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第三話
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第三話
「サトルは父親似?」
散歩ついでにぼくとトウタを送ってくれていたピリが、ふいにそれまでの話題を変える質問を口にした。
「……目の色は、母親と同じだけどよく父に似ているって言われたよ」
松明を持つライがこちらの様子を伺った気がした。しかしすぐに隣を歩くトウタとの会話に興じ、それ以降ぼくらに注意を向けることはなかった。
「俺も父親似なんだ。でも母親にも似てるって言われた」
彼が率先して家族について語るのは珍しい。淡い光に照らされる端正な横顔を見詰め、聞き役に徹した。
「俺ができた頃、父親の研究が忙しくなって滅多に家に帰られなくなったんだって。だから寂しかったんだと思う。でも俺が生まれても忙しくて、何の為に頑張って生んだのかわからないって、いつも言ってた」
母親に虐げられてきた思い出を回顧しているのだろうか。唇を噛み締め両脇に収まる拳を震わせていた。そんな翳りを宿す瞳を直視するうちにやり切れない気分に陥った。何故かわからないが、彼には常に笑っていて欲しい。そんな勝手な願いが心の中で燻る。
ぼくは―――彼に自分の理想を重ねているのだろうか? 叶わなかったいくつもの願いをピリに託し、どんな時も自由であるのを望んでいるのかもしれない。そしてそれは前を歩く二人にも同じことが言える気がした。純粋だった頃の自分たちを、ぼくらはピリを通して眺めている。そして汚れてしまった己の手を見て、歪んだ人生を嘆いていた。
「トウタの屋敷に着いたぞ」
ライの呼びかけでいつの間にか大通りに出ていたことに気がついた。高く聳え立つ外壁を見上げピリとライが同時に「でっけぇ」と叫んだ。
「このくらい大臣の家なら普通だよ」
苦笑しながら呟く。
「庶民と違ってやっぱ、いい暮らししてるよなぁ」
心底羨む口調にそれまでとは打って変わった冷めた表情を浮かべるトウタ。一瞬だが、そこに侮蔑に似た感情を垣間見たのはぼくだけだろう。
「生憎こんな時間だし、上がってもらうのはいずれまた。ちゃんとサトルを送って行ってやれよ」
「暗いから女に間違えられても仕方ねぇよな」
「間違えられる訳がないよ」
楽しげにぼくを眺め軽口を叩くライを睨み反論した。
それから時々歩きながら飛び跳ねてはライの目を盗んでは少しばかり浮遊するピリを見守り、大通りから離れたぼくの店を目指し歩いた。
月光が三人の影を後方に長くたなびかせる。静まり返った町屋に潜む闇が見えない外敵から、ぼくらを守ってくれているような温かみを感じさせた。暗闇は嫌いだったのに、何故か三人でいるこの時だけは安心さえした。
「サトルって…なんか他の奴と違うよな」
長い沈黙を経てライが口火を切る。
「自分で言うのも変だけど結構人見知りすると思ってたんだ。俺よりピリの方が勿論ひどいけど。でもサトルとは普通に喋れる。なんだかよく分かんねぇけど、お前ってすげえよ」
「買い被り過ぎだよ。ただ偶然、二人と波長が合っただけだって」
気恥ずかしくなり顔の前で手を振った。しかしぼくの態度を黙視するとライは、溜め息と一緒に次の言葉を吐き出した。
「トウタは妾の子として疎まれてきた分執着心が強い。だから俺たちと仲良くなったきっかけだって、きっとミズハが関係しているからだ。あいつが大臣になった時、俺たちは友だちだけど…でも切り札でもある存在だ。だけどサトルは、何もないだろ?」
縋るような切実な想いを含ませた眼差しが向けられる。その後ろでピリも不思議そうにぼくを見ていた。
ぼくには何もない? 一族の恨みを晴らす為にここまでやってきたぼくなのに? 彼らを利用する手立てがない訳でもない。秘密裏に研究される不老不死を盾に、いくらでも大君たちを脅せられる。彼の治療に手を貸すのも、実際に使われてきた薬剤や研究内容をもっと詳しく聞きだすのが第一目的。そう、ぼくもトウタと変わらず自己に執着していた。
真っ直ぐ向けられた真摯な視線に胸が痛む。何も知らない二人だからこそ、ぼくは悪気なく利用できるのだ。
「サトルは俺が飛んでも驚かなかったぞ。だから仲間だろ」
話を聞いてなかったのかピリは素っ頓狂な声を上げた。
「中途半端に話しに加わるな! ややこしくなるだろ!」
と、すかさず突っ込みが入る。
「だってライとサトルばっかり喋って、俺だけ除け者だもん」
「俺はサトルに聞きたいことあるから喋ってるんだよ! ピリとはいつも喋ってるだろ」
「じゃー何聞くんだよ」
「剣の巫女のことだよ!」
怒号と共に飛び出た言葉に彼だけでなくぼくも驚きを隠せなかった。
「それは…どういうこと?」
さすがに動揺を隠せずぼくは思わず厳しい口調で問い質していた。
「トウタが…漏らしていたんだ。もしサトルが女なら、一番剣の巫女に相応しいって。そしてもしそうだとしたら…サトルは大君一族を破滅させようとしているんじゃないかって」
気まずそうに唇を噛み締め俯くと途切れ途切れに呟いた。
それでも心臓が大きく飛び跳ね全身がひんやりと汗ばんだ。彼のことだ。偶然会話の流れで漏らした訳がない。ライを通じてぼくに探りを入れようとしていたのだろう。
「なぁ、そんな恐ろしい…。考えてる訳ないだろ? 俺たちの生活から大君が消えたら…これまでの当たり前だった毎日が崩れちまうんだ。それくらいサトルにはわかるだろ?」
『わかるだろ?』
そのたった一言に秘められた様々な思いに触れ、喉元が絞めつけられるような息苦しさを覚えた。大君の為の研究に左右される人生を送りながら、尚も支配者を渇望する生まれながらに洗脳され続けた結果。これ以上ぼくは余計なことは言えない。ぼくは―――彼らの前ではただのサトルであり続けなければならない。
例え、真実。この身に剣の巫女の血を受け継いでいたとしても、ぼくは演じる。誰にも邪魔はさせない、復讐の為に。
「まさかぼくがそんなすごい人物の訳がないだろ。しかも大君を滅ぼす? はっはっ…まったく…有り得ないよ。なんたって大君を慕って都まできたのに」
本心とは裏腹に舌先を滑らかに飛び出る言葉に、ライの険しい表情が次第に削り取られて丸くなっていく。
「罪人の子孫だなんて…まったく、これ以上の不名誉はないよ」
感情のこもらない決め台詞を最後に彼はようやく笑顔を取り戻した。
「そうだよな。悪かったな、サトル」
「いや、いいんだ。気にしてないから」
笑顔で受け答えるサトルだけど、なんとなく違和感が残った。初めて聞いたけどトウタがまさかそんな風に考えていたなんて驚いた。けど俺よりもサトルの方が驚いていたみたいだった。剣の巫女が罪人と言われる所以は知っていたけど、伝説のウロ峠と巫女がどう繋がるのかよくわからなかった。それに巫女って呼ばれるくせに、なんで罪人扱いされるのかもわからない。
愛想笑いを浮かべるライたちを見回しその質問を口にしてみた。
「どうして巫女がウロに渡ったんだ?」
「えーなんでだ?」
ライも不思議そうにサトルを見る。この三人の中で一番頭がいいのがサトルだからだ。
「剣の巫女は…人を殺めた罪で一切の資格を剥奪されたんだ。故郷を追われ住む所を失った巫女は………伝説のウロへ渡ったと言う説がある。それに巫女は大君の祖、末の神が残したクサヒルメの剣を守り続けていた。故にその剣は今も行方がわからない幻の存在となった。つまり伝説と史実が混ざっているんだ」
「じゃあなんで巫女は人を殺したんだ?」
更に突っ込んだ質問にサトルは困ったように眉を寄せて黙り込んだ。
「様々な説があるけど…どれが正しいのかわからない。でも亡くなった巫女の予言に一番似合う説を挙げるなら、剣の巫女が人を殺めた背景には当時の大君が関与していたからと言われている。これはあまり支持されていない説だけどね」
「つまり大君が剣の巫女を嵌めたって訳だ」
「それが正しいとは断言できないけど」
鋭く釘を刺すサトル。陽のあるうちには決して話題にも出せないような話に、いつの間にか俺たち三人の間に重い沈黙が流れるようになった。それに耐え切れず、
「ややこしい話ばっかだー」
と叫んだ。同時につい力んでしまって飛び上がってしまった。だけど上空を駆ける風が頬を撫ぜて火照った身体を冷やしてくれる。
無意識に飛び上がっていた俺を般若みたいな顔でライが睨んできた。周囲には人がいないけど怒り心頭の様子に恐怖しすぐに地上に戻った。
「人がいないからって気を抜くなよ!」
「だって…」
「だっても糞もないんだ! 約束しただろ? 都ではもう飛ばないって」
お前が飛ぶとロクなことがないと愚痴りながらサトルと再び歩き始めた。置いていかれそうな勢いだったので慌てて追い駆けた。ふいに闇に紛れて俺らを見詰める誰かに気づいたけどなんとなく怖くて言い出せなかった。もし勘違いだったら、またライに怒られちゃうから。
気の所為だ。そう思い込もうとして一心不乱に足を前後させる。それでもサトルの家に着くまで不安は頭から離れなかった。
「……大分、月が傾いてるな」
夜空を仰ぎながらライが呟く。店の戸にかけた鍵を外しながらサトルが「ゆっくりしていたからね」と相槌を打った。
「ねぇ、俺! 今日泊まりたい! たまにはライ以外の奴の朝飯食ってみたい!」
「なんだ、その理由は!」
すぐに頭を小突かれたけど縋る思いでサトルを見詰める。あの時感じた何者かわからない視線を忘れられず―――ミズハの奴らかも、と思うと余計に恐怖が大きくなった。
しばらくさっきより困った顔をしていたが諦めず見詰めていると、小さく嘆息し頷いてくれた。
「朝は早いよ」
「やったぁ!」
飛び上がりそうな勢いの俺を慌てて押さえつけ、ライは大きく溜め息を吐いた。
「本当にいいのか? こいつ、意外といびきがうるさいぜ?」
「ライだってうるさいだろ!」
「寝相も悪いし」
「ライだって!」
「俺が毎晩どれだけお前の寝相に苦しんできたか知ってるのか? 毎晩毎晩、山崩れに巻き込まれて死にかける夢みてるんだぞ!」
「まぁまぁ…」
躍起になって叫ぶ俺たちを宥めサトルはやっと心から笑い声を上げてくれた。
「いいよ、いいよ。いびきがすごくても寝相が悪くても。きみら二人といれば退屈しなくて済むから」
そしてあまり広くない部屋に俺とライは雑魚寝になった。囲炉裏を挟んで一人布団で眠るサトルとしばらく喋っていたけど、会話が続くうちに頭が醒めてきて寝つけられなくなった俺たちに、寝酒を少しだけ出してくれた。するとすぐに睡魔がやってきて意識が朦朧としていった。
「おやすみ…」
