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第一章 うつけ信長、我が道を行く!
第六話 尾張が抱える火種
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美濃・稲葉山城――、銀世界に彩られた景色を天守で眺めていた帰蝶は、ため息をついた。後数日もすれば、この身は尾張のものとなる。
武将の娘と生まれたからには、味方とする強豪国に嫁がされるのは戦国の習い。
だが彼女が嫁がされるのは、今回が初めてではない。
最初の結婚相手となったのは、美濃国の守護大名である土岐氏一門の土岐八郎頼香であった。斎藤道三が土岐家に誓った忠誠を示すため、いわば人質として帰蝶は嫁ぐことになったのである。
しかし、天文十三年に、斎藤道三は尾張国を支配していた織田信秀との戦いの混乱に乗じて、土岐八郎頼香に刺客を送り込み自刃させた。
このとき、帰蝶はわずか十歳であった。
二度目の結婚をしたのは天文十五年、守護大名となった土岐次郎頼純という人物であった。最初に結婚した土岐八郎頼香の甥にあたる男である。
しかし、結婚からわずか一年を過ぎた天文十六年、土岐次郎頼純は亡くなる。
果たして今回は、どれだけ続くことやら。
二人の夫がどれも戦場ではなく、自決や暗殺かもしれぬという死に方である。
問題は三度目となる、これから嫁ぐことなる尾張である。
尾張弾正忠家・嫡男、織田三郎信長――。
この美濃にもうつけと聞こえてくるその男は、帰蝶の一つ年上の十六歳だという。
「――帰蝶さま」
帰蝶が打ち掛けの裾を捌いて踵を返したとき、片膝を付いた者がいる。
忍び装束に前身を包み、女人の目だけが覆面から覗く。
「待ってたわ。楓」
斎藤家の草の者で、楓と帰蝶は姉妹のように仲がよかった。
「私に頼みたいことがあるとのこと」
「ええ。あなたしかできないことよ。父上には内緒でお願いできて?」
帰蝶の依頼に、楓は即答できなかった。
その理由を帰蝶は察していたが、今回だけは大人しく父・道三に従えない帰蝶である。
「なんとなく……、嫌な予感がするのは気の所為でございましょうか?」
楓のその嫌な予感は、まさにこのあと的中することになる。
◆
この日――、那古野城ではある事件が勃発していた。
「信長、これは明らかにお前を狙った犯行だ」
上段の間で腕を組む信長に向かい、敬語も省いて呼び捨てにする男が最初に口を開いた。
名を織田信広――、信長の異母兄にして三河・安祥城主である。
本来は信広が弾正忠家の長男だが、彼の母は信秀の正室ではなく側室で身分が低かった。このことにより、後室(※次に正室となった人)・土田御前が産んだ信長が嫡男となった。
弾正忠家の跡取りの座から外れたわけだが、信広はあっけらかんとした性格で、大事が起きても騒ぐでもなく、冗談を言う余裕をみせる人物であった。
信広が三河・安祥城主となったのは、天文九年のことだという。
もともと安祥城は三河・松平家の居城だったが、信秀が三河侵攻の折に落城したという。
信長は黙って、目の前のものを睨んでいる。
そこには、黒漆塗りの箱と猫の死骸が横たわっている。
金蒔絵の織田木瓜紋が蓋に描かれているあの、箱である。
ときは――、この一刻前に遡る。
いつものように那古野城下を馬で巡っていた信長と恒興は、日暮れ前に帰城した。そこに現れたのが、信長の異母兄・信広である。
「相変わらずだな? 吉法師」
幼名で呼ばれ、信長は渋面である。
「――その名で呼ぶのはやめていただきたい。異母兄上」
「俺にとってはお前は昔と変わらん。そのお前が、嫁を迎えるとはな」
「嫌味をいいに、わざわざお越しに?」
さすがに、兄の前では敬語になる信長である。
「これでも祝っているんだぞ? まったく素直じゃないな」
「顔も知らぬ女子を嫁にしろといわれて、喜べますか?」
「確かに。相手は美濃の蝮の娘だってな? しかも、この尾張は火種が燻っている。いや、もう火がついたかも知れんな」
意味深な物言いに、恒興は嫌な予感がした。
昔から彼の嫌な予感は、よく当たった。
