痛い瞳が好きな人

wannai

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 ミンミンミンミン、蝉がうるさい。
 時間的にそろそろ整備用リフト周りの清掃をしなければとは思うのだが、外の暑さを思い出すとげんなりする。クーラーの効いた事務所から出たくない。
 季節はもう七月。昼間は最高気温が25℃を超える日も多くなってきた。制服として支給されている長袖ツナギも、既に上半身は脱いで袖を腰で巻き、半袖Tシャツ姿で働いている。
 外でチラシ配りに精を出すアルバイトの佐波に、窓越しにそろそろ休憩しろと手招きした。

「あーーっちぃっす、店長ッ!」
「おう、倒れられても困るからちょいちょい休んどけ。ちゃんと水分とれよ」

 戻ってきた佐波という十代のアルバイトは、エアコンの下で雄叫びをあげながらへたり込んだ。佐波に事務所の留守番を頼み、重い腰を上げて外に出る。
 照りつける太陽が、痛い。コンクリートで反射したそれらが、下からも皮膚を焼く。見れば、敷地内の向こうに陽炎が出ていた。

「水、撒くか……」

 打ち水程度が、果たしてこの熱量に太刀打ち出来るかは謎だが。幸い給油中の車は一台もいないので、整備所の掃除を後回しにして、ホースを出してきて水を撒く事にした。
 今年も真っ黒になるな。半袖の先から伸びる腕を見て、季節の巡りを感じる。毎年真っ黒に焼け、冬の間に普通程度に白く戻り、そしてまたこんがり焼ける。
 そういえば、カナメは初めて会った時にこの日焼けに気付いたっけ。
 不意に思い出して、その名前を思い浮かべるだけで胸が締まる気がして、ああまだダメか、と落ち込んだ。
 カナメにSMバーで縛られ、縄酔いが恥ずかしくて、あの後カナメを振り切って一人で帰った。それから三ヶ月、ずっと音沙汰なしだ。
 いや、少しばかり語弊があるか。あの後すぐはチャットアプリにカナメからの着信が並び続けたし、それを既読無視し続けたら週に1、2回くらいの頻度で飯だの飲みだのの誘いが続き、それらを断り続けたら挙句の果てには『家に行っていいか』だ。さすがに怒って、『これ以上プライベートに踏み込むな』と返信したら、それ以降の二ヶ月はぱったり連絡がこなくなった。
 連絡さえ来なければ、忘れている時間が多ければ、そのうち。そう願いながら、出来るだけ日常を仕事に忙殺させている。それなのに、ふとした瞬間に思い出す彼は、やはり、まだ痛い。
 たまに錘に行き、それとなく紫にカナメの事を訊ねると、何度か紫の緊縛教室に通い、それなりに上達してきたらしい。そろそろもう一回縛られてあげたら? と邪気無く言われて苦笑しか出来なかった。
 ホースの先を指で潰すと、ぷしゃーっ、と勢いよく水が跳ね上がり、偶然にも虹が出た。綺麗だなー、と呆けていたら、客先から原付きバイクで帰ってきた鈴生に怒られた。

「服有っ、掃除もしねーで何遊んでんだ!」
「さーっせーん」
「サーセンじゃねえんだよお前店長だろうが!」

 どっちが店長か分からない、とアルバイトに笑われながら、渋々ホースを片付けて整備所の掃除を始める。箒をかけ、夜間は整備所に仕舞っておく、展示用のタイヤ見本を店前に抱えて移動する。
 一通り片付け終わり、一回休憩しに事務所に戻ろうとした時。
 国道から一台の黒いセダンが、給油場に入庫してきた。

「……っ」

 カナメの。覚えるつもりのなかったナンバープレートの数字の羅列で、彼の車だと分かってしまう。
 動悸が早くなる。心臓が痛い。迷惑だと言ってやらなければならない。仕事場にくるなんて非常識だと。それには、とにもかくにも、まずこの嬉しさに緩む頬の筋肉に緊張感を戻さなければ。
 なんて声をかけるべきかと、無表情を形成しながら車に近付いていくのに、運転席から降りてきたのは中年の男だった。

