夢に楽土 求めたり

青海汪

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第十三話 天秤にかけられた定義と虚勢

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 家に帰るなり勘のいいマキヒは、すぐにアクシデントに見舞われたことに気づいたらしい。厳しい追及の後に雪崩に遭ったことを話すと、予想通りにイチタ共々ひどく怒られた。
 だからだろうか。今朝の目覚めはこれまでにないぐらい最悪の心地だった。
 月が傾く前に布団にもぐりこんだのに全身の疲れがまったくとれていない。結構長い間寝ていたのに、短い夢をいくつも連続で見た所為で妙にすっきりしない気分だ。
 昨日色々なことが一気に起きたからだろうか。だけどそれだけではない。アタカが失った記憶の中に、何故か、今日と言う日がとても重要な意味を持って記憶されていた気がしてならなかった。
 (そう言えば…)
と、布団の中で寝返りを打ちながら思いついた。(拾われる前の記憶もないけど…拾われてからしばらくのこともあんま…覚えてないよな)
 鮮明に思い起こせるのは暖炉の前でマキヒから名前をもらった瞬間から。温かな橙色の光に照らされたイチタとマキヒの顔が、とても優しげで二人の細めた青い目が似ていると思った。
 「アッタカァ~まだ寝てるのぉ?」
 突然戸が勢いよく開き、イチタが甲高い声を出しながら入ってきた。
 「今起きるっ」
 慌ててベッドから飛び降り寝間着を着替えていると、俺が乱した布団をイチタが整えてくれた。
 「…なぁイチタァ」
何気ない口調で問いかける。
 「俺が、マキヒに拾われた時って、どんな感じだった?」
 「え~どんな感じぃって言われてもなぁ…」
頭を掻くポーズを取ると、あっと口を開いて手を叩いた。
 「びっくりしたんだけどさ、ぼくが名乗ったらアタカって『お前があのイチタか!』って叫んでまた気を失ったんだよね。あの時は一目惚れでもされたかと思って引いちゃったぁ」
 時々、たまぁにイチタを女だと勘違いした訳でもなく男と知りながらも、告白をしにくる輩がいるので最後の下りは聞き流すことにして、アタカは自分が発した意味を考えた。
 「それと、あの時のアタカは今より何倍も小さくってガリッガリだったよ。それこそクロエに似てたかなぁ。あ、でも前髪だけがピンク色だったし、みぃんなで異国からきたのかなぁって騒いだっけ」
 ずっと会っていないクロエの痩せ細った体格を思い出し、それを現在の自分に当てはめてからかぶりを振った。
 「まさかあそこまで…!」
 「覚えてないのはアタカくらいだってぇ。なんたってあの村長も、たまぁにあの頃のことを語る時だってあるんだからぁ」
 でも、と反論しようとしたアタカを遮るように、今度はマキヒが戸口から顔を覗かせ不安げな面持ちで呟いた。
 「アタカ。あんたに、ヤヌギ族の使者って人がきてるよ」
 「俺に? どうして……」
イチタと顔を見合わせ昨日のことでなにかあったのかと勘繰る。
 「なんでもシーウェスについて話があるって…」
 「!」
心臓が大きく飛び跳ねるほどの衝撃が走った。シーウェスをシグノが生んだ王族の子どもだと思うアタカとイチタは、これまでにないぐらい緊張して引きつっている顔を見合わせた。
 二人揃って玄関まで出ると、正装をして馬に跨るナムとカヒコの姿があった。
 ナムはアタカの顔を見るとにっこりと微笑み
 「どういうことか聞いてみたいでしょ? とにかく一緒に城へきてくれるかな」
 「イチタもこいよ。ショウキの怪我の味見もよくなったし、連れて帰ってやってくれ」
 「味見じゃなくて具合!」
 最早御馴染となった二人のやりとりを聞いて、アタカは振り返りマキヒの見えない目に向って笑いかけた。
 「大丈夫。すぐ俺たちも、戻るかさ」
 「マキヒさん」
 アタカの視線を辿ってナムもマキヒを見詰める。
 「彼らが無事に帰ったら、これまであなたが陰で彼女を支え続けたことを話してあげてください。我々ヤヌギ族はこの国と未来の為に尽力しています。あなたのこれまでの功労に深く感謝致します」
 馬上から感謝の念を伝えるとマキヒは一瞬驚いたように目を見開けたが、しばらく沈黙しそれから静かに頷いた。
 彼女の目元が涙で光るのを、ナムに助けられ馬に乗りながらアタカとイチタは見た。その涙が喜びのものか、悲しみのものなのか判断できないまま馬は走り出す。
 ナムと馬の首の間に座ったアタカは向かい風に煽られ、体を小さく縮めて目を瞑った。
 「…よく、生きていてくれたね」
 ふいに耳元で囁かれ激しく動揺する。だけど何故かアタカは、ナムの声を聞いて、母の胸に抱かれ安心する子どもの気持ちに触れたような気がした。
 
 
 机の上に積まれた書類の山を見てカミヨは嘆息を漏らした。
 どれもこれも王の最終決定を待つものばかり。昨日からずっと同じ仕事をしているのに、書類は減る気配さえ見せなかった。
 ノックと共にフサノリが入室する。ここ数日間、彼はアマテル王との密談の為に外出していた。後の王となるウリの為に、東国との友好な関係を築く土台づくりを行ってきたのだ。
 「老人たちの反応は頗るよかったそうだな」
書類の一枚を手に取り話しかける。だがフサノリは彼の言葉を無視し
 「近衛隊長オノコが国境へ侵入したとの報告がありました。日が頂上にくる頃には、オボマ国と西国の戦争が始まりましょう」
 『西国』と『オノコ』の二つの単語がカミヨの心を熱くさせる。宴以来会っていないチトノアキフトの様子を聞きたいが、これから彼女と彼女が治める国が滅びるのを傍観しなければならない立場に苦しさを覚える。
 同じく彼女に焦がれるオノコになら、きっと互いの心情が手に取るようにわかり合えるに違いないと思っていたが、それをどうして言えるだろうか。王である自分に自由な恋愛などできる訳がないのに。況してや相手はこれから滅びていく運命にある国の王だ。双肩に背負うものを考えるとこの想いはあまりに無謀過ぎる。
 「……の地で宣教が予定されておりますので、これより旅立ちます」
 「…あぁ」
 途中まで聞き逃した言葉を思い描きながら、カミヨは適当に相槌を打った。最近では彼ら一族の噂を聞きつけて北の国の属国や、植民地の支配者たちからもロッキーヴァス教会の布教を求められている。大抵は少ない一族の者を寄越す代わりに熱心な信者や一般から聖職に就いた者などを送るのだが、小国の王などに招かれる場合は彼らが直々に出向いた。
 少しずつ広まっていくヤヌギ族の力。これがウリの代になればもっと栄えるようになるのだろうか。新たな王が治める次世代が想像できなくて、カミヨはふっと肩の力を抜いて椅子に深く凭れた。
 用件を述べ終えたフサノリは頭を下げると出ていった。
 一人になるなり静まり返った室内は、記憶の彼方に散らばっていった過去を思い出させる。いつもこうやって人気のない部屋を探しては、彼らと共に城の中で遊んでいた。
 「イーチニィーイ…サァーン」
 いつもジャンケンの時に最初にパーを出すカミヨは、その癖を知っている三人の友だちからチョキを出されて鬼にさせられることが多かった。
 あの日もいつものようにジャンケンで負けて、鬼になったカミヨは鍵の開いていた書斎で数を数えていた。
 同じメンバーでの隠れ鬼とは言え範囲はこの広い城内すべてだ。一人で探すにはそうとうの時間がかかる上、召し使いたちに知られたら即行で中止にさせられてしまうのでなかなかスリリングな遊びであった。
 十まで数えて早速廊下へ繰り出す。左右に続く廊下に人影がないことを確認してからカミヨは走り出した。まずはこの階にあるすべての部屋を探し、それから厨房からトイレの中まで探し、二階へ上がった。この時点でもう足腰はくたくたに疲れていたが、侍女たちの笑い声が近づくとすぐに柱の陰に隠れその場をやり過ごした。
 「クラ! 発見したぞ」
 掃除用具の中で縮こまっていたクラミチを見つけカミヨは飛び跳ねて喜んだ。当時は彼より少し背の低かったクラミチは、顔をくしゃくしゃにして
 「もうちょっと身長があったらモロたちみたいに、本棚の上にだって隠れるのにな」
とぼやいた。
 「本棚? 二人は本棚なんだな。よし、いくぞ」
 「しまったぁ…!」
失言に気づき口をふさいだがカミヨに連れられ本棚を多く入れている部屋へ向かった。
 同じ階でイザナム王が他国の使者と謁見をしているからだろう。廊下を侍女や武装した男たちが慌ただしく行き交い、そのたびにカミヨとクラミチはどこかに隠れなければいけなかった。
 扉の陰に身をひそめながら、この階に二人はいないのかもしれないと思い始めた頃。二つ部屋の向こうで、そっと辺りを窺うようにして静かに扉が開いた。
 「!」
 扉の隙間から眼鏡をかけたモロトミが顔を覗かせる。それから後ろに続くジュアンに合図を送ると、二人は大人たちの視線をかいくぐり抜けて走り出した。
 咄嗟に叫ぼうとしたカミヨの口を、クラミチがふさぐ。せっかくのチャンスを逃し恨めしげに彼を睨むとクラミチは
 「今は二人っきりにさせてやろうぜ」
 とぼやいた。
 再び廊下を駆けていく二人の背中に目を向ける。いつの間にかモロトミとジュアンは手をつないでいた。
 「…好きなのか?」
 クラミチの手を外しながら問う。
 「多分。よくあぁして手をつないでるし、隠れ鬼をする時も一緒に隠れてるしな」
 いいことだよ、とクラミチは言った。彼の表情も活き活きと輝いていたので、カミヨもその言葉に納得した。
 
