夏の逢魔

飛田樹りく

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2.雨の匂い

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 あの空襲から1週間後。湿った空気が亘李の住む街を覆うようになり、本格的な梅雨の時期が間近に感じられ始めた。花水木単語はなみずきの木が豊かな水を含んで、今こそ我が季節とばかりに咲きほころうとしていた。
 亘李せんりは母や姉と一緒に姉の婚約者・花咲はなさき三千穂みちほの実家がある安其あきの山村に疎開することになった。本来の予定では8月のお盆前に二人の祝言を挙げる予定であった。しかし、亘李の住む街は焼夷弾であらかた焼き尽くされ、通っていた中学校も大半が焼け落ちてしまい勉強どころではなくなった。隣町には父方の親戚も住まっていたが、元々父方の親戚は女学校を出ていた母を快く思っておらず、長い間疎遠であった。配給の食料も日に日に細る中、一緒に住まえば何事か問題が起こるのは目に見えていた。
 そこに、どこかから空襲の知らせを聞いた三千穂から姉に手紙が届き、一家で三千穂の実家に移り住むよう申し出があったのだった。
 母のそのは今の街に残って、招集されて戦場に行った父・充生みつたかの帰りを待つつもりでいた。亘李もそんな母の気持ちがよくわかり、一緒に残って母を守るつもりであった。しかし、土台だけを残して焼け落ちてしまった家にはこれ以上住めるはずもなかった。三千穂の申し出はありがたかった。
 
 亘李の姉・ふう子は数えで二十歳を超えていた。
 ふう子は18歳で小学校の先生であった菊二と結婚し、仲睦まじく暮らしていた。菊二は天真爛漫で、国が喧伝するこの戦争の意味を心から信じていた。
 二人は結婚して間もなく男の子にも恵まれたが、菊二は一昨年突然招集された。そして、半年後には遥か南の島で戦死したとの知らせがふう子のもとに届いたのであった。
 あまりに突然の夫との別れに、ふう子は涙もなく呆然とした。その様子を見た菊二の親戚は「夫が国のために命を捧げたのに、それを誇りもしないお前は非国民だ」と罵った。義母には「この子は皇国の武人として育てる。お前には任せられない」と言われて大事な子どもも奪われた。そうして、悲しみに打ちひしがれたふう子は、その枝と亘李のもとに戻って来たのだった。そんな訳で、亘李一家は近所でやや肩身が狭かったのである。
 ふう子は決して美人ではなかった。どちらかと言えば亘李の方が小さいころから「お母さんに似て小奇麗な顔をしているね」と言われることが多かった。しかし、父・充生の明るい性格を引き継いだのか、そうした周りの言葉に卑屈になることもなく愛嬌があった。そのようなふう子に菊二以外にも、心を寄せる男が何人かいたのである。
 しかし、離婚して家に戻ってから、ふう子の明るさもすっかりなりを潜めてしまっていた。結婚前とうって変わって物思いに沈むふう子を、その枝も、そしてお姉さん子であった亘李も心配していた。改めてふう子に結婚を申し込む男もいたが、戦火が激しくなる中で再び夫と別れることを恐れたふう子は、全く気が乗らない様子であった。
 そんな折、母の遠縁の者から縁談が舞い込んだのである。
 聞けば相手は安其の富農の次男で、陸軍士官であった。そのような身分の者にふう子が釣り合うのか、その枝にはわからなかった。また、ふう子も気乗りしないのではないか、まだ悲しみに沈んでいるふう子を気づ付けるのではないかとその枝は心配した。
 ところが、ふう子は二つ返事でこの縁談に承諾した。それはふう子なりの処世であった。
 夫も子もなくして実家に戻り、食料が乏しくなる中、大した仕事もできず一家に負担をかけていることをふう子は痛く気に病んでいた。充生も戻ってくるかどうかわらかず、そう考えると亘李はしっかり学校を卒業させたかった。軍人と結婚すれば非国民の誹単語そしりから逃れられるという考えもあった。何より、富農の家に嫁げば日に日に細る配給で空きっ腹を抱える亘李に腹いっぱい食べさせることができるのではないか、とも思っていた。自分の気持ちの行方など考えている余裕はなかった。
 そうして承諾の返事をしたのが今年の3月であった。話はとんとん拍子に進み、三千穂が兵役から戻る夏に祝言を挙げることになったのである。
 
