夏の逢魔

飛田樹りく

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立夏

1. 春の終わり

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「やれやれ、ずいぶん派手にやられたものだ」
 亘李せんりは妙に冷めた気持ちで、固い板の間に横になって独り言ちた。
 頭の上には焼け焦げた天井の梁が見えており、5月の青い空がとてもまぶしく見えている。
 亘李の周りにはおびただしいけが人が床を埋め尽くしていた。あちこちで空襲があり、かなりの人が死んだと聞いた割には、どこからこれだけの人が焼け出されてくるのか不思議に思える。しかし、人で埋め尽くされているにも関わらず建物の中に生気は微塵もなく、ここに運ばれてから半時も経っていないのに、すでに死の匂いが漂い始めていた。
 かく言う亘李もシャツは破け、爆発の衝撃でまともに頭が回らず、呆けた気分でぼろの寝台の上に体を横たえるほかなかった。
(自分もどこかけがをしているのか。痛みは感じないが。…いや、人間は大きなけがをするとかえって痛みを感じないという。ということは、自分にもとうとう死の順番が回ってきたというのか。そうしたら、母とふう姉はだれが守るのか…)
 たいして悲しくもないのに、涙が出てくる。

 この日、亘李は早朝から家の近くで勤労奉仕に出ていた。
 新聞では日本軍の華々しい活躍が報じられ、勝利も夢ではないように思われていた。しかし、報道の華々しさと反比例するように、亘李の住む町でも空襲が日に日に激しくなり、ついに見慣れた街並みにも延焼を防ぐために軍から取り壊しの命令が下りた。近所の家の多くはたいてい男たちを戦場に取られてしまっており、学生である亘李に見慣れた街並みを壊す仕事が回ってきたのであった。
 そして、この日も敵は律儀に空襲にやってきて、亘李は作業の途中でみなと一緒に近くの防空壕に逃げ込んだのであった。
 しかし、防空壕があまり丈夫でなかったのか、それとも敵の爆弾の威力が強かったのか、恐ろしい衝撃とともに防空壕は破壊され、亘李はかろうじて助けられて近くの救護所に運ばれて来たのだった。

(これが戦争というものなのか)
(敵に一矢も報えず、母さんもふう姉も守れないまま、自分も死体の山の一部になるのか)
 そう思うと、口惜しくてたまらないのだが、あらがい難い眠気が亘李を死の淵に誘い込もうとする。
 亘李の意識が生と死の狭間でうろうろしていると、ふいにだれかが側に立ったような気配がした。
 その風体は颯爽としており、その辺の野次馬でないことはわかるのだが、空の明るさに隠れて顔が見えない。長身から優雅になびく草色のマントが心地よい風にふわりとなびいて、得も言われぬまろびやかな香りが漂ってきた。
(軍人さん…なのか?)
 亘李が言葉を絞り出そうとしたそのとき、ふと胸に妙な感覚が触れた。
 その感触はゆっくりと亘李の胸を往来し、まだ少年のあどけなさが残る薄い胸の肉付きを確かめるように行きつ戻りつしていた。
(いや、お医者さま…?)
 次第に、その感触が人の指であることがわかってきた。
 指は腹の柔らかい部分で亘李の肌を味わうように、優しく包み、撫で上げた。
 胸の中心から鎖骨まで撫で上げ、首の後ろにも愛撫すると、するりと再び胸まで指を下ろし、敗れた服の下で何かを探り始めた。
 亘李は心臓を鷲掴みにされたように、どきりとした。
(しまった、火事場泥棒か。服の下には母さんから預かった金が…)
 それは自分の命よりも大切な金であった。
 配給も少なくなり、空きっ腹をかかえていた亘李を見かねて、母が闇市で食料を買うために出してくれた大切な金であった。
 亘李は急いでその手を振り払おうとしたものの、腕はぴくりとも動かない。
(くそっ、くそっ、くそっ…!)
 あまりの怒りと悲しみに強く目をつむり、涙を流していると、思わぬ声が頭の上から降り注いだ。
「心配するな、少年。お前の大切なものを取ったりしない」
 若い男の声だった。
 びっくりして目を開いて声のする方を見ると、空の光の中に端正な顔立ちの影が浮かび上がった。
「けがも大したことがないだろう。安心しなさい」
 低い、穏やかな、包み込むような甘い声音で男は亘李をなだめた。
(だれ…?)
 亘李が問いかけようとすると、男の指が唇に触れた。
 顎に軽く手をかけ、長い指で亘李の細い顎をなぞると、親指の腹で下唇をゆっくりを愛撫した。
(何をしている…?)
 わけがわからずされるがままにしていると、今度はその親指を半開きになっていた亘李の歯の間に滑り込ませた。そして、その指をゆっくりと少年の味を確かめるように出し入れするのだった。
 初めての感覚に亘李は軽いめまいを覚えた。
 しかし、嫌ではなかった。
 どこか、甘いめまいであった。
 しばらくすると、男は再び胸に指を滑らせ、亘李の汗ばんだ肌の感触を愉しみ始めた。
 戸惑いと混乱でもうろうとした中で、亘李の呼吸は次第に男の指の動きに重なってきた。
 浅く、湿った色を帯びた息だった。
 亘李が男の指に身をゆだねていると、ふいに左胸に衝撃を感じた。
「あっ…」
 小さな悲鳴がもれた。
 男の指が薄い桃色に染まった少年の乳首を指で転がしていた。
 次第にそれは興奮し、充血し、硬くなっていった。
 過敏になったそれを、男の指が執拗に転がし続けていた。
 今や亘李は右も左もわからなくなっていた。
 今が戦争中であることや、毎日町が破壊され人が無残な死に方をしていることや、毎日飢えで辛いことや、何もかもが幻のように感じられた。
(ああ、幸せだ…)
 亘李の瞳から再び一筋の涙が伝った。
 しかしそれは、先ほどの悔し涙とは違う艶があった。
 
 男はそれを見て、ふっと手を止めた。
 そして、長身を屈めると亘李の耳元に口を近づけた。
 驚くほどはっきりと、男の息遣いが聞こえた。
「君はいい子だね」
 そうささやくと、男は身をひるがえして風のようにいなくなった。
 亘李は甘い余韻の中で、ただ茫として春の終わりの空を眺めていた。
 体の芯には熱い疼きがくすぶっていた。
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