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藤宮の決断
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霧の中ではぐれたのは詩音だけではなかった。藤宮もまた耳鳴りの後に仲間を見失い、独り白い世界を彷徨っていた。
手に当たる壁の質感がザラザラゴツゴツしたものに変わり、足元も凸凹だらけだ。靴裏で慎重に確かめながら転ばないように進んだ。
「おぉい、誰か居るか────!?」
これは何度目の呼びかけだろうか。応えは返ってこない。
(何なんだここは……。屋敷の中では無いな。岩肌みたいな壁と音の反響から推測して、俺は広い洞窟の中を歩いているのか?)
藤宮の勘は当たっていた。
(洞窟だとしたら厄介だな。景色が似ていて迷いやすい。そもそもその景色すら見えない状況なんだが)
遭難者はむやみやたらに動いてはいけない。捜索者と行き違いになるからだ。ただし霧の中で仲間が自分を見つけてくれるとは思えない。だから藤宮は進むしかなかった。
『…………ちゃん』
(…………ん?)
耳に誰かの声が届いた気がした。
『コ…………ん』
やはり聞こえた。艶を含んだ響き。女の声だろうか?
「生徒会長か!? 近くに居るのか!?」
声を張り周囲を見渡す。すると薄っすらと誰かのシルエットが見えた。藤宮が目を凝らすと影がだんだんとクッキリとしていく。霧が薄まっていた。
『コウちゃん』
今度はハッキリ聞こえた。その声に藤宮は戦慄した。
ここに居てはいけない人の声だったのだ。
「何…………で」
藤宮の目が見開かれた。白い世界が隠していた人物か浮かび上がる。
霧が完全に晴れたそこには、彼がよく知る人物が儚に佇んでいた。
『コウちゃん』
もう一度呼ばれた。藤宮浩司が、かつて日常的に呼ばれていた愛称を。
「……………………」
鍾乳洞に似つかわしくない、爽やかなワンピース姿。小首を傾げて優しく微笑む三十歳少し手前の女性。勤務で家を長期間空ける際は、出発前にいつもこの笑顔を向けられた。
「……サトコ……」
その名を口にした藤宮の目頭が自然と熱くなる。
「サトコ……!」
『コウちゃん』
サトコと呼ばれた女性が走り寄った。藤宮は当たり前のように彼女を自分の胸へ受け入れた。
抱きしめて、懐かしい感触にしばし浸る。髪の匂いを嗅ぎ、忘れていた記憶が呼び起こされて涙が頬が伝った。
自分の子供を宿し、暴走車に撥ねられて死亡した妻だった聡子。
161センチメートルの身長。女性としては決して低くはないが、大柄の藤宮の腕の中に入るとまるで子供のようだ。しかし年齢は彼よりも二つ上だった。
……そう、だった。とっくに生前の彼女の年齢を追い越してしまったことを藤宮は寂しく感じていた。一年経つ毎に聡子との思い出の色が薄れていく。
命日にも泣かなくなり、普通に日常を送れるようになってしまった。
『良かった、やっと気づいてくれた。ずっとコウちゃんの傍に居たんだよ?』
「ずっと……?」
『うん。でも私の声はコウちゃんに聞こえなくて、気づいてもらえなくて……寂しかった』
「ずっとあれから彷徨っていたのか? 俺の傍で……?」
『そうだよ』
────では、何故。
寮長の神谷奏子に化けた魔物を倒す時、赤い光が見えた。それが魔物の核だと、そこを狙えと水島が教えてくれた。その情報は生徒とも共有したので詩音も知っていた。
──では何故、迷宮の魔物特有の赤い光が聡子の左目に宿っているのか。
『コウちゃん、余計なことは考えないで。私の体温だけを感じて」
(コイツ……、俺の考えていることが判るのか?)
