1 / 1
アレルギー
しおりを挟む
両親とも仕事が忙しかったので、幼い私は、ほとんどの時間を祖母と過ごしていた。
ある日、保育園で子犬の絵本を読んでもらった私は、帰り道、手をつないだ祖母に言った。
「おばあちゃん、真由ね、犬が飼いたい」
祖母は、困った顔を向けると言った。
「飼ってあげたいけどねえ。父さんが、動物アレルギーだからだめなのよ」
「動物アレルギーって?」
「犬や猫のそばにいるとね、息が苦しくなってしまうの。ひどい時は、死んでしまうことだってあるのよ」
耳慣れない言葉を、無邪気にたずねただけだった私は、体をふるわせて、心の芯に刻んだ。
(犬を飼うとお父さんが死ぬ)
それからは、どんなにかわいい犬を見かけても、友達がペットの自慢をしても、じっと我慢した。
二年生になった春の午後、近くの友達三人と、公園で遊んでいた。
「わあ、かわいい。首輪つけてないからノラ犬かなあ」
そばに寄って来た小犬をなでながら、祥子ちゃんが言った。
「どこかのおうちの犬かもしれないね。見かけたことないけど」
そしてすぐ、自分の飼い犬のバスケットを持ってきた。それから夕方まで、三人は近所をたずねて回った。飼い主は見つからず、途方にくれ、疲れきった私たちは、なんとかしなければと話し合った。
絵菜ちゃんは、お母さんに頼み込んで、少しの間だけ庭に置いてもらえるようにした。祥子ちゃんは、赤い画用紙に、自分の名前と電話番号を書くと、長いリボンでその犬の首に付けた。
「真由ちゃんは? 何もしないのはずるいよ」
祥子ちゃんにそう言われて、私はオロオロと家に帰った。音をしのばせて、冷蔵庫から牛乳パックを取り出した。
「あら真由ちゃん、牛乳飲むの? えらいわねえ」
和室にいると思ったおばあちゃんが、キッチンに現れ、飛び上がった。
「う、うん、す、すっごくのど乾いたから、いっぱい飲むの」
そう答えると、大嫌いな牛乳を飲んでみせた。おばあちゃんの隙をみて、牛乳パックを抱えると、絵菜ちゃんの家に走った。
「マグカップなんて持って来ても、犬は飲めないんだよ」
絵菜ちゃんが、あきれたように言った。
「う、うん。うっかりしてた。あはは」
恥ずかしさと、まだ口に残っている牛乳の臭いで、涙が出そうになった。お腹がすいているに違いないと二人に言われ、また家にもどった。クッキーをにぎりしめて、玄関を出ようとすると、おばあちゃんが現れ、わたしの手元を見て言った。
「あら、真由ちゃん、おやつ? もうすぐお夕食よ」
「あっ、あのね、祥子ちゃんと絵菜ちゃんと、お外で食べようと思って」
「まあお行儀悪いのねえ。お家でおあがりなさい。二人を呼んでらっしゃい」
「で、でもね、公園がいいって」
「しかたないわねえ、手を洗ってらっしゃい」
そう言うと、かわいいナプキンで三つの包みを作ってくれた。絵菜ちゃんの家の庭で、クッキーを勢いよく食べる犬。その背中のふわふわの毛をなでていると、わたしはうっとりしてしまった。
沈んでいく太陽にせかされるようにして家に帰ったが、手や胸に残った犬のやわらかさに体中がゆるんでいた。でも、家の前で、突然、よみがえったのだ。
(犬を飼うとお父さんが死ぬ)
午後ずっと犬とふれ合った私の『アレルギー』が、お父さんにうつったらどうしようかと、いてもたってもいられなくなった。お風呂で、髪や体を何度も何度も洗った。
翌日、その犬は祥子ちゃんちから逃げ出した。そして、飼い主のもとに戻った。引っ越して来たばかりで、ちょっと目を離した時に首輪がぬけて、飛び出してしまったのだという。飼い主が、あの名札を見て電話をかけてきたのだと、祥子ちゃんが教えてくれた。
今から考えれば、子犬と思ったのは、マルチーズで、トリミングもしてあり、野良犬とは程遠かった。
「わたしね、新しい家では犬を飼うの。ずっと夢だったから」
明日は嫁ぐという日の夜、珍しくビールを飲んでくつろいでいた時のことだ。ホームドラマのようなしっとりとした話題もなく、ふと言葉が出た。父が、ちょっと赤い顔で、不思議そうに私を見た。
