処女が重い! 一夜からはじまる上司とのアブナイ関係

戸瀬つぐみ

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1巻

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「処女が重いんです!」

 素面しらふなら、絶対に言わないセリフを、私――結城操ゆうきみさおは酒の勢いに任せて上司に吐き出した。
 それは金曜日の都内のバーで、時刻は日付が変わる一時間前。終電で帰るとしたら、そろそろ店を出ないといけない時間だった。

「どうにかして脱処女するため、結婚相談所にも登録しました。合コンにも行きました。……連絡先を交換して、デートに誘ってくれた人もいます。でも、いざとなると躊躇ちゅうちょしてしまうんです。過去の失敗がどうしても頭をよぎって……また相手をがっかりさせてしまうんじゃないかって不安になるんです」

 そう言って、私は残っていたカクテルを一気に飲み干した。

「元彼に別れ際、言われました。お前じゃ勃たないんだって。……私の女としてのプライドをズタボロにしたあの男は、E●になってしまえばいいと思います……呪ってやる! もしくはハゲろぉぉぉお」

 普段、居酒屋チェーンの薄いお酒しか飲んでいなかったのがよくなかったか、口当たりのいいカクテルが、私の精神も酔わせていた。
 泣きながら下品な言葉を連発しても、一緒にいる上司は顔色ひとつ変えることはなかった。
 私が一通り愚痴ぐちをぶちまけて大人しくなったところで、上司が左腕の高級腕時計をちらりと確認し、すっと立ち上がる。
 ――ああ、もう帰らなくてはならない時間なのか。
 ただ時刻を確認するだけの、その仕草さえ洗練されている素敵な上司。本来ならこんな個人的なことを打ち明けられるほど、親しい関係ではない。
 今夜、この時間はプライベートだと言ってくれたけれど、それは、私が退職を申し出た結果、悩みを聞いてもらえることになり、話しやすいよう気遣ってくれたからだ。彼が私に対して、男女の感情を持って誘ってくれたわけではないとわかっている。
 それでも、他の女性社員との噂を一切聞かない鉄壁の上司と、こうして二人で飲みに行けたのはとても幸福な時間だった。
 どうせなら、少しでも楽しい会話をすればよかったのに……今更後悔しても遅い。
 私は、ふらつきをなんとか抑え立ち上がる。
 自分のバッグを持とうと手を伸ばすが、一歩早く上司がそれを回収する。

「問題を解決しようか?」
「……えっ?」

 思ったより近い距離でささやかれ、心臓が飛び跳ねた。

「その重いバージン、僕がもらうよ」


   §


 もし私が、自分のことを包み隠さず自己紹介するとしたら――
 結城操。二十七歳、独身。現在、恋人はいない。……そして処女。
 大学の服飾科を卒業後、アパレルメーカーに就職。婦人服ブランドのパタンナーとして働いている。
 職場では上司や同僚にも恵まれて、毎日楽しく仕事をしている。
 私生活では、半年前に長く付き合っていた彼氏と別れてしまったけれど、フラれたこと自体は引きずっていない。
 でも私は、別れてから半年たっても、新しい恋をはじめられずにいた。
 元カレに最後に言われたあの一言が原因で、女としての自信をすっかり失ってしまったからだ。
 父が名付けたと聞く「操」という名前の呪縛じゅばくか、パートナーがいたにもかかわらず、私には性交渉の経験がない。
 キスやそれ以上のことはしたことがある。でも、「一線」がどうしても越えられなかった。
 私自身は、結婚まで絶対行為をしないという貞操観念は持っていない。人並みに興味はあるし、好きな人とならしたいと思っていた。
 だけどどういうわけか、元カレとはうまく身体を重なることができなかった。
 同郷で幼馴染おさななじみだった元カレと付き合うことになったのは、大学卒業のタイミングだ。
 それまでは、ちょっと意識し合う仲だけど、一歩踏み出せずにだらだらと……という状態だった。
 卒業したら連絡をしないと会うこともなくなる、そういうタイミングで彼のほうから『付き合おう』と言ってくれた。正式に彼氏彼女になれた時は幸福の絶頂だった。
 付き合いはじめたらすぐにキスはしたし、裸になってそういう行為にチャレンジしたことは何度もある。
 けれどお互いがはじめてで、最初にうまくできなかったことが、あとを引いてしまった。
 その後、何度挑戦してもできなかった。一度目と二度目は私がひどく痛がったせいで、その後の理由は元カレの名誉のために、一応伏せておくことにする。
 徐々に挑戦するのが苦痛になってきて、いつしか甘い雰囲気が消え去ってしまった。
 それでもずるずると過ごしてしまったのは、友人や同郷といった共通項がしがらみになっていたからなのかもしれない。
 実際に別れてみると、それはなんのかせでもなかったと知ることができるのだけれど。
 そんな、惰性だせいで続いていた関係だったとはいえ、何年も一緒に過ごしていたのに、私は彼の不満に気付いていなかった。彼が私の知らない間に「脱・童貞」していたと知った時は、本当に驚いた。
 ある日、彼のアパートの前に、お胸の大きな女の子がたたずんでいた。『彼が好き』と泣きながら訴えられた時は、いっそ申し訳ない気持ちになった。
 ここでいさぎよく身を引ける、いい女になりきれれば、どれほどよかっただろうか。しかし彼と二人で別れ話をした時は、やっぱり怒りが込み上げてきて、たくさん文句を言ってしまった。

