英雄は根に咲く

ぼん

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第二部:覚悟の種が揺れる

第6章:絆という名の盾 第2話:壊れかけの均衡

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 渓谷の縁に、わずかな岩のき裂が走っていた。

「……音が変わった」

 リリィが眉をひそめ、小さく呟く。

 足元に流れる水は静かに見えていたが、その下では何かが脈打っている。かすかな地鳴り。風に紛れるそれをリリィの感覚の精霊が捉えていたのだ。

 ブルーミング・ルーツの五人は縦列で狭い岩棚を進んでいた。右手は垂直の岩壁、左手は断崖の縁。足場は細く、湿気を帯びて滑りやすい。

「ニコ君、左に寄ると危ないわ」

 クレアが後方から声をかける。ニコは頷きつつ、足元を慎重に確かめていた。

「大丈夫です。……でも、なんだか風の通りが変わったような……」

「それ、気のせいじゃねぇな。岩の下、少し鳴ってる音が違う」

 カイもすぐに反応した。風と雷の精霊を持つ彼は、こうした地形のわずかな変化にも敏感だった。

 だが、その瞬間だった。

 バキッ──と、鋭い音が響いた。

「──ッ、崩れるぞ!」

 カイが叫ぶと同時に、岩棚の一部が崩落した。

 土煙が舞い、視界が白く染まる。悲鳴はなかった。ただ、誰かの姿が、音もなく消えた。

「ニコ君!」

 クレアの声が反射する岩肌に消えていく。光の玉がひとつ、谷底へ吸い込まれるように落ちていった。

 ──落下。

 ニコが、崩落とともに下へ滑り落ちたのだ。

「っ、カイ、ロープある?」

「あるけど、間に合うかどうか──っ、駄目だ、もう見えねぇ!」

 岩壁は垂直に近く、土砂の飛沫が落石を誘発している。

 焦りが全体を包み始めた。リリィが矢を構えかけるが、狙うものなど見えはしない。

「……落ち着け」

 ガルドが、低く声を発した。

 彼の声に、怒気はない。ただ、圧があった。風が止まるような静けさ。盾役としての“壁”ではなく、今は全体を支える“支柱”のように。

「まず、崩落の中心と範囲を確かめろ。足場が脆い場所には、誰も近づくな」

 短く、的確な指示。

 カイが我に返ったように頷き、クレアも深呼吸する。リリィが素早く岩棚の縁を見渡し「斜面沿いに回り込めば、下へ降りられる足場がある」と報告した。

「俺が先行する。崩落が収まっていない。斜面が崩れれば、また誰か落ちる」

 そう言って、ガルドは手早く装備を整えた。

 彼の背に、クレアが声をかける。

「ガルドさん……大丈夫、ですね?」

「俺が行く。下は任せろ」

 その言葉に、誰も反論しなかった。

 重たい盾と斧を背に、ガルドは斜面を慎重に下っていった。谷底は湿っていて、粘土のような地質が靴底を吸い込む。落下による轍が、谷間の浅瀬へと続いていた。

 ──光の玉。

 岩影の水際に、ふわりと漂っている。それを目印に、ガルドは駆け出した。

「ニコ!」

 返事は、すぐにはなかった。

 倒れた姿が、泥の中に横たわっている。だが、呼吸はある。腕を庇うようにして倒れており、意識は──

「う……ガルド……さん……?」

「無理に動くな。……骨は、大丈夫か?」

「たぶん……ひねっただけ、です……痛いけど、動きます」

「よくあの高さから落ちて、生きていたもんだ。……大した奴だ」

 ニコの身体に大きな外傷はなかった。泥で足を取られ、左肩を庇っていたが、骨に異常はないようだった。


 ガルドは肩を貸して立たせると、言った。

「歩けるか」

「はい。……なんとか」

 ニコの声はかすかに震えていた。それは恐怖でも痛みでもない。仲間と離れたこと。今、自分が“足を引っ張っている”という焦り。だがガルドは、何も言わなかった。ただ、前を向いて歩き出す。その背を見てニコもゆっくりと一歩を踏み出した。

 谷間には倒木が幾つか橋のように横たわっていた。光の玉が淡く進路を照らす。やがて、水の流れの音が強まってくる。斜面の上から、誰かの声が聞こえた。

「ニコ君! ──ガルドさん!」

 クレアの声だ。

 少し遅れて、カイが叫ぶ。

「おーい、無事かー!」

「無事だ。今、戻る」

 ガルドが短く返すと、上の方で安堵の声が漏れた。

 少し開けた場所で合流しやすい地点を見つけ、そこへ移動する。リリィがすでに斜面の上からロープを垂らしてくれていた。

「気配はないけど、さっきから鳥すら飛ばない。……何かが近くにいるかも」

「了解」

 ガルドが頷くと、クレアがロープを握りしめながら、下へと降りてくる。

「ニコ君、怪我は!?」

「大丈夫、です。ちょっと……足が痛いけど」

「よかった……ほんとに……」

 クレアがそっと額を寄せ、息を吐いた。

 だが、ほっとしたのも束の間。リリィの眉がぴくりと動いた。

「左後方。岩陰──気配」

 言い終わる前に、矢が放たれた。

 直後、岩陰からの唸り声。草を踏み鳴らし、現れたのは──《水潜蛇》。

 カイが即座に展開し、雷と風の精霊の共鳴を呼ぶ。だが湿気に包まれたこの谷では、火と雷の精霊術は通りが悪い。

「音を分散させろ!」

 ガルドが叫び、斧を地に打ちつける。振動が広がり、同時にクレアの光が淡く響くように周囲を照らす。

 ニコは崩れかけの足で立ち上がった。

「僕もやります……!」

 けれどガルドが一歩前に出た。盾が地に立てられる。岩のような姿勢で、敵の進路を遮る。

 リリィの矢がもう一本、魔獣の首元を狙うが、鱗が硬く通らない。カイが爆風を放つも、湿気が熱を逸らす。

 魔獣が吠え、尻尾を横薙ぎに振るった。

 次の瞬間──盾が音を立てた。

 衝撃が走り、ガルドの足元の地面が崩れかけた。だが彼は踏みとどまる。ずしりとした構えで、獣の力を受け止める。

「……今だ、撃て」

 リリィの矢が放たれ、クレアの光が矢に添う。魔獣の頭部が上がった瞬間、ニコが放った火の閃きが、目のあたりを焼いた。

 悲鳴とともに、魔獣が大きくのけぞる。ガルドが最後の力で踏み込み、盾の縁を叩きつけた。呻き声。魔獣は後退し、やがて音もなく姿を消した。

 静寂。

 誰も、言葉を発さなかった。ただ、盾の前に立つ男の背中が、すべてを物語っていた。

「……おっさんがそう言うと、不思議と落ち着くんだよな」

 カイがぽつりとつぶやいた。

 クレアが小さく笑い「そうね」と頷く。

 リリィは何も言わない。ただ、矢の先端を点検しながら、時折ガルドの背を見やっていた。

 そしてニコが、静かに口を開く。

「ありがとう、ございます。ガルドさんが、そう言ってくれたから……怖くなかったです」

 その言葉に、ガルドは振り向かない。ただ、少しだけ肩の力を抜いたように見えた。

 洞窟の出口が、光を伴って近づいてくる。みんなの足音は、いつの間にか“ひとつ”の響きに変わっていた。
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