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第一部 迷路に集う子どもたち
第五話 砕けた歯と胡桃
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第五話 砕けた歯と胡桃
―――This is the story of Kikuko.
授業終了を告げる鐘が鳴った。それまで椅子を埋めていた背中が、息を吹き返したようにざわめき躍動感に溢れる。慌てて教科書を片づけ鞄にしまうと、あたしは早くも教室の外へ出ようとしているベンバー教授の後を追った。廊下に出ると既にお決まりの女子たちが彼の周りを囲っていた。それでもあたしに気づくと「ごめんよ、彼女と話があるんだ」と手刀を切って輪を越えてやってきてくれた。
長身のベンバー教授の端正な顔を見上げ、ふっと溜息を吐く。同時に我慢しようとしていた言葉まで吐き出してしまった。
「……やっぱり、無理です」
ベンバー教授は何も言わずにあたしの肩を叩くと歩き出した。
「キッコが無理だと言う限り、すべての可能性を否定することになるんだよ」
よく通る低く優しい声で話しかける。茶色い瞳を瞬きさせこちらの反応を待つ様子はいつだって女子の心を優しくくすぐぐってくれた。
―――紳士で限りなく優しい彼があたしの父親だったら、きっと毎日が薔薇色だわ。腕力にものを言わせ妻をねじ伏せ、日本で悠々自適な毎日を送る父の顔を思い浮べ憎々しげに口元を歪めた。
「あたしが知っているのはお母さんの遺言でここへきたってのと、ミドリとは別々に海外留学していたってくらい…。リンコは自分について話したがらないし、そういう話題になってもいつもさり気なく避けられるもの。人のプライバシーを嗅ぎまわっちゃいけないってわかっているけど、でも、もっと友だちになりたいから…」
「相手のすべてを知ることが親しくなる方法だとは思わないな」
ベンバー教授はやんわりと合いの手を入れた。そして廊下を曲がり緩やかな曲線を描く階段を並んで下りた。
「もしもキッコが彼女と形だけではなく親しくなりたいのなら、彼女が自ら口を開いてくれるまで待ってみるのも一つだと思うよ。誰しも、語りたくない思い出は持っているものだ」
踊り場に飾られた暗い色調のステンドグラスから注ぐ青色に染められ、気のせいかベンバー教授の横顔に深い翳りが宿っているように思えその瞬間心を奪われそうになった。でも、と同時に自身の容姿に対する自己評価がそれを拒絶する。
精巧に作られた人形のように美しいリンコを思い出しながら、あたしは癖のある毛を指でいじりふくよかな輪郭を隠しながら問いかけた。
「……教授は日本の姉妹校出身だったんですよね? 教授も友だちのことで悩んだりしたんですか?」
「悩んださ。沢山ね」
間髪入れず呟く。思いのほか重たく沈んだ口調だったが、階段を下り終えた時にはもう元の笑顔を取り戻していた。
「次の授業は?」
左に曲がれば職員室だ。大きな窓ガラスの向こうで、短い休み時間を利用してバルコニーで煙草をふかしている教授の姿が何人も確認できた。余程寒いのだろう。全員が指定のマントを羽織り、赤くなった指の間にパイプや葉巻など様々な種類の煙草を挟み白い息を吐き出していた。
窓の縁が絵画の額縁のように見えた。黒いマントの人々がポーズを取って立っている姿は、青く染まった霧を背景に怪しげで心許ない不安を掻き立てる。いささか不気味だがこの学校の雰囲気にとても馴染んでいた。
「次は休講です。リンコと待ち合わせをしているから…」
「そう。それじゃあぼくは授業の準備をしてくるよ」
右手を挙げ応えるとベンバー教授は踵を返そうとしたが、思いついたように立ち止まるとやや躊躇いがちに口を開いた。