『なんで浮気したの?』

 私が喧嘩腰けんかごしで問いかけると、彼はこう返してきた。

『お前じゃ勃たないんだよ』

 それが私をおとしめるためのデタラメならよかったのに、真実だから余計辛い。
 それでも彼と別れたあとは、ここから新しい自分になったつもりで、人生を楽しもうと思っていた。恋愛がすべてじゃない。仕事に打ち込んだり、趣味を充実させて自分磨きをしようと決意したりした。
 意気込みだけはよかったのに、人生はままならない。
 数か月前に、実家の両親からある問題を突き付けられ、今後の自分の人生について悩み出してしまった。
 そして迎えた二十七歳の誕生日。私はとても前を向いているとは言えない気持ちで会社に出勤した。
 前日の夜、時間をかけて書いた退職届を持って。


「会社を辞めたいって? 結城くん、どうした唐突に?」
「勝手を言って申し訳ありません」

 退職届を出したのは出勤直後。
 昼過ぎに部長からの呼び出しを受け、私はミーティングルームで上司と面談をすることになった。
 今、対面に座っているのは、私が所属する婦人部のトップ、瀬尾せお部長。ファーストネームは諒介りょうすけさん。純日本人にしては鼻が高く、彫も深く、秀麗な顔立ちをしている。
 創業者であり現会長の外孫にあたる瀬尾部長は、三十二歳の若さで婦人部のトップを任されている。
 デザイナーとして看板を背負ってきた会長はご高齢で、まもなく引退するという噂がある。その後継者と言われているのは、会長の内孫で、紳士部のチーフデザイナーを務める人物だ。
 瀬尾部長は、次の世代に引き継がれていく会社を経営面で支えるために、今後さらに上のポストに就くはずだ。
 もちろん、創業者一族だからといって、地位に胡坐あぐらをかいているわけではない。低迷していた婦人部の売り上げを回復させた実績を持つ、尊敬すべき上司だった。
 そんな瀬尾部長は、私にとって雲の上の人で、遠くから眺めているのがちょうどいい。近すぎると緊張してしまう存在だった。
 その瀬尾部長が、今、物憂ものうげな表情を浮かべている。それだけで、とにかく謝りたい気分になった。

「君はこの前、社内コンペに作品を出していたし、新しいブランドの立ち上げメンバーにも手を上げていたはずだ。それなのに急に会社を辞めたいなんて、おかしいじゃないか」

 部長に指摘された通りだ。
 最近の私は、今まで以上に仕事に打ち込んできた。新ブランドのデザインコンペにも、並々ならぬ意気込みで参加した。
 パタンナーの仕事も好きだけど、自分のデザインした服が店頭に並ぶことは、学生の頃からの夢だったから。
 うちの会社は定期的に社内でデザインコンペを開催している。入賞すれば商品化のチャンスもあるし、コンペで何度も入賞して、今はデザイナーとして活躍している人もいる。
 いつかは自分もそうなりたいと思っていた。でも、夢をずっと見続けるのは案外難しい。