「あ」
「ん?」

 振り向いた顔に、見覚えがあった。

「カナメの、父さん」

 思わず呟くと、彼──白田氏は、虚をつかれたような、意外そうな顔で俺を見る。

「懐かしいな、そう呼ばれるのは。カナメの友達かい? うちに来た事がある子かな?」

 確かに、子供の年齢からしても、彼の職業からしても、そう呼ばれるのは珍しい事なのだろう。

「ごめんね、名前を思い出せないな」
「ああ、いえ。俺がカナメと知り合ったのは最近なので」

 申し訳なさそうに謝る白田氏に、初対面だと俺も頭を下げた。

「……もしかして、カナメにショップの名刺をくれたのは、君かな?」

 思考の読めない笑顔は、この人譲りなんだろうな。穏やかそうに笑っている筈なのに、何故だか品定めされている気分だ。

「あの、やはり、お節介だったでしょうか」

 あれだけ綺麗にしている車だ、良い仲のショップがあってもおかしくない。そんな人に板金屋を紹介するなんて、無知だと馬鹿にされたと思われただろうか。
 だが、どうやらそれは杞憂だったようだ。

「いや、折角紹介してくれて申し訳ないんだけど、スポンサーの関係で車は決まった店があってね。でも、その店にフルラッピングの話を振ったら、大喜びでね。店側も、客がいなければ設備も増やせないってんで、細かい事言わずに任せてくれる客が欲しかったんだー、なんて言ってね」

 慣れた手つきで給油を行い、白田氏はとても楽しそうに話してくれる。

「そうしたら、いきなり全面豹柄にしやがったんだ! ひどいだろう? この中年オヤジに、豹柄の型落ちセダンに乗れっていうのか! ってさすがに怒ったよ」

 言葉の上では怒ったと言いつつも、白田氏はハッハッハと豪快に笑っている。テレビの印象と大差ない、人好きのする彼だ。

「次に仕上がったのが、マットブラックとカーボン調フィルムでツートンにしたやつだ。確かに格好良かったんだが、いかんせん、若すぎるデザインでな」
「おおー、センス良い。やり過ぎない感じで、カッコイイですね」
「うん、そうだろう。君くらいの年の子が乗ると、しっくりくるんだろうな」

 スマホで撮ったという写真を見せて貰い、歓声を上げると、なんだか眩しいものを見るように彼は目を細めた。

「だからね、この車は、今カナメが乗ってるんだ。これに乗っていくと喜ぶ奴がいる、とか言っていてね。てっきり彼女だと思っていたんだが」

 違ったようだね、と告げられ、背中にどっと冷や汗が出る。

「いや、俺、最近会ってないんで、俺の事じゃないと思いますよ。……か、彼女じゃないっすか」

 笑って誤魔化そうとすると白田氏は、

「……むしろ、君みたいな子の方が良かったかもしれない」

 と呟いた。
 なんの事だろう。嫌な予感がした。

「ま、今度遊びにおいで。車好きなんだろう? ゆっくり話そう。カナメも進も、車には興味がなくてね」

 また大きく笑いながら、白田氏は給油を終えて店を出ていった。
 使用者が変わったのにナンバーが変わってないって事は、元から父親の車を乗り回してたんだな、坊っちゃんめ。甘ったれた金持ち二世に毒吐きながら事務所に戻ると、鈴生が仏頂面でテレビを眺めていた。

「ああ、こりゃ、今日は荒れるわ」

 天気予報だろうか、こんなに晴れてるのに。
 鈴生の発言が気になってテレビに視線を向けると、久方ぶりに見た、懐かしいカナメの──いや、小鳥遊メロの顔。
 そして、隣には小柄で可愛らしい、だが割に化粧の濃い女性。
 鈴生に聞くまでもなく、テレビの司会が、スクープされた熱愛について報道していた。

『お相手は、アダルト女優の内田 有茉さん、二十五歳。いやー、女性から圧倒的人気のモデル、小鳥遊くんの相手としては、ちょっと過激ですね~』
『彼、清純派っていうんじゃないけど、そういう、クリーンな王子様キャラで売ってきた訳でしょ。なのに相手がアダルト女優だとねぇ』
『事務所発表ではただのお友達って事らしいけど、自宅に連れ込んでるとこ写真撮られたんでしょう? 子供じゃないんだから、ねえ。ファンに対しても誠実じゃないし、結構減るんじゃないかなー』