「転校生に関する噂を聞いたんだけど、その…」
「あ、もしかして父親のことですか?」
言い淀むベンバー教授の科白を先回りして問うと、彼は苦々しげに笑い頷いた。
「あまりおかしな噂が流れていたら、きみの方からも否定して欲しいんだ」
「ふふ…ベンバー教授が父親だって言われているからでしょ? 教授がいつまでも独身だからそんな風に噂されるんですよ」
「ジャックも同じ花の独身なのに、どうしてぼくばかり避難されるんだろうね」
広い肩を落として溜息を吐く。大人がそんな風に落ち込む姿は惨めだけど、彼の場合は可愛さが倍増されてしまう。もう少し教授と過ごしたい欲求もあったが談話室で待っているリンコを思って引き下がった。
「二人ともいい加減にしないと適齢期越えちゃいますよぉ」
いじけるベンバー教授に追い討ちをかけると、あたしは笑いながら駆け出した。
四階の談話室で待ち合わせましょう、とキッコに言われたけどこんなにもいくつも談話室があるだなんて知らなかったから二つ返事で答えてしまったのを今更ながら後悔した。
やっぱりロッカーに鞄をしまってから行こうかしら。そんなことを考えながら長い廊下を移動していると、正面から見覚えのある顔が近づいきた。彼も私に気づくと一旦周囲を気にかける素振りを見せた。けれど既に授業が始まり廊下に人気はない。耳を澄ませると、壁越しに教科書を朗読する声が聞こえてくる。
徐々に翠との距離が縮まってくる。けれどお互いの視線は前方を見据えたまま交差せず、そのまま擦れ違うかと思ったその時
「聞きたいことがある」
擦れ違い数歩進んだ所で立ち止まる。私はすぐに振り向いたけど、翠はしばらく背を向けたままだった。
開いた二人の間の壁に巨大な人物画が飾られている。黒い髭の豪華な冠と錫を携えた男性だ。長いマントとその威厳に満ちた立ち姿だったがよく見ると口元は醜く歪んでいる。細い目はやや俯き加減で、まるで私たちを見下し冷笑を浴びせているようだった。
「キッコとモリアの苗字を教えてくれ」
「モリアも?」
つい眉を寄せて問いかける。するとゆっくりと振り返り眼鏡の縁に触れると冷ややかに答えた。
「最近よく三人で行動している所を見かけている」
飽く迄冷徹とした態度に軽い反抗心を覚える。もう私の知らない間に彼は、独自に調査を進めているのだと予告され焦燥感に駆られた。
「理由を教えて。苗字が何か関係あるの?」
短い沈黙の間翠はただじっと私を見詰めた。何ら表情のないその裏側では、無知な妹を愚弄する言葉で溢れているのだろうか。
「……レオ、シュカ・ヒスズミ。ナルキ、ハルキ・シラクラ。ゲンジロウ・ナツシゲ。サエ・ナガタ。ジェニファー・クルス。ベティ・レイラ・クレンディ。キサメ・リトバルスキー。そしてベンジャミン・ワルト・カーリー」
と、言葉を区切り私の反応を待つように黙り込んだ。鋭い視線を意識しつつも、列挙されたフルネームを反芻した。
比須角…白鞍…夏繁…永多……日本の著名人たちの名前。国内外を問わず有名な俳優や王族、学者、財閥。誰もが一度はその名を聞いたことがある大物ばかりだ。確かにここの学費が並みたいていのものではないと知っていたけれど。
「カーリーって…国内でクーデターが起きているあの国の…」
「暗殺から逃れる為に、ここへきたのかもしれない。今挙げた生徒以外にも表立って存在されては困るような立場の子どもが大勢いる」
ふと口を閉ざし、再び廊下を漂う静寂に耳を傾けた。まるで誰かにこの会話を盗聴されていることを前提に話しているようなそんな緊張感。流れる無言を介して、翠は私に答えを求めてきた。
二人の兄妹はしばらくお互いに見詰め合っていた。バックミュージックは、壁の向こうで朗詠される教科書の文章。いくつも重なって不思議と、お呪いのようにも聞こえていた。
