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良妻ー4
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――宮廷オルキデーア城の1階にある厨房に、ヒマワリのような笑顔が咲き、さも上機嫌そうな鼻歌が流れていた。
その主はベラドンナで、先ほどから夫アドルフォのためにフライパンでビステッカを焼いている。
「ふふふ、ドルフのためのお料理って楽しー。よし、そろそろお肉をひっくり返して……っと。あ、また真っ黒になっちゃった」
その様子を少し離れたところから一組の師弟――料理長フィコとベル――が、苦笑しながら眺めていた。
声を潜めて、囁き合う。
「昼間のふわふわトルタ作りのときも思ったが、こりゃひでぇ……ちょっと前の陛下並の料理オンチだぜ」
「きっと料理初心者というのはこんなものなのでしょう、フィコ師匠。しかしやはり、私もお手伝いした方がよろしいでしょうか」
「良い、放っておけよ。ひとりで侯爵閣下のために頑張るって張り切ってんだ。それに食うのが侯爵閣下なら、どんなに真っ黒になったって腹壊しゃしねぇよ」
師弟がそんな会話をしているとき、ベラドンナがふと振り返った。
「さっきも言ったけど、誰も手伝ってくれなくていいからね? ワタシが作らなきゃ、なーんの意味も無いんだから」
とベラドンナが、「ふふふっ」と笑ってひとりでビステッカ作りを続行する。
(今日の昼間は、初めてドルフに紅茶を淹れたわ)
実はちょっと火傷したのだが、美味しいと言ってもらえた。
(今日はドルフのために、初めて刺繍をしたわ)
指を沢山刺してしまったが、嬉しいと言ってもらえた。
(そして今、ワタシは初めてドルフのために、ドルフの好きなビステッカを焼いてるわ)
また「ふふふっ」と笑ってしまう。
今日はアドルフォから「ありがとう」の言葉をたくさんもらったし、このビステッカを出してあげたらきっとまた言ってもらえる。
良い妻になった気分で嬉しく、また15歳で結婚してから19年目にして、愛する夫のためにこういった妻らしいことをする幸せを覚えた。
「それにしても、ふわふわトルタといい、焼くのって難しいわねぇ。お肉がどれも真っ黒になっちゃう」
とベラドンナが困った様子でフィコを見ると、それは厳しい顔で首を横に振った。
「やり直しはさせませんぜ? 昼間のふわふわトルタはまだしも、人間のために殺されてった家畜が可哀想だ」
「たしかに捨てるのは忍びないわね。じゃあ……」
とベラドンナは、少しのあいだ黙考すると「あっ」と指を鳴らした。
「そうだ、焼き過ぎちゃったなら、こうすれば丁度良い中間の焼き具合になるじゃない! ワタシって賢いわー」
と何をするのかと思いきや、用意した皿の上に、焼き過ぎた真っ黒焦げの肉を一枚乗せ。
次に、焼いていない赤い生肉を乗せ。
その次に、また真っ黒焦げの肉を乗せ。
その後も、生肉、真っ黒、生肉、真っ黒と交互に肉を積み重ねていく。
師弟に衝撃が走っていく。
「正気か、オイ…! こりゃ、陛下の『塩と砂糖を同じ分量入れたら中和されてゼロになる』説よりひでぇぞ……!」
「た、たしかに料理初心者とかそういうこと以前の問題かもしれません……!」
愕然とする師弟の目線の先、ベラドンナがまた「ふふふっ」と笑った。
「でーきたっと! これで丁度良い焼き加減のビステッカになったわね! ドルフ、きっと喜んでくれるわ。冷めちゃう前に運んでもらわなきゃ!」
と廊下に出て、カーネ・ロッソのテンテンを呼ぶ。
それは「はいはーい」とテレトラスポルトで現れるなり、ベラドンナが配膳台車に乗せたビステッカの皿を見てぎょっとした。