サトルの声を聞いたのを最後に深い眠りの世界に飛んでいった。
「……の………」
「………だ」
窓から侵入してきた暗闇に焦点を絞り、自分が置かれている状況を確認する。ぼんやりとした視界に穏やかな寝息を立てるライの顔を映し、取り敢えず安心するとまだ眠たいのに覚醒してしまった頭を起こした。囲炉裏の向こうにいるはずのサトルの姿がない。そう認識するや否や、それまで聞こえていた声に初めて注意を向けた。
サトルが外で話しているのかな? 重たい瞼を擦り、格子窓から背伸びをして顔を覗かせて見る。思っていたよりも外は明るく、離れた所にある井戸の脇に佇む二人の姿を細やかに照らし出していた。一人はサトルだ。でも相手の男は見たことがない。サトルよりも背が高く年も離れている気がする。そんなに派手ではないけど、俺が見ても身に着けている衣は上質の物だとわかった。
振り返り心地良さそうに眠るライを一瞥する。置いていくのは怖かったけど、もう少し近づかないと会話の全部が聞こえなかった。好奇心に後押しされ俺はそっと土間に下りると、少し開けた戸の隙間から耳を澄ませた。
「……とにかく宮中へお戻り下さい」
感情を抑揚したサトルの声が聞こえる。
「しかしわたしはかの少年に聞きたいのだ」
対する男の声も切羽詰っていた。
「何故彼は飛べるのだ? 彼は人間ではないのか?」
心臓が大きく飛び跳ねる。人間デハナイ―――なら俺は何者なの? 小さな頃からそう責められてきた聞き慣れた言葉なのに寂しさと息苦しさでいつも胸がいっぱいになる。
「ご冗談を。彼は人間です」
凛とした声でサトルが断言した。
「ご存知ないのならばお教え致しましょう。しかし今宵はもうお帰り下さい。宮の身になにかあれば、打ち首では済まされませぬ」
短い沈黙の後、男は小さく「わかった…」と呟いた。
「明後日、エグリの大臣を通じてぼくをお呼び下さい。ただ、お薬を所望されるという理由はお控え下さいませ。宮廷専属薬師たちを敵には回したくはございませぬし、周囲の者も訝りましょう」
沈黙が続く。その間心臓が大きく鳴り響くので、二人にまで聞こえるんじゃないかと本気で心配した。サトルはあの男にミズハのことを教えるつもりなのか? もしそうだとしたら、いつかライが言っていたようにサトルを殺すかもしれない。女以外は容赦しない。そう断言していたライは、約束を破ったサトルを殺しちゃう。
どうしよう! 混乱する頭で必死に考えた。
「青い瞳の少女たちがいた…」
ふいにそれまで黙っていた男が突然口を開いた。
「え?」
サトルも虚を衝かれたような表情になる。
「夢で……貴方と同じように青い瞳を持つ少女たちを見たことがあった。元より都に住んでいたのか?」
「……いえ、討伐以降地方は治安が乱れましたので越して参りました」
「北に近い所に?」
しばらく男は何かを考えるかのように沈黙し、再び言葉を紡いだ。
「ならば……イハヤの森の名を聞いたことは?」
「ありませぬ」
間髪入れず断言するサトルに、直感的に嘘だと思った。同時に何故かサトルがとても大きな隠しごとを俺たちにまでしているんじゃないかと、不安になった。
男はどこか諦めたように肩を竦めると
「……夜分に済まなかった。わたしはこれより宮廷に戻るが、今宵の件は他言せぬよう」
「畏まりました」
礼儀正しく頭を下げるサトルを一瞥すると、男はしっかりした足取りで歩き去っていった。
見送るサトルの姿がどこか儚く見える。月明かりの所為かもしれないけど、今サトルに触れたらすぐに消え去ってしまいそうだった。弱々しいその様子はみんなで見た蛍に似ていた。
雲隠れしていた月が再び姿を現す。月の光を浴びて頬がきらきらと輝いて綺麗だと思ったら、サトルは声を立てず静かに泣いていた。
薬師と別れ宮廷に向かう間、断片的に様々な映像が走馬灯のように蘇っては消え続けた。偶然見かけた空を飛ぶ少年と彼を匿う薬師。確か名は――サトルと言った。青い瞳の少年。鳥のように…空を翔る…青い瞳の少年…
何かを思い出しそうになり頭痛がした。鮮明な色彩を伴って浮かび上がる映像の中で、いくつも並ぶ青い眼球がわたしを見詰めている。激しい痛みと一緒に眩暈がした。遂に耐え兼ね足を止める。腰を下ろし休みたいが周囲に寛げそうな場所がない。せめて喉の渇きを潤そうと近くにあった井戸を覗く。が、鼻を突く悪臭にすぐに顔を背けた。
これが水か…?
暗く淀んで底が見えない。試しに釣瓶を落とし桶に汲んでみた。意外にも力を要する作業に驚く。たかが水を飲もうとしただけなのに、庶民はこんな苦労をしているのかと痛感した。
苦心の末手に入れた桶の水もやはり濁っていて生物の臭いがした。桶を戻し濡れた手を拭き取ると再び歩き出した。それでも悪臭が鼻について、胃の中が逆流しそうになるのを堪えた。今まで知らなかったことが宮廷の外には溢れているのだと改めて思い知らされた。
本当にここは同じ宮廷がある都なのか? 地続きでも到底信じられない。
大君の膝元である都がこんな有り様なら地方はどうなのだろう。治安が乱れていると言ったサトルの言葉を思い出す。想像がつかない。人々は今、一体どんな生活を強いられているのだ?
汚い道の端々に吐瀉物が目につく。これまで美しいと思っていた都はほんの一部だったのだろう。
―――知らないことが罪となる。滋養ある食事を毎日欠かさず食べ、艶もある血行のよい自分の手を広げ改めて眺めてみる。こんな手で広大な国を支配し人々の生活を支えなければならない。それはすべて大君の判断に委ねられてきたことなのに。
戦になるか平穏な日々を守れるか否か。いつの時代もただ一人の人間の判断で左右されてきた。それもすべて優れた支配者であるかどうか。
大君たちは何故歴史を改竄したのだろう。己を神格化することで民衆の統一を図ろうとして? 現実に存在したウロを伝説にして何を守ろうとしたのだ?
増えていく疑問を両手に答えを求めて空を仰いだ。しかし漆黒の中に浮かぶ月は何も言わず、黙り込んだままだった。
後日大臣の息子に付き添ってやってきたサトルを見た女官たちは、終始落ち着きのない様子だった。噂が呼んでいつになく周囲に人の姿が多い。石畳の上を歩くサトルとトウタを侍従たちが遠巻きに見ている。頬を赤めひそひそと声を潜める若い女官たちが初々しかった。
その様子を自室の窓から眺めながら
「いくら見目麗しいからと言って、こんなに騒ぐなんて」
不貞腐れた様子のコマリが小言を並べていた。
「まだ年端もいかぬ子どもではないですか」
彼女の傍で読書をしながら思わず苦笑した。
「いくら位が高くとも見目もよいとは限らぬからな。同じ年頃でも朝から晩まで働かせているのだから、鬱憤も溜まるであろう」
すると僅かに眉根を寄せコマリは訝しげに問いかけてきた。
「……宮様、少し考え方が変わりましたか?」
彼女の洞察力には常々から舌を巻いていたが、それでも内心どきりとした。
「無関心でいた頃は別の意味で楽だった。何も知らなければそれで済むのだから」
「夜中に宮廷を抜け出し…刺激を受けたのですね」
「刺激…と言うより、絶望したのだな。わたしが知る世界がいかに狭かったのか、否応なく自覚させられた。そして彼が……これより話してくれるだろう。わたしでさえ知らなかった世界を」
「……彼、とはあの薬師を指しておいでですか?」
今度は露骨に眉間に皺を刻みコマリは断言した。
「あの薬師は女でしょう?」
思いがけない発想に一瞬黙り込んだ。あの少年が女だと――? 確かに華奢な身体つきだが、口調や対峙したときの雰囲気から推察しても……
「まさか、あれは男だ。年の頃からしても、女人らしい特徴は見られない」
「ですが……発育が遅いだけかもしれませぬ…」
確固たる自信があるようだが、それを裏づける証拠がないのだろう。珍しく強固な姿勢の彼女の肩を軽く叩き
「まぁどちらでも変わりない。性別はともあれ、あの空を飛ぶ少年について語ってくれるのなら問題ない」
それでもまだコマリは物言いたげにしていたが、扉の向こうから取次ぎの侍女の声が聞こえた。
「サトル殿のおいでにございます」
「入りなさい」
静かに扉が開き、恐らく借り物の正装姿のサトルが堂々たる態度で入ってきた。外見に似合わず意外と肝が据わっているのかもしれない。なんとなくコマリと似ている気がして好印象を持った。
深々と頭を垂れ、挨拶を口上しようとするがそれを制し
「堅苦しい礼儀などいらぬ。早速本題に入りたい」
「…その為にトウタを置いて参ったのですからね」
皮肉った一言にひやりとする。
「エグリの大臣と仲が深いのなら、今、宮様が置かれている状況も存じておりましょう。心してお答えなさい」
コマリの指摘に目礼し答えるとサトルは一息吐いてから語り始めた。
「ぼくが申し上げられることは限られております」
人形のように固い表情を眺めそこから飛び出す未知の言葉を待った。
「大君に依託されミズハ寮が、死人返りを復活させようとしておりました。死人返りとは、古来より一切の研究が禁じられた術です」
「ミズハ…?」
思いも寄らぬ名前に絶句する。ミズハ寮といえば先日、剣の巫女の扇を調べさせた研究寮だ。兼ねてより資金援助を行ってきたミズハが禁術の開発に携っていた。しかもそれを大君が認めていた?
「その術は具体的にどういったものなのです?」
コマリが落ち着いた口調で語りかける。
「死人、もしくは生きた人間の身体の一部を混ぜ合わせ、生来とは異なった方法で一固体の人間をつくりだすというのがその術の特徴です」
そしておもむろにわたしを直視すると表情を変えずに恐ろしい事実を告げた。
「あの少年は、その研究に携わっていました。恐らくは研究過程であの力を手に入れたのかと」
「…つまり大君は、その術を使って不滅の存在をつくろうとしているのだな」
「でも、なんだって……」
コマリの語尾が力なくすぼんでいく。
「…いえ、きっと私の父も知っていると思います」
彼女の父が軍事に関わっていることを思い出し、悲しげに肩を落とすコマリに同情した。そしてイシベの大臣の顔を脳裏に思い描いた。左目の泣き黒子が印象的な、鋭くてどこか冷めた瞳をした人物だった。
「むしろ父も関与していることでしょう。学徒の頃は研究者を目指したくらい、学問熱心な人でしたから」
かける言葉を見失い黙り込む。そして今は彼女を慰めるよりも自分の考えに没頭した。大君は後継者にのみその事実を告げようとしていたのではないかと、考えが過ぎる。しかし何故、不滅の…不死を求めるのか腑に落ちなかった。予言を恐れてか? それとも力による支配を強化させようとして? 不滅の兵士。決して死なない彼らを駆使し―――何を企んでいるのだ?