 ごちゃごちゃ忙しなく、適当な事を適当な人間が話す。それを見ながら、鈴生がまた、

「帰ったら、破れた雑誌の片付けだな」

 と、独り言ちる。
 熱愛。アダルト女優。自宅に連れ込んで。
 文字とテレビからの声が、脳で明滅する。
 連絡が無いのは、新しい奴隷を見つけたからだと思っていた。その奴隷を気に入って、だから俺の事を忘れたんだろうと。それなら納得できた。覚悟していたから。俺がそう仕向けたから。
 でも、違った。
 熱愛。その文字の、意味。カナメが、誰かを、愛した。視界が歪む。あの女は、カナメに抱かれた。俺の知らないカナメを、その身体で知っている。好きな女を抱く時、カナメはどんな声で呼ぶんだろう。

「服有? おい、具合悪いのか?」

 ぼうっと立ったままテレビを眺めて動かなくなった俺に、鈴生が心配そうに声をかけてくる。

「いや、ちょっと、外、熱くて」
「ちゃんと水分とれよ。ほら、お茶やるから、とりあえず座って飲め」

 先程バイトにかけた言葉そのままかけられて、情けねーなと笑ってみせる。
 ははははは。
 笑った声が、ちゃんと明るく聞こえるように気をつけて。
 そこから夕方まで記憶が飛んだ。いや、仕事はちゃんとしていたようだ。手洗い洗車を何台かこなし、オイル交換も。誰も心配しない程度に、ちゃんと。

「じゃ、お疲れーっす」

 タイムカードを通し、夜番のアルバイトに引き継いで、事務所から扉一枚で続く更衣室で着替えはじめてやっと、意識が戻った気分だった。
 カナメに彼女、か。ようやく冷静に情報を受け取れた。彼女なんて、想定していなかった。俺にとってカナメは『ご主人様』という存在で、今まさにご主人様として奴隷を飼っている彼が、普通に恋愛をするなんて。思ってもみなかった。いや、もしかしたら、たまたま彼女がマゾだったのかもしれないが。奴隷として相性が良かったから、彼女に昇格したのかもしれない。
 ──雌だから。
 嫌味で下衆な考え方だ。自分で吐き気がして、頭を振って掻き消す。俺が女だとして、いや、そんな事考えても意味がない。ご主人様と奴隷の関係では、身体を縛れても心は縛れない。そう言ったのは、数ヶ月前の俺じゃないか。
 そんな事を考えて、この三ヶ月、全くプレイしていなかった事に今更気付いた。とにかくカナメの事を考えたくない一心で、カナメ以外とする事も考えつかなかった。
 いつも暑いからとTシャツにジャージ姿で通勤しているのだが、今日はなんとなく襟付きの半袖シャツにチノパンで来て良かった。適当に夕飯を食べてから錘にでも寄って、誰でもいいから捕まえよう。とにかく痛くしてくれて、何も考えず貶めてくれる奴がいい。
 カナメを上げたあの部屋に、戻りたくなかった。





「……ぁ、はあ、……っん」

 四つん這いの背中をバラ鞭で打たれ、悩まし気な声を出す。

「そんなに気持ち良いのか、変態め」
「はい、ありがとう、ございますぅ……」

 バチ、バチ、と適当に打ってくるのに、こいつ何も分かってねーなと心の中で舌打ちした。

「もっと……もっと、下さい」
「こうか! こうか!」

 強請ると、男はさらに調子に乗って叩き続ける。何でマゾに強請られてそのまま聞くんだよ、と肩を落とした。ちょっとは焦らせよ。いつ鞭がくるのか、怖がらせてくれよ。逆調教したくなるのを必死に我慢する。
 それでもしばらく叩かれてやって、

