失われた子どもたちの童話集  ――This is the story of Lost children.

青海汪

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第一部 迷路に集う子どもたち

第三話 噂を運ぶ青い小鳥

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―――This is the story of Twins.
 
昨夜からほとんど眠ることができなかったぼくは、深緑のカーテンから注ぐ淡い黄緑の光を睨みつけていた。室内には備えつけのベッドが二つと勉強机が二つ。本棚は壁一面を占拠する大きなものが一つ。これはルームメイト同士で共有しなければいけないものだ。だけどぼくの本はほとんどそこに入っていない。異国の文字で書かれた背表紙がずらりと本棚を占拠する。それらは昨夜から帰ってこないルームメイトの所有物だ。
「…ガドレの始まりかもしれない」
 ベッドの上で膝を抱えると消え入りそうな声でそう呟いた。
 その時、ドアをノックする音と同時に勢いよく扉が開きぼくと瓜二つの顔立ちをしたアイツが飛び込んできた。
 「ハルキ! ベンジャミンは…」
 言葉は途中で途切れた。答えるまでもなく、昨日と変わらないまま朝を迎えた無人のベッドを見つけ事態を悟ったようだ。
 「モーヴィエ、ナルキ」
 一卵性双生児の弟にあたるナルキは目に見えて落胆していた。ベンジャミンと親しくしていたナルキからすれば、彼の失踪は心穏やかなものではないとよくわかっていた。
 「あ、うん。モーヴィエ…ハルキ…夜は眠れた?」
 未だ寝間着姿のぼくを見てナルキはやや気づまりした様子で視線を逸らした。
 「ありがたいことに快適快眠だよ。もうぼくの人生でこんなに素晴らしい夜はないかもしれないくらいにね」
 台詞がかった口調で大袈裟に身振りを添えて答える。こうでもしてやらないとこの胸糞悪い気持ちを弟にぶつけてしまいそうになるんだ。
 「…これって、やっぱりアレなのかな」
 落ち着かなげに脚をモジモジ動かしながらナルキが尋ねた。
 「ベンジャミンはもしかしたら…もう…っ」
 「そんなこと、まだわからないだろっ!」
 「だって! 学園を出たらもうアウトだってベンジャミンが言ってた!」
 覚悟していたことではあったが、いざその時に遭遇してしまうと動揺を隠しきれないらしい。目に見えて身体を震わせ今にも泣きだしそうな顔をする弟を睨みつけ、ぼくは脱いだばかりの寝間着を投げつけた。
 「わっ! ちょっと、ハルキ! 何するんだよ!」
 「ごちゃごちゃって、ナルキはうるさいんだよ!」
 泣きそうな顔をしていたナルキはぼくの剣幕に押され黙り込んだ。
 「お前は自分がどうしてこの学園にきたのか覚えてるのか? 大事になればただじゃすまない。国際問題にだって発展しかねないんだ!」
 それは何かに怖気づく弟に向けた激励というよりも、恐怖に飲まれそうになっている自分自身に向けた言葉だった。ぼくらにしかできないこと。これでも役者の端くれを名乗っているのだから、舞台の幕が下りる瞬間まで「ぼくらの平穏な日常」を演じなければいけないんだ。
中等部の制服に着替え朱色のリボンタイを結ぶと、小さく深呼吸をしてから弟に向かって手を差し伸べる。
 「……っ」
 ナルキはその手をしばらく見詰めると、黙って握りしめて頷いた。その短い沈黙のやりとりでぼくらはお互いの胸の内を悟り覚悟を決めた。
 「ほら、行くよ」
 ぼくらの表情は廊下に出た瞬間に笑顔へ早変わりした。
 「モーヴィエ。ハルキ、ナルキ!」
 「モーヴィエ!」
 ぼくらを慕う生徒たちは多い。特に学園では常に娯楽に飢えている者が多く、些細な笑いでも大切にする風習があった。
 「今日は転校生の歓迎会するから、ツインにはお得意の芸をやってもらうからな」
 近づいてきた男子生徒が冷やかす口調で話しかけた。
 「オッケー。ところで今日は当てられるかな?」
 腕組みをしてぼくら交互に比べる彼に向かって、完全に同じポーズをとって見せた。周囲からも彼らを言い当てようと人が集まってきた。
 「よーし、ナルキは女装がメインだもんな。それだけ脚にも自信があるはずだ! お前がナルキだ!」
 中等部男子の制服は七分丈と十分丈の二種類が宛がわれる。成長期を控える低身長のぼくらそれをごまかそうだなんて卑しい魂胆はまったくなく、普段から七分丈を愛用していた。けれど今日はたまたま十分丈を着ているのだ。
周りの連中も彼の意見に賛成のようだ。一同の感情が高まるのを感じ、ぼくらは目配せを交わした。瞬時に廊下に飾られた一輪挿しの壷を手に取ると、
 「Booooo!」
 と叫び中身の水を男子生徒の頭に向かって投げつけた。大爆笑が起きる中、頭から水を浴びて激昂する彼を抑える群れから離れ、腹を抱えて笑いながらぼくらは寮を飛び出した。
 「さっきのヤンの顔! 見たか?」
 「見た見た! カメラに収めて談話室に飾りたいくらいだった!」
 寮から校舎へと繋がる長い階段を駆け上りながら、ぼくらは高揚した様子で笑いあった。今朝の憂いなど吹き飛ばすかのような晴天を見上げ、清々しい面持ちで校舎へと入っていった。
 「モーヴィエ! ツイン!」
 振り向くとゲンジロウとセトが微笑んで佇んでいた。どうやら彼らもこれから食堂へ向かう途中らしい。
 「お前ら朝からテンション高いなぁ」
 「まぁね。だってぼくらの朝のクイズに」
 「今まで当てた奴がいないんだもん」
 ゲンジロウたちはぼくら先輩にあたるが、彼らには敬語を使わない。特にセトに於いてはバロの孫というだけで周囲からも一目も二目も置かれがちな存在だ。しかしそれ故に一般の生徒との間に格差が生まれてはならないという暗黙の共通した認識があり、また、誰に対しても気さくな態度をとる彼に対する配慮もあってのことだった。
 「一卵性だけあって、見事似てるしなぁ。なぁ、セト」
 「そうかなぁ。よく見たら結構違うと思うけど」
 首を傾げるセトを見てナルキは嬉し気に頬を緩また。そんな弟の姿を見るだけでやさぐれた気持ちが少し和らぐ。彼だけが唯一ぼくらを正しく見分けることができるのだ。
 「ねぇセト、今日の歓迎会は何時にどこでやるの?」
 「ぼくらも歓迎してあげたいのに、まだ転校生を見てないんだ」
 「詳しくは、まだ決まっていないみたい。ベンジャミンの件を各教員たちに連絡している最中だから」
 「あぁ…」
 ナルキは気の重い声を出した。しばらく彼の名前を聞く度にこんな風に憂鬱な態度をとるのだろうと、弟の反応を見てぼくも覚悟した。
 「それでどんな奴がきたのさ? バイのレオが気に入ったってことだけは早々と広まっているけど」
 「レオの好みって東洋人に偏っているよね」
