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炭酸の泡が消える前に
2.真夜中の給水所
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合宿三日目の夜。
真夏は、夜になっても暑い。
消灯時間を過ぎた宿舎の廊下は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
結衣は喉の渇きを覚えて、ひとり部屋を抜け出した。自販機まで行くのは遠いし、マネージャーとして各部屋に配ったスポーツドリンクの予備が、食堂の冷蔵庫に残っているはずだ。
暗い食堂の扉を開けると、先客がいた。
「……拓海?」
「げっ。……結衣かよ」
月明かりに照らされた窓辺で、拓海が大きなペットボトルをラッパ飲みしていた。練習着のTシャツは首元が伸びていて、風呂上がりなのか、少し湿った髪から石鹸の匂いが漂ってくる。
「マネージャー様も夜更かし? 監督に見つかったら怒られるぞ」
「拓海こそ。……それ、明日用のドリンクでしょ。勝手に飲まないの」
結衣が苦笑いしながら近づくと、拓海は「一本くらい、エースへの特別配給だろ」と悪戯っぽく笑って、そのボトルを差し出してきた。
「ほら、おまえも喉乾いてんだろ。これ、まだ冷えてるぞ」
差し出されたのは、昨日と同じ――いや、昨日よりもずっと「直接的」な、共有の誘い。
暗闇の中、結衣の鼓動がドクンと跳ねた。
「……いいよ、コップ持ってくる」
「めんどくせーこと言うなよ。ほら」
拓海が強引にボトルの口を結衣の唇に近づける。
断りきれず、結衣はボトルを受け取った。冷たいプラスチックの感触。そして、拓海がさっきまで口をつけていた、その場所。
(……夜の闇って、ずるい)
昼間なら絶対にできなかった。でも今は、静寂と暗闇が結衣に勇気を与えてしまう。
結衣は目を閉じて、彼が口をつけたのと全く同じ位置に唇を重ねた。
冷たい液体が喉を通る。それなのに、体温はどんどん上がっていく。
「……ん、ありがと。生き返った」
「おう。……美味かった?」
返そうとしたボトルの口を、拓海が指先でなぞった。
指が触れるわけじゃないのに、結衣は唇を直接触られたような錯覚に陥る。
「……うん。普通のスポーツドリンクだけど」
「俺には、昨日より甘く感じんだけどな」
拓海の視線が、結衣の唇に張り付いて離れない。
「……拓海?」
「……結衣、おまえさ」
拓海がボトルを取り上げ、テーブルに置いた。
一歩、彼との距離が縮まる。
昼間の自販機前では「無自覚」を装えた拓海の瞳が、今は隠しきれない独占欲でギラついていた。
「いつまで、これ《間接キス》で我慢させるつもり?」
低い声が、結衣の耳元で震える。
外で鳴く虫の声さえ聞こえなくなるほど、二人の距離は、もう炭酸の泡が入る隙間もないほどに、近づいていた。
「いつまで、これ《間接キス》で我慢させるつもり?」
拓海の言葉が、夜の静寂に重く、甘く、波紋のように広がっていく。
結衣の背中が、背後のテーブルにわずかに触れた。逃げ場はどこにもない。窓から差し込む青白い月光が、拓海の整った顔立ちを鋭く、そして熱く浮き彫りにしている。
「……っ、我慢、って……」
結衣の声は、震えてかすれた。
拓海は、ボトルを置いた手でそのまま結衣の横のテーブルを突き、彼女を閉じ込めるように身を乗り出した。昼間の、誰に対しても明るいエースの顔はどこにもない。そこにあるのは、自分だけを見てほしいと渇望する、一人の男の子の瞳だった。
「おまえ、わざとだろ。さっき、俺が口つけたところ、ぴったり重ねて飲んだだろ」
指摘されて、結衣の思考が真っ白になる。
「見て、たの……?」
「見てたよ。ずっと見てる。部活中も、今日も……。おまえが、他の奴にドリンク渡して笑ってるのも、全部見てる。……イライラして、頭おかしくなりそうなんだよ」
拓海の顔がさらに近づく。
鼻先が触れそうな距離。彼の呼気が、結衣の唇をかすめる。
結衣は反射的に目を閉じた。ぎゅっと拳を握りしめ、胸の高鳴りが限界を超えようとしたその時――。
「……結衣」
名前を呼ぶ声は、泣き出しそうなほど優しかった。
拓海の額が、結衣の額にこつん、と重なる。
「俺、もう友達のふりできねえよ。おまえにこれ以上『間接』なんて生ぬるいこと、したくない」
結衣は、震える手で拓海のTシャツの裾を掴んだ。
「……わ、私も」
「え?」
「私も……拓海が思ってること、全部、同じだよ……」
その瞬間、拓海が耐えきれなくなったように腕の力を強め、結衣を抱き寄せた。
石鹸の香りと、彼自身の熱い体温。そして、お互いの心臓が、まるでひとつの速いリズムを刻んでいるかのように重なり合う。
「……後悔しても、知らねーぞ」
低く呟いた拓海の手が、結衣の頬を包み込んだ。
親指が彼女の唇をそっとなぞる。さっきまで冷たい飲み物に触れていたはずの場所が、今は火を吹くように熱い。
ゆっくりと重なったのは、もう、冷たいプラスチックの感触ではなかった。
柔らかくて、少しだけ切ない、本当の熱。
外では、遠くで炭酸がはじけるような、夏の終わりの激しい雨が降り始めていた。
でも二人は、もう喉の渇きなんて感じていなかった。
世界中で、この場所だけが、いちばん熱くて、いちばん甘い場所になっていたから。
真夏は、夜になっても暑い。
消灯時間を過ぎた宿舎の廊下は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
結衣は喉の渇きを覚えて、ひとり部屋を抜け出した。自販機まで行くのは遠いし、マネージャーとして各部屋に配ったスポーツドリンクの予備が、食堂の冷蔵庫に残っているはずだ。
暗い食堂の扉を開けると、先客がいた。
「……拓海?」
「げっ。……結衣かよ」
月明かりに照らされた窓辺で、拓海が大きなペットボトルをラッパ飲みしていた。練習着のTシャツは首元が伸びていて、風呂上がりなのか、少し湿った髪から石鹸の匂いが漂ってくる。
「マネージャー様も夜更かし? 監督に見つかったら怒られるぞ」
「拓海こそ。……それ、明日用のドリンクでしょ。勝手に飲まないの」
結衣が苦笑いしながら近づくと、拓海は「一本くらい、エースへの特別配給だろ」と悪戯っぽく笑って、そのボトルを差し出してきた。
「ほら、おまえも喉乾いてんだろ。これ、まだ冷えてるぞ」
差し出されたのは、昨日と同じ――いや、昨日よりもずっと「直接的」な、共有の誘い。
暗闇の中、結衣の鼓動がドクンと跳ねた。
「……いいよ、コップ持ってくる」
「めんどくせーこと言うなよ。ほら」
拓海が強引にボトルの口を結衣の唇に近づける。
断りきれず、結衣はボトルを受け取った。冷たいプラスチックの感触。そして、拓海がさっきまで口をつけていた、その場所。
(……夜の闇って、ずるい)
昼間なら絶対にできなかった。でも今は、静寂と暗闇が結衣に勇気を与えてしまう。
結衣は目を閉じて、彼が口をつけたのと全く同じ位置に唇を重ねた。
冷たい液体が喉を通る。それなのに、体温はどんどん上がっていく。
「……ん、ありがと。生き返った」
「おう。……美味かった?」
返そうとしたボトルの口を、拓海が指先でなぞった。
指が触れるわけじゃないのに、結衣は唇を直接触られたような錯覚に陥る。
「……うん。普通のスポーツドリンクだけど」
「俺には、昨日より甘く感じんだけどな」
拓海の視線が、結衣の唇に張り付いて離れない。
「……拓海?」
「……結衣、おまえさ」
拓海がボトルを取り上げ、テーブルに置いた。
一歩、彼との距離が縮まる。
昼間の自販機前では「無自覚」を装えた拓海の瞳が、今は隠しきれない独占欲でギラついていた。
「いつまで、これ《間接キス》で我慢させるつもり?」
低い声が、結衣の耳元で震える。
外で鳴く虫の声さえ聞こえなくなるほど、二人の距離は、もう炭酸の泡が入る隙間もないほどに、近づいていた。
「いつまで、これ《間接キス》で我慢させるつもり?」
拓海の言葉が、夜の静寂に重く、甘く、波紋のように広がっていく。
結衣の背中が、背後のテーブルにわずかに触れた。逃げ場はどこにもない。窓から差し込む青白い月光が、拓海の整った顔立ちを鋭く、そして熱く浮き彫りにしている。
「……っ、我慢、って……」
結衣の声は、震えてかすれた。
拓海は、ボトルを置いた手でそのまま結衣の横のテーブルを突き、彼女を閉じ込めるように身を乗り出した。昼間の、誰に対しても明るいエースの顔はどこにもない。そこにあるのは、自分だけを見てほしいと渇望する、一人の男の子の瞳だった。
「おまえ、わざとだろ。さっき、俺が口つけたところ、ぴったり重ねて飲んだだろ」
指摘されて、結衣の思考が真っ白になる。
「見て、たの……?」
「見てたよ。ずっと見てる。部活中も、今日も……。おまえが、他の奴にドリンク渡して笑ってるのも、全部見てる。……イライラして、頭おかしくなりそうなんだよ」
拓海の顔がさらに近づく。
鼻先が触れそうな距離。彼の呼気が、結衣の唇をかすめる。
結衣は反射的に目を閉じた。ぎゅっと拳を握りしめ、胸の高鳴りが限界を超えようとしたその時――。
「……結衣」
名前を呼ぶ声は、泣き出しそうなほど優しかった。
拓海の額が、結衣の額にこつん、と重なる。
「俺、もう友達のふりできねえよ。おまえにこれ以上『間接』なんて生ぬるいこと、したくない」
結衣は、震える手で拓海のTシャツの裾を掴んだ。
「……わ、私も」
「え?」
「私も……拓海が思ってること、全部、同じだよ……」
その瞬間、拓海が耐えきれなくなったように腕の力を強め、結衣を抱き寄せた。
石鹸の香りと、彼自身の熱い体温。そして、お互いの心臓が、まるでひとつの速いリズムを刻んでいるかのように重なり合う。
「……後悔しても、知らねーぞ」
低く呟いた拓海の手が、結衣の頬を包み込んだ。
親指が彼女の唇をそっとなぞる。さっきまで冷たい飲み物に触れていたはずの場所が、今は火を吹くように熱い。
ゆっくりと重なったのは、もう、冷たいプラスチックの感触ではなかった。
柔らかくて、少しだけ切ない、本当の熱。
外では、遠くで炭酸がはじけるような、夏の終わりの激しい雨が降り始めていた。
でも二人は、もう喉の渇きなんて感じていなかった。
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