英雄は根に咲く

ぼん

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第一部:冒険の根を張る

第2章:影と苔の森 第3話:黒髪の風

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 苔むした森の奥、深緑の帳が昼を拒むように垂れていた。

 僕は一人、仲間とはぐれていた。原因は、罠だった。足元に張り巡らされた細い蔓。それに気づかず踏み込んでしまい、反射的に飛び退いた拍子に斜面を滑り落ちた。叫び声を上げる暇もなく、厚い苔に包まれた地面に叩きつけられ、気づけば霧に覆われた小さな谷底にいた。

「……どこだ、ここ」

 声に出しても返事はない。耳に届くのは、葉が擦れる微かな音と、遠くで水が滴る気配だけ。

 地図も、方角も、すべてが意味を失っていた。

 クレアさんやガルドさんはすぐ上にいるかもしれない。でも、声を出すにはこの森は静かすぎた。魔獣が近くにいる気配はないが、それが逆に不安を煽った。

 何より、僕は自分の失敗に胸が締めつけられていた。たったひとつの注意不足で、パーティを乱し、足を引っ張った。

(……落ち着け。まずは、戻る道を探さないと)

 ゆっくりと歩を進めながら、周囲を見渡す。けれど苔と靄に包まれた視界は曖昧で、木々もどこか均一で、目印になるようなものは何もなかった。

 霧が深くなる。歩けば歩くほど、音が吸い込まれていくような感覚が広がる。

 木々の間を風が通り抜け、まるで誰かが囁いているように聞こえた。

 そのときだった。

 気配がした。背後、ではない。斜め前、木立の向こう。何かが、そこに“いる”。

 僕は反射的に剣に手をかけた。が、それを抜く前に、姿が現れた。

 ――黒い外套。長く伸びた黒髪。無言で佇む少女。

 背中には弓。腰には矢筒。その姿は、まるで森の空気そのもののように静かで、凛としていた。

「……誰……?」

 僕が言葉を発すると、彼女は何も言わずに一歩前へ出た。

 その足音さえも、まるで霧に溶けるように静かだった。

 少女は僕の方を見るでもなく、すっと右手を上げ、森の奥――ほんのわずかに開けた獣道を指し示した。

 苔の間に踏み固められたわずかな痕跡。気づかなければ見過ごしてしまうような、細く隠れた通り道。

 僕は戸惑いながらも、思わず尋ねた。

「助けてくれるの?」

 少女は、微かに眉を動かした気がした。けれどすぐに、首を横に振った。

「手を貸したわけじゃない」

 久しぶりに聞くような声色だった。低く、乾いた響き。けれど、不思議と印象に残る声。

「ただ、邪魔されたくなかっただけ」

 言い残すと、少女は踵を返して森の中へと歩き去っていく。

「ま、待って──!」

 追いかけようとしたが、その背中はもう、靄の奥に溶けていた。気配も、音も、残していない。ただ、確かに“そこにいた”という感覚だけが残っていた。

 僕は胸に手を当てた。なぜか心が、少しだけあたたかくなっていた。

(……誰だったんだろう。なんだか、すごく……)

 言葉にはできない“何か”を感じながら、彼女が示した道へと足を踏み出した。

 静かに、でも確かに、霧の奥に光が射すような気がしていた。

 苔の道を辿ると、やがて視界の先に、見覚えのある倒木と苔壁の窪みが現れた。

「……戻れた」

 安堵の吐息が零れた瞬間、遠くから声が届いた。

「ニコ君! そこにいるの?」

 クレアさんの声だった。間もなく彼女とガルドの姿が木々の合間から現れる。クレアさんは駆け寄り、僕の肩を掴んだ。

「よかった……無事で……!」

 その表情には心底ホッとした安堵がにじんでいた。僕は頷きながら、言葉を探す。

「ごめん……罠に引っかかって、はぐれて……でも、誰かが……」

 言いかけて、言葉を飲み込んだ。

 助けてくれた、とは言えない。彼女自身がそう否定したし、名も知らないままだ。けれど、彼女の示した道がなければ、僕は今ここにいなかった。

「……なんでもない。ちゃんと戻れてよかった」

 クレアさんは少し首を傾げたが、それ以上は問わなかった。代わりに、ふっと笑って言った。

「ほんと、よく戻ってきてくれた。じゃないと、またガルドさんが森ごと斬り開くところだったよ」

 その言葉に、ガルドさんは僅かに眉を動かし、目を逸らした。無口な彼なりに、心配してくれていたのだと思うと、胸がじんわりと温かくなる。

「……ありがとう。これからは、もっと気をつける」

 その場で小さく頭を下げると、ガルドさんは一度だけ頷いた。

 歩き出した三人の後ろで、僕はもう一度、森の奥を振り返った。

 靄の向こうに、あの黒髪の少女の影はなかった。けれど、森を吹き抜ける風のなかに、微かに彼女の気配が残っている気がした。

(また会えるのかな)

 そんな思いが、胸の奥に芽を出す。

 ギルドに戻ったあと、今日の依頼内容を報告し、無事に報酬を受け取った。事務官の対応もいつも通りで、特に問題はなかったが、僕の心は落ち着かないままだった。

 クレアさんやガルドさんと別れ、ひとりで寮の部屋に戻った夜。窓辺に腰かけ、ぼんやりと夜風に当たりながら、あの時の光景を何度も思い返した。

(なんで、僕にあの道を教えてくれたんだろう)

 名を告げることもなく、矢も放たず、ただ静かに現れて、去っていった少女。
 それが誰かと問われれば「黒髪の風」としか答えようがない。

 強くて、静かで、けれどどこか寂しげな背中。

(あの人は、何を守っているんだろう)

 窓の外に、夜の森が見えた。風が梢を揺らし、星明かりがこぼれていた。

 僕は胸元にぶら下がる器――光の玉の入ったペンダントに手を添えた。

 ほんの僅かに、それがあたたかく脈打ったように感じた。

 もしかしたら、あの出会いは偶然じゃない。僕がここで生きていくための、ひとつの始まりなのかもしれない。
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