「兄妹だよな?」
 確かめるようにゲンジロウもセトに問う。この四人の中で彼しかまだ転校生と対面していないようだ。昨日寮の入り口でささやかな歓迎を催したらしいが、転校生の到着時間が正確にわからず途中離脱した生徒も多い。本当はぼくらにもお声がかかっていたけれど、ベンジャミンを探すのに忙しくて断っていた。
 「……うん…多分」
短い間を置いてから小首を傾げ、頷いた。
 「えぇ! セトも会ってないの?」
 セトの上着を掴みながらナルキが叫んだ。その様子はまるで母親に縋りつく子どものようで、内面から滲み出る幼さがより一層強調されて見えた。
 しばらく視線を宙に漂わせセトは
「会った……よ」
と、やや曖昧な口調で呟いた。
 「どうせまた、忘れたっていうんだろ?」
「変な所で物忘れが激しいんだから。若年性アルツハイマーの疑いでもあるんじゃないの?」
 ゲンジロウに続きぼくからも一方的に攻撃され、セトは苦笑いを浮かべ後頭部を掻いた。そしてあぁ、と呟くと
 「キサメと同じ部屋だから、一緒に行動してるんじゃない?」
 「いやいやいや! キサメが男と連れ立っている所をぼくらは見たことないよ! いっつも違う女の子といて、その数十メートル後ろにベティがついているから、もうあれは、彼自身が楽しんでベティを奔走させているとしか思えないよ」
同じく片想いをする自身の立場にベティを重ねているのか、ナルキはいつになく憤慨した面持ちで叫んだ。
 「まぁ、あいつの病気は有名だから、付き合う女もそれを楽しんでいる節はあるよなぁ」
 確かに。女性に対しては徹底的に優しいキサメは、基本的に来るもの拒まずだ。だから男女交際に憧れるけれど現実で異性に声をかけるにはハードルが高すぎるから。美形だし最初は慣れた相手と経験しておきたい、と変に乙女の妄想をこじらせた女子生徒たちの受け入れ口になっている節もある。
「どっちにしろ食堂に行けばお目当ての転校生には会えるさ」
 興奮するナルキの肩を叩きぼくは宥めるように優しく語りかけた。珍しくぼくからかけられた温かい言葉に目を輝かせたけれど、その顔を見ながら今日行う歓迎会で弟にどんな女装をさせようか考えた。何故なら教員から生徒に至るまでほぼ全員参加するその会で、ナルキの大好きな片想いの相手も鑑賞するに決まっているからだ。阿保なナルキはその点を忘れているみたいだから絶対に教えてやらないけど。
 
 
 壁越しに賑やかな朝の支度をする音に耳を傾け、私も早々に準備を済ませた。が、ティルはなかなかベッドから出ようとしない。既に起床時間を告げるベルが鳴ってから、長針は数字を六つも跨いでいたけれど、いっこうに目覚める気配すらなかった。
しばらく薄い肩にかけられたシーツが規則正しく上下に動く様子を見ていたが、キッコが迎えにきたので仕方なく部屋を後にした。
キッコを先に歩かせドアに背筋をもたれさせて一呼吸を吐く。気持ちを落ち着けてまだ覚醒しきれていない頭を奮い起こした。これからの学園生活を円滑にする為に、今日は最も重要なのだ。失敗してはいけない。そう、繰り返し言い聞かせながら重たい脚を動かした。
 窓の外から暖かな光が注ぎ寮全体が明るく感じられる。それでも気温はそうとう低いらしく、磨きぬかれたガラスの表面に薄っすらと氷が張っていた。
 「後でシュカが叩き起こしに回るから大丈夫よ」
 歩き出し肩を並べると私の顔を覗き込み囁いた。淡い光が溢れる寮内にキッコの柔らかな笑顔が溶け込んでいく。
 「今日が初日だから緊張しちゃうわ」
階段を下りドアが開くたびに顔を合わせる生徒と視線を交わしながら、そっとキッコに向かって肩を竦めた。彼女も相槌を返しながら物珍しげに私を見る生徒を睨み
「リンコは美人だから、やっかみにもあいやすいのよ」
 頬を染め憤慨するキッコの横顔を一瞥し、本当に私の容姿が彼女たちの関心を集めている訳ではないだろうな、と心の奥で呟いた。ルゲッツと呼ばれる転校生とコルスティモと呼ばれる少女が同室となれば、想像力に逞しい年頃の少女たちなら、昼ドラのような壮絶な物語を想像するに違いない。どちらも共通して、男にだらしない。として捉えられているのだから。
 あながち…嘘じゃないものね。
 自嘲気味に口端を歪めながら、同じ環境下で翠がどのように立ち回っているのかが気になった。きっと彼のことだから何ら心配もなくうまく周囲に溶け込んでいるに違いないけれど。
 出入り口で防寒用の黒いマントを受け取り羽織る。胸元に校章が刺繍されていたが、デザインもとても可愛らしかった。校舎へ続く階段を登りながらキッコは食事について語った。一流シェフばかりを揃えた料理は、バイキング形式になっており個々の食生活に合わせられるのが自慢なのだとか。また各国の習慣や宗教に応じて、一度に何千種類もの食材を使い様々な料理が作られ、校医と学園長の了解を得られたら特別メニューなども選べられる。
 現在キッコは健康食に凝っており年内に十キロは落とすつもりだそうだ。
 延々と途切れのない会話に適当に相槌を打ちながら、すっかり心は彼女を通り越してその背後に広がる美しい景色へ集中していた。昨日は暗くなりちゃんと眺められなかったが多少の雲が太陽を覆い、肌を突き刺すような寒さをまとった風が吹いているものの、なだらかな丘の草の上を白く透明な風が駆けていくさまは絶景だ。
 「今日は珍しく霧が出てないわね」
 手摺りから身を乗り出しながらキッコは涼しげに目を細めた。癖のある長い髪の毛が宙を舞いほんのりと甘い香りを漂わせた。
 「こうすると下の方に湖が見られるわ」
 キッコに倣うと草の向こうに弧を描き続く茶色い塀の向こうから、青く澄んだ湖が少しだけ顔を覗かせた。
 「綺麗……」
 思わず素直に言葉が口を突いて出る。
 「あの青い湖には伝説があるのよ。少しドラマチックな」
 「ドラマチックな? とすると…恋愛絡み?」
 またこの手の話題か、と内心辟易してしまったがさも興味深げに尋ねておいた。
 「そう。古くから伝わるこの国の伝説で、あの青い湖には同じくらい青い瞳を持った乙女が住んでいたの」
 湖の色を思い浮かべながら頷き先を促がす。
「カナムラ教授が…あ、美術の先生よ。とても美人でセクシーなの。そのカナムラ教授が教えてくれたのだけど」
寒くなったのかキッコは赤くなった指をこすり合わせながら続けた。
 「青い瞳の乙女には恋人がいたのよ。けれど恋人とは決して結ばれない運命だった。と言うのも二人が求める世界が違ったから。恋人は永遠の世界を求め、その為に多くの犠牲も厭わないと思っていた。けれど乙女はあるがままの世界を愛し、そこで繰り返される日々の営みにこそ幸せを見出していた。こんなにも考え方が違う二人だったけど、一度出会ってしまえばもう後は燃える烈火の如く……誰にも恋心は止められなかった」
