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第6章:花、都に立つ
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天正四年(1576年)、京。
織田信長は、朝廷との関係をさらに強めるために、二条御新造の建設を本格化させた。
それは、近衛家の旧邸跡地に、絢爛たる金箔の迎賓館を築くという、前例なき“武の者”による禁中接近の意思表示だった。
だが信長は、ただ城を建てるだけでは終わらなかった。
その意志を「香」として届けるために、彼は“ひとりの花”を選んだ。
──森蘭丸。
⸻
「蘭。京に上がれ。帝の御前に参じ、二条御新造の由を奏上せよ」
「……御意にございます」
蘭丸は、迷いなく答えた。
だがその胸の奥で、何かが小さく軋んでいた。
これは、信長の代理ではない。
これは、“蘭丸という名を持つ人間”としての、初の表舞台。
己が“影”でなくなっていく恐怖。
しかし、それを誇りとすべき瞬間でもあった。
⸻
京に入った蘭丸は、装束を改め、上畳(うわだたみ)の直衣に緋の袴。
香を焚き、髪を整え、扇を帯びて御所へと向かった。
白砂の敷かれた庭、沈黙に包まれた渡殿、和歌のように緩やかな時の流れ。
それは、蘭丸が育った武家の世界とは、まるで違う“別の宇宙”だった。
だが、彼は怯まなかった。
「信長公の使者、森成利、ただいま参上つかまつりました」
名乗る声は澄んでいた。
姿はまだ少年のようであっても、所作には品と胆力があった。
その姿に、公卿たちも一瞬、目を奪われた。
近衛前久、九条稙通、山科言継──
帝の側近である彼らでさえ、蘭丸の立ち姿に「影」とは思わなかった。
それは“咲く花”だった。
⸻
「信長公の御意により、御所にほど近き地に、新たな御館を築かせていただきます」
「……異例な申し出だが、何ゆえに武門が、宮家の地を望む」
近衛前久の問いに、蘭丸は一拍の間を置いて、答えた。
「それは、主が“武を以て、天に背かぬ世”を望んだからにございます。
この地は、光を遮るためではなく、光を映すための鏡として使いたいと」
「主を映す鏡、か……。では、そなたは何者だ?」
「私もまた、主を映す影。
されど、光が差す限り、影もまた……己を持つものと存じます」
⸻
その夜、御所を辞した蘭丸に、近衛家から一幅の和歌が贈られた。
春の花 影に咲けども 気高けれ
主の御名とて 霞まず匂う
その歌を見た蘭丸は、静かに呟いた。
「……私は、“殿の名に霞まず匂う”ことを、許されたのでしょうか」
その答えを求めるように、彼は信長のもとへ文をしたためた。
【殿へ】
都の空は晴れております。
殿の御名を背に、私は影として咲き続けます。
されど、その影が“己”を知る時、私はまた、新たな忠義を学ぶのでしょう。
⸻
蘭丸は知らなかった。
この年、同時に始まっていたのは――
石山本願寺との長きに渡る戦いであることを。
信長は「公家」との和を選び、「宗教」との対立へと足を踏み入れた。
蘭丸が“香”として咲く都の庭には、やがて、火と血の風が吹き始める。
織田信長は、朝廷との関係をさらに強めるために、二条御新造の建設を本格化させた。
それは、近衛家の旧邸跡地に、絢爛たる金箔の迎賓館を築くという、前例なき“武の者”による禁中接近の意思表示だった。
だが信長は、ただ城を建てるだけでは終わらなかった。
その意志を「香」として届けるために、彼は“ひとりの花”を選んだ。
──森蘭丸。
⸻
「蘭。京に上がれ。帝の御前に参じ、二条御新造の由を奏上せよ」
「……御意にございます」
蘭丸は、迷いなく答えた。
だがその胸の奥で、何かが小さく軋んでいた。
これは、信長の代理ではない。
これは、“蘭丸という名を持つ人間”としての、初の表舞台。
己が“影”でなくなっていく恐怖。
しかし、それを誇りとすべき瞬間でもあった。
⸻
京に入った蘭丸は、装束を改め、上畳(うわだたみ)の直衣に緋の袴。
香を焚き、髪を整え、扇を帯びて御所へと向かった。
白砂の敷かれた庭、沈黙に包まれた渡殿、和歌のように緩やかな時の流れ。
それは、蘭丸が育った武家の世界とは、まるで違う“別の宇宙”だった。
だが、彼は怯まなかった。
「信長公の使者、森成利、ただいま参上つかまつりました」
名乗る声は澄んでいた。
姿はまだ少年のようであっても、所作には品と胆力があった。
その姿に、公卿たちも一瞬、目を奪われた。
近衛前久、九条稙通、山科言継──
帝の側近である彼らでさえ、蘭丸の立ち姿に「影」とは思わなかった。
それは“咲く花”だった。
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「信長公の御意により、御所にほど近き地に、新たな御館を築かせていただきます」
「……異例な申し出だが、何ゆえに武門が、宮家の地を望む」
近衛前久の問いに、蘭丸は一拍の間を置いて、答えた。
「それは、主が“武を以て、天に背かぬ世”を望んだからにございます。
この地は、光を遮るためではなく、光を映すための鏡として使いたいと」
「主を映す鏡、か……。では、そなたは何者だ?」
「私もまた、主を映す影。
されど、光が差す限り、影もまた……己を持つものと存じます」
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その夜、御所を辞した蘭丸に、近衛家から一幅の和歌が贈られた。
春の花 影に咲けども 気高けれ
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その歌を見た蘭丸は、静かに呟いた。
「……私は、“殿の名に霞まず匂う”ことを、許されたのでしょうか」
その答えを求めるように、彼は信長のもとへ文をしたためた。
【殿へ】
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殿の御名を背に、私は影として咲き続けます。
されど、その影が“己”を知る時、私はまた、新たな忠義を学ぶのでしょう。
⸻
蘭丸は知らなかった。
この年、同時に始まっていたのは――
石山本願寺との長きに渡る戦いであることを。
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蘭丸が“香”として咲く都の庭には、やがて、火と血の風が吹き始める。
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