黒い睫に水分を含ませたコマリを一瞥しまた別の案が浮かんだ。北の討伐で確か軍隊が多大な被害を受けたと聞いた。北の十二部族が思いの外、強固な軍力と結束力を持っていたのが大きな原因だったらしい。しかし大君の狙いは古来より姿を変えず守り続けられていたイハヤの森を消滅させることだけだったのか? その為にあれ程の痛手を被ったとは、あまりに浅はかだ。
『まだ終わっていない』
と、頭の隅で警鐘が鳴った。討伐が終わった今、大君の狙いがある。邪魔者が消えたこの時こそ本来の目的が果たされる。それは何だ―――
ふいに深い冷徹さを秘めたサトルの青い瞳を見て、どれよりもしっくりとくる答えを見出した。まるで予め持っていた符号が、当たり前の如く一致するかのようにわたしはそれが当然だと頭のどこかで納得していた。
大君は唯一この世で歪められた歴史の真実を知る存在。ウロ峠がなんらかの理由で、この地上にあったとしてもそれは不思議でもない。国を追われた巫女が逃げたウロ。真実を貫いた北の部族の滅亡。虫食いになっていた答えがどんどんその姿を明らかにしていく。
「研究は、三十六代目ウノの大君の御世より始められたそうです」
伝説として語られるウロを―――手中に収める。そうだ。一番利が叶っている。王位継承の条件に敢えて剣の巫女を挙げたのは、わたしとヌヒ、より大君の思想に近い者を選び意志を継がせようとしているのではないか。
一族を滅亡させようとする巫女を生け捕りにしすべてを手に入れようとしている。神聖な血の流れを汲まないわたしを後継者に推すのは、手段を選ばず目的を果たすことに重きを置いた故の策だったのか? 最悪の場合死に至らしめても一族の損失には繋がらない。それともこのわたしに巨大な野望を成し遂げられると一縷でも期待していたのか?
気が遠くなるような虚脱感が背筋を走る。身の凍える風が吹きつけると同時に辺りの景色が一変した。振り向くと空一面を埋め尽くす白い鳥が群れを成して飛び立っていった。何度も見てきた夢の景色。赤茶色の土が露見する大地に走る亀裂が、まるでわたしの心情を如実に表しているように見え卑屈に感じた。
瞼に力を込めて閉ざし暗闇に父君の顔を思い描く。想像力を駆使しなければ重たい王冠の下にある顔が、すぐ闇に同化して消えていってしまいそうになった。
やはり貴方にとって、わたしは亡きナルヒトの代わりでしかなかったのですね―――
そして不安げに顔を覗くコマリに、出来損ないの笑みを向けた。
後ろから追ってくるライを何度も振り返り確認しながら、俺は必死に足を走らせた。熱中するあまり、足裏が少し浮かび上がったりしたけどライにはばれていないみたいだった。
人通りの多い昼下がりだけど、こうして走っていれば周囲の人間を気にせずいられた。
「そこ左に曲がれー」
息を切らしながら叫ぶライを置いて更に速度をつけた。サトルの店まで競争して負けた方が山積みになった洗濯を片づける約束だ。裏通りに入り長屋の前を駆け抜ける。見慣れた看板の前に佇むサトルと、知らない女たちを目にした途端警戒心が沸き立ち足を止めた。
「どうしたんだよ」
肩で荒々しく呼吸をしながら後から追いついたライが声をかけてきたが、すぐにサトルと仲良さそうに喋る女に気づき黙り込んだ。多分薬をもらいにきたんだろうけど、楽しげに口元を緩ませる二人の表情が気になった。年の近い女は頬を赤らめ、終始恥ずかしそうに俯いていた。なんだか対するサトルは…
「こうして見ると、男なんだよなぁ…」
俺の気持ちを代弁して呟く。不思議とその口調は寂しげだったが、女と別れてすぐに俺たちにサトルが気づくとライは手を振った。
「忘れ物取りにきてくれたの?」
「忘れ物?」
鸚鵡返しする俺を見てぷっと吹き出し
「一昨日泊まった時に、これ…忘れていっただろ?」
と、小さな巾着袋を手渡した。
「あぁ、やっぱりサトルのところで落としたんだなぁ…」
見たことのない色あせた巾着袋。俺の知らない物をライが持っていたのが、意外だった。
「中身は見ていないから安心して」
「あぁ」
ぎこちなく微笑み返すライがいつもと違って見える。
「ところで今日はどうしたの? 治療なら今夜行くつもりだったけど」
「うん。実はさ俺、これから買出しにいこうと思ったんだけどその間ピリを預かってくれねぇかなぁって思ってさ」
サトルは俺を一瞥し納得したように頷いた。ここ最近俺は勝手に都にきて問題を起こしまくっていたから、ライの信頼を失くしていた。本当は縄で縛られて留守番になる予定だったけど、サトルのところで大人しくしているという条件で連れてきてもらったのだった。
「いいよ。代わりに店の手伝いでもしてもらおうかな」
「助かるよ」
頭を掻き口角を上げて笑いかける。気の所為かライから、さっきの女と同じ雰囲気を感じて一緒にいる俺まで落ち着かなくなってきた。
「買出し終わったら俺の治療も頼むよ」
「わかった。気をつけて」
片手を上げて応えるとライは踵を返して歩いていった。並んでその後ろ姿を見送ると、サトルはおもむろに笑みを浮かべ
「どっちが子どもだかわからないよな」
「俺の方がしっかりしてるぞ」
「さぁ、どうだろ?」
先に店内に入るサトルを追って入る。戸を閉める際に近くの井戸が目に止まった。あの夜のことはまだライにも黙ったままだ。多分これが初めての隠しごとだった。
「ピリ?」
俺はサトルに呼ばれるまで井戸を食い入るように見詰めていた。
外を気にする様子だったがすぐに床に上がると、きょろきょろと顔を動かし
「何手伝えばいいの?」
と開口一番に質問した。単純と言おうか素直と表現すべきか、取りあえずその実直さが微笑ましく感じられ心が和んだ。
「用ができたら頼むよ。それよりお茶でも飲む?」
湯を沸かしながら湯飲みを用意する。囲炉裏の傍に寛いだ様子で座り込むと、しばらくぼくの手元を覗き込んでいた。その仕草はまるで子犬みたいだ。初めて会った時も思ったが、彼は愛玩動物のような魅力がある。言動などからライが主導権を持っていると勘違いしていたが、実際のところ潜在的に彼もまたピリに依存していた。己の庇護下にいたつもりが立場は逆転している。
そんな無意識に見る者を魅了する天性の才に気づいていないのは、本人だけだろう。
「……この前、薬入れたの?」
手元が狂い急須に注ぐ湯がこぼれた。反射的にピリを見ると悪意のない目を向けていた。
「俺とライが泊まった時、知らない男がきたよね」
心臓が早鐘を打つ。まさか薬が途中で切れたのだろうか? ナルヒトの宮がここにきたことが露見されればぼくの身も危ない。何とか話を逸らそうと試みようとしたが、それを出し抜くようにしてピリが言葉を繋げた。
「ミズハと俺たちについて話したんだろ? 一緒に謝ったって…ライは絶対に許してくれない」
そしてその答えを求め悲しげにぼくを見上げてきた。
「どうして、話したの?」
外の騒音がやけに大きく聞こえる。いや、この部屋が静か過ぎるのだ。窓辺から注ぐ明るい光に照らされ、栗色の髪が金色を帯びて見えた。大きな瞳が透けて硝子玉みたいだ。
青い瞳―――青い瞳の姉者たちは、神々の嘆きを慰める為に地へ消えていった。そして兄者たちは成長と共に羽ばたく力を手に入れ旅立った。
ウロ峠に伝わる二つの掟に従い、ぼくたちは代償を払って生きることを望んだ。峠に逃げた剣の巫女が、妻となる少女と共に決めた時からずっと掟はぼくらを縛りつけてきた。伝説に書き記された峠はかつてむかしこの地上に存在していた。北に残るイハヤの森の奥深くにその入り口はあったのだ。そして十二部族は入り口を俗世から隠し守り続けていた。何人も峠に近づけないよう、何百年に渡って受け継がれてきた使命でもあった。
「サトル……?」
いつの間にか涙で歪んだ視界にピリが顔を覗かせた。
伝えたい。この憎しみを。知って欲しい。ぼくらの無念を。誰でもいい。誰かに思いの丈を聞いて、共感して欲しかった。
「……泣いて、る?」
震える声に誘われ頬を一滴の涙が伝った。堰を切ったように次から次へと流れ出る。
「………ぼくの一族は……大君に殺された」
第一声を吐き出すとふいに全身に力がこもった。途端に想いが言葉を伴って溢れた。
「祖先の代より大君たちに辺境の地に追いやられ、身を寄せ合い暮らしてきた。でも祖先が受けた仕打ちを恨む者はいなかった! その為に死を強制されても、恨み言さえ…なかったのに…」
膝の上で握り締めた手の甲に水滴がこぼれ落ちる。
「……討伐で…峠の均衡が崩れたんだ…。元々不安定な地だったけど、洪水がみんなを飲み込み……ぼくだけが生き残った」
「……峠って」
息を痞えながら、ピリは怯えた表情で投げかけてきた。
「サトルは……剣の巫女、なの?」
長い沈黙の間に激情に任せ胸の内を叫んだお蔭か、少しばかり気持ちが穏やかになった。目元に溜まった涙を拭うと僅かばかりの冷静さを取り戻した。
「……祖先は、峠に住む少女と結ばれ子孫をつくった。でも過酷な環境に耐え切れず、生まれたばかりの子どもはすぐに死んでいった。そこで祖先は峠に古くから伝わる二つの選択をした。一つは再び生まれ変わるかどうか。もう一つは、死んで姿形を変え、この地にとどまるかどうか」
言葉を区切りすっかり冷めてしまったお茶で口の中を潤す。湯呑の中に映る自身の顔を見詰め、ぼくは続く言葉を吐き出した。
「祖先は…鳥となった。鳥に姿を変え遠くから子孫を守り続けた。以来子孫は同じ選択を繰り返してきた。青い瞳の乙女は峠を支える為に人身御供となり、少年は成長と同時に姿を白い鳥に変えていった。荒れ果てた峠に…少しでも生き物を増やすことが、自然の均衡を正常にする唯一の方法だったから」
「じゃあ……」
視線をしばらく床に定着させていたがピリは意を決したように顔を上げた。
「サトルは…青い目だから……女なの?」
言葉を使って答えようと思ったが、それよりも確かな手段が思い浮かび握り締められたピリの手を持ち上げ膨らみのない平らな胸元に押し当てた。
「!」
驚いたように目を見開き急いで手を退けようとしたが離さない。当惑する顔に赤みが差す。動揺する彼の姿にようやく主導権を手に入れた安心感を得た。
「ずっと薬を飲み続けていた。自分の身体が変形しないように。ぼくも同じ。きみと同じように、大人にはなれない。女人の特徴があらわれ始めたら、いつかぼくも姉者たちと同様……依代となって、あの不毛の地の一部にならないといけなかったから」