 ホッと溜息を漏らしどこか夢を見るような眼差しを宙に漂わせる。そんな惚けた顔を見ながら、そこまで根本的に考えが違う二人がどうしてそこまで真剣に愛し合えるのか疑問でならなかったが、水を差す考えなので黙っておいた。
 「恋人には世界を変えるだけの力があった。神が地上に残した剣を代々受け継ぐものだったから。その件に関して二人はずっと討論を繰り返していたらしいわ。それがある日、恋人は剣を残して姿を消したの。誰にも行き先を告げず、忽然と……。残された乙女は後悔した。もう会えないのなら、せめて恋人が望んだ世界をあの世でつくろう。そう願って剣を胸に突き刺し死んでしまった。その時流れた涙があの湖になったのよ」
 話しが終わると同時にようやく階段を登り終え、暖かい建物の中へ滑り込んだ。昨夜と比べ校内は活気が満ちている。至る所に生徒の顔を見つけ、賑やかな喋り声が天井でこだましていた。
「……ロミオとジュリエットに似ているわね」
見慣れぬ顔に興味を示す生徒たちから目を逸らし、ぽつりと漏らす。
「そうかしら?」
 「恋人が行方知れずになった時点でもっと探していれば、最悪の展開を迎えずに済んだかもしれないじゃない。ジュリエットが死んだと勘違いしたロミオが後を追って、更にその後追い自殺をするジュリエットよりもたちが悪いわ」
 「随分とシビアな見解ね」
 下唇を突き出し抗議した。その顔を盗み見ながら、私には到底乙女心ってものがわからない訳だわ、と内心ぼやいた。
「意外と現実的な淑女なのだね」
突然聞いたこともない声が背後から響いた。驚いて振り返るや否や、隣でキッコが顔を赤らめ歓声を上げた。
「モーヴィエ! キサメ!」
爽やかな笑顔を向ける金髪の生徒に、今まで見た中でも最高に可愛らしい顔でキッコは挨拶をした。キサメと呼ばれた生徒の脇で翠がやれやれ、と言わんばかりに口元を歪めて笑っている。
「モーヴィエ キッコ。きみも転校生のルームメイトだったのかい? ぼくなんて同じ転校生でも男相手だから…暑苦しくて眠れないよ」
首元までボタンがとめられた襟を引っ張りながら、汗を拭く仕草をした。
「ふふ…残念ながら違うの。でもあたしが、友だち第一号よね?」
はにかむ彼女に相槌を返し私は改めて自己紹介をした。
「モーヴィエ、翠の妹の琳子です」
「ぼくはキサメ。きみの兄上の貞操はぼくが毎晩守ってみせるから安心しておくれ」
「お前こそ少しは慎め」
キサメの脇腹を突きながら翠も笑顔で応えた。そしてすぐに彼に熱い視線を向けるキッコへ声をかけた。
「初めまして。生意気な妹だけど、きみみたいなしっかりした子が友だちになってくれて安心だよ」
「そ、そんなぁ! あたしこそリンコと仲良くなれてすっごく幸せだから!」
翠の営業スマイルにキッコは早くもノックアウトされてしまったようだ。
「食堂に行くのだろ? 護衛がてらご一緒に」
さり気なく翠から離れ間に割って入ると、キサメは私をリードするように少し二人と距離を置いてゆっくりと歩き出した。
前方を行く翠とキッコの背中を気にしながら
「護衛が必要だなんて随分と治安が悪いのね」
 と冗談交じりに話しかけた。
 「きみを狙う輩は大勢いるからね。ご覧よ、リンコに話しかける機会を失って悔しがっているよ」
 「素敵なジョーク」
耳当たりのいい言葉に苦笑し軽く受け流した。
 「まったく…付け入る隙も与えてくれないのだね」
 端正な顔をくしゃくしゃにして笑うその姿はどこか無邪気で可愛らしかった。
 「あら…ただ貴方が私をからかっているんだと思ったから」
「からかう? 本心じゃないと到底言えないよ」
 その慣れた雰囲気から、そうとうな場数を踏んできたに違いないと確信した。ともあれ、とんだ女垂らしだとしても翠の友人という手前あまり無碍にあしらう訳にもいかない。ただでさえ彼が隣に立つだけで、周囲の女子生徒から投げかけられる視線に背筋が凍るようなものを感じているのにこれ以上反感を買うのは得策ではない。
 護衛が必要と言うのなら、いっそのこと私から離れるの一択が最も単純で効果的な方法だと思う。悩んだ挙句ふっと短く息を吐き出すと、口角を上げて言葉を紡いだ。
「キサメの英語はとても発音が綺麗ね。だからどんな言葉を使っても、聞く人の耳に心地よい印象を与えるんだわ」
「ならば辛い勉学の日々に感謝せねばならないね。お蔭でリンコと、こうして話すきっかけができたから」
とキサメは顔を近づけてきた。そんな油断も隙もない彼から一歩離れ
「…だけど女性を口説く時は英語はやめた方がいいかもしれない」
 「何故?」
 小首を傾げるその様子は素直に疑問から生まれているように見える。
 「だって、周りに筒抜けでムードに浸る暇もないわ。愛を囁く時は、恋人の耳元にだけ語りかけなくちゃ駄目よ。例えそれが、明るい日差しの下だとしても」
 一瞬、虚を衝かれたような顔をしてからゆっくりと瞬きを繰り返し頬の筋肉を緩めた。そして先を歩く二人に気づかれないよう、懸命に声を堪えながら爆笑したいのを必死に抑えた。
 「…面白いね! きみみたいなタイプ、初めてだよ」
 白い肌を真っ赤に染め、キサメは恐らく本心からそう囁いた。ひとしきりクックック、という短い声を漏らすと、ようやく波も去ったらしくフゥと大きな溜息を漏らした。それでも少し涙目になっている目元をこすっていた。
 「実を言うと昨日、ガールフレンドを部屋に招いた。勿論ミドリは隣のベッドにいたけどね。それで二人で楽しんでいたら突然、彼が起きてね。そして何をしたと思う?」
 私が答えようとしないのを見抜き、ふふと声を漏らした。
 「ナイトスタンドを消して、ぼくらに向かって平然とした顔をして『おやすみ』って言って眠ったのだよ? ミドリほど肝が据わった子はいないと思ったけど、リンコも引けを取らないね」
 一応褒め言葉として受け取ろうと、愛想よく頷いておいたが今度ばかりはうまく笑えたか自信がなかった。それにしても翠にガールフレンドがいたかどうかは知らないが、よくそんな態度ができるなと感心してしまう。
 さり気なく盗み見た翠の後ろ姿は、楽しげにキッコと喋り続けいつもより遠く感じられた。
 
 
 セトと一緒に食堂に入ると四方八方から声をかけられるのが常だ。彼を慕う生徒は多く男女問わず、また学年の違いを超えてセトは生徒たちから愛されているのだ。
 「モーヴィエ!」
 「モーヴィエ ファルバロ!」
 それらの声に笑顔で応えセトはいつもの指定席へ向かった。
 広い食堂はすべて石造りの内装になっている。城を買い取ってから大がかりに改築されたそうだが、天井から吊り下げられたランプやシャンデリア。一面に飾られた絵画等の装飾品は、前の所有者である貴族のものがそのまま使われドラマチックなムードを演出していた。