「な、何この肉の塔……ていうか、なんで赤と黒がシマシマに……え? 何、え? なんて料理これ?」
「やーね、どう見てもビステッカじゃない。ビステッカの塔よ」
「ビステッカぁ?」
と声を裏返したテンテンの肩を、ベラドンナが「ほらっ」と軽く叩いた。
「冷めちゃう前に運んで、ドルフのところに。皆の料理も次から次へと出来上がってるから、ほら早く!」
と催促されたテンテンが、テレトラスポルトで配膳台車ごとビステッカを4階へと持って行く。
ベラドンナはそれまでしていたグレンビューレを外して壁に掛けると、「さて」と言いながらベルの方を見た。
「私たちも4階に行って、夕餉にしましょ?」
2人で階段を上り、4階の廊下を歩いているときに、ベルが背の高いベラドンナの顔を隣から見上げる。
ベラドンナはいつも髪を一本に結んでいるか、纏めているかしているので、その美しい顔立ちがよく見える。
正面から見ても絶世の美女は、斜め下から見ても絶世の美女だ。
下から見た鼻が見事に正三角形をしていて、鼻の穴くらい大きかったり、真ん丸だったりしても問題ないのに、大き過ぎず小さ過ぎずの理想的な雫型をしている。
髪と同じ黒茶色の瞳が爛々と輝きを放っていて、見つめている目がチカチカしてしまいそうなくらい眩しかった。
「ご機嫌ですねぇ、ベラ様」
「ええ、ベル。愛する人のためにアレコレ頑張るのって、楽しいわね。私今日、良妻になれたかも!」
「そうですね。とても素敵な奥様かと。ところでベラ様?」
「ん?」
「本日とてもお忙しそうでしたので、お伝えするのが遅くなってしまったのですが……あの、昼間のお茶のことですが、あれは紅茶ではなく――」
「あ、待って!」
とベラドンナが、食堂の近くまでやって来たところでベルの言葉を遮った。
口元に人差し指を当て、忍び足で食堂の扉に近付いていく。
ふと、小声になった。
「私がいない方が、ドルフの正直な反応が見れると思うのよ」
と、そっと扉を少しだけ開けて、中を覗き込む。
ベラドンナの隣に並んだベルの耳にも、中の会話が聞こえて来た。
「なぁ、おとん。これって……」
ジルベルトの声だ。
「リコンってことか?」
離婚?
ベルとベラドンナが一度顔を見合わせた。
どこの夫婦の話をしているのか、さっぱり分からなかった。
ベルもベラドンナの顔の下から、中を覗き込んでみる。
赤と黒の肉の塔を目前にしているアドルフォの周りに、一同が集まっていた。
お陰でアドルフォの顔は見えなかったが、黒い巨人の手が動いてナイフとフォークを握ったのは見えた。
(あ、ドルフがビステッカを食べてくれるわ!)
とベラドンナは胸を高鳴らせたが、次の刹那にはっと気付く。
(ドルフ……ワタシが刺繍を入れたマッリェッタを着てない)
複数の手が、巨人の手を制止した。
「待て。とりあえず止めておけ、ドルフ……き、危険な匂いがする」
「これはモストロのおれの目にも悪意に映るよ。有り得ないでしょ、これ」
その会話の意味をベルは何となく分かったが、ベラドンナの方は小首を傾げていた。
「……そうだな」
と、アドルフォの声が聞こえた。
黒い巨人の手が、コルテッロとフォルケッタを置く。
(ドルフ、食べてくれないの……?)
小さく胸が痛んだベラドンナの目線の先、会話が続く。
「もうコレ、確定じゃないですか?」
とアラブが苦笑しているのが見えた。
「昼間の茶、一口だけにしておいて良かったですねアドルフォ閣下。全部飲んでいたらどうなっていたことか……」
「――えっ……?」
とベラドンナの口から小さく漏れた。
(ドルフ、ワタシが淹れた紅茶、あのあと飲んでくれなかったってこと……?)
