英雄は根に咲く

ぼん

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第三部:精霊との対話

第13章:雪に染まる祈り 第1話:クレア──祈り

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 五十階層を越えた晶石の迷宮。澄んだ光が乱反射し、幻のような揺らぎと沈黙が満ちる空間。

 死角から襲い来る魔獣の影、精神を侵す冷たい囁き。ブルーミング・ルーツの一行は、そこで限界まで戦い抜き、ついに依頼を成し遂げた。

 体中に残る無数の傷。光の玉の輝きも擦り減り、歩を進めるのさえやっとだった。崩れかけた洞窟の出口、冷えきった岩肌に背を預けて、ガルドが重い息を吐く。

「……これで終わりだ。全員、外へ」

 その一言を合図に、皆が黙々と進路を定めた。

 出口に続く螺旋路は、帰還を焦らすように果てしなく長い。一歩ごとに足取りが鈍り、私は胸元の光の玉に手を添える。

「……もう少しだけ、力を貸して」

 光の玉は淡いぬくもりで応えた。

 カイが先頭で小さな火を灯し、道を照らす。

「眠気と寒さ、どっちが強いかな。……どっちも負けそう」

 いつもの調子が戻らない声だったが、それでも誰かを励ますための冗談。ニコは黙ったまま、指で服のほつれを撫で、何度も後ろを振り返っていた。

 リリィは無言で矢筒の中身を確かめ、落とし物がないか何度も足元に目を走らせる。ときおりクレアの背中に視線を送ってきたが、何も言わなかった。

 外の光がかすかに見えたとき、全員が同時に立ち止まる。夜明けの空気が微かに流れ込むだけで、疲労も痛みも一瞬忘れるほどだった。

 地上への最後の階段を登りきると、柔らかな朝日が仲間たちを迎えた。冷たい風が肌をなで、都市の鐘の音が遠くから響いてくる。

「やっと……帰ってきた」

 私は小さく息をついた。

 ギルド前の広場で待っていたのは、マルタだった。

「おかえりなさい! 無事で……本当に、よかった!」

 彼女の声がどこか涙ぐんで聞こえ、私の心にもじわりと熱が広がる。

 ガルドは黙って荷物を降ろし、リリィは小さく会釈して人波に紛れる。カイはその場で倒れ込むように芝生に寝転び、両手を広げたまま空を見上げている。

「もう少しで夢の中だったな……ま、間に合ってよかった」

 ニコは空を仰いで微笑み、太陽のまぶしさに目を細めている。私はその一人ひとりの顔を静かに見つめ、深く頷いた。

 ギルドの休憩室は、まるで夢の続きのような場所だった。窓から差し込む陽射し、湯気の立つスープとふかふかのベッド。冒険の疲れが、ゆっくりと癒やされていく感覚。

 カイがスープをすすりながら言う。

「なぁ、地上の飯って、こんなに美味かったっけ?」

 リリィはパンをちぎりながら、黙ってうなずいた。ニコは湯に指を浸し、何かを思い出すように目を細めている。ガルドは静かに器を見つめてから、

「……生きててよかった」

 とぼそりと呟いた。

(これが……“帰還”なんだ)

 私はぼんやりと窓の外を眺めた。地上の空気はどこか懐かしく、まだ夢のような心地が抜けきらない。遠くから子どもたちのはしゃぐ声や、商人の掛け声が響き、世界の色彩が一気に戻ってきたようだった。

 休息をとった後、私はそっとギルドの奥へ向かう。人気のない廊下を歩き、静かに祈りの像の前に立った。

 その像は、木彫りの素朴な精霊の姿。掌に白い花が添えられ、窓辺からの陽射しが像の輪郭をやわらかく照らしている。誰が世話をしているのか、埃一つなく清められていた。

 ゆっくりと膝をつき、両手を合わせる。心の中に、いくつもの声が重なる。

「無事に帰れました……ありがとうございます」

 ふいに胸元の光の玉がぬくもりを返す。淡い白金色の光が、指の隙間からそっと漏れ出た。

(私は、誰のために祈っている?)