指先から伝わる鼓動は一定のリズムを刻み、全然動揺していなかった。逆に俺は自分でもわかるくらい、全身が熱くなっていることに気づいて余計に落ち着かない気分に陥る。母親の身体さえ触っていたかどうか覚えていないけど、あまり肉づきのよくない身体は確かに女って感じではない気がした。だけどふわりと香る花の匂いは、今まで出会ってきたどの男からも嗅いだことのない類のものだった。
少しして、綺麗に整った顔を歪めサトルは自嘲した。
「…男でも女でもない……中途半端な人間だ」
それはとても悲しい響きを含んでいた。それからようやく自由になった掌を一瞥し、もう一度サトルの顔を見た。サトルは俺から目を逸らし俯いていた。
「なんてね…」
「え?」
意味がわからなくて驚く俺にサトルは苦笑いを浮かべ顔を上げた。
「嘘だよ。ただ未だにぼくを女じゃないかって疑うから、ちょっと一芝居打っただけだよ」
「嘘…なの?」
「そう。前も言ったけど、剣の巫女の子孫だなんて……不名誉極まりない。それにぼくに大君を暗殺できるとでも思う? 人の命を救うのがぼくの仕事なのに」
有無を言わさぬ態度に頭が混乱してきた。今のサトルが嘘を言っているようには思えない。けどさっきの涙が偽物とも断言できない。どっちも本当で、どっちかが嘘なんだ――
「……でも…今のサトルがずっと変わらないならどっちでもいいや」
考えすぎて熱を帯びてきた頭を掻き毟り、俺は思ったことをそのまま伝えた。
「俺、サトルのこと好きだし、トウタとライと一緒にいる時が楽しいんだ。だからサトルがいつも同じだったら別にいい」
難しいことはわからない。俺はサトルやトウタみたいに頭はよくないけど、取りあえずサトルが今泣いてないならいい。笑ってくれたら本当はもっといいんだけど。
「今日、ライと草摘みするんだ! 薬草があったらサトルにやるな!」
サトルは切れ長の大きな目を開き頬を紅潮させて俯いた。そしてか細い声で
「毒草なら…いらないよ……」
と呟いた。
晴れ渡った青空に誘われ、明るい日差しに包まれた庭園に繰り出した。石畳に映る濃い陰影を踏みながら散策をする。気温は夏季に入って以来の暑さだったが、薄っすら汗ばむ程度で日々学者たちが叫ぶ気候の乱れを自覚させられた。
色鮮やかな花が咲き乱れる花壇に近づくと、木陰の石造りの長椅子に腰を掛けるクレハがいた。彼女もすぐにわたしに気づき一瞬怪訝そうに眉をひそめた。
「今日は婚約者殿とご一緒ではないのですね、兄宮様」
「貴方こそ、珍しく従者もつけずにいるではないか」
クレハの軽口を流しわたしとは対照的に早くも薄布の衣を身に着けている彼女の脇に座り、そこから見える満開の白い花を眺めた。
「……素敵な方ですわね」
背後に立つ楠木が彼女の横顔に影を落とし、その表情がどこか暗く見えた。
「けれどイシベの大臣はヌヒの宮を支持していますわ」
彼女が母となる前。わたしたちは決して仲のいい兄妹ではなかったけれど、こうしてお互いの失脚を願うほど相手の存在を疎ましく思うことはなかった。今のわたしは、彼女にとって実の息子の道を阻む大きな障害物に過ぎないのだろう。
「わたしよりヌヒの宮が大君に相応しいと思う者は大勢いるだろう。しかしまだすべてが決まった訳ではない。より相応しい方を選ぶ為に、今と言う時があるのだから」
そよ風が青葉の匂いと共に髪をなびかせ、わたしたちの間に漂う重い空気をそっと吹き飛ばしていった。
「やはり兄宮様は…変わりました……。それもきっと、コマリ殿のお蔭なのでしょうね」
長い毛先に絡まった花びらを取ろうと動く白い指を目で追いながら、改めてわたしとクレハの間にある大きな溝を垣間見た気がした。
「初めて兄宮様とお会いしたのは、私が六歳の頃でしたわね。それまで第一後継者として別々の宮中で育った所為か、私は…随分他人行儀でしたでしょう」
「一人娘として我侭に育てられたと聞いていたから、わたしも貴方に会うまで色々と想像を膨らませ怖がっていた」
「あら、ひどいわ。私のどこが我侭だというのです?」
憤慨するクレハの顔を見て思わず噴き出してしまった。普段は愛らしい少女のような人なのに、怒りに触発され顔を歪ませると途端、別人のようになってしまう。
わたしの笑い声が一通り収まるまでしばらく苦虫を噛み締めていたが、
「姉宮がいると噂を聞いた時よりも、兄宮様にお会いした時は…嬉しかったのに」
口元を寂しげ曲げぽつりと漏らした。その一言に危機感を覚えたが、裏腹に心のどこかではそんな噂があったのかと納得もしていた。
「宮廷の奥にこもってばかりいた兄宮様を中傷する噂が随分多く流れましたわね。実際私も…兄宮様にお会いするまで、もしかしたら姉宮なのかもしれないってずっと思っていました」
翳りを宿した瞳がわたしを正面から捉え言葉にならない想いを訴えかけてきた。
「第一後継者と言う肩書きを疎ましく思い、無条件に圧しかかる期待から逃れようと…兄宮様は、無関心を装っていらしたのですか?」
疑問符で括られたが返事を待たずに続けた。
「それでも、今はこうして私の子ども。ヌヒと王位を争って戦っているのは、あの方の影響なのでしょうね」
的確に突いてくる言葉の数々に彼女が抱える孤独を思い知らされる。いや、わたしはずっとそれを知っていたが敢えて無視を決め込んでいたのだ。国務を担う多忙な大君と大后に、両親として接することも叶わない。しかし何時も大君の御子と尊ばれてきた毎日に、いつの間にか培われてきた感情が別の形をつくりヌヒを王位へと追い立てているのだろう。
クレハはあらゆる形で信号を出していた。家族と触れ合えなかった寂しさが増幅していき、音もなく静かに崩れていく彼女へ唯一救いの手を差し伸べることのできたわたしは―――ただ黙って眺めていた。
親の愛情に飢えた心は冷え固まり大きな亀裂を広げていく様を、ナルヒトの仮面をかぶり冷めた気持ちで観察さえしていたのだ。一人娘も救えない者に、民を統一できるのかと内心、嘲笑って。
『愚かな……人間…愚かな…統一者…』
何故だろう。あの頃のわたしはありとあらゆるものを憎んでいた。この世に存在するすべてが滅びればいいと切に願っていた。
ふっと嘆息し、濃い陰影が浮かぶクレハの顔を見た。彼女が十歳と言う若さで家臣と婚姻したのも己が受けた傷を癒そうとしたが為かもしれない。今やクレハは十九歳になり一児の母となった。
それでもあの時差し出せなかった手を、今も望んでいる。
「……国中から剣が集められ、該当する物がヌヒの元に寄せられていますわ。我が息子ながら、着々と剣の巫女に近づこうとする姿は…とても勇猛で誇りに思います」
そう静かに断言する瞳は泥沼のように暗く淀んでいた。
「日差しが強くなってきましたわね。そろそろ宮中に戻りますわ」
手をかざし立ち上がる。長い髪につけられた装飾品が寂しげに音を立て、彼女の心の叫びのように聞こえた。
踵を返し歩き出そうとしたが、背中を向けたまま立ち止まると「兄宮様…」と振り返らず言葉を紡いだ。
「私は時に、大君を恐ろしく思うことがあります。お父様はきっと最後の決断を迫られても、私たちを選ばれない。いえ、それが大君が背負う業なのでしょう」
眩しい光の中で彼女は振り向いた。目尻の垂れた瞳が潤んでいた。
「兄宮様……もしあの子が、王位に就いたとしてもどうかヌヒを支えてあげて下さい。私にはわかりません。家族よりも大切な者を守らねばならない人の気持ちが。けれど兄宮様ならきっと…」
黙り込み、口端に笑みを浮かべると再び歩き出した。その確かな足取りを見守り、足元に落ちる影に視線を向けた。
「そこにいるのであろう」
返事はない。しかし構わず続けた。
「調べて欲しいことがある」
「―――かの薬師の正体と、空飛ぶ少年の過去を、ですか?」
どこか冷ややかな口調で、それまで隠れていた樹木の裏からようやく姿を現した。
「……それと、大臣のこともだ」
「ならばコマリ殿に頼まれた方がよろしいかと。身内の方が怪しまれませぬ」
かぶりを振り木陰に身を置くトウタを見上げた。
「彼女は…まだ知らない方がいいかもしれぬ」
そう、まだわたしは何も知らない。無知だからこそ、先に潜む恐怖を覚悟しなければならないのだ。
……知らないことが罪でも知らない方が、幸せかもしれない。
濃厚な夜の帳が外を覆う頃ようやくライは帰ってきた。両手いっぱいの食料を抱え疲れた様子の彼を店に上げ、ピリとつくった夕食をご馳走した。
山菜のお粥を何杯もお代わりをし
「うっめぇ! これ絶対サトル一人でつくっただろ! ピリなんかにつくれる訳ねぇもん」
「俺も手伝ったぞ!」
「どうせ米をとぐくらいだろ」
「山菜洗った!」
「だから砂みたいなのがついてるんだな…」
と砂を吐き出し苦虫を噛み潰した顔をする。相変わらずこの二人の掛け合いは漫才みたいで笑いを誘ってくれる。
「……すごい荷物だけど遠くまでいったの?」
「あぁ、うん。都から少し離れた方が安いんだ。物々交換もできるしな」
「そうか」
遠出をした割に汚れの少ない草履を一瞥し、食事を終えたライに横になるよう勧めた。上着を脱ぎ捨て大きく伸びをすると瞼を半分閉ざし眠たげに欠伸をした。寝転がるライの隣にピリも近づいて同じように横たわった。まるで親子猫が日向ぼっこしているようで微笑ましい光景だ。
「なぁに、真似してるんだよ」
「俺も眠たい」
そしてピリは何かを嗅ぎつけた様子でライに鼻を近づけた。
「……匂いする」
「女、口説いてたもん」
即座に断言するライ。ぼくはそんな二人の会話に耳を傾けながら薬の用意を整え薬汁に布を浸した。
「ライは女好きなんだね」
「そういう訳でも…」
妙に口の中でもごもごと言い淀む彼に、そっと笑いかけ湿布を貼りつけようとした。が、程よく焼けた小麦色の肌に浮かび上がる染みのような斑点に気がつき思わず手を止めた。
この前の診察では見かけなかったその異常に、言いようのない不安を感じ黙り込む。もしやこれは予兆なのかもしれない。彼の身体の中で分け与えられた血が、肉が、骨が――静かに腐り始めているという。
「ライ、歯についてるぞ」
「えぇ!」
目の前で咲くピリの笑顔を見詰め、ぼくは何事もなかったかのように布を貼りつけた。
「サトルは父親似?」
散歩ついでにぼくとトウタを送ってくれていたピリが、ふいにそれまでの話題を変える質問を口にした。
「……目の色は、母親と同じだけどよく父に似ているって言われたよ」