ジルベルトが心配そうな顔をして、「なぁ」とアドルフォの腕を掴んで揺する。
「おとんとおかん、リコンすんのか? なぁ、おとん、なぁ……――」
ベラドンナがそっと扉を閉めた。
「ベ、ベラ様――」
「ベル、ワタシ今日夕餉いらないわ。ワタシ今日、別邸に泊まるって言っておいて」
と笑顔になっていない笑顔を見せて、ベラドンナが階段の方へと駆けていく。
「あっ……お待ちください、ベラ様!」
と追い駆けようとしたベルの声は、食堂の中まで響いていた。
ベルが駆け出してから間もなく、後ろの方から「アモーレ!」とフラヴィオに呼び止められた。
食堂からフラヴィオに続いて、アドルフォや他の一同もぞくぞくと出て来る。
「さっき、『ベラ』と言ったか?」
「スィー、ドルフ様。あの、すぐにベラ様を追い駆けてください。行先は、ここの北にある別邸です。あの、なんだかっ……」
とベルが狼狽した様子で、階段の方を一瞥した。
「なんだか、ベラ様とドルフ様のあいだに、色々と誤解が生じているように存じますっ……!」
アドルフォは「分かった」と言うと、すぐに階段を駆け下りていった。
ベラドンナは身体能力が高く、足も速い方だ。
だが、気を付けないと躓いてしまうヴェスティートを着ているその足に、アドルフォの大股の足はそう時間が掛からずに追い付く。
でも2階と1階の踊り場まで降りてきたとき、ベラドンナと義父の会話が聞こえて来て思わず立ち止まった。
「おお、どうしたベラ! 何があった? あのバケモノに何かされたのか? 可哀想に! 何があったのか父上に話してごらん」
「違うわ、そんなんじゃない。気にしないで、父上。ワタシ今日は別邸に泊まりたい気分になったから、行こうとしてただけよ。この涙は、さっき夕餉でワサビを大量に食べちゃったからだし」
親子の会話が少しのあいだ途切れた。
「ベラ……改めておまえのために言うよ。あのバケモノとは離婚しなさい。おまえは自分の価値を下げてしまっている」
「それ以上言わないで」
「ベラ――」
「ワタシもう、行くから」
義父の「待ちなさい!」が辺りに響いた。
「今一度、考え直すんだ。あのバケモノとは、離婚するんだ」
再び会話が途切れた後、ベラドンナの返答が聞こえた。
「……考えておくわ」
「――」
耳を疑ったアドルフォの耳に、遠くなっていくベラドンナの駆け足の音が聞こえてくる。
足が固まって、その場に突っ立っていたら、階段を上ってきた義父と鉢合わせになった。
「どうも、侯爵閣下。どうやら、さっきの話が聞こえていたようで」
ほくそ笑んでいる。
顎髭を生やしているから分かり辛いが、改めて見つめてみると、ベラドンナとは輪郭と髪の色が似ているだろうか。
口はどことなく似ている気もするが、他は似ていない。
「貴殿も考えておくと良い、離婚を。貴殿には、貴殿に見合った女が別にいるだろう。貴殿はプリームラ貴族なんだし、プリームラ貴族を漁ればすぐに見つかる。先日牢獄から出て来たと思ったら、またすぐに窃盗罪で投獄されたような、愚かで醜いプリームラ貴族の女が貴殿にはお似合いだ。我々オルキデーア貴族は、貴殿たちより美しく、高尚なんでね」
それは同意するところがある。
アドルフォの目にも、プリームラ国王や貴族は酷く醜い生き物に映っていた。
それ故に真っ直ぐで善良な隣国オルキデーアの国王――フラヴィオ・マストランジェロの下に寝返ったのだ。
だから間違っても中身はあんな醜い生き物たちと一緒にされたくないが、外見だけ見たら吊り合うようにも思えた。
でも、離婚は同意できない。
「俺はベラとの離婚は考えません」
「貴殿にベラと並んで歩かれたら迷惑なんだ。分かるだろう?」
「たしかに俺は、自分で見てもバケモノです。誰が見ても、美しいベラとは吊り合わない。でも、別れる気はありません」
「それは子供たちのことを心配してかな?」
「それもありますが、俺はベラを愛しています」
「愛しているなら、だ。本当にベラを愛しているなら、別れてくれ」
アドルフォが「いいえ」と首を横に振ると、義父が突如激昂した。