 修道院で過ごした日々。「祈りは他人のために」「自分の願いは最後にしなさい」と、幼い自分はずっと教えられてきた。

 だが今、心の奥に浮かぶ祈りは、仲間の無事だけでもなく、世界の平和だけでもない。“私自身が、またここに立ち続けられますように”――それは、小さくても確かな自分の願いだった。

「私は……誰のために、祈りたいの?」

 祈りの像を見上げながら、私はそっと問いかける。答えは返らない。ただ、静かな陽射しと光の玉のぬくもりが、優しく心を包んでいた。

 ギルドの奥から仲間の声が響く。

「クレアさん、行きましょう!」

 振り返った先には、すでに次の冒険に向けた準備が始まっていた。

 最後にもう一度だけ祈りの像を見つめ、ゆっくりと立ち上がった。

 窓の外で、雲がゆっくり流れていく。遠くで馬車の軋む音。都市の朝は、何事もなかったかのように始まっていた。

 休息は、あっという間に過ぎた。

 ギルドの奥でマルタが、手帳を片手に静かに告げる。

「今回は……特例扱い。全員、体調を最優先で。ですが、次の探索は――」

 その言葉に、皆の背筋がわずかに伸びた。

 マルタは言葉を選ぶように、やわらかな声で続ける。

「深層の先、氷原層の調査依頼です。想定より長く地上に戻れなくなるかもしれません。装備や物資の準備、慎重にお願いします」

 私は、膝の上でそっと指を組み直した。深く潜ること。それが、どんなに重い意味を持つかは、今や痛いほど知っている。

「……長い遠征になりそうだな」

 ガルドが低く呟く。

 カイはわざと明るく振る舞おうとしているのか、口笛を吹いて荷物を点検しはじめた。リリィは探索バッグのベルトを締め直し、さりげなく仲間たちの持ち物に目を走らせる。

 ニコは、胸元の光の玉をしばらく見つめていた。

「また……みんなで行けますよね?」

 そう問う彼の声は、どこか遠慮がちだったが、私は微笑みながら頷いた。

「もちろん、みんなで――」

 それだけで、十分だった。

 あとは誰も多くを語らない。それぞれの準備、それぞれの静けさ。
 外の空には、薄い雲が広がっていた。

 私はギルドの一隅に腰を下ろし、窓の外を見つめている。

 荷物の重さ、道具の点検、保存食や薬の仕分け。手元の動作に意識を向けていれば、不安もごまかせる気がした。

 ――でも、本当は違う。

 心の奥には、まだ祈りの残響があった。

(私は、誰のために祈っている?)

 地下で命を懸けて、ようやく地上に帰った。けれど、また深層へ潜る道を選ぼうとしている自分がいる。

 それは、仲間のためか。

 世界のためか。

 それとも――

 自分自身が、誰かと歩き続けていたいからなのか。

 ふいに、机の端に置いた光の玉が入った器が、ほんのりと輝いた。言葉ではない。ただ、そこに寄り添う温度だけが確かだった。

 ガルドが鞄を担ぎ、リリィが背中を向ける。カイがにやりと笑い「行こうぜ、またみんなで」と手を挙げる。

 ニコが最後にもう一度、みんなの顔を順に見て、小さく「お願いします」と呟いた。

 私は小さく息を吸い、立ち上がる。

 祈りの像が見える場所まで歩き、もう一度だけ、手を合わせる。

(無事でいられますように。誰も欠けませんように――)

 でも、その祈りの底には、

(私自身が、また歩みを続けられますように)

 という、静かな願いがあった。

 ギルドの扉が開く音。朝の風が、髪をなでて通り過ぎていく。

 これから長い旅が始まる。地上の温もりも、明るい光も、しばらくは遠ざかるだろう。

 それでも私は、光の玉のぬくもりを胸に、仲間たちのもとへ歩み出した。

 階段を降り、石畳を踏みしめ、街の喧騒を背にして、再びギルドの門をくぐる。

「行きましょう、みんな」

 その声は、きっと誰よりも静かだった。けれど、それだけで足元に確かな力が宿る。

 私はもう一度だけ振り返り、地上の空を見上げる。

 朝の光は遠く、けれど確かに、胸の奥で揺れていた。

(私は――誰のために祈るのだろう)

 まだ答えは見つからない。それでも、祈りだけは捨てずにいよう。

 私はそう思い、仲間の背中を追いかけて歩き出した。
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