 それが空襲で早まってしまった。
 三千穂は家を失ったふう子一家を家に呼び寄せ、どうせなら祝言もさっさと行ってしまてはどうか、と言い出しているらしい。なんとも気忙しい感じもするが、あまり細かなことを気にしないふう子はそれでも構わないという。
 それに、亘李もこの街にいるのが嫌になってきた。
 戦闘機の部品を作る工場が近くにあるこの街は、頻繁に敵機の標的になっていた。
 近隣の町はかなり空襲でやられていて、その度、焼け野原に救援に行かされていた。そして、焼夷弾や人が焼け焦げる強烈な匂いがたまらなく嫌だった。そこら中に死の匂いがただよっていた。
 父を待ちたい気持ちもあるが、父方祖母の家が残っていればそこに連絡が行くだろう。亘李は投げやりな気持ちで、ふう子と一緒に一刻も早くこの街を出て自然豊かな安其の山村に行ってしまいたかった。

 5月の半ば、亘李は焼け落ちた家の跡からまだ使えそうな服と家族の写真を持ち出し、紙に父宛の伝言を書いて焦げた門扉に張り付けた。母も父宛の手紙を書いて軍事郵便に預けた。学校の先生には姉の祝言が終わったらすぐに戻ると伝えたが、本心ではなかった。だいたいの用事が片付くと、一家は安其までの汽車に乗り込んだ。街を出るとき今まで住んでいた見えた。一面、黒焦げで、生き物の気配がまるでなかった。

 安其までは都合4時間の汽車の旅であった。
 汽車はとても混み合っていて、安其に着くまでに押しつぶされてしまうのではないかと思っていたが、運よく途中の駅で座席にありつけた。3人は狭い座席に体を収め、息をついた。
 トンネルを3つほど通り抜けたころ、だれかが窓を開け放った。
 窓の外はしとしとと雨が降っていた。雨は強くなることもなく弱まることもなく、静かに降ってきた。亘李は窓から入ってくる湿った空気を感じながら、小さな干し芋をかじっていた。
 あと2駅で安其の駅に着くというころ、ふいに鼻をくすぐった香りに亘李は体を硬くした。
(この香りは…あの時の)
 甘いような、湿ったような、得も言われぬまろびやかな香り。それは、1週間前の空襲で救護所に運ばれたときにした香りだった。
 同時に、男の指の感触と息遣いが鮮明によみがえってきた。
 男の指が亘李の肌をじっくり味わい、唇を愛撫し、歯の間にそっと入れられる…。
 まざまざと思い出された感触は、今まさに触れられているかのようだった。
(なんで、今…)
 頬を赤くして正面を見ると、母と姉は疲れてぐっすり寝入ってしまっている。
 なんとか男の感触を追い払おうとするのだが、忘れようとすればするほど一つ一つの感触がよみがえってきてしまう。体の芯に、熱い疼きまで湧き起こってきてしまう。
(ああ、早く鎮めないと…)
 周りに気づかれまいと右手で上着の前を強く握りった。

 あのとき、自分はどうしたんだ。
 あの手を払いのけたのか。
 いや、違う。
 僕は…僕の体は幸せを感じていたのではなかったか。

 どうして、幸せなのだ。
 なぜ男の指に触れられて、幸せだったのだ?

 悲しみとも幸せともいえない感情がこみ上げてきて、亘李は思わず吐息をもらしそうになった。
 その吐息を、亘李は指を嚙んで押し殺した。
 右手はいつの間にか、上着の下の、硬くなった下腹部を強く握りこんでいた。
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