松明を持つライがこちらの様子を伺った気がした。しかしすぐに隣を歩くトウタとの会話に興じ、それ以降ぼくらに注意を向けることはなかった。
「俺も父親似なんだ。でも母親にも似てるって言われた」
彼が率先して家族について語るのは珍しい。淡い光に照らされる端正な横顔を見詰め、聞き役に徹した。
「俺ができた頃、父親の研究が忙しくなって滅多に家に帰られなくなったんだって。だから寂しかったんだと思う。でも俺が生まれても忙しくて、何の為に頑張って生んだのかわからないって、いつも言ってた」
母親に虐げられてきた思い出を回顧しているのだろうか。唇を噛み締め両脇に収まる拳を震わせていた。そんな翳りを宿す瞳を直視するうちにやり切れない気分に陥った。何故かわからないが、彼には常に笑っていて欲しい。そんな勝手な願いが心の中で燻る。
ぼくは―――彼に自分の理想を重ねているのだろうか? 叶わなかったいくつもの願いをピリに託し、どんな時も自由であるのを望んでいるのかもしれない。そしてそれは前を歩く二人にも同じことが言える気がした。純粋だった頃の自分たちを、ぼくらはピリを通して眺めている。そして汚れてしまった己の手を見て、歪んだ人生を嘆いていた。
「トウタの屋敷に着いたぞ」
ライの呼びかけでいつの間にか大通りに出ていたことに気がついた。高く聳え立つ外壁を見上げピリとライが同時に「でっけぇ」と叫んだ。
「このくらい大臣の家なら普通だよ」
苦笑しながら呟く。
「庶民と違ってやっぱ、いい暮らししてるよなぁ」
心底羨む口調にそれまでとは打って変わった冷めた表情を浮かべるトウタ。一瞬だが、そこに侮蔑に似た感情を垣間見たのはぼくだけだろう。
「生憎こんな時間だし、上がってもらうのはいずれまた。ちゃんとサトルを送って行ってやれよ」
「暗いから女に間違えられても仕方ねぇよな」
「間違えられる訳がないよ」
楽しげにぼくを眺め軽口を叩くライを睨み反論した。
それから時々歩きながら飛び跳ねてはライの目を盗んでは少しばかり浮遊するピリを見守り、大通りから離れたぼくの店を目指し歩いた。
月光が三人の影を後方に長くたなびかせる。静まり返った町屋に潜む闇が見えない外敵から、ぼくらを守ってくれているような温かみを感じさせた。暗闇は嫌いだったのに、何故か三人でいるこの時だけは安心さえした。
「サトルって…なんか他の奴と違うよな」
長い沈黙を経てライが口火を切る。
「自分で言うのも変だけど結構人見知りすると思ってたんだ。俺よりピリの方が勿論ひどいけど。でもサトルとは普通に喋れる。なんだかよく分かんねぇけど、お前ってすげえよ」
「買い被り過ぎだよ。ただ偶然、二人と波長が合っただけだって」
気恥ずかしくなり顔の前で手を振った。しかしぼくの態度を黙視するとライは、溜め息と一緒に次の言葉を吐き出した。
「トウタは妾の子として疎まれてきた分執着心が強い。だから俺たちと仲良くなったきっかけだって、きっとミズハが関係しているからだ。あいつが大臣になった時、俺たちは友だちだけど…でも切り札でもある存在だ。だけどサトルは、何もないだろ?」
縋るような切実な想いを含ませた眼差しが向けられる。その後ろでピリも不思議そうにぼくを見ていた。
ぼくには何もない? 一族の恨みを晴らす為にここまでやってきたぼくなのに? 彼らを利用する手立てがない訳でもない。秘密裏に研究される不老不死を盾に、いくらでも大君たちを脅せられる。彼の治療に手を貸すのも、実際に使われてきた薬剤や研究内容をもっと詳しく聞きだすのが第一目的。そう、ぼくもトウタと変わらず自己に執着していた。
真っ直ぐ向けられた真摯な視線に胸が痛む。何も知らない二人だからこそ、ぼくは悪気なく利用できるのだ。
「サトルは俺が飛んでも驚かなかったぞ。だから仲間だろ」
話を聞いてなかったのかピリは素っ頓狂な声を上げた。
「中途半端に話しに加わるな! ややこしくなるだろ!」
と、すかさず突っ込みが入る。
「だってライとサトルばっかり喋って、俺だけ除け者だもん」
「俺はサトルに聞きたいことあるから喋ってるんだよ! ピリとはいつも喋ってるだろ」
「じゃー何聞くんだよ」
「剣の巫女のことだよ!」
怒号と共に飛び出た言葉に彼だけでなくぼくも驚きを隠せなかった。
「それは…どういうこと?」
さすがに動揺を隠せずぼくは思わず厳しい口調で問い質していた。
「トウタが…漏らしていたんだ。もしサトルが女なら、一番剣の巫女に相応しいって。そしてもしそうだとしたら…サトルは大君一族を破滅させようとしているんじゃないかって」
気まずそうに唇を噛み締め俯くと途切れ途切れに呟いた。
それでも心臓が大きく飛び跳ね全身がひんやりと汗ばんだ。彼のことだ。偶然会話の流れで漏らした訳がない。ライを通じてぼくに探りを入れようとしていたのだろう。
「なぁ、そんな恐ろしい…。考えてる訳ないだろ? 俺たちの生活から大君が消えたら…これまでの当たり前だった毎日が崩れちまうんだ。それくらいサトルにはわかるだろ?」
『わかるだろ?』
そのたった一言に秘められた様々な思いに触れ、喉元が絞めつけられるような息苦しさを覚えた。大君の為の研究に左右される人生を送りながら、尚も支配者を渇望する生まれながらに洗脳され続けた結果。これ以上ぼくは余計なことは言えない。ぼくは―――彼らの前ではただのサトルであり続けなければならない。
例え、真実。この身に剣の巫女の血を受け継いでいたとしても、ぼくは演じる。誰にも邪魔はさせない、復讐の為に。
「まさかぼくがそんなすごい人物の訳がないだろ。しかも大君を滅ぼす? はっはっ…まったく…有り得ないよ。なんたって大君を慕って都まできたのに」
本心とは裏腹に舌先を滑らかに飛び出る言葉に、ライの険しい表情が次第に削り取られて丸くなっていく。
「罪人の子孫だなんて…まったく、これ以上の不名誉はないよ」
感情のこもらない決め台詞を最後に彼はようやく笑顔を取り戻した。
「そうだよな。悪かったな、サトル」
「いや、いいんだ。気にしてないから」
笑顔で受け答えるサトルだけど、なんとなく違和感が残った。初めて聞いたけどトウタがまさかそんな風に考えていたなんて驚いた。けど俺よりもサトルの方が驚いていたみたいだった。剣の巫女が罪人と言われる所以は知っていたけど、伝説のウロ峠と巫女がどう繋がるのかよくわからなかった。それに巫女って呼ばれるくせに、なんで罪人扱いされるのかもわからない。
愛想笑いを浮かべるライたちを見回しその質問を口にしてみた。
「どうして巫女がウロに渡ったんだ?」
「えーなんでだ?」
ライも不思議そうにサトルを見る。この三人の中で一番頭がいいのがサトルだからだ。
「剣の巫女は…人を殺めた罪で一切の資格を剥奪されたんだ。故郷を追われ住む所を失った巫女は………伝説のウロへ渡ったと言う説がある。それに巫女は大君の祖、末の神が残したクサヒルメの剣を守り続けていた。故にその剣は今も行方がわからない幻の存在となった。つまり伝説と史実が混ざっているんだ」
「じゃあなんで巫女は人を殺したんだ?」
更に突っ込んだ質問にサトルは困ったように眉を寄せて黙り込んだ。
「様々な説があるけど…どれが正しいのかわからない。でも亡くなった巫女の予言に一番似合う説を挙げるなら、剣の巫女が人を殺めた背景には当時の大君が関与していたからと言われている。これはあまり支持されていない説だけどね」
「つまり大君が剣の巫女を嵌めたって訳だ」
「それが正しいとは断言できないけど」
鋭く釘を刺すサトル。陽のあるうちには決して話題にも出せないような話に、いつの間にか俺たち三人の間に重い沈黙が流れるようになった。それに耐え切れず、
「ややこしい話ばっかだー」
と叫んだ。同時につい力んでしまって飛び上がってしまった。だけど上空を駆ける風が頬を撫ぜて火照った身体を冷やしてくれる。
無意識に飛び上がっていた俺を般若みたいな顔でライが睨んできた。周囲には人がいないけど怒り心頭の様子に恐怖しすぐに地上に戻った。
「人がいないからって気を抜くなよ!」
「だって…」
「だっても糞もないんだ! 約束しただろ? 都ではもう飛ばないって」
お前が飛ぶとロクなことがないと愚痴りながらサトルと再び歩き始めた。置いていかれそうな勢いだったので慌てて追い駆けた。ふいに闇に紛れて俺らを見詰める誰かに気づいたけどなんとなく怖くて言い出せなかった。もし勘違いだったら、またライに怒られちゃうから。
気の所為だ。そう思い込もうとして一心不乱に足を前後させる。それでもサトルの家に着くまで不安は頭から離れなかった。
「……大分、月が傾いてるな」
夜空を仰ぎながらライが呟く。店の戸にかけた鍵を外しながらサトルが「ゆっくりしていたからね」と相槌を打った。
「ねぇ、俺! 今日泊まりたい! たまにはライ以外の奴の朝飯食ってみたい!」
「なんだ、その理由は!」
すぐに頭を小突かれたけど縋る思いでサトルを見詰める。あの時感じた何者かわからない視線を忘れられず―――ミズハの奴らかも、と思うと余計に恐怖が大きくなった。
しばらくさっきより困った顔をしていたが諦めず見詰めていると、小さく嘆息し頷いてくれた。
「朝は早いよ」
「やったぁ!」
飛び上がりそうな勢いの俺を慌てて押さえつけ、ライは大きく溜め息を吐いた。
「本当にいいのか? こいつ、意外といびきがうるさいぜ?」
「ライだってうるさいだろ!」
「寝相も悪いし」
「ライだって!」
「俺が毎晩どれだけお前の寝相に苦しんできたか知ってるのか? 毎晩毎晩、山崩れに巻き込まれて死にかける夢みてるんだぞ!」
「まぁまぁ…」
躍起になって叫ぶ俺たちを宥めサトルはやっと心から笑い声を上げてくれた。
「いいよ、いいよ。いびきがすごくても寝相が悪くても。きみら二人といれば退屈しなくて済むから」
そしてあまり広くない部屋に俺とライは雑魚寝になった。囲炉裏を挟んで一人布団で眠るサトルとしばらく喋っていたけど、会話が続くうちに頭が醒めてきて寝つけられなくなった俺たちに、寝酒を少しだけ出してくれた。するとすぐに睡魔がやってきて意識が朦朧としていった。
「おやすみ…」
サトルの声を聞いたのを最後に深い眠りの世界に飛んでいった。
「……の………」
「………だ」