そして食堂のシンボルでもある巨大な暖炉の上に、この国に残る古い伝説に基づいた巨大な絵画が飾られている。渦巻く雲の間から伸びる手が、剣を掴みそのまま昇天していくのを、人々が必死に止めようとしている姿が表現されていた。
人物の表情が一人一人細やかに表現され、仕草などにもそれぞれの個性があらわれていた。やや右端に倒れる血を流した乙女を囲い、悲嘆に暮れる女たちの姿も、地面が隠れるくらい覆われた死体の山々も臨場感に溢れた傑作だった。
制作者は不明だが噂ではここの卒業生が作ったものらしい。連なる作品として上座に当たる正面の壁には、剣をモチーフにしたステンドグラスが飾られていた。その足元に教員専用の横長のテーブルが置かれバロの席もそこに用意されていた。しかし彼らが入学して以来、バロがその金色に輝く豪華な椅子に腰を下ろし三度の食事をしている所を誰も見ていない。いかに学園長という職務が多忙であるかを説明する際に、よく「バロの食事を倣え」と引用されるくらいだった。
 教員専用のテーブルから少し離れて監督生たちのテーブルが並ぶ。レオとシュカら姉弟の他に六人の男女の監督生が黙々と食事をとっていた。そして入り口から向かって左に青い瞳に長い黒髪を持つ乙女と、向かい合わせに乙女の恋人の少年を描いたガラスがはめられている。セトはいつも乙女の足元に当たる席に座っていた。
 縦長に並ぶ机に沢山の生徒が腰を下ろし、各々にお喋りと食事を楽しんでいた。暖炉の前で種類ごとに分かれているバイキング料理を選びながら、ぼくは後からついてくるナルキの皿の彩の少なさに溜息を漏らし野菜を加えた。
「えぇ! 食べたくないよぉ」
口をへの字に曲げる彼の皿にはミートスパゲティとパン、ドーナッツが盛られている。炭水化物ばかりじゃないかっ。
「野菜食べなきゃ便秘治らないだろ!」
容赦なく新たな皿に山盛りにサラダを盛ると、嫌がるナルキのトレーに無理やり載せた。一連のやり取りを見ていたゲンジロウも、ぼくと目が合うなり慌てて野菜にも手を伸ばした。
先に席についていたセトを囲むように座る。彼はいつも朝食を食べず、挽きたてのコーヒーを飲んでいた。
 「お腹減らないの?」
 「セトの胃袋は蟻みたいに小さいの?」
 ナルキのとぼけた質問にセトは優しく口元を緩めた。
 「あまり動かないから」
 「動かない割には、いつの間にかどっかにいってるんだよなぁ」
 ホットショコラに口をつけるとゲンジロウは苦々しげに呟いた。彼らは幼馴染だ。日本に住んでいた頃から親しくしており、セトが学園に進学する際にゲンジロウも両親に頼みここに入ったのだと誰かが噂していた。しかし何らかの都合で手続きが間に合わず権力にものを言わせて、つまり裏口入学をしたらしい。本人から確かめた訳ではないが、ゲンジロウの父は日本の有名な政治家だそうだ。
「綺麗だね」
ゲンジロウが持っていた紙ナプキンを広げ嬉しそうに目を細めた。また始まった、とばかりにぼくらは視線を合わせて笑いを堪える。セトの収集癖は有名なのだ。
「紙ナプキンなんて腐るほど集めただろ」
話の腰を折られ苦々しげに顔をしかめ、奪おうと手を伸ばした。けれどセトは素早くナプキンを畳むとポケットにしまいこんだ。
「でもこれは新しい柄だよ」
 「たっく…性懲りねぇ。俺だからルームメイトが務まるんだぞ」
憎まれ口を叩くゲンジロウと楽しげに言葉をやりとるセトの会話を聞きながら、ぼくはそっと教員席に目を走らせた。バロの姿は勿論なかったが、ジャックとその隣にベンバー教授が仲よさげに会話を楽しんでいた。普段ならその横に美術担当のカナムラ教授がいるのだが、今日に限ってその華やいだ姿を確認できず密かに肩を落とした。
「あ、ねぇ、ハルキ。あそこにベティがいる」
 袖を引っ張られ顔を上げる。ナルキの示す方を見ると、女子が集まるテーブルに赤毛を肩まで垂らしたベティが友人と食事をしていた。
やや困り眉顔のベティは、そのどこか頼りない儚げな風貌から同性の支持を多く集めていた。実際には日々のストーカー行為からもわかるように、度が過ぎている激しい一面を持っている。だが、それすらも傷ついて尚キサメを諦めないという一途な態度と評価され女子たちは結託して二人の恋を応援している。
そして彼女がいる所に必ずキサメがいる。二人が別れたのは随分と前らしいが。むしろちゃんと交際をしていたのかさえ怪しいらしいのだが、ずっとベティはキサメを忘れられず彼の後をつけて回っていた。教授たちも最初は困惑していたものの、日常茶飯事となった今では苦笑しながら、彼女が犯罪に手を染めない限り暖かく見守っているしかないと思っているようだ。当のキサメが苦情を言わない限り、恐らくストーカー行為は彼女がこの学園から去るまで行われ続けるのだろう。
ベティが座るテーブルの隣にキサメの後ろ姿を見つけた。その隣に黒髪の少年と、二人と向き合うようにキッコと三つ編みの少女が並んで食事をとっている。
「あれが転校生?」
「可愛い子だね」
長い睫を上下させ、猫なで声でナルキが囁いた。
 「二人とも日本人じゃなかったのか?」
 「日本人…だよ?」
 ゲンジロウの質問に、セトはコーヒーを飲みながらやや間を置いてのんびりと答えた。
 「へぇ……でも、妹の方はハーフっぽいよな」
 日本人らしく凹凸の少ない顔立ちのキッコが隣に座っているから、余計に目立つのだろう。ぼくの席からは横顔しか確認できないが、彫りが濃いように見える。髪の毛も向かいに据わる兄と比べ随分と色素が薄い。
 ふいに教員席の方でざわめきが起こる。ベンバー教授と食事を楽しんでいたジャックが慌てて立ち上がり、カナムラ教授を筆頭に数人の教授を連れ立って現れたスーツ姿のバロを迎え入れた。
 
 
 突然現れた学園長は生徒たちがざわめくのも無視して、ジャックと何事か言葉を交わした。彼の周りに数人の教授とおぼしき大人たちが集まっている。
 「バロが朝に食堂へくるなんて珍しいわね」
 眉を寄せながらデザートを食べるキッコは声をひそめた。他の生徒たちも先程までの賑やかな雰囲気から一変し、顔を寄せ合い低音で会話を始めたので一気に食堂の雰囲気は重くなった。
 「行方不明になったベンジャミンっていう子に関して、何かわかったのかしら?」
 「いやぁ、そうじゃないね」
ローズヒップティに蜂蜜を入れながらキサメは断言した。
 「行方不明ってみんなが騒いでいるけど…これは年間行事みたいなものだからね」
 「行事?」
 翠と声を揃えて問い返す。その答えを彼から聞くよりも先に、壇上に立ったバロが「静粛に」と開口した。
 マイクも拡声器も使わず、あの老体からは想像もできないよく通る声でバロはざわめく生徒たちに向かって両手を上げ静まるように求めた。改めて静寂が生まれると、バロは並び立つジャックに相槌を打ってから一歩前に進み出た。初めて見る黒いスーツ姿の彼からは、生まれついての威厳のようなものが漂い誰もがその圧倒的な雰囲気に飲み込まれてしまった。