「えっ、そんなことが夢だったのか? 飼えばよかったじゃないか」
「だってお父さん、アレルギーでしょ」
「なんだ、それ?」
きょとんとした父が、そうたずねた。
「おばあちゃんにずっと言われてたもの。動物アレルギーだって」
もっときょとんとした私も、グラスを置いて答える。
「俺、子供の時ずっと犬飼ってたぞ。捨て犬拾ってきては飼ってた。四匹飼ったぞ。」
父は、ビールをぐーっと飲むと、つぶやいた。
「そういえば、どの犬も、学校から帰るといなかったよなあ。おふくろは、逃げたと言ったが。あれもか!おふくろは、動物は嫌いだったからなあ」
のけぞりながら、私は和室に目をやった。仏壇の祖母の写真が、確かに、にんまりと笑った。
祖母真理子の口癖は、
「本当のことなんて言ってはいけません」
名前と正反対の人だった。
おしまい
ある日、保育園で子犬の絵本を読んでもらった私は、帰り道、手をつないだ祖母に言った。
「おばあちゃん、真由ね、犬が飼いたい」
祖母は、困った顔を向けると言った。
「飼ってあげたいけどねえ。父さんが、動物アレルギーだからだめなのよ」
「動物アレルギーって?」
「犬や猫のそばにいるとね、息が苦しくなってしまうの。ひどい時は、死んでしまうことだってあるのよ」
耳慣れない言葉を、無邪気にたずねただけだった私は、体をふるわせて、心の芯に刻んだ。
(犬を飼うとお父さんが死ぬ)
それからは、どんなにかわいい犬を見かけても、友達がペットの自慢をしても、じっと我慢した。
二年生になった春の午後、近くの友達三人と、公園で遊んでいた。
「わあ、かわいい。首輪つけてないからノラ犬かなあ」
そばに寄って来た小犬をなでながら、祥子ちゃんが言った。
「どこかのおうちの犬かもしれないね。見かけたことないけど」
そしてすぐ、自分の飼い犬のバスケットを持ってきた。それから夕方まで、三人は近所をたずねて回った。飼い主は見つからず、途方にくれ、疲れきった私たちは、なんとかしなければと話し合った。
絵菜ちゃんは、お母さんに頼み込んで、少しの間だけ庭に置いてもらえるようにした。祥子ちゃんは、赤い画用紙に、自分の名前と電話番号を書くと、長いリボンでその犬の首に付けた。
「真由ちゃんは? 何もしないのはずるいよ」
祥子ちゃんにそう言われて、私はオロオロと家に帰った。音をしのばせて、冷蔵庫から牛乳パックを取り出した。
「あら真由ちゃん、牛乳飲むの? えらいわねえ」
和室にいると思ったおばあちゃんが、キッチンに現れ、飛び上がった。
「う、うん、す、すっごくのど乾いたから、いっぱい飲むの」
そう答えると、大嫌いな牛乳を飲んでみせた。おばあちゃんの隙をみて、牛乳パックを抱えると、絵菜ちゃんの家に走った。
「マグカップなんて持って来ても、犬は飲めないんだよ」
絵菜ちゃんが、あきれたように言った。
「う、うん。うっかりしてた。あはは」
恥ずかしさと、まだ口に残っている牛乳の臭いで、涙が出そうになった。お腹がすいているに違いないと二人に言われ、また家にもどった。クッキーをにぎりしめて、玄関を出ようとすると、おばあちゃんが現れ、わたしの手元を見て言った。
「あら、真由ちゃん、おやつ? もうすぐお夕食よ」
「あっ、あのね、祥子ちゃんと絵菜ちゃんと、お外で食べようと思って」
「まあお行儀悪いのねえ。お家でおあがりなさい。二人を呼んでらっしゃい」
「で、でもね、公園がいいって」
「しかたないわねえ、手を洗ってらっしゃい」
そう言うと、かわいいナプキンで三つの包みを作ってくれた。絵菜ちゃんの家の庭で、クッキーを勢いよく食べる犬。その背中のふわふわの毛をなでていると、わたしはうっとりしてしまった。
沈んでいく太陽にせかされるようにして家に帰ったが、手や胸に残った犬のやわらかさに体中がゆるんでいた。でも、家の前で、突然、よみがえったのだ。
(犬を飼うとお父さんが死ぬ)