抱き合う聡子は温かい。彼女の死亡時は火葬にすら間に合わなかった。艦から降りた藤宮を待っていたのは、遺灰となった妻と彼女の両親の責めだった。
『コウちゃん、私達と行こう。私とあなたと、このお腹の中の子とみんなで一緒に。誰にも邪魔されずに、親子三人で幸せに暮らせる世界へ』
「………………」
藤宮の記憶と、目の前の聡子との間に差異が出た。
妊婦健診はもとより、出産にすら立ち会えなさそうな藤宮へ聡子は言った。船乗りの女房になった時から覚悟している、私独りでも立派にこの子を産んで育ててみせると。
聡子は芯の強い女性だった。生きている人間を死者の世界へ誘うなど決してしない。
『……本当は寂しかったの。生きている間は邪魔になると思って言い出せなかった』
それは有るかもしれない。だがそれなら今も口にしないだろう。本物の聡子ならば。
(ハ……、心を読めるくせに演技が雑だな。コイツは本物のサトコじゃない)
判ってしまった。だのに藤宮は、妻の姿をした魔物を抱く腕の力を緩めることができなかった。悲しい未練だ。
『……コウちゃん』
ややあって、聡子が問う。
『高月ってコが、そんなに大切なの?』
そんな心の奥底まで覗かれてしまったか。藤宮は苦笑した。
『私やお腹の赤ちゃんよりも?』
「妻や子に代わるものなんて居ないよ」
『じゃあ……』
「おまえは本物のサトコじゃない」
『…………。今はそうでも、私ならいつかあなたの望むようなサトコになれる』
「そうだな。騙されてもいいって思えた」
聡子そっくりなこの魔物に殺されるのも悪くはないと。
でも。
「必ず帰るって、アイツと約束したんだ」
聡子の顔が歪む。藤宮の心を支配できなかった怒りの表情だ。その後にぐちゃぐちゃになった。比喩ではなく実際に目も鼻も口も崩れたのだ。続いて身体の輪郭も。
腕を解いた藤宮は二メートル後方へ下がり、粘土と化した魔物と距離を取った。
魔物はグネグネ動き、新たに別の人間の姿を形成しようとしていた。体格から判断しておそらくは藤宮の母親。今度は親子の情に訴えるつもりなのだろう。
「……浅ましいな」
他の場所で同系統の魔物に襲われた詩音と同じ台詞を吐いた藤宮は、ハンドガンを握り、魔物が完全に母親の姿となる前に発砲した。
左目の赤い核を狙って。
パアァァンッ。
鍾乳洞に銃撃音がこだました。
手に当たる壁の質感がザラザラゴツゴツしたものに変わり、足元も凸凹だらけだ。靴裏で慎重に確かめながら転ばないように進んだ。
「おぉい、誰か居るか────!?」
これは何度目の呼びかけだろうか。応えは返ってこない。
(何なんだここは……。屋敷の中では無いな。岩肌みたいな壁と音の反響から推測して、俺は広い洞窟の中を歩いているのか?)
藤宮の勘は当たっていた。
(洞窟だとしたら厄介だな。景色が似ていて迷いやすい。そもそもその景色すら見えない状況なんだが)
遭難者はむやみやたらに動いてはいけない。捜索者と行き違いになるからだ。ただし霧の中で仲間が自分を見つけてくれるとは思えない。だから藤宮は進むしかなかった。
『…………ちゃん』
(…………ん?)
耳に誰かの声が届いた気がした。
『コ…………ん』
やはり聞こえた。艶を含んだ響き。女の声だろうか?
