THE NEW GATE

風波しのぎ

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2巻

2-16

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「ねぇ、ミリーって誰なの?」

 ティエラが首をかしげている。

「王国の孤児院に住んでる子だ。知り合ったのはたまたまだったな。ヴィルヘルムを知ってるなら、あいつが守っている孤児、で通じると思うんだが」
「ああ、あの人」
「ヴィルヘルムは知り合いか?」
「師匠にたまに会いに来るのよ。滅多に会えないんだけどね。ついでにお菓子とか買っていくからどうしてるのかと思ってたけど、孤児院に行くなら納得かな」

 ティエラが作った菓子をヴィルヘルムはよく買っていったらしい。

「ティエラの作るお菓子はおいしいですからね」
「いえ、安いからですよ。師匠のお菓子のほうがおいしいです。王様の使いの人が買いにきたこともあるじゃないですか。私のはエルフの里仕込みなので珍しいだけで」

 互いに褒め合っているのは、どちらもうまいということだろう。

「エルフの里仕込みって、どんなものなんだ?」
「えっとキャファルっていう焼き菓子なんだけど、聞いたことある?」
「いや、ないな」

 そもそもエルフの得意な菓子などという設定に覚えがない。料理は専門外なので、レシピを持っていても作ったことのない料理や作れない料理は多いのだ。

「もっとも近いのはフィナンシェでしょうか。1口大のお菓子なので子どもたちに配るにはちょうどいいのでしょう」
「思いつきで並べたんだけど、今じゃ売り上げの1、2を争ってるわ。もともと森の中で生活していたから、蜂蜜はちみつを使ったお菓子が得意なの」
「そうなのか。でも待て。月の祠うちって食品メインの店じゃないはずなんだが、他の売り上げは?」
「シンが不在だったので売り物が少ないんです。私も鍛冶については素人でしたし、商品を補充しようにも、武具を保管している倉庫を開けられたのはシンだけでしたので」

 下手にどこかから仕入れたりすると、その権利をめぐって争奪戦になるので商品の補充が難しかったらしい。作り手がいなくなれば在庫不足になるのは当然だ。

「なんというか、すまん。シュニーにも開けられるようにしとけばよかったな」
「開けられたとしても、売りに出せるものはあまりないのですけどね」
「…………確かに。開けられても解決にはならなかったか」

 ゲーム時代も細々と営業していたのだ。無理もない。

「時間があるときにでも商品を補充しておいてくださると助かります」
「了解だ。さて、話が脱線したな。ユズハ、続きをいいか?」
「うん。でも、ずっとじんじゃにいたからもうしってることはないよ」

 天変地異への干渉は、エレメントテイルをしても至難の業だったようだ。世界の情勢を知らないと言っても、『栄華の落日』以降の天変地異の被害を減らそうと人知れず努力していたのだから、責めることはできない。

「そうか、一応何か思い出したら教えてくれ」
「うん、わかった。えっと、ティエラおねぇちゃん、さっきのきゃふぁるっておかしまだある?」

 話が一段落すると、ティエラに件の菓子がないか聞くユズハ。よほど気になっているのか、鍛冶のことも忘れてティエラに迫る。尻尾がばさばさ揺れていた。
 こんなところも見た目の年相応だ。

「申し訳ありませんが、最後に1つ。シンに話があるんです」
「……なんだ?」

 さっきまでとは違う、真剣な雰囲気のシュニーが、解散しようという空気に待ったをかける。
 切り出すタイミングをうかがっていたようだ。

「実は取り急ぎ会っていただきたい者がいるのです。いろいろと調査しなければならないことがあるのは重々承知していますが、今回はこちらを優先してもらいたく」
「その、会ってほしい相手っていうのは誰なんだ?」

 シンはシュニーの口調がどこか焦っているように感じた。なにか、もう時間が残されていないような、そんな焦燥感しょうそうかんがあった。
 居住いずまいを正してシュニーの言葉を待つ。

