Firefly・Catching-蛍狩り-

青海汪

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第五話

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第五話 
 
 彼の後を追って屋敷を飛び出した。ありがたいことにピリは飛ばずに地上を駆けていた。しかし飛ぶなんて考えつかないくらい大きな打撃を受けたのだろう。
 足に絡みつくひらひらした衣を忌々しく思いながら、無性に悲しくなった。ライもトウタも、そしてぼくまでもが結局は彼を利用していた。確かに純粋であるが故に、彼を妬ましく思う時もあった。それでもピリはライを信じていたのに。誰よりもライを思って一所懸命だった彼を、同じように利用していたライが憎かった。羨ましいくらい固い絆で結ばれていた二人なのに、それは見せかけでしかなかった。人間なんてそうなのだ。他人とは自分にとって役に立つか立たないかで価値が決まる。だけど、そうはわかっていても心のどこかで二人を信じていた。
 ピリの姿が曲がり角の向こうに消える。慌てて追い駆けるとそこには大きな屋敷が待ち構えていた。高く聳え立つ壁を見上げる姿を捉え呼吸の乱れたまま名前を呼んだ。
 「ピリィ!」
 肩で息をするぼくに気づくと、ピリは一瞬悲しげな表情を浮かべたように見えた。ただそれだけなのに、とてつもなく胸が痛み言葉が痞えた。
 「……ご…めん…」
 悲鳴を上げる心臓を押さえ途切れ途切れに呟く。それでも薬を飲んですぐに激しい運動をした為か頭の中が混乱し焦点が定かでなくなった。
 「ぼく……」
突然足元がよろめき体勢を崩し倒れ込みそうになった。が、一瞬にして駆けつけたピリが支えてくれた。
彼の息遣いを間近に感じ恥ずかしさのあまり俯く。しばらくして眩暈は治まったが動悸は更に早まった。
 「ごめ…もう、大丈夫…」
 熱を帯びた頭を抱えそっとピリから離れる。彼は不安そうに瞳を曇らせていた。それはあまりに無防備で心を打つ姿に映し出された。
 今だ心配げに握られた彼の手を見詰め、ぼくはただ一つ誓うことを決めた。
 「………もう…ピリには嘘を吐かないよ」
 これ以上傷を負う彼を見たくはない。だからぼくは彼にだけは、真実を述べよう。何も知らずに受ける痛みより、予め知識を得て受けた方がきっと苦痛は少ないと信じて。
 「ライの身体は、間に合わない」
 びくっと身体が震えて瞼が隠れるくらい目を開いた。
 「少なくともぼくの手にはもう負えない。彼が助かるには……ミズハの力が必要だ」
 絶望に歪む彼の顔を直視しできずに俯き唇を噛み締めた。治療の可能性を示唆しておきながら匙を投げ出そうというぼくを、彼はどんな想いで見ているのだろう。元々治療なんて考えていなかった。できるだけミズハが行った実験について調べられたら上々という程度にいしか思っていなかったのだから。
 「だからぼくは…ライがミズハに戻ったことも、薄々気づいておきながら黙っていた」
 
 
 頭飾りも折角綺麗に装っていたのに走ってきた所為で乱れちゃったけど、悲しげに睫を伏せるサトルの顔はとてつもなく綺麗だった。切れ長の大きな目から涙を流しながら贖罪する様子を見るうちに、本来の目的を忘れそうになって慌てて我に返った。ライを追ってここまできたけど、あの大きな壁を越えるには飛ぶしかない。でもサトルも一緒に連れていっていいのかどうか悩んだ。
 こめかみを押さえるサトルの顔を覗き込み
 「一緒に、きてくれるのか?」
 と聞いてみた。すると虚を衝かれた表情をして戸惑いながらも頷いてくれた。
握り締めた手を引き寄せ、サトルを抱きかかえると跳躍し塀を飛び越した。そして広い庭の低木の陰に降り立つ。夜のひんやりした雰囲気に混じって僅かにライの匂いがする。そして記憶にこびりついたあの、寮の匂いも。
サトルを下ろしいつもの習慣で手を繋ぐと、俺たちは匂いを辿って静かに駆け出した。
 「どこにいるかわかるの?」
 「匂いがするんだ」
塀に沿って駆けるうちに屋敷から離れ、暗いけどよく手入れされた庭に入り込んだ。どんどん強くなっていく匂いを追って石伝いに歩くうちに、背の高い木々が作る深い影の向こうに沈む建物へ辿り着いた。
 「ここ…」
 木造の建物はなかなか年代物みたいで夜目にもその古さが伺えた。入り口を探して回ってみると、木戸が僅かに隙間を開けて待っていた。ライはここから中に入ったはずだ。
 振り返りサトルに確認してもらおうと思ったら、その後ろに見覚えのない女の人が立っていた。きっと普段ならとても優しげなその顔を鬼の形相に歪めていた。
 「何用です!」
 俺とサトルを交互に見て眉を寄せて再びサトルの顔を睨んだ。
 「貴方は…薬師のサトルですね? こんな夜分に私の屋敷に侵入しどういう料簡です?」
 返事に窮するサトルを見詰め、この髪の長い女の人が知り合いなのだと理解した。それにしても誰かに似ている気がする。全然似ていないけど……人が持つ生来の匂いが………あの男に。
 「泣き黒子の男に似てる…」
 「え?」
 今度は女の人が目を見張った。思わず口にした言葉が意外にも何か、的を射たようだ。
 「イシベの……私の父を知っているのですか?」
 イシベって名前は聞いたこともないけど黙って頷いた。サトルも驚いた顔で俺を見たのでもう一度繰り返した。
「ミズハの研究者に、似てる」
すると女の人は大きく開いた口を押さえ驚きの声を漏らした。隣に立つサトルも一瞬焦ったような表情を浮かべたが刹那、毅然とした態度に戻った。
 「コマリ様、ミズハ寮に友を連れて行かれたのです。友を追ってここまで参りました。恐らくここに…ミズハの研究所があるかと」
 対照的に動揺を顕わにするコマリは、目に見えて血の気がひいていった。
 「まさか、ここは父が身体を鍛える為に造った道場です。それに屋敷と目と鼻の先…」
 「でもここからライの匂いがするんだ」
 渋るコマリに自分の鼻を指さして抗議する。すると今度は俺をまじまじと観察した。
「貴方が…ミズハで誕生した、飛行術を持つという少年ですね」
 その表情はあの男に瓜二つだった。ただ唯一の違いと言えば、次の瞬間に心底恥じ入る眼差しを俺に向けたことだった。
 「父の野望が貴方を苦しめていたことを…深く詫びしましょう。私には父が行ってきたすべて知り、父の代わりに罪を償う責任があります」
 そして自ら率先し木戸を開け放つと灯りを掲げ入り込んだ。そして有無を言わさぬ態度で断言した。
「私も行きます」
 
 
 意外な人物の登場だったがピリはそれ程恐れる様子を見せなかった。むしろ研究者の娘と知って興味を抱いたようにも見える。
板張りの場内は不気味くらい静まり返り、歩く度に軋む床の音が大きく反響した。見る限り変わった所はないが彼の鼻を頼り後に続く。しばらく周囲を嗅ぎまわると、突然しゃがみ込み床に顔を近づけた。
 「ここから音がする」
 彼に倣って耳を押し当てるが自分たちの呼吸の他に聞こえる音はない。木刀をまとめていた籠の前で立ち止まり、埃のない磨き抜かれた床の上を指でなぞってみた。すると僅かに羽目板の隙間があることに気づく。ピリの動物並みに優れた聴覚に感嘆した。
 「コマリ様、ここを…」
 籠を退けると四角く区切られた中に小さな取っ手のような凹みが現れた。二人がかりで持ち上げると、重たい隠し扉の下から地下へ続く階段が姿を現した。
 「こんな所に…隠し扉が……」
 縁に両手をつけて覗き込む彼女に大臣は毎日この道場を使うのか確認してみた。
 「師範として門弟と共に毎日……」
肩を落として肯定するコマリ。長い髪が横顔に落ち悲しげに伏せる睫の下に、赤々と燃える強い意志を垣間見てふいに根拠のない不安を覚えた。成り行きとは言えこのままコマリを連れて寮の実態を明らかにすれば、それは確実にナルヒトの耳にも入るだろう。結果としてトウタも間接的にその情報を手に入れることになる。
―――彼の暗く淀んだあの瞳には誰にも明かさない、秘めた想いがある。ひどく不吉で、できることならばこれ以上関わってはいけないとわかっている。けれど、今のぼくにそんな選択肢はなかった。
ピリが率先して一段と暗い闇の中へ飛び降りる。後に続くコマリも寝間着の裾を大胆に持ち上げ木製の階段を下りていった。
 
