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揺らぎ
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初夏、大坂城下。
松平正典は、町奉行としての実績を認められ、
勘定奉行並びに大坂町政の監査職を兼務する重役へと昇進した。
――町政、財政、司法。すべてを司る“三役”に限りなく近づいたということ。
それはすなわち、将軍への登用も視野に入る男となったということでもある。
大坂の町は、彼の名によって静かに、しかし確実に変化していた。
一方で、その屋敷の奥――
白無垢の儀から幾月が過ぎても、
千弥は離れに閉じ込められたままだった。
華やかさの代わりに与えられたのは、静謐。
歓声の代わりに響くのは、御主様の命の声だけ。
それでも、千弥は幸せだった。
少なくとも――そう、思い込もうとしていた。
⸻
ある日、正典が屋敷を留守にしていた夕暮れ。
千弥は庭に咲いた小さな桔梗の花を眺めていた。
花の紫に、ふと記憶が揺れた。
(……この色、あの演目の衣装と同じ)
思い出すのは、“綾香”を演じたあの夜。
花道に立ち、紅を引きながら、目線ひとつで客の息を止めたあの瞬間。
(……あの光が、恋しい)
自分は御主様のもの。
舞台に戻るなど、許されることではない。
だが、その“想い”は、
心の奥に少しずつ、霞のように立ちのぼりはじめていた。
⸻
その夜、久しぶりに正典が離れに姿を見せた。
「新しい職が決まった。
来月より、京都所司代と兼務する。……京へ行く」
「……おめでとうございます、御主様」
「当然のことだ。
そして、お前は――どこへでも連れていく。京であろうが、江戸であろうがな」
「……はい」
正典は千弥の肩を抱いた。
「最近、よく外を見ているな」
「……」
「目が、芝居のときと同じだ。
舞台の光を、思い出しているのか?」
千弥の身体がわずかに震えた。
正典は千弥の頬に手を添え、静かに言った。
「私は、お前が舞台を思い出すことを、咎めるつもりはない。
だが――お前が“そこへ戻ろう”とするなら、その舞台を焼き払う」
その言葉は、告白ではなく戒めだった。
「……はい。決して、戻ろうとはいたしません」
そう答えながらも――
千弥の胸の奥では、消したはずの灯が、小さく灯っていた。
松平正典は、町奉行としての実績を認められ、
勘定奉行並びに大坂町政の監査職を兼務する重役へと昇進した。
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一方で、その屋敷の奥――
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