「再会してすぐに伝えるのもどうかと思い、昨日は話しませんでしたが、会ってほしいのはジラートなのです」
「ジラートか…………いや待て、ほんとにジラートなのか?」

 ジラートとはシンのサポートキャラクター、ナンバー3のハイビーストだ。だが『栄華の落日』から500年以上経っている今、ジラートと会えというのは不可能なはずだった。

「……生きてるのか」

 そう、いかにハイビーストといえど寿命には勝てない。ヒューマン、ビースト、ドワーフは100年生きれば長生きなのだ。
 エルフやピクシー、ドラグニル、ロードといった種族が長命種と言われるのに対して、この3種族は短命種と言われていた。ハイビーストとハイドワーフは上位種族だが、それでもせいぜい150年のはず。
 ビーストはモデルとなった動物によって寿命の長短が激しいが、ジラートのモデルは選択肢の中では比較的オーソドックスな狼。特別長生きするものではない。
 ジラートが王になったことは聞いていた。だがかなり昔の話だったので、まだジラートが生きているとは思っていなかったのだ。
 獣人の各部族を束ねて形成されているのがファルニッド獣連合。それがジラートが世界を襲った混乱の中で作り上げたものだ。
 そして、その初代獣王こそ、シンのサポートキャラクター、ナンバー3のハイビースト。
 ジラート・エストレア。
 シンが覚えている容姿は、通常の人形態時は、黒に近い短く刈り込んだ茶髪と無精ひげが特徴の40すぎくらいの男性だ。美男美女ばかりというのも味気ない、ワイルドなおっちゃんもいいという理由でこの容姿となった。完全武装したときのジラートはまさしく歴戦の勇士といえる風格を漂わせており、あのときの選択は間違っていなかったと自負したものだ。
 戦闘時は人狼モードになり、獲物に襲いかかる姿はまさに狩人。
 近接戦に特化しておりサポートキャラクター、ナンバー4のハイドラグニル、シュバイドとともにパーティーの前衛を務めていた。魔術スキルによる攻撃力は低いものの、それを補う機動力が持ち味で、無手系武芸スキルを完全網羅もうらし、特定条件下ではステータスで勝っているはずのシュニーと互角に戦えたほどである。
 咆哮とともに敵に拳を叩きつける姿を、シンははっきり覚えていた。

「ただ……あと数日でどうこうというわけではありませんが、もう長くはないでしょう」

 シュニー自身、ジラートがなぜここまで生きていられたのかはわからないらしい。
 だが、1つ確かなこともあった。

「彼もまた、シンを待っていたんです」

 シュニーがそうであったように、ジラートもシンを待っていたのだ。

「彼自身、なぜ生きていられるのかわからないと言っていました。生きている以上、何か意味があるのだろうとも」

 迫る死への恐怖もさほど感じてはいないらしい。

「実際、ジラートがいなくとも連合は機能しています。今の獣王は8代目ですが武力だけでなく、統治者としての能力もありますし」
「それを聞いたら、行かないわけにはいかないな。ジラートはどこにいるんだ?」
「先日の亡霊平原を抜け、さらに北上した先ですね。平原と森林地帯にまたがって存在する連合は、王のいる集落がヒューマンでいうところの首都となります。首都になるほどの大きな集落は4つで、現在ジラートがいるのは、現獣王のいる犬族の集落です」
「そうか。一応聞くけど、向こうに着くまでに危ないってことはないんだよな」
「はい、少なくともあと数年は大丈夫だと思います。本人もそこまで弱ってはいませんでしたから」
「なら普通に行くか」

 本当に切羽詰まっているのなら長距離移動の奥の手を使う気だったが、どうやら大丈夫のようだった。

「じゃあ、いくつか確認しときたいことがあるから、それが終わったら出発しよう。準備もあるだろうし、2人は明日出発でいいか?」

 聞き役に回っていたユズハとティエラに聞くシン。

「いつでもいいよ」
「私はいつもみたいに留守番してればいいのかしら」

 基本的にティエラはシュニーの留守を任されていたので、今回も留守番だと思っているようだ。

「ティエラ、今回はあなたも行くのですよ」
「え、私もですか?」

 自分も行くと言われてティエラは驚いていた。

「シンが戻ってきましたから、場所にこだわる必要はなくなりました」
「個人店舗の強みだな」
「あの、でもこの店を放っておいていいんですか?」

 ティエラの問いにシュニーが苦笑する。

「問題ありません。いきますから」
「持っていく……ですか?」

 何を言っているのかわからない、という表情のティエラ。確かに、店を持っていくという言葉にすぐ納得できる者は少ないだろう。

「持ち運びできるんだよ。この店」
「……えと、どういう意味かしら」

 いくらなんでも簡単に持ち運びできてたまるか、という思いもあるのかもしれない。

「今は珍しいのか? 持ち運べる店とか家とか」
「ないわけではありませんが、その筋の専門家でなければ知らないでしょう。私の知る限り、小さな小屋でもかなりの値がついていました」