「そ、その……なんというか、家庭の事情で」
「ああ、そういえば、長く付き合っている人がいると聞いたな」

 部長が遠慮がちにつぶやいた言葉に、私はあわてた。
 普段は絶対にプライベートを尋ねてはこない部長の記憶の片隅に、そんなどうでもいい情報があったことにまず驚き、そしてそれが古い情報であることに戸惑う。
 社外の彼と別れました、なんて無駄な報告をする機会も必要性もないのだから、仕方ないけれど。
 部長は自分の顔の前で指を組んで、私の反応をうかがっている。浮かべられた笑みは私の警戒心を解くためなのか。
 これではまるで「結婚するから退職します!」と私が言い出すのを待っているみたいだ。

「誤解しないでくださいね! 結婚の話はありません。それどころか、ふりだしに戻ってしまい……」

 その時突然、ミーティングルームにガタッという音が響いた。

「……別れたのか?」

 瀬尾部長が椅子から腰を上げ、なぜか驚いた顔をする。
 響いた音は部長が座っていた椅子が立てたものらしい。

「はい」

 私が肯定すると、部長は何事もなかったかのように座り直して、今度は独り言を吐き出した。

「そうか、別れたのか」
「はい」

 なぜ、二度繰り返したのか。部長にとって重要なことではないはずなのに。

「あの……その件は退職とまったく無関係とは言えないんですが、直接的な原因ではありません。簡単に説明すると、最近いろいろありまして、実家に戻ることになってしまいそうなんです」
「うん? 話の背景が見えてこない。それに、なんだか退職に対して消極的に聞こえるが、迷う理由があるのか?」
「仕事とは関係ないことなので」
「なるほど、プライベートなことは話したくないと」
「ただの愚痴ぐちになってしまうので」
愚痴ぐちくらい、いくらでも聞くさ。それに、優秀な部下が会社を去ろうとしているのに、放置するなんてできない。せめて納得できる理由を聞かせて欲しい」
「でも……すごく個人的なことで、部長に聞いていただくのは申し訳なくて」

 私がそう言うと、部長はしばらくの間考え込んでから、ひとつの提案をしてきた。

「だったら、僕が上司だということは忘れてもらって、あくまでプライベートで話をしよう。今夜、場所を変えて」

 そうして終業後、瀬尾部長が連れて行ってくれたのが、一軒のお洒落しゃれなバーだった。


 案内されたのはカウンターではなく、店内にひとつしかないボックス席。
 バーテンダーさんとの距離もあり、大きな声を出さなければ、お店に流れるジャズにまぎれて会話の内容は届かない。デキる上司はお店選びも完璧だ。
 最初はビールベースのカクテルを注文して、あたりさわりなく仕事の話をした。
 二杯目は、部長が私の好みに合わせて柑橘かんきつ系のカクテルを注文してくれ、趣味だという釣りの話をしてくれた。
 緊張がほぐれてきたところで、三杯目の甘いショートカクテルが目の前に置かれる。そろそろ退職の理由をちゃんと説明しなければと、私は思い切って切り出した。

「仕事を辞めようと思ったのは、しばらく前に交際していた彼と別れたことが、きっかけといえばきっかけで……」

 瀬尾部長が不思議そうに見つめた。

「君は失恋をしたら、それをかてに頑張ってくれるタイプだと思っていたよ」
「その通りです。もう恋愛はいいから、仕事に生きてやる! って、この半年頑張りました」

 口当たりのよさとは裏腹に、度数の高そうな赤い液体を、私はごくりと飲み込んだ。

「元カレは同郷の幼馴染おさななじみだったんです。だから、別れたことを黙っていたのに、数か月前、実家の両親にばれてしまい……。私は一人娘のため、結婚しないなら実家に戻って、家業を手伝いながら地元の男性とお見合いしろと言われました。それがいやで、ずっと誤魔化していたら……先日とうとう、母に泣かれました」
「早く結婚させたいだけなら、なにも会社を辞める必要はないんじゃないか?」
「その通りです。実際には、両親は私を連れ戻して、父のお気に入りのお弟子でしさんと結婚させるつもりなんです。でもその人と私、これっぽっちも気が合わなくて」

