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白鷺雨月

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第二十九話 硬い手を忘れない⑤

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 孝司が帰ってこなくなって、俺たちは政子の家に引っ越すことになった。
 政子の家は古いがよく掃除がされていて、なかなか居心地が良かった。
 特に梅の木が植えられている庭が俺のお気に入りだった。
 春になるとその梅の木に満開の花がさき、部屋の中までいいにおいがただよってくる。

 俺はそのにおいをかぎながら、お気に入りのクッションの上で昼寝をするのが最高の時間だった。
 何度めかの梅の花がさいたころ恵美は中学生というのになった。
 孝司、安心しろ。
 俺はちゃんと約束をはたしているぞ。
 いつでもおまえに自慢できるようにな。


 俺がクッションの上でくつろぎながら梅の花のにおいをかいでいると一人の男がこの家を訪れた。

 この男は将生まさきと呼ばれていた。

 最初、俺はこの男のことを警戒していたが訪れる度に賄賂をもってくるので仕方なく見逃してやっている。
 今日も将生はさつまいものケーキを持ってきた。
 うん、甘くてなかなかうまいな。
 いいだろう、今日もこの家に入るのを認めてやろう。
 将生は去り際に俺の頭を撫でていく。
 まあ、賄賂をもらってしまったのでこれくらいは許してやろう。
 将生の手は柔らかく、なんだか物足りないものであった。
 やはり俺はあの孝司の固い手のほうが好きだな。


「ねえ、お母さん。将生さんとはやく結婚しちゃいなよ。でないと私が将生さんと結婚するわよ」
 恵美は笑顔で言った。
「あんた何を生意気なこといっているのよ」
 貴美は少し怒りながら、でもその顔は笑っていた。
「そうよ、アラフォーの子持ちでもいいっていうんだから決めちゃいなさい。でないと私がもらっちゃうわよ」
 今度は政子が言った。
「もう、お母さんまで」
 貴美はあきれかえっている。

 だが、俺は知っている。
 貴美の将生を見る目は孝司を見ていたときと同じだということを。
 しかし、この家の女どもはやかましいな。
 静かだったのは孝司が帰ってこなくなってしばらくのあいだだけだった。
 その後はずっと三人でさわがしく生活している。
 将生、覚悟しておけよ。
 貴美や恵美がおとなしくしているのは今だけだからな。
 こいつらはしゃべりだしたら止まらないんだから。
 ずっと一緒にいる俺はよく知っているんだ。
 



 さつまいものケーキを食べて満足した俺は梅の木が見える部屋で一休みすることにした。
 なんだかその日はいつもよりも眠い。

 眠くて仕方ないのだ。

 だから、俺は少し眠ることにした。

 起きたらまた恵美と散歩に行こうかな。

 最近はもっぱら恵美が一緒に散歩にいっている。俺たちはいい友だちなのだ。

「お母さん、ロンがロンが……」
 まったく恵美は騒がしいな。
 体は貴美よりも大きいのに中身はまだまだ子供なんだから。

 ちょっと寝るだけだ。

 次に起きたら、また相手してやるよ。




 目が覚めると俺は懐かしい部屋にいた。
 そこは前に住んでいた部屋だ。
 それにかぎなれたにおいがする。

 久しぶりにかぐにおいだ。
 そのにおいをかぐと俺はほっとする気分になる。

「やあ、ロン。おまえもこっちに来たんだな」
 その声は知っている。
 孝司の声だ。

 孝司、俺は約束を守ったぞ。
 恵美は生意気を言うまでに育ったぞ。

「ああ、ありがとうロン。これからはこっちで僕と暮らそう」
 孝司はそう言い、あの硬い手で俺の顔や背中を撫でた。
 そして力強く俺を抱き上げた。

 俺は孝司の頬をなめた。
 ああ、やっぱり孝司だ。
 ほんとに長いあいだどこに行ってたんだよ。
 
 孝司の横にはかなり前に見たあの目の細いの女が立っていた。

「ありがとう、細井瞳さん。ロンをこっちまで連れてきてくれて」
 孝司は言った。

「それもお安いご用よ。死者の最後の願いを叶えるのが死神の仕事だからね。これでも私は神さまなんだから」
 誇らしげに細井瞳は言った。
「これからはこっちで二人仲良くくらすことね」
 細井瞳はそう言い、どこへともなく消えていった。

 そうだな、恵美たちのめんどうは十分みてきた。
 これからは孝司の遊び相手をしようか。
 じゃあ、まずは公園まで散歩に行こう。
 孝司とは長い間散歩にいっていないからな。

「そうだな、そうしよう」
 孝司はそう言うと俺の大好きなあの硬い手で頭を撫でるのであった。
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