 ゲーム時代は当たり前のようにあった技術だが、案の定、特殊技術のような扱いだということがわかった。

「なるほどな。それじゃティエラが知らないのも無理ないか。今じゃスキルよりアーツのほうが主流なんだろ? 生産系もそうなのか?」
「はい。生産系もアーツとスキルで分かれています。アーツは『栄華の落日』以降、人々がスキルを復元できないかと試行錯誤して生まれたものです。スキルより効果が低いのは戦闘系と同じです」

 ゲーム風に言うなら、システムアシストなしでスキルを再現しようとしているといったところか。
 普通なら何も起こらないがここは異世界。恐らくスキルの片鱗へんりんのような効果が生まれ、それをアーツと呼んでいるのだろう。
 鍛冶について言えば、そうでないと――単なる物理的作業では絶対に再現できない技術もあるので、的外れな推測ではないはずだ。

「私みたいな新世代はアーツを基準に考えてるから、シンや師匠とはどうしてもずれちゃうのよね。『栄華の落日』以前は師匠クラスの人が普通にいたんでしょ? どんな世界だったのか想像もできないわ」
「そりゃそれなりにはいたが、たくさんってわけじゃないぜ?」
「それでも、両手の指じゃ数えきれないくらいいたんでしょ? その時点で怖さを通り越して呆れるわよ。そんな人たちがあっちこっちで戦いを繰り広げてたっていうのは伝え聞いてたけど、よくそんな状態で社会が維持できたものだわ」
「そのあたりは、まあしっかり管理されてたっていうか、やりすぎる奴は排斥はいせきされてたっていうか」

 悪質なプレイヤーはGMに通報されてアカウント削除だからな、とは言えないので、似たような言葉でお茶を濁しておく。
 実際にそんな世界だったら、とうの昔に滅んでいたはずだ。

「管理なんてできたの?」
「そこはほら、いろんな奴が協力して事に当たってたんだよ。それより、さっきティエラが言ってた新世代って何のことなんだ?」
「ああそのこと? 簡単よ。『栄華の落日』以降に生まれた人を新世代、それより前に生まれてまだ生きている人を旧世代って呼んでるの。『栄華の落日』後、最初に建国された国の誰かが言い始めたらしいんだけど、今じゃすっかり定着してるわ。師匠たちを見てると新世代のほうが明らかに劣ってると思うんだけどね」

 ティエラの言うとおり、能力だけ見れば旧世代のほうが優れていることは間違いないだろう。
 シンやシュニーがいい例である。とはいえ、スキルを除けば旧世代といえど能力の高い者ばかりというわけでもないらしい。

「世代が同じでも能力に差があるのは変わりないから、私はあんまり新旧の違いを意識したことないけどね。でもシンや師匠相手だと、さすがに世代差を感じちゃうのよ」
「世代差ねぇ」

 正直なところ、シンは欠片かけらもピンとこない。

「そういうものもあるくらいの認識でいいわよ」

 定着していると言っても、何か害があるというわけではないようだ。一部の例外を除いて、ということだが。

「とりあえず脱線した話を戻そう。さっきも言ったがここ、月の祠は移動可能店舗だ。なので一緒に行動しようと思う。ティエラもせっかく外に出られるようになったんだし、旅をするのもいいと思ったわけだ。ああ、もちろん残るって選択肢もありだぞ?」

 決して無理やり連れて行こうというわけではないのだ。

「そういうことならついて行くわ。あれから何度か外に出はしたんだけど、王国に入ったりするのはまだちょっと怖かったし。シンたちと一緒なら大丈夫だと思う」
「決まりだな」
「みんないっしょ!」

 ユズハの言葉に全員がうなずく。


 ティエラとシュニーを加えて目指すのは、かつての仲間が待つファルニッド獣連合。
 再会と別れの待つ地へと、シンは行く先を定めた。
 そこで何が待っているのか。誰もまだ知らない。


 胸元に感じるぬくもりと朝の光を感じて、シュニーは目を覚ました。

(ここは……)

