英雄は根に咲く

ぼん

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第一部:冒険の根を張る

第2章:影と苔の森 第4話:揺れる三角形

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 霧がまだ地を這うように漂う朝、僕はギルドの掲示板前で依頼票を手に取っていた。

 巡回依頼。階層は第七、苔むす湿地帯。前回の探索で得た情報が反映されたのだろう。けれど、今日のことはそれ以上に心を騒がせる予感があった。

 集合場所に着くと、朝露を纏った草木が淡く光を反射し、深い緑が空を遮っていた。空気はしっとりと肌にまとわりつき、遠くでは水音が絶え間なく響いていた。

 そこにはすでにクレアさんと、そしてもう一人の少女がいた。

 昨日、森で出会った彼女。あの冷たい視線と、矢の鋭さ。幻ではなかった。それどころか、今はクレアさんと話してさえいる。

 僕の足が止まった。

 二人の間には言葉こそ少ないが、目の動きや間合いに、信頼のようなものが滲んでいた。僕はそこに踏み込んでいいのか、わからなかった。

「……おはよう、ニコ君」

 クレアさんが気づき、手を振る。その表情はいつもと変わらず穏やかだったが、どこか距離があるようにも感じられた。

「おはよう……」と返しつつ、彼女に目を向ける。彼女はこちらを見ていたが、すぐに視線を外した。どこか、見透かされている気がして、胸がざわついた。

「今日の依頼、四人編成。私とニコ君、ガルドさんそれとこちらのリリィさんも一緒よ」

「……リリィさんも一緒?」

「同じ依頼に入っていたの。ギルドが合同行動を推奨したらしいわ。連携の確認を兼ねて」

 そのとき、背後から重みある足音が近づき、ガルドさんが姿を見せた。相変わらず無口な彼は、ただ軽く頷いて、列の最後尾に収まった。

 ガルドさんがいてくれるのは心強かった。だが、今の僕には、彼の沈黙が不思議と重く感じられた。

 出発の準備が整い、僕たちは湿地の回廊へと足を踏み入れる。

 この階層は、ぬかるんだ地面と滑る岩が複雑に入り組み、足を取られやすい。光も届きづらく、植物の甘い匂いと水苔の匂いが入り混じっていた。

「滑るから足元注意してね」

「はい」と返事をしつつ、僕は隣のリリィを横目で見た。彼女は一言も発せず、弓を背に、一定の速度で進んでいた。

 どうして、彼女は僕に冷たいのだろう。なぜ、あのとき助けてくれたのに、今は何も言ってくれないのか。

 迷った末に、思い切って声をかけた。

「昨日、森で……会いましたよね」

 リリィさんはほんの少しだけ立ち止まり、横目で僕を見た。

「……覚えている。でも、手を貸したわけじゃない」

「えっ……?」

「私は私の道を歩いていただけ。あなたがいたのは、たまたま」

 その言葉は冷たかったが、不思議と否定された気はしなかった。むしろ、そこにわずかな……何か伝えきれない感情のようなものがあった。

 クレアさんは後ろで黙って歩きながら、そのやりとりを聞いていたようだ。何も言わない。ただ、歩幅が少しだけ僕に寄り添ってくる。

(僕は今、仲間の輪にいる……でも、その中心に届いていない)

 そんな感覚が、胸の奥に広がっていく。

 そのとき、リリィさんが再び足を止めた。

「何かいる」

 短い言葉が空気を張り詰めさせた。

 ガルドさんが静かに前へ出る。彼の盾がわずかに震えた。察知したのだろう。

「方向は?」クレアさんが低く尋ねる。

「左前方、湿地の窪み。四体。動きは緩慢だけど、広がってる」

 リリィさんの返答は迷いがなかった。

 連携の速度に一瞬ついていけない自分を、情けなく思った。

 ぬかるみの音を押し分けるように、黒い影が森の奥から現れた。

 《蔦魔獣(つたまじゅう)》。四体。それぞれがねじれた根を引きずり、湿地を滑るように進んでくる。その動きは鈍重だが、狭い足場では一撃が命取りになる。

「前方二体をガルドさんが抑える。クレアさんは右の誘導、リリィさんは左を援護。僕が最後尾から支援に回る!」

 声を張りながらも、内心は焦っていた。自分が指示を出している──その責任が、体の奥にずしりと重くのしかかる。

 クレアさんが光の加護を展開し、眩い輝きが足場を照らす。魔獣の動きが一瞬鈍る。ガルドさんがその間隙を突いて正面から二体を抑え込むように前進し、盾を斜めに構える。その姿はまるで動かぬ城壁のようだった。

 リリィさんの矢が次々に放たれる。矢羽が湿気を裂き、魔獣の脚部や蔦の根元に正確に突き刺さる。その正確さに僕は目を奪われる。

 けれど、油断はできない。一体がこちら側に回り込もうとしていた。

「こっちは僕が!」

 剣を抜き、蔦の根の動きを読む。滑る足場で踏ん張りが効かず、斬撃は浅く入るだけだった。

「核、第三節の内側にある。右から斜めに切り込んで」

 リリィさんの冷静な指示が飛ぶ。その言葉だけで、僕の体が自然に動く。

 右に回り込み、反転しながら斬り上げる。硬質な感触。命中した。

 魔獣が悲鳴のような唸り声を上げて崩れた。息を吐く間もなく、もう一体が突っ込んでくる。

「危ない!」クレアさんの叫びとともに、光の壁が一瞬で立ち塞がる。その間にガルドさんが割って入り、盾で押し返した。

(守られてばかりじゃ駄目だ)

 僕は呼吸を整え、体勢を整える。今度は自分が守る番だと、心の中で誓った。

 戦いの流れが変わったのは、その直後だった。

 リリィさんの矢が最後の魔獣の目元を貫き、ガルドの渾身の一撃が胴を砕いた。

 湿地に静けさが戻る。全員が息を整える中、僕だけがその場に立ち尽くしていた。

「……皆、ありがとう」

 自然とこぼれたその言葉に、誰も何も返さなかった。

 ただ、リリィさんが一歩、僕の隣に立った。

「悪くなかったわ。……あんたも」

 驚いて顔を上げると、彼女はすぐに視線を逸らす。だが、その横顔はどこか穏やかだった。

 クレアさんはそれを見て、小さく微笑んだ。

「うん、確かに悪くなかった」

 彼女の声は、柔らかく、温かかった。

 ガルドは何も言わなかったが、僕の肩を一度だけ軽く叩いた。その手は、あたたかかった。

 静けさの中で、僕たちはしばし立ち尽くした。

 どこか遠くで水が落ちる音がしていた。湿った風が足元を撫で、光の精霊のかすかな気配が、空気を震わせていた。

(ああ、そうだ……こうやって、支え合っていくんだ)

 僕はそっと胸元のペンダントに手を添えた。中に宿る光の玉が、かすかに震える。

 それは、言葉にはならない“応え”のようなものだった。

「次は、もう少し……うまくやれるといいな」

 思わずこぼれた独り言に、リリィさんが目を細めた。

「……そうね。次は、もっと見せて」

「え?」

「あなたの剣。ちゃんと、見てあげる」

 その言葉は、不思議な温かさを持っていた。

 揺れていた三角形。それはまだ歪なままだけど、確かに形を成しはじめていた。

 僕はようやく、ほんの少しだけ、その中心に近づけたような気がした。
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