「良い子にはご褒美をやらなきゃなぁ……」

 などと言い出した頃、タイミングを見計らったように紫が酒を持ってやって来た。

「はーいお二人とも、ご褒美の聖水ですよぉ」

 どう見てもただのビールの入ったジョッキをカウンターに置き、そろそろ他のお客さんの邪魔、と俺を軽く蹴ってくる。

「紫ぃ、俺もオキャクサンなんだけど?」
「いいからユギくんは大人しく座って呑んでなさい」
「立てないー、紫様ぁ、吊ってぇ」
「はいはい、ほら、ちゃんと座ったら縛ってあげるから。まずは座る」

 紫に急かされ、立ち上がってカウンター席に座り直すと、相当回った酔いで視界がぐらついた。
 珍しく開店から入ってきた俺に、最初はいつも通り可愛らしく絡んできてくれた紫も、二時間経つ頃にはうんざりした様子で窘めてくるようになった。それはそうだろう、酒を飲みつつ手当たり次第に一人客に声を掛け、叩いて蹴ってとお強請りの嵐。店の雰囲気が壊れない程度にしてくれと、いつもは客同士の交流に口出ししない店長にまで控えめに怒られてしまったから、そろそろ今夜の相手を決めてホテルにでもしけ込もうかという頃合い。

「……あ、あの、まだ、途中だったんですけど……」

 数秒前まで俺を叩いて喜んでいた小太りの男が、どもりながら紫を睨む。

「申し訳ありません。これ以上の行為は、当店が摘発されてしまいますので」

 続きがしたければ、お店の外でどうぞ。笑顔で淀みなく、紫は頭を下げる。
 もう少しで禿げ散らかしたと表現されそうな薄い頭髪をしきりに撫で付けながら、やたら鼻息の荒いオタク風の男はそれを聞いて目の色を変えて俺の隣に迫ってきた。

「だ、だって、さ。ホテル、行こう」

 ビールを浴びるように一気飲みし、明らかに下卑た欲望に胸踊らせる男を横目で見つめる。

「いいけど、男抱いたこと、ある?」

 どうせやけになるなら、とことんまで壊れてしまおう。いっそ気持ち悪いと感じるくらいに醜い男に抱かれれば、むしろ新しい扉が開くかもしれないと、肘をつきながら男のビールをも勝手に飲んだ。

「あ、ぼ、ぼく、ゲイだから……心配しないで」

 意外な事に、男は経験者らしい。ニヤついた顔が本当に気持ち悪いが、面倒くさくなってきたからもうコイツにしよう。

「んじゃ、行こ。紫、お勘定」
「ぼく、は、払うよ」
「いいの? ……ありがと」

 じゃあ、いっぱい頑張るね。男の腕に抱き絡み、耳元で囁くと、男は「いひっ」と笑う。いちいち気持ち悪くて、逆に面白くなってきた。
 もたもたと男が財布から金を払い、それを薄ら笑いで見つめていると、男におつりを返した紫が、

「ユギくん、ちょっと手、出して」

 いつもの笑顔で手招きするので、何の疑いもなくそちらへ腕を伸ばしたのだが。
 ガチャン。
 硬い金属音と、手首に回る冷たい感触に、首を傾げた。視線を向ければ、鈍く銀に光る輪が手首に嵌っている。

「なに、これ」
「手錠。オモチャだけどね」

 真顔で答えた紫の後ろから、店長が出てきて、「塩実さん、ごめんなさいね」と俺から男を引き剥がして店の扉を開け、二人で外へと消えていく。
 紫は手錠の反対側をレジカウンターのポールに繋いで、勝手に俺の尻ポケットから財布を抜いて会計し始めた。