 ぼんやりとした頭で昨日の出来事を思い出す。
 シンが帰ってきたこと。
 ヴィルヘルムたちが驚いていたこと。
 月の祠で食卓を囲んだこと。

「私は、確かティエラを寝かせて自分のベッドに……えっ!?」

 そこまでつぶやいて、自分の横に他の誰かがいることに気づく。自分が抱いているのは誰かの腕だということも。

「えっ? シ、シンっ!?」

 大声が出そうになるのを必死に抑え込んで、シュニーは自分が抱いていた腕の主を確認した。
 癖のある黒い髪。閉じられた瞼の下にある瞳が深い黒だということを、シュニーはよく知っている。
 月の祠の主、シンその人だ。

「っ!?」

 あまりの密着具合と肌の感触に、シュニーの顔が赤く染まる。耳まで真っ赤になっているのが自分でも自覚できた。
 昨夜、自分が酔っている自覚はあった。しかし、酔いに任せてシンのベッドに入り込むようなことをしたとは思いたくなかった。

「ふ、不覚です……」

 真っ赤になりながらも、決してシンの腕を放そうとしない自分が恨めしい。
 シンを起こさないようにベッドから出ると、小さく息を吐く。いつシンが目を覚ますかわからないのだ。もし今シンが起きたら、何と言い訳をすればいいのか。
 シンの寝顔を見ていたいという欲求をどうにか抑え、部屋を後にする。
 自分の部屋に戻って着替え、顔を洗って意識をはっきりさせる。冷たい水で冷やされたおかげで、鏡に映った顔には少し前までの赤さはない。

「……まずは、朝食の準備をしましょう」

 時間はまだ5時半を少し過ぎたくらい。いつも7時前には片づけまで済ませているので、このくらいから作り始めるのが日課だ。
 台所に行き、冷蔵庫の中身を見て献立を決めたところでティエラがやってきた。

「あ、師匠。おはようございます」
「おはようございます。昨日は大分酔っていましたが、体調は大丈夫ですか?」
「う……昨晩はご迷惑をおかけしました。とりあえず、二日酔いとかはないです」

 記憶はあるようで、肩を落としながらティエラは謝罪した。酒で失敗したという点では同じかもしれない。

「それなら朝食の準備を手伝ってください。おそらく、4人分必要なはずですから」
「はい……あれ? 4人分ですか?」
「まあ、念のためです」
「はあ、わかりました」

 4人という部分に疑問を感じたようだが、ティエラは素直にエプロンをつけて手伝いを始めた。
 シュニーも愛用のエプロンを身につける。シュニーは薄い青色、ティエラは薄い緑色だ。

「今朝の献立は何にするんですか?」
「和食で行きましょう。お味噌汁の具はありますし、魚はとっておきを出します」
「っ!? 師匠、まさか例のあれを?」

 シュニーの宣言にティエラは驚きを隠せない。それは、金額でいえばジュール白金貨が動くほどの超高級食材なのだ。
 その食材の名は『金剛鰺ダイヤホースマッカラル』。それを開いて天日干てんぴぼしした1品こそが、今回使うとっておきだ。
 つまるところ、本日の月の祠の朝食は、アジの開きと味噌汁という、ザ・和食ともいうべき内容となる。
『金剛鰺』は、見た目はうろこがダイヤモンドのように輝くアジのような魚型モンスターである。しかし見た目によらず、レベル帯450~600とバグかというレベルの強さを誇る。
 1個体でそれなのに奴らは群れまで作る。レベル500を超える鮫型モンスターや、レベルの低いクラーケンを餌代わりに喰らう化け物なのだ。
 時折市場に並ぶのは群れからはぐれ、弱ったところを釣り上げられたごく少数のみ。海で取れる食材の中でも、凄まじい値段がする高級食材として認知されている。
 そんな金剛鰺を、シュニーの料理スキルで加工すればどうなるか。もはや言うまでもないだろう。

「見た目はただのアジの開きなのに、なんだかキラキラしてる……」

 エルフの持つ鋭敏な感覚が、アジの開きに秘められた生命力をとらえていた。

「さて、では先にお味噌汁の用意をしましょう。ティエラはお米を炊いてください」
「あ、はい」

 ダイヤの輝きを放つ魚を一旦皿の上において、シュニーは味噌汁の具を取り出す。具は豆腐、わかめ、油揚げの3種類。鰹節かつおぶし昆布こんぶ出汁だしを取るという本格派だ。