 その人は、家具職人である父の工房で働いている。
 まだ私が実家にいた高校生の頃から顔を合わせる機会があったが、よい印象がない。いつもにらんでくるし、きつい態度が少し怖かった。
 彼も私のことをよく思っていないようだったので、お見合いの話も、相手から断ってくるだろうと甘く見ていた。
 しかし、なぜか先方も承諾していると母は言う。

「お弟子でしさんは私と結婚すれば、父の跡継ぎになることが確約されるので、断らないつもりみたいなんです。だから、私は母を説得できる理由を探さなくてはいけなくて、つい、もう別の彼がいるからと嘘を……」

 一度嘘を吐くと、それを守るためにどんどん嘘の上塗りをしてしまう。
 最初は新しい恋人ができたと伝え、お見合いの話を断っていた。
 代わりに、相手がいるならちゃんと紹介するようにと言われたが、私はそれを曖昧あいまいにかわし続けた。
 まだ付き合いはじめたばかりだから、相手の負担になるようなことはしたくないと私が言えば、それは誠実な対応ではないと母は返してくる。
 仕事の忙しさを理由にすれば、たった一日の都合がつけられない理由を問いただされてしまう。
 結局母は納得せず、今私は新しい彼を紹介するか、お見合いをするかの選択を迫られている。

「嘘を本当にしようと、こっそり婚活してみたのですが、まったく、全然、どうにもなりません……」
「まったくってことはないだろう。君は若くて綺麗きれいなんだから。もしかして、前の恋人が忘れられないとか?」
「まさか、そんな、違います!」
「ものすごく理想が高い?」
「身のほどは、わきまえているつもりです。……そうじゃなくて、ちゃんと原因があって……」

 ――思えば、この辺りから相当酔いが回っていたのだろう。そして瀬尾部長はかなりの聞き上手だった。
 だから、思わず言ってしまった。婚活がうまくいかない最大の原因を。

「処女が重いんです!」

 ため込んでいたものを口にしてしまえば、それだけでなんとなく心が軽くなる。
 一番ずかしい部分を告白したことで、怖いものがなくなり、元カレに言われた言葉がきっかけで、自分に自信が持てないこと、合コンで知り合った相手とのデートで逃げ帰ったことも赤裸々せきららに打ち明けた。

「女としての魅力に欠けている私が、新しい恋人を作るなんて無理なんです」

 もういっそ、親の望むように田舎へ帰るべきかと、気持ちがあきらめの方向に傾いたのが数日前。
 そうして、誕生日の今日を節目にしようと、退職届を出すことに決めた。
 ぐだぐだと、要領を得ない話になっていたかもしれない。途中で下品なことを吐き出していたかもしれない。
 私が「……そんなわけなんです」と、話を締めくくったところで、返ってきたのは長い沈黙だった。

「つまらない話をして申し訳ありませんでした」
「いや……」

 その時の部長は、珍しく困った顔をしていた。
 私は、情けない話をしてしまったことを後悔する。
 部長は自分の腕時計を見て、時間を確認すると無言で立ち上がった。
 もう帰らなければいけない時間だったのかと、私もゆっくり腰を上げる。

「経験があれば、君は自信を持てるのか?」

 ふらつく私を部長がすかさず支えてくれた。
 触れられた腕に力が込められ、身体が傾く。
 互いの距離が縮まって、声が耳の近くから聞こえる。いつも聞いているはずのその声が、まったく違う人のものに聞こえた。
 そこにいるのは、信頼の置けるいい上司ではなく、危険な異性。

「問題を解決しようか? ……その重いバージン、僕がもらうよ」
「……」

 瀬尾部長の思わぬ誘いに、頭より、先に身体が反応した。一瞬なにを言われたのか理解できずにいたが、酔いは一気にめていく。次いで、お酒によるものとは違う熱が、私の顔を耳まで真っ赤に染める。

「あの、私」

 提案を受け入れることも、拒絶することもできずにいると、部長は淡々と会計を済ませ、私の手を引いた。彼の手を払いのけることができない現実が、私の本心を表している。

「僕の部屋とホテル、どっちがいい?」

 店を出てタクシーを待つ間に、部長がまた私の耳元でささやいた。耳から入った声が、身体をかけ巡り、私はぴくりと肩を震わせる。信じられない。
 真面目で、寡黙かもくで、特に女性社員に対してはクールな瀬尾部長が、今どんな顔をして私を誘っているのか。
 見上げるように顔をうかがうと、部長は目を細めて笑った。それは職場では絶対に見せない顔だ。
 私は嬉しくて、夢でもいいから、湧き上がった情熱にこのまま流されてしまいたいと思った。
 回らない脳をフル回転させて、部長から与えられた選択肢について考える。
 部長の部屋か、ホテルか――
 部長が一人暮らしだとしても、部下の私が上がり込むのは気が引ける。