一段下るたびに空気は冷たさを増し緊迫した沈黙が耳を貫いた。幅の狭い階段を下りきると小さな灯りに照らされて先に降りた二人が待っていた。石畳の通路が左右に続いていて、一定間隔を置いて蝋燭が設けられている他に何もない殺風景な所。
「まさか敷地の下にこんな物が」
「匂いがいっぱいでわかんないや…」
しばらく周囲の匂いを嗅いでいたが、遂に諦めた様子で申し訳なさそうにピリが呟いた。
「手分けして探そう。ぼくたちは左を、コマリ様は右を」
「わかりました。貴方たちの探す友の特徴は?」
二人の関係から説明するべきか逡巡したが先にピリが目を輝かせて叫んだ。
「ライの声がした…!」
我を忘れ駆け出す彼を追ってぼくらも急いで走り出した。時々見かける灯りのついていない格子窓を走り見ながら、後ろに続くコマリに尋ねた。
「門弟の中には異国の方も?」
「えぇ…キール・ドミのことね。奥方の悪阻がひどいとか昨日も話したわ」
「……彼の父親です」
驚愕するコマリを思い浮かべながら紡いだ。
「ご存知ないかもしれませんが……研究は代々貴方様の一族が行ってきたのです」
 次第に異臭が漂い始めた。何種類もの薬草や毒薬を混ぜた匂いと、長い間放置された肉が腐ったようなひどい悪臭。刺激が強すぎて涙目になり胃の中がひっくり返りそうな吐き気に襲われたが、それでも足を止めない彼を見据え必死に追い駆けた。
 驚異的な嗅覚を誇る彼がこの悪臭に耐え切れるとは思わない。けれどそれ以上にライが気にかかるのだろう。そう思うと複雑な気持ちになった。こうしてライを追ってきたけど彼を見つけ――裏切りを目の当たりにして傷つくのは誰でもない。ピリなのに。
 止めるべきだったのか? あるものすべてを投げ出して、彼に懇願した方が懸命だっただろうか。
否。ぼくには無理だ。
 かぶりを振り、悔しさのあまり唇を噛み締める。ぼくには彼を止めるだけの力も…何もないから。苦渋の思いを認めても心は引き裂かれるような悲しみでいっぱいになった。掴み所のない感情。抑えようとすればする程、反発して激しくのた打ち回る。
 「ここ…!」
 突き当たりに構えられた両開きの扉に付いた格子窓から、仄かな明かりと話し声が漏れていた。
 
 
 折角ライの声が聞こえるのに、大きな鉄の扉は固く閉ざされて押しても引いてもびくともしない。扉を隔てた向こうにライがいる世界があるのに、俺は近づけられない。
 「子どもの声が聞こえる……」
 甲高い騒ぎ声を聞きつけサトルが漏らした。コマリも戸に耳を押し当てじっと息を凝らしている。俺の身長の何倍も高い鉄扉を見上げるうちに、いつの間にか足裏が地面から浮き上がっていた。ふいに裾を引っ張られ驚いて振り返ると、サトルが思い詰めた瞳で俺を見ていた。
 きっとサトルも同じことを考えたんだ、と思いサトルの両脇を抱え飛び上がる。足元でコマリが目を見張った。口を大きく開けしばらく放心し、俺とサトルが扉の上の方にある鉄格子に掴まるまで何か言いたげだったけど、すぐに我に返り自分で鍵穴を探しそこから中の様子を伺った。
 格子の向こうはかつての研究寮と寸分違わぬ景色が広がっていた。部屋の床を覆ういくつもの壷や棚。あそこにはサトルの店よりも多くの薬草が納められている。隅にまとめられた鼠たちは実験で減っていくから研究員たちがよく鼠捕りを仕掛けているんだ。
そして部屋の中心にある台に置かれた棺。子どもたちの声はそこから聞こえてくる。いや、声じゃない。うめき声のような悲鳴のような…意味を成さない音がひきりなしに響いていた。
 そんな中、ライは棺桶に凭れかかって座っていた。時折棺桶がガタッと音を立てたり左右に動いても、ライはずっと黙り込んだまま何かを握り締めていた。
 「あの巾着袋は…」
 腕の中でサトルが呟く。そうだ、ライが握る布は見覚えがある。サトルの家に忘れたあの巾着だ。でも手には他にも何かを握っている。でもそんなことよりも俺はライにまた会えた喜びで胸がいっぱいになった。もう一度ライの声を聞きたい。今度こそライの口から教えて欲しい。
 「ラ――」
咄嗟にサトルの手が口を塞ぐ。一瞬の差で部屋の奥からあの男が現れた。左目の泣き黒子を持つイシベの大臣が、ゆっくりと小瓶を持ってライに近づいた。
 「薬を飲んでおけ」
 差し出した小瓶を受け取ろうとしないライにそれでも無理やり手元に押しつける。すると開いた指先から小さな白い破片がこぼれ落ちた。
 ライは大臣を睨みすぐにその白い破片を拾い始めた。その様子をさも蔑むような眼差しで見下ろし
「まだ持っていたのか。お前の兄弟の骨が欲しければその中にある」
 と言ってざわつく棺桶に手を伸ばし―――引きちぎれた片足を取り出した。
 指の数が七本あるその足は男の手を嫌がるように、必死に身をよじって抵抗している。その足には俺と同じ所に小さな痣があった。
 「お前が貢献してくれたお蔭で、こんなにも効果が表れた。ただ……ピリ・レイスのように飛行術はないが」
 足を放り投げ再び棺の底に目を向ける。その間に足は器用に指を使って部屋の隅まで逃げていった。
 「出来損ないの弟妹が沢山だな」
 それは一切を否定した言葉だった。俺という人間を、ライという存在もすべてあいつにとっては無に等しい存在。生きていようが死んでいようが関係ない。俺もライもあいつの手で生まれた。だから駄目なんだ。あいつに否定されたら…
 「……俺は、お前の操り人形じゃない……」
 同じように頬を涙で濡らしライは一語一句に力を込めて吐き出した。
 「安心するのだな。約束通りお前は元の生活に戻り、トワにも官位を与えられる」
 再び棺桶に両手を入れ少し力を込めて何かを取り出した。ぐったりと両手足を垂らしたそれは、到底人間と形容できない異種の身体だった。それでも生きていることを証明するかのように、耳まで開いた大きな唇を痙攣させていた。
 「どんなに醜くても生き続ける、不死の身体………」
 恍惚と呟く男を見て全身の血の気が一気に引いた。サトルを抱く腕が小刻みに震える。どんなに否定しようと事実、俺の血筋は今も受け継がれていた。俺の子どもは知らないうちに大量につくられ、そして殺されていた。
 「………………」
 頬を伝う熱い涙が同時に流れた。気づかなかっただけでライはいつも、俺を憎んでいたんだ。傍にいて欲しいと思っていたのは俺だけで。一人で生きていけないのは俺だった。
 
