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香火ノ揺
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京――
千年の都と呼ばれるこの地に、松平正典は所司代として迎え入れられた。
政の中心に近いこの地で、彼の権勢はますます強まり、
名もなき武士や大名の子が、屋敷の門前に列を成すほどとなった。
だがその屋敷の奥、裏座敷よりさらに奥にある離れに、
ひとり外界から切り離された男がいた。
千弥。
すでに“かつての若衆”と呼ばれるには十分な月日が流れていた。
だが、その白肌も、しぐさも、声の艶も――
今もなお、“舞台”の記憶を内に秘めていた。
⸻
ある日、正典が城中に招かれた隙に、
千弥は下女に命じて、屋敷の庭を越え、ほんのわずかに表へと足を出した。
(……京の風は、江戸とも大坂とも違う)
香のような湿気とともに漂う古の気配。
その空気に、千弥は胸の奥がざわつくのを感じていた。
そのときだった。
「……おい、待て。……その横顔、まさか……」
通りすがりの男が、千弥を呼び止めた。
「……千弥、か……?」
振り返った先にいたのは――
春海(しゅんかい)。
かつて「菊乃座」でともに舞台を踏み、
千弥の隣で“女形と立役”の黄金の舞台を作り上げた男。
「……春海……?」
「やっぱりお前か……こんなところで……! てっきり江戸を出たきり、消息を絶ったと聞いていた」
「……そうだな。もう……芝居の世界からは、身を引いた」
「嘘だ。お前の目は、まだ“役”をしてる目だ。
俺と何度も共演したから、わかる。……まだ、舞台に未練があるんだろう?」
千弥は、返事をしなかった。
だが――
否定も、しなかった。
春海は言った。
「今、京の“天雅座”が役者を探してる。花形が病で降りて、次の公演が危ういんだ。
……俺は、そこで座元から声をかけられてる。もしお前が……」
「やめてくれ」
千弥が低く遮った。
「俺はもう、舞台には戻れない。……“戻させてもらえない”んだ」
「誰に? ……いや、わかってる。例の噂の男か。
京でも話題になってるよ、松平所司代が若衆を囲ってるって」
千弥は目を伏せた。
「……あの人は、俺にすべてを与えてくれた。
舞台を捨ててでも、仕えると決めた人だ」
「じゃあなんで、こうして表に出てきた。
……役者はさ、“降りた”くらいじゃ死ねないんだ。
舞台の光が目に焼きついてる限り、心のどこかで――」
「……もう、行け」
千弥は背を向けた。
「二度と俺の前で、“舞台”の話をするな。
……俺は、檻の中で生きることを選んだ」
春海は、その背を見つめたまま、
静かに一礼して去っていった。
⸻
その夜。
離れに戻った千弥は、
白無垢を掛けてある桐箪笥の前で、
そっと自らの指先を見つめた。
あの指は、
かつて舞台で“扇を咲かせ”、“涙を拭い”、“女を演じた”。
そして今は、
ひとりの男に縛られ、躾けられ、与えられるだけの指となった。
(……でも、まだ動く。……まだ、“演じられる”)
その事実に、胸の奥で何かが微かに揺れた。
それは、香炉の火のようにか細く、
だが、消えることのない――舞台への未練の火だった。
千年の都と呼ばれるこの地に、松平正典は所司代として迎え入れられた。
政の中心に近いこの地で、彼の権勢はますます強まり、
名もなき武士や大名の子が、屋敷の門前に列を成すほどとなった。
だがその屋敷の奥、裏座敷よりさらに奥にある離れに、
ひとり外界から切り離された男がいた。
千弥。
すでに“かつての若衆”と呼ばれるには十分な月日が流れていた。
だが、その白肌も、しぐさも、声の艶も――
今もなお、“舞台”の記憶を内に秘めていた。
⸻
ある日、正典が城中に招かれた隙に、
千弥は下女に命じて、屋敷の庭を越え、ほんのわずかに表へと足を出した。
(……京の風は、江戸とも大坂とも違う)
香のような湿気とともに漂う古の気配。
その空気に、千弥は胸の奥がざわつくのを感じていた。
そのときだった。
「……おい、待て。……その横顔、まさか……」
通りすがりの男が、千弥を呼び止めた。
「……千弥、か……?」
振り返った先にいたのは――
春海(しゅんかい)。
かつて「菊乃座」でともに舞台を踏み、
千弥の隣で“女形と立役”の黄金の舞台を作り上げた男。
「……春海……?」
「やっぱりお前か……こんなところで……! てっきり江戸を出たきり、消息を絶ったと聞いていた」
「……そうだな。もう……芝居の世界からは、身を引いた」
「嘘だ。お前の目は、まだ“役”をしてる目だ。
俺と何度も共演したから、わかる。……まだ、舞台に未練があるんだろう?」
千弥は、返事をしなかった。
だが――
否定も、しなかった。
春海は言った。
「今、京の“天雅座”が役者を探してる。花形が病で降りて、次の公演が危ういんだ。
……俺は、そこで座元から声をかけられてる。もしお前が……」
「やめてくれ」
千弥が低く遮った。
「俺はもう、舞台には戻れない。……“戻させてもらえない”んだ」
「誰に? ……いや、わかってる。例の噂の男か。
京でも話題になってるよ、松平所司代が若衆を囲ってるって」
千弥は目を伏せた。
「……あの人は、俺にすべてを与えてくれた。
舞台を捨ててでも、仕えると決めた人だ」
「じゃあなんで、こうして表に出てきた。
……役者はさ、“降りた”くらいじゃ死ねないんだ。
舞台の光が目に焼きついてる限り、心のどこかで――」
「……もう、行け」
千弥は背を向けた。
「二度と俺の前で、“舞台”の話をするな。
……俺は、檻の中で生きることを選んだ」
春海は、その背を見つめたまま、
静かに一礼して去っていった。
⸻
その夜。
離れに戻った千弥は、
白無垢を掛けてある桐箪笥の前で、
そっと自らの指先を見つめた。
あの指は、
かつて舞台で“扇を咲かせ”、“涙を拭い”、“女を演じた”。
そして今は、
ひとりの男に縛られ、躾けられ、与えられるだけの指となった。
(……でも、まだ動く。……まだ、“演じられる”)
その事実に、胸の奥で何かが微かに揺れた。
それは、香炉の火のようにか細く、
だが、消えることのない――舞台への未練の火だった。
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