「あの、ホテルってどの辺りのホテルですか?」

 私の感覚だと、こういう時に利用するのは、手軽にカップルが宿泊できるラブホテルだ。でも、部長と私が同じ感覚を持っている自信がない。

「近場だと、あそこはどうだ? 空きを確認してみようか」

 部長が示した建物は、都内に住んでいる人間なら誰でも知っている高層ビルだった。確か、そのビルの中には、お高いことで有名なホテルが入っている。

「あ、あ、あの、じゃあ、私のアパートで……狭いですけど」

 不要品をもらっていただく側としては、部長にホテル代金を払わせるわけにはいかない。でも高級ラグジュアリーホテルに連れていかれたら、高額な宿泊費の支払いが怖い。そもそも部長は払わせてはくれないだろう。
 だからお金の心配をした私は、第三の提案をしたのだ。

「アパートか……。それは却下だな。壁が薄いのは好きじゃない」

 苦しまぎれに出した提案をさらりと一蹴いっしゅうされる。この返答は、ただのセレブ発言なのか、それとも壁が薄いと不都合が生じる事態になるからなのか、あるいは両方なのか……などと無駄なことを悶々もんもんと考えている間に、タクシーが目の前に停車する。
 部長が運転手に行き先を告げると、すぐに車は発車した。


 車の窓越しに見える都会の夜景。珍しくもない景色が特別に思える。車の中で私は一言も発せられず、ただうるさく鳴り響く自分の鼓動の音を聞いていた。
 顔も火照ほてって、きっと赤くなっている。期待と緊張だけが増幅し続けることに限界を感じはじめたところで、タクシーがハザードランプをつけて停車したのは、住宅街にあるコンビニエンスストアの前だった。
 二人でタクシーを降りたあと、部長は、買い物があるからと私を店の前で待たせて、一人で店内に入っていった。なにを買うのか窓ガラス越しにこっそり眺めていると、彼は小さな箱をひとつ手に取って、レジへ持っていった。
 それが避妊具であると察した私は、ずかしさのあまり、戻ってきた部長と目を合わせることができなかった。

「お待たせ」

 部長は平然とした態度で、私の手を引いて歩き出す。
 数分後。辿たどり着いたのは、外壁がコンクリート打ちっぱなしの小さいマンションだった。
 部長はエレベーターに乗り込み、五階まであるうちの四階のボタンを押す。おそらく部長の自宅なのだろう。
 噂によると、瀬尾部長の父親は、うちの会社とは直接関係のない大きな企業の経営者だという。御曹司だから、高級タワーマンションに住んでいるのかと想像したけれど、小さいマンションの一室なんて、案外庶民的で親近感を持つ。
 親がお金持ちで、将来有望で役職がついていても、サラリーマンはサラリーマン。
 私が想像できるくらいのお給料だとしたら、当然と言えば当然だ。
 ……そう思っていられたのは、短い間だった。
 到着したフロアに、扉がひとつしかないことにまず違和感を持った。
 共有スペースの通路に、たくさんの扉が並んでいるような、私が知ってる集合住宅とは随分印象が違う。
 実際に扉が開くと、奥には想像以上の光景が広がっていた。

「すごい広い……それに、なんでマンションなのに部屋の中に階段があるんですか?」
「メゾネットタイプになってるんだ。広さは一般住宅とそう変わらないよ」
「四階と五階、全部が部長のお部屋ということですか? 一人で住んでるんですよね?」
「ああ、だから使ってない部屋もある」
「そんな、もったいない……」

 思ったことを、うっかり口に出してしまい、私はあわてて口を押さえた。

「もしかして、浪費家だと思われているのかな?」
「いえいえ……」
「この年だから、将来のことを視野に入れて購入しただけだ。投資で利益が出た時にね。さあ、遠慮せずどうぞ」


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