英雄は根に咲く

ぼん

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第三部:精霊との対話

第15章:温もりの遺跡 第3話:リリィの手

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 朝靄の残る癒しの篝郷。

 薄明かりの中、遺跡の天井からこぼれる湯気と光の玉がゆらゆらと漂っていた。

 仲間たちはそれぞれの寝台で静かに息を整え、クレアさんとガルドさんは焚き火の片付けに、カイさんは壁際で伸びをしていた。

 僕は、ふと昨日の夜を思い出す。

 岩陰でリリィと並び、言葉少なに温もりを分け合ったあの時間。静けさのなかで、なぜだか彼女の存在がこれまで以上に近く感じられた。

 そして、目を覚ましてからもその余韻が消えないまま、僕は湯殿の奥、苔の茂る岩場へと歩いていった。

 岩の先に、リリィがいた。

 彼女はすでに目覚めていて、湯気の中で足を投げ出し、岩に腰かけていた。その手には、昨日の戦闘でできた細かな切り傷がいくつか残っていた。

「……おはよう」

 僕が声をかけると、リリィはちらりとこちらを見て、小さく頷いた。

「まだ、痛む?」

 そう尋ねながら、僕は手持ちの薬草と包帯をそっと取り出した。リリィは何も言わず、膝の上に手を乗せている。

「見せて。ちゃんと手当てしたほうがいい」

 僕が近づくと、リリィはほんの一瞬だけ迷ったように手を引っ込めた。しかしすぐに、そっと掌を差し出してくれた。

 彼女の手は、どこか冷たかった。

 小さく、しなやかで、弓を引くせいか節くれ立った指先。その手の甲には、浅い切り傷と擦り傷がいくつも走っている。

「……昨日の、あの魔獣のとき?」

「……うん」

 リリィは短く答える。

 普段なら、傷のことなど気にも留めない彼女が、今は少しだけ大人しくしていた。

 僕は小さな薬壺から香草をすりつぶし、そっとリリィの傷口に塗り込んだ。

 彼女は痛みを訴えることなく、じっと僕の手元を見つめている。

 静かな時間が流れる。

 湯気と光の玉がふたりの頭上をふわりと通り抜け、温かな気配だけが寄り添っていた。

「我慢しなくていいから。痛かったら、言って」

「……平気」

 リリィの声はかすかだった。けれど、その瞳はまっすぐ僕の手の動きを追っていた。

 包帯を取り出し、手の甲にぐるりと巻いていく。そのとき、ふと指先が重なった。

 ほんの一瞬だったが、その感触は心の奥に小さく火を灯した。


 リリィは目を逸らした。
 頬にわずかな朱が差し、唇が微かに揺れる。

「……ありがとう」

 そのひとことは、湯殿の静けさに吸い込まれていった。

 僕は何も答えず、ただ微笑んだ。

 胸元の光の玉が、そっと明滅するのを感じる。

 ふたりの間に、しばし沈黙が満ちた。

 湯気の奥から聞こえてくる小鳥のさえずり、遠くで焚き火を片付けるクレアさんとガルドさんのやりとり。

 でも、ここだけは誰にも邪魔されない、小さな時間の泡のような場所だった。

 リリィは包帯の巻かれた手をじっと見つめていた。

 指先で包帯をそっとなぞる。ほんの少し薬の香りと、僕の手の温もりが残っているのかもしれない。

「……どうして、そんなに優しいの?」

 ふいに、リリィがぽつりとつぶやいた。

 驚いて彼女の顔を見ると、リリィは視線を落としたままだった。


「僕が優しい、って言うなら――」

 言いかけて、言葉が詰まる。

 本当は、誰かを傷つけたり、守れなかった過去を今も抱えている。でも、目の前で傷ついた誰かをそのままにできない、それだけだった。

「僕も、守ってもらってきたから」

 そう言うと、リリィはかすかにまぶたを震わせる。

 それでも、彼女は何も言わず、ただ包帯の上から自分の手をぎゅっと握った。

「……私、弱くなんてないから」

 リリィは小さな声で、でもはっきりと言った。

「これくらい、すぐ治る」

「うん、わかってる。けど、僕は……たぶん、手を貸せるうちは貸してあげたいんだ」

 しばらく、互いに何も言わず座っていた。

 湯面に映る光の玉が、そっとリリィの肩先に寄り添って揺れる。

 それをリリィが無意識に見上げ、ぼんやりとした目で光の玉の動きを追う。

「精霊って……不思議だよね」

 僕がつぶやくと、リリィはわずかに頷く。

「たまに、手をつないでくれてる気がする。言葉はないのに、ちゃんと……」

 リリィの口元が、微かに揺れた。

「……あんたの、光の玉。やっぱり、変だよ」

「変、かな?」

「うん。強いとかじゃなくて、静かで、ちゃんと寄り添うの」

「そうだといいな」

 不意に、リリィが僕を見た。

 普段は誰にも見せない、柔らかな目をしていた。

「……昨日の夜も、ずっと隣にいてくれて、助かった」

「僕のほうこそ、ありがとう。リリィがいてくれて、すごく心強かった」

 ふたりの間にまた沈黙が訪れた。けれど、それは居心地のいい静けさだった。

 岩陰の湯気が薄れてくる。そろそろ皆の準備も終わるころだ。

「そろそろ、戻ろうか」

 僕が立ち上がると、リリィもゆっくりと立ち上がった。

 ――ふと、リリィが僕の手を取る。

 指先が、包帯越しにほんの少しだけ重なる。

 リリィは一瞬だけ僕を見て、すぐに目を逸らす。

 その頬が、淡く朱に染まっている。

「……ありがとう」

 それだけ残し、リリィは早足でみんなの方へ歩いていった。

 僕は、その後ろ姿を見送った。

 胸元の光の玉が、静かに、確かに明滅している。

 湯殿の外では、クレアさんが荷物をまとめていた。カイさんはストレッチをしながら「お、仲直りか?」と軽口を飛ばしてくる。ガルドさんは静かに見守っているだけだった。

 僕は何も言わず、みんなの輪に戻る。その胸の内に、さっきの手の感触がほのかに残っていた。

 リリィもまた、壁際に座って光の玉を眺めている。その表情はいつもより柔らかく、ほんの少しだけ、ほほえみに近かった。

 誰も、何も言わない。けれど、この静かなぬくもりと仕草、想いの重なり――

 それが、仲間でいることの証なのだと、僕は思った。

 次の旅路に備えて、僕たちはまた静かに歩き出す。
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