父・池田恒利が亡くなるときも「もう保たない」と予感がした。そしてその通りになった。恒興、三歳のときである。
広間に行くと、黒漆の箱がひっくり返され、黒猫が嘔吐した姿で死んでいた。
「あれは……っ!」
思わず叫んだ恒興に、信広が口の端を吊り上げた。
「どうやらふたりとも、アレに心当たりがあるようだな?」
「――信長さまの留守中、守護代大和家の家臣だとい方が置いていかれた南蛮菓子でございます。それがどうして……」
恒興はそう説明するが、答えは聞かなくてもわかる。
「どうやら、毒が仕込まれていたようだな」
信長が、その答えを言いきった。
やはり、守護代・大和家は大人しく引き下がるつもりはなかったらしい。
「若、某の責任でござる。あの男の狙いが読めなかったのは一生の不覚」
広間には、平手政秀も同席していた。
猫の死骸を最初に見つけたのは、信広だったらしい。
異母弟・信長が妻を娶るらしいと聞いて、どんな顔をしているか見たくなったという。
彼を出迎えのは、政秀だったようだ。
広間に向かう途中、書院の障子が半分開いていたという。そこで見つけのが猫の死骸と、ひっくり返された黒漆の箱だったという。
おそらく、猫は城壁を越えて入ってきたのだろう。
書院の障子を、締め忘れたこちらの非もあるが。
「爺、お前の所為じゃない」
政秀の悔恨を、信長は宥める
「ですが、若……!」
「そうだぞ、平手。まさか守護代が暗殺を企てるとは誰も思わん。しかも狙った相手が、信長だぞ?末森城の父上や勘十郎(※信行)ではなく、だ」
呵々と笑う信広に、政秀は複雑な顔をしていた。
「信長さま、この件を大殿には?」
恒興の問いかけに、信長は即答した。
「いや、末森城には一切報せるな。勘十郎が傷つく」
黒漆の箱に入っていた南蛮菓子は、勘十郎こと信行が信長のためにと用意したものだという。信行は、恒興と同じ十四歳。兄をどうかしようなど思うだろうか。
信長もそう思っているようで、末森城には騒ぎは報せるという。
確かに自分の知らない所で兄の暗殺が行われ、それに自分の名が持ち出されているとすれば、信行は傷つくだろう。
「信長。この際、はっきりと守護代に釘を刺しておくべきじゃないのか?」
「――というと? 異母兄上」
「守護代がなにを考えているか、わからないほどのうつけじゃあるまい?」
信長は何も言わない。
彼は信広の前でも、本心を隠している。
なにゆえ、こうも守護代・織田大和家が弾正忠家に介入してくるのか。しかも今度は、信長暗殺まで企てた。
政秀曰く、織田信秀に守護代である大和家に取って代わろうという意思はないという。事を起こせば、尾張は身内同士の戦いとなる。いくら下剋上が罷り通る世とはいえ、尾張の和平を望んでいるだろう。
信長とて同じだ。周りには何も語らないが、恒興だけは彼の本心を聞いている。
――いつか、この尾張を一つにする!
それは決して守護代を潰すことではないと、恒興は理解する。
信長曰く、織田大和家は信行を弾正忠家の後継者に推しているらしい。守護代・織田信友にとって操りやすい人物らしい。
もともと弾正忠家は大和家からの分家筋にして、臣下。それが信秀の代にして、弾正忠家の勢力が大きくなった。これを信友は、脅威に感じたのだろう。
いつもの信長なら、大和家がなにか言ってきても聞き流してきたが。
「勝三郎、馬の用意だ」
「どちらへ」
「喧嘩を売りに行く」
信長は怒っていた。
彼は弟・信行を可愛がっている。
その信行の名を使われたことに、怒っているのだろう。
毒を仕込んだのは守護代・信友の命令か、それとも坂井大膳ら家臣の独断か、守護代としては少々やり過ぎである。
「若、なりませぬぞ!!」
制する政秀に、信広が笑顔で声を張る。
「止めても無駄だ、平手。こいつはやると言ったらやるぞ。なぁ? 信長」
◆◆◆
河の中で、水がパシャリと跳ねる。
さすがにこの時期の河は、身も凍る冷たさである。
女は馬を洗っていた。
かなり飛ばして駆けてきたため、馬の脚は泥まみれになった。
女の格好は小袖に袴、髪を高く括っている。いわゆる男装である。
――やはり、無謀だったかしら。
馬を磨く手を止め、彼女が視界に捉えたのは金華山であった。
