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第6章
知恵は、人から人へ
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数日が過ぎ、第1診療所での仕事にも、少しずつ慣れてきた。
看護師同士で言葉を交わす機会も、自然と増えている。
処置の合間や片づけの最中に、
ふとした疑問や気づきを話すようになった。
「向こうでは、どうしていました?」
そんなふうに聞かれることもあれば、
こちらのやり方を教えてもらうこともある。
体位の変え方。
声のかけ方。
忙しいときに、どこを優先するか。
どちらが正しい、ではない。
状況に合わせて、
お互いの世界の良いところを取り入れていけたらいい。
そんな空気が、少しずつできてきていた。
患者の状態を確認すること。
それ自体は、もう自然にできている。
けれど、どうしても引っかかるところがあった。
薬草のことだ。
使われている薬草の名前も、効き目も、量も。
知識として、ほとんど分からない。
病状に応じて、
「この患者には、この薬草が使われている」
ということは分かる。
けれど、それ以上がない。
なぜそれなのか。
どこまで使っていいのか。
代わりはあるのか。
文字が読めない以上、
本に頼ることもできなかった。
文字については、少しずつではあるが、学び始めている。
巫女の部屋の前には、交代で護衛の騎士が立つ。
その待機の時間に、
簡単な文字を教えてもらうようになった。
「これは……こう読むんですね」
「ええ。医療関係では、よく使います」
長い時間ではない。
護衛の任務の合間に、ほんの少しだけ。
手が空いているときには、
クロトさんが声をかけてくることもあった。
勤務体制を考えると、
本来は休みの日なのでは、と思うこともある。
けれど、クロトさんは何も言わない。
ただ、そこに立って、
いつもの調子で文字を教えてくれる。
気づいてしまった以上、
本当は、休みの日まで面倒を見てくれなくても大丈夫だと、
言うべきなのだと思う。
それでも――
ほんの少しでも、傍にいてほしくて、
その言葉を口にできずにいた。
「今日は、ここまでにしておきましょう。
詰め込みすぎると、混乱しますから」
そう言って、私の手元を覗き込み、
同じ文字を、何度もゆっくり書いてみせる。
教え方は、騎士ごとに少しずつ違う。
それでも、どれも押しつけがましくはなかった。
名前や簡単な言葉が、
少しずつ、形として頭に残るようになってきている。
それでも、薬の知識には追いつかない。
分からないまま、患者のそばに立つのは、怖い。
その日の勤務が終わってから、
護衛の騎士に一声かけて待ってもらい、
私は第1診療所の奥にある薬草室を訪ねた。
扉を開けると、
乾いた葉と土の混じった匂いが広がる。
棚には瓶や包みが並び、
作業台の上には刻みかけの薬草が置かれていた。
「どうしました?」
薬師のイルゼ・ノルマンが、
柔らかい声でそう言った。
作業の手を止め、穏やかにこちらを見る。
「あの……少し、お時間をいただいてもいいでしょうか」
「ええ。大丈夫ですよ」
私は、一度、息を整えてから口を開いた。
「私、こちらの薬草のことを、ほとんど知りません。
本も、まだ読めなくて……」
イルゼは、驚いた様子も見せず、静かに頷いた。
「それで、直接聞きに来てくれたんですね」
「はい。
でも、勤務中に聞くのは違うと思っていて……」
人手が足りないことは、分かっている。
誰かの手を止めてまで、
教えてもらうことはできなかった。
「お願いがあります」
私は、きちんと頭を下げた。
「もし可能でしたら、
時間外に、薬の勉強をさせていただけないでしょうか」
一瞬の沈黙。
「場所は、私の部屋を使っていただいて構いません。
寝室とは分かれていますし、
打ち合わせにも使われている場所です」
「もちろん、謝礼もお支払いします」
それから、正直に続けた。
「あまり無理をすると、怒られてしまうので……。
決められた範囲で、きちんと休むようにと言われています」
自分で言って、少しだけ苦笑した。
「曜日も時間も私の都合で申し訳ないのですが、
水曜日でしたら勤務がお休みです。
十七時以降であれば、時間が取れます」
イルゼは、しばらく考えるように目を伏せてから、微笑んだ。
「……よく考えていますね」
そのとき、薬草室の入口に、
内科医師のクラウス・ベルトラム先生が姿を見せた。
「話は、だいたい聞いたよ」
帰り際だったらしい。
「でも、給金は受け取れないな」
イルゼも、穏やかに頷く。
「職場の中での知識の共有は、
本来、対価を取るものではありませんから」
私は、思わず言葉に詰まった。
「その代わり」
クラウス先生が、続ける。
「君の知っていることを、
こちらにも共有してほしい」
「私の……知識ですか」
「ええ。
患者の見方、予防の考え方、
現場での工夫。
こちらには、まだない視点も多い」
イルゼが、静かに言った。
「お互いに学ぶ場にしましょう。
一方通行ではなくて」
胸の奥で、何かがすっと落ち着いた。
「……それで、お願いします」
「では、水曜日の十七時から」
「無理のない範囲で、続けましょう」
話は、それだけで決まった。
同じ場所で働く者同士が、
知っていることを持ち寄るだけ。
部屋に戻り、寝室の扉を閉めると、
ようやく完全な静けさが訪れた。
読めない文字は、まだ多い。
分からないことも、山ほどある。
けれど、
教えてくれる人は、少しずつ増えている。
胸の奥に、
静かな充実感が広がっていた。
この世界での生活が、
確かに、自分の中に根を下ろし始めている。
________________________________________
幕間 胸に留めたまま(クロト独白)
結界の修復が終われば、
彼女は巫女の役目を降りる。
それは最初から分かっている。
だから、その先を語る必要はない。
少なくとも、自分が口にすることではない。
診療所の中で、彼女の姿を見かける。
仕事を覚え、人の流れに入り、
役割を担い始めている。
問題はなさそうだ。
最初の1週間の辛そうな表情を見ることはもうないだろう。
その判断に、
胸の奥がわずかに緩む。
それでいい。
それ以上を望む理由はない。
彼女が目を逸らすことがある。
言葉に詰まり、
一瞬、動揺したように見えることもある。
だが、それを特別だとは思わない。
そういう反応には、
これまで何度も向けられてきた。
――自分の容姿だ。
それが人の関心を引くことは、
否定しようのない事実として理解している。
だからこそ、
それを感情として扱わない。
見た目に向けられる興味が、
相手の本心を示すとは限らない。
それも、もう十分に知っている。
彼女の態度も、
その延長にあるものだろう。
――本当は。
役目を終えたあとも、
ここに残ってくれるのなら。
そんな考えが、
一瞬だけ頭をよぎる。
だが、それは身勝手な思いだ。
考えるべきではないことだと、
そう決めて、胸の奥深くにしまい込む。
自分がすべきことは決まっている。
役目の終わりまで、
無事であるように支える。
看護師同士で言葉を交わす機会も、自然と増えている。
処置の合間や片づけの最中に、
ふとした疑問や気づきを話すようになった。
「向こうでは、どうしていました?」
そんなふうに聞かれることもあれば、
こちらのやり方を教えてもらうこともある。
体位の変え方。
声のかけ方。
忙しいときに、どこを優先するか。
どちらが正しい、ではない。
状況に合わせて、
お互いの世界の良いところを取り入れていけたらいい。
そんな空気が、少しずつできてきていた。
患者の状態を確認すること。
それ自体は、もう自然にできている。
けれど、どうしても引っかかるところがあった。
薬草のことだ。
使われている薬草の名前も、効き目も、量も。
知識として、ほとんど分からない。
病状に応じて、
「この患者には、この薬草が使われている」
ということは分かる。
けれど、それ以上がない。
なぜそれなのか。
どこまで使っていいのか。
代わりはあるのか。
文字が読めない以上、
本に頼ることもできなかった。
文字については、少しずつではあるが、学び始めている。
巫女の部屋の前には、交代で護衛の騎士が立つ。
その待機の時間に、
簡単な文字を教えてもらうようになった。
「これは……こう読むんですね」
「ええ。医療関係では、よく使います」
長い時間ではない。
護衛の任務の合間に、ほんの少しだけ。
手が空いているときには、
クロトさんが声をかけてくることもあった。
勤務体制を考えると、
本来は休みの日なのでは、と思うこともある。
けれど、クロトさんは何も言わない。
ただ、そこに立って、
いつもの調子で文字を教えてくれる。
気づいてしまった以上、
本当は、休みの日まで面倒を見てくれなくても大丈夫だと、
言うべきなのだと思う。
それでも――
ほんの少しでも、傍にいてほしくて、
その言葉を口にできずにいた。
「今日は、ここまでにしておきましょう。
詰め込みすぎると、混乱しますから」
そう言って、私の手元を覗き込み、
同じ文字を、何度もゆっくり書いてみせる。
教え方は、騎士ごとに少しずつ違う。
それでも、どれも押しつけがましくはなかった。
名前や簡単な言葉が、
少しずつ、形として頭に残るようになってきている。