何だか眠い…
『ぼく』は必死に開けていた瞼が重たくなってもう我慢でなくなってきた。冷たい石の床でもいい。どこかで横になりたい。頭の奥がぼんやりとして意識も朦朧とする。壁にしがみつき震える足を支えたものの次第に指の力が抜けてきた。
虫の鳴くような小さな声で妹が
「……調べてみるわ」
と呟いた。二人の視線もどこか遠くへ向けられる。その一言で兄妹の会話はすべて終了したらしく、同時に踵を返すと背中を向けて歩き出した。廊下に響く二人分の足音に耳を傾けながら膝から崩れ落ちた。白い大理石の床が暗闇の中で淡く白光している。頬に伝わる冷たい石の感触を確かめながら全身の力が尽きたのだと悟った。
いつもの発作だ。少し眠れば元に戻る。そう言い聞かせ、不規則に刻まれる鼓動が辺りに響くのを聞いた。
昼下がりの談話室には授業を終えた生徒たちが個々にグループを作り、お菓子を片手にくつろいでいた。あたしはその中にリンコの姿を探したが一向に見当たらなかった。
まだきていないのかしら。
そのまま待とうと思い部屋の隅にある小さなソファに腰を下ろした。中心の明かりから離れて妙な疎外感が漂う。しばらく何とかリラックスしようと足を組み替えたりお菓子を頬張ってみたりと努力したが、最初に感じた一抹の不安はなかなか拭えなかった。
少なくともこれは、あたしが学園に入学した時からずっと感じ培われてきたコンプレックスだった。
三年前、あたしの父親は進学先に迷う彼女にこの学園への入学を「命令」した。家長の命に従う以外の選択肢などなく。またあたし自身も古い因習に縛られた実家での生活に限界を感じていたこともあり、喜んで異国の学園へ向かった。生まれた時より虐げられてきた自己に対する評価を、新境地で清算することができるという期待があったからだった。
しかし現実は決して甘くはなく、入学して数か月としないうちに諦めを知った。
誰からも愛される非の打ちどころのない人間。そんな高い理想を努力なく叶えることなどできるはずもなく。努力を怠れば自然と自ら望みすら抱くこともなくなった。
リンコに会うまではそれでもいいと思っていた。
「…キッコ?」
ふいに名前を呼ばれはっと顔を上げた。本を抱えたモリアがこちらを見下ろしていた。
「珍しいじゃない図書室以外にもちゃんと行っているのね」
「セトと待ち合わせをしているんだよ。キッコは…?」
と問いかけるも、その面差しは既に待ち人を予測してほのかに紅潮していた。そんな彼の胸中が手に取るようにわかり、羨ましいような妬ましいような複雑な思いを噛み締めた。
「リンコと待ち合わせをしているの」
「あ…あぁ、そうなんだ」
「ねぇ知ってる? リンコってば今朝も告白されたのよ。転校して何週間か経つけど、さすがって感じよね」
「リ、リンコは…もてるんだね」
「でもね、全然喋ったこともない上級生からも告白されてたのよ。かっこいいわぁ。憧れちゃう」
「ミ、ミドリも人気があるみたいだけど」
「そうなのよ。あたしのルームメイトのサエって知ってるでしょ? ベティの友だちの日本人だけど、彼女もミドリにお熱なのよ。嫌になっちゃうわ」
「あの、る、類は友を呼ぶっていうからね。サエとはあまり馬も合わないんでしょ?」
「そう、だから私たちの部屋に入り浸っているのよ」
と、いつの間にか現れたリンコが明るく笑いながら答えた。
「まだまだ勝手がわからなくて、迷っちゃったわ」
「あ! ごめんなさい。そうよね、談話室っていっても沢山あるもの。あたしってばうっかりしていたわ」
「いいのよ、運動になったもの。それよりテーブルに移動しない? そこに私のお尻を置くスペースはないみたいだから」
