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8、悪魔が、わたしをじっと見ていた。
しおりを挟む晴れても雨が降っても、火曜日の朝は、拓斗から勧められた古い映画のDVDをひとりで鑑賞した。わたしたちは不思議なくらい趣味があったので、それはわくわくするような宿題だった。
そんな穏やかな火曜日の午前十一時、あのサンデー湯河が水色のスーツ姿で汐留のマンションにやってきた。
…カトリーヌ・ドヌーブが、数奇な運命に翻弄される令嬢を演じる映画を観ているところだった。
「明日で契約を満了します」
わたしが出したダージリンティーを飲みながら、八年前と同じ…長い銀髪をひとつに結んだハンサムな老人は言った。
「分かりました」
とわたしは答えた。
平気なわけがなかった。
声がふるえ、心臓が潰れてしまいそうだった。
しかし、約束は約束だった…お互いが同意しないと契約は続かない。
「来月末まで、ここにいても構いません。引っ越し費用は、こちらが負担します」
「ありがとうございます」
やはり、わたしの目からたくさん涙がこぼれた。
「八年と六ヶ月か…思ったより、ずいぶん長く続いたものだ。きみは何歳になりましたか?」
「もうすぐ、三十一歳になります」
「金は貯まりましたか?」
「おかげさまで」
「病気のお母様にも、充分に仕送りが出来ましたね」
「二年前、母は亡くなりました」
「そうでしたか…知らなかった」
「最後に、きみにお願いしたいことがあります」
と老人が静かに続けた。
そして、イルビゾンテのブリーフケースから社名の印刷された小切手を一枚取り出して、テーブルの上に置いた。
…金額は五百万円、わたし宛になっていた。
「これは謝礼です」
悪魔が、わたしをじっと見ていた。
「何をすればいいのでしょうか?」
わたしは、ぞっとしながら聞いた。
「明日、きみから、きみの意思で契約を解約すると伝えて欲しいのです。解約の理由は説明する必要ありません。拓斗も大人になったから、詮索したりしないでしょう」
「どうして、わたしから?」
「拓斗が、心から納得するためです」
「心から納得するため?」
右手の中指にはめた大きなダイヤモンドの指輪をいじりながら、老人はこんなことを語った。
…オズワルド中西というタロットカードの占い師が、ニューオリンズにいます。時折、事務所の方針を相談しているのですが…数年間、拓斗を休ませ、ニューヨークに留学させるべきだと助言をもらいました。
そうすることで、日本国民の記憶に永久に残る俳優になれるというのです。
運気が変わる前にと…拓斗にすぐ勧めたのですが、気乗りしないと断られました。断られるなんて、初めてでした。それだけ、きみと離れるのが嫌なのです。
…きみの拓斗への思いだって、もちろん承知しています。
しかしあくまでも、わたしたちの関係はビジネスだ。純粋なビジネス以外のことは一切考慮するべきではない。
理解してもらえますね?
応援ありがとうございます!
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