだろう。
濡れたら拭けばいい。
拭き方は、少しずつ上手になる。
彼女はそう思いながら、目を閉じた。
けれど、澄んだ空気の下で、言葉は形を変える。
ささやきは線になり、線は網になって、静かに人を包む。
最近、クラリッサはよく“見られている”と感じた。
視線は正面からではなく、斜めから。
礼を交わすと一拍遅れて笑みが続く。
その笑みは礼儀だが、温度が足りない。
王宮の回廊で、侍女二人が囁いた。
「殿下はお優しいのに」
「公爵令嬢は冷たく見えるわ」
足音が近づくと、囁きは途切れた。
頭を下げる角度は正確。
その正確さが、かえって距離の印になっていた。
噂の端々には、マリアンヌの名が小さく混じる。
明るさ、行動力、そして“殿下の傍らにいる”という事実。
◇◇◇
王妃主催の午餐会。
長卓に白布が張られ、銀器が控えめに光る。
席順は定められており、クラリッサは王妃から見て斜向かいの位置だった。
ルーファスは来賓の貴族と話し、そのさらに向こうにマリアンヌがいた。
彼女は明るすぎない声で、要点を外さずに返す。
笑うと、場がやわらぐ。
そのやわらぎは、居心地をよくする。
ルーファスは答えに迷うたび、無意識にマリアンヌの方へと視線を送った。
返ってきた頷き一つで、話の向きが定まる。
王妃がクラリッサに声を向けた。
「先日の帳簿、完璧だったわ。助かりました」
「身に余るお言葉です」
「ただ……」
王妃は言いよどみ、穏やかな微笑のまま続ける。
「完璧は、時に人を遠ざけるものよ」
「心得ます」
声の調子は変えず、視線も落とさない。
心の奥に小さな冷えだけが残った。
食後の談話で、若い伯爵令嬢が近づく。
「エインズワース嬢、殿下の新しい狩猟計画をご存じ?」
「詳細は存じません」
「まあ。てっきり真っ先にお耳に入るかと」
隣の令嬢が扇を傾ける。
「殿下は最近、ロシュフォール家の狩猟地をご覧になるそうよ」
「安全であるよう祈ります」
クラリッサは穏やかに答え、会釈して離れた。
言葉を足せば足すほど、何かが削れる音がした。
◇◇◇
控えの間に戻ると、リアが茶を用意していた。
「お嬢さま、温かいものを」
「ありがとう」
湯気が立ち上る。
香りは落ち着きを運ぶ。
カップを置くと、リアが迷いながら口を開いた。
「……噂に、心を傷めておられませんか」
「噂は水のようなもの。いずれ流れます」
「けれど、濡れるのは今です」
クラリッサは微笑み、指先で受け皿の縁をなぞった。
「濡れたら拭けばいいわ。拭き方を覚えるのが大事」
リアは小さくうなずき、声を落とす。
「殿下は、きっとお気づきです」
「何に?」
「お嬢さまが、殿下を傷つける言葉を選ばないことに」
クラリッサは返事をしなかった。
答えは心の奥で揺れ、形にならなかった。
扉が叩かれ、侍従が顔を覗かせる。
「殿下がこちらに。廊下でお待ちです」
「承りました」
廊下には、背を窓に預けたルーファスがいた。
光が横から差し、顔の陰影が深い。
「少し、いいかな」
「はい」
二人は窓辺に並んだ。
外では衛兵の交代が行われ、短い号令が響いた。
ルーファスの表情には、迷いが見えた。
「君に話があるときほど、言葉がまとまらない」
「ゆっくりで構いません」
「最近、僕の周りが騒がしい」
「はい」
「僕は……」
彼は言葉を探し、短く息を吐く。
「僕は君に、笑ってほしい」
クラリッサは驚いて彼を見た。
彼は目を伏せ、続けた。
「僕が間違える前に。
君の笑いは、僕を止める」
「止める?」
「うん。君が微笑むと、僕は足を止めて考える。
その一呼吸が、今の僕には必要なんだ」
静かな沈黙が落ちた。
クラリッサはゆっくり頷いた。
「努力します」
「努力、か」