運動を必要とするような体型でもないくせに。リンコの優しいジョークだとわかっていてもあたしはこんな些細なことでも嫉妬してしまう。
「やだわ、リンコったら」
モリアと一緒に笑うとその顔から笑顔が剥がれないよう気をつけて、あたしたちは場所を変えた。
談話室のテーブルはっほとんど埋まっていた。中でもシュカがテーブルを二つほど独占しものすごい形相で問題集を解いていたので誰ともなく離れているようだった。私たちも触らぬ神に祟りなしということで、窓辺に絨毯を敷いて設えた石造りの椅子に向かい合って腰を下ろした。
「モリアとこうしてゆっくり話をするのって久しぶりね」
どこか落ち着かない様子で視線を漂わせる彼に話しかけた。
「あ…う、うん…」
いつからかモリアは私の目をちゃんと見ないようになっていた。それでも顔を合わせれば挨拶を交わし、キッコを交えた三人で教室移動などはするのだけど彼の態度が微妙に変わったのはつい最近の話ではなかった。
「ファルバロと待ち合わせをしているんでしょう? あいかわらず時間にはルーズよね」
「い…いいんだ。別に急ぎの用って訳じゃないし」
言葉を選びながら紡ぐモリアから何に怯えているような危機感を感じた。本人は意識してそれを隠しているようだけど、扉が開く度に絶望の色を滲ませた顔で入ってくる人間を確認する様子はおかしい。
一つ考えられるのはセトによる何らかの介入だった。私たちの歓迎会の日もそうだったけれど、度々彼がモリアを探し接触している。そしてあの階段から足を踏み外して…と言っていた日から、モリアの周囲に対する態度は変わっていった。元々あまり他人と交流を持たないタイプのようだったけれど、決して人間不信とかそういった類ではなかった。それがここ最近の彼の様子を見ていると、決まった人以外には決して交わろうとせず。猫背気味だった背中はより丸く曲がり周囲の視線から身を守ろうとしているように思えた。
「そ、そういえば、もうすぐ生徒会の立候補期間が終わるけど、ミ、ミドリも…生徒会長に推薦されているって聞いた?」
「…初耳よ。でもキサメも立候補するって言っていたけど」
高等部に所属する生徒であれば学年や年齢の制限なく会長に立候補できるとは聞いていたので、翠が立候補するというのはさほど意外ではなかった。
「キサメは副会長の副会長に立候補するらしいわ。キサメの場合女子の投票は確実だから、当選も絶対だって言われているのよ。噂ではベティがせっセト彼の票集めに奔放しているらしいけど。でもミドリだって勝算はあるわ。ベティの友だちのサエって子が彼に夢中なのよ」
「例年、監督生が生徒会を結成するようなことを聞いたけど」
随分前に食堂で交わしたキサメとの会話を思い出し、私は小首を傾げて尋ねた。
「それは誰も立候補したがらなかったからよ。生徒会なんて内申点は高くなるけど忙しいし、色々と時間をとられるから。たまに皮肉で『バロの雑用係』なんて呼ばれることもあるのよ」
キッコのもの言いについ気持ちが緩んだ。
「投票はガドレが始まる前。新しい生徒会が決まったらすぐに一大行事が待っているのよ。それにガドレが終われば編入期間と重なって冬休みになるし生徒会は大忙しよ」
「編入期間?」
「あら、バロに聞かなかった? 成績優秀者が他校に編入する為の期間なのよ。世界中から転校生がくるけど、まぁ大抵が出て行っちゃうわね。もっと自分の得意分野を磨く為に、それぞれに似合った学習場所をバロが探してきてくれるのよ。そうそう、今年はベンジャミンも転校するって聞いたわ」
ベンジャミン。その名前を聞くのも久しぶりだった。転校したその日に行方不明になった生徒。噂で聞くくらいでしか、彼のことを調べられなかったけれど翠との会話が作用して嫌な想像が膨らんでしまう。