ここは尾張と美濃を隔てる長良川、そして金華山は別名、稲葉山という。
国境を越える際、見咎められるのではないかと恐れていたが、誰にも見られることなく尾張に侵入した。
彼女の目的は、美濃と縁を結ぶことになる織田信長がどんな男か確かめるため。
このことは、道三は何も知らない。
彼女の行動が、美濃と尾張の和睦を破談させることになるかも知れない。しかしそれはそれで、道三のことである。尾張への侵攻を開始するだろう。
だが長良川まで来たのはいいものの、これから先は誰にも見つからぬというわけにはいかない。
「おい、お前」
背後から掛かった声に、彼女の肩が跳ねる。
「え……」
「見かけぬ顔だな? 何処の者だ?」
振り返った先にいたのは、小袖に肩衣という何処かの家臣のようだ。
「……私は楓という旅の者にございます」
そう彼女が名乗ったが、ますます不審がられた。
「旅の者だと……? 男の姿などしおって、怪しいやつめ」
楓は咄嗟に懐に手が伸びた。
そこには、黒漆に蝶の模様が描かれた懐剣が忍ばせてある。
今ここで捕まるわけにはいかない。なんとしても生きて、美濃へ戻らばならない。
不意に、楓の躯が後ろへ強く引っ張られた。
「こいつは、俺の連れだ」
男は楓を抱き寄せるとそう言った。
楓に連れなどはいない。美濃・稲葉山城から一人で馬を駆けさせてきたのだ。
「え……」
楓は男を斜め下から見上げた。
身長は、楓の頭一つ高い。歳は楓と変わらなそうに見える。おそらく十代後半。
長い髪を緋色の組み紐で高く括り、纏っている小袖は膝丈までしかなく、それを片肌脱ぎにしている。美濃にこんな男はいない。
「何者だ? 貴様……」
男の警戒心が、その人物に向く。
「そっちこそ何者だ? 女に刀を突きつけようなんざ、ろくな男じゃあるまい?」
「ぶ、無礼なっ! 某は、尾張下四郡守護代・織田大和家家臣なるぞ!」
「だから?」
守護代家臣に対して、男は嘲笑った。
「なに……」
「俺はその守護代に殺されかけてな。さっき一言、言ってやったばかりだ」
「謀りを申すな! 我が殿が貴様のようなものをなにゆえ殺さねばならぬ!?」
「帰って聞くんだな」
それまで楽しそうに嘲笑っていた男が、冷たい眼差しを守護代家臣に向ける。
有無を言わさず、圧倒させてしまう眼光――、道三ももつその眼を、この男も備えていた。ただの傾奇者ではないことは、明らかである。
「あの――」
守護代家臣が唇を噛んで去った後、楓は男に対して口を開きかけた。
「楓と言ったか。お前、武芸の嗜みがあるだろう? 尾張の人間じゃないとすると……」
どうやら男も、楓がただの女とは見ていなかったようだ。
「…………」
「ま、いい。ただ、この尾張は少しばかり物騒でな。懐の懐剣一つじゃ太刀打ちできんぞ?」
「あなたは何者です?」
「尾張・織田弾正忠家、織田三郎信長――」
男の名乗りに、楓は瞠目した。
――この男が……、織田信長。
まさか、ここで会うとは。
楓は信長と別れるまで、言葉を発せられなかった。
一方、その尾張下四郡守護代・織田大和家では――。
「おのれ! あのうつけめっ!!」
守護代にして大和家当主・織田信友は、盃を床に叩きつけた。
信長はいきなりやってきたかと思えば、弾正忠家のことに口を出すなという。主君筋である守護代に向かってにだ。
「殿、なにゆえ信長をきにされまする? あのうつけに、尾張が纏められる筈がございませぬ。聞けば家臣たちも呆れているとか」
信友の前にいたのは、坂井大膳である。
「黙れ、大膳! そなたがあやつを始末し損なうゆえに、この城に乗り込まれたのではないか!? お陰で虎の目を覚ましてしもうた」
「虎の目……?」
「虎の子も虎ということじゃ。信長のうつけは、芝居よ」
信長の父・信秀は、尾張の虎と呼ばれている。能ある鷹は爪を隠すが如く、信長はまさにそれだ。信友は信長を恐れていた。信秀がなにゆえ、うつけと悪評の信長に家督を譲ろうとするのか。もし信秀が信長の本性を見抜いているとしたら、信長は信秀に次ぐ信友の脅威となる。そしてその恐れは、現実となった。
睨みつけてくる信長の目が忘れられぬ。
それに怖じ、震えていた己がいた。
たかが、うつけと侮っていた虎の子に、守護代である自分が押された。