「え? なんで」
「お勘定なんでしょ。自分が飲んだ分は自分で払いなよ」

 あの塩実と呼ばれた男が払ってくれたのではないのか、と話しかけるのすら睨まれる。

「この手錠は」
「すぐ来るから」

 紫の素っ気なさが悲しい。

「なんで……紫まで、俺に冷たくするんだよ……」

 酩酊した意識が、普段は理性で抑えつけている感情を曝け出す。ふぇぇ、と泣き出した俺に、紫は少し表情を和らげたが、それでも冷たく突き放された。

「この後いっぱい泣かされるんだから、まだ我慢してなさい」

 紫の言い方がひっかかる。すぐ来るとは一体誰なのか。真っ先にカナメの顔が浮かぶが、彼女が出来たという彼が来る訳がない。……もしかして。

「倫子? なぁ、倫子が来るのか?」

 直接会うなんて久しぶりだなぁ、と喜ぶ俺に、紫は苦虫を噛み潰したような表情でため息を吐いた。

「……涙が枯れる前に終わるといいね」

 ガチャ、と店の扉が開く音に、反射的に邪魔しないように避けようとしたのだが。入ってきた長身に、酔いが醒める。

「カナメくん、遅い」
「す、いませ……っ。今日、色々あって、車使えなくて、駅から走ってきたんですけど……っ」

 ぜぇはぁと息を切らすカナメを初めて見た。似合わない黒のベースボールキャップにサングラスをかけ、半袖Tシャツにカーゴパンツの軽装。やけにラフな服装なのは、変装のつもりなのだろうか。その背と髪の色でバレそうなものだし、今までそんなものを必要としなかったのに。昼間見たワイドショーの内容を思い出し、彼女に迷惑をかけない為かな、と見当をつけて白けた。

「……連絡、ありがとうございました」

 額の汗を拭うのにサングラスを外し、紫に礼を言ってやっと、俺に視線を向けてくる。紫同様視線が冷たいので、やっと合点がいった。
 まだ俺は、こいつの物だったか。
 急に悪戯心が湧いてきて、カナメが何か言う前に言葉を被せる。

「あれ、こんな所でどうしたの? 小鳥遊メロさん」

 俺の声に、店内の客が数人振り向く。さすが有名人、この前みたいにすぐ他の客に囲まれるだろう。その間にさっさと帰りたい。
 そんな画策をするのに、カナメの顔にいつもの愛想笑いが浮かんでこない。どころか、す、と細めた眼に、危ういものを感じて鳥肌が立った。

「……あぁ?」

 怖い、と身を堅くする前に、スニーカーの爪先で股間を蹴り上げられた。

「っ!!」

 呻く声も出ない。予想だにしなかった激痛に、片手で急所を押さえて蹲った。手錠が嵌められたままの左手がカウンターに当たってガチャガチャとうるさく響く。

「ぁ……、う」
「手ぇどけろ」

 衝撃に呆然と床に座り込む俺の様子など構わず、カナメは俺の手ごと股間を蹴りつけてきた。たまらず手を逃がすと、そこを狙って今度は踵にぐちゃりと踏み潰された。

「あ、ぁ゛ッ、」

 三度、四度、そのまま踵が俺の茎を潰す。千切れてしまう。痛くて目の前が白く瞬く。小さく呻くような悲鳴をあげてカナメの膝に縋りつくのに、彼は容赦無くソレを踏み潰さんとしている。

「ご主人様の名前すら忘れるクソマゾのタマなんか、潰しても問題ねぇよな」

 ガツ、ガツ、とカナメのスニーカーが俺の肉茎を踏む度、激痛と共に血が巡る。やめてと縋っているのに、気持ち良さで息が上がる。痛い。痛い。気持ち良い。生命の危機にも似たこの状況に、俺の身体は久々の快楽だと勃起させて腰をうねらせる。

「か、カナメ、カナメッ! ごめんなさい、ごめんなさいカナメ……ッ」
「……そろそろ、やめてあげたら?」

 泣いて縋る俺を哀れんだのか、紫がそう声をかけてきて、やっとカナメの折檻が止まった。

「イかせたら、掃除面倒ですもんね」

 靴をどけてくれたカナメの言葉に、紫が「え、今ので感じてたのユギくん……」と引いた顔をする。泣きじゃくりながらも勃起した茎を隠し、情けなさに鼻をすすった。興味本位の視線達が、なんだ痴話喧嘩かと笑うのが聞こえてたまらない。

「カナメさん、下、タクシー着きましたよ」

 戻ってきた店長が、地べたに座ってすすり泣く俺を見て薄ら笑いでカナメを呼ぶ。

「うちで使ってるタクシーは口が堅いから。それ連れて電車は大変でしょう」
「お手数おかけして、すみません」
「気にしないで、よくあるのよ」

 少なくとも、俺が通った四年近くの間には見た事が無いんだが。八つ当たり気味に店長と紫を睨み上げると、二人共が安心したように笑うのだ。
 カナメが俺の右脇に手を差し入れてきて、無理やり立ち上がらされる。示し合わせたように紫がカウンターポールに繋いだ方の手錠の鍵を外し、その鍵をカナメに手渡した。受け取った鍵を当たり前のようにパンツのポケットにしまうのを見て、まさかこういう時の為に預けておいたのかと頬が引き攣った。
 逃げ出したい。底知れぬ怖さに後退るのに、いつの間にか背後に店長が立ちはだかっていて叶わない。

「……まだ若いんだから、当たって砕けるのを怖がらないの」

 俺にしか聞こえないくらいの小声で、店長が囁く。そしてすぐに俺の背を押し、カナメが開いた扉から外に押し出された。

「また二人でいらっしゃい」

 店長の声に頷きだけで返事をして、カナメは俺の腕を掴んだまま階段を降りていく。階段を降りた出口の前に、タクシーが停まっていた。開いたドアに先に押し込まれ、大人しく乗り込む。

「北池袋にお願いします」

 続けてカナメが詳細な住所を運転手に教えると、車はすぐに出発していく。
 いつもの、あのマンションだ。当たり前の事なのに、また件の彼女の事を思い出す。
 自宅の場所も知らない俺が、当たってどうなる。店長の言葉が心の柔らかいあたりに食い込んで痛む。当たって砕けるのが怖いんじゃない。砕けた俺を、カナメが不要な物として捨てていくのが怖い。何匹奴隷を飼おうと構わない。全員横並びで、可愛い奴隷として飼い続けてくれればそれでいい。一番にしなくていいから、二番にしないでくれ。
 バックミラー越しに運転手の視線を感じて、素っ気なく窓から外を見るフリをした。相当酒くさいのだろう、俯いていると吐きそうなのかと心配させてしまう。
 視線は横からも感じるが、そちらは無視だ。何度も視線を寄越すのに、カナメは何も言わない。無言に耐えきれなくなったのか、運転手がラジオをかけた。夜中のFMラジオが、似つかわしくない騒々しい音楽を垂れ流し、ホッとする。瞼を閉じて小刻みな振動に微睡む。
 何も考えたくない。このまま寝てしまいたいと思うのに、眠りに落ちる寸前で揺り起こされた。どうやら着いたらしい。見上げると首を痛めそうな高層マンションの正面アーチにタクシーが停車していた。

「歩けるか?」

 質問に頷きを返し、自分の足で車を降りる。いつも地下の駐車場からだったから、正面から入るのは初めてだ。最初で最後かな、と感慨深くマンションを眺めていると、背後でドアの閉まったタクシーが、割に静かなエンジン音と共に去って行った。
 先に玄関の自動ドアをくぐろうとしていたカナメが、俺が立ち止まったままなのに気付いて早足で戻ってくる。

「逃げたら、本当に、殺す」

 あ、目がヤバい。本気を感じて、肩を竦めた。こんな事が嬉しいなんて、俺も相当ヤバい。

「正面から入るの初めてだから。やっぱ高いなぁ、ここ」

 俺とは違う世界の建物だよ、と笑うのを、訝しげな目で見つつ、カナメは俺の腕を掴んで建物の中へ引っ張り込む。ホテルみたいなエントランスをじっくり眺める余裕もなく、いつも通りエレベーターで最上階へ。
 部屋に着いた途端、蹴り飛ばされて毛足の長い絨毯に倒れ込んだ。また折檻されるのかと身構えるが、カナメは倒れた俺の脇をすり抜けて部屋の中へ入って行く。いつものようにソファに座り、一息吐いてから、

「何してる。来い」

 と、何も無かったように呼んだ。
 四つん這いで移動し、カナメの膝の前に座る。俺もカナメも、何も言わない。じっと俺を見つめる彼の瞳に映る俺が、ひどく物欲しげで目を伏せた。
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