窓から侵入してきた暗闇に焦点を絞り、自分が置かれている状況を確認する。ぼんやりとした視界に穏やかな寝息を立てるライの顔を映し、取り敢えず安心するとまだ眠たいのに覚醒してしまった頭を起こした。囲炉裏の向こうにいるはずのサトルの姿がない。そう認識するや否や、それまで聞こえていた声に初めて注意を向けた。
サトルが外で話しているのかな? 重たい瞼を擦り、格子窓から背伸びをして顔を覗かせて見る。思っていたよりも外は明るく、離れた所にある井戸の脇に佇む二人の姿を細やかに照らし出していた。一人はサトルだ。でも相手の男は見たことがない。サトルよりも背が高く年も離れている気がする。そんなに派手ではないけど、俺が見ても身に着けている衣は上質の物だとわかった。
振り返り心地良さそうに眠るライを一瞥する。置いていくのは怖かったけど、もう少し近づかないと会話の全部が聞こえなかった。好奇心に後押しされ俺はそっと土間に下りると、少し開けた戸の隙間から耳を澄ませた。
「……とにかく宮中へお戻り下さい」
感情を抑揚したサトルの声が聞こえる。
「しかしわたしはかの少年に聞きたいのだ」
対する男の声も切羽詰っていた。
「何故彼は飛べるのだ? 彼は人間ではないのか?」
心臓が大きく飛び跳ねる。人間デハナイ―――なら俺は何者なの? 小さな頃からそう責められてきた聞き慣れた言葉なのに寂しさと息苦しさでいつも胸がいっぱいになる。
「ご冗談を。彼は人間です」
凛とした声でサトルが断言した。
「ご存知ないのならばお教え致しましょう。しかし今宵はもうお帰り下さい。宮の身になにかあれば、打ち首では済まされませぬ」
短い沈黙の後、男は小さく「わかった…」と呟いた。
「明後日、エグリの大臣を通じてぼくをお呼び下さい。ただ、お薬を所望されるという理由はお控え下さいませ。宮廷専属薬師たちを敵には回したくはございませぬし、周囲の者も訝りましょう」
沈黙が続く。その間心臓が大きく鳴り響くので、二人にまで聞こえるんじゃないかと本気で心配した。サトルはあの男にミズハのことを教えるつもりなのか? もしそうだとしたら、いつかライが言っていたようにサトルを殺すかもしれない。女以外は容赦しない。そう断言していたライは、約束を破ったサトルを殺しちゃう。
どうしよう! 混乱する頭で必死に考えた。
「青い瞳の少女たちがいた…」
ふいにそれまで黙っていた男が突然口を開いた。
「え?」
サトルも虚を衝かれたような表情になる。
「夢で……貴方と同じように青い瞳を持つ少女たちを見たことがあった。元より都に住んでいたのか?」
「……いえ、討伐以降地方は治安が乱れましたので越して参りました」
「北に近い所に?」
しばらく男は何かを考えるかのように沈黙し、再び言葉を紡いだ。
「ならば……イハヤの森の名を聞いたことは?」
「ありませぬ」
間髪入れず断言するサトルに、直感的に嘘だと思った。同時に何故かサトルがとても大きな隠しごとを俺たちにまでしているんじゃないかと、不安になった。
男はどこか諦めたように肩を竦めると
「……夜分に済まなかった。わたしはこれより宮廷に戻るが、今宵の件は他言せぬよう」
「畏まりました」
礼儀正しく頭を下げるサトルを一瞥すると、男はしっかりした足取りで歩き去っていった。
見送るサトルの姿がどこか儚く見える。月明かりの所為かもしれないけど、今サトルに触れたらすぐに消え去ってしまいそうだった。弱々しいその様子はみんなで見た蛍に似ていた。
雲隠れしていた月が再び姿を現す。月の光を浴びて頬がきらきらと輝いて綺麗だと思ったら、サトルは声を立てず静かに泣いていた。
薬師と別れ宮廷に向かう間、断片的に様々な映像が走馬灯のように蘇っては消え続けた。偶然見かけた空を飛ぶ少年と彼を匿う薬師。確か名は――サトルと言った。青い瞳の少年。鳥のように…空を翔る…青い瞳の少年…
何かを思い出しそうになり頭痛がした。鮮明な色彩を伴って浮かび上がる映像の中で、いくつも並ぶ青い眼球がわたしを見詰めている。激しい痛みと一緒に眩暈がした。遂に耐え兼ね足を止める。腰を下ろし休みたいが周囲に寛げそうな場所がない。せめて喉の渇きを潤そうと近くにあった井戸を覗く。が、鼻を突く悪臭にすぐに顔を背けた。
これが水か…?
暗く淀んで底が見えない。試しに釣瓶を落とし桶に汲んでみた。意外にも力を要する作業に驚く。たかが水を飲もうとしただけなのに、庶民はこんな苦労をしているのかと痛感した。
苦心の末手に入れた桶の水もやはり濁っていて生物の臭いがした。桶を戻し濡れた手を拭き取ると再び歩き出した。それでも悪臭が鼻について、胃の中が逆流しそうになるのを堪えた。今まで知らなかったことが宮廷の外には溢れているのだと改めて思い知らされた。
本当にここは同じ宮廷がある都なのか? 地続きでも到底信じられない。
大君の膝元である都がこんな有り様なら地方はどうなのだろう。治安が乱れていると言ったサトルの言葉を思い出す。想像がつかない。人々は今、一体どんな生活を強いられているのだ?
汚い道の端々に吐瀉物が目につく。これまで美しいと思っていた都はほんの一部だったのだろう。
―――知らないことが罪となる。滋養ある食事を毎日欠かさず食べ、艶もある血行のよい自分の手を広げ改めて眺めてみる。こんな手で広大な国を支配し人々の生活を支えなければならない。それはすべて大君の判断に委ねられてきたことなのに。
戦になるか平穏な日々を守れるか否か。いつの時代もただ一人の人間の判断で左右されてきた。それもすべて優れた支配者であるかどうか。
大君たちは何故歴史を改竄したのだろう。己を神格化することで民衆の統一を図ろうとして? 現実に存在したウロを伝説にして何を守ろうとしたのだ?
増えていく疑問を両手に答えを求めて空を仰いだ。しかし漆黒の中に浮かぶ月は何も言わず、黙り込んだままだった。
後日大臣の息子に付き添ってやってきたサトルを見た女官たちは、終始落ち着きのない様子だった。噂が呼んでいつになく周囲に人の姿が多い。石畳の上を歩くサトルとトウタを侍従たちが遠巻きに見ている。頬を赤めひそひそと声を潜める若い女官たちが初々しかった。
その様子を自室の窓から眺めながら
「いくら見目麗しいからと言って、こんなに騒ぐなんて」
不貞腐れた様子のコマリが小言を並べていた。
「まだ年端もいかぬ子どもではないですか」
彼女の傍で読書をしながら思わず苦笑した。
「いくら位が高くとも見目もよいとは限らぬからな。同じ年頃でも朝から晩まで働かせているのだから、鬱憤も溜まるであろう」
すると僅かに眉根を寄せコマリは訝しげに問いかけてきた。
「……宮様、少し考え方が変わりましたか?」
彼女の洞察力には常々から舌を巻いていたが、それでも内心どきりとした。
「無関心でいた頃は別の意味で楽だった。何も知らなければそれで済むのだから」
「夜中に宮廷を抜け出し…刺激を受けたのですね」
「刺激…と言うより、絶望したのだな。わたしが知る世界がいかに狭かったのか、否応なく自覚させられた。そして彼が……これより話してくれるだろう。わたしでさえ知らなかった世界を」
「……彼、とはあの薬師を指しておいでですか?」
今度は露骨に眉間に皺を刻みコマリは断言した。
「あの薬師は女でしょう?」
思いがけない発想に一瞬黙り込んだ。あの少年が女だと――? 確かに華奢な身体つきだが、口調や対峙したときの雰囲気から推察しても……
「まさか、あれは男だ。年の頃からしても、女人らしい特徴は見られない」
「ですが……発育が遅いだけかもしれませぬ…」
確固たる自信があるようだが、それを裏づける証拠がないのだろう。珍しく強固な姿勢の彼女の肩を軽く叩き
「まぁどちらでも変わりない。性別はともあれ、あの空を飛ぶ少年について語ってくれるのなら問題ない」
それでもまだコマリは物言いたげにしていたが、扉の向こうから取次ぎの侍女の声が聞こえた。
「サトル殿のおいでにございます」
「入りなさい」
静かに扉が開き、恐らく借り物の正装姿のサトルが堂々たる態度で入ってきた。外見に似合わず意外と肝が据わっているのかもしれない。なんとなくコマリと似ている気がして好印象を持った。
深々と頭を垂れ、挨拶を口上しようとするがそれを制し
「堅苦しい礼儀などいらぬ。早速本題に入りたい」
「…その為にトウタを置いて参ったのですからね」
皮肉った一言にひやりとする。
「エグリの大臣と仲が深いのなら、今、宮様が置かれている状況も存じておりましょう。心してお答えなさい」
コマリの指摘に目礼し答えるとサトルは一息吐いてから語り始めた。
「ぼくが申し上げられることは限られております」
人形のように固い表情を眺めそこから飛び出す未知の言葉を待った。
「大君に依託されミズハ寮が、死人返りを復活させようとしておりました。死人返りとは、古来より一切の研究が禁じられた術です」
「ミズハ…?」
思いも寄らぬ名前に絶句する。ミズハ寮といえば先日、剣の巫女の扇を調べさせた研究寮だ。兼ねてより資金援助を行ってきたミズハが禁術の開発に携っていた。しかもそれを大君が認めていた?
「その術は具体的にどういったものなのです?」
コマリが落ち着いた口調で語りかける。
「死人、もしくは生きた人間の身体の一部を混ぜ合わせ、生来とは異なった方法で一固体の人間をつくりだすというのがその術の特徴です」
そしておもむろにわたしを直視すると表情を変えずに恐ろしい事実を告げた。
「あの少年は、その研究に携わっていました。恐らくは研究過程であの力を手に入れたのかと」
「…つまり大君は、その術を使って不滅の存在をつくろうとしているのだな」
「でも、なんだって……」
コマリの語尾が力なくすぼんでいく。
「…いえ、きっと私の父も知っていると思います」
彼女の父が軍事に関わっていることを思い出し、悲しげに肩を落とすコマリに同情した。そしてイシベの大臣の顔を脳裏に思い描いた。左目の泣き黒子が印象的な、鋭くてどこか冷めた瞳をした人物だった。
「むしろ父も関与していることでしょう。学徒の頃は研究者を目指したくらい、学問熱心な人でしたから」
かける言葉を見失い黙り込む。そして今は彼女を慰めるよりも自分の考えに没頭した。大君は後継者にのみその事実を告げようとしていたのではないかと、考えが過ぎる。しかし何故、不滅の…不死を求めるのか腑に落ちなかった。予言を恐れてか? それとも力による支配を強化させようとして? 不滅の兵士。決して死なない彼らを駆使し―――何を企んでいるのだ?
