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第5章:選ばれし花は誰のため
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天正三年、長篠の勝利から数十日後。
森蘭丸は岐阜の城下に戻ってきた。
泥と血にまみれた戦場の熱気とは裏腹に、城の空気はどこか乾いていた。
宴も褒美もあったが、それはただ「勝った者」たちの形式的な慶事でしかない。
蘭丸の中には、まだ鼓膜に残る銃声、指にまとわりつく血の感触があった。
それでも、主のもとに戻れば、笑顔を浮かべなければならない。
それが、“影”としての務めだった。
⸻
「蘭。手が震えているぞ」
その夜、信長に湯を献じた際に言われた一言に、蘭丸は肩をすくめた。
「戦の火薬のせいで、骨まで冷えたようでございます」
「ふむ……それでも、よく伝令を務めた。おぬしの動きがなければ、三段撃ちは成立せなんだ」
「殿が描いた布陣を、我が足が結ぶことができて、光栄にございます」
蘭丸は静かに頭を下げる。
その姿に、信長は珍しく手を伸ばし、蘭丸の顎をそっと持ち上げた。
「……光栄、か。だが余は、おぬしにもっと別の顔も見せてほしいと思っている」
「別の……顔、にございますか」
「うつけと言われた頃の余を知る者は少ない。だがな、蘭。
我が政でも戦でもなく、“そなた”というただ一人の目に映る姿を、たまには知りたいと思うことがあるのだ」
その言葉に、蘭丸は胸の奥が軋むのを感じた。
自分は「影」だ。
殿の姿を写し、殿の意を運び、殿の傍に咲く花にすぎない。
だが、その“影”が、主の“唯一の視線”を求めるようになってしまったのだ。
⸻
日が経つにつれ、蘭丸の名はさらに家中で広まり、側室・小姓・筆頭家臣たちの間に微かな軋轢が生まれていった。
「蘭丸様は、もうお目通りなさいましたか」
「殿はあの方を、もはや戦にすらお連れになると……」
「まるで、寵姫ではないか」
その陰口は、蘭丸の耳にも届いていた。
だが、彼は眉ひとつ動かさず、ただ日々の職務に没頭した。
──心を乱せば、花は崩れる。
──花が崩れれば、主の“影”ではいられなくなる。
ある夜、堀久太郎が蘭丸に声をかけた。
「そなたは美しすぎる。ゆえに、殿の“道具”としても危うすぎる」
「道具とは光栄な言葉。美しさで天下が動くなら、それもまた、戦の一形では?」
そう言って微笑む蘭丸の目は、やはり冷たかった。
⸻
秋風が吹くある日、信長は蘭丸を呼び寄せて言った。
「都に上がる。そなたも同行せよ。朝廷と新たに“道”を結ぶ」
蘭丸は軽くうなずいた。
「御意。殿の影として、都に咲く覚悟は、すでにできております」
信長はふと、何かを言いかけて黙った。
代わりに、懐から一幅の香包を取り出し、蘭丸に渡した。
「これは……」
「比叡山で拾った香木だ。……焼け落ちた堂宇の中にあって、なお香っていた。
“燃えながら香る”というのは、まこと、強き者の証よ」
蘭丸は香を胸に当て、静かに言った。
「ならば我が身も、燃え尽きるその時まで、殿の香となりましょう」
その言葉に、信長は目を細めた。
──主を支える影。
──主に焦がれる花。
──そして、己を燃やす香。
その全てを背負って、蘭丸は再び、都を目指して立ち上がった。
森蘭丸は岐阜の城下に戻ってきた。
泥と血にまみれた戦場の熱気とは裏腹に、城の空気はどこか乾いていた。
宴も褒美もあったが、それはただ「勝った者」たちの形式的な慶事でしかない。
蘭丸の中には、まだ鼓膜に残る銃声、指にまとわりつく血の感触があった。
それでも、主のもとに戻れば、笑顔を浮かべなければならない。
それが、“影”としての務めだった。
⸻
「蘭。手が震えているぞ」
その夜、信長に湯を献じた際に言われた一言に、蘭丸は肩をすくめた。
「戦の火薬のせいで、骨まで冷えたようでございます」
「ふむ……それでも、よく伝令を務めた。おぬしの動きがなければ、三段撃ちは成立せなんだ」
「殿が描いた布陣を、我が足が結ぶことができて、光栄にございます」
蘭丸は静かに頭を下げる。
その姿に、信長は珍しく手を伸ばし、蘭丸の顎をそっと持ち上げた。
「……光栄、か。だが余は、おぬしにもっと別の顔も見せてほしいと思っている」
「別の……顔、にございますか」
「うつけと言われた頃の余を知る者は少ない。だがな、蘭。
我が政でも戦でもなく、“そなた”というただ一人の目に映る姿を、たまには知りたいと思うことがあるのだ」
その言葉に、蘭丸は胸の奥が軋むのを感じた。
自分は「影」だ。
殿の姿を写し、殿の意を運び、殿の傍に咲く花にすぎない。
だが、その“影”が、主の“唯一の視線”を求めるようになってしまったのだ。
⸻
日が経つにつれ、蘭丸の名はさらに家中で広まり、側室・小姓・筆頭家臣たちの間に微かな軋轢が生まれていった。
「蘭丸様は、もうお目通りなさいましたか」
「殿はあの方を、もはや戦にすらお連れになると……」
「まるで、寵姫ではないか」
その陰口は、蘭丸の耳にも届いていた。
だが、彼は眉ひとつ動かさず、ただ日々の職務に没頭した。
──心を乱せば、花は崩れる。
──花が崩れれば、主の“影”ではいられなくなる。
ある夜、堀久太郎が蘭丸に声をかけた。
「そなたは美しすぎる。ゆえに、殿の“道具”としても危うすぎる」
「道具とは光栄な言葉。美しさで天下が動くなら、それもまた、戦の一形では?」
そう言って微笑む蘭丸の目は、やはり冷たかった。
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秋風が吹くある日、信長は蘭丸を呼び寄せて言った。
「都に上がる。そなたも同行せよ。朝廷と新たに“道”を結ぶ」
蘭丸は軽くうなずいた。
「御意。殿の影として、都に咲く覚悟は、すでにできております」
信長はふと、何かを言いかけて黙った。
代わりに、懐から一幅の香包を取り出し、蘭丸に渡した。
「これは……」
「比叡山で拾った香木だ。……焼け落ちた堂宇の中にあって、なお香っていた。
“燃えながら香る”というのは、まこと、強き者の証よ」
蘭丸は香を胸に当て、静かに言った。
「ならば我が身も、燃え尽きるその時まで、殿の香となりましょう」
その言葉に、信長は目を細めた。
──主を支える影。
──主に焦がれる花。
──そして、己を燃やす香。
その全てを背負って、蘭丸は再び、都を目指して立ち上がった。
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