 
 朝日が昇ると同時に不思議と目が覚めた。眠った時間は少ないはずなのに頭はすっきりしている。大きく伸びをし朝一番の会議のことを考え、床から出ようとしたら窓に背を向け立つ人物に気づき心臓が大きく飛び跳ねた。
 眩しい逆光に照らされたその顔は深い悲しみを湛え曇って見えた。
「コマリ…?」
 泣き腫らした面持ちでわたしを見詰める彼女を見上げ、感嘆する。
 「こんな朝からどうされた?」
慌てて起き上がると何も言わないコマリに駆け寄り顔を覗き込む。伏せた睫の下には濃い隈ができている。いつもなら美しく化粧も施しているのに、今日は髪の毛さえ梳いていない様子だった。
 「父は人間ではありません」
 そう吐き捨てるや否や、大粒の涙を流し胸に顔を埋めて泣き叫んだ。どうしていいのかわからずしばらく彼女が落ち着くまで肩を叩いていたが、ようやく途切れ途切れに言葉を紡ぎ始めた。
 「かの少年に会いました。彼の…彼の友もまたミズハで生まれた者でした。でも、まさか同じ敷地内で…あんな…惨たらしい実験が…行われているなんて、私、知りませんでした!」
 「実験……?」
 わたしは咄嗟に事態を理解した。
 「死人返りを応用し不死の身体をつくり出す為……沢山の犠牲が生まれていました! あんな………父はもう人間ではありません…」
 「大臣の実験を知ってしまったのだな?」
「ミズハ寮は我が家の下にあったのです! 私は何も知らずにいました…」
泣きじゃくりながら叫ぶ。悲しみに打ちのめされてもなお強い意志を感じさせる瞳は、とても美しく高貴な輝きを感じさせた。彼女が怪訝そうに眉を顰めるまで、わたしはついその泣き顔に見惚れていた。が、我に返るなり胸が熱くなり、気恥ずかしさが沸き立った。
 「あのような愚行、決してお許しなさいますな」
 正面からわたしを直視し確固たる口調で懇願する。
 「大君を神聖視する愚かな思想を一掃する為にも、宮様。どうぞ王位に立ち革命を。この閉鎖的な世界に新たな風をお吹かせ下さい」
 腕を握る指にいつの間にか力が入った。彼女の瞳に映る己の顔が、一瞬曇りを宿したのがわかった。彼女の真っ直ぐな考えがこれまでとても刺激的だった。わたしのすべてがナルヒトの記憶を基盤としたものだとわかっていたから、余計に彼女の存在は眩しく思っていた。
 長い間着ている着物なのに違和感がついてまわるのは、常にそこには亡きナルヒトの面影を感じるから―――神託で選ばれた彼女と、曲がりなりにも結婚するはずだった宮の代わりでしかない。
 解き放たれることのない故人の呪縛。
 「……先日ヌヒの宮が発案された剣狩り…」
 「え?」
 小首を傾げる彼女を見据え、虚無感に浸ったまま続く言葉を紡いだ。
 「全国からあらゆる種類の剣が謙譲された。中には当代きっての名刀もあったようだが…なかったのだ」
 一呼吸吐いてゆっくりと吐き出した。
 「クサヒルメの剣はどこにも」
 「しかし……」
 「法令に背く者には厳重な処罰が下される。隠すことはできない」
 そっと身体から離れ動揺を隠そうと目を伏せた。しかし彼女の腕を握る手は僅かだが震えていた。
 「わたしの考えは……乙女は剣を持たないのかもしれない」
 「しかし! それでは剣の巫女と繋がりませぬ」
 「いや、伝えられた予言は失われた剣を携えた乙女としか言わなかった。だがそれを剣の巫女だと断言したのは、大君と大后だった」
 不安げに何度も瞬きを繰り返す彼女を眺め溜めていた言葉を口にする。
 「……大君は偏狭の地へ追いやった罪にずっと…怯えていたのやもしれない」
 男御子を生めなくなった母君が大后に選ばれた理由。不慮の事故で亡くなったナルヒトの宮。大君を神聖視する世代と新たな思想を持つ新世代。確実に土台を築き上げ時代はゆっくりとだが変わりつつある。次世代を担う若者たちは、同じように我々を求めるだろうか? 古い考えに囚われてしか価値を見出せない大君一族を正義と認めいつもその支配下にあることを許すだろうか。
 絶対的な存在はなく善も悪も時代によって変わる。その中で支配する者は、常に不可能だとは知りながらも絶対者を演じなければならない。だからこそ、わたしの。わたしだけの考えが必要だ―――
 「大君に謁見を申し出る。わたしは……名もない人間だ。ナルヒトの代わりにはなれない。しかしわたしにしかできないことを、もう一度よく考えたい」
 コマリは何も言わず黙り込んだ。
 思えばわたしは長く宮廷で暮らしていながら、大君と一対一で話し合う機会がなかった。最も古い記憶を思い起こしてもそこには大君の姿はなく、離宮に閉じ込められ皺くちゃな語り部たちに囲まれ育ったことぐらいしか覚えていない。
 