「師匠、お米のほうは準備できました」

 ささっと準備を済ませたティエラが呼び掛けてくる。シュニーがいないときは自炊するのが当たり前なので、ティエラも料理は一通り仕込まれていた。米を炊く準備など大した時間もかからない。魔力コンロに火をつけ、準備は完了だ。
 しばらくすると、米の炊ける匂いと味噌汁の出汁の香りが室内を満たし始める。シュニーにとっては、今ではとてもなじんだ匂いだ。
 時間はすでに6時を過ぎている。もうすぐ朝食の時間だ。
 ふとティエラが口を開く。

「師匠、ちょっと外に行ってきていいですか?」
「もう少しでアジも焼けますから、手短に――頑張りなさい」
「はい……10分くらいで、戻りますから」

 シュニーに一言断って、ティエラは店の出入り口に向かう。ティエラが何をしようとしているのか。それをわかっていて、シュニーはただ励ますことしかしない――できない。
 最後の一線だけは、自分の力だけで乗り越えなければならないからだ。


 ティエラは扉を開けて外に出る。すると、朝の日差しがティエラを優しく包み込んでくれた。

「この時期は、まだ少しだけ肌寒いわね」

 夜の名残なごりか、薄着ではまだ寒いと感じる空気の中、ティエラは月の祠周辺にはられた結界の境界へ向けてゆっくりと歩いていく。

「大丈夫……大丈夫……」

 境界に近づくにつれて、ティエラは胸の鼓動が速くなっていくのを感じていた。初めてはシンが一緒にいた。2回目は1人で出ることができた。
 それでも、100年もの歳月をかけてつちかわれた恐怖は、そうやすやすと消えてはくれない。
 外に出れば、またモンスターに襲われるのではないか。そのせいで、また誰かが犠牲になってしまうのではないか。そんな、ある種の強迫観念がまとわりついている。
 それに気づいていたからこそ、シュニーは励ますだけにとどめたのだろう。
 息を整えながら、一歩一歩確実に進んでいく。すでに何もないことはわかっている。その経験があればこそ、ティエラは先に進むことができていた。
 思い出すのは、シンの差し伸べてくれた手。その手をつかもうとするように、ティエラは境界の外へと踏み出した。

「…………」

 1分ほどその場に留まり、周囲に変化がないことを確認する。
 境界の外に出たからといって、唐突に何かが変わるなんてことはない。しかし、それでも自分を取り巻く空気が変わった気がしていた。

「……ふぅ。やっぱり、まだ緊張するわね」

 あえて声に出すことで、体に入っていた力を抜く。後はもう、この当たり前に慣れるだけだ。

「さて、手早くやりますか」

 月の祠を取り巻く木々の一角に向けて、ティエラは歩き出した。ティエラの腰くらいまである葉の茂った草の前まで行くと、そっと横に回り込む。
 ティエラの視線の先にはコスモスに似た形の花が咲いていた。形状が似ているだけで、花弁の色は赤に青、緑と紫といった具合に様々だ。
 花の名は『レピカ』という。エルフの間では感謝や誠意といった意味を持つ花である。
 まだ結界の外に出られなかった頃、今の時期になるとこの場所に咲くことを、ティエラは知っていた。伊達に100年店番を務めていたわけではない。何気なく眺めていた店の窓から、レピカが咲いているのを見ていたのだ。
 見えていただけで決して触れることはできなかったが、今ならばそんなことはない。食卓に飾る花として何本か摘み、店に戻った。


花瓶かびん、花瓶っと」
「少しは慣れましたか?」

 手頃な大きさの花瓶を探すティエラに、シュニーが声をかける。

「少しずつですけど、なんとか」

 優しい笑みを浮かべるシュニーに、穏やかな顔でティエラは返す。その言葉には、無理をしている様子は感じられない。

「……もうすぐ用意ができます。シンを起こしてきてください」
「わかりました」

 わずかに笑みを深めて、シュニーはティエラを送り出す。
 ティエラの姿が通路の奥に消え、しばらくして、何かが倒れる音が聞こえた。ほどなくして姿を見せたのは、シンとティエラ、そして銀色の髪に狐耳をつけた幼い少女。
 昨晩同じベッドで寝たことを思い出すと顔から火が出るほど恥ずかしいが、シュニーはどうにか平静を保つ。シンが何も言わないでいてくれるのを願うばかりだ。
 少し騒がしいテーブルの隅で、レピカの花がその光景を見つめていた。
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