「前から気になっていたけど、パルトロに選ばれた生徒は一定期間学園から姿を消すのよね?」
同意を求めてキッコとモリアの顔を見比べる。パルトロについては彼女たちはいつも表情を硬くする為、私は軽い口調を心掛けた。
「その間、選ばれた生徒はどこへ行くのかしら? もしかしてパルトロだけ授業はすべて免除されるなんて、素敵な特典はないわよね」
否定的にならないよう言葉遣いに気をつけて問う。けれどモリアだけではなく、キッコまでもが口を閉ざし俯いてしまった。
「消えるのは、ただの建前だよ」
突然横から合いの手が入った。驚いて顔を向けると、そこにはゲンジロウを連れ添えたセトが立っていた。瞬時にモリアの表情が変わる。畏怖と懸念、僅かな望み。いくつもの感情が入り混じった複雑な眼差しをセトへ向けるが、すぐにそれらを飲み込むとぎこちないながらもいつもの面持ちを取り戻した。
「パルトロに選ばれる前と変わらず、ベンジャミンは毎日授業に出ているし友だちも交流している。何百人って生徒がいるから普段、彼の姿を見かける機会が少ないだけだよ」
優しく畳みかけるように諭すセトとは違い、ゲンジロウは馬鹿にしたように言い放った。
「いっくらここが特殊だからって言っても、パルトロに選ばれた生徒を拘束する訳ないだろ」
確かにその通りだけれど、実際にベンジャミンの姿を確認していない以上は可能性を否定する訳にもいかない。とは言えそんな反論を唱えるつもりもなく、肩を竦めて苦笑した。すると場の雰囲気を変えようとセトが再び開口した。
「そうだ、リンコ宛に日本から封筒がきていたよ。寮のポストに配達されているはずだから、後で確認しておいて」
芹沢さんに送った返事だろう。幾分気持ちが晴れる思いで頷くとセトも微笑んだ。そして視線を先程から一言も言葉を発していないモリアに向け
「随分……待たせちゃってごめんね。いこうか」
「あ。う、うん」
ゼンマイ仕掛け人形のような動作で立ち上がると振り返り、私たちを一瞥した。その瞳に何かを切実と求めるものを感じた。
「それじゃぁ…またね」
別れの言葉を告げられ、えぇと相槌を返すしかできなかった。それでもモリアの後ろ姿を見送る間、妙に嫌な予感が残った。
セトたちがモリアを連れていった後、キッコはリンコとのお喋りに夢中にった。リンコは聞き上手で何も考えなしに思いつく話題を喋り続けたにも関わらず、二人の間には笑い声が絶えなかった。授業で最近やけに宿題が多くなった、ルームメイトが四六時中ミドリを話題にする、日本では秋の中頃なのにここでは気温が下がる一方だ…など意味のない会話を投げては返し、それを何十往復と繰り返していた。
談話室に男子生徒が入ってくるたびに、リンコへ向けられる視線が気になった。しかし本人はまったく意に介していないようだった。男子生徒たちの熱い視線は他の女子の反感を買うが、リンコへ対する態度が急に変わったのはセトの影響だろう。セトの個人レッスンを受けるリンコを非難するのは、間接的にバロやその孫のファルバロをも中傷することになるのだ。
灰色の空を背景に微笑むリンコは、同性のあたしから見ても本当に羨むくらい綺麗だ。
だからファルバロが気に入るのも当たり前。当たり前だから……仕方ない。リンコはきっと選ばれた側の人間なのだと、あたしは心の奥で繰り返し呟いていた。
「……もうそろそろ、やめておいたら?」
突然リンコが躊躇いがちに口を挟んできた。ずっと喋っていたからか、一瞬何を示しているのかわからなくて呆然としてしまった。
「あまり食べると夕飯が入らなくなるわよ」
気を遣っているのか絶えず優しげな微笑を浮かべて、リンコはあたしの手元に視線を注いだ。それに気づいて手を見る。いつの間にかスコーンやチョコレートの食べかすがついていた。よく見れば膝にはお菓子を持った紙ナプキンが置かれている。後でリンコと食べようと今朝、鞄に詰めてきたものだったがその半分以上が既に彼女の胃袋に収まっていたのだ。
全然…気づかなかった……。
それでも口の中に残る甘い余韻や、満腹になった腹部の感覚からして決して嘘ではないだろう。無意識に伸びた指が唇についた粉砂糖に触れる。リンコでさえ微笑みにやや呆れに似たものを覗かせていた。
急に惨めさと恥ずかしさが同時に込み上げてくる。
「やだぁ、あたしったら。ついつい食べちゃうのよね。でもね! これでも一キロ落ちたのよ」
大袈裟な身振りを加えてごまかす。残っていたお菓子もナプキンに包んで鞄へ戻した。
―――何だか泣き出したい気分だ。
「いいなぁ。私は今朝体重をはかったら増えていたのよ。ここの料理が美味しいからつい、食べ過ぎちゃうわね」
見た限り増えたようには思えなかったけど、彼女の気遣いだけはひしひしと感じられた。
リンコは本当に素敵な子だ。一人でも絶対に負けないような強さと、優しさと賢さを兼ね備えている。そんな子と友だちになれたことがあたしにとってはすごくハッピーなんだから。そう言い聞かせ何故かチクリと痛む心を慰めた。
気を取り直して顔を上げたその時視界の端に珍しい顔を捉えた。
「…ユンだわ」
「え?」
あたしの言葉にリンコも反応して振り向いた。談話室に入ってきたユンは空いているテーブルを探し、しばらく室内をうろうろしていた。しかしほとんどの席が埋まっていたので、仕方なく問題集を解くシュカに声をかけた。
「ここ、空いている?」
問題に集中していたシュカが顔を上げユンの顔を確認すると、無表情に身振りで座るよう促した。二人はそれ以上言葉を交わさず再び無言を背負ったまま問題集に没頭した。一連のやり取りを何となく緊張した思いで見守っていたあたしたちだが、ようやくオチが着いたのでホッと溜息を漏らした。
今も視線を二人へ向けているリンコに向かって説明した。
「あの子、ユンファって言うの。私たちの一つ下の学年。みんな、ユンって呼んでいてすごく頭がよくて特別に英才教育を受けているくらいなの。彼女の為に選任教員が五人もいるのよ。普段からあたしたちと違う教室で勉強をしているから、あぁして姿を見かけるのも珍しいくらいなの」
「他に英才教育を受ける生徒はだいたいどのくらいいるの?」
「えぇっと…どのくらいかしら? それほど多くはないはずよ。特別教育を受ける子たちをグドゥって呼んでいて、グドゥは毎年優先的に他校へ編入していくの。だから大抵が言葉も交わさずに消えていくから、みんなどこかよそよそしいのよね。どうせ仲よくなっても転校しちゃうから…って所があるもの」
ユンの話題ついでにあたしは七年前に突然消えた、彼女の姉についての噂を思い出した。
長い髪が印象的なとても綺麗な人だったらしいけど、パルトロに選ばれていた為、異例にもその年はガドレが行われなかったのだとか。
―――あたしが生まれる前から既にこの学園は存在していて、あたしたちがそうであるように同じ制服に身を包んだ生徒たちがここで集団生活を営んでいたんだ。選ばれた子どもたち。綺麗な人、聡明な人、特殊な才能がある人……どれにも当てはまらないあたしは、選ばれた人たちに黄色い声を浴びせ、栄光のおこぼれを預かるくらいしかできないのかもしれない。
例えリンコがあたしに心を開いてくれなくても、傍にいなければあたしは、自分自身の存在意義さえ、見つけられなくなってしまう。
…そんな気がする。
談話室で時間を潰していると、ようやく一日の授業の終了を告げる鐘が鳴った。逆算して四時間はキッコのお喋りに付き合っていたことになる。彼女の饒舌ぶりには改めて感嘆させられる。けれどそろそろ切り上げなければ、このままだと無駄に一日が終わってしまいそうだ。適当な所で話題をまとめると