黒い睫に水分を含ませたコマリを一瞥しまた別の案が浮かんだ。北の討伐で確か軍隊が多大な被害を受けたと聞いた。北の十二部族が思いの外、強固な軍力と結束力を持っていたのが大きな原因だったらしい。しかし大君の狙いは古来より姿を変えず守り続けられていたイハヤの森を消滅させることだけだったのか? その為にあれ程の痛手を被ったとは、あまりに浅はかだ。
『まだ終わっていない』
と、頭の隅で警鐘が鳴った。討伐が終わった今、大君の狙いがある。邪魔者が消えたこの時こそ本来の目的が果たされる。それは何だ―――
ふいに深い冷徹さを秘めたサトルの青い瞳を見て、どれよりもしっくりとくる答えを見出した。まるで予め持っていた符号が、当たり前の如く一致するかのようにわたしはそれが当然だと頭のどこかで納得していた。
大君は唯一この世で歪められた歴史の真実を知る存在。ウロ峠がなんらかの理由で、この地上にあったとしてもそれは不思議でもない。国を追われた巫女が逃げたウロ。真実を貫いた北の部族の滅亡。虫食いになっていた答えがどんどんその姿を明らかにしていく。
「研究は、三十六代目ウノの大君の御世より始められたそうです」
伝説として語られるウロを―――手中に収める。そうだ。一番利が叶っている。王位継承の条件に敢えて剣の巫女を挙げたのは、わたしとヌヒ、より大君の思想に近い者を選び意志を継がせようとしているのではないか。
一族を滅亡させようとする巫女を生け捕りにしすべてを手に入れようとしている。神聖な血の流れを汲まないわたしを後継者に推すのは、手段を選ばず目的を果たすことに重きを置いた故の策だったのか? 最悪の場合死に至らしめても一族の損失には繋がらない。それともこのわたしに巨大な野望を成し遂げられると一縷でも期待していたのか?
気が遠くなるような虚脱感が背筋を走る。身の凍える風が吹きつけると同時に辺りの景色が一変した。振り向くと空一面を埋め尽くす白い鳥が群れを成して飛び立っていった。何度も見てきた夢の景色。赤茶色の土が露見する大地に走る亀裂が、まるでわたしの心情を如実に表しているように見え卑屈に感じた。
瞼に力を込めて閉ざし暗闇に父君の顔を思い描く。想像力を駆使しなければ重たい王冠の下にある顔が、すぐ闇に同化して消えていってしまいそうになった。
やはり貴方にとって、わたしは亡きナルヒトの代わりでしかなかったのですね―――
そして不安げに顔を覗くコマリに、出来損ないの笑みを向けた。
後ろから追ってくるライを何度も振り返り確認しながら、俺は必死に足を走らせた。熱中するあまり、足裏が少し浮かび上がったりしたけどライにはばれていないみたいだった。
人通りの多い昼下がりだけど、こうして走っていれば周囲の人間を気にせずいられた。
「そこ左に曲がれー」
息を切らしながら叫ぶライを置いて更に速度をつけた。サトルの店まで競争して負けた方が山積みになった洗濯を片づける約束だ。裏通りに入り長屋の前を駆け抜ける。見慣れた看板の前に佇むサトルと、知らない女たちを目にした途端警戒心が沸き立ち足を止めた。
「どうしたんだよ」
肩で荒々しく呼吸をしながら後から追いついたライが声をかけてきたが、すぐにサトルと仲良さそうに喋る女に気づき黙り込んだ。多分薬をもらいにきたんだろうけど、楽しげに口元を緩ませる二人の表情が気になった。年の近い女は頬を赤らめ、終始恥ずかしそうに俯いていた。なんだか対するサトルは…
「こうして見ると、男なんだよなぁ…」
俺の気持ちを代弁して呟く。不思議とその口調は寂しげだったが、女と別れてすぐに俺たちにサトルが気づくとライは手を振った。
「忘れ物取りにきてくれたの?」
「忘れ物?」
鸚鵡返しする俺を見てぷっと吹き出し
「一昨日泊まった時に、これ…忘れていっただろ?」
と、小さな巾着袋を手渡した。
「あぁ、やっぱりサトルのところで落としたんだなぁ…」
見たことのない色あせた巾着袋。俺の知らない物をライが持っていたのが、意外だった。
「中身は見ていないから安心して」
「あぁ」
ぎこちなく微笑み返すライがいつもと違って見える。
「ところで今日はどうしたの? 治療なら今夜行くつもりだったけど」
「うん。実はさ俺、これから買出しにいこうと思ったんだけどその間ピリを預かってくれねぇかなぁって思ってさ」
サトルは俺を一瞥し納得したように頷いた。ここ最近俺は勝手に都にきて問題を起こしまくっていたから、ライの信頼を失くしていた。本当は縄で縛られて留守番になる予定だったけど、サトルのところで大人しくしているという条件で連れてきてもらったのだった。
「いいよ。代わりに店の手伝いでもしてもらおうかな」
「助かるよ」
頭を掻き口角を上げて笑いかける。気の所為かライから、さっきの女と同じ雰囲気を感じて一緒にいる俺まで落ち着かなくなってきた。
「買出し終わったら俺の治療も頼むよ」
「わかった。気をつけて」
片手を上げて応えるとライは踵を返して歩いていった。並んでその後ろ姿を見送ると、サトルはおもむろに笑みを浮かべ
「どっちが子どもだかわからないよな」
「俺の方がしっかりしてるぞ」
「さぁ、どうだろ?」
先に店内に入るサトルを追って入る。戸を閉める際に近くの井戸が目に止まった。あの夜のことはまだライにも黙ったままだ。多分これが初めての隠しごとだった。
「ピリ?」
俺はサトルに呼ばれるまで井戸を食い入るように見詰めていた。
外を気にする様子だったがすぐに床に上がると、きょろきょろと顔を動かし
「何手伝えばいいの?」
と開口一番に質問した。単純と言おうか素直と表現すべきか、取りあえずその実直さが微笑ましく感じられ心が和んだ。
「用ができたら頼むよ。それよりお茶でも飲む?」
湯を沸かしながら湯飲みを用意する。囲炉裏の傍に寛いだ様子で座り込むと、しばらくぼくの手元を覗き込んでいた。その仕草はまるで子犬みたいだ。初めて会った時も思ったが、彼は愛玩動物のような魅力がある。言動などからライが主導権を持っていると勘違いしていたが、実際のところ潜在的に彼もまたピリに依存していた。己の庇護下にいたつもりが立場は逆転している。
そんな無意識に見る者を魅了する天性の才に気づいていないのは、本人だけだろう。
「……この前、薬入れたの?」
手元が狂い急須に注ぐ湯がこぼれた。反射的にピリを見ると悪意のない目を向けていた。
「俺とライが泊まった時、知らない男がきたよね」
心臓が早鐘を打つ。まさか薬が途中で切れたのだろうか? ナルヒトの宮がここにきたことが露見されればぼくの身も危ない。何とか話を逸らそうと試みようとしたが、それを出し抜くようにしてピリが言葉を繋げた。
「ミズハと俺たちについて話したんだろ? 一緒に謝ったって…ライは絶対に許してくれない」
そしてその答えを求め悲しげにぼくを見上げてきた。
「どうして、話したの?」
外の騒音がやけに大きく聞こえる。いや、この部屋が静か過ぎるのだ。窓辺から注ぐ明るい光に照らされ、栗色の髪が金色を帯びて見えた。大きな瞳が透けて硝子玉みたいだ。
青い瞳―――青い瞳の姉者たちは、神々の嘆きを慰める為に地へ消えていった。そして兄者たちは成長と共に羽ばたく力を手に入れ旅立った。
ウロ峠に伝わる二つの掟に従い、ぼくたちは代償を払って生きることを望んだ。峠に逃げた剣の巫女が、妻となる少女と共に決めた時からずっと掟はぼくらを縛りつけてきた。伝説に書き記された峠はかつてむかしこの地上に存在していた。北に残るイハヤの森の奥深くにその入り口はあったのだ。そして十二部族は入り口を俗世から隠し守り続けていた。何人も峠に近づけないよう、何百年に渡って受け継がれてきた使命でもあった。
「サトル……?」
いつの間にか涙で歪んだ視界にピリが顔を覗かせた。
伝えたい。この憎しみを。知って欲しい。ぼくらの無念を。誰でもいい。誰かに思いの丈を聞いて、共感して欲しかった。
「……泣いて、る?」
震える声に誘われ頬を一滴の涙が伝った。堰を切ったように次から次へと流れ出る。
「………ぼくの一族は……大君に殺された」
第一声を吐き出すとふいに全身に力がこもった。途端に想いが言葉を伴って溢れた。
「祖先の代より大君たちに辺境の地に追いやられ、身を寄せ合い暮らしてきた。でも祖先が受けた仕打ちを恨む者はいなかった! その為に死を強制されても、恨み言さえ…なかったのに…」
膝の上で握り締めた手の甲に水滴がこぼれ落ちる。
「……討伐で…峠の均衡が崩れたんだ…。元々不安定な地だったけど、洪水がみんなを飲み込み……ぼくだけが生き残った」
「……峠って」
息を痞えながら、ピリは怯えた表情で投げかけてきた。
「サトルは……剣の巫女、なの?」
長い沈黙の間に激情に任せ胸の内を叫んだお蔭か、少しばかり気持ちが穏やかになった。目元に溜まった涙を拭うと僅かばかりの冷静さを取り戻した。
「……祖先は、峠に住む少女と結ばれ子孫をつくった。でも過酷な環境に耐え切れず、生まれたばかりの子どもはすぐに死んでいった。そこで祖先は峠に古くから伝わる二つの選択をした。一つは再び生まれ変わるかどうか。もう一つは、死んで姿形を変え、この地にとどまるかどうか」
言葉を区切りすっかり冷めてしまったお茶で口の中を潤す。湯呑の中に映る自身の顔を見詰め、ぼくは続く言葉を吐き出した。
「祖先は…鳥となった。鳥に姿を変え遠くから子孫を守り続けた。以来子孫は同じ選択を繰り返してきた。青い瞳の乙女は峠を支える為に人身御供となり、少年は成長と同時に姿を白い鳥に変えていった。荒れ果てた峠に…少しでも生き物を増やすことが、自然の均衡を正常にする唯一の方法だったから」
「じゃあ……」
視線をしばらく床に定着させていたがピリは意を決したように顔を上げた。
「サトルは…青い目だから……女なの?」
言葉を使って答えようと思ったが、それよりも確かな手段が思い浮かび握り締められたピリの手を持ち上げ膨らみのない平らな胸元に押し当てた。
「!」
驚いたように目を見開き急いで手を退けようとしたが離さない。当惑する顔に赤みが差す。動揺する彼の姿にようやく主導権を手に入れた安心感を得た。
「ずっと薬を飲み続けていた。自分の身体が変形しないように。ぼくも同じ。きみと同じように、大人にはなれない。女人の特徴があらわれ始めたら、いつかぼくも姉者たちと同様……依代となって、あの不毛の地の一部にならないといけなかったから」
指先から伝わる鼓動は一定のリズムを刻み、全然動揺していなかった。逆に俺は自分でもわかるくらい、全身が熱くなっていることに気づいて余計に落ち着かない気分に陥る。母親の身体さえ触っていたかどうか覚えていないけど、あまり肉づきのよくない身体は確かに女って感じではない気がした。だけどふわりと香る花の匂いは、今まで出会ってきたどの男からも嗅いだことのない類のものだった。
少しして、綺麗に整った顔を歪めサトルは自嘲した。
「…男でも女でもない……中途半端な人間だ」
それはとても悲しい響きを含んでいた。それからようやく自由になった掌を一瞥し、もう一度サトルの顔を見た。サトルは俺から目を逸らし俯いていた。
「なんてね…」
「え?」
意味がわからなくて驚く俺にサトルは苦笑いを浮かべ顔を上げた。
「嘘だよ。ただ未だにぼくを女じゃないかって疑うから、ちょっと一芝居打っただけだよ」
「嘘…なの?」
「そう。前も言ったけど、剣の巫女の子孫だなんて……不名誉極まりない。それにぼくに大君を暗殺できるとでも思う? 人の命を救うのがぼくの仕事なのに」
有無を言わさぬ態度に頭が混乱してきた。今のサトルが嘘を言っているようには思えない。けどさっきの涙が偽物とも断言できない。どっちも本当で、どっちかが嘘なんだ――
「……でも…今のサトルがずっと変わらないならどっちでもいいや」
考えすぎて熱を帯びてきた頭を掻き毟り、俺は思ったことをそのまま伝えた。
「俺、サトルのこと好きだし、トウタとライと一緒にいる時が楽しいんだ。だからサトルがいつも同じだったら別にいい」
難しいことはわからない。俺はサトルやトウタみたいに頭はよくないけど、取りあえずサトルが今泣いてないならいい。笑ってくれたら本当はもっといいんだけど。
「今日、ライと草摘みするんだ! 薬草があったらサトルにやるな!」
サトルは切れ長の大きな目を開き頬を紅潮させて俯いた。そしてか細い声で
「毒草なら…いらないよ……」
と呟いた。
晴れ渡った青空に誘われ、明るい日差しに包まれた庭園に繰り出した。石畳に映る濃い陰影を踏みながら散策をする。気温は夏季に入って以来の暑さだったが、薄っすら汗ばむ程度で日々学者たちが叫ぶ気候の乱れを自覚させられた。
色鮮やかな花が咲き乱れる花壇に近づくと、木陰の石造りの長椅子に腰を掛けるクレハがいた。彼女もすぐにわたしに気づき一瞬怪訝そうに眉をひそめた。
「今日は婚約者殿とご一緒ではないのですね、兄宮様」
「貴方こそ、珍しく従者もつけずにいるではないか」
クレハの軽口を流しわたしとは対照的に早くも薄布の衣を身に着けている彼女の脇に座り、そこから見える満開の白い花を眺めた。
「……素敵な方ですわね」
背後に立つ楠木が彼女の横顔に影を落とし、その表情がどこか暗く見えた。
「けれどイシベの大臣はヌヒの宮を支持していますわ」
彼女が母となる前。わたしたちは決して仲のいい兄妹ではなかったけれど、こうしてお互いの失脚を願うほど相手の存在を疎ましく思うことはなかった。今のわたしは、彼女にとって実の息子の道を阻む大きな障害物に過ぎないのだろう。
「わたしよりヌヒの宮が大君に相応しいと思う者は大勢いるだろう。しかしまだすべてが決まった訳ではない。より相応しい方を選ぶ為に、今と言う時があるのだから」
そよ風が青葉の匂いと共に髪をなびかせ、わたしたちの間に漂う重い空気をそっと吹き飛ばしていった。
「やはり兄宮様は…変わりました……。それもきっと、コマリ殿のお蔭なのでしょうね」
長い毛先に絡まった花びらを取ろうと動く白い指を目で追いながら、改めてわたしとクレハの間にある大きな溝を垣間見た気がした。
「初めて兄宮様とお会いしたのは、私が六歳の頃でしたわね。それまで第一後継者として別々の宮中で育った所為か、私は…随分他人行儀でしたでしょう」
「一人娘として我侭に育てられたと聞いていたから、わたしも貴方に会うまで色々と想像を膨らませ怖がっていた」
「あら、ひどいわ。私のどこが我侭だというのです?」
憤慨するクレハの顔を見て思わず噴き出してしまった。普段は愛らしい少女のような人なのに、怒りに触発され顔を歪ませると途端、別人のようになってしまう。
わたしの笑い声が一通り収まるまでしばらく苦虫を噛み締めていたが、
「姉宮がいると噂を聞いた時よりも、兄宮様にお会いした時は…嬉しかったのに」
口元を寂しげ曲げぽつりと漏らした。その一言に危機感を覚えたが、裏腹に心のどこかではそんな噂があったのかと納得もしていた。
「宮廷の奥にこもってばかりいた兄宮様を中傷する噂が随分多く流れましたわね。実際私も…兄宮様にお会いするまで、もしかしたら姉宮なのかもしれないってずっと思っていました」
翳りを宿した瞳がわたしを正面から捉え言葉にならない想いを訴えかけてきた。
「第一後継者と言う肩書きを疎ましく思い、無条件に圧しかかる期待から逃れようと…兄宮様は、無関心を装っていらしたのですか?」
疑問符で括られたが返事を待たずに続けた。
「それでも、今はこうして私の子ども。ヌヒと王位を争って戦っているのは、あの方の影響なのでしょうね」
的確に突いてくる言葉の数々に彼女が抱える孤独を思い知らされる。いや、わたしはずっとそれを知っていたが敢えて無視を決め込んでいたのだ。国務を担う多忙な大君と大后に、両親として接することも叶わない。しかし何時も大君の御子と尊ばれてきた毎日に、いつの間にか培われてきた感情が別の形をつくりヌヒを王位へと追い立てているのだろう。
クレハはあらゆる形で信号を出していた。家族と触れ合えなかった寂しさが増幅していき、音もなく静かに崩れていく彼女へ唯一救いの手を差し伸べることのできたわたしは―――ただ黙って眺めていた。
親の愛情に飢えた心は冷え固まり大きな亀裂を広げていく様を、ナルヒトの仮面をかぶり冷めた気持ちで観察さえしていたのだ。一人娘も救えない者に、民を統一できるのかと内心、嘲笑って。
『愚かな……人間…愚かな…統一者…』
何故だろう。あの頃のわたしはありとあらゆるものを憎んでいた。この世に存在するすべてが滅びればいいと切に願っていた。
ふっと嘆息し、濃い陰影が浮かぶクレハの顔を見た。彼女が十歳と言う若さで家臣と婚姻したのも己が受けた傷を癒そうとしたが為かもしれない。今やクレハは十九歳になり一児の母となった。
それでもあの時差し出せなかった手を、今も望んでいる。
「……国中から剣が集められ、該当する物がヌヒの元に寄せられていますわ。我が息子ながら、着々と剣の巫女に近づこうとする姿は…とても勇猛で誇りに思います」
そう静かに断言する瞳は泥沼のように暗く淀んでいた。
「日差しが強くなってきましたわね。そろそろ宮中に戻りますわ」
手をかざし立ち上がる。長い髪につけられた装飾品が寂しげに音を立て、彼女の心の叫びのように聞こえた。
踵を返し歩き出そうとしたが、背中を向けたまま立ち止まると「兄宮様…」と振り返らず言葉を紡いだ。
「私は時に、大君を恐ろしく思うことがあります。お父様はきっと最後の決断を迫られても、私たちを選ばれない。いえ、それが大君が背負う業なのでしょう」
眩しい光の中で彼女は振り向いた。目尻の垂れた瞳が潤んでいた。
「兄宮様……もしあの子が、王位に就いたとしてもどうかヌヒを支えてあげて下さい。私にはわかりません。家族よりも大切な者を守らねばならない人の気持ちが。けれど兄宮様ならきっと…」
黙り込み、口端に笑みを浮かべると再び歩き出した。その確かな足取りを見守り、足元に落ちる影に視線を向けた。
「そこにいるのであろう」
返事はない。しかし構わず続けた。
「調べて欲しいことがある」
「―――かの薬師の正体と、空飛ぶ少年の過去を、ですか?」
どこか冷ややかな口調で、それまで隠れていた樹木の裏からようやく姿を現した。
「……それと、大臣のこともだ」
「ならばコマリ殿に頼まれた方がよろしいかと。身内の方が怪しまれませぬ」
かぶりを振り木陰に身を置くトウタを見上げた。
「彼女は…まだ知らない方がいいかもしれぬ」
そう、まだわたしは何も知らない。無知だからこそ、先に潜む恐怖を覚悟しなければならないのだ。
……知らないことが罪でも知らない方が、幸せかもしれない。
濃厚な夜の帳が外を覆う頃ようやくライは帰ってきた。両手いっぱいの食料を抱え疲れた様子の彼を店に上げ、ピリとつくった夕食をご馳走した。
山菜のお粥を何杯もお代わりをし
「うっめぇ! これ絶対サトル一人でつくっただろ! ピリなんかにつくれる訳ねぇもん」
「俺も手伝ったぞ!」
「どうせ米をとぐくらいだろ」
「山菜洗った!」
「だから砂みたいなのがついてるんだな…」
と砂を吐き出し苦虫を噛み潰した顔をする。相変わらずこの二人の掛け合いは漫才みたいで笑いを誘ってくれる。
「……すごい荷物だけど遠くまでいったの?」
「あぁ、うん。都から少し離れた方が安いんだ。物々交換もできるしな」
「そうか」
遠出をした割に汚れの少ない草履を一瞥し、食事を終えたライに横になるよう勧めた。上着を脱ぎ捨て大きく伸びをすると瞼を半分閉ざし眠たげに欠伸をした。寝転がるライの隣にピリも近づいて同じように横たわった。まるで親子猫が日向ぼっこしているようで微笑ましい光景だ。
「なぁに、真似してるんだよ」
「俺も眠たい」
そしてピリは何かを嗅ぎつけた様子でライに鼻を近づけた。
「……匂いする」
「女、口説いてたもん」
即座に断言するライ。ぼくはそんな二人の会話に耳を傾けながら薬の用意を整え薬汁に布を浸した。
「ライは女好きなんだね」
「そういう訳でも…」
妙に口の中でもごもごと言い淀む彼に、そっと笑いかけ湿布を貼りつけようとした。が、程よく焼けた小麦色の肌に浮かび上がる染みのような斑点に気がつき思わず手を止めた。
この前の診察では見かけなかったその異常に、言いようのない不安を感じ黙り込む。もしやこれは予兆なのかもしれない。彼の身体の中で分け与えられた血が、肉が、骨が――静かに腐り始めているという。
「ライ、歯についてるぞ」
「えぇ!」
目の前で咲くピリの笑顔を見詰め、ぼくは何事もなかったかのように布を貼りつけた。
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