朱色の豪華な扉の前に立つ大君の側近に謁見を申し出た。側近は一礼を室内の侍女に取次ぎに消えていった。会議を終えたばかりで宮廷内にはまだ何人もの大臣の姿が目立った。
 「宮様」
 聞き覚えのある声に呼ばれ振り向くと、会議でも顔を合わせたトウタの姿があった。大君の部屋の前に立つわたしを、興味津々の様子で見詰め歩み寄ってきた。
 「北の監督機関の件、父も意欲的に取り組みたいと申しておりました」
 「トウチの大臣には監督官を、と考えている」
 「はい」
 笑顔で頷くと中から取次ぎに消えた側近が戻ってきた。
 「大君は只今御手が離せぬ状態であります故、今一度日を改めて参るようにとのことでございました」
 内心残念な思いだったが、わかったとだけ告げトウタと共にその場を去った。
 「何かあったのですか?」
 渡り廊下に出るなり探るような目付きで尋ねてくる彼から視線を逸らし、眩しい日差しの下に輝く青々とした庭を眺めた。
 「剣の巫女は……今も剣を持っているのだろうか」
 「え?」
 想像通りの反応に卑屈な思いを抱く。
 「あの法令でクサヒルメの剣が見つからなかったからでしょうか?」
 渡り廊下に出た途端、夏らしい暑い空気が押し寄せた。次の会議まで時間があるので庭園に出ようと思ったが、後ろについていたトウタはぴたっと止まり逡巡していた。
 「……サトル殿の件だが」
 「ご心配なく、無事に養女として迎え入れました」
『養女』という言葉にどこか冷めた気持ちでコマリの判断の方が正しかったのかと頷いた。
 「ならばいずれ貴方と共に一族を担う者になるのであろう。彼女には色々と教えられることもあった」
 「折を見て連れて参ります」
 「あぁ」
 「では父が待っておりますので失礼致します」
 踵を返し遠ざかっていく後ろ姿を見送り庭園に足を踏み込んだ。しばらく若葉が木漏れ日に透けて輝く様子を堪能していたが、次第に日が高く昇り背中が汗ばみ始めたので陰を求めて彷徨った。そういえば夏も盛りになれば恒例の華鎮火祭がある。毎年この先にある露台に舞い人と楽師を招き夜が明けるまで宴を催した。最後まで参加したことはないが、祭りの翌日になるとここら一面を食べ散らかした肉片の残骸などが覆う様は、とてもおぞましい光景に映って見えた。
宴に出される牛や豚などの家畜は、牧地で民が手間塩かけて育てたもの。視察の時に見た人々の笑顔は、苦労によって裏打ちされた確かなものだった。食される運命だと知りつつも愛情を持って育てることを矛盾だと思っていた。しかしその矛盾した思いを知らずに、あらゆる物を無残にしゃぶる様は―――何よりも醜い。
 石畳の上を歩くうちに落ち葉の積もった露台が姿を現した。そこに一人の腰を曲げた老婆が一人で掃き掃除をしていた。白い頭を屈め黙々と仕事をこなす彼女は地面に伸びるわたしの影に気づくと、ゆっくりと顔を上げ皺だらけの顔を更に皺くちゃにしわたしの名前を叫んだ。
 「ナルヒトの宮様!」
 そのくしゃくしゃの笑顔を見て彼女の名を思い出した。
 「テツ…」
「まぁまぁ大きくなられて! 本当にお久し振りですねぇ」
トコトコと駆け寄り両腕を掴むと一方的に喋り始めた。適当に相槌を打ちながら、内心ちっとも変わりない様子を喜んだ。
 「本当にもう会えないかと思っていましたよぉ。離宮でお世話申していた頃はあんなに」
と突然手で押さえ気まずそうに黙り込んだ。
 「テツ…?」
 眉根を寄せ尋ねてみる。テツはわたしをずっと育ててくれた乳母だった。離宮を出て以来そこに仕えていた侍従たちは地方に飛ばされ、乳母の彼女のみ宮廷に残ったとは聞いていた。つまり彼女が唯一の当時のわたしを知る存在。
 「わたしの出生を知る者は今や限られている」
 そっと手を離しかさかさの指を握り締めた。
 「あの頃の記憶が…とても曖昧だ。わたしには、自我を形成する為の大切な何かが抜けている。それを知りたいと思っていた」
 長い沈黙の後に恐怖を滲ませた顔を上げ、テツは乾いた唇を開いた。
 「……空を…」
 「空?」
 歯のほとんど抜けた口をもごもごと動かし、言葉を続けた。
 「空を飛ばれたんです…」
 予期せぬ発言に驚きのあまりヒュっと空気を漏らした。
 「先の討伐で滅びた北の部族…十二部族が迷子になっていた宮様を保護したと聞き、大后様が自らお出ましになられたのです。北では白い鳥が神の化身とされておりましたので、空を飛ばれる宮様を神聖な存在として崇められていました」
 「北……では、わたしは十二部族の者ではないのだな?」
 「はい。しかし離宮に閉じ込められても、私どもの目を盗んでは空に逃げようとしておりました。貴方は……いつも。空ばかり見ていらっしゃいましたなぁ」
 テツは涙を溜め年老いた手でわたしの頬を撫ぜた。
 「宮様の出生を知る者は皆、処分されました。わたしは痴呆を装い免れ…それでもこうして宮中の監視下におります」
目尻から透明な液が筋になって流れ落ちた。
「自由を奪われ…羽を捥がれた鳥のような……いつの間に、そのような冷めた目で人を見るようになられたのです…」
 頭で心臓が大きく鳴り響いているみたいだ。全身の血潮が逆流し眩暈がした。
 わたしは飛べた。そう、今まで無理やり目を逸らしてきただけで知っている。空を駆ける風の匂いも、足元に広がる都の景色も。共に飛んだ鳥たちの力強い羽ばたきもすべて―――知っていた。
 空を見上げると、そこには自由に宙を舞う白い鳥の群れがあった。
 
 
常連となった客を見送り出しふと静まり返った室内を振り返った。大臣の養女となったことが周囲の関心を買ったのかいつになく店は繁盛した。中にはぼくがもう店を畳むんじゃないかと心底心配する者もいたが人々は口を揃え「地元からこんな出世頭が出るなんて」と鼻を高くして叫んだ。
 外は蝉がうるさく鳴り響いている。対照的に閑散とした部屋を見詰めるうちに自然と溜め息が漏れた。
「今日も………」
 彼は今日もこなかった。あの夜から一週間が経つが、ピリからの連絡は皆無だ。
 戸口に凭れかかり悶々とする想いに苦しむ。彼があれからどうしているのか、ふとした瞬間にいつの間にか考えている自分がいた。仕事の合間を縫っては何か口実を探して塒を訪ねようかと逡巡していた。
 胸が苦しくて無性に悲しくなる。こんな気持ちは初めてで、どうすればいいのかまったくわからない。会いたいけど、彼がライのことを考えて苦しむ姿を見たくない。見たくないけど苦しみを分かち合いたい。そんな矛盾する感情が堂々巡りする。
 取り敢えずさっき使った薬草の残りをしまおうと板間に上がり込んだ。一気に客が押しかけてきた所為で、周囲は少し散乱していたが考えごとついでの作業には持ってこいだった。
 擂り鉢を持ち上げると作りかけのぼくの薬が出てきた。薄紙に包んだ粉末状のそれを手に取りしばらく眺めた。
 一番見て欲しい人は、違う人間を追っている。ぼくには近寄れない。
 ふいに気配を感じて顔を上げた。すると窓辺に足に文をつけた小鳥が止まっていた。意外と人馴れした鳥から文を取り外す。
 細長く折り畳まれた紙面を読むうちに背筋に冷や汗が流れた。そして最後の一文までゆっくりと目を走らせると、毛づくろいを始める鳥を眺めた。もう一度手紙の内容を反芻し、そして意を決した。土間に揃えた草履を履くと看板を外して鍵をかった。
 室内とは違い熱い日差しに照らされ、ゆっくりと歩く足に速度をつけた。
 
 通い慣れた道を駆け伸びきった草の間を抜けると、視界いっぱいに青々とした草原に広がる小さな森が映し出された。その手前に立つ木の枝にピリは一人で座っていた。
 青い瞳に空の色を映し帰ることのない主人を待ち続けている忠犬のようだ。そっと呼吸を整えようと胸に手を当てる。けれど彼の姿を捉えた途端、鼓動は更に早まった。
 「……サトル…」
 風が静かに二人の間を吹き抜けていく。
 いつの間にか火照ってしまった顔を隠そうと俯く。するとふわりと影が音もなく足元に落ち、コツンと額を叩かれた。
 「……話したいことが…あるんだ…」
 途切れ途切れに呟くと、ピリはぼくの身体を持ち上げ塒まで運んでくれた。
 改めて訪れてようやく気がついた。ここは二人で暮らす為に建てられた場所で、彼一人で暮らすには広すぎるのだと。しばらく黙ったままだったが、突然立ち上がるとピリは窓から入り込んだ木の枝にかけた湯のみを取り出し、きょろきょろと何かを探し始めた。
 すぐにぼくが来訪すると、茶菓子などを出していたからそれを真似ているんだと察する。
「大丈夫だよ、喉は渇いてないから…」
と声をかけた。するとほっとした表情を浮かべ寂しげに
「何がどこにあるのか、俺、よくわかんないから」
腰を下ろすと床を見詰めたまま黙り込んだ。ライが及ぼしていたピリへの影響を目の当たりにし悲しみが重く圧しかかる。あの笑顔はこれから先ずっと見られないのだろうかと思うと、言いようのない苦みが心中に広がる。
「ミズハ寮から文が届いたんだ」
ミズハという語彙に過敏に反応を示す。色濃い不安を浮かべる彼を正面から見据え、覚悟を決めた。
「ライの治療にあたっていたぼくを、ミズハに引き抜きたいと申し出てきた」
その言葉は的確にピリの急所を貫いた。相好を崩し眉間に深い皺を寄せると唇を噛み締め涙を飲んだ。それでも目尻から溢れる水滴が床の上で弾けた。
「……きみには、もう、嘘を吐かない」
膝の上で握り締めた手を包み、彼の反応に怯えながらも続きを紡いだ。
「だから最後まで聞いて欲しいんだ」
美しく洗われた瞳が何度も瞬きを繰り返す。その度に小さな雫がこぼれ落ちた。
「ぼくは……剣の巫女の子孫で、一族の生き残りだ。どうしてぼくがここへきたかというと、当時は北とウロはとても近い関係にあった。十二部族が祭る祠が、ぼくらウロ峠に繋がる唯一の入り口だった。でもそこは何百年も前に封じられ、どちらからも行き交うことはできなかった」
どうして同じ人間なのに、彼から流れるその涙は何よりも尊いもののように見えてしまうのだろうか。ピリを心から笑わせることも悲しませることもできるのは、ライだけだと思っていた。けれど今、彼はこうしてぼくの話に耳を傾け、そして心を痛めている。
今だけは、ぼくだけを見詰めてくれている。
卑屈に歪んだ心が意地悪くほくそ笑む。
「討伐で北の地は滅び、それまで均衡を保っていた峠も大洪水に見舞われた。そして一族は滅び、助かったぼくは偶然開いた入り口からこの世界にやってきた」
「サトルは……」
ぼくの瞳を直視し、包んでいたはずの手を強く握り締めた。
「サトルは、剣を持ってない」
 
 
 「サトルは……剣を持ってない」
 繰り返し呟くと、サトルは眉を八の字に曲げ頷いた。
 「……今から十四年前に神隠しにあった子どもと共に剣は消えてしまった」
 形の整った唇がそう語った。綺麗なサトルの目に、それまでの悲しみを越える憎悪を浮かべる様をぼんやりした頭で見詰めた。
 「剣を持たない剣の巫女が…何故、やってきたかわかる?」
 初めてサトルが見せた不気味な笑顔。底のない深い青い瞳は、笑っているのに翳りが宿っていた。
 「……ぼくは、人間が死ぬ時の様子が見えるんだ」
 そっと手を離し立ち上がる。そして蒸し暑いから御簾を上げたままにしていた戸口から外に出ると、そこから見渡せる景色を眺めた。
 ほっそりとした華奢な背中。けれどそこには何か強い覚悟というものを感じ、俺は思わずサトルを追って立ち上がった。
 「あの男が王位を継ぎ婚約者と結ばれることで確定する、この世の結末を変える為に。愚かな大君一族に虐げられた者たちの恨みを、復讐を、する為に」
 近くの枝に止まる蝉がうるさかった。薄っすらと汗をかく俺とは違い、サトルはとても涼しげだった。
 「だからぼくは」
 振り向くその顔は木漏れ日に照らされ、俺は思わず眩しさに目を細めた。
 「ナルヒトの宮と、婚約者コマリを殺す」
 ぼんやりと浮かんだあの女の人の優しそうな顔を思い出した。
 「もうぼくの手は汚れてるんだ。同じく血を分けた…オオサク島の巫女一族も殺した」
 短い笑い声を上げたけどサトルの顔は全然楽しそうじゃなかった。だけどそれは当たり前のことだ。サトルに人殺しなんて似合わない。いつもライを直そうと一生懸命治療をしてくれていたサトルが、誰かを殺すなんて…想像もできないその事実に、俺は無意識に唾を飲み込んでいた。
「閉鎖的な一族だったから簡単だった。井戸に薬を混ぜていったんだ。一定量体内に蓄積されると効力を発揮する。症状にも個人差が生まれる。だから誰も怪しまない」
 「サト…」
 掴もうとした俺の手から離れサトルは目を見張った。そして両目から大粒の涙をこぼし
 「触らないで…」
と漏らした。
 「もう戻れない。ぼくは、ぼくの道をいく。きみがライを求める限りこれない所まで、一人で!」
 刹那、それまで俺を奮い立たせていた何かが音を立てて途切れた。
 「なんで!」
頭に全身の血が集まったような感覚。俺は我を忘れ叫んだ。
 「どうしてサトルまで行くんだ? そんなに俺が嫌いなのか?」
 サトルはかぶりを振った。そして歯を食い縛って必死に否定しながら
「違う…違う…」
と、両手で顔を覆い唸るように囁いた。
 「ぼくがどんなに…想っても、きみの中には…ライしかいない…」
蝉の声が頭の中でこだまする。考えなくちゃいけないってわかっていても、沢山のことが起きていてみんな俺から離れていって。いつも傍にいて一緒に考えてくれたライは、いない。
 「……だからぼくはミズハにいくよ。もう、ピリとも会わない」
 最後に一滴、頬を濡らすとサトルは確かな足取りで樹上から下り、都に向かって駆けていった。決して振り返らずに遠ざかっていくその背中は俺のことも拒んでいるように見えた。
 追い駆ければまだ間に合うかもしれない。でもかける言葉がわからなかった。俺は今まで考えて動かなかったから。ライにくっついていれば、すべてはうまくいったから。だから俺は自分のことだけを見ていれた。
『俺は空も飛べない。だけど絶対に見捨てるなよ。絶対に、絶対に! もし俺から離れたら、恨んで恨んで…お前を殺してやる!』
足が震えその場に座り込んだ。俯いた途端、頬を熱い何かが伝い床に丸い染みが次々とできた。
―――飛べなくてもよかったんだ。俺にとってのライの価値はそんなものじゃない。傍にいてくれることが、一緒に笑ってくれることがなによりも大切だったんだ。
「ライィィ……」
一人で生きるのも、死ぬのも怖かったからライが同じように俺を必要としてくれるのが嬉しくって、ただ、嬉しくて幸せだった。だからライもきっと同じくらい幸せだと思い込んでいた。
 
涙が乾くまで泣き続けると少しばかり落ち着きを取り戻した。でも鈍い痛みが響く頭で何度考えてもサトルまで、手の届かない所に行ってしまったことには変わりないんだとわかった。
膝を抱え腕の中に顔をうずめる。さっきまでうるさく喚いていた蝉は別の木に移ったのか、辺りはとても静かになっていた。真っ暗になった視界に陽炎のようにライとサトルの笑顔が浮かんでくる。
もう誰もいない。みんな、俺を置いていっちゃった…
笑い声が響く上から被せるようにトウタの乾いた声がこだました。
『別に…ライの努力次第では、民分違いの恋だって叶うんじゃないかな』
ライは……誰の為に、ミズハに戻ったのんだろう。身分違いの、恋。恋って……なんだ?
汗ばんだ額を拭って顔を上げる。葉の隙間から光が注ぎキラキラと光ってとても綺麗だ。無心にその様子を眺めているとふいにライの言葉を思い出した。最高の人間。傍にいて欲しくて、会いたくて仕方がなくなる……それが、恋?
立ち上がり近くの枝を伝って天辺まで登ってみた。そこには小枝を集めて作られた鳥の巣があった。雛たちは夏を前に巣立ちし、親鳥もどこかへ消えてしまった。孵化する前に何度か卵を頂戴した折りライが教えてくれたことがある。雄と雌が伴侶となって初めて命を産めるんだと。じゃぁ俺の父親と母親も、互いを伴侶として認めたから俺が生まれたの? 好きだから俺を生んだ。新しい子どももきっと同じように、好きだから生まれようとしている。
突然力強い羽ばたきが頭上を飛んでいく音が響いた。
生まれたばかりの雛につけた傷跡が、その翼のにはっきりと残っている。
「……!」
子どもは親を拒めない。生まれた所をいつか懐かしく思い、また戻ってきてもわかるようにと、ライは親鳥の攻撃にもめげずに傷をつけた。
 「……戻り…たかったのかなぁ…」
 手を伸ばして空を掴もうと飛び上がった。この世にただ一人の母親を求めて、ライはいってしまったのかもしれない。
俺は眩しくて手を翳してみた。指の隙間から漏れる光の量に比例して、俺の手はとても小さかった。掌に収まるものは決められているのに、トウタはもっともっと何かを得ようとしている。それは俺たちよりも価値あるもので、多分その為ならトウタは何でもするんだと思った。
 ―――知りたい。
 トウタは、サトルは、ライは一体何を考えていたのか。そう考えると同時に身を翻し都のある方角を向くと、大きく呼吸をして空を駆けた。
 
 
 通された部屋は数本の蝋燭に照らされた薄暗い不気味な雰囲気を漂わせた所だった。地中奥深くにあるだけに寮全体の気温は地上と比べとても低く、火照った身体を心地よく冷やしてくれる。
 木製の椅子に座り研究長であるイシベの大臣が来るのを待つ間、耳がおかしくなるような静寂に耐え続けた。総勢十数人いると聞かされたが寮はとても静かで人の気配はおろかあの夜見た不気味な子どもたちの叫び声さえ届かない。
 この沈黙の中で彼らは生まれ育ったのだろう。母親の虐待から逃れようとするうちに、体得した飛行術を―――大君の為に、国家の為に使おうとした大人たち。そして生まれた価値を見出せずにいたライを再び利用し不死を手に入れようとしている。
 許せない。否、許さない。
 扉が開き鈍い光が差し込む。背の高い白衣姿の男が、薄っすら影のかかった口元に笑みを浮かべたのが見えた。
 「我らの申し出を受けてもらえて、大変嬉しく思っている」
 机越しに握手を求めてきたがそれを一瞥するだけにとどまり、会釈だけを返す。
 宙ぶらりんになった手をすばやく定位置に戻すと、腰を下ろして手を組んだ。こちらを見る瞳には対象物を観察する冷徹さが伺えた。
 「文にも認めた通り、きみの施していた治療は大変効果的なものだった。その才能を買いたい」
 「ぼくもそのつもりで参りました」
 「エグリの大臣の養女となったようだが、この件は国家秘密になる」
 当然だとばかりに頷いて見せる。
 「ライ・キリス、ピリ・レイスとも仲が良かったようだが」
 「彼らは研究材料です。何故空を飛べる人間がいるのか、そして年の変わらぬ親子がいるのか……ここに招かれるまで独自に調べていました」
 「それで…どこまで?」
 一呼吸置いてゆっくりと用意した言葉を吐き出した。
 「死人返りを考え出したのは今からおよそ四百六十年前。当時の大君は病弱で子宝にも恵まれなかった。そこで誕生したのがこのミズハ寮。当初は医療研究機関として機能していたけど、次第に軍用目的に使われていった」
 大臣の眉間に皺が寄ったが構わず続ける。
 「しかし二百年前のマホロの内乱と重なって起きた、大飢饉の打撃を受け行動を自粛。しばらく小規模に於ける活動を続けた」
 肺に溜まっていた空気をすべて吐き出し、そっと瞼を閉ざす。心が落ち着くのを待って笑顔を咲かせた。
 「これだけのことを調べるのにも、大変時間がかかりました。でも歴史を調べるうちに色々な矛盾点にも気づきました。まるで不都合なことを隠そうとしているみたいに…」
 「歴史は今も残る物からしか伝えられない。否定する物が発見されない限りそれが真実だ」
 威圧的な口調にただ神妙に頷いて見せた。値踏みするようにぼくを一瞥すると懐から四つ折りにした紙を取り出し、立ち上がった。
 「少し席を外すが、その間にこの誓約書を読んで判をしてくれ」
 すぐに戻ると呟き立ち去ってしまった。目の前に広げられた紙面を憂鬱な思いで眺め、袖に縫いつけていた剃刀を取り出し親指の先を切った。
 傷口を圧し血が溢れるのを待って文章の最後に血判を捺す。両手で誓約書を持ち上げ翳して見る。几帳面な性格をそのまま現したような字体に秘められた、あの男の真意はどこにあるのだろう。
 まさかぼくを信用しているとも思えない。
 「サト…ル…?」
 聞き慣れた声に思わず心臓が飛び跳ねた。咄嗟に持っていた紙を下ろし戸口に目を向ける。しかしそこには想像した人とは異なる、緑色の瞳を大きく見開けた―――ライの姿があった。
 「ど、どうしてここに?」
 雪崩れ込むように入ってくるなり舌を噛をながら尋ねた。
 「……ミズハに引き抜かれたんだよ」
 素直に動揺する彼を微笑ましい思いで見詰め、呟いた。
 「でも…まさかピリも!」
 「彼はこないよ」
 間髪入れず否定する。知らずに膝の上で組んだ手に力がこもる。机の端まで近寄ってきたライは恐る恐るといった感じでぼくの顔を覗き込んだ。そんな何気ない仕草まで、ピリにそっくりだった。
 「……どうして…ここにきたんだよ」
眉間に深い皺を刻み唸るように囁いた。
「ここがどんなに危険か知ってんのか! 裏切ればあいつは容赦しない! 絶対に汚い手を使ってどこまでも追い駆けてくる」
 「―――きみが裏切ったのは、寮? それともピリ?」
乾いた唇を噛み締め目を逸らす彼を正面から見上げた。
 「これが自分の為に選んだ道なら何も言わない。だけどぼくも、ぼくの目的の為に…」
ふいにライはぼくの口を塞ぎ廊下の方を気にする素振りを見せた。規則正しい足音がゆっくりとこちらに迫ってくる。
 「今夜、部屋の鍵を開けておいて」
ライは耳元で囁くと部屋を走り別の入口から出ていった。数分置いて再び戸が開く。
 泣き黒子に不敵な余裕を浮かべイシベの大臣は
 「判は捺してくれたか?」
と尋ねてきた。
 
 
 窓から差し込む光から逃れようと机の位置をずらしてみたが、いつの間にか日は暮れ手元に置かれた本を橙色に染め上げていた。日中の暑さが嘘のように夕日と共に熱気が沈んでいく。気候の変動は明らかだ。だが誰もがこの厄介な問題に着手せず長い間置き去りにしてきた。
 近くにあった衣を羽織る。夜になればまた気温も下がり、星が美しく輝くだろう。
 一陣の風と共に入り込んだ青葉がゆっくりと弧を描きながら手元に落ちていく。名も知らない葉を読みかけの項目に挟み本を閉じた。西の空にゆっくりと消えてゆく巨大な球体を見詰め、かつて自分が飛び回った景色を回想してみた。
 赤く染まった空は暖かな光の匂いに溢れ、まるで母の手の内にいるような安心感があった。
 ―――わたしは忘れていた…
 この身を包む風の感触も、解き放たれた確かな自由に満ちた世界を。束縛を拒み逃げるように空を飛び交ったわたしを案じた大君は、この身を拘束し朝夕問わず世の常識を教え込んだ。洗脳の成果が、今のわたしだ。
 何も知らない、何もわからない。わたしは己の正体さえ自信を持って答えられないのに、この視界に収まりきらない広大な土地と人々を治めることができるのだろうか。そして真実を明らかにすることで変化する世界を、見届ける勇気はあるか? 
 コンコンッ
 薄闇の向こうで戸を叩く音が響く。
 「宮様、ヌヒです」
 甲高い子どもらしい声に精一杯の真面目さを滲ませ、静かに答える。彼がわたしの元にわざわざくる理由が思い当たらなかったので訝しみながら戸を開けた。
怯えた瞳がわたしの姿を捉えるなり毅然とした態度に変わった。
 「お加減いかがでしょうか」
 「あぁ…久し振りにゆっくりできたので、読書に勤しんでいた」
 粗相のないよう丁重に迎え入れ手近にあった椅子を勧め、四方の蝋燭に明かりを灯し淡い光に照らされるヌヒの宮の幼い顔を見詰めた。
 「剣狩りでも…クサヒルメは見つからなかったと聞いた」
 「………宮様は」
机の上で組んだ指に視線を定めたまま抑揚した口調で紡いだ。
 「何故、大君の座を求めるのです?」
 しばらく黙っているとヌヒの宮は艶やかな睫を上下させ静かに答えた。
 「ぼくは、母宮様の為に王位を目指しています」
ほんのりと赤みを残した空を背に窓辺に腰かける。部屋を覆う自らの影が、小さな彼の身体ごと飲み込んでいるように見えた。
 「母宮様はあまりご自分のことを話されません。けれど…お寂しいのだと、思います」
 語尾が震え濁って聞こえたが、口を閉ざしたまま聞き入った。
 「大君になるとは、この一生だけではなく周りにいる者もすべてを巻き込んで…常に正しい判断を下さねばなりませぬ。いえ、例えおかしいと思われようとも、大君がなすことはすべてが正しいのです」
 「……クレハの為に生きるのが…貴方の幸せか?」
 ピクッと肩を震わせ面を上げた。どこを映しているのかわからない、虚ろな瞳で宙を捉え
 「…宮様は、穏やかに流れる川に波紋を広げようとしています」
 いつだったかコマリが口にした科白と同じことを呟いた。
 「異なることが真実としが語られようとも、それを真だと思う者がいる限り……歴史は本物となるのではないでしょうか」
 焦点を定めわたしを正面から見据えると、答えを待つかのように唇を一文字に結んだ。
 歪められた歴史。それはわたしと同じだと思った。本来の姿を失い都合のよいように手を加えられた記憶を辿るうちに、存在意義まで自信を持てなくなってしまった。ナルヒトの皮をかぶり、いつ見破られるかわからない不安と居心地の悪さを感じていた。
明らかにできない己の出生に対する不満を、同じような境遇にある歴史にぶつけてみようとした。もしそれが多くの命を奪うことになろうとも、自我を持たないわたしには関係ないと言い聞かせて。
「……わたしは、己の真実を掴めない限り…歴史を追及することを諦めないだろう」
「宮様の真実…?」
怪訝そうに眉根を寄せて呟いた。
「やはり宮様は、王位に執着している訳ではないのですね。ただご自分の疑問を打破する手段として…大君になろうとされている」
否定はできない。まさにその通りなのだから。そして彼がこれから口にしようとしている言葉も恐らく―――
「心の奥底で大君という存在を疎んでいる。いずれこれまでの制度や、通念もすべて変わり時代と共に朽ちていく我ら一族の最期を望んでおられる。貴方が一部の権力者たちに支配される強者の世界が滅びることを夢見る限り……ぼくは王位を諦めませぬ」
―――嘘ではない。
「権力に頼らなければ生きていけない、弱き者たちの為にも、ぼくは宮様には負けませぬ」
 迷いも何もない、ただ胸に宿る一つの信念を貫く強い眼差し。
 いつしか太陽も消え月の見えない暗い夜が背後に広がっていた。行き場を失った翼はどこへ向かおうとしているのだろう。わたしの歩む道はいつまで続くのだろう。満たされることのない寂しさを抱きながら、意志を貫こうとする眼差しからゆっくりと目を逸らした。
 