「カリキュラについて教授に呼ばれているから、職員室に行ってくるわ」
「一人で大丈夫?」
不安げに眉を寄せながら呟く。一人になるのが嫌だと、言葉ではなく態度で訴えかけていた。
「えぇ。前の学校での単位についても話し合わなくちゃいけないから。先に食堂へ行っておいて」
これから行うことを考えて、やはり単独で行動するべきだと思い彼女の願いを断った。寂しげに笑いながら手を振る彼女に応えながら、賑わい始めたテーブルの間を抜けてドアへ向かった。辞書に顔を沈め鉛筆を動かすユンの小さな背中に回った時、ふいに彼女の手元に置かれた筆箱が目に止まった。
先端が針のように尖った鉛筆の上に乗せられた写真。高等部の制服を着た長い黒髪の少女がこちらに向かって微笑んでいる。その隣に並ぶ小さな女の子。きっと幼き頃の彼女だろう。長髪の少女はお姉さんかしら。脳裏に少女の面影を焼きつけながらそっと談話室を後にした。
長い廊下を歩きながら、擦れ違う生徒たちをそれとなく目で追う。そうするうちに、ふとある共通点に気づいた。色とりどりの髪の毛をそれぞれに飾る女子生徒たち。少し手を伸ばせば指先に絡まりそうな、美しい毛並み。
角を曲がると翠が待ち構えていた。窓枠に腰かけ本を読んでいた彼は、私に気づくとただ黙ってこちらを見詰めてきた。観察と言うよりも監視に近い感情を悟る。
「誰かを待っているの?」
沈黙に耐えきれず問いかける。廊下には生徒の笑い声が響いている。他人の目を意識した優しげな表情を作った。
「キサメがガールハントに出ているから、暇潰しをしていたんだ」
穏やかな笑みを絶やさず
「琳子こそ、どうかしたのか?」
とさり気ない気遣いを滲ませて質問をする。
「図書室へ行こうと思って。次の美術の授業で使う画集を借りなきゃいけないのよ」
「あぁ、カナムラ教授の授業だろ?」
「えぇ、彼女の授業は人気があるみたいね」
苦笑する翠。その理由も気になったが、それよりも生徒会立候補の噂を確認したくなった。
「生徒会に立候補するって本当なの?」
「耳が早いね。今朝申し込んだのに」
「キッコから聞いたのよ」
他愛のない会話。どこの家庭でも普通に行われるであろう話題なのに、廊下から生徒の姿が消えた途端、二人の間に流れる空気も一変してしまった。眼鏡越しに向けられる鋭い眼差しを受けとめ思いついた言葉を吐き出した。
「何を…考えているの?」
「お互いさま、だろ」
そう言い放つと翠は窓枠から離れて廊下を進んだ。その後ろ姿を追いながら注意して擦れ違う生徒らを観察した。
長い髪の少女たち。そういえば湖の伝説の乙女も黒い長髪だったけれど、何か関係しているのだろうか。それに初めて寮へ案内された時、シュカが忠告してきた。長い髪は好かれない、と。私だから嫉妬されるのだと。どういう意味? 私だから?
短髪は二人しか知らない。談話室で見たユンとルームメイトの…ティル。
「!」
誰かと肩がぶつかり、その反動で床に手をついてしまった。つい注意散漫になっていた。前方で呆れ返る翠の顔を見つけ慌てて謝った。
「ごめんなさ…え…?」
慌てて立ち上がるとこちらを見詰める相手に気づいた。
「ティル…?」
名前を呟いてハッと目を見張る。片手で押さえている胸元のボタンが取れ、白い肌がはだけていた。背筋に怖気が走ると同時に顔が引きつるのがわかった。翠がゆっくりと近づいてくるが、歩き方がどこかぎこちなくなった。彼も彼女の異変に気づいたからだろう。
意を決し顔を上げる。正面からティルの顔を直視ようとしたけれど視線が合わない。茶色い目がどこを捉えているのかさえわからない。無表情ではない。けