大人の恋愛の始め方

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【第2部】22.絶望

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    ***

《今終わったからすぐ向かう》
 と、トモは連絡を入れた。
 トモが焦っているのに気付いたオーナーの沢村が、
「どうかしたか?」
 と声をかけた。
「いや、何でもないです」
「何でもないことはないだろ」
「……」
「聡子ちゃんに何かあったのか?」
 こんなに動揺するのは聡子絡みだと、沢村はすぐに感づいたようだ。
「……いや、聡子が……彼女が、怪我をしたらしくて」
 トモは説明ははしょり、事実だけを述べた。
「ばっ……か、早く行ってやれ。なんですぐ言わない。もしかして抜けたのはそれか?」
「……はい」
「なんで言わなかったんだ」
「迷惑になりますし、仕事中なので、それに個人的なことですから」
「迷惑じゃない。迷惑じゃなくて、心配になるだろ!」
 仕込みはいいから、と沢村は怒り混じりに言った。
「仕込みは俺がやる、できない分は、明日の朝、早くきてやればいい」
 すみませんありがとうございます、とトモは頭を下げた。
「親父が倒れたとき、おまえに助けてもらっただろ? 聡子ちゃんにも気遣ってもらったんだ。何かあったら遅いぞ」
 泣きそうなのを堪え、頭を下げて店を出た。
 ……メッセージに対して、聡子からの返信はなかった。
 カズにも「今から帰る」と聡子の部屋に向かいながら電話をかけ、礼を伝えた。
 急いで聡子の部屋に向かった。
「カズ!」
「トモさん!」
「どうだ?」
「今のところ、何にもないです」
「そっか……よかった」
「ずっと電気も点いたままですし」
「悪かったな」
 カズは、診察代の釣りの千円札何枚かと小銭を渡そうとしたが、トモは受け取らなかった。
「でも……」
「駄賃にもなんねえけどな。取っとけ。弁当代くらいにはなるか? それと」
 トモはビニール袋を差し出した。
「店でオムライス作ってきたから、帰ったら温めて食ってくれ」
 店で二つ、オムライスを作ってきた。一つはカズに、もう一つは聡子にだ。食欲があるかはわからないが、食べさせてやりたかった。
「ありがとうございます!」
 カズは、トモに聡子の部屋に泊まっていったほうがいいと提案した。
「ああ……そうしたいが……」
「会長には、俺が適当に言い訳しますよ?」
「……いや、朝までには戻る。今仕込みも途中で引き上げてきた。朝も早いから」
 カズの提案を飲むべきか、とも思ったが、一旦保留にした。
 カズを見送り、トモは聡子の部屋を訪ねることにした。

 インターホンを鳴らしても返事がない。
 仕方なく、もらっていた合鍵で部屋に入る。
 合鍵を使うのは初めてだった。こんな時に使うことになるとは。
「聡子、来たぞ」
 声をかけるが無音だった。小刻みな時計の秒針音がどこかから聞こえてきた。
 聡子の姿がなく不安になった。
 ベランダにもいない。単身アパートなので、どこにいるかはすぐ目につくはずなのに。トイレをノックするが、返答はない。
 まさかと思い、慌ててベランダに駆け寄る──ベランダから下をのぞくが姿はない。死ぬほど安心した。
「ん?」
 かすかに聞こえる滴の音に反応したトモは、浴室に明かりがついていることに気づいた。
「風呂か!?」
 浴室の扉を開けると、血を流しながら聡子が隅にうずくまっていた。
「聡子!?」
 まさか、と聡子を抱き抱える。
 裸でうずくまっている聡子が、リストカットをしたのかと心底焦った。
 血は、傷口を擦ったために流れたものだとわかり、脱力するほどほっとする。しかし傷口を開いて悪化させたことには安心できない。
「聡子、聡子!」
 揺さぶると聡子が目を開けた。
「……智、幸さん?」
 トモは聡子を抱きしめた。
「よかった……心配したじゃねえかよ……」
「あは……おかえりなさい……」
「おかえりじゃねえよ。こんなところにいて、風邪ひくだろ!?」
 聡子は脱力しているように、その場から動かない。
 トモはゆっくりと立ち上がらせようとするが、聡子が妙に重い。
「……ないの」
「ん?」
「取れないの」
 弱々しい声が耳に届く。
「え……」
「汚れがとれないの……汚いままなの……洗っても洗ってもとれない、どうしよう」
 聡子が錯乱しはじめ、トモはまじまじと彼女を見返した。
「汚いの、全然きれいにならない」
「おまえは汚れてなんかないぞ……?」
「汚れてる、どうしよう」
 聡子はぼろぼろと涙を流す。
 汚れてなんかない、とトモは何度も言った。
「汚いわたしなんか嫌ですよね、もう嫌いになりますよね」
「バカ! そんなこと言うな! おまえを嫌いになるわけないだろ!?」
 汚れた、という言葉は否定できないでいた。
「嫌じゃない、嫌いになんかならない」
「同情、ですか?」
「違う! そんなわけないだろ! どんなおまえでもずっと好きだって言ったろ……責任とるって言ったろ……なんだよ……」
 伝わらないのか、と聡子の顔を見やる。
「こんなことなら……おまえにそんな思いさせるなら、あいつをあの場で殺しておけばよかった」
「それはダメです……」
 彼女は力なく首を振った。
「警察のお世話にはなりたくないでしょ?」
「……そうだけどよ、そんなこと言ってる場合じゃないだろ」
 こんなときまでそんなこと、とトモは声を震わせた。
「智幸さんは、本当に……わたしを好きですか?」
「好きだよ。本当だ。男に二言はねえよ」
「……嬉しいですね」
「おまえが辛かったことは、俺が全部上書きしてやる。全部楽しいこと面白いこと、いいものに塗り替えてやるわ」
「……うん」
 これはおまえと俺の秘密で、ずっと墓場まで持っていけばいい。
 トモは聡子の額に自分の額をぶつけた。
「……うん」
 風邪ひくから、とトモは聡子を抱え上げ、小さく唇に触れたあと、ベッドまで運ぶ。
 聡子は大人しくトモにすがった。
 聡子をバスタオルで丁寧に拭いてやる。身体のあちこちにかすり傷があり、痛々しかった。鳩尾はうっすら痕がある。強い力で殴打されたのがわかった。顔はと言うと、頬にもまぶたにも痣がある。
「薬、もらったか?」
「はい、たくさん出されました」
「そっか、ちゃんと塗らないとな。顔は?」
「冷やしなさいって、言われました」
「そっか……。ごめんな……」
 広田につけられた傷や痣に唇で触れた。
「汚れてるでしょ……?」
「いや、おまえの身体、すべすべしてキレイだぞ」
 形のいい胸に触れると、聡子がトモの手の上に手を置いた。
「智幸さんの手、大きくて温かくて好き」
「……そっか」
 聡子に、微笑みかける。
「ぎゅってしてください」
「ああ」
 聡子を抱きしめ、頬を寄せ合った。
 トモは泣きそうになるのを堪えた。
 自分が泣くわけにはいかない。
 ──薬を塗ってやったあと、
「服は自分で着れるか?」
 トモは尋ねた。
 うん、と聡子は頷く。
 傷があってもの聡子の身体は綺麗だった。
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