 「国王に愛情なんて必要ないわ」
 そう言ったのは大后妃殿下ピジルク・エリスだった。
 血がつながっていないことは知っていたが、彼女に育てられたカミヨはいつもの習慣でその日のできごとを夕食の場で話して聞かせた。
 友人二人の恋を羨ましげに話すカミヨに、大后は冷ややかに返した。
 「えぇ、もちろんあなた以外の人間が誰かを愛するのはどうでもいいわ。ただ王者となる人が、そんな下らない感情に振り回されるようになってはいけないと言いたいの。わかるわね。カミヨ?」
 いつもの口癖。『わかるわね、カミヨ』の後に肯定を示さなければ、どんなひどい目に遭うかをよく知っていた。
 「わかります。大后妃殿下」
 だけど内心ではそんな下らない感情でもないと反論していた。あれからモロトミとジュアンは彼の前でも隠すことなく手をつなぐようになり、それを見てクラミチと温かな気持ちを共感した。
 だが大后の邪険な瞳に気圧され反抗心も竦んでしまう。
 当時カミヨは十三歳。ジュアン、クラミチ、モロトミは十五歳でそれぞれに己の進む道を見出し、勉強や肉体を鍛えることなどに夢中になり始めていた。
 生まれた時からイザナム王になる運命にあるカミヨは、少しずつ離れていく彼らについていきたくて少し背伸びをしていた。
 「でもお言葉ですが…父王もいずれも多くの側室をお抱えです。その方々に対し一片の愛情もお持ちではないと思えません。むかし侍女から聞きました。深い愛がなければ子どもは生まれないと」
 つまり王の子どもである自分がいるのだから、王は母を愛していたと言いたかった。だが大后の表情は一変した。
 後に大后が子どもをもうけられぬ体だと知るまで、彼女が見せた苦悶と嫉妬に満ちた表情の意味がわからず、それが無意識のうちに彼女を傷つけることとなった。
 「カミヨよ、いいことを教えて差し上げましょう。何故、その愛された側室であるあなたの母親が、今だかつてあなたの目の前にあらわれないか…知りたいでしょう?」
 これまで一度も母のことを話題に出してこなかった大后の提案に、カミヨは思わず立ち上がり勢いづいて頷いた。
 誰にでも当然のようにいる母親。もちろん三人の友だちにも母はいる。彼の教育を一任されている大后はいるものの、彼女は決して母親のように振る舞ってくれなかった。
 「あなたの母親は殺されたわ」
 信じられない第一声に耳を疑う。予想もしなかった答えに、カミヨは立ちあがったまましばし呆然とした。
 それから大后は側室たちに与えられた役目とその末路について語り出した。あくまで権力維持の為に存在し、後継者をつくれば用なしとなる側室たちを上品な言葉で包みながらも罵倒する。
 締め括りに大后は穏やかな表情でこう言った。
 「わかるでしょう、カミヨ。私もあなたの母親も…みんな、あなたと言う存在を憎んでいる。だけど殺されず、それどころか多くの力によって守られているのは、あなたが次期国王だから」
 胸が引き裂かれるかと思った。逆流した血が頭に昇り、我を忘れて泣き叫び怒号しそうになった。
 だが弱冠十三歳の彼がそこまで取り乱さなかったのは、食卓を見守る多くの召し使いたちがいたからだ。
 (わたしを―――王として見ている)
 焦りと不安。恐怖と羨望。常に見られていることで自分の存在を明確に位置づけることができる。だけど些細な失態もすぐに知れ渡ってしまうことへの恐怖。唯一共感できる立場にある国王の父は、そんな幼い彼の心など知らずにいつも玉座の高台に座っていた。
 カミヨがある噂を聞いたのは数日後のことだった。内容を聞いただけで思わず吹き出しそうなものだったので、大して気に留めることもなくいつもの予定をこなしていった。太陽と月の動きに合わせて立てられた過密な予定には、友だちとの交流の時間など当然入ってはおらず、噂が事実となるまで、カミヨは残された三人の不安な日々を知らずに過ごしていた。
 ある日少し早めに食事を終わらせ、庭園から夕焼けを眺めていたカミヨの肩を乱暴に誰かが叩き振り向かせた。
 「聞きたいことがある」
 声を聞くまで、それが本当に彼の知るモロトミとクラミチなのかわからなかった。それくらい憤怒に顔を歪ませていたのだ。
 「どうして止めようとしなかったんだ! もう明日に輿入れが決まったんだぞ」
 「輿入れ…?」
 と呟いてから、これまで忘れていた噂を思い出した。
 それは、美しく成長したジュアンを新たな側室に迎えるというものだった。
 「どういうことだ? 私はなにも…」
 「なにも知らなかった訳がないだろう。カミヨは唯一の王位継承者だ」
 冷たい口調でモロトミが返す。眼鏡の向こうにある瞳は、これまでどんな時も見せなかった軽蔑と深い怒りを秘めていた。
 「本当だ! 父王とは滅多に顔も合わせないし…第一、ほとんど机に縛りつけて勉強をさせられていて、そんなことになっているとも知らなかった!」
 「じゃあどうするつもりだよ!」
 カミヨの胸倉を掴み、クラミチは真剣な顔で問いかけた。
 「お前は王子だろ? 万能のイザナム王になるなら…今、その力を使ってジュアンを助けてくれよ!」
 「そ、そんな…無茶苦茶だ。今のわたしに従う臣下なんて一人もいないし、王に逆らうなんて…」
と紡いでから、カミヨはふと自分の母親が辿った末路を思い出した。
 「…もし…子どもをもうけたら、ジュアンは殺される。王が亡くなった後も、側室は一緒に死ななければいけないんだ! 大后が仰っていた!」
 「な、なんだよ! どうして…ジュアンが好きなのはモロだけだ!」
 クラミチは嗚咽を漏らしながら叫んだ。泣きながらカミヨを地面に下ろすと傍らに立つモロトミの肩を抱いた。
 眼鏡のずれを直してから彼の背中を優しく叩くモロトミ。だけどその目はカミヨを捉えてくれなかった。
 二人の心が遠く離れていくのを感じカミヨは慌てて言葉を紡いだ。
 「なんとか…! せめて、ジュアンが死ななくて済むようになんとか頼んでみる。明日輿入れなら、きっとお父様の機嫌もいいはずだから……なんとか…するから」
途中からボロボロと涙が溢れ出た。一番辛いはずのモロトミが沈黙している。そんな彼の想いを代弁してクラミチは泣いてあげることができるのに、肩書きばかりで無力な自分がひどく惨めに感じた。
「カミヨ」
 彼を見るモロトミの目がこれまでと違っていた。
 「……万能の神でもない王に、誰を救えるんだ」
 鋭利な刃を伴って胸に突き刺さるモロトミの視線。絡み合った眼差しから先に目を逸らすと、泣きじゃくるクラミチを連れて去っていった。
 この日を区切りに、カミヨはすべてを失ったと思った。
 幼い頃より姉と慕い、密かにモロトミとの恋を応援してきたジュアンを母として接するようになり、美貌の彼女の元へせっせと通う王への腹いせから大后の教育は過激なものとなっていった。
 「王は誰も愛してはいけない。わたしは、誰も愛さない」
 いつしか大后の言葉はカミヨの教訓ともなっていた。愛しなければ傷つけ合うこともない。愛は人を動かす原動力ともなるが、その力は未知で、危険なものだった。
 ―――誰も愛さない。そして……誰も、わたしを、愛さない。
 
 「あなたはイザナム王を愛していたのか?」
 国王の死後、唯一例外として生き残ることができたジュアンに向って、即位したばかりのカミヨは初めて話しかけた。
 いつも王が好む純白のドレスをまとっていた彼女は、城を出ていく晴れ着として瞳と同じ紫のドレスに身を包んでいた。
 「…王は私を愛していたわ」
 荷物をまとめながらジュアンは答えた。王が亡くなるまでの七日間を共に過ごした彼女は、あらゆる権力の追及を堪え今も黙秘を続けている。
 「逃げだせばよかったはずだ」
 平然とした顔を歪めさせたくて声を荒げた。
「いくらでも道はあっただろう。いざとなれば国外に逃げることだって…わたしが、力を貸したかもしれないのに」
 今更口にしたところで虚しい希望だ。どんなに後悔しても彼女の前では幼いカミヨと、イザナム王のカミヨが混在してしまう。
 叱咤して欲しいのだと、カミヨは思った。
 父王と結婚してからジュアンは、一度たりとも彼に辛く当たるようなことをしなかった。寂しげにどこかを見ていた眼差しでカミヨを捉えると、一瞬だが必ず微笑んでくれる。
その彼女が本心ではどう思っているのか。彼がいなければ幸せになれたと言って罵倒してくれる方がよっぽど気が楽だった。
 「私、幸せには定義なんてないと王に言ったのよ」
 衣装を畳みながらジュアンは口を開いた。
 「あの七日間……王は玉座に座ったまま私に問うてきた。死を覚悟した今、本当にやり残したことはないのか。自分は王としてふさわしい生き様だったのか。そして、生きていて、幸せだったのかって………難しいことばかりをお聞きになられたわ。だけど王が初めて見せられた本音だった」
 ふふっと自嘲し「大して私、頭もよくないから答えられなかったけれど、でも最後の質問にだけは答えたわ。幸せの定義を決めた人は、きっと自分の幸せを認めたくなかったからだって」
 凛とした声で彼女は静かに言い切った。
 「これから…モロトミとすべてやりなおすわ。ゼロから始めてみたいの」
 初めて目元に涙を浮かべ
「お願いだから……もう、私たちを放っておいてね…」
と懇願した。
 「勝者にならなくてもいいの。この世に勝ち負けに関係ない道があると、信じたい。だからこれ以上、私たちに関わらないで…」
 最初で最後の絶縁宣言。
 しばらく呼吸をするのも忘れ、足の裏から根っこが生えたようにカミヨはぴくりとも動けなくなった。
 「愛しているわ。私はこの国も、国の犠牲となった王もあなたも。だけどそれ以上に守りたい人がいる」
 「わたしが王だからか……?」
 わずかに開いた唇から洩れた言葉は、情けないほど頼りなく支えようとした手元を滑って床に落ちていく。
 「王だから、誰も彼も離れていく…」
 「いいえ、違うわ。カミヨ」
 「なにが違うんだ!」
かぶりを振って否定した。
「お前たちがわたしから離れていこうとも、この国に住まう限りわたしの支配下だ! 王の恩恵を受けて暮らすしかないのがこの世の定め。逃げられると思うなっ」
 怯えるジュアンを腹部指差すと、カミヨは腹の底から力を込めて呪いの言葉のように吐き出した。
 「いつか子を宿した時、それが王の子かもしれないことを忘れるな―――」
 
 
 アタカたちを乗せた二頭の馬は城の裏手に回り小さな門の前で立ち止まった。正装姿なのでつい正門から城へ入っていくと思っていただけに、なんとなく出鼻を挫かれた気分だ。
 控えていた小姓らしき少年に馬を預け、ナムとカヒコは門扉を押し開けるとすぐに二人に入るよう手招きした。
 緊張しているのか最初の一歩を踏み出すのに覚悟を要した。城へ上がるのはこれで二回目なのに、アタカはこの一歩が後の運命をわけるだけの意味を持っていると思い、心を決めるまでなかなか動けずにいた。
 「…む! お願いだ!」
 城壁の内側から若い男の悲痛な声が聞こえてきた。咄嗟にナムたちの顔色が変わるなり、カヒコに命じアタカたちの手を引き寄せ城の敷地内に連れ込んだ。
 彼らが敷地内に入るのとほぼ同時に、城の内部から背丈のある屈強な体格をした男と彼に拘束された黒髪の男があらわれた。
 「この首を捧げる! どうかイザナム王へ面会を! このままでは国が滅びてしまうんだ! 頼む―――!」
 惨めに手足をばたつかせるような真似はしなかったが、黒髪の男は必死の形相でカマスに嘆願した。
 「近衛隊隊長オノコがきたと伝えてくれ! ツクヨミ様の命を受け」
 「理由はどうであれ王の証文も持たずに侵入した時点で不法入国者だ。貴国との友好的な関係を配慮した上で、処罰は見送るが即刻退去させよとのイザナム王の命令だ」
 文字通り切実に、願いが叶うのならこの場で首を切り落としかねない勢いのオノコだったが、カマスのあくまで冷淡な対応に一縷の望みも失った様子で項垂れた。
 彼らが門に近づいてきたのでナムにつられ道を開けるアタカ。
 「…カマス、連れてきたわ」
 傷だらけの顔を見上げてアタカは妙な違和感を覚えた。脳から発せられる見えない波長がほんのひと時、このカマスと言う男と調和し合うような不思議な感覚。しばしお互いに見詰め合いカマスから目を逸らした。
 その瞬間、相手も同じ感覚を味わっていたのだと察した。
 「俺はこの使者を連れて国境までいく。すぐに戻るが…今、ハザンがフサノリ様を説得しているところだ」
 「…そぅ」
 俯いたオノコの頬から涙が伝わり落ちるのを見て、気まずそうに沈黙する。それから好奇心にくすぐられ、目の前のなりゆきを見守っていたアタカとイチタの視線に気づき場の雰囲気を和ませようと顔を上げた。
 「驚いた? あの、イチタと仲良しなのよ」
 わざと元気そうに笑うナムを見て
 (あ…それ、俺が言ったセリフと同じだ……)と呟いた。
 特に関心を示した風でもないがイチタを一瞥すると、カマスはオノコを肩に背負ったまま城を出ていった。
 なんとなく気まずい雰囲気が四人に圧し掛かったが、それを振り払おうとするようにカヒコが先陣を歩き始めた。
 「イチタは初めてだろー! 後の時代にまで美の代名詞に使われるようになった、イディアム城に入れるなんて結構名誉挽回的なことだぞ」
 「最後だけ意味不明。あんた、昨日それ程飲んでなかったはずなのにまだ呂律が回ってないの?」
歩き出そうとしないアタカたちの背中を押しながらナムが指摘する。
 「名誉ってことを五字熟語に直しただけだろっ」
 「そんなもんがある訳がないっしょ!」
 「なっ、なっ…!」
唇をわなわなと震わせるカヒコを仰ぎ、アタカはそっとイチタに耳打ちした。
「こいつら、仲いいのかわかんねーな」
「しばらくは片想いって感じだろうねぇ」
傍から見てもナムに好意を寄せているのはバレバレのカヒコ。そんな彼の気持ちを知ってから知らずか、ナムの対応はいつも毅然としていて恋に発展しそうな気配すらない。
いつの間にか二人の体を包んでいた緊張が、彼らの夫婦漫才のような会話のお陰で解放されているとは気づかずにアタカはひそかに吹き出した。
 
 
 宣教を懇意されていた北の属国へ出発準備をしていたフサノリは、彼の部屋の前に立ちはだかるハザンを見詰め深々と息を吐いた。
 「先日の意見を突然翻したのだな」
 シーウェスが存命することを否定してきた彼の口を睨み、軽い揶揄を込めて呟く。
 しかしハザンは微笑みを浮かべたまま仕事口調で答えた。
 「決してあなたの期待を裏切るような結果は出しません。なにせ我々が使用した装置には大きな欠点がある。それは薄々カヒコたちも気づいているようです。いえ、正確にはあなたの口から真実を聞きたくて待機している状態です」
 「わたしが訪問を断ることで予想される被害に対し、お前がフォローできる程度はどのくらいだ」
 「誤差を入れて六十七パーセントとしましょう。しかし既にシーウェスがこの時代に存在することで、我々の当初の算出とは違った『流れ』が生まれていると思うべきです」
 薄い唇を舐めて湿らせると、ハザンはフサノリの反応を確かめるようにゆっくりと言葉を吐き出した。
 「可能性は七十二.四パーセント。正確な鑑定を行わない限りこれ以上数字が上がることはありませんが、あなたの遺伝子は彼に受け継がれている。つまり父親であると勘繰っています」
 分厚い瞼に隠された緑色の瞳を凝視し、短い沈黙に耳を澄ませてからフサノリはわずかに首を縦に動かした。
 「お前の可能性に賭けてみよう」
 「ありがとうございます」深々と低頭する。
 「奴はどこにいる?」
 「誰の目にも触れないようわたしの部屋へ連れてくる手筈になっています」
 「…王にもか?」
周到な手回しに呆れながら呟く。
 「ハッハハハハハ。あー…もちろんでございます」
 下手くそなハザンのつくり笑いに卑屈な眼差しを向ける。ハザンはつくり笑いのまま、扉を開けるとフサノリを自室へ導いた。
 
 
 「じゃあカヒコが愛しいショウキちゃんの元に連れていくから、ここからはアタカと別行動よ」
 人目を憚るようにアタカとイチタに説明を始めるナム。ちょうど大きな木像が立っていて彼らの姿は影に隠れて見えないはずだが、念の為にカヒコが見張りに立っていた。
 「…俺、ちゃんと村に戻れるよな?」
 不安げに問いかけるアタカの肩を優しく叩き、同じように睫毛を伏せていたイチタも頭を撫ぜてやった。
 「約束したでしょ? 家に戻ったらマキヒさんが大事な話をしてくれるわ。そしてアタカ。これから知ることを…イチタや、誰かに告げるべきかどうかは、あなたが決めな。それに対しイチタも、どんな答えをこいつが出したとしても決して怒らないでいるって約束するなら、このままショウキちゃんを連れて帰っていいわ」
 「ユサは? ユサの体調はどうなんだよ」
 急かすアタカにナムは少し戸惑うように眉間に皺を寄せて黙り込んだ。
 「大事はないんだけど…念の為もう少し、治療をすることになったの。なんせ頭だし、女の子が傷を残したりしたら大変でしょ。本人の了解もとっているから安心しなって」
 それからカヒコを呼び、彼にイチタを預けると後に残されたアタカの肩を優しく叩いた。
 「心配しなくっても誰も取って食いやしないわよ」
 安心したくてナムの言葉に相槌を打つ。だけど心の底から納得はしていなかった。
 「俺……シーウェスなの?」
 「覚えているの?」
 「覚えてない」
と言ってかぶりを振り
「だけどシーウェスはシグノの息子なんだろ? 男か女かわかんねーし…俺もその可能性があるのかなって思うと、すっげぇ嫌だ」
 「…まぁ……確かに彼女は男女の双子を産んだけど、まぁそれは置いといて。あんたは王族の子じゃないよ。だけど、私たちにとってそれ以上に価値のある存在なの」
 大袈裟な言い回しに聞こえたがナムは至って真面目だった。
 「きて。こっちだよ」
 アタカの手をひいて廊下を歩き進める彼女の後ろ姿に、ふと誰かの面影が重なった気がした。
 だがその人は黒髪だった。肩ぐらいまでの髪を適当に結んで、いつも縁のない眼鏡をかけていた気がする。化粧っ気もなく女らしい特徴もまったくなかった人だったけれど、笑うと―――
 「アタカ? どうしたの」
 突然立ち止まると彼の異変に気づいたナムは顔を覗き込んできた。
 脂汗を拭いながらアタカは無言でかぶりを振った。
 (どうして今更…こんなことを思い出すんだよ……)
 王族ではないと聞いて安堵した途端、いつも頭の奥にかかっていた霧が薄れたように感じられた。さっきからナムの挙動に誰か知らない人を重ね、初めて会ったはずのカマスに親近感を抱き…
 アタカは自分が、昨日までの自分と違っていくことに戸惑い始めていた。
 「なんでもない」
 もの問いたげにしていたが、強い口調で言い切られたので諦めて再び歩き出した。
 彼女の後を追いながらアタカは、必死にこれまで自分の目で見て、感じ、考えだしてきた『アタカ』としての記憶を思い出しシーウェスの亡霊から自分を守ろうとした。
 (俺はシーウェスなんかじゃない。俺には、マキヒがくれた名前があるんだ……!)
 
 
 ユサに宛がわれた部屋は紫色のカーテンやベッドカバーなど、多くの装飾品が紫系統の色でまとめられていた。
 普段これほど多彩な色に触れ合う機会のないユサはなんとなく落ち着けずにいたが、ナムに頭部の検査の必要性を説かれ渋々滞在を伸ばすことにした。ショウキとは昨日から会っていないが、近くの部屋にいるのだろう。時々廊下から彼女の感嘆が聞こえることがあった。
 城へ上がることはショウキの夢でもあった。それが叶い、どんなに嬉しい顔をしているだろうか。それを間近に見ることのできない現状に一抹の寂しさを覚えたが、今はそれよりもアタカにあの絵を届けたい思いが勝っていた。
 (いつになったら帰れるかな)
 額辺りに巻かれた包帯に触れながら考える。昨日はやけに目の細い男性が治療にあたってくれたが、彼の態度から察するにそれ程の大怪我でもないと高を括っていただけにナムの提案は少し意外だった。
 「!」
 誰かが扉をノックしてきた。怖くなり座っていた椅子から立ち上がり壁際へ移動すると、扉が開き隙間からショウキが顔を覗かせた。
 「ショウキ…」
 意外な人の登場に言葉を失う。
 彼女の後ろでイチタとカヒコが笑っていたが、ショウキが一言二言彼らに伝えると彼女だけ部屋に入ってきて後ろ手で扉を閉めた。
 イチタがきたと言うことは同じ城の中にアタカもいるのだろう。すぐにでもあの絵を持って彼の元へ駆けつけたかったが、肝心の絵を家に置いてあることを思い出し落胆する。
 「へ…へぇ、こっちの部屋の方が豪華じゃない」
室内を物色するように歩き回る。暖炉の前で立ち止まり木彫の置物を眺めながら、ショウキは
「怪我の具合は?」
と尋ねてきた。
「…大丈夫だよ。ショウキは?」
「わ、私は…私は平気よ」
繕うように言葉を紡ぎながら、赤く染めた頬を見せた。
「これからイチタと先に帰るけど、あ、あんたもさっさと帰ってきてよね」
「うん。わかった」
素直に頷くユサを見て、ショウキは一瞬言葉に詰まった様子で黙り込んだ。それから突然形相を崩すと涙をこぼしユサの元へ駆け寄って首に抱きついた。
「ごめんね! ユサアァ! 私、私……本当にユサに、ひどいこと、言った。だけど、忘れていたのは本当! イチタと会って、あ、彼が好きなんだって思ってから少しずつ思い出して…!」
ふとイチタの顔を思い出し、ユサは目を細めて笑った。
「イチタとルダ…少し似てる。でもイチタがショウキの運命の相手なんだ」
 「に、似てる? イチタの方がもっとかっこいいわよ! 私たちが子どもを産んだら絶対に可愛い子になるんだからっ」
冗談か本気かわからない、真面目ぶった顔でショウキは断言した。
 「うん。そうなると思う」
 彼女らしさを取り戻したショウキに対しユサも素直に答えた。その顔には、これまでウリにしか見せてこなかった彼女の満面の笑顔を浮かべて。
 「あんたの運命の相手も、見つけたんでしょ?」
ようやく首回りから離れ鼻を啜りながら、ショウキは冷やかし口調で呟いた。
 「運命…の……」
と口にしてから、ユサは同時に頭に浮かんだ二人のことを考えた。
 「しっかも玉の輿じゃない! やるわね」
 ショウキに背中を叩かれて、彼女が示唆していた人物がウリであることに気づく。だけどユサは、もう一人の候補者を頭から追い出すことができなかった。
 「私、アタカに、絵を渡したいからまだ死ねないって思った」
 「えっ! じゃあウリが好きな訳じゃないの?」
 「ウリ……嫌いじゃ…ない」
 「聞いた話じゃあ、ウリには私たちの居場所が手に取るようにわかったって言うじゃない。それってあんたと…運命に選ばれているような気がするんだけどなぁ……」
 どうなってるのかしら、とぼやくショウキ。
 疑問符を浮かべるショウキを見て、ユサも同じ心境になった。
 (ウリと一緒にいると…安心する。ウリ、は、好き。だけど、アタカに絵を渡したい。…会いたい。これって変なこと?)
 自問自答をしながらユサは明るい日差しが注ぐ窓の向こうへ視線を向けた。
 晴れ渡った空では太陽が頂上へ向かってゆっくりと登っていた。
 
 
 ナムに連れられてやってきた部屋は、両側の壁を本棚で埋めた書斎のようなつくりをしていた。棚に収めきれなかった書籍が床に積み上げられ、その隙間から果物の皮や原型も推定できないくらいに腐敗した物体が覗いていたがそれさえ目を瞑ればなかなか綺麗に整理されている。それだけ城の侍女たちが毎日掃除に精を出していると言うことなのだろうが。
 机の前にもうけられたソファに座るよう促され、アタカの隣にナムも腰を下ろした。
 「あんたには記憶がないんだよね?」
 彼女の問いかけに頷く。
 「覚えているところから話してくれないかな?」
 「……いいけど…」
少し抵抗があったが、真摯な眼差しを受け止めて語り出した。
 もうすぐ二年目になるあの日、竹藪で気を失っていたところをマキヒに拾われ助けられたところから始まり、暖炉の前で名前をもらったこと、イチタと一緒に文使いをして生計の手助けをしていたことを掻い摘んで話した。
 ナムは一語一句聞き洩らさないよう真剣な面持ちで頷くと、アタカの肩を抱き寄せあの時のように
 「本当に……無事で生きていてくれてよかったよ」
 と漏らした。
 その言葉を聞いた途端に心臓が高鳴り始めた。今までずっと思い出そうとしてもなにも思い出せなかった過去が、少しずつ綻びを解いて束縛し続けた記憶をアタカに返し始めるような不思議な感覚。
 目の前で広げた掌が妙に大きいと訝しんでいたが、それはただ単に自分の手が『あの頃』よりも大きく成長しただけだったと気づいた。
 クロエに似ていたと言っていたイチタ。そう言えばクロエに初めて会った時も、妙に親近感が湧いてすぐに彼を弟のように可愛がり始めたのは何故か。無意識に以前の自分を重ねて見ていたのではないか。
 「ねぇ、俺ってむかしは―――」
 紡ぎかけていた言葉が口先で溶けて消えた。
 ノックもなしに開いた扉の向こうに立つ赤毛の男を視界に捉えた瞬間。アタカは脳髄から激しい電流が手足の末端に向って駆け巡るのを感じた。
 その間、すべての音と言う音が遮断されていたにも関わらず、赤毛の男が発した言葉だけは唇の動きとずれて彼の耳へ届いた。
 「…シルパ」
 語尾が何度もこだまして脳裏に響き渡る。
 『シルパ』
 その名前を合図にアタカの意識は強制的に終了した。
 
 どうやら建物の外観は見せかけのものだったらしく、ぼくは叔父さんに連れられ大きなエレベーターに乗って地下へ向かって降下していった。
 その間の会話はない。ぼくはずっと下を向いていたし、叔父さんは叔父さんでさっきポケットから取り出した手のひらサイズの機械をいじっていて話すような雰囲気でもない。それになんとか辛うじて立っていたけど、正直ちょっと足と腰から力が抜けて座り込んでしまいそうだった。
 ようやくアナウンスと共に扉が開く。
 扉の向こうには何故か大勢の人が群れをなして待っていた。誰もが白衣みたいなものを着てシンプルな装いだったけど、国籍もごった混ぜなので頭と顔の色だけはとてもカラフルで眩しかった。
 一番手前にいた女性が車椅子を押してきた。叔父さんに促され、みんなが見守る中少し気遅れしながら椅子に凭れかかる。背後で女性がなにか設定をしている気配が伝わったけど、ぼくが振り向く前に椅子が勝手に動き出した。
 一緒になって辺りを囲っていた人たちも歩き始める。頭上で交わされる言葉はどれも専門用語ばかりで意味もわからなかったけれど、何度か同じ単語が使われていることに気づいた。
 『ヤヌギ』『イハヤの森』そしてぼくの母、『エディック』の名前だ。
 それから目の細い男が叔父さんの元へやってきて、なんだか機械の調子が悪いからすぐに検査だの手術だのはできないと言ってきた。叔父さんを含むその場にいた全員が顔をしかめ、一斉に討論を始めた。
 なんとなく身の置き所をなくしたぼくは、車椅子を持ってきた女性に導かれ別室へ運ばれた。
 「あなたのお母さんが生前に使っていた部屋よ。まだ片づけていないからそのままになっているわ。少しここで待っていてちょうだい」
 そう説明されたものの、そこには母を思い出させるような品もなく、あるのは訳のわからない機械や装置。それと部屋の棚だけではなく床をも埋め尽くす大量の本の山だった。
 やっぱり母さんはアナログなものが好きだったのだろう。手巻き時計から、ノートやら本といい…グリフが最後に残るのはこういったアナログなものばかりだと言った。その言葉が妙に思い出される。
 ぼくを残して女性はすぐに出ていった。
 さて。どうしたものか…
 どうやらこの車椅子は手すりに手を広げて置いていると、ぼくがいきたい方向へ勝手に移動してくれるらしく慣れるとすぐに自由に動き回れるようになった。
 それにしても汚い部屋だ。
 学者らしいとでも言おうか。開きかけの本が辺りに散乱し、ソファの下には色違いの靴下が積み上がっている。きっとそこで寝起きしているうちに靴下がどんどんなくなっていったのだろう。
母が亡くなった時のまま部屋の時も止まってしまったようだった。
 記憶を改竄されてもぼくはこの研究所にいたのだと不思議に実感していた。何故か胸を熱くさせる匂いや部屋のつくり、全体から受ける印象と言ったものがぼくの五感を刺激してくる。
被験者とは言え、偉大な発明家の息子だからそれ程悪い待遇は受けていないだろう。なによりもさっきぼくを迎えてくれた人たちがみんな、長い間離れていた肉親と対面するように顔を綻ばせていた。多分よっぽどの演技力でもない限りあんな顔はできないはずだ。
 母の部屋と言うこともあり好奇心に負け、車椅子に乗ったまま動き回る。驚いたことに椅子はぼくが机の上のものを取りたい、と思うと座高が高くなり手が届く位置まで伸びてくれた。
 こんなハイテクなものがあるとは知らなかったので、椅子の機能を発見するたびに驚かされた。
 机の上にあった箱を取ったぼくは、表面にかかった薄い埃の膜をそっと指で外した。時々掃除はしてくれているのだとわかり、もう四年も前に亡くなった母をここにいる人々は忘れずにいることに少しだけ心が和む。
 螺子を回して箱を開けると聞いたことのない音楽が流れた。なんだかちょっと暗くて切ない感じがする。だけど母さんはこの曲を気に入っていたのか、木製の箱は垢で黒ずんでいた。
 取り敢えず最後まで聞いてみようと思い、オルゴールを膝に乗せると部屋の荒探しを続行する。
 叔父さんはまだ肝心なことを伝えてくれなかった。ぼくの体にある抗体を使ってワクチンをつくることは頭の悪いぼくでもわかったけれど、母さんから受け継いだ時計の使い道については一切の説明がない。
 ぼくの時計はまだ初期作品だけどその中でも最高傑作であると言った。きっと初めて塔にきた時も時計が目当てだったに違いない。まだぼくが時計を保管しているか。それとついでにぼくが存命かどうかも確かめたかったのだろう。
 叔父さんたちはなにをしようとしているんだ? 時計を使っても飛ばせるのは意識だけって言っていたのに、プロジェクトって… 
今とは違った未来って…叔父さんたちはなにをしようとしているんだろう。
 なんでもいいから手掛かりが欲しくて部屋の中を動き回った。
 床に開いたまま落ちていた本を見つけ中身を覗き込む。歴史の本らしく、関連づけた発掘の記事やコピーの切り取りが一緒に折り込まれていた。手に取って見ると記事のコピーには発掘された骨の生前の姿をCGで再現したものが映っていて、そこには豊かな金髪を持つ二十代くらいの男の姿があった。どうやらむかしの王様のものらしく名前を『ジブジル王』と書かれていた。
 もう一つの用紙にはどっかの文献のコピーが載っていた。小さい活字だったので読むのが面倒になり、適当に目で捉え全体を流し読みする。これも歴史関係のものらしく、ロードリゲス大陸に渡った商人が成功を収め母国へ多大な寄付をしていた、とか書かれている。その商人の名前だけ覚え、一通り本に目を通して大した手掛かりもないと判断し床へ戻す。
 動くたびに埃が舞い、咳き込むぼくは机の下に積まれた本の中からはみ出す栞を見つけた。椅子から身を乗り出して本ごと取り出すと栞が挟んであったページを開いた。
 意外にもただの文献の類ではなく、この分厚い表紙をした本は母さんのメモ帳だったらしい。この時点で母の性格が大まかながらに掴めてきた気がする。
 嘆息交じりにメモ帳に書かれた文章を読む。最初の数段に年号とその時代に起きた出来事が書かれていた。冒頭の『四天王時代』と言う部分が何重にも丸で囲まれていて、赤ペンでいくつかの補足があった。
『二十八代目イザナム王カミヨの政策→森林伐採。気候の変動。数年後の内乱の引き金』
 『アマテル王の姪 イハヤの森 創造』
 『ワイナの戦=大戦 クニャンタールの戦い 影響を与えた?』
 歴史なんて勉強したこともないので興味が萎えて次のページを見る。そこには塔で見つけた手記よりも細かい時計の設計が描かれていた。
 更に次のページをめくると、空白を残さず文字で埋められた母の手記が残されていた。
 
 『時計を使用するには危険が伴う。時間という一定の流れを持ったものを無理やり堰き止め割り込む働きを持つこの装置では、五体満足のまま目的とする時代へ向かうことがほぼ不可能という結果が出た。しかし計算で出した結論に過ぎない。まだ研究を続けることを希望する。だが、もし仮にこの装置を完成させてしまったら、きっとフサノリたちは歴史の改竄を行うだろう。
 しかしシルパが支部で被験者とされている以上、私に拒否権はないも当然だ。
 どうしよう。私は科学者としてこれを完成させなければいけない。だが、一人の人間として母として、息子の為にもプロジェクトを阻止しなければ…』
 
 数行を空けてまた文字が綴られている。今度は少し日が過ぎてから加えたのかもしれない。
 
『これは一種の賭けであることを自覚する。この腕時計だけは完璧なものとして完成させるが、それを知るのは私のみとする。装備のない状態でトラベリングを行った場合に人体に影響が出るように設定するが、完全に装備をしても移動させられるのは意識のみで肉体は伴わない。この時点で時計は初期作品の中でも最高の傑作と謳われるだろう。
 しかしある一定の条件を満たした者に対し、心身ともに健常なままでトラベリングを行えるように設定する。この条件を一生涯私が口外しない限り、誰もこの装置をすべての意味に於いて完全なものにすることはできない。
 神童と呼ばれるハザンの目を逃れることができたら…この試みは成功するだろう。だが彼が私の跡を継いで装置を完成させる可能性は十分にあり得る。だが、完成させる上で必要と思われるデーターはすべて消去する。
 また、私が不慮の事故で亡くなればプロジェクトは凍結し、被験者として扱われていたシルパの身の安全も確保できる。
 私は、自らの命を絶つことにする。
 唯一の心残りは我が息子の将来を見届けられないことである』
 
 ちょうどぼくが本を読み終えたのと、背後でドアが開いたのは同時だった。
 咄嗟に本を腰に隠しそのついでに膝の上のオルゴールも閉めた。
 「『流浪の民』を聞いていたのか」
 背筋にざわめくなにかが走った。初めて聞く声なのに無性に懐かしく、これまで人と接する機会のなかったぼくの中で長い間眠っていた感情が目覚め、なにも感じなかった手足にまで血が通ったように錯覚した。急に熱で膨張したみたいに胸がいっぱいになって、言葉を返せなかった。
 振り向けずにいるぼくの後ろで男性は言葉を紡いだ。
 「エディック博士も好きだった。……歌詞を知っているか?」
 「…しっ、知りません」
 やっとの思いで返事をした。緊張して掌が汗でじっとり濡れている。
 「少し長いが……」
 と言って、男は突然歌い出した。
 歌唱力はまぁまぁだと思うけど判断基準がないのでよくわからない。だけど低い声はとても落ち着いていて、深みがあり聞いている者の気持ちを穏やかにさせてくれる。
 「――――既に唄い疲れてや 眠りを誘う夜の風」
 あれ…
 どこだろう。なんだか急に胸が締めつけられるような苦しみを覚えた。だけどそれは苦痛と言うよりどこか切なく、だけど身を切られるような思いに喜びを感じるような不思議な感覚。
 「慣れし故郷を放たれて…」
 歌が突然止まった。
 きっとぼくが肩を震わせていることに気がついたからだ。
 ぼくもわからないのに、さっきからずっと涙が止まらなくなっていた。堪えていた一滴がこぼれた途端、もうどうにも我慢できなくなってしまい溢れる涙に身を任せることにした。
 「どうした…まだ歌は終わっていないぞ」
笑いながら、誰とも知れないその人はぼくの肩を優しく叩いてくれた。
 大きな強い手―――…
 ひどく、懐かしい。
 「最後まで聞きなさい。これは、きみの母が愛していた歌だから」
 男は再び歌い出した。今度は耳元で、ゆっくりと語り聞かせるように。
「何処往くか流浪の民 何処いくか流浪の民 流浪の民」
 結局最後まで泣きながら聞いた。目が赤く腫れて乾いた肌がひりひりする。だけど歌詞を思い出すとまたすぐ目頭が熱くなった。
 「ひっく…う…うぅ……」
 静まり返る室内にぼくの呻き声が小さく響く。
 「済まなかったな。これ程感受性が強いとは思わなかった。なにか飲み物を持ってくるから待っていなさい」
 泣きじゃくるぼくに向って心底申し訳なさそうに謝ってから、軽く肩を叩くと男性が身を翻す気配が伝わった。
 「あ…」
思わず後ろを振り向く。
 閉まりかけていた自動ドアの隙間から、燃えるように赤い髪の毛をちらっと確認できた。
 ……ぼくが母のメモ帳を読んでいたことに気づいただろうか? もし気づいたら指摘してくるだろうし、きっと大丈夫だ。そう言い聞かせ背中に隠していた本を再び取った。
 母さんが自らを犠牲にしてまで守ろうとした時計の秘密。叔父さんたちはこれに気づいてしまったんだ。だからこうしてぼくを連れてやってきた。
 だけどもし本当に、過去へ戻ってやり直すことができるなら。今のぼくなら絶対に迷ったりしない。
 だってこんなに後悔している自分を、グリフに見て欲しいから。そして彼にいつものように笑って欲しい。彼が望んだように名前を呼んであげたい。伝えられなかった言葉を、自分の口で伝えたい。
 「ねぇ母さん」
 もうこの世にいない母さんに向って、思い出せる限りの面影を脳裏に描き話しかける。
 「もし死んだとしても、ぼくは後悔しないと思うよ」
 息子の未来を案じてくれていても、ぼくは、この世界に魅力を感じていない。誰に命じられた訳でもないのに、どうして生きていなくちゃいけないんだろう。頼んで産まれてきた訳でも、誰かに望まれて生きていた訳でもない。なら、死に方ぐらい自分で決めたっていいはずだ。
 もしかしてそれを見越して、母さんは時計をぼくに預けたのかもしれないって思えるぐらいに気持は固まっていた。
 時計の針を回すその手に…迷いはなかった。
 
 
 部屋へ駆け込んできたモロトミの表情を見た時、カミヨは事態を悟った。
 「ついに西国とオボマの戦いが始まったか」
 肩を上下させ走ってきた為か鼻先までずれた眼鏡をかけ直すと、落ち着きを取り戻しながら頷いた。
 覚悟していたこととは言え、誰かの口から聞いた事実は重みを伴って胸を締めつけた。
 「ご存知でしたか。未確認ではありますが、先刻西国から密使がきたとの情報があり…」
 「モロトミ」
 窓から高く昇った太陽を見上げ呟く。
 「王は誰も愛さず、そして誰にも愛されないと学んできた。だがわたしは同じ立場にあるツクヨミ王に惹かれていた」
 「…ならば王として命令を。ただし、西国の戦闘能力を考えればこの戦いが決して有利ではないことは明らかです」
 想定内の反応につい卑屈に顔を歪め振り返った。
 逆光に眩しげに目を細めるモロトミを見据え
 「わたしは王として、西国を見捨てると決断した」
 この判断に誰も避難することはできないとカミヨは確信していた。西国は滅びる運命にある。例えそれが初めて心惹かれた人の国であろうと、個人の想いに左右されない王らしい英断と言えるだろう。
 だがモロトミは無言を決め込んでいた。
 眼鏡に光が当たって目の表情がわからないが、きっとこの沈黙の間に多くのことを考え彼なりに収束しようとしているのだろう。
無表情のまま一文字に結ばれた唇から言葉が発せられるのを待つ。
もしかしたら彼は、誰にも突くことのできなかった王の本音を言い当てるかもしれない恐怖と、一縷の期待が入り混じる複雑な思いが胸を占めた。
国の為に愛する人を見捨てたカミヨと、国の為に愛する人を王へ捧げたモロトミのどちらが辛いのだろうか、とお互いの立場を省みて考えた。だが答えなどない。しかし、ゼロからやり直せると信じた恋人たちの未来を奪った憐れな者のことを思うと、やり切れない想いでいっぱいになった。
(そうだ……お前はわたしの気持ちをよく知っている。だからなにも言わずにいるのだな)
チトノアキフトに惹かれていたことも、ジュアンが嫁いできたあの時からずっと悩み続けていることもモロトミは知っていた。知っているからこそ今も彼の下で仕えてくれるのだ。
 「…いつも頭で考えすぎて、重要なことを言わないのがお前の欠点だな」
 「仰っていることの意味がわかりません」
 眼鏡の縁に触れながら無感情に呟く。しかしその視線は揺れていた。
 カミヨは初めて笑みを漏らし、そして再び晴れ渡った空を仰いだ。
 
 
 額を撫ぜるひんやりとした指の感触に、温もりに包まれた心地のよい世界から呼び起こされた。
 重たい頭を押さえ朦朧とする意識を取り戻す。瞬きを繰り返しなかなか離れなかった瞼を目元から引き剥がした。
 「…大丈夫?」
 眉を寄せたナムの心配そうな顔が覗き込む。彼の焦点が定まりナムを捉えると、安堵した表情をつくり傍にいる人々に
 「意識を取り戻しました!」
と報告した。
 全身がやけに気だるく感じながら、アタカは背中に感じていた柔らかい感触を確かめ起き上がった。どうやら気を失ってソファに横たわっていたらしい。
 「!」
座り直してから辺りを囲う男たちに気づき驚く。いつの間にか城の入口で会ったカマスとカヒコの他に目の細い男と、それと意識を失う前に会った赤毛の男が立っていた。
 「そ、そっか。紹介する必要があるね」
 戸惑うアタカを気遣うようにナムがそれぞれの名前を説明し始めた。
 「カマスとはさっき会ったもんね。そしてこっちがハザン。最後にヤヌギ族族長であり、ロッキーヴァス総教会教皇フサノリ様よ。……って言っても覚えてないかな」
 寂しげに笑うナム。その様子はこれまでよりも親身になってアタカを想っているように見えた。いや、実際に心から彼の身を案じているのだろう。実際に研究所で見かけた訳ではないが、彼らがMIZUHAの研究員たちであることは一目瞭然だ。
 (なんせ…唯一の抗体を持ってるんだもんな)
 それだけではないとわかっているものの心は卑屈に歪んでいく。失っていた記憶のすべてを取り戻した今、彼の胸にあるのはもはや二度と会えない友人の面影だけだった。
 無言のまま立ち尽くすフサノリを睨み
「シルパは…俺の名前だ」
と呟く。
 「やっぱり! こいつはシーウェスだったんだ」
 目を輝かせカヒコは隣に立つハザンに喋りかけた。
 「シーウェス……って?」
一番馴染み深いカマスに問いかける。
 「シルパ・ウェスランダ・ヤヌギ。お前の愛称だ」
 あぁ、と納得し再びカマスを仰ぎ見る。出会った時とまったく変わらない、ちょっとしたことでは決して崩さない憮然とした態度。母の弟だと言っていたがあまり似ていないように思えた。
 「気がつけば記憶を失くしてマキヒに拾われた。だけど、どうして…叔父さんたちがここにいるんだよ」
途中からだんだんヤヌギ族たちに対し訳のわからない憤りを感じていた。逃げるつもりで螺子を回したのに、どうしてこの期に及んで再び会い見えてしまったのだろうか。
 「落ち着いて聞いて。私たちは、国家プロジェクトの下に過去の過ちを正しにきたの」
 「…まさか」
ふと母の手記にあった『神童と呼ばれるハザン』の下りを思い出し、見るからに人のよさそうな警戒心のない顔を睨み信じたくない発想を口にした。
 「まさか、お前が完成させたのか…?」
 完成に必要な情報はすべてエディックが処分した。最も重要な腕時計もアタカと共に消えた以上、彼らが時空移動装置を完成させることは不可能なはずだった。
 だが、ハザンは目尻の垂れた目を細め薄ら笑いを浮かべて頷いた。
 「ハハハ。なんせ戦争が始まって急いでいたからね。危険を覚悟の上で完成した装置を使いトラベリングした。その時点で十七人いたメンバーはぼくら五人だけになったよ」
 仲間を失ったと説明する割には彼の表情からは苦悶も悲しみも伝わらない。アタカは表立って明るく振る舞っているものの、ハザンの本性はとても冷徹で残酷なのではないかと思った。
 ハザンに代ってこれまで沈黙を守っていたフサノリが一歩前へ進み出る。そしてアタカを見下すように視界に捉えると
 「我らの目的はただ一つ。ウリを新たなイザナム王とし、王と結ばれる運命にありながら若くして亡くなるシグノの娘ユサを生かし、彼女が後につくることとなるイハヤの森を後世まで残すことだ」
 「イハヤの…森?」
 聞き覚えのある名前を反芻する。研究所で彼をもてなした人々が口にしていた単語だ。
 「四天王時代の後にアサヌキの戦いと呼ばれる人類の大戦が行われるの。汚染された地上から生活の場は地下へ移され、そこで彼女が育てたイハヤの森の苗木が大きな役割を担う。MIZUHAが算出した結果によると、ユサちゃんが生き延びることで私たちの生きる世界にも影響を及ぼすことになっているの」
 「だっからユサは絶対にウリとくっついてもらわないと困るんだよな。って言うか、元々そうなるようになっているんだし、えっと…赤い意図だから、とにかく死なないようにすればいいだけで」
 「…多分漢字の変換間違いをしていると思うから敢えて指摘するけど、正しくは赤い糸だからね」
 「読み方が同じだったらいーじゃん! だっから年増はしつこいって言われるんだよ」
 「あっ? ざけんじゃねーよ!」
 いつのも二人のやりとりを聞いても笑えずにいる自分がいた。
 死を覚悟して逃げてきたのに、辿り着いた先で出会ったのは元の世界の住人たち。なんと皮肉なものなのか、と毒づき頭を掻き毟った。
 (ちくしょう…これじゃあ結局、なんにも変わんねーしグリフを助けてやることだってできないままじゃねーか!)
 装置を完成させたと言うハザンは、さっきから学者らしい被験者を観察するような視線でアタカを見ている。それが気になってアタカもおもむろに彼の顔を睨んだ。
 「俺…多分、一生あんたのことは好きになれない」
 「ハハハハハ。それはさ~優秀な母親を越されてしまうのが怖いからじゃないのかな」
 「なっ…!」
 「ちょーと、待ってよ」
 火花が飛ぶ二人の間に割って入ると、アタカを宥めながら話を戻した。
「シーウェス! よく聞いて。もしユサちゃんが無事にイザナム王になったウリと結ばれたら、ここからは天文学的な数字による可能性の問題になるけど…私たちの世界に、ウィルスは発生しなくなる。つまりそれは選別が行われずに、ディップと罵られユエで暮らす人々も彼らと闘う必要もなくなる。いい? 私たちは全人類の存亡を賭けたプロジェクトに参加しているの」
「で、でも天文学的なって言ったらそうとう望みも薄いんだろ? それに…」
言い淀みながらウリとユサのことを考えた。
運命に決められた二人の未来。きっとウリはユサを大切にするだろうし、ユサもウリには心を開いている。誰も邪魔をしなければ、幸せな家庭を築いていくだろう。
「あのね~…ぼくらのここでの行動はすべて、秒刻みに決められているんだよ。つまりそれは、ぼくらの行動も後の世。つまり本来の存在していたあの時代に反映されていくから。そ~れなのに突然トラベリングして、しかもこの時代の人たちと深い交流をしてしまっているきみは、正直言ってぼくらの邪魔をしているだけだ」
さっきと同じへらへらした態度だったが、ハザンのまとう空気は凍っていた。
 「シルパ…お前、腕時計はどこへやった?」
 重い雰囲気に飲まれ、居心地の悪い視線に煽られ俯くアタカにカマスが話しかける。
 彼に指摘されるまでアタカも、自分の腕からとうに消えていた母の時計の存在を忘れていた。
 「……わかんねーよ」
 腕を五人の視線から隠すとぶっきら棒に呻く。
 「―――ねぇ!」
 突然アタカの手を両手で掴み、ナムは縋るような面持ちでハザンとフサノリを交互に見た。
 「あの時計で移動したのよ! シーウェスの滞在期間ってどうなるの?」
 「そりゃあ…」
と紡ぎかけてフサノリの蒼白な顔を見てカヒコは口を閉ざした。
 連鎖反応的にカヒコの不安は隣のカマスへうつり、ナムとアタカへ伝わる。
 その中で唯一、ただならぬ気配を発していたフサノリの傍らに立っていたハザンが、初めて細めていた目を開き、緑色の眼球で彼らを見渡した。
 「時計を失くしたきみが元の世界に必ず帰れると言う可能性は、数字に直すとほぼゼロに近い」
 「どういう、こと…だ」
 「ハハハ。単独でトラベリングをしたきみに責任があるけれど、わかりやすく説明するなら、きみとあの時代をつなぐものがなにひとつないと言うことになる。ご覧の通りぼくらは全員、ピアス型通信機を持ちフサノリ様のルビーの首飾りがそれを受信している。更にルビーは我々の行動を逐一現代世界へ伝え、一方的にだけど連絡を取り合っている関係にある」
 「だがハザン…エディックが報告した論文によるなら、異物と判断され排斥反応が行われるのではないか?」
 「ハッハ……もちろん、元の世界に戻る可能性は少ないだけで近い時代に返還させられる可能性は否めない」
言っている意味がわからず訝しむアタカに気づき
「わかりやすい説明をするなら、ピアスを釣り糸としてぼくらは針に摑まって川の中に放り込まれている状態だ。目的とする時代にまで釣り糸を垂らして向かうけれど、エディック博士が開発した腕時計型時空移動装置は、目的の近辺へ向って石を投げて移動するようなものなんだよ。移動経緯をすべて時計が記憶しているから、帰還する際はその記憶を辿る」
 静まり返る一同を再び見回しハザンは続けた。
 「時計を失くしたきみはこの時代にいるはずのない不在の人物だ。時の流れはきみを異物と判断し、この時代から排斥しようとする。つまり、いつぼくらの目の前から消えてもおかしくないってことなんだよ」
 
 
 珍しく机に向わずベッドの縁に腰をかけていたウリは、何度目かの溜息を洩らして考えていた。
 昨日帰ってくるなりジュアンは彼の服についた泥を見て驚いたが、雪山で友だちが遭難し助けにいっていたと告げると
 「そぅ…友だちも、あなたも怪我がないならいいけど」
 これで二人の会話は終了した。
 湯浴みをし服を着替えて、ベッドにもぐり込んでも。朝日が高く昇り部屋の中が明るくなり、沈黙の多い食事をとる間も、ウリの頭を占めることはただ一つ。
 (怪我は…大したこと、ないかな)
 頭から血を流していたユサのことが気になって勉強が手につかない。教科書を開いても気がつけば彼女のことばかりを考えていた。
 怪我の具合はどうなのか。痕は残るか。もう、家に帰っているのか……ユサのことを考えていると、これまで無意味に流れていた時間がとても速く感じるようになった。
 「……」
 深くて長い溜息を吐く。
 触れてもいないのに心臓の鼓動が伝わってきた。枕元に飾っていたユサの絵を見詰め、ウリはほんのりと蒸気した頬を緩めて明日、城の近くまで様子を確かめにいこうと硬く心に決めた。
 少しでも早く、彼女に会いたかった。
 
 
 要となるものは、アタカが満たした条件だとハザンは言った。
 「別に謙るつもりもなく事実だから言うけれどね~彼女が開発した装置は、本当に完璧だったよ。きみがこうして心身ともに正常なままでこの時代へ辿り着いたことが結果だ。だからもし時計が見つからなかったとしても、エディック博士が設定した条件さえわかれば、あとはここにある装置を使って、も~しかしたら安全な方法できみを元の世界へ戻せるかもしれないよハハハハ」
 食えない奴だと毒づき、アタカは城門が開けられると同時に駆け出した。
 話をまとめると、時間の流れには意思のようなものが働いており、異物が混ざるとそれを取り除こうと働きかけが起こる。それに対し時計やピアスは、本来の存在すべき時代と体を結ぶ釣り糸の役割を果たし、排斥しようとする時空の流れに飲まれないようにするらしい。
しかし頭の中が混沌としていて―――決定づけられたユサとウリの未来、ヤヌギ族の目的、もう救えないグリフ、いつ消えるかわからない自分と言う存在。明らかになった事実に対しどう対応すればいいかわからなくなった。
 走っていくうちに目尻から熱いものがこぼれ出る。誰の為に泣いているのかわからない。蘇ったシルパとしての記憶は『アタカ』と融合し少しずつ彼に変化をもたらした。
 すべてのものに対し自分の無力さを思い知らされ、抗えない未来に憤り、どこにも居場所のない身の上を嘆き悔やんだ。
 未来にも彼の幸せを望む人はいなかった。それなのに、やっと幸せを見つけたこの時代も、彼の存在を認めてくれなかった。
 (俺は……結局、どこにいけばいいんだよ!)
 「―――っくしょおぉぉぉ!!」
 想いを咆哮に変え、アタカは走り続けた。
 
 
 アタカを帰した後、ナムはなんとなく気持ちが晴れずにいた。研究所から忽然と姿を消したシルパの行方を追って研究所は総力を挙げていた。過去へトラベリングした可能性も考えいくつかの候補地も挙げられたが、結論は移動の際に消滅しているとされた。それだけ過去へ渡ることは危険が伴い、彼女らがこの時代へ辿り着いた際の犠牲がそれを実感させた。
 ハザンはきっと、彼が無事にこの時代へ渡れた『条件』に関心があるに違いないとナムは思った。長年の研究データーが何者かによって消去された直後のエディック博士の死。一時は凍結されたプロジェクトだったが、当時最年少で開発に参加していたハザンは後に独自の製法で装置を完成させた。
 先に完成された形のエディック方式の装置と比べ危険性が高いことが知られている。だがそれさえ目を瞑れば、装置は最高傑作だった。
 「ねぇカヒコ」
 予定していた他国への宣教の行動変更による誤差を埋める為、別の計画を立てる三人を見守っていたカヒコに話しかける。
 元々能力を買われてプロジェクトに加えられた訳ではないカヒコは、難しい討論を始めるフサノリとハザン、カマスの間からすぐに飛び出してきた。
 「なに?」
 「……あの、シーウェスをさ、このまま本当に返してよかったのかな」
 「どういう意味? 拘束しとけばよかったってこと?」
 「そうじゃなくって…」
 言葉に詰まりながらナムは、昨日の雪山でのできごとを思い出して言った。あの時はウリが迷わずユサたちを見つけ出し、さすがは運命の相手だとはしゃいでいたがよくよく考えればその頃からアタカの様子がおかしかった。
 「シーウェスの様子がちょっと違う気がするんだよね。なんか、ん…もしかしたら気の所為かもしれないけど、あの子、ユサちゃんに惚れてるんじゃないかなって」
 「嘘っ! それってやばいじゃん」
 「聞き捨てならない話だな」
 カヒコの大声に気づいてか、それまで討論に参加していたフサノリが話しに加わった。
 「お前の勘は当たる。王がチトノアキフトを気にかけていたことがいい証拠だ。シーウェスのトラベリングで影響が出ている今、これ以上の阻害はあってはならない」
 「あの、私にその役目を下さい! きっと……アタカ、いえシーウェスを説得して彼が移動の際に整えた条件についても調べてみせます」
 「お、俺も参加します!」
慌てて名乗り出るカヒコを鬱陶しげに睨むナム。
熟考した上でフサノリは頷いた。
 「これ以上の支障は不要だ。即刻シルパの帰還へつなげるよう、我々ヤヌギ族はこれより全力を尽くす」
 四人は声を揃えて頷いた。
 だが、唯一人。勘のよいとお墨付きをされたナムだけは、どうしてフサノリがこれだけ一生懸命になるのか漠然とだが腑に落ちないものを感じていた。
 
 
 家に帰りたくなくてアタカはいつの間にか防壁近くの検問所まで走ってきた。
 いつのもなら検問所まで幾重にも折れて列ができているのに、何故か今日に限って人気がなかった。数人の順取り屋らしき人間が見えるくらいだ。
 「アータカァ!」
 列から飛び跳ねる小柄なクロエを認め、そちらへ歩み寄るアタカ。歩きながら、研究所で盗み読んだ書籍の中に西国とオボマ国の戦いが行われた日にちを思い出していた。
 (そう言えば…今日だったのかもしれないな)
 「すっごく久しぶりだよ。最近は海外に手紙って少ないのかな?」
 無邪気に笑うクロエに、塔で暮らしていた頃の自分を重ねて笑いかける。
 (あの時の俺を……グリフはこんな風に見ていたのかな)
 「…アタカ、泣いてたの?」
 赤くなった目を見て首を傾げる。
 「俺さ…」
 先入観も柵もないクロエだからアタカは、口にできなかった想いを語ることができた。
 「好きな、子ができたけど。だけどその子の運命の相手じゃなかったんだ」
 同じ城の中にいると知りながら、できたら顔を見て無事でいるかを確かめてから帰りたいと思っていた。なのにハザンたちの話を聞いて、そんな余裕はどこかへ消え失せた。
 けれど、今こうして改めて考えをまとめてみると、最初に頭に思い浮かぶのはユサのことだった。
 「それに俺は、本当はこの国にいたらいけない……奴で、さ。記憶失くす前にも、友だちが……死んだんだ」
 「友だちが?」
 「そいつがこなかったら、俺。一生あのままだった…!」
 どうして忘れてしまっていたのだろう。喜びも悲しみもすべて、彼が教えてくれたのに。きっと彼に出会っていなかったら、記憶を失くしても、アタカとして生きていてもあの頃と変わらず無感情な人形のままだったに違いない。
 「忘れてなかったら、俺が全部覚えていたらこんなことにならなかったんだ! 俺、ユサが好きだけど…ウリを裏切れない。あいつ、俺たちのことを初めての友だちだって言って喜んでくれたっ」
 喉元まで痞えていたすべてを叫び声に変えて荒々しく肩で呼吸をした。足元に伸びる影を睨み短く息を吸っては吐くを繰り返すうちに、こめかみや眉間に汗が溜まった。まるで気管をなにかで半分ほどふさがれたみたいに苦しくて、うまく呼吸ができない。
 胸が熱くて、まるでそこだけ灼熱の炎が燃え盛っているようだった。
 「……だけど、アタカはその子が好きなんでしょう?」
 真っ直ぐな問いかけに、アタカは息を飲んだ。
 「アタカが記憶を失くさなかったらこの国にもいなかったと思うし、そうするとクロやその好きな子とも会えなかったってことになるよ。それに…運命だって決めつけたら、なにもできないよ! だから運命の相手がいるって思わないで、一生懸命頑張った方がきっと勝つってクロは思うよ」
 「でも俺は―――」
 『未来カラキタ』と口走りそうになってアタカは唇を噛んだ。
 (そうだ…俺、知ってるんだ……)
 どうして記憶を失くしていた自分が何故イチタを見て『お前があのイチタか!』と叫んだのかようやく理解した。イチタは、母の部屋で荒探しをしている時に見つけた本に載っていた、ロードリゲス大陸へ渡った商人の名前だった。後に母国である北の国に多大な資金援助を行うことになっている。
 そして大后妃殿下と出会った、廊下で見た金髪の王子の肖像画に覚えがあったのもその通りだった。彼は見ていたのだ。遠い遥か未来の世界で、今この時代を生きる人々の生き様をすべて知っている。
 「…今日……戦争が起きたんだ」
 握り締めた拳の中で汗が溜まる。
 クロエは大きな目を更に見開け驚いたように辺りを見回した。
 「そうだったんだね! 宴以来だからクロもびっくりしちゃった。……でもどこで戦争があるの?」
 「西国と、オボマ国で…」
 研究所で読んだ文献を思い出し、淡々と感情を込めずに呟く。
 「だけど西国は滅びる。四国が見捨てるんだ。オボマ国を滅ぼす為に今度は三国が同盟をつくって連合軍を派遣する。その間に北では」
 「あ、アタカァ!」
 突然、クロエは彼の胴周りに飛びついてきた。そして顔を押しつけ体を小刻みに震わせながら
 「やめて…! やめてよ! そんな怖いこと言ったらだめだよ! 王様が見捨てる訳がないでしょ? だってっ。だってこの前の宴でこれからも仲良くしようって約束したんだもん!」
 「…嘘……じゃないんだ…俺……知って」
 「嘘だよ! クロは王様を信じてるもん!」
 「……どうして、一度も会ったこともない王様なんて信じるんだよ…。イザナム王なんて、結局、玉座に座っただけで誰も助けてくれない! 王を信じてなんになるんだよっ」
 クロエが顔をくしゃくしゃにして泣きだすのを見て、アタカは耐え切れずに駆け出した。
 どこにも自分の居場所はない。未来を知りヤヌギ族のように助言をすることもできない。中途半端に手に入れてしまった知識は彼を苦しめるだけだった。そしてそれは周りへも伝染していく。辛くて悲しいのは、いつ消えるかわからないのに、少しでも長くこの時代にとどまりたいと思うからだ。
足はいつもの通い慣れた道を辿りビィシリ村へと向かっていく。
 本来の記憶を取り戻した今、果たして本当に彼の『家』だと言っていいのかわからない。けれど染みついた習慣は彼をまっすぐに、丘の上に建つマキヒとイチタの待つ家へ向かわせた。
 
 
 日が暮れてから侍女の一人が部屋へ灯りを持ってきてくれた他に、来訪者はいなかった。ショウキはしばらくユサの話し相手になった後、カヒコに急かされ渋々部屋を出ていった。外で待っていたイチタと肩を並べ笑顔で去っていく彼女を羨ましい思いで見送った。
 一刻も早く帰りたいのに検査をする気配すら感じさせない。
 気がつけば窓の外には月が浮かんでいた。
 (夜なら…人目につかないで抜け出せるかもしれない)
 ふいにそんな考えが頭を過る。都とチノリコ村は道一本でつながっているので、走って家まで戻りあの絵を持ってまた戻ればいい。単純な発想だが、ユサは絵さえ持っていればすぐにアタカに会えると、なんら疑問も持たずに信じ込んでいた。
 幸いにも扉の鍵は開いている。そっと扉の隙間から廊下を覗き込むと、白皙の壁と床は夜なのにどこか明るく人の気配を完全に排除していた。
 「…出かけ…て、きます」
 暗闇に向って話しかけるとユサは堂々と部屋を出ていった。彼女の中で、ちゃんと断りを入れた上での外出となっていたのだ。
 しかし城中を一人で歩き回るのは初めてのことだ。当然のようにユサはすぐに自分が迷ったことに気がついた。
 (あ……でも、この道真っ直ぐいったらいけるかも)
 ところがこう言った風に思いつきで道を決めていくので、どんどん出口から離れていく。何度か侍女と擦れ違ったが、誰もが彼女の堂々とした態度にまさか城を出ていくとは想像もしなかったし、況してや出口とは逆方向を歩くので呼び止めていき先を聞き出す真似もしなかった。
 いくつか戸の並ぶ廊下で、ふと話声を聞きつけ足を止める。部屋の中からカヒコとナム。そしてそれとは別に知らない男たちの声が響いてきた。
 「…ユサにはこれから行儀見習いの教師を身につけて、立場に相応しい振る舞いを教える」
 低いがよく響く声。聞いたこともないが、自分の名前が出たので気になり扉に耳を押しつけた。
 「彼女に事実を話すのはまだ先ですね?」
 ナムの声だ。城内にいる限られた知り合いだけに、ユサも少し安堵した。
 「そうだ。ひとまずこの戦いに終結が着かなければ、アマテル王に結婚の許可をもらう訳にもいかない。だがそれまでの間に完全に彼女を教育しなければ、誰が見てもシグノの娘だと納得させるだけの振る舞いをしてもらわなければ困る」
 (シグノって…誰? どうして、アマテル王と誰が結婚を、するの?)
 「……意味不明だ」
 口の中でぼやき、ユサは再び歩き始めた。
 疑問符を浮かべながら自分に関わるなにか大切なことを相談していたのだろうとは思ったが、それよりも今は、アタカへ絵を届けたい。初めて褒めてくれた絵を渡した時、彼が笑ってくれるか。そっちの方がよっぽどユサにとって重要だった。
 (案外暗い方が出口に近いかも…)
 思いつくがままにどんどん城の奥へ入っていくユサ。徐々に侍女や召し使いたちの姿を見かけなくなってきたのだが、彼女は立ち止らずに進んでいった。
 そして廊下の奥に控える銀色の美しい扉を見つけた。
 青白い宝飾が扉の表面に描かれた月を冷たく彩っている。窓から注ぐわずかな微光を受けて、青や水色、紫と言った冷徹な色合いを集めた宝石たちを輝かせていた。
 「…綺麗」
 ユサは宝石の一つに触れるつもりで手を伸ばした。が、軽く触れた扉は不思議と自ら開き、彼女を新たに続く道へ誘った。
 「あら…最近は珍しくお客がよくくるわね」
 銀色で統一された廊下の奥で、壁にかかる肖像画を見詰めていた一人の女性が振り返りユサを見て笑いかけた。すらりと手足の伸びた金髪の美しい人だったけれど、ユサは華美な装いからしてただ者ではないと察し、戻ろうと踵を返した。
 「もしかして、アタカのお友だちかしら?」
 「アタカ、知ってるの?」
 驚いて戻ろうとした足を止める。
 女性は口角を上げながら頷いた。
 「私のことを聞いているかしら? ピジルク・エリス。この月の間に閉じこもっている大后妃よ」
 「……聞いてない。私はユサ」
 「ふふふ。はっきりものを言う子ね。嫌いじゃないわ、あなたみたいな性格」
 「ありがとう」
 実直なユサの反応にピジルクは口を開けて笑った。
 「この人、誰? 大后に似てる」
 相手のことなどお構いなしにピジルクが見詰めていた額縁の男性を見上げた。同じ金髪を持った二十代ぐらいの肖像だ。なんとなく全体から受ける印象がピジルクと似通っている。
 「名をジブジル王子。私の先祖に当たる人よ」
 「ジブジル…?」
 聞き覚えのない名前だったので首を傾げた。再び質問を紡ごうとしたユサは、ピジルクからの視線を感じて顔を上げた。
 「不思議ね…。この前きた、アタカと言う子はヤヌギ族が絡む子どもだけに、とても澄んだ瞳をしていたわ。まるで相手の心まで透かしてしまうぐらいに。だから私も…つい喋り相手が欲しくて話してしまったことがあったけれど、あなたも、彼に似た瞳をしているわ」
 「瞳? アタカと似てるの?」
少し考え込んでから
「初めて言われた…」
と呟いた。
 「そうでしょうね。あなたはきっと沈黙することで、なにかを見出す種類だわ。けれど彼は全力でぶつかっていく類でしょう。共通していることは、あなたたちは二人とも、目の前にないものを欲しているような眼差しをしている…」
 ふいにユサは、彼女になら自分が持つ悩みを打ち明けていいのではないかと思った。
 「私…アタカが好き。だけど、ウリといると安心する。ショウキは、ウリが、運命の相手だって言ってたけど」
 「あら、やだわ…この私に恋愛相談するのね」
口調とは裏腹にどこか嬉しそうに顔を綻ばせてピジルクは溜息を洩らした。
 「所詮私は、前王の正妻と迎えられたのもかの有名なジブジル王子の血族だからと言うだけ。愛もなにもなかったわ。子どもが産めないとわかった以上、私が縋ることのできるのは血筋だけ。王と結ばれたけれど、それが運命のお相手だったかどうか誰もわからないものね」
 ふふっと手を当てて吹き出し
 「やだわ。あなたにまでこんな話を聞かせるなんて…。国記官のスタントが見たらまた怒られるわ……」
 笑った後にユサを見詰める瞳はどこか淋しげに映った。
 「あなたが今、一番会いたいと思うのは誰?」
 不意打ちを狙った質問に、ユサは咄嗟に頭に浮かんだ人の名前を告げた。
 「アタカ」
 「それが答えよ」
と、ピジルクは目を細め静かに断言した。
「流れに流されないで、自らの足で立って御覧なさい。それがあなたの進む道になるわ」
 両足を見据えるユサの背中を押しピジルクは彼女を扉の向こうへやった。
 「お昼過ぎに遠い異国で戦いが始まったと伝わって、城内は少し騒がしくなっているわ。あなたも戻りなさい」
 「あ…」
 城を出る方法を聞こうとしたが、ピジルクの背後から背の高い白髪の男性が近づいてきたので足を止める訳にもいかなく扉を閉められた。
 再び暗い廊下に追い出されたユサは、途方に暮れたまま立ち尽くした。
 
 
 扉を開けたイチタは、一瞬泣き出しそうな顔をした。それを見て、直感的に彼もアタカがもう帰ってこないのでは、と案じていたのだと思った。
 「…ごめん。遅くなった」
 俯きながら謝るとイチタもかぶりを振り彼を家の中へ招き入れた。
 「母さんが話したいことがあるって」
 「うん…」
 顔を上げてイチタの顔を再び視界に捉える。その瞬間、思わず言葉がこぼれた。
 「イチタ。後で、話があるんだ」
 イチタは少し迷うように目を彷徨わせたが
 「わかった。特別に無料で時間を割いてあげるね」
といつもの調子で頷いた。
 「うん…」
親友の心遣いに胸が締めつけられそうになるのを感じながら、アタカはイチタと共に暖炉の前に座るマキヒの元へ向かった。
 「やっと帰ったかい。夜になると道が固まるから危なかっただろ?」
 「あぁ…大丈夫、だったよ」
 曖昧に答えながらイチタと並んで床に腰を下ろす。彼を待っている間に繕いものをしていたらしく、マキヒの手元には新しくつくられた二人の冬服が置かれていた。
 「私は……二人にずっと黙っていたことがあるんだ」
 溜息と共にマキヒは語り出した。十五年前に、北へくるまで南の国で暮らしていた日々のことを。
 「シグノ様の侍女として仕えていた私は…生まれつき体も健康で、視力も人一倍優れていたんだよ。なんせ多くの本を読んできたことが買われて、姫様の侍女にまで抜擢されたから」
 少し自慢げに過去を振り返ってから、話はシグノの元へ寄せられた縁談に変わった。
 「姫様には将来を誓われた方がいたんだ。ただその御方と言うのが、ただの庶民ではなく、国王に謀反を企み失脚した大臣の御子息だった。当然王様や、今のアマテル王であるイズサハル様は猛反対されたさ。けれどその時、既に姫様のお腹には命が宿っていた」
 時を同じくしてマキヒも子どもを宿していた。相手は同じ城仕えの料理人だった。大きな瞳と愛らしい癖毛が特徴の、イチタによく似た男性だったらしい。
 「以前から時期アマテル王にシグノ姫を、と言う声はあったのよ。実際に姫様の人柄は、私みたいな下賤にまで心を開いて下さる…とても……王族とは思えない程優しいお方だったわ。優しいだけではなく、芯の強いお方だった」
 涙ぐみながらマキヒはシグノとの思い出を少し語った。短い思い出話だけでもどれだけシグノが優れた人であったかは十分に伝わった。
 「姫が逃亡を決意された時、私が身代りになったのよ。ばれたら死刑。だけど私たち侍女は覚悟を決めて協力したわ。その結果……」
 なんとか国境まで逃げたシグノと恋人は、塀を乗り越える直前で兵士に見つかり恋人はその場で殺されシグノは城の地下牢へ監禁された。逃亡に加担した侍女たちは即座に切り捨てられたが、マキヒだけは獄中の彼女の世話を命じられ生き延びた。
 先に産み月がきたマキヒは男の子を出産し、その数ヶ月後に同じ獄中でシグノは男女の双子を産んだ。
 「けれど王子は生れてすぐに息を引き取られた…。産後の肥だちが悪くて姫様も床に伏せられるようになり、私に、生き残った若姫を連れて逃げるように命じられた」
 イズサハルの即位祝いで国中が祭り騒ぎになっている隙を見て、命からがら逃げ出したものの逃亡中に盗賊たちの暴行を受けマキヒは両目の視力を失った。それでも遠い親戚を頼りに北の国へやってきた彼女は、極貧生活を送り断腸の思いでシグノの娘を孤児院の前へ置いていった。視力を失い仕事もない自分に、彼女を無事に育てられるのは無理だと悟ったのだ。
 「孤児院なら国の援助もあるし…なんとか生きてくれるだろうと信じてね。だけど私たちが生き延びることができたら、すぐに引き取りにいこうとして……既に姫様の御子は院から消えていて…。なんとか方々を捜して手掛かりを見つけたけど、もう、ご自分の身分も忘れ生活をしていた。だから私は、せめてもの償いと思って食料とわずかなお金を仕送り続けていたのよ。クラミチと出会ってからは彼に理由は告げずに頼んで、冬ごもりの間、家へ届けてもらっていたりしていたの」
 「その子どもの名前が……」
 イチタの言葉を受け継ぎ
 「チノリコ村に住む、ユサ様だよ」
と頷いた。
 衝撃は思っていたよりも少なかった。ただ、やはり事実なのだと、心のどこかで否定してくれるものを待っていたアタカはそっと瞼を閉ざして唇を噛み締めた。
 「…マキヒ、俺を拾った時。俺の腕になにかついていなかった?」
 「腕に?」
 訝しげに眉根を寄せるマキヒに代わりイチタが答えた。
 「なんにも持ってなかったよぉ」
 「そっ…か…」
掠れた声で呟くとなんとか平静を装ってマキヒを見た。
 「俺、ちょっと疲れたし、もう寝る。おやすみ」
 「ぼくもそうしよぉっと」
 さっさと今から出ていこうとするアタカの後を追ってイチタを踵を返した。
 寝室のドアを開けると、後ろから
 「ゆっくり…休むんだよ」
 と投げかけられた。
 その声に応えようと振り向くアタカ。暖炉の前に座り込むマキヒに、黒髪の縁なし眼鏡をかけた女性の姿が重なって見えた。
 「母さん―――…」
 思わず口走る。
 イチタが素早く反応し、驚いた表情でアタカを見た。
 (なんでっ。記憶は改竄されたはずだろ…)
 咄嗟に視線を逸らしベッドへ向かいながら、こめかみの汗を拭った。
 「腕になにかあったの?」
 蝋燭に火を灯しながらイチタが問いかけた。しかしアタカがなかなか答えようとしないのですぐに話題を変え、城で会ったユサの様子を伝えた。
 「思ったより元気そうだったよ。検査が済んだらすぐに帰れるみたいだったから、明日にでもチノリコ村へいってみようか」
 わざと明るく振る舞うイチタ。本当は自身の胸中も穏やかではないはずだ。
 もっと父親について聞いてみたいことが多くあっただろう。だが、アタカに気を遣って質問を控えたのだと知っている。
 なにが彼にそんなに遠慮をさせるのか。それは、アタカに実の両親がいないからだった。
 「俺さ……信じられない話かもしれないけど、未来からきたヤヌギ族の一人だった」
 ベッドの縁に腰をかけつまらない冗談を言うような口調で語り出した。
 「腕に時計って言う時間をあらわす奴を巻いて、それで飛んできたんだ。だから今の俺は……いつ、どの時代に飛ばされるかわかんねーんだって。それとシーウェスって言うのは俺の愛称で、本当の名前は…シルパ・ウェスランダ・ヤヌギ。アタカじゃ…ない」
 両目を大きく見開いて驚くイチタを一瞥し
 「嘘みたいだけど、本当なんだ」
とぼやいた。
 「ユサとウリが無事に結ばれることで未来がいい方向へ進むから、二人を守る為にヤヌギ族がいる。俺たちの世界は、ウィルスが発生して。それで人類は植民星とわかれて暮らしている。生きているのに、死んでいるのと変わんなくて、俺、あそこで、死んでいるような生活をしてた…!」
 「あ…アタカの言うことは、信じるよ。だけど、だけどどうして、同じヤヌギ族なのにアタカだけ記憶喪失になっていたの?」
 「それは……」
 アタカは躊躇いながらもこれまでの、シルパとしての記憶をすべて話した。国家研究機構で被験者として扱われていたが、抗体が消え記憶を改竄されたこと。母の死と同時に陸の孤島である死者の塔へ送られ死体を焼いて暮らしていたこと。そこへやってきた前歯のない、お節介な友人と彼の死を覚悟したユエとの戦い。叔父であるカマスがあらわれて自分を研究所へ連れてゆき、そこで母が残した手記を読み気がつけば―――記憶を失くしアタカとして生きていたことをすべて明かすと、イチタはいつの間にか目を赤く腫らして聞いていた。
 「だからアタカの前髪だけピンクだったんだぁ。白髪が黒く変わっていった時、気持悪いからぼくが前髪を短く切ってあげたんだよねぇ」
 涙ぐみながら笑うイチタ。
 「あーよかった…」
 「な、なにがだよ」
 「なにって…別にシルパでもなんでもいいけど、アタカはアタカのままでしょぉ」
急に唇を尖らせてイチタは言った。それからポケットから紙幣を取り出すとアタカに握らせた。
 「これ、五十ワルペ。アタカに貸すから」
 「へ? なんで、俺別に…」
 「いいからっ! いつでもいいから、ちゃんとそれに利子つけて返してよ。借り逃げは許さないからね。何年後でいいから倍額にして絶対に返してよ」
 掌でくしゃくしゃになった紙幣を見詰め、胸の奥が熱くなるのを感じた。このまま同じ時代に滞在し続けることは不可能だ。けれど、彼に借金を返すまでは決して離れてはいけない。いつくるか知れないその時を憂えていたアタカは、イチタらしい慰めの言葉に相好を崩して笑いかけた。
 「イチタ…! お前、絶対に将来成功するから! 俺が保証する!」
 「はあぁ? 当たり前だよ。おべんちゃら使っても借金はチャラにしないからね」
腕を組んでそっぽを向くも、イチタの顔はほんのり紅潮していた。
 「お前…なんかちょっとショウキに似てきたな」
 「ひ、冷やかしたって忘れないからねぇ」
 頬を膨らませるイチタを見て、アタカは城から帰って初めて笑った。
 