午後ずっと犬とふれ合った私の『アレルギー』が、お父さんにうつったらどうしようかと、いてもたってもいられなくなった。お風呂で、髪や体を何度も何度も洗った。
翌日、その犬は祥子ちゃんちから逃げ出した。そして、飼い主のもとに戻った。引っ越して来たばかりで、ちょっと目を離した時に首輪がぬけて、飛び出してしまったのだという。飼い主が、あの名札を見て電話をかけてきたのだと、祥子ちゃんが教えてくれた。
今から考えれば、子犬と思ったのは、マルチーズで、トリミングもしてあり、野良犬とは程遠かった。
「わたしね、新しい家では犬を飼うの。ずっと夢だったから」
明日は嫁ぐという日の夜、珍しくビールを飲んでくつろいでいた時のことだ。ホームドラマのようなしっとりとした話題もなく、ふと言葉が出た。父が、ちょっと赤い顔で、不思議そうに私を見た。
「えっ、そんなことが夢だったのか? 飼えばよかったじゃないか」
「だってお父さん、アレルギーでしょ」
「なんだ、それ?」
きょとんとした父が、そうたずねた。
「おばあちゃんにずっと言われてたもの。動物アレルギーだって」
もっときょとんとした私も、グラスを置いて答える。
「俺、子供の時ずっと犬飼ってたぞ。捨て犬拾ってきては飼ってた。四匹飼ったぞ。」
父は、ビールをぐーっと飲むと、つぶやいた。
「そういえば、どの犬も、学校から帰るといなかったよなあ。おふくろは、逃げたと言ったが。あれもか!おふくろは、動物は嫌いだったからなあ」
のけぞりながら、私は和室に目をやった。仏壇の祖母の写真が、確かに、にんまりと笑った。
祖母真理子の口癖は、
「本当のことなんて言ってはいけません」
名前と正反対の人だった。
おしまい
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
紅薔薇と森の待ち人
石河 翠
児童書・童話
くにざかいの深い森で、貧しい若者と美しい少女が出会いました。仲睦まじく暮らす二人でしたが、森の周辺にはいつしか不穏な気配がただよいはじめます。若者と彼が愛する森を守るために、少女が下した決断とは……。
こちらは小説家になろうにも投稿しております。
表紙は、夕立様に描いて頂きました。
魔女は小鳥を慈しむ
石河 翠
児童書・童話
母親に「あなたのことが大好きだよ」と言ってもらいたい少女は、森の魔女を訪ねます。
本当の気持ちを知るために、魔法をかけて欲しいと願ったからです。
当たり前の普通の幸せが欲しかったのなら、魔法なんて使うべきではなかったのに。
こちらの作品は、小説家になろうとエブリスタにも投稿しております。
青色のマグカップ
紅夢
児童書・童話
毎月の第一日曜日に開かれる蚤の市――“カーブーツセール”を練り歩くのが趣味の『私』は毎月必ずマグカップだけを見て歩く老人と知り合う。
彼はある思い出のマグカップを探していると話すが……
薄れていく“思い出”という宝物のお話。
悪女の死んだ国
神々廻
児童書・童話
ある日、民から恨まれていた悪女が死んだ。しかし、悪女がいなくなってからすぐに国は植民地になってしまった。実は悪女は民を1番に考えていた。
悪女は何を思い生きたのか。悪女は後世に何を残したのか.........
2話完結 1/14に2話の内容を増やしました
かつて聖女は悪女と呼ばれていた
朔雲みう (さくもみう)
児童書・童話
「別に計算していたわけではないのよ」
この聖女、悪女よりもタチが悪い!?
悪魔の力で聖女に成り代わった悪女は、思い知ることになる。聖女がいかに優秀であったのかを――!!
聖女が華麗にざまぁします♪
※ エブリスタさんの妄コン『変身』にて、大賞をいただきました……!!✨
※ 悪女視点と聖女視点があります。
※ 表紙絵は親友の朝美智晴さまに描いていただきました♪
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる