神は絶対に手放さない

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神は絶対に手放さない

10、複数の箱

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 ほっと安心したら、途端に涙がぼろぼろとこぼれ落ちてきた。
 怖かった。
 依頼で自分や蛍吾が危険な目に遭うことはよくあった。けれど、小さな子供が自分の慢心のせいで犠牲になるような状況は無かった。
 神様の加護さえあれば俺はほとんど最強だと疑わなかったし、しかしその万能感のせいで今日が起こった。
 父親に抱き締められた少女は、その苦しさに今更目を覚まして眠い目を擦っている。
 無事だ。どこも穢れていない。生きている。
 それを確認して、志摩宮の腕に縋り付いた。

「ありがと……っ、本当に、ありがとう、志摩宮……!」

 何度も何度も、志摩宮に感謝を叫ぶ。
 まだ腕も足も震えが止まらない。
 あの手は神様だった。それは間違いない。だとして、少女が誘われるままにあの箱に、白い手に触れたら、どうなっていたのか。
 その場で穢れに侵されて死ぬならまだ良い。だが、呪詛を受けたまま生きれば死ぬまで苦しむ事になったかもしれないし、どう見ても邪気を纏ったあの神様に魅入られて依代にでもなってしまっていたら、それこそ少女の魂は未来永劫苦しみ続ける事になっただろう。
 神様相手の依頼は本部の神様が傍に居るちゃんとした神子の仕事で、俺はどんな内容なのかすら知らなかった。
 こんなに恐ろしく、こんなにも無力だとは。
 志摩宮は困ったような顔で硬直していて、俺が泣き止むまで待っていてくれた。
 しばらく泣いて漸く落ち着いた頃には、志摩宮の服の袖は俺の涙でぐしょぐしょだった。

「先輩、そろそろ大丈夫ですか。あんまり抱き着かれてると、キスしたくなっちゃうんで……」
「……お前なぁ」

 目元を袖で拭くと、志摩宮は本気で我慢出来ないようで俺の唇を親指でなぞってじっと見つめてくる。

「後で、好きなだけさせてやる」
「約束ですよ」

 この状況でよくそんな事を言えるな、と思ったら、俺以上にそう思ったらしい瑪瑙さんと蛍吾が大きな咳払いで威嚇してきた。
 二人もようやく動けるようになったらしく、体のあちこちを押さえて痛いと呻きながら起き上がって仏壇の方を検分し始めた。
 旦那さんは娘を抱いて、蛍吾の指示でそのまま待っていた。奥さんの方は倒れたまま動かないが、胸が上下しているのが見えるので気を失っているだけだろう。

「沖、大丈夫か」

 蛍吾が倒れたままだった沖を揺すぶり起こし、無事を確認している。
 俺は瑪瑙さんから骨の入った袋を貸してもらって、部屋の隅で消えかけていた女の幽霊へと寄っていって彼女の前で膝をついた。

「もう少しだけ、頑張って」

 女の霊は頭の半分と両足がもう見えない。それでも、骨を見ると俺の言葉に頷いた。
 気力を振り絞り、骨に集中した。
 俺の霊視は、悪いものが見えやすいように調整してある。だから、それを少し弄って、魂の痕跡を探す。
 この骨の少女はどうなったのか。霊となって彷徨っていたり、どこかに縛りつけられているなら、それを手繰ってこちらへ呼び寄せようと思った。
 だが。

「……成仏してる」

 骨の主である千紗は、もう微かな霊体すら残っていなかった。輪廻に戻っていったようだ。
 それを伝えると、女の霊に一匙残っていた穢れが消えて最後にふわりと笑って、そのまま霞のように霧散した。
 座ったまま、黙祷する。神様の加護が、二人の来世にありますように。

「静汰、ちょっと来い」

 蛍吾に呼ばれ、次は問題の仏壇だ。
 骨は瑪瑙さんに返し、仏具を踏まないように注意しながら蛍吾の方へ進む。意識を取り戻した沖が、視線だけ動かして何か言おうと口をパクパクさせていたが、何も声として出てこないようだった。

「沖さん、あの骨踏んで痛がってたけど、骨自体は呪物でもなんでも無かったぞ」
「骨に憑いてた奥さんの生霊にやられたんだろ。あの奥さん、遺体の骨を細かく砕いて、常に自分の傍に置いてる。前に行ったマンションにも、この家にも、調べさせた限りでは車にも芳香剤の袋の中にも入ってたらしいぞ」
「こわっ! 何だそれ、なんでそんな事してんだあの人」

 首だけ振り返って、まだ気を失ったままの奥さんを見る。俺たちの話が聞こえていたらしい旦那さんが、奥さんから離れるようにまた眠り始めていた娘を抱き直した。

「さあ、それ調べるのは瑪瑙さんの仕事だから知らん。それよりこっちだ。この木箱」

 志摩宮が粉砕した木箱は、小さな木片をほぞで組んだものだったらしい。空洞にされた内部に押し込められていた中身が仏壇の上に散らばっていた。
 カラカラに乾いた、黒い塊。
 よくよく見ても何だか分からない。大きなレーズンのような、脚の無い虫の死骸のような。
 こういう呪物に入っているのは大概、爪や髪の毛と相場が決まっているのだが、これはそのどちらにも見えない。

「これ、何だ?」
「多分、胎盤かへその緒か、そのへんだろうな。神様への供物として新生児の一部を捧げるのは割とよくある。生命エネルギーの塊みたいなもんだから、取り込むと力が増大するんだそうだ。酷いとこだと新生児そのまま捧げるってのも聞いた事あるぞ」
「……ひでぇ」
「まあ、『邪教の神様』相手に、だからな。お前やうちの組織の神子についてるみたいな、人間を可愛がってるタイプの神様は力が増すとしても受け取らないだろうが」

 触れたくも無いらしい蛍吾は紋を描いてその黒い物体に厳重に結界を施していく。多ければ多い方がいいだろうと、俺も横から辛うじて描ける紋で結界を張った。

「これが引っ張ってたやつか?」
「アタリ」

 気がつけばあの酷い臭いが消えている。やはりあの臭いの元はこれだったんだな、と聞いてみれば、蛍吾が「珍しいじゃん」と驚いていた。

「箱の中の神様モドキが、餌になるものを引き寄せてたんだけど、それを奥さんの守護霊婆さんが喰ってたんだろうな。奥さんが結婚して空き家になったこの家で、やっと自分で喰えるようになって力を溜めて。腕だけ出してみて、最後にあの子を喰えば完成して出て来れそうだったんだろ」

 志摩宮が居なけりゃ今頃全員死んでたわ、と蛍吾はいつもと違って自嘲の笑みを浮かべた。
 蛍吾も、今この場で面白がれるほど無責任では無いのだ。自身の不甲斐無さに、それでも虚勢を張って笑うしかないだけで。

「……俺、ちゃんと紋の勉強し直す」

 呟くように決意を固めると、蛍吾も頷いた。
 目を閉じて、霊視のチャンネルを切り替えようとして、ふと脳裏に浮かんだ木組みの箱の映像に息を飲んだ。

「この箱、……いや、これじゃない箱、さっきの女の人の霊の記憶の中で見た」
「は!?」

 俺は、見たことがある。脳内にふとよぎっただけの映像を頼りに、必死に思い出そうとする。
 女の、生前の記憶の何処かで。……そうだ、確か。

「呪いを……手首を切って、その血を箱に垂らして呪いを掛けてた。最後の方は血が染み込んで真っ黒になってたから、たぶんこれじゃない」
「マジか……。こんなのがまだ他にあるのか」

 白木の模様が見えるこの箱とは違う物だと、思い出した俺が断言すると、蛍吾が頭を抱えて唸った。
 ただの箱にどれだけ禍々しい物を捧げようが、それだけで呪物には成り得ない。箱そのものにもなんらかの呪いを掛け、呪物の器と成るように作りあげなければならない筈だ。
 器の作り方は術師によって違う。古くは鉄や銅などの金属で作られる事が多かったようだ。火事で焼け落ちても呪物が壊れる事が無いのが理由だろう。木で作られていることから、少なくとも火事で呪いがパアになる可能性を考えない──もしくは火事で隠滅できることを想定した──近代の代物だろう。
 そして、同じような呪物があるという事は、それを作った人間が同じという事だ。
 被害者と加害者の両方に、同じ術師の呪物の器。これが偶然とは考え辛い。

「クソ面倒くせぇ……」

 蛍吾が吐き捨てると同時に、玄関の方からドヤドヤと複数人が足を踏み鳴らしてこちらへ向かってくる音がした。
 バン、と襖を開けたスーツの男を先頭に、五、六人ほどが入ってくる。

「んん、なんだ、生きてんじゃねぇか」
「染井川(そいがわ)……あんた、今まで何処行ってた」
「何処って、周りに結界張りにだよ。神無神子とお前らじゃ手に負えねぇだろうから、神子様待ちするつもりだったんだがなぁ」

 先頭の男は三十代前半くらいの美丈夫で、俺も面識があるが、俺を遠慮無く神無神子と呼ぶので嫌いだ。
 染井川は後ろに撫で付けた前髪辺りを掻きつつ、スーツの内ポケットから煙草を取り出してその場で吸い始めた。

「箱の存在も知ってたのか。知ってて、新人の沖にやらせるのを黙認したのか」

 蛍吾が詰め寄るが、染井川は白けた風に肺一杯に煙を吸い込み、蛍吾の顔に吹き付けた。

「アァ? 沖にやらせんの認めたのはお前のとこの神無神子だろうが。俺はそこのミコサマモドキより下っ端なんだから、上司様の判断に意見するはずねーだろ?」
「けど、あの箱がどんなもんか知ってたなら……! 全員死ぬとこだったんだぞ!?」
「それもこれも、テメェら自身の実力不足だろうが。ガキだからって甘えんな」

 染井川は邪魔そうに蛍吾を腕で避かし、彼の背後にある仏壇と壊れた箱を覗き込んだ。

「あーあー、こんなバラバラにしちまいやがって。紋読めっかなぁコレ」
「あ、危な……っ」

 いくら結界が施してあるからといって、素手で木片をつまみ上げた染井川に慌てて止めようとするが、彼は俺に鋭い視線を寄越して舌打ちをした。

「舐めんな、こっちは『神様』無しで何度も死線潜(くぐ)ってきてんだクソガキが」

 蛍吾にはさも俺が上司だからなんだのと言っていた癖に、染井川は俺に対して蛍吾以上に辛辣で軽蔑を露わにする。
 だが、今回に限っては欠片も反論の余地が無いので、唇を噛んで俯いた。

「……なんだ。今回はよほど良いお灸になったみてぇだな? そんなに死ぬのが怖かったか?」

 木片を置いて染井川は俺の方へ寄ってきて、視線を落としたままの俺を揶揄うように覗き込んでくる。煙草臭い、と目を合わせないように首を動かすが、俺より頭一つ高い染井川は不審げに片手で俺の顎を掴んで無理やり視線を合わせてきた。

「お前、加護が全部割れて……」

 俺の加護が見えるのは蛍吾と寛容の神だけだと聞いていたが、染井川も見えるのだろうか。
 初耳だ、と初めて間近の染井川を見上げようとすると、横から伸びてきた志摩宮の手が染井川の腕を掴んで、

「あんま寄んないでもらえますか。煙草臭いの移るんで」

 と、意外に冷静に間に割って入ってきた。
 染井川は初めて気が付いたみたいに志摩宮を見て、「例の」と呟いた。
 放っておいた煙草の先端が灰になって落ちて、反射的に避けた俺は染井川から距離を置く事に成功した。志摩宮も、俺が離れたのを見てあっさりと染井川の腕を離す。
 染井川も、志摩宮の行動はどうでもいいみたいでまた仏壇へ戻って一緒に来た彼の部下と何事か話し始めるようだった。

「お前ら、もう邪魔だからさっさと帰れ」
「言われなくても帰る」

 蛍吾は俺と志摩宮に「行くぞ」と小さく呟いて、瑪瑙さんにだけ挨拶して部屋を後にした。
 外に出ると、組織の車が五台ほど停まっていた。

「じゃあ、俺は本部に戻って事後処理とか色々してから帰るから、静汰は病院、志摩宮は家まで送らせ……」

 一人に一台車を割り振ろうとして、蛍吾が俺を見てハッと息を飲む。

「やべ。お前、加護全部割れたんだったか」

 全くの加護無し状態で一人にするのもなあ、と蛍吾が考える横から、志摩宮が当然のように前に出てきて俺の怪我をしていない方の手を繋ぐ。

「カゴってのがどんなのかよく分かんないですけど、俺がこうやって先輩と一緒に居れば大丈夫なんじゃないですか?」
「いや、そりゃ今晩だけならそれで乗り切れるかもしれないけどな。こいつの神様が加護を貼り直しに来るのがいつだか分からない以上、安全な本部に居てもらう方が」
「それまで先輩と会えないとか無理です」
「いや、無理って言われてもな」

 わがままを言って蛍吾を困らせる志摩宮に、俺が一言諦めろと言えばいいのだろうが。俺は本部なんて御免だ。本部に何日も監禁されるくらいなら、志摩宮のオナペットしてた方がずっとマシだ。

「蛍吾。俺も気をつけるから」
「静汰まで……」

 俺が本部を毛嫌いしているのが分かっていて、しかし俺の身の安全を考えて蛍吾は首を縦に振るのを躊躇っていた。
 車の運転席のガラスが下がって、中の運転手が「そろそろ警察が来ます」と声を掛けてきたので、蛍吾がため息を吐いて折れた。

「まずは病院に行け。その間に俺が安全そうなホテルとっとくから、今晩はそこへ二人で泊まれ。ルームサービスでもなんでもとっていいから、絶対に外へは出るな。志摩宮、明日俺が部屋に行くまで静汰から絶対に手を離すな。そいつは今バリア無し残機ゼロみてーなもんだ」
「残機ゼロはもうゲームオーバーな気がしますけど……まあ、分かりました」

 ゲームをあまりしない蛍吾がゲーム好きの志摩宮に分かりやすく説明しようとして失敗したようだが、とにかく本部行きは回避された。
 俺と志摩宮は同じ車に乗り込み、俺のひん曲がった指を治療してもらう為、組織の息のかかった病院の夜間外来へ向かうのだった。

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