 
 城の地下にある牢獄の扉が開かれる。薄暗い地下には灯りがなく、兵士が持参した松明が辺りをわずかに照らし出した。
 「クラミチ様がご不在だったがあの、カマス殿がいて下さってよかったよ」
 松明を持つ兵士が後ろから罪人を連れてついてくる仲間へ話しかける。
 「まったくだ。さすがはヤヌギ族。しかしこれで城内に忍び込んだスパイもすべて片づいたらしいし、我々も安心できるな」
 「なぁに。こんな細腕の女になにができるんだ」
 兵たちは背中に回した腕を縄で拘束されたカロルを見て、馬鹿にした口調で揶揄した。
 項垂れるカロルを空いている牢屋に押し込むと
「さぁて、そろそろ夜が明ける。交代の時間だな」
と欠伸をしながら出ていった。
 後に残されたカロルは、壁や床から漂う死体や汚物の腐乱臭に白目を剥きながら嫌悪し立ち上がったまま狭い牢屋の中を徘徊し始めた。
 「まさかこんなはずがありません。イズサハル様に命じられ私が失敗したことなど、これまで一度足りともなかったのですよ! それなのにぃぃあの、あのカマスと言う男が! まだ、まだまだまだまだまだまだ同盟は結んでいないぃのです! 例えシグノ様の御子を次期王に与えると約束したところで、今の王を暗殺する命令にまだ、まだまだまだまだまだ撤回は出ていないのです。そ、それそれそれなのに…愛しいイズサハル様は西国との戦いが予言通りに始まったことに大層喜ばれて、私を、私、私…これまで私に笑いかけて下さっていたのにぃと、とつ、とつっとっととっと突然。この私に向って『ヤヌギ族の前ではお前は無用に等しい』だ、だな、だなんてえぇぇ!」
 大声で独り言を呟きながら徐々に徘徊するスピードが速まっていく。
 「そうです。そうなのです。私を試していらっしゃるんだわ! 私のあ、ああああああ愛の深さを! だから、なんとしてでも王を暗殺、あ、あん、暗殺してもう一度、イズサハル様のああ…あい、あいあいあいあいあいあい愛をっ手に入れなければあぁぁぁ!」
 彼女の絶叫は牢屋中に響き渡り、他の投獄者たちを寝不足にさせたのは言うまでもない。
 
 
 夜明けを控えた空が白み始めた頃、ふと目を覚ましたウリはベッドから起き上がると一階にあるトイレへ向かう為部屋を後にした。普段なら当然静まり返っているはずの家の中が妙に騒がしい。と言っても騒音が響いている訳でもなく、誰かが言い争いをしているような気配が空気を通して伝わっていた。
 階段を降りきって話し声を頼りに居間へ向かう。薄暗い廊下の中で、居間の扉だけわずかな光を洩らしていた。
 「……だから……だろ…」
 聞き覚えのある男の声。時々、家にも遊びにきていた国衛総隊長のクラミチだ。
 「…だ…もう今更そんなことを…」
 対する声はモロトミだった。続いてジュアンの声も響いた。
 低血圧の彼女がこんな時間帯に起きていることにも驚いたが、それよりも何故こんな時にこの三人が集っているのかと訝しんだ。
 扉に耳を押し当てるとクラミチの沈痛な声が聞こえた。
 「モロとジュアンがむかし、愛し合っていたことは知っている。だけど今のお前たちは、上辺だけ夫婦らしさを装ってまったくお互いを思いやっていないだろ。そんな状態ではウリ坊にも悪い影響を与えるし…だからヤヌギ族にもつけ入る隙を与えるんだ」
 「過去は関係ない」
 モロトミははっきりと断言した。
 「けれどあの子を城で育てたいって…確かにそう言っていたの?」
 「そうだ。カミヨに教皇が提案していたのを聞いた。このままでは折角お前たちがウリを育ててきたのに、それも全部無駄になってしまうだろ…!」
 しかし二人の返事はなかった。
 重苦しい沈黙が続く。
 (そうだね。わかっています…)
 扉から耳を離し、ウリはノックをせずにノブを回した。
 明るい光に目を細め、驚愕した面持ちで彼を凝視する三人を見回す。モロトミ、クラミチ、ジュアン、そしてここにはいない…カミヨ。幼少の頃より親しんできた仲間たちの面影を脳裏に焼きつける。
やはり父と母は、かつて愛し合っていたのだと心のどこかで納得しながら、ウリは三人に向って笑いかけた。
「お受けすると、お伝え下さい。ぼくはこの家をでていきます」
「受けるって…! ウリ、それがどういうことなのかわかっているの?」
畳みかけるようにジュアンは問いかけてきた。
寝不足がたったって目の下に隈をこさえた青白い母の顔を一瞥し、
「わかっています。けれど、もしぼくが王位継承者でなかったとしても…これ以上家にいられません。ぼくがいると、お父様もお母様も、笑って下さらないですから」
微笑みを維持して答えた。
 「クラミチ様。どうぞお城の方々にもお伝え下さい。本日中にお伺いするので、何卒宜しくお願い致しますと」
深々とお辞儀をすると大人であるクラミチの方がたじろいだ。
 「あぁ…わかった」
 しどろもどろに頷くとモロトミの方を見て
「取りあえず俺は先に帰るよ。後は家族で話してくれ」
と残して部屋を出ていってしまった。
 ウリは心の奥で『家族』と言う言葉を反芻し、無意識のうちに口元を歪めて笑った。が、すぐに二人の視線に気づくと表情を戻し、元の笑顔を浮かべた。
 「夜が明けるまで時間もありますから荷造りを始めます。一人で城へはいけるので、見送りはいりません」
 後半はモロトミに向って言った言葉だった。
 だが彼は、口角を引き攣らせるとすぐにウリから目を逸らした。
 「……………失礼します」
 頭を垂れ翻そうとした体が、腕を掴まれて立ち止まる。
 「いつの間に、そんな傷を持つようになったの…?」
 振り向くとジュアンが彼の左手首の傷跡を見つけ、問いかけてきた。
 紫色の瞳が涙で潤むのを見てウリは思わず俯き
 「ごめんなさい…」
と呟いた。
 短い間を置いて
 「あなたは…いつも悪くないのに謝るわね」
 顔を上げるよりも早く腕を引き寄せられ、ウリは母の胸に顔を埋めた。
 久しぶりに感じる血の通った温もり。化粧もしていないはずなのに、どうしてかとてもいい匂いがした。
 「悪くないのよ…あなたは、本当になにも悪くない…」
 まるで自分自身に言い聞かせるようにジュアンは繰り返した。彼女の頬を伝って涙がこぼれ落ちてきたが、ウリは必死に涙腺が緩むのを堪えて母の腕から離れた。
 「どうか幸せになって下さい」
 堪えていた涙が床に落ちた。
 小さなシミが広がる足元を見詰めながらウリは断腸の思いで呟いた。
 「ぼくが、いたことも、忘れて幸せになって下さい…」
 耳鳴りがした。ジュアンがなにか口走ったけど、彼女を突き飛ばして部屋を飛び出したウリをモロトミが追おうとしたが音が耳鳴りに掻き消されて聞こえなかった。
 家を飛び出しウリは我武者羅に走った。冷たい夜風が薄着の彼に容赦なく突き刺さる。だけど体に感じる痛みよりも、心に疼く傷口の方がずっと辛く悲しかった。
 夜のうちに降っていた雪が地面を白く覆う。その上に痕跡をつけながらウリは走り、そして道の先に続く壮大なイディアム城を見た。
 ビロードのような青みを帯びた夜空を背景に立ち聳える巨大な居城。歴代王たちの住処として、また国家のシンボルとして栄えてきた城は初代イザナム王が妻の名前を与えたことでも有名だった。
 (―――イディアム城)
 揺るぎない王との信念と多くの犠牲の上に成り立つ美しくも悲しい城。玉座と同じく、その城は常に新たな犠牲者を求めているように見えた。
 「……ユサ…」
 口に出して呟いた途端息ができないぐらい苦しくなった。
 誰かに助けて欲しい。だけど、誰にもどうすることもできない運命の流れに自ら身を投じてしまったのだ。
 「イチタ…アタ…カァ……ウッ、うっう…」
 友だちの名前を口にしながら、ウリは積もったばかりの新雪の上に膝をついて泣き伏せた。
 
 
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