信友は歯軋りをしつつ、決意を新たにした。
「こうなれば、なんとしても信行に弾正忠家を継いで貰わねばならぬ。信長に、尾張は渡さぬ……!」
武将の娘と生まれたからには、味方とする強豪国に嫁がされるのは戦国の習い。
だが彼女が嫁がされるのは、今回が初めてではない。
最初の結婚相手となったのは、美濃国の守護大名である土岐氏一門の土岐八郎頼香であった。斎藤道三が土岐家に誓った忠誠を示すため、いわば人質として帰蝶は嫁ぐことになったのである。
しかし、天文十三年に、斎藤道三は尾張国を支配していた織田信秀との戦いの混乱に乗じて、土岐八郎頼香に刺客を送り込み自刃させた。
このとき、帰蝶はわずか十歳であった。
二度目の結婚をしたのは天文十五年、守護大名となった土岐次郎頼純という人物であった。最初に結婚した土岐八郎頼香の甥にあたる男である。
しかし、結婚からわずか一年を過ぎた天文十六年、土岐次郎頼純は亡くなる。
果たして今回は、どれだけ続くことやら。
二人の夫がどれも戦場ではなく、自決や暗殺かもしれぬという死に方である。
問題は三度目となる、これから嫁ぐことなる尾張である。
尾張弾正忠家・嫡男、織田三郎信長――。
この美濃にもうつけと聞こえてくるその男は、帰蝶の一つ年上の十六歳だという。
「――帰蝶さま」
帰蝶が打ち掛けの裾を捌いて踵を返したとき、片膝を付いた者がいる。
忍び装束に前身を包み、女人の目だけが覆面から覗く。
「待ってたわ。楓」
斎藤家の草の者で、楓と帰蝶は姉妹のように仲がよかった。
「私に頼みたいことがあるとのこと」
「ええ。あなたしかできないことよ。父上には内緒でお願いできて?」
帰蝶の依頼に、楓は即答できなかった。
その理由を帰蝶は察していたが、今回だけは大人しく父・道三に従えない帰蝶である。
「なんとなく……、嫌な予感がするのは気の所為でございましょうか?」
楓のその嫌な予感は、まさにこのあと的中することになる。
◆
この日――、那古野城ではある事件が勃発していた。
「信長、これは明らかにお前を狙った犯行だ」
上段の間で腕を組む信長に向かい、敬語も省いて呼び捨てにする男が最初に口を開いた。
名を織田信広――、信長の異母兄にして三河・安祥城主である。
本来は信広が弾正忠家の長男だが、彼の母は信秀の正室ではなく側室で身分が低かった。このことにより、後室(※次に正室となった人)・土田御前が産んだ信長が嫡男となった。
弾正忠家の跡取りの座から外れたわけだが、信広はあっけらかんとした性格で、大事が起きても騒ぐでもなく、冗談を言う余裕をみせる人物であった。
信広が三河・安祥城主となったのは、天文九年のことだという。
もともと安祥城は三河・松平家の居城だったが、信秀が三河侵攻の折に落城したという。
信長は黙って、目の前のものを睨んでいる。
そこには、黒漆塗りの箱と猫の死骸が横たわっている。
金蒔絵の織田木瓜紋が蓋に描かれているあの、箱である。
ときは――、この一刻前に遡る。
いつものように那古野城下を馬で巡っていた信長と恒興は、日暮れ前に帰城した。そこに現れたのが、信長の異母兄・信広である。
「相変わらずだな? 吉法師」
幼名で呼ばれ、信長は渋面である。
「――その名で呼ぶのはやめていただきたい。異母兄上」
「俺にとってはお前は昔と変わらん。そのお前が、嫁を迎えるとはな」
「嫌味をいいに、わざわざお越しに?」
さすがに、兄の前では敬語になる信長である。
「これでも祝っているんだぞ? まったく素直じゃないな」
「顔も知らぬ女子を嫁にしろといわれて、喜べますか?」
「確かに。相手は美濃の蝮の娘だってな? しかも、この尾張は火種が燻っている。いや、もう火がついたかも知れんな」
意味深な物言いに、恒興は嫌な予感がした。
昔から彼の嫌な予感は、よく当たった。
父・池田恒利が亡くなるときも「もう保たない」と予感がした。そしてその通りになった。恒興、三歳のときである。
広間に行くと、黒漆の箱がひっくり返され、黒猫が嘔吐した姿で死んでいた。
「あれは……っ!」
思わず叫んだ恒興に、信広が口の端を吊り上げた。
「どうやらふたりとも、アレに心当たりがあるようだな?」
