英雄は根に咲く

ぼん

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第三部:精霊との対話

第12章:幻影と沈黙 第1話:眠れぬ森のささやき

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 迷宮の奥深く、ひんやりとした空気が頬をかすめる。

 足元には苔と細かな晶石がびっしりと広がり、天井や壁にも無数の小さな結晶が張りついていた。歩くたび、カツンと控えめな音が鳴る。僕たちは、かつてないほど神経を張り詰めながら進んでいた。

「ここからが“晶石の迷宮層”本番だ」

 カイさんが低い声でつぶやく。

「この階層、情報によれば幻覚や記憶の混乱が多発するらしいわ」

 クレアさんが事前の調査資料を手に、慎重に前方を見やる。

 ガルドさんは盾を構えたまま一歩ずつ進み、リリィは矢をつがえたまま後を警戒している。僕は、胸元の光の玉に触れながら、心のどこかで“ざわり”とした予感を抱いていた。

 通路を進むたび、壁際の結晶がふいに淡く光り出す。目の端で何かが動いた気がして、息を詰める。

「……今、何か……見えた?」

 リリィの声が小さく響く。僕たちは無意識に身を寄せ合う。

「気のせいだと思いたいけど、たぶん……違う」

 カイさんが肩をすくめた。

「迷宮の精神干渉だろう。おかしな気配を感じたら、すぐ報告しろ」

 ガルドさんが短く指示を出す。

 迷宮層はどこまでも続く静寂に満ちているはずなのに、今日は“誰かに見られている”ような、奇妙な緊張感が抜けない。

 しばらく進んだ先で、クレアさんがふと立ち止まった。

「……ここの壁、少し揺れてるみたい」

 みんなが注意深く壁に手を当てるが、僕の指先だけが微かに“冷たさ”を感じた。

(おかしい。さっきから、景色がぼやけたり、足音が遠く感じたりする……)

「みんな、気をつけて」

 クレアさんの声が揺れる。

「この階層、たぶんもう幻覚が始まってる」

 言葉の端々に、普段とは違う“揺れ”がある。

 リリィが弓を握りしめたまま周囲を睨み、

「おい、誰か……今、声聞こえなかったか?」

 とカイさんが訝しむ。

「声?」

「……ああ、いや、気のせいだ」

 ガルドさんが前を歩きながら、後ろを振り返る。

「混乱したら、必ず“自分がどこにいるか”を口に出せ」

 その言葉に、僕も焦りを覚えた。

(自分がどこにいるか? ……僕は、地下五十二階層。仲間と一緒にいる。ここは、晶石の迷宮――)

 そう何度も頭の中で確認しながら歩く。だが、時折壁の結晶が“人影”のように見え、誰かの気配が背後にまとわりつく。

 どこかで“ささやき声”が聞こえる気がした。

 それは言葉にならない音の塊で、記憶の中の誰かの声のようでもあった。

「ねぇ……君、本当に、ここにいるの?」

 ――はっとして振り返る。だが、誰もいない。ただ仲間たちが静かに前を進んでいるだけ。

 心臓がどきりと跳ねた。胸元の光の玉に触れる。

(僕は、ここにいるよ。ちゃんと……いる)

 そのとき、不意に目の前の風景が淡く歪んだ。床が波のように揺れ、結晶の壁が遠のいて見える。

「……みんな、変な感じ、してない?」

 思わず声をかけると、カイさんが

「俺も、ちょっと……目が回る」

 リリィが低くつぶやく。

「この場所、眠っている森みたい。静かすぎて、逆に落ち着かない」

 
「呼吸が浅くなる。……意識して、深く吸って」

 クレアさんが指示を出す。

 僕は改めて大きく息を吸い込む。胸元の光の玉がほんのり温かい。そのぬくもりだけが、確かな現実に思えた。

 仲間たちも同じように光の玉に触れ、互いの存在を何度も確かめ合う。だが、進むほどに“眠れぬ森”のささやきが心に絡みつき、静かな動揺がじわじわと広がっていった。

 静寂に包まれた迷宮の中を、僕たちは慎重に進み続けた。

 歩くほどに結晶の光が強くなり、壁や天井の模様がどんどん複雑に歪んで見える。仲間たちの息遣いも、なんだか遠くから聞こえるような気がする。

(おかしい、これまでこんな感覚はなかったのに……)

 胸元の光の玉が微かに脈打っている。

 ふと、誰かの足音が自分のすぐ背後から響いてくる。振り返ると、そこに仲間はいない。

「……どうした、ニコ」

 ガルドさんの声が前方から響き、僕はハッと我に返った。

「……ごめん。ちょっと、変な感じがして」

「幻覚は、ここから本格的に始まる。深追いするな」

 カイさんがそう警告する。リリィは僕を見て

「混乱したら“ここが現実”って唱えて」と低く囁く。

 仲間の声は確かに現実なのに、次の瞬間には自分の足音さえもぼやけて聞こえなくなる。

 迷宮全体が、森の奥深くに沈んだような静けさだった。いや、ささやきが、どこからともなくずっと続いていた。

「……ニコ君、しっかり」

 クレアさんがすぐそばに寄り添う。その手が僕の肩にそっと触れる。

「……うん、大丈夫」

 言葉を絞り出す。けれど、本当に大丈夫かどうかは自分でもわからなかった。

 そのとき、壁際の結晶がふっと揺れて、誰かの影が浮かび上がった。

(――父さん? 母さん?)

 ありえないはずの幻影に、心臓が跳ねる。すぐに目を強く閉じて、

「僕はここにいる」と小さく呟いた。胸元の光の玉が熱くなり、現実に引き戻してくれる。

「……みんな、ここにいるよね?」

 思わず口に出してしまう。

「おう、俺はちゃんといるぞ」

 カイさんが明るく答え、

「迷ったら声を出して」

 リリィが短く返す。

 ガルドさんも静かに「焦るな」とだけ言った。

 安心したような気持ちが胸に広がる。僕だけじゃない、仲間がいる――それだけで心が少し落ち着いた。

 けれど、歩くごとに今度は“記憶”がぼやけていく。昨日の出来事や会話が思い出せない。何度も「ここは五十二階層、晶石の迷宮」と心の中で繰り返す。

 リリィがそっと手を握ってくれる。その小さなぬくもりに助けられる。

 どこかで再び“ささやき声”が聞こえる。今度ははっきりと自分に問いかけてくるような感覚だった。

 ――本当に、ここにいるの?

(いる。……僕は、ここにいる)

 その“声”に負けないよう、胸元の光の玉に呼びかける。

「君も、ここにいてくれる?」

 すると、光の玉が強く輝き、一瞬だけ周囲の結晶がすべて淡い光で包まれた。仲間たちもその異変に気づき、全員が顔を上げる。

「ニコ、どうした?」

 カイさんがすぐに駆け寄る。

「……ごめん、ちょっと頭がぼうっとして……でも、光の玉が、すごく温かかったんだ」

 クレアさんが僕の手を両手で包み込み、

「精霊は、いつでもそばにいるって教えてくれたでしょう?」

 リリィが頷いた。

 気づけば、迷宮の森のささやきが遠ざかっていた。

 結晶の光は静かに瞬き、胸元の玉は確かに“ここ”を示してくれている。

 迷宮の出口が、うっすらと遠くに見えてきた。

 歩みは重いが、仲間たちの気配と精霊のぬくもりを信じて、僕たちはさらに奥へと進み出す。

「僕は……ちゃんとここにいる」

 誰にともなく、そう呟いた。その声に、光の玉が再び静かに揺れた。
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