「生徒会長か!? 近くに居るのか!?」
声を張り周囲を見渡す。すると薄っすらと誰かのシルエットが見えた。藤宮が目を凝らすと影がだんだんとクッキリとしていく。霧が薄まっていた。
『コウちゃん』
今度はハッキリ聞こえた。その声に藤宮は戦慄した。
ここに居てはいけない人の声だったのだ。
「何…………で」
藤宮の目が見開かれた。白い世界が隠していた人物か浮かび上がる。
霧が完全に晴れたそこには、彼がよく知る人物が儚に佇んでいた。
『コウちゃん』
もう一度呼ばれた。藤宮浩司が、かつて日常的に呼ばれていた愛称を。
「……………………」
鍾乳洞に似つかわしくない、爽やかなワンピース姿。小首を傾げて優しく微笑む三十歳少し手前の女性。勤務で家を長期間空ける際は、出発前にいつもこの笑顔を向けられた。
「……サトコ……」
その名を口にした藤宮の目頭が自然と熱くなる。
「サトコ……!」
『コウちゃん』
サトコと呼ばれた女性が走り寄った。藤宮は当たり前のように彼女を自分の胸へ受け入れた。
抱きしめて、懐かしい感触にしばし浸る。髪の匂いを嗅ぎ、忘れていた記憶が呼び起こされて涙が頬が伝った。
自分の子供を宿し、暴走車に撥ねられて死亡した妻だった聡子。
161センチメートルの身長。女性としては決して低くはないが、大柄の藤宮の腕の中に入るとまるで子供のようだ。しかし年齢は彼よりも二つ上だった。
……そう、だった。とっくに生前の彼女の年齢を追い越してしまったことを藤宮は寂しく感じていた。一年経つ毎に聡子との思い出の色が薄れていく。
命日にも泣かなくなり、普通に日常を送れるようになってしまった。
『良かった、やっと気づいてくれた。ずっとコウちゃんの傍に居たんだよ?』
「ずっと……?」
『うん。でも私の声はコウちゃんに聞こえなくて、気づいてもらえなくて……寂しかった』
「ずっとあれから彷徨っていたのか? 俺の傍で……?」
『そうだよ』
────では、何故。
寮長の神谷奏子に化けた魔物を倒す時、赤い光が見えた。それが魔物の核だと、そこを狙えと水島が教えてくれた。その情報は生徒とも共有したので詩音も知っていた。
──では何故、迷宮の魔物特有の赤い光が聡子の左目に宿っているのか。
『コウちゃん、余計なことは考えないで。私の体温だけを感じて」
(コイツ……、俺の考えていることが判るのか?)
抱き合う聡子は温かい。彼女の死亡時は火葬にすら間に合わなかった。艦から降りた藤宮を待っていたのは、遺灰となった妻と彼女の両親の責めだった。
『コウちゃん、私達と行こう。私とあなたと、このお腹の中の子とみんなで一緒に。誰にも邪魔されずに、親子三人で幸せに暮らせる世界へ』
「………………」
藤宮の記憶と、目の前の聡子との間に差異が出た。
妊婦健診はもとより、出産にすら立ち会えなさそうな藤宮へ聡子は言った。船乗りの女房になった時から覚悟している、私独りでも立派にこの子を産んで育ててみせると。
聡子は芯の強い女性だった。生きている人間を死者の世界へ誘うなど決してしない。
『……本当は寂しかったの。生きている間は邪魔になると思って言い出せなかった』
それは有るかもしれない。だがそれなら今も口にしないだろう。本物の聡子ならば。
(ハ……、心を読めるくせに演技が雑だな。コイツは本物のサトコじゃない)
判ってしまった。だのに藤宮は、妻の姿をした魔物を抱く腕の力を緩めることができなかった。悲しい未練だ。
『……コウちゃん』
ややあって、聡子が問う。
『高月ってコが、そんなに大切なの?』
そんな心の奥底まで覗かれてしまったか。藤宮は苦笑した。
『私やお腹の赤ちゃんよりも?』
「妻や子に代わるものなんて居ないよ」
『じゃあ……』
「おまえは本物のサトコじゃない」
『…………。今はそうでも、私ならいつかあなたの望むようなサトコになれる』
「そうだな。騙されてもいいって思えた」
聡子そっくりなこの魔物に殺されるのも悪くはないと。
でも。
「必ず帰るって、アイツと約束したんだ」
聡子の顔が歪む。藤宮の心を支配できなかった怒りの表情だ。その後にぐちゃぐちゃになった。比喩ではなく実際に目も鼻も口も崩れたのだ。続いて身体の輪郭も。
腕を解いた藤宮は二メートル後方へ下がり、粘土と化した魔物と距離を取った。
魔物はグネグネ動き、新たに別の人間の姿を形成しようとしていた。体格から判断しておそらくは藤宮の母親。今度は親子の情に訴えるつもりなのだろう。
「……浅ましいな」
他の場所で同系統の魔物に襲われた詩音と同じ台詞を吐いた藤宮は、ハンドガンを握り、魔物が完全に母親の姿となる前に発砲した。
左目の赤い核を狙って。
パアァァンッ。
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