彼は苦笑した。
「君はいつも努力と言う。
でも君の笑いは、努力の産物ではないと思う」
「……では、何でしょう」
彼はそこで言葉を切り、視線を遠くへ投げた。
「今夜、ロシュフォール卿と“狩猟計画”の件で話す。――
マリアンヌが示した流れを具体化したいから、君も同席してほしい」
「承知しました」
「ありがとう」
彼は軽く頭を下げ、去っていった。
窓の外に雲が流れ、光が陰った。
去っていく背中に迷いはなくなっていた。
◇◇◇
その夜の小会議。
円卓に簡素な地図が広げられた。
会議には、ロシュフォール卿とマリアンヌ、王太子、エドガー、そしてクラリッサが同席した。
ロシュフォール卿とマリアンヌの後ろには、軍属と文官が数名、控えていた。
狩猟計画の名目は“領地見分”。
だが、軍の視察と人事の下見が主目的であった。
ロシュフォール卿が静かに口火を切る。
「国境に近い森道は、護衛の訓練にもよい。
殿下に相応しい“勇姿”をお見せできよう」
そこにマリアンヌも補った。
「国境付近の部隊は、下級貴族や平民出身の兵士で構成されています。
国境に近い森道で行えば、彼らに活躍の場が広がりますわ。」
流れを断ち切るように、エドガーは資料に目を落としたまま、短く言った。
「道が悪い」
場の空気が微かに揺れる。
「雨が続けば馬は取られる。護衛の整列が崩れやすい。
そのとき、殿下を守る配置が薄くなる」
ロシュフォール卿は眉を動かした。
「現地の兵は雨天の行軍にも慣れております」
「慣れは油断を呼ぶ」
エドガーの声は平板だった。
感情の影がない分、反論の余地が少ない。
ルーファスが口を開く。
「公爵、代案は?」
「王都近郊の旧演習場。地面が締まっている。
見学の名目で、市井の目に触れるのも悪くない」
マリアンヌが静かに微笑む。
「殿下が民と近いのは、とても良いことですわ」
ロシュフォール卿は、笑みを崩さぬまま視線を細めた。
「旧演習場では“勇姿”が映えぬのでは?」
「必要なのは安全であり、映えではない」
エドガーが応じ、次の資料を差し出す。
クラリッサは父の資料から必要な紙を抜き、順に配った。
“危険箇所一覧”、“降雨時の路面情報”、“護衛隊形案”。
手は穏やかに動き、声は出さない。
しかし、その沈黙は議論の骨組みになった。
ルーファスは結論を告げる前に、一度だけマリアンヌを見た。
返ってきたのは、短い頷き。
最終的に、王太子の一声で代案が採用された。
「旧演習場で行う」
マリアンヌは微笑みを保ち、深く頭を下げた。
会議は滞りなく終わった。
形の上では、全員が納得した。
退出時、ルーファスは部隊編成について付記するよう事務官に命じた。
退出の折、マリアンヌがクラリッサに言った。
「さすがエインズワース家。
あなたの資料の配り方、迷いがなくて美しかったわ」
「ありがとうございます」
「殿下も安心なさったでしょうね」
そう言い残し、マリアンヌはルーファスと共に退出した。
言葉の端に、柔らかな針があった。
痛むほどではないが、刺さる場所は覚えている。
遠ざかる二人の背を、灯が薄く照らす。歩調は同じで、迷いがない。
◇◇◇
日が変わると、噂はふたたび形を変えた。
曲がり角で、若い伯爵が立ち話をしている。
「殿下は気の毒だな。自由に動けない」
「公爵家の女狐に繋がれている」
クラリッサは歩みを止めなかった。
ただ、足音のリズムを乱さないように意識した。
乱せば、相手は気づく。
窓硝子に映る自分の横顔は、静かで、少し青い。
階段を降りると、シャーロット王女が待っていた。
「顔色が悪いわね」
「大丈夫です」
「......大丈夫じゃない顔」
シャーロットはため息をひとつ落とし、歩調を合わせた。