それでも、薬の知識には追いつかない。
分からないまま、患者のそばに立つのは、怖い。
その日の勤務が終わってから、
護衛の騎士に一声かけて待ってもらい、
私は第1診療所の奥にある薬草室を訪ねた。
扉を開けると、
乾いた葉と土の混じった匂いが広がる。
棚には瓶や包みが並び、
作業台の上には刻みかけの薬草が置かれていた。
「どうしました?」
薬師のイルゼ・ノルマンが、
柔らかい声でそう言った。
作業の手を止め、穏やかにこちらを見る。
「あの……少し、お時間をいただいてもいいでしょうか」
「ええ。大丈夫ですよ」
私は、一度、息を整えてから口を開いた。
「私、こちらの薬草のことを、ほとんど知りません。
本も、まだ読めなくて……」
イルゼは、驚いた様子も見せず、静かに頷いた。
「それで、直接聞きに来てくれたんですね」
「はい。
でも、勤務中に聞くのは違うと思っていて……」
人手が足りないことは、分かっている。
誰かの手を止めてまで、
教えてもらうことはできなかった。
「お願いがあります」
私は、きちんと頭を下げた。
「もし可能でしたら、
時間外に、薬の勉強をさせていただけないでしょうか」
一瞬の沈黙。
「場所は、私の部屋を使っていただいて構いません。
寝室とは分かれていますし、
打ち合わせにも使われている場所です」
「もちろん、謝礼もお支払いします」
それから、正直に続けた。
「あまり無理をすると、怒られてしまうので……。
決められた範囲で、きちんと休むようにと言われています」
自分で言って、少しだけ苦笑した。
「曜日も時間も私の都合で申し訳ないのですが、
水曜日でしたら勤務がお休みです。
十七時以降であれば、時間が取れます」
イルゼは、しばらく考えるように目を伏せてから、微笑んだ。
「……よく考えていますね」
そのとき、薬草室の入口に、
内科医師のクラウス・ベルトラム先生が姿を見せた。
「話は、だいたい聞いたよ」
帰り際だったらしい。
「でも、給金は受け取れないな」
イルゼも、穏やかに頷く。
「職場の中での知識の共有は、
本来、対価を取るものではありませんから」
私は、思わず言葉に詰まった。
「その代わり」
クラウス先生が、続ける。
「君の知っていることを、
こちらにも共有してほしい」
「私の……知識ですか」
「ええ。
患者の見方、予防の考え方、
現場での工夫。
こちらには、まだない視点も多い」
イルゼが、静かに言った。
「お互いに学ぶ場にしましょう。
一方通行ではなくて」
胸の奥で、何かがすっと落ち着いた。
「……それで、お願いします」
「では、水曜日の十七時から」
「無理のない範囲で、続けましょう」
話は、それだけで決まった。
同じ場所で働く者同士が、
知っていることを持ち寄るだけ。
部屋に戻り、寝室の扉を閉めると、
ようやく完全な静けさが訪れた。
読めない文字は、まだ多い。
分からないことも、山ほどある。
けれど、
教えてくれる人は、少しずつ増えている。
胸の奥に、
静かな充実感が広がっていた。
この世界での生活が、
確かに、自分の中に根を下ろし始めている。
________________________________________
幕間 胸に留めたまま(クロト独白)
結界の修復が終われば、
彼女は巫女の役目を降りる。
それは最初から分かっている。
だから、その先を語る必要はない。
少なくとも、自分が口にすることではない。
診療所の中で、彼女の姿を見かける。
仕事を覚え、人の流れに入り、
役割を担い始めている。
問題はなさそうだ。
最初の1週間の辛そうな表情を見ることはもうないだろう。
その判断に、
胸の奥がわずかに緩む。
それでいい。
それ以上を望む理由はない。
彼女が目を逸らすことがある。
言葉に詰まり、
一瞬、動揺したように見えることもある。
だが、それを特別だとは思わない。
そういう反応には、
これまで何度も向けられてきた。
――自分の容姿だ。
それが人の関心を引くことは、
否定しようのない事実として理解している。
だからこそ、
それを感情として扱わない。
見た目に向けられる興味が、
相手の本心を示すとは限らない。
それも、もう十分に知っている。
彼女の態度も、
その延長にあるものだろう。
――本当は。
役目を終えたあとも、
ここに残ってくれるのなら。
そんな考えが、
一瞬だけ頭をよぎる。
だが、それは身勝手な思いだ。
考えるべきではないことだと、
そう決めて、胸の奥深くにしまい込む。
自分がすべきことは決まっている。
役目の終わりまで、
無事であるように支える。
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