 「モーヴィエ、諸君。既に諸君の耳にも届いているかもしれないが、今年も無事にガドレの時期を迎えることとなった。Dina da doo.を合図に、我々は剣を求めに出たパルトロのベンジャミンを称え、そして彼が戻るまで待ち続けよう」
 『Dina da doo.』
 鼓膜に張りついたその言葉。昨日ティル口にしたそれを、まさかバロの口から聞くとは思わなかった。早鐘を打つ胸を押さえ、早くその意味を確かめたくてうずうずした。
 「ガドレの正式な開催時期は詳細が決定次第知らせしよう。従ってベンジャミンはしばらく不在になるが、諸君も温かく彼の帰還を待ってくれると信じている」
 力強く言い切るとふと、強ばっていた頬を緩めた。同時に食堂を覆っていた緊張感も消える。彼の言動が生徒たちの心情に多大な影響を与えているのだろう。
 「そして遅くなったが六時にこの食堂で新たな仲間を迎える歓迎会を行う。会の進行は監督生に任せているので、有志の生徒は手伝いをするように」
 そしてジャックに目配せを送ると、登場した時と同じように大勢の教授を連れて食堂を去っていった。途端静まり返っていた食堂に元の喧騒とした空気が蘇る。誰もが顔を近づけ『ガドレ』という単語を繰り返し使い、頬を蒸気させ熱心に語り合っていた。背中合わせに座る女子生徒のグループが、私たちの方を何度も盗み見ながら喋っている。時折り『ルゲッツ』と言う単語が聞こえてくるので、あまり気分のよい内容でないのだろうけど。
 「ガドレって言うのはね、さっき話した湖の伝説に基づいた学園行事なの」
 私と翠の顔を交互に見ながらキッコは語り出した。気の所為かその表情は先程よりも強ばっているように感じる。
 「剣を置いて行方不明になった恋人の為に、それを見つけて奉納するって趣旨なの。探しに行く人間が最低一人選ばれて消えるの。パルトロって呼ばれて従者って意味の名誉職なんだけどね。そして剣を携えたパルトロが現れ、儀式の…ガドレの始まりを告げるの」
 「それも国に伝わる伝統なの?」
 「そう。まぁ日本でいう学園祭みたいなものよ。学校中がお祭り騒ぎになるわ。飲んで歌って騒いで……普段の鬱憤を忘れるには絶好の機会よ」
言葉とは裏腹にキッコの表情はあまり明るくはない。唇を閉ざすと何かに怯える小動物のように、一点を見詰め黙り込んだ。
何が彼女をそれほど脅かせるのだろうか。思案に暮れながら宙に視線を漂わせると、ふと翠と目が合った。
数秒の沈黙。
黒縁の眼鏡越しに鋭い眼差しが向けられ、そこから発するメッセージを受け取ると、顎を少し引いて合図を送った。
「楽しみだわ」
声の調子に気をつけながら、心からこれからの学校生活を楽しむように頬を緩めた。
「その行事には全員が参加するんでしょう? 勿論、教授たちも」
「え?」
虚を衝かれたようにしばらく絶句すると、慌てて首を縦にふった。そしていつもの笑顔を取り戻す。
「バロもこの行事には率先して参加するわ。一大イベントなのよ」
「本来、ガドレはパルトロが剣を手に入れる代わりに、その命を差し出さなければいけないものだったけれどね」
いつの間にかナプキンに私の似顔絵を描いていたキサメが、鉛筆を握りながら冷ややかに呟いた。そして私と絵を見比べると、うん、と頷くとそれを手渡してきた。
「わぁ!」
一緒に覗き込んだキッコと一緒に感嘆する。ラフスケッチだが的確に特徴を捉え、紙面からもうモノクロの私が微笑んでいた。
「ずるいわ! あたしにも描いて」
「じっとしておいてね」
再び紙面に集中するとあっという間にキッコの似顔絵を描いてしまった。
キッコと画面に描かれた彼女の横顔を交互に見詰めながら「こんな才能もあったのね」と呟くと、その裏にあった感情を悟ったのかぷっと翠が吹き出した。少し鋭い目を細め食堂の脇に飾られた女性の彫像を指差し
「あれもキサメの作品だよ」
ただの女垂らしかと思っていたけど、遠目にも完成度の高い彫像に改めて見直してしまった。
 「ぼくが生徒会に入った暁にはもっと授業を減らして、こうして自由にできる時間を増やしたいね」
鉛筆を片づけながら白い歯を見せて笑う姿は素直な彼の本心の現れのように見えた。
紙面をうっとりと眺めていたキッコが、突然顔を上げた。
「あらま、キサメってば生徒会に立候補するつもりなの?」
 「まぁね。次の選挙まであまり日がないから、慌てて票集めをしているのさ」
 「生徒会は今、活動していないのか?」
 「夏休みを前に一度解散するのだよ。そして秋に選挙をする。高等部の先輩方は受験を控えているからね。生徒会を再結成するまでの雑務を、監督生たちが賄う訳だけど、実際はほとんどが監督生から生徒会が選ばれるから組織の役割としては変わらない」
彼が生徒会長になったらきっと学内の風紀が乱れるに違いない、と確信しながら自ら立候補するキサメに、キッコと一緒に感心するふりをした。
「そういえば、さっきバロが言っていた合言葉は…」
 「Dina da doo.」
 すかさずキサメが再現した。
 「確か…錠をかけて鍵は飲み込みなさいって意味よね」
 「それがどうガドレに関係するんだ?」
と翠が訪ねた。
 「パルトロが剣を見つけるまでガドレは行えない。学校側がいかに剣を用意し、隠しているのか知らないけど、もしぼくらがパルトロよりも先に剣の場所を知ったとしてもそれは誰にも漏ら
すなって言う、いわば集団意識を持たせる為の合言葉だよ」
 「ねぇ、もしもパルトロが剣を見つけられなかったらガドレはどうなるの?」
 少し間を置いてやや戸惑いの色を浮かべながらキッコが口を挟んだ。
 「過去に一度だけ…そんなことがあったらしいわ。でも、もう…むかしの話だし、詳しくは…」
と言いながらキッコは同意を求めるようにキサメを見た。けれどキサメの視線はしばし彼女を越えてその向こうへ注がれていた。その表情から何かを察した翠が突然席を立った。
 「これからカリキュラムの登録へ行かなくちゃいけないんだ。彼にも付き合ってもらうから、失礼するよ」
ようやく我に返ったキサメは翠を見上げると、口元に笑みを浮かべ困ったように肩を竦めて見せた。
 「そう、でも六時にまた会えるわね。あたしたちも後で登録に行こうね」
 食後のデザートにフルーツの盛り合わせを食べながら、キッコは名残惜しそうに翠らを見送った。
 「やっぱりミドリってかっこいいわね」
 満足げにフルーツを頬張るキッコに笑いかける。すっかり冷えきってしまったが香りのよい紅茶を啜った。ふいに背後で空気が動くのを感じ振り向くと、隣のテーブルに座り背中を合わせていた少女たちが立ち上がり私を見下ろしていた。私と視線が交わると言葉以上に目で語って去っていった。
中でも赤毛のストレートの髪を肩まで垂らした少女は、食堂を出るまで私から目を逸らさずにいた。端正な面立ちにガラス球のような瞳は、ただ私を観察していただけではない不穏な気配を感じさせる。
 「あっちゃぁ~」
 彼女たちが消えるとキッコは大きく溜息を吐いた。
 「いつの間に近づいてきたのかしら。だからキサメも驚いたんだわ」
 「誰なの?」
 「赤毛の子がベティっていって、キサメがむかぁし付き合っていた子よ」
 キサメの後を追うベティの噂話を聞きながら、新たな警戒心が生まれた。周囲にいる生徒の視線が恐ろしい。いつ、どこで誰が、私たちの会話に聞き耳を立てているかわからない。こうして何気ないお喋りから、何が伝わっているかさえわからない。
膝の上で握り締めた掌にじわりと汗が湧く。辺りに響く騒然とした空気に飲み込まれそうになりながら、私は敵軍にただ一人放り込まれた迷子の気分になった。
 
 
 学園長室に置かれた巨大な机の上には、様々な書類が綺麗に整理して並べられていた。そのうちの一枚を手に取り王家の紋章入りの正式な書面をこちらへ向けると、バロはようやく口を開いた。
 「ベンジャミンの身柄については、すべて一任されている」
 その傍らにはまるで王の忠実な配下の如く、ジャックとカナムラが佇んでいた。彼らの前に立つ『ぼく』は玉座の前に引き出された哀れな罪人の気分だ。ベンジャミンなんてどうでもいいし、早く外に出て遊びに行きたい。城の外はとても晴れていて清々しい青空まで広がっている。
 「しかし既に生徒たちの間では様々な憶測が広まっている」
 言外に『ぼく』の失態を責める言葉に、つい窓の外へと逃げていた視線も再びバロの元に戻っていく。
 「彼の処遇はこちらで検討しよう。きみは…いつものようにしていなさい」
そう。これはいつものことだと言わんばかりにバロは答えた。そして『ぼく』も、いつものように反抗も服従も見せるでもなく部屋を後にする。
「あら…」
扉を出た所でドクター・アンジーに出くわした。彼女は『ぼく』に気づくと小脇に抱える書類の中から冊子を取り出した。
「こんな所で出くわすとは思わなかったわ。続編を書いてみたのよ。よかったら読んでちょうだい」
タイトルのない冊子の中身は一人の男子生徒を主人公にした台本だった。パラパラとその中身を流し読みしながら歩くと、ひどく印象的な台詞が心に突き刺さった。
『消えないまま、何も変わらないまま。本当に王国を出られるのは、鍵と錠を持つ者だけだから。Dina da doo.それの本当の意味を知る人は、どこにもいない』
―――だって、それは残らないから…
 
 
キッコと並んで食堂を出ようとした時、女子生徒の一人に声をかけられた。色黒の彼女は私の存在を確認するも、挨拶もそこそこに声を潜めてキッコに何事かを話しかけていた。
明らかに私を敵視した態度に居心地の悪さを覚える。話が長引くようなら別行動も視野に入れて考え始めた頃、キッコが困った様子で溜息を漏らした。
 「…仕方ないわね」
そして振り返り私の方を見ると
「リンコ、ごめんなさい。今日の歓迎会の手伝いを頼まれちゃって…」
 「気にしないで。一人でも学内は回れるから」
「ごめ…」
話の途中でキッコの腕を無理やり引っ張ると、女子生徒はまるで汚らわしいものを見るような目つきで私を睨んだ。
 「あんな子、放っておきなさいよ」
 半ば引きずられるようにして去っていくキッコたちのその後ろ姿を見送りながら、静かに積み重なっていく不条理さに苛立ちを抱いた。
一人になった途端背後から聞こえる食堂の喧騒がよけいに気になり、踵を返すと早歩きでその場を去った。行くあてはない。けれどカリキュラムを登録しなくてはいけない。昨日渡された資料の中には学内の見取り図がなかった。もう少し早く出ていれば翠たちと合流できたのに…と悔しく思うが、誰かを頼りにしなければいけない自分にも嫌悪した。広い廊下に響く足音も無性に腹立たしい。イギリスでも言葉と文化の違いには苦戦したものの、こちらが敵意を持たずに接していれば相手も心を許してくれた。それなのにどうしてここでは、こんなにも一方的に攻撃をされなければいけないのだろう。何よりも何故、私たちのことが転校してまだ一日しか経っていないというのに、こんなにも早く多くの生徒が知っているのだろうか。
いつの間にか廊下を進み突き当たりについていた。右手の階段から生徒たちの笑い声が聞こえ、上の踊り場からは男子生徒の野太い話し声が響いていたのでどちらへも進む気にもなれず立ち竦んだ。
すると男子生徒の声がどんどん近づいてきた。もしかしてこちらへ向かってくるつもりなのだろうか。軽い焦燥に駆られる。もう一度廊下を戻って別の通路を使おうかと思ったその時、窓際に飾られていた肖像画の瞳が動き私を捉えると、ただの壁だと思っていた一角に四角いラインが浮かび上がった。
「どうしたの?」
隠し扉からセトが姿を現した。言葉を失いその顔を凝視する私を、心底不思議そうに見詰め返すと楽し気に口元に笑みを浮かべた。
 「もしかして迷子になった?」
 「……っ」
同時に涙が堰を切ったように流れ出る。ずっと我慢していた感情が堪えきれず、突然隠れ扉を使った不意打ちの登場にも戸惑い、整理しきれない想いが透明な液体に変わって溢れた。
 呆然とただ純粋に戸惑うセト様子に、急に恥ずかしく思え踵を返して立ち去ろうとした。が、先程の男子生徒たちの影が壁に大きく映し出されている。
 「きて、こっち」
 恐ろしく冷たい手で私の手を握ると、セトは回転ドアを押すと中へ素早く隠れた。扉が閉まると同時に辺りが真っ暗闇に飲み込まれたように感じた。
「足元に気をつけて。階段を上る」
徐々に目が慣れてくると、そこが校舎の城から伸びている円錐状の塔の内部だと察した。
 しばらくセトに導かれるようにして階段を上ると、小さな扉が待っていた。セトが扉を開けると中から眩しい光が溢れだす。
塔の先端部に作られた小部屋らしく、頭上にはいくつもの梁が埃を被って納まっていた。石造りの壁には沢山の傷跡が残っており、足元には子どもの落書きと思しきものも多数あった。
 私の手を離すと埃っぽい空気を換えようと小さな窓を開けた。冷たい風が一挙に押し寄せてくる。勢いのよい風に吹かれ私の涙もすぐに乾いた。
 セトは何も聞かなかった。むしろ、こちらへ向ける後ろ姿は、既に私にも関心をなくしているようでもあった。窓から身を乗り出し風を受ける彼の視線は遥か遠くにある。
 「………ここは、貴方の秘密の部屋なの?」
 足元に散らばる山積みにされた本を見渡し問う。様々な言葉で書かれた本は、どうやら童話のようだった。随分古いものもあり紙面だけではなく表紙も汚れカバーも破れている。
 「違う」
 短く否定する。続く言葉を待ったがいくら経っても彼は答えなかった。
 「じゃあ…この城の持ち主だった貴族の…?」
 「……バロの、息子のだよ」
 「息子?」
