英雄は根に咲く

ぼん

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第一部:冒険の根を張る

第2章:影と苔の森 第2話:剣を振るう理由

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 霧が濃くなるほど苔の湿気は空気に溶けて、喉にまとわりつくようだった。安寧の根・地下階層の苔生す森。その一角で、僕たちは新たな探索依頼に臨んでいた。

 ガルドさんが先頭を歩く。その背は大きく、そして頼もしい。手には分厚い盾と斧。まるで森そのものが形を持ったかのような男だ。けれど、その背はどこか孤独でもあった。

「この辺り、魔獣の痕跡が濃い」

 クレアさんが地面に膝をつき、指先で苔をなぞる。

「苔がえぐれている。大型の足跡」

 僕は思わず剣の柄を握り直した。緊張のあまり、手のひらが湿っていた。

「気を引き締めろ。ここは遊び場じゃねぇ」

 ガルドさんが背を向けたまま言った。声に怒気はなかったが、その言葉は容赦ない重さを持っていた。

 僕たちは、安寧ギルドからの巡回依頼でこの層に来ていた。依頼自体は探索と安全確保。けれど情報では、苔の奥に“群れる魔獣”がいるという噂もあった。

(こんな足場で、まともに戦えるんだろうか)

 苔が厚く踏みしめても、ぐにゃりと沈む。地形に慣れていないと足を取られる。けれど、僕はもう後ろに退く気はなかった。仲間としてこの森を歩くと決めたのだから。

「ニコ君、あそこ」

 クレアさんが示した先、霧の向こうに黒い影。ぴくりと動いた──。

「来る!」

 咆哮とともに茂みを割って魔獣が現れた。全身に蔦のような筋を持つ異形の四足獣。口から伸びる牙が、霧に濡れて光る。

「下がれ!」

 ガルドが前に出る。斧を構え、魔獣の突進を真正面から受け止めた。鈍い衝撃音が森に響く。クレアさんの光の玉が漂い、ガルドさんの動きを支援する。

 僕は一歩踏み出した。剣を構える。自分にできることは少ない。けれど、何もしないままでいたくはない。

(僕も……!)

 魔獣の横腹を狙って切り込む。だが、苔に足を取られた瞬間、体勢が崩れた。

 剣の軌道が逸れる。刃はかすったが、致命には至らない。

 魔獣の視線がこちらに向いた。唸り声とともに、爪が振り下ろされる──

「ニコ君!」

 クレアさんの声。光が走り、魔獣の動きが鈍る。その一瞬を突いて、ガルドさんの斧が振るわれた。魔獣は呻き、後退する。僕はその隙に転がるように後方へ。

 息が上がる。膝が震えていた。

「……すみません」

 言葉が自然にこぼれた。足を引っ張ったことへの悔しさが、胸を締め付けていた。

「お前、戦いの意味わかってんのか?」

 ガルドさんが低く言った。その声に怒気はなかった。ただ、真っ直ぐだった。

「おまえの一歩が、誰かを殺すかもしれねぇ。それを分かった上で、踏み出してんのか?」

 言葉に詰まる。僕は、誰かを守りたいと思っていた。けれど、そのために“誰かを斬る”覚悟があっただろうか。

「答えられねぇなら、ここに立つな」

 そう言い捨てて、ガルドさんは背を向けた。斧を担ぎ、奥の茂みに向かって歩き出す。

「ガルドさん!」

 クレアさんが止めようとしたが、彼は振り返らなかった。

 残された僕とクレアさん。森の霧が、より濃くなった気がした。

「ニコ君、大丈夫?」

 クレアさんの声はどこまでもやさしかった。だけど、それが余計に痛かった。

「僕は……剣を、振るう理由が……分からなくなってきました」

 そう口にした瞬間、胸元の光の玉が微かに揺れた。その光が、なにかを問いかけてくるようで。

 霧の中、クレアさんと二人きりになった空気はどこか冷たく、張り詰めていた。

「ガルドさんは……正しいです。僕、また足を引っ張って……」

 そう言った自分の声が、どこか遠くの誰かのようだった。自分の気持ちに、自分が追いついていない。

 クレアさんは焚き火のそばにしゃがみ、手のひらで優しく火を囲むようにしていた。小さな光の玉が彼女の肩先に寄り添っていた。

「ニコ君、怖かった?」

 問いはやさしかった。責めるのではなく、寄り添うような口調だった。

「はい……でも、それだけじゃないです。怖いのに前に出てしまった。仲間の役に立ちたくて。でも、僕はまだ誰かを守れるほどの力なんて……」

 クレアさんは少しの間、黙って火を見つめていた。

「私もね、最初は震えながら光を呼んでいた。光の精霊は強いけど、それを扱う私の心が弱かったら、ただの光にしかならない。支えたくても、支える手が届かなかったりする。だから、ニコ君が前に出たこと、私はすごく勇気だと思う」

 その言葉に心がほどけた。

「でも……」

 言いかけたとき、森の奥から鈍い音が響いた。空気が震える。大型の魔獣が動いているのだ。

「行かなきゃ、ガルドさんのほうへ!」

 クレアさんとともに走り出す。苔の上は滑りやすい。視界も悪い。それでも、いまは足が震えなかった。

 霧が裂けるように、魔獣の咆哮が木々を揺らした。巨大な黒い体躯、牙の先に粘液を纏う。ガルドさんが一人で相対していた。盾で受け止めながら、斧で距離を取っていたが、押されていた。

「クレア、援護を!」

「はい!」

 光の精霊が舞い、魔獣の視界を一瞬だけ奪う。僕はガルドさんの隙を突く形で飛び込んだ。

「ニコ、来るな、下がれ!」

「でも、もう逃げたくないんです!」

 叫びながら剣を振るう。自分の力では浅い傷しか与えられない。それでも、魔獣の注意を引くには十分だった。次の瞬間、ガルドさんが低く構えて突進。渾身の一撃が、魔獣の側頭部を捉える。骨が砕ける音がして、魔獣が大きくぐらついた。

「今だ!」

 僕は跳ね上がるように踏み込んだ。剣の切っ先が喉元を貫いた。抵抗はあった。でも、恐怖ではなく、意志が腕を支えていた。

 魔獣が崩れ落ちた。苔の上に、濁った血が静かに滲む。

「……やったのか」

 息が上がる。けれど、不思議と震えはなかった。

「ニコ……」

 クレアさんが駆け寄ってきた。

「怪我は? 大丈夫?」

「少し、腕がしびれています。でも、平気です」

「やるじゃねぇか」ガルドさんが、ぼそっと言った。

「足手まといの坊主が、よくここまで来たな」

 その声には、どこか認める色があった。

「……あの時、言われたんです。戦う理由がなければ立つなって。それで考えました。誰かのために剣を振りたい。それって、理由になりませんか?」

 ガルドさんはしばらく僕を見ていた。そしてふっと笑ったように、顔を少しだけ背けた。

「まあ、悪くねぇ。理由としては上等だ」

 クレアさんも笑みを浮かべた。光の玉が、僕の胸元でやわらかく脈動していた。

「これからは、もう少し俺の背中、預けてみるか?」

「……はい!」

 そう答えると、ガルドさんは肩をすくめた。

 霧の向こうに、ほんのわずか光が差し込んでいた。それは、朝日か、それとも、精霊の祝福か。

 踏みしめた足元に、確かに何かが根付き始めている。
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