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第3話 謎の利用者「クマさん」との出会い
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西日が傾き、図書室がオレンジ色に染まる頃。
向かいのソファから、衣擦れの音がした。
「……ん、ぅ……」
泥のように眠っていた侵入者が、ゆっくりと身じろぎをする。
私は読んでいた本(『西方諸国における農業用水路の変遷・下巻』)から視線を外し、彼を見た。
彼は重そうな瞼を持ち上げ、ぼんやりと天井を見上げている。
焦点が合っていない。
「……天国、か?」
「いいえ、王宮の北外れです」
私は淡々と訂正した。
彼はビクリと肩を震わせ、ガバッと上半身を起こす。
「!? き、君は……」
「ここの管理人です。お目覚めですか」
私は手元のポットから、新しいカップにお茶を注いだ。
彼が寝ている間に沸かし直しておいたものだ。
温度はぬるめ。寝起きに熱いものは体に障るから。
「どうぞ。水分補給は重要です」
「あ、ああ……すまない」
彼は警戒する様子もなく、差し出されたカップを受け取った。
震える手でそれを口に運ぶ。
一口、二口。
彼の強張っていた表情が、ほう、と緩んでいく。
「……生き返った……」
「それは良かったです」
「俺は……どれくらい寝ていた?」
「三時間ほどです」
「三時間!?」
彼は青ざめて立ち上がろうとした。
典型的な社畜の反応だ。
『寝てしまった』という罪悪感が、休息の安らぎを上書きしてしまうあの感覚。
痛いほどよく分かる。
「まだ定時(一七時)前ですよ」
私が壁の古時計を指差すと、彼は動きを止めた。
「……そうか。まだ、夜会までは時間があるか……」
彼は深く息を吐き、改めて私を見た。
そして、部屋を見渡す。
「ここは……第二図書室、だったはずだが。いつの間にこんなに綺麗になったんだ?」
「今日からです。私が片付けました」
「君一人で? このゴミ屋敷を?」
「ゴミではありません。歴史ある資料の山です(今はまだ山ですが)」
私が訂正すると、彼はわずかに目を丸くし、それから力なく笑った。
端正な顔立ちなのに、笑うと目の下のクマが強調されて、なんだか切なくなる。
「……ありがとう。久しぶりに、夢も見ずに眠れた」
「お気になさらず。ソファが空いていただけですので」
彼はカップをテーブルに置くと、少し名残惜しそうに立ち上がった。
そして、上着のポケットを探り、何か言いたげに口を開き――結局、何も言わずに頭を下げた。
「邪魔をしたね。……また、来てもいいだろうか」
「静かにしてくださるなら」
「約束する」
彼は逃げるように、けれど足取りは来た時より少しだけ確かに、部屋を出て行った。
私は残されたカップを手に取り、《洗浄》魔法をかけた。
名前も聞かなかった。
身分も知らない。
けれど、彼が背負っている疲労の重さだけは、言葉を交わさずとも理解できた。
あれは、限界を迎えた人間の目だ。
「……お疲れ様です、クマさん」
目の下に立派なクマを作っていた彼に、私は勝手なあだ名をつけた。
◇
翌日。
私が本棚の整理(「ま行」から「わ行」への分類)を終え、休憩に入ろうとした時だった。
ノックもなく、控えめに扉が開いた。
「……」
昨日の彼だ。
クマさんである。
今日も今日とて、顔色が悪い。
昨日より少しマシに見えるのは、三時間寝たからだろうか。
彼は私と目が合うと、無言で小さく会釈をした。
そして、昨日と同じソファへ向かい、音もなく座った。
「……」
「……」
会話はない。
彼は何かを要求するでもなく、ただ脱力して天井を見つめている。
王宮で働く人間なら、ここへ来て何か調べ物でもすればいいのに。
どうやらここは、彼にとって「避難所」として認定されたらしい。
私は気にせず、自分の時間を過ごすことにした。
ポットからお茶を淹れる。
二つ分。
カップを彼の前のローテーブルに置く。
ついでに、今朝ミナさんが持たせてくれた「木の実のクッキー」を小皿に盛って添えた。
「……いいのか?」
彼が掠れた声で聞いてくる。
「糖分がないと、脳が腐りますよ」
「……金言だ」
彼はクッキーを手に取り、齧った。
サク、という音が静寂に響く。
甘さが染み渡ったのか、彼が目を閉じて天を仰いだ。
「……美味い」
「下町のパン屋の残り物ですが」
「いや、王宮のどんな菓子より美味い。……生きる力が湧いてくる」
大袈裟な。