「自分勝手な男だ! 流石はプリームラ貴族よ! 相手の幸せを考えられないのなら、愛しているとは言わない! 貴様などに、私の最愛の娘はやれん! さっさと離婚しろ!」
アドルフォが再び「ノ」と返した。
「俺はベラを愛しているから、別れない。俺はバケモノで、ベラとは吊り合わないが、バケモノに生まれて来たお陰で、この世で一番美しい女に相応しい」
とアドルフォが「何故なら」と、狼のような琥珀色の瞳で鋭く義父を見下ろす。
「俺が一番ベラを守ってやれるからだ! 『力の王』でもない、『力の王弟』でもない、『人間卒業生』のこの俺が――バケモノが、誰よりもベラを守ることが出来るからだ! だからこの俺が、誰よりもベラの夫に相応しい! たとえ義父上とはいえ、異論は認めん!」
「なっ、なんだとっ……!」
と震えながら後退っていった義父が、壁に背をぶつけてその場にへたり込む。
そのとき、外にいる衛兵たちの叫び声が聞こえ来た。
「敵襲っ! 敵襲だーっ!」
アドルフォははっと息を呑むと、「ベラ!」と声を上げた。
そして踊り場から飛び跳ね、一歩で1階の廊下まで辿り着き、ベラドンナが駆けていった北方面へと向かって疾走していった。
その主はベラドンナで、先ほどから夫アドルフォのためにフライパンでビステッカを焼いている。
「ふふふ、ドルフのためのお料理って楽しー。よし、そろそろお肉をひっくり返して……っと。あ、また真っ黒になっちゃった」
その様子を少し離れたところから一組の師弟――料理長フィコとベル――が、苦笑しながら眺めていた。
声を潜めて、囁き合う。
「昼間のふわふわトルタ作りのときも思ったが、こりゃひでぇ……ちょっと前の陛下並の料理オンチだぜ」
「きっと料理初心者というのはこんなものなのでしょう、フィコ師匠。しかしやはり、私もお手伝いした方がよろしいでしょうか」
「良い、放っておけよ。ひとりで侯爵閣下のために頑張るって張り切ってんだ。それに食うのが侯爵閣下なら、どんなに真っ黒になったって腹壊しゃしねぇよ」
師弟がそんな会話をしているとき、ベラドンナがふと振り返った。
「さっきも言ったけど、誰も手伝ってくれなくていいからね? ワタシが作らなきゃ、なーんの意味も無いんだから」
とベラドンナが、「ふふふっ」と笑ってひとりでビステッカ作りを続行する。
(今日の昼間は、初めてドルフに紅茶を淹れたわ)
実はちょっと火傷したのだが、美味しいと言ってもらえた。
(今日はドルフのために、初めて刺繍をしたわ)
指を沢山刺してしまったが、嬉しいと言ってもらえた。
(そして今、ワタシは初めてドルフのために、ドルフの好きなビステッカを焼いてるわ)
また「ふふふっ」と笑ってしまう。
今日はアドルフォから「ありがとう」の言葉をたくさんもらったし、このビステッカを出してあげたらきっとまた言ってもらえる。
良い妻になった気分で嬉しく、また15歳で結婚してから19年目にして、愛する夫のためにこういった妻らしいことをする幸せを覚えた。
「それにしても、ふわふわトルタといい、焼くのって難しいわねぇ。お肉がどれも真っ黒になっちゃう」
とベラドンナが困った様子でフィコを見ると、それは厳しい顔で首を横に振った。
「やり直しはさせませんぜ? 昼間のふわふわトルタはまだしも、人間のために殺されてった家畜が可哀想だ」
「たしかに捨てるのは忍びないわね。じゃあ……」
とベラドンナは、少しのあいだ黙考すると「あっ」と指を鳴らした。
「そうだ、焼き過ぎちゃったなら、こうすれば丁度良い中間の焼き具合になるじゃない! ワタシって賢いわー」
と何をするのかと思いきや、用意した皿の上に、焼き過ぎた真っ黒焦げの肉を一枚乗せ。
次に、焼いていない赤い生肉を乗せ。
その次に、また真っ黒焦げの肉を乗せ。
その後も、生肉、真っ黒、生肉、真っ黒と交互に肉を積み重ねていく。
師弟に衝撃が走っていく。
「正気か、オイ…! こりゃ、陛下の『塩と砂糖を同じ分量入れたら中和されてゼロになる』説よりひでぇぞ……!」
「た、たしかに料理初心者とかそういうこと以前の問題かもしれません……!」