「――信長さまの留守中、守護代大和家の家臣だとい方が置いていかれた南蛮菓子でございます。それがどうして……」
恒興はそう説明するが、答えは聞かなくてもわかる。
「どうやら、毒が仕込まれていたようだな」
信長が、その答えを言いきった。
やはり、守護代・大和家は大人しく引き下がるつもりはなかったらしい。
「若、某の責任でござる。あの男の狙いが読めなかったのは一生の不覚」
広間には、平手政秀も同席していた。
猫の死骸を最初に見つけたのは、信広だったらしい。
異母弟・信長が妻を娶るらしいと聞いて、どんな顔をしているか見たくなったという。
彼を出迎えのは、政秀だったようだ。
広間に向かう途中、書院の障子が半分開いていたという。そこで見つけのが猫の死骸と、ひっくり返された黒漆の箱だったという。
おそらく、猫は城壁を越えて入ってきたのだろう。
書院の障子を、締め忘れたこちらの非もあるが。
「爺、お前の所為じゃない」
政秀の悔恨を、信長は宥める
「ですが、若……!」
「そうだぞ、平手。まさか守護代が暗殺を企てるとは誰も思わん。しかも狙った相手が、信長だぞ?末森城の父上や勘十郎(※信行)ではなく、だ」
呵々と笑う信広に、政秀は複雑な顔をしていた。
「信長さま、この件を大殿には?」
恒興の問いかけに、信長は即答した。
「いや、末森城には一切報せるな。勘十郎が傷つく」
黒漆の箱に入っていた南蛮菓子は、勘十郎こと信行が信長のためにと用意したものだという。信行は、恒興と同じ十四歳。兄をどうかしようなど思うだろうか。
信長もそう思っているようで、末森城には騒ぎは報せるという。
確かに自分の知らない所で兄の暗殺が行われ、それに自分の名が持ち出されているとすれば、信行は傷つくだろう。
「信長。この際、はっきりと守護代に釘を刺しておくべきじゃないのか?」
「――というと? 異母兄上」
「守護代がなにを考えているか、わからないほどのうつけじゃあるまい?」
信長は何も言わない。
彼は信広の前でも、本心を隠している。
なにゆえ、こうも守護代・織田大和家が弾正忠家に介入してくるのか。しかも今度は、信長暗殺まで企てた。
政秀曰く、織田信秀に守護代である大和家に取って代わろうという意思はないという。事を起こせば、尾張は身内同士の戦いとなる。いくら下剋上が罷り通る世とはいえ、尾張の和平を望んでいるだろう。
信長とて同じだ。周りには何も語らないが、恒興だけは彼の本心を聞いている。
――いつか、この尾張を一つにする!
それは決して守護代を潰すことではないと、恒興は理解する。
信長曰く、織田大和家は信行を弾正忠家の後継者に推しているらしい。守護代・織田信友にとって操りやすい人物らしい。
もともと弾正忠家は大和家からの分家筋にして、臣下。それが信秀の代にして、弾正忠家の勢力が大きくなった。これを信友は、脅威に感じたのだろう。
いつもの信長なら、大和家がなにか言ってきても聞き流してきたが。
「勝三郎、馬の用意だ」
「どちらへ」
「喧嘩を売りに行く」
信長は怒っていた。
彼は弟・信行を可愛がっている。
その信行の名を使われたことに、怒っているのだろう。
毒を仕込んだのは守護代・信友の命令か、それとも坂井大膳ら家臣の独断か、守護代としては少々やり過ぎである。
「若、なりませぬぞ!!」
制する政秀に、信広が笑顔で声を張る。
「止めても無駄だ、平手。こいつはやると言ったらやるぞ。なぁ? 信長」
◆◆◆
河の中で、水がパシャリと跳ねる。
さすがにこの時期の河は、身も凍る冷たさである。
女は馬を洗っていた。
かなり飛ばして駆けてきたため、馬の脚は泥まみれになった。
女の格好は小袖に袴、髪を高く括っている。いわゆる男装である。
――やはり、無謀だったかしら。
馬を磨く手を止め、彼女が視界に捉えたのは金華山であった。
ここは尾張と美濃を隔てる長良川、そして金華山は別名、稲葉山という。
国境を越える際、見咎められるのではないかと恐れていたが、誰にも見られることなく尾張に侵入した。
彼女の目的は、美濃と縁を結ぶことになる織田信長がどんな男か確かめるため。
このことは、道三は何も知らない。