でも、その気持ちも分かる。
疲れている時に必要なのは、繊細な砂糖細工のケーキではなく、ガツンと殴ってくるような小麦と砂糖の塊なのだ。
私は自分の分のクッキーを齧りながら、本を開いた。
彼もまた、懐から数枚の書類を取り出し、読み始めた。
しかし、ペンの動きは遅い。
時折、書類を膝に置き、ぼんやりと窓の外を眺めている。
風が窓を揺らす音。
ページを捲る音。
時折、彼がクッキーを齧る音。
驚くほど、静かだった。
私は貴族社会にいた頃、「沈黙は気まずいもの」だと教わった。
常に話題を提供し、場を盛り上げ、相手を楽しませなければならない、と。
カイル様との茶会など、その最たるものだった。
『おい、何か面白い話をしろ』
『……では、最近の領地の収穫量についてですが』
『つまらん! もっと華やかな話はないのか!』
思い出すだけで胃が痛くなる。
でも、この空間には「義務」がない。
彼は私に何も求めない。
私も彼に何も求めない。
ただ、同じ空間で、それぞれの疲れを癒やしているだけ。
名前も知らない他人同士だからこその、気安さ。
(……悪くないわね)
私は冷めたお茶を一口飲んだ。
ふと視線を感じて顔を上げると、彼が私を見ていた。
目が合うと、彼はふっと微かに微笑んだ。
社交辞令の張り付いた笑みではなく、力の抜けた、自然な表情。
「……ここは、静かだね」
「王宮の墓場ですから」
「墓場、か。……確かに、死人のように眠るには最適だ」
自虐的なジョークに、私は少しだけ口角を上げた。
「死なれては困ります。死体処理は私の業務外ですので」
「はは。……善処するよ」
彼は最後の一枚のクッキーを口に放り込み、書類を片付けた。
どうやら、少しだけ元気が回復したらしい。
「ありがとう。また、明日も」
「定時までなら」
「ああ。……邪魔をした」
彼は立ち上がり、扉へと向かう。
その背中は、来た時よりもほんの少し、伸びているように見えた。
扉が閉まる。
再び訪れる静寂。
私は空になったクッキーの皿を見つめた。
明日は、もう少し多めに持ってこようか。
あの様子だと、彼は明日もきっと来るだろうから。
こうして、私の「誰にも邪魔されない新生活」に、一人の「静かな同居人」が加わったのだった。
そして、私はまだ気づいていない。
彼が時折広げていた書類が、国の存亡に関わる最高機密文書であることにも。
彼が落としていったメモに、私が無意識に赤ペンで修正を入れてしまったことにも。
向かいのソファから、衣擦れの音がした。
「……ん、ぅ……」
泥のように眠っていた侵入者が、ゆっくりと身じろぎをする。
私は読んでいた本(『西方諸国における農業用水路の変遷・下巻』)から視線を外し、彼を見た。
彼は重そうな瞼を持ち上げ、ぼんやりと天井を見上げている。
焦点が合っていない。
「……天国、か?」
「いいえ、王宮の北外れです」
私は淡々と訂正した。
彼はビクリと肩を震わせ、ガバッと上半身を起こす。
「!? き、君は……」
「ここの管理人です。お目覚めですか」
私は手元のポットから、新しいカップにお茶を注いだ。
彼が寝ている間に沸かし直しておいたものだ。
温度はぬるめ。寝起きに熱いものは体に障るから。
「どうぞ。水分補給は重要です」
「あ、ああ……すまない」
彼は警戒する様子もなく、差し出されたカップを受け取った。
震える手でそれを口に運ぶ。
一口、二口。
彼の強張っていた表情が、ほう、と緩んでいく。
「……生き返った……」
「それは良かったです」
「俺は……どれくらい寝ていた?」
「三時間ほどです」
「三時間!?」
彼は青ざめて立ち上がろうとした。
典型的な社畜の反応だ。
『寝てしまった』という罪悪感が、休息の安らぎを上書きしてしまうあの感覚。
痛いほどよく分かる。
「まだ定時(一七時)前ですよ」
私が壁の古時計を指差すと、彼は動きを止めた。
「……そうか。まだ、夜会までは時間があるか……」
彼は深く息を吐き、改めて私を見た。
そして、部屋を見渡す。
「ここは……第二図書室、だったはずだが。いつの間にこんなに綺麗になったんだ?」
「今日からです。私が片付けました」
「君一人で? このゴミ屋敷を?」
「ゴミではありません。歴史ある資料の山です(今はまだ山ですが)」
私が訂正すると、彼はわずかに目を丸くし、それから力なく笑った。
端正な顔立ちなのに、笑うと目の下のクマが強調されて、なんだか切なくなる。
「……ありがとう。久しぶりに、夢も見ずに眠れた」
「お気になさらず。ソファが空いていただけですので」