「今夜、私の部屋に来て。短いお茶会をするの。
噂話は外へ置いて、暖かい飲み物と静かな音楽だけ」
「ありがたく」
「いい返事」
シャーロットは満足げに頷いた。
◇◇◇
その夜。
王女の部屋は、柔らかな灯りに包まれていた。
音楽は遠く、窓辺のカーテンが夜風にわずかに揺れている。
小皿には甘くない焼き菓子が並び、香ばしい香りが静かに漂っていた。
シャーロットはカップを差し出した。
「蜂蜜をほんの一滴。心が和らぐの」
「ありがとうございます」
二人でしばし黙って飲む。
言葉は少なくても、沈黙が苦にはならなかった。
しばらくして、王女がぽつりと問う。
「――クラリッサ。あなたは、泣ける?」
クラリッサは少し考えてから、静かに答えた。
「……泣けます」
「いつ、泣くの?」
「誰も見ていないときに、です」
シャーロットは微笑んだ。
「それなら、泣けるのね。
“泣けない人”というのは、泣く場所を知らないだけよ」
クラリッサはカップを置き、両手を膝に重ねた。
「泣いたあと、私は……何をすればよろしいのでしょう」
「明日すべきことをするのよ。
今日できなかったことを、少しだけ続けて」
クラリッサは小さく息を吸った。
「……それは、励ましですか」
「いいえ。現実の話よ」
王女は肩をすくめ、穏やかに笑った。
「現実というのは、ときどき人に優しいの。
――忘れないで」
「はい」
クラリッサは静かにうなずいた。
胸の奥で固くなっていた何かが、少しだけほぐれる。
温かさが、誰のものでもない形で心に残った。
その静けさだけが、夜の終わりまで寄り添っていた。
◇◇◇
屋敷に戻ると、エドガーが書斎で地図を見ていた。
扉の前で足を止めると、彼は視線だけを上げた。
「起きていたのか」
「はい」
「噂は聞いた」
「気にしていません」
「気にしろ」
クラリッサは目を見開いた。
父は地図から目を離し、静かに言う。
「気にしない者は、足元をすくわれる。
気にしすぎる者は、歩けなくなる。
お前は“気にしながら歩け”」
「……難しいです」
「難しいことしか残っていない」
エドガーは地図を巻き、筒に収めた。
「明日、お前は王妃の書庫で文書整理だな」
「はい」
「王家の年譜のうち、継承規定に関する部分を別に写せ。
“徳による継承”の前例が、奥の棚に一件だけある」
クラリッサは息を呑んだ。
「失礼ながら……なぜ今、それを」
「無駄な準備はない」
父はそれ以上言わず、灯を落とした。
暗がりで、言葉の輪郭だけが残った。
無駄な準備はない。
それは、静かな予告でもあった。
◇◇◇
寝所で、クラリッサは短い日記を開いた。
――気にしながら歩く。
一行だけ記し、筆を置く。
窓の外に星がいくつか見えた。
光は弱いが、消えない。
弱いから、長く続くのかもしれない。
孤立は、彼女の周りに形を取りつつあった。
けれど、完全ではない。
手を伸ばせば触れられる温度が、まだ残っている。
王女の茶の甘さ。
父の短い言葉。
リアの湯気。
それらを数えることは、明日を数えることだった。
夜は静かに更けた。
明日もまた、噂は流れるだろう。
濡れたら拭けばいい。
拭き方は、少しずつ上手になる。
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「責任を共有できるなら、共に歩みましょう」
冷静沈着な第二王子との正式婚約。
王国再建の中心に立つのは、かつて捨てられたはずの公爵令嬢だった。
婚約破棄はあなたの意思でしたわね?
選んだ未来の責任を――
きちんとお取りいただきます。
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