彼女の行動が、美濃と尾張の和睦を破談させることになるかも知れない。しかしそれはそれで、道三のことである。尾張への侵攻を開始するだろう。
だが長良川まで来たのはいいものの、これから先は誰にも見つからぬというわけにはいかない。
「おい、お前」
背後から掛かった声に、彼女の肩が跳ねる。
「え……」
「見かけぬ顔だな? 何処の者だ?」
振り返った先にいたのは、小袖に肩衣という何処かの家臣のようだ。
「……私は楓という旅の者にございます」
そう彼女が名乗ったが、ますます不審がられた。
「旅の者だと……? 男の姿などしおって、怪しいやつめ」
楓は咄嗟に懐に手が伸びた。
そこには、黒漆に蝶の模様が描かれた懐剣が忍ばせてある。
今ここで捕まるわけにはいかない。なんとしても生きて、美濃へ戻らばならない。
不意に、楓の躯が後ろへ強く引っ張られた。
「こいつは、俺の連れだ」
男は楓を抱き寄せるとそう言った。
楓に連れなどはいない。美濃・稲葉山城から一人で馬を駆けさせてきたのだ。
「え……」
楓は男を斜め下から見上げた。
身長は、楓の頭一つ高い。歳は楓と変わらなそうに見える。おそらく十代後半。
長い髪を緋色の組み紐で高く括り、纏っている小袖は膝丈までしかなく、それを片肌脱ぎにしている。美濃にこんな男はいない。
「何者だ? 貴様……」
男の警戒心が、その人物に向く。
「そっちこそ何者だ? 女に刀を突きつけようなんざ、ろくな男じゃあるまい?」
「ぶ、無礼なっ! 某は、尾張下四郡守護代・織田大和家家臣なるぞ!」
「だから?」
守護代家臣に対して、男は嘲笑った。
「なに……」
「俺はその守護代に殺されかけてな。さっき一言、言ってやったばかりだ」
「謀りを申すな! 我が殿が貴様のようなものをなにゆえ殺さねばならぬ!?」
「帰って聞くんだな」
それまで楽しそうに嘲笑っていた男が、冷たい眼差しを守護代家臣に向ける。
有無を言わさず、圧倒させてしまう眼光――、道三ももつその眼を、この男も備えていた。ただの傾奇者ではないことは、明らかである。
「あの――」
守護代家臣が唇を噛んで去った後、楓は男に対して口を開きかけた。
「楓と言ったか。お前、武芸の嗜みがあるだろう? 尾張の人間じゃないとすると……」
どうやら男も、楓がただの女とは見ていなかったようだ。
「…………」
「ま、いい。ただ、この尾張は少しばかり物騒でな。懐の懐剣一つじゃ太刀打ちできんぞ?」
「あなたは何者です?」
「尾張・織田弾正忠家、織田三郎信長――」
男の名乗りに、楓は瞠目した。
――この男が……、織田信長。
まさか、ここで会うとは。
楓は信長と別れるまで、言葉を発せられなかった。
一方、その尾張下四郡守護代・織田大和家では――。
「おのれ! あのうつけめっ!!」
守護代にして大和家当主・織田信友は、盃を床に叩きつけた。
信長はいきなりやってきたかと思えば、弾正忠家のことに口を出すなという。主君筋である守護代に向かってにだ。
「殿、なにゆえ信長をきにされまする? あのうつけに、尾張が纏められる筈がございませぬ。聞けば家臣たちも呆れているとか」
信友の前にいたのは、坂井大膳である。
「黙れ、大膳! そなたがあやつを始末し損なうゆえに、この城に乗り込まれたのではないか!? お陰で虎の目を覚ましてしもうた」
「虎の目……?」
「虎の子も虎ということじゃ。信長のうつけは、芝居よ」
信長の父・信秀は、尾張の虎と呼ばれている。能ある鷹は爪を隠すが如く、信長はまさにそれだ。信友は信長を恐れていた。信秀がなにゆえ、うつけと悪評の信長に家督を譲ろうとするのか。もし信秀が信長の本性を見抜いているとしたら、信長は信秀に次ぐ信友の脅威となる。そしてその恐れは、現実となった。
睨みつけてくる信長の目が忘れられぬ。
それに怖じ、震えていた己がいた。
たかが、うつけと侮っていた虎の子に、守護代である自分が押された。
信友は歯軋りをしつつ、決意を新たにした。
「こうなれば、なんとしても信行に弾正忠家を継いで貰わねばならぬ。信長に、尾張は渡さぬ……!」
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