彼はカップをテーブルに置くと、少し名残惜しそうに立ち上がった。
そして、上着のポケットを探り、何か言いたげに口を開き――結局、何も言わずに頭を下げた。
「邪魔をしたね。……また、来てもいいだろうか」
「静かにしてくださるなら」
「約束する」
彼は逃げるように、けれど足取りは来た時より少しだけ確かに、部屋を出て行った。
私は残されたカップを手に取り、《洗浄》魔法をかけた。
名前も聞かなかった。
身分も知らない。
けれど、彼が背負っている疲労の重さだけは、言葉を交わさずとも理解できた。
あれは、限界を迎えた人間の目だ。
「……お疲れ様です、クマさん」
目の下に立派なクマを作っていた彼に、私は勝手なあだ名をつけた。
◇
翌日。
私が本棚の整理(「ま行」から「わ行」への分類)を終え、休憩に入ろうとした時だった。
ノックもなく、控えめに扉が開いた。
「……」
昨日の彼だ。
クマさんである。
今日も今日とて、顔色が悪い。
昨日より少しマシに見えるのは、三時間寝たからだろうか。
彼は私と目が合うと、無言で小さく会釈をした。
そして、昨日と同じソファへ向かい、音もなく座った。
「……」
「……」
会話はない。
彼は何かを要求するでもなく、ただ脱力して天井を見つめている。
王宮で働く人間なら、ここへ来て何か調べ物でもすればいいのに。
どうやらここは、彼にとって「避難所」として認定されたらしい。
私は気にせず、自分の時間を過ごすことにした。
ポットからお茶を淹れる。
二つ分。
カップを彼の前のローテーブルに置く。
ついでに、今朝ミナさんが持たせてくれた「木の実のクッキー」を小皿に盛って添えた。
「……いいのか?」
彼が掠れた声で聞いてくる。
「糖分がないと、脳が腐りますよ」
「……金言だ」
彼はクッキーを手に取り、齧った。
サク、という音が静寂に響く。
甘さが染み渡ったのか、彼が目を閉じて天を仰いだ。
「……美味い」
「下町のパン屋の残り物ですが」
「いや、王宮のどんな菓子より美味い。……生きる力が湧いてくる」
大袈裟な。
でも、その気持ちも分かる。
疲れている時に必要なのは、繊細な砂糖細工のケーキではなく、ガツンと殴ってくるような小麦と砂糖の塊なのだ。
私は自分の分のクッキーを齧りながら、本を開いた。
彼もまた、懐から数枚の書類を取り出し、読み始めた。
しかし、ペンの動きは遅い。
時折、書類を膝に置き、ぼんやりと窓の外を眺めている。
風が窓を揺らす音。
ページを捲る音。
時折、彼がクッキーを齧る音。
驚くほど、静かだった。
私は貴族社会にいた頃、「沈黙は気まずいもの」だと教わった。
常に話題を提供し、場を盛り上げ、相手を楽しませなければならない、と。
カイル様との茶会など、その最たるものだった。
『おい、何か面白い話をしろ』
『……では、最近の領地の収穫量についてですが』
『つまらん! もっと華やかな話はないのか!』
思い出すだけで胃が痛くなる。
でも、この空間には「義務」がない。
彼は私に何も求めない。
私も彼に何も求めない。
ただ、同じ空間で、それぞれの疲れを癒やしているだけ。
名前も知らない他人同士だからこその、気安さ。
(……悪くないわね)
私は冷めたお茶を一口飲んだ。
ふと視線を感じて顔を上げると、彼が私を見ていた。
目が合うと、彼はふっと微かに微笑んだ。
社交辞令の張り付いた笑みではなく、力の抜けた、自然な表情。
「……ここは、静かだね」
「王宮の墓場ですから」
「墓場、か。……確かに、死人のように眠るには最適だ」
自虐的なジョークに、私は少しだけ口角を上げた。
「死なれては困ります。死体処理は私の業務外ですので」
「はは。……善処するよ」
彼は最後の一枚のクッキーを口に放り込み、書類を片付けた。
どうやら、少しだけ元気が回復したらしい。
「ありがとう。また、明日も」
「定時までなら」
「ああ。……邪魔をした」
彼は立ち上がり、扉へと向かう。
その背中は、来た時よりもほんの少し、伸びているように見えた。
扉が閉まる。
再び訪れる静寂。
私は空になったクッキーの皿を見つめた。
明日は、もう少し多めに持ってこようか。
あの様子だと、彼は明日もきっと来るだろうから。
こうして、私の「誰にも邪魔されない新生活」に、一人の「静かな同居人」が加わったのだった。
そして、私はまだ気づいていない。
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