愕然とする師弟の目線の先、ベラドンナがまた「ふふふっ」と笑った。
「でーきたっと! これで丁度良い焼き加減のビステッカになったわね! ドルフ、きっと喜んでくれるわ。冷めちゃう前に運んでもらわなきゃ!」
と廊下に出て、カーネ・ロッソのテンテンを呼ぶ。
それは「はいはーい」とテレトラスポルトで現れるなり、ベラドンナが配膳台車に乗せたビステッカの皿を見てぎょっとした。
「な、何この肉の塔……ていうか、なんで赤と黒がシマシマに……え? 何、え? なんて料理これ?」
「やーね、どう見てもビステッカじゃない。ビステッカの塔よ」
「ビステッカぁ?」
と声を裏返したテンテンの肩を、ベラドンナが「ほらっ」と軽く叩いた。
「冷めちゃう前に運んで、ドルフのところに。皆の料理も次から次へと出来上がってるから、ほら早く!」
と催促されたテンテンが、テレトラスポルトで配膳台車ごとビステッカを4階へと持って行く。
ベラドンナはそれまでしていたグレンビューレを外して壁に掛けると、「さて」と言いながらベルの方を見た。
「私たちも4階に行って、夕餉にしましょ?」
2人で階段を上り、4階の廊下を歩いているときに、ベルが背の高いベラドンナの顔を隣から見上げる。
ベラドンナはいつも髪を一本に結んでいるか、纏めているかしているので、その美しい顔立ちがよく見える。
正面から見ても絶世の美女は、斜め下から見ても絶世の美女だ。
下から見た鼻が見事に正三角形をしていて、鼻の穴くらい大きかったり、真ん丸だったりしても問題ないのに、大き過ぎず小さ過ぎずの理想的な雫型をしている。
髪と同じ黒茶色の瞳が爛々と輝きを放っていて、見つめている目がチカチカしてしまいそうなくらい眩しかった。
「ご機嫌ですねぇ、ベラ様」
「ええ、ベル。愛する人のためにアレコレ頑張るのって、楽しいわね。私今日、良妻になれたかも!」
「そうですね。とても素敵な奥様かと。ところでベラ様?」
「ん?」
「本日とてもお忙しそうでしたので、お伝えするのが遅くなってしまったのですが……あの、昼間のお茶のことですが、あれは紅茶ではなく――」
「あ、待って!」
とベラドンナが、食堂の近くまでやって来たところでベルの言葉を遮った。
口元に人差し指を当て、忍び足で食堂の扉に近付いていく。
ふと、小声になった。
「私がいない方が、ドルフの正直な反応が見れると思うのよ」
と、そっと扉を少しだけ開けて、中を覗き込む。
ベラドンナの隣に並んだベルの耳にも、中の会話が聞こえて来た。
「なぁ、おとん。これって……」
ジルベルトの声だ。
「リコンってことか?」
離婚?
ベルとベラドンナが一度顔を見合わせた。
どこの夫婦の話をしているのか、さっぱり分からなかった。
ベルもベラドンナの顔の下から、中を覗き込んでみる。
赤と黒の肉の塔を目前にしているアドルフォの周りに、一同が集まっていた。
お陰でアドルフォの顔は見えなかったが、黒い巨人の手が動いてナイフとフォークを握ったのは見えた。
(あ、ドルフがビステッカを食べてくれるわ!)
とベラドンナは胸を高鳴らせたが、次の刹那にはっと気付く。
(ドルフ……ワタシが刺繍を入れたマッリェッタを着てない)
複数の手が、巨人の手を制止した。
「待て。とりあえず止めておけ、ドルフ……き、危険な匂いがする」
「これはモストロのおれの目にも悪意に映るよ。有り得ないでしょ、これ」
その会話の意味をベルは何となく分かったが、ベラドンナの方は小首を傾げていた。
「……そうだな」
と、アドルフォの声が聞こえた。
黒い巨人の手が、コルテッロとフォルケッタを置く。
(ドルフ、食べてくれないの……?)
小さく胸が痛んだベラドンナの目線の先、会話が続く。
「もうコレ、確定じゃないですか?」
とアラブが苦笑しているのが見えた。
「昼間の茶、一口だけにしておいて良かったですねアドルフォ閣下。全部飲んでいたらどうなっていたことか……」
「――えっ……?」
とベラドンナの口から小さく漏れた。
(ドルフ、ワタシが淹れた紅茶、あのあと飲んでくれなかったってこと……?)
ジルベルトが心配そうな顔をして、「なぁ」とアドルフォの腕を掴んで揺する。
「おとんとおかん、リコンすんのか? なぁ、おとん、なぁ……――」
ベラドンナがそっと扉を閉めた。
「ベ、ベラ様――」
「ベル、ワタシ今日夕餉いらないわ。ワタシ今日、別邸に泊まるって言っておいて」
と笑顔になっていない笑顔を見せて、ベラドンナが階段の方へと駆けていく。
「あっ……お待ちください、ベラ様!」
と追い駆けようとしたベルの声は、食堂の中まで響いていた。
ベルが駆け出してから間もなく、後ろの方から「アモーレ!」とフラヴィオに呼び止められた。
食堂からフラヴィオに続いて、アドルフォや他の一同もぞくぞくと出て来る。
「さっき、『ベラ』と言ったか?」
「スィー、ドルフ様。あの、すぐにベラ様を追い駆けてください。行先は、ここの北にある別邸です。あの、なんだかっ……」
とベルが狼狽した様子で、階段の方を一瞥した。
「なんだか、ベラ様とドルフ様のあいだに、色々と誤解が生じているように存じますっ……!」
アドルフォは「分かった」と言うと、すぐに階段を駆け下りていった。
ベラドンナは身体能力が高く、足も速い方だ。
だが、気を付けないと躓いてしまうヴェスティートを着ているその足に、アドルフォの大股の足はそう時間が掛からずに追い付く。
でも2階と1階の踊り場まで降りてきたとき、ベラドンナと義父の会話が聞こえて来て思わず立ち止まった。
「おお、どうしたベラ! 何があった? あのバケモノに何かされたのか? 可哀想に! 何があったのか父上に話してごらん」
「違うわ、そんなんじゃない。気にしないで、父上。ワタシ今日は別邸に泊まりたい気分になったから、行こうとしてただけよ。この涙は、さっき夕餉でワサビを大量に食べちゃったからだし」
親子の会話が少しのあいだ途切れた。
「ベラ……改めておまえのために言うよ。あのバケモノとは離婚しなさい。おまえは自分の価値を下げてしまっている」
「それ以上言わないで」
「ベラ――」
「ワタシもう、行くから」
義父の「待ちなさい!」が辺りに響いた。
「今一度、考え直すんだ。あのバケモノとは、離婚するんだ」
再び会話が途切れた後、ベラドンナの返答が聞こえた。
「……考えておくわ」
「――」
耳を疑ったアドルフォの耳に、遠くなっていくベラドンナの駆け足の音が聞こえてくる。
足が固まって、その場に突っ立っていたら、階段を上ってきた義父と鉢合わせになった。
「どうも、侯爵閣下。どうやら、さっきの話が聞こえていたようで」
ほくそ笑んでいる。
顎髭を生やしているから分かり辛いが、改めて見つめてみると、ベラドンナとは輪郭と髪の色が似ているだろうか。
口はどことなく似ている気もするが、他は似ていない。
「貴殿も考えておくと良い、離婚を。貴殿には、貴殿に見合った女が別にいるだろう。貴殿はプリームラ貴族なんだし、プリームラ貴族を漁ればすぐに見つかる。先日牢獄から出て来たと思ったら、またすぐに窃盗罪で投獄されたような、愚かで醜いプリームラ貴族の女が貴殿にはお似合いだ。我々オルキデーア貴族は、貴殿たちより美しく、高尚なんでね」
それは同意するところがある。
アドルフォの目にも、プリームラ国王や貴族は酷く醜い生き物に映っていた。
それ故に真っ直ぐで善良な隣国オルキデーアの国王――フラヴィオ・マストランジェロの下に寝返ったのだ。
だから間違っても中身はあんな醜い生き物たちと一緒にされたくないが、外見だけ見たら吊り合うようにも思えた。
でも、離婚は同意できない。
「俺はベラとの離婚は考えません」
「貴殿にベラと並んで歩かれたら迷惑なんだ。分かるだろう?」
「たしかに俺は、自分で見てもバケモノです。誰が見ても、美しいベラとは吊り合わない。でも、別れる気はありません」
「それは子供たちのことを心配してかな?」
「それもありますが、俺はベラを愛しています」
「愛しているなら、だ。本当にベラを愛しているなら、別れてくれ」
アドルフォが「いいえ」と首を横に振ると、義父が突如激昂した。
「自分勝手な男だ! 流石はプリームラ貴族よ! 相手の幸せを考えられないのなら、愛しているとは言わない! 貴様などに、私の最愛の娘はやれん! さっさと離婚しろ!」
アドルフォが再び「ノ」と返した。
「俺はベラを愛しているから、別れない。俺はバケモノで、ベラとは吊り合わないが、バケモノに生まれて来たお陰で、この世で一番美しい女に相応しい」
とアドルフォが「何故なら」と、狼のような琥珀色の瞳で鋭く義父を見下ろす。
「俺が一番ベラを守ってやれるからだ! 『力の王』でもない、『力の王弟』でもない、『人間卒業生』のこの俺が――バケモノが、誰よりもベラを守ることが出来るからだ! だからこの俺が、誰よりもベラの夫に相応しい! たとえ義父上とはいえ、異論は認めん!」
「なっ、なんだとっ……!」
と震えながら後退っていった義父が、壁に背をぶつけてその場にへたり込む。
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