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儚き灯
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千弥の名は、再び京の芝居界に響き渡っていた。
天雅座の看板、昼夜の二番太夫、紅を引くたびに客が涙を流す――
かつて江戸でも見られなかった“芸の完成”を、人々は目の当たりにした。
だが千弥自身は、
その舞台袖で、静かに一つの香炉を見つめることが増えていた。
舞台に立てば、拍手と花が降る。
けれど幕が降りれば、そこに残るのはたったひとりの静寂だった。
(……御主様、今どこにいらっしゃるのですか)
千弥は知っていた。
正典が、もう芝居を見に来ることはないと。
(私の選んだ道は、御主様を否定した道。
だからこそ――戻れない)
それでも、
ふとした瞬間に背を振り返ってしまうのは、
あの黒羽織の気配が、
まだ胸の奥に灯っているからだった。
⸻
その頃、江戸城。
松平正典は、将軍・家斉の側近に列せられ、
勘定奉行を経て、老中格に抜擢される直前の地位にいた。
それは、御三家に次ぐ幕府の最高位。
名実ともに“国を動かす男”となりつつあった。
だが――
その顔に、かつての鋭さはなかった。
どこか静かで、
どこか遠いものを見ている目。
ある日、政敵からの讒言を受けた際、
老中・土井利厚にこう問われた。
「松平殿。
貴殿は、何のためにその椅子を目指しているのか?
民のためか? 将軍のためか? それとも――」
正典は答えた。
「……かつて檻に閉じ込めた者の背を、追うためです」
それだけを言い、
口を閉ざした。
⸻
その夜、
千弥はいつもより少し長く、
紅を引いた。
扇を開くと、
そこには花の文様――
正典からかつて贈られた“演目用の扇”を、密かに持ち続けていたのだ。
「御主様、
私は今日も舞台に立ちます。
けれどあなたに“見せたい”と思ってしまう心だけは――
まだ檻に入ったままなのです」
天雅座の看板、昼夜の二番太夫、紅を引くたびに客が涙を流す――
かつて江戸でも見られなかった“芸の完成”を、人々は目の当たりにした。
だが千弥自身は、
その舞台袖で、静かに一つの香炉を見つめることが増えていた。
舞台に立てば、拍手と花が降る。
けれど幕が降りれば、そこに残るのはたったひとりの静寂だった。
(……御主様、今どこにいらっしゃるのですか)
千弥は知っていた。
正典が、もう芝居を見に来ることはないと。
(私の選んだ道は、御主様を否定した道。
だからこそ――戻れない)
それでも、
ふとした瞬間に背を振り返ってしまうのは、
あの黒羽織の気配が、
まだ胸の奥に灯っているからだった。
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だが――
その顔に、かつての鋭さはなかった。
どこか静かで、
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「松平殿。
貴殿は、何のためにその椅子を目指しているのか?
民のためか? 将軍のためか? それとも――」
正典は答えた。
「……かつて檻に閉じ込めた者の背を、追うためです」
それだけを言い、
口を閉ざした。
⸻
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千弥はいつもより少し長く、
紅を引いた。
扇を開くと、
そこには花の文様――
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