 
 空から太陽がいなくなり、俺が隠れていた茂みも深い影に飲み込まれた頃トウタの部屋に明かりが灯った。あの夜を最後にもうこないだろうと思っていた。そして一人で都にくるなんて、夢にも思ってなかった。
 侍女たちが部屋から出て障子に映る影が一つになる。しばらく動かなかったけど、突然立ち上がりトウタが襖を開けた。咄嗟に草陰に身を潜めたけど、俺に気づく様子なく再び座り込んだ。
するとしばらく経って鈴虫が静かに演奏を始めた。そっか、これが聞きたかったんだ。と納得する。
 手酌で酒を飲むトウタを見詰め辺りの気配を伺う。そっと低姿勢で移動すると突然面を上げ鋭い視線を庭へ向けた。
 「誰だ…?」
 心臓が大きく飛び跳ねた。低木の横からこちらに顔を向けるトウタを見ると、視線が一つに絡まってしまった。でも驚く素振りもなく笑顔を見せた。
 「誰もいないから大丈夫」
 手招きするトウタに誘われ嫌がる足を無理やり動かし上がり込んだ。すると手元の明かり以外をすべて吹き消し、薄っすらと浮かぶ光を頼りに手酌で注いだ。
 「ピリも飲む?」
 その問いかけに無言で首を振る。トウタはしばし沈黙してから、手元の並々と注いだ酒を一気に飲み干した。
「……もうこないかと思っていたよ」
淡い月光に照らされるトウタの顔は今まで見たことがないくらい心細げで――きっとこれがトウタの本心なんだと思った。けれど次の瞬間にはその表情を完全に払拭し、不敵な笑みを湛えていた。
 「…トウタは……」
重たい口を開きずっと胸を占めていた疑問を吐き出した。
 「俺のこと、嫌い?」
 「どうして?」
 大袈裟に瞬きをして問い返してきたけど、それが嘘だってことは馬鹿な俺でもよくわかる。
 「サトルを養女にしたのは、剣の巫女の子孫だから? ライがミズハに戻ったことを俺に伝えたのは……嫌いだから?」
答えを求めて聞いた癖に、俺はかぶりを振って更に言葉を繋げた。
 「いっぱい嫌いなものがあって、その中にいる俺たちも嫌いなんだ」
 トウタは蝋人形のような固い表情をしていた。感情が読めないその顔を不意に歪めると、大きな溜息を吐いてひどくゆっくりした所作で酒を注いだ。その間も闇に潜む鈴虫たちが静かに鳴いていた。
 いらないって言ったのに俺の前にもお酒を注いだお猪口を置いてきた。
 「……嫌いだけで済まされない」
 ひどく冷めたその一言に全身が縮まるような恐怖を覚えた。
 「子どもは大人にとって手駒でしかない。父上がぼくを引き取ったのも、ヒロマ様がお子を生めない身体だとわかったからだよ。一夜のお戯れで生まれたぼくを誰も望んでなんかいないなら、何かを期待するだけ虚しいだろ」
 唇を酒で潤し更に滑らかになった舌でトウタは喋り続けた。まるでそれが喜劇の話でもするかのように、楽しげに―――けれど目は凍てついたまま。
 「力を持てる者は限られているからこそ、それを利用するしかない。他人を利用するのは、政では日常茶飯ことだよ」
 「…でも、気持ちはある」
ふいに口端からこぼれた俺の言葉にトウタは赤くなった目を向けてきた。
「ライが誰かを好きって思う気持ちも、俺がライを大切に思う気持ちも計算とか関係ない」
「ライが誰を好きかって? サトルだよ」
大きく開いた口を曲げトウタは不気味に笑った。
「でもサトルはいつもきみを見ていた。それを知っていたから、ライは随分苦しんでいたのに、何も知らずにライにまとわりついていた。無邪気で残酷な行為だね」
「サトルが……」
「彼女はピリが好きなんだ」
何故か『好き』って言葉がとても歪んで聞こえた。みんなが持つその気持ちが、色々な物を有り得ない形に変えていっているような気がして、とてつもない恐怖を感じた。
「彼女もいずれぼくと共にこの家を継ぐ。若いうちに恋愛を楽しむのは自由だけど、身分の違いだけは超えられないって諭したよ」
俺を見詰める瞳にそれまで見たことのない身の毛のよだつような表情が滲んでいた。まるで俺の存在を疎む燃え盛る炎みたいな光。もしライがこの時傍にいてくれたならきっとその感情の名を教えてくれただろう。
「………トウタは…」
ずっと手をつけていなかったお猪口に映る星空に焦点を合わせ、ゆっくりと紡いだ。
「いつか一人になる。誰もいなくなって……今よりもっと悲しい顔をするよ」
「―――大君は孤独を知る者にしかなれない」
小さなお猪口を覗き込む顔は、この夜空よりも暗く淀んでいた。
「大君に…なれる訳……」
「ピリが空を飛ぶことで、寮に望まれるようになったのと同じように、力を手に入れるしか自分を表現できない」
寂しく言い放つ姿に僅かに胸が痛んだ。俺は何も知らなかっただけで、トウタにはトウタの意志があってサトルやライにもそれはある。そしてそれに基づき己の道を歩いていってしまったんだ。
大人になるって、どういうことなのかわからない。だけど大切だった時間を切り落としてでも進まなきゃいけないなら、俺は大人になんて、なりたくない。楽しく笑い合えたあの頃を忘れないとなれないくらいの価値なんてない。
 耳が痛くなるくらい鈴虫の鳴き声が辺りに響いた。ふいに顔を上げ暗い庭園を眺める。こんなに声は聞こえるのに虫たちの姿は見えない。
「権力者と言えども、ただの飾りだ」
淡々とした口調でトウタは囁いた。
「人はいつも支配されることを望んでいる。己よりも優れた者の存在を渇望している。だから神は存在し、大君はどの時代にも支配者とし存在できる」
 今トウタはどんな顔をしているんだろう。振り向いてみたいけど何故かそれが憚れた。緊迫した思いを押さえ視線を暗闇に定めたまま立ち上がった。
 足裏から力が湧き上がってくる。それに逆らうことなくゆっくりと浮かんだ。日中とは大分差のある冷たい空気が服の裾から入り込んで俺の熱を奪っていく。
 背後でトウタが息を吸う気配がした。
 「……誰よりも、自由なピリが羨ましかった」
 ドキンッと心臓が大きく飛び跳ねた。様々な感情が入り混じった低いその声に、ひやりと汗が浮かぶ。
 「それは多分ライもサトルも同じだよ。誰もがピリに憧れ、そして妬む。ただ…きみには決して得られない喜びを知るから、人は大人になれるんだ」
 「……喜び…?」
本当は聞きたくなかった。けれど先をいくライの後を追うには決して追い着けないように思え、絶対に理解できない何かを、知りたいと思えた。
 「誰かを想う喜びだよ」
 そう囁く唇がひどく歪んで見えた。
 
 
今日一日は店に泊まると伝えてきて正解だった。寮内の研究についてこと細かに説明を受けているうちに日が暮れ、宿泊することとなった。とはいえライとの約束もあるので適当に理由をつけて一晩を過ごすつもりではいたのだが。
 「この部屋を使って。研究室としても自由に使っていいから」
 案内してくれた栗毛の男は流暢に言葉を操り説明してくれた。明らかに異国人とわかる彼は青い瞳を伏せ終始ぼくと目を合わせようとしなかった。
 「失礼ですが、お国はどちらの?」
 欠伸を交えながら頭を掻き
「ゴブラ大陸のアークティック国」
とだけ告げ立ち去っていった。しかし間違いなく彼の父親だろう。二人と友好関係にあったことを警戒していたのかもしれない。それでも―――新たに生まれる子どもの話はできても彼らを話題には出せないのだ。
 六畳程の室内に寝台と机を置いただけの部屋。勿論窓もないので明かりはすべて蝋燭で賄われる。約束通り部屋の鍵は開けたまま寝台に腰を下ろし、机の上に置いた赤々と燃える蝋燭を眺めた。
 鼓膜が破れそうな沈黙に包まれ、他には誰もいない世界にたった一人取り残されたような虚無感に浸った。ふいに自分が目指すものを確かめてみたくなり懐に手を入れた。握り締めたまま取り出した掌には、オオサク島で使った薬を入れた袋がある。先程確認したが寮内の水源はすべて屋敷とは別に引いた地下水脈を利用している。あそこにこれを入れれば数日内にも効果は現れる。
 しかしこのままでは彼までも犠牲となってしまう。
 「サトル―――?」
 ふいに名を呼ばれ我に返る。一切の気配が感じなかったので油断していたが、戸から顔を覗かせるライの顔を確認した途端、それまでの緊張が解れた気がした。
 「遅くなってごめんな」
 同じ顔で異なる笑い方をする。口角を上げた、彼独特の笑顔。
 「誰かに見られたら困るから入って」
 頷き少し恥じるように足を踏み入れた。そして同じ寝台にではなく、備えつけの椅子に腰を掛けるとしばらく宙に視線を漂わせていた。
 ―――彼はぼくを、女の子として見ている。
 そう見て欲しかった人には最後まで振り向いてもらえなかった。自分から切り捨てて、最低の別れ方をした。けれどそれすら今ではどうでもいいと思えた。
 「そんなに緊張しないで。ここではきみしか喋れる人間はいないんだから」
 「て、て言うかどうしてサトルはミズハにきたんだよ?」
 「イシベの大臣から説明は?」
 「一応……有能な薬師を引き抜いたってくらいしか」
 「その通り。きみに施していた治療が効果的だったらしく、それで声をかけられたんだ」
 「でも、どうしてわざわざトウタの所の養女になったり、ミズハにきたりするんだ? その…養女の件は生活水準が上がるけど…」
 一瞬答えに詰まった。ピリには嘘は吐かないと約束したが、彼にはぼくの真意を明かす必要はあるのだろうか。むしろ自ら寮に戻った彼に、伝えるのは無理だ。
 「…ずっとピリといるかと思ってた」
 ライは自嘲気味に言葉を紡いだ。
 「俺がいなくなったら、きっとあいつは落ち込むだろうし……そうしたらやっぱりサトルが俺の代わりにピリの傍にいるんだと思った」
 否定はできない。けれどそれは飽く迄ライの代わりでしかない。
 「ここは居心地がいいよ。初めての成功作として俺を迎え入れてくれる。飛べないけど、俺を認めてくれる」
 快活に笑って見せたが空元気に過ぎない。どこか怯えた瞳は縋るようにぼくを見ていた。
「……不死を…開発したんだって?」
一語一句に力を込めて静かに発した。しかしその言葉は彼の中の負の感情を増幅させただけだったようだ。
「………俺を軽蔑する?」
肩を竦めると、ライは緑色の瞳に暗い悲しみを浮かべた。
 
 鉄格子の向こうにその光景を目にした途端、思わず顔を逸らしてしまった。壁に触れる冷たい指が汗で濡れていた。下半身から力が抜けできることならこのまま気絶でもしてしまいたかった。
 あれは―――人間?
 答えを求めて隣に立つライを見る。
 「……十二部族にいたんだ」
 意外な言葉に我が耳を疑った。ぼくがこの世界にきた時、既に焼き野原となっていた北の地にあんな人間が住んでいたというのか?
 「まさか……あんな姿…で生きているなんて」
 再び格子を覗き込み室内に押し込められた―――年老いた醜い生き物を見詰めた。加齢臭とは異なる悪臭を放ち、皮膚が溶け露出した臓器を気にすることもなく。皺と染みだらけの廃退した身体を所狭しと横たえ眠っていた。
 中には皮膚が可視化されて内部の臓器が透けて見える者もいる。
 「何百年もあの姿で生き続けているんだ。あいつらの協力もあって不死の薬は完成した。でも、もう必要ないから近いうちに殺される」
 何も映していない緑色の瞳が再びぼくに向けられた時、彼の想いに気がついた。
 「本当は…あいつら、自決しようとしていたんた。でも研究の為に生かされていた。俺もそう。もう結果が出たから、必要ない。誰からも必要とされないまま……いつか殺される」
 大粒の涙をこぼし泣きじゃくるライは、小さな子どものようだった。だからいつの間にかぼくは小刻みに震える肩を抱き締めていた。
誰も必要としてくれない。それは最も悲しいこと。もう会わないと決めたのに、いつの間にか心は彼を求めている。例え相手がぼくを見てくれなくても。
 「きみの価値はそんなものじゃない…」
 大人に利用され続けた哀れな子ども。そして何よりも憎むべきは愚かな大君一族。脳裏に蘇る終焉の景色を思い浮かべながら、耳元で甘く囁いた。
「不死がこの世にあっていい訳がない。終わりがあるから生きる意味が生まれるのに、自然の理を歪めてまで、生きなければいけない人間なんていない。そうだろう?」
 泣き腫らして赤く染まった顔を両手で包み、そっと唇を重ねた。
 「ぼくの為に生きて。誰にも必要とされないのなら、共通の目的を持つことでぼくらはもっと理解し合える」
 少年の恋心を利用する為に、ぼくは最上の笑みを浮かべた。
 
 
 
 
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