 つまり彼の伯父か叔父に当たる人物のもの。それにしてもどうしてそんな人が、この部屋を所有しているのだろう。
 「死んだから、もらったんだ」
 まるで私の心を見透かすように彼は言葉を紡いだ。
 「元々この城はバロの息子が受け継ぐはずだった。だけど死んだから、ぼくが成長するまでバロが支配している」
 所有ではなく『支配』と言った。淡々とした口調なのに、何故かその支配下にいる憎しみを感じて私は妙な緊張感を覚えた。
 「ねぇ」
 黙り込む私に初めて振り返って言葉をかけた。逆光で彼の表情が読めない。眩しい光を背に佇む姿は聖人のようでもあったが、顔の見えないその姿は潜在的な恐怖を呼んだ。
 「名前は?」
 思わず虚を衝かれ口を開けたまましばらく絶句した。バロに紹介された時、挙動がおかしかったし覚えていないだけかもしれない。そう、自身を納得させると
 「リンコよ」
と改めて名乗った。
 「リンコはメール・ヴィ学園が嫌い?」
 その挑戦的な口調にふと違和感が残った。さっきまでの無関心と言いたくなるくらい、無反応だった彼からは想像できない迫力に負けつい視線を逸らせる。それでも一方的に向けられる眼差しが痛いほど伝わってきたので、背筋に冷や汗が浮かんだ。
 「嫌いじゃないわ…」
射抜くような視線に居心地の悪さを思いながら言葉を選び
「ただ…馴染まなくちゃ……。もう、他に行く場所もないもの」
 心から私を迎えてくれる人はどこにもいない。母国でさえ大切にしていた『家族』の思い出と、裏切りに苦しんだ過去の記憶しか残っていない。ふいに胸が熱くなり涙が再びこぼれ出そうになった。言葉にかえて改めて思い知らされる。
 ―――私には帰るべき場所は、ないんだ。
 『家族』という関係を放棄した時から本当は覚悟をしていた。私を憎んでいる翠と、父親を明かさない母と共にこれからの思い出を作るなんて無理だ。同時にそのリスクも考えていた。誰にも邪魔をされない自分だけの人生を歩きたくて、逃げてきたのにどこまでもついて回る卑しい自分の出生がそれを邪魔する。
「……」
俯く私の元へセトが歩み寄ってきた。潤んだ視界に彼の線の細い姿を映し、僅かに開かれた唇の間からこぼれる言葉を待った。0
腰近くまで垂れていた三つ編みを手に取ると、おもむろに接吻をした。
 心臓が大きく飛び跳ね早鐘を打つ。彼が触れた毛先が急に熱を帯びたように感じられ目まぐるしい感情に左右される。混沌とする頭の奥で激しく警鐘が鳴り響いた。正体の知れない不安が蠢く。けれど三つ編みを離すと形のよい唇を上げ笑顔を作るその様子に、他意はないように感じられた。
ガラス玉のような瞳が優しげに細められる。
 「……ぼくらは仲間になれる」
 耳元に残る穏やかな声。それは鼓膜に貼りついて何度もこだました。
 
 
 野菜嫌いのナルキがサラダを食べ終えるのに随分と時間がかかってしまい、途中でセトたちは席を立ってしまった。せっかくカナムラ教授と話ができるかと喜んでいただけに、ナルキの所為でチャンスを逃してしまったことがひどく悔やまれた。
しばらくぼくのご機嫌取りをしようとするナルキの呼びかけも無視をしていたが、廊下の暗がりからこちらへ歩いてくるジャックに気づくと無理やり笑顔を作った。
 「モーヴィエ」
 数歩離れた所でジャックが挨拶をする。
 「モーヴィエ」
ぼくらも声を揃えて応えた。穏やかな笑顔がゆっくりと近づき、彼はおもむろに手にしていた冊子を手渡してきた。
「ちょうどよかった。次の舞台の台本です。貴方たちに渡しておくようドクター・アンジーから頼まれていました」
「―――…あ、ありがとうございます」
意図せず思わず声が上擦った。ベンジャミンが消えてしまったこのタイミングで、顧問でもないジャックから渡された台本。演劇部顧問であるドクター・アンジーが普段の業務の傍ら趣味で書いている戯曲を、ぼくらが舞台化して上演するのは普段からよくなされていたことだ。
何かが変だ、と胸がざわめく。笑顔で去っていくジャックを見送り周囲に人の気配がないか確かめながら、ぼくらは大切なはずの台本を隠すようにして制服の下にしまった。ナルキもそれに気がついていたが敢えて顔を逸らしていた。しばし気まずい空気が二人の間に流れたが、おもむろにナルキからそれを打ち壊しにかかった。
 「これ…これね結構美味しくできたクッキーなんだよ。ぼくの新作」
 ナプキンで包んだ小さなクッキーを差し出した。その中の一つを取り出し眺めてみる。うん、焼き加減も匂いも合格だ。だけど形が少しだけど歪だ。
 「ここが崩れてる。例え試作であっても完璧を目指さなきゃダメだってお父さんはいつも言ってただろ」
 ぼくらの父は各国の王室御用達の超有名店を運営する。世界の美食家が愛用するミシュランガイドに連続掲載される常連店だ。そんな父親が息子たちをここへ入れた最大の理由は、世界屈指の腕を持つ料理人たちが揃えられた食堂で作られる最高の食事を味わい味覚を育てることにあった。つまりいずれかを己の後継者に考えているのだ。特にナルキはそんな父の要望に応えようと、こうして日々菓子を焼いてはぼくに酷評されていた。
「うん…」
 項垂れる弟を見てようやく食堂での一件について溜飲を下げ、ぼくは口元を緩めた。そしてクッキーを一口齧りその味や舌触り等を確かめた。
 「粉を変えた? 砂糖も前とは違うね」
 するとナルキは目を輝かせて「うん!」と叫んだ。
 「ニューニア地方の、ルカッカの種類の粉だろ。それならカカオがもっと少ないやつを選んだ方がいいな。それに甘すぎる。こんなの好むのは舌の馬鹿な子どもだけだよ」
 辛口という自覚はあるけれど、実際には的確なアドバイスだと自負している。ナルキが将来本当に父の跡を継ぎたいと思うなら、まずはぼくを納得させるだけのお菓子を作れるようにならなきゃ話にもならないんだ。
ナルキは肩を落としながらも頷き反省の意を示した。そして残ったクッキーをナプキンに包みポケットに戻すと悲しげに睫を伏せた。そんなまるで飼い主に捨てられた子犬のようにしょげ返る弟の様子に少し言い過ぎたかな、と後悔したその時。
 「そこ、どいてくれない?」
 威圧的な口調にぼくらは同時に振り返った。彼らとほぼ同じ目線の先に、険を宿した黒い瞳が睨むように待っていた。ナルキの想い人のユンファだ。ショートカットがよく似合う外見は可愛らしさを併せ持っていたが、その頭脳は学園でもトップレベルを誇っていた。こうした成績上位者たちは年齢に関係なく、ぼくらとは別の棟を使い英才教育を受けているので普段から顔を合わせることはまずなかった。
 「あ…えっと……」
 赤面し硬直するナルキを尻目に捉え溜息を吐く。情けなるような醜態を晒す彼の腕を引っ張り、苛立つユンの進路から退けてやった。
 「久しぶりだね、ユン」
 「あ、あのさ…ぼ、ぼくが作ったクッキー…うまくできたら食べて」
 交互に見比べぼくらを値踏みするように睨むとユンは冷ややかな態度で答えた。
 「お菓子ならもらうまでもないわ」
彼女も大概の生徒と同様に脇に抱える教科書と一緒に、学園が用意したお菓子を入れた小さな缶を持っていた。そしてもう話すことはないと言わんばかりに前方を見据えると、ぼくらに一瞥もくれず歩き出した。
 「……性格悪いよなぁ」
 最低限の礼儀として後ろ姿が小さくなるまで待って、ぼやいた。するとすぐさまナルキが反論してきた。
「そんなことないよ!」
と叫んで延々といかに彼女が魅力的な女性であるかを語り始めた。
恋は盲目とはよく言ったもんだと呆れ気味に溜息を吐く。そっと肩を竦め、興奮するナルキの手を繋ぎ歩き出した。
「ユンはお姉さんが行方不明になって、可哀想なんだよ。あんな風に愛想は悪いのも、本当は悲しいからだよ」
「そのお姉さんっていうのもパルトロに選ばれてそのまま帰ってこなくなったらしいけど、彼女が帰えらなかったのは本人の意思だって聞いたよ。ルームメイトが消える数日前から様子がおかしかったって証言していたらしいし。だいたい、もう何年も前の失踪なんだからいい加減気持ちの区切りぐらいついてるでしょ」
「でも、それでも突然、家族が消えたら…残された家族は悲しいよ」
睫を伏せ黙り込むナルキの横顔を見ながら、ユンの姉が行方不明になった当時に流れた噂の一つを思い出した。ユンと九つ年が離れた姉のチュチュは、バロが隠し続けた秘密を知ってしまいそれ故に殺されたというものだ。推理小説好きの生徒が集まって考えた、ただの妄想から発祥しただけかもしれない。けれど七年という歳月が噂に尾びれをつけ、誇張されてしまったとしても一人の女子生徒が消えそれに対し誰も学校に抗議をしなかったことだけは事実だった。
 ぼくは制服の下に隠した台本の硬い感触を指先で確かめた。バロの息がかかっているジャックを介しこのタイミング渡されたということ。何気ない日常の中に潜んでいるメッセージを受け取り、そこから推察していかなければいけないんだ。
役者が変わればシナリオも当然変更せざるを得ない。常に小さな出来事からガドレという大舞台に至るまで。学園で行われるイベントにはバロの望むシナリオが用意されている。
王の命令には従わなければいけない。それがここで生きていく、ただ一つの方法。察しのいい生徒たちなら急遽選ばれたパルトロに存在に疑問を抱き、そして察するだろう。ベンジャミンという役者が抜けた穴埋めを誰かがしなければ劇は続けられない。観客に役者が変わったことにも気づかせないように、ひっそりと確実に。この学園という物語を延々と紡いでいく為に。
「あっ! セト!」
 勢いよく駆け出す声で顔を上げる。廊下の向こうから歩いてくるセトの傍らに、琳子の姿があった。驚いたナルキも思わず数歩手前で立ち止まり、繁々と長い三つ編みを垂らした転校生を見詰めた。
「紹介するよ。転校生のリンコ。事務まで案内していたんだ」
穏やかに微笑むセトにつられてナルキも小首を傾げて笑顔になる。しかしそれは本物の笑顔とは程遠く、普段の彼を見慣れているものならば即座に作りものだとわかった。
わかりやすい弟の胸中を察しぼくは転校初日から流れた膨大な量の噂を反芻した。
『転校生の父親がこの学園にいる』
それが教授を慕う女子生徒たちから猛烈な怒りを買ったのは言うまでもない。父親候補として学園で最も人気のある数学のベンバー教授が上げられたのだからそれも仕方ない。
―――あぁ、だから食堂でゲンジロウが驚いたんだ。ハーフのベンバー教授の子どもだとしたら、目の前に立つ転校生の容貌にも納得がいった。
「モーヴィエ、リンコです」
セトと並んでも少しも見劣りしない容姿。天性の魅力を持ち合わせた二人が揃う光景は、レオではなくとも見惚れてしまうものがある。
「モーヴィエ」
声を重ねて挨拶すると琳子はやっと緊張した態度を崩した。
「右が兄のハルキ。左が弟のナルキ。二人とも中等部の二年だよ」
相槌を返し大きな瞳を交互にぼくらへ向けた。まるで鏡に映ったようにそっくりなぼくらを見分ける特徴を探るような、そんな真剣な眼差しだった。
「ツインは今日の歓迎会で、例の催しをやるんだろ?」
「そう!」
 とナルキが飛び跳ねた。そして早くも彼は役になりきり琳子の腕にしがみつくと甘えた声で答えた。
 「ぼくがリンコに変装するんだよ! それでね、ハルキが声真似をするんだ」
 「馬鹿! ネタをばらすなよ」
 「あっ」
ナルキはしまったとばかりに慌てて口を両手で塞いだが、琳子は目を輝かせ反応した。
 「私の口真似をするの?」
 羨望の眼差しを向けられ悪い気もせず、僅かな照れも感じながら頭を掻くとぼくは今しがた聞いた琳子の声を完全に模倣した。
 「『口真似じゃない。声を真似するんだよ』」
 「すごい! すごい! そっくりだわ」
手を叩いて絶賛すると同意を求めるようにセトを見た。琳子の視線を受けとめ優しく頷いた。
 「ナルキの女装も楽しみにしておくといいよ」
 「えぇ、本当に楽しみだわ」
 「ところで、ツイン。モリアを見かけなかった?」
 「モリア?」
 ぼくらは再び声を重ねて問い返した。大人しくあまり目立つ性格ではないぼくらの一つ先輩にあたるモリアの顔を思い浮かべながら、またしても同時に首を横に振った。そんなぼくらのシンクロ率に琳子は肩を小刻みに震わせ笑いを堪えていた。
「ありがとう。それじゃあリンコを案内してくるよ」
 「歓迎会、楽しみにしてるわ」
 猫のような瞳を細め琳子は手を振った。その姿はとても自然で、男なら誰彼構わず手をつける噂のようなイメージは微塵もなかった。
手を振りながら歩き去っていく二人を見送る。窓から注ぐ光が作る廊下の暗がりを歩き、少しずつ離れていく様子をしばらく眺めてからぼくらも足を動かした。狭い空間に閉じ込められていると、みんなゴシックに飢えるようになる。ここでは転校生など格好の餌食だ。それ故に時に事実に反する話も浮上してくるのだろう。
 「セトが認めたくらいだし、きっといい子なんだね」
「まぁ噂よりは、ね」
 「あれ?」
不意にぼくの顔を覗き込みナルキは目を大きく見開けた。
 「ハルキってば顔が赤いよ」
 「なんだよ! そういうお前こそ」
 「勘違いしないでよ! ぼくはユン一筋だもん」
「よく言うよ! 実際はあのベティと同類のくせに」
この学園でベティの度の越えた一途さを称え、陰でストーカーの代名詞として扱われていると本人も知るまい。
 「ひどいよ! そんなことないもん! ハルキのおたんこなす!」
 全身を使って怒りを表現する弟を馬鹿にしながら、広い廊下に笑い声をこだまさせた。そしてぼくらは新たな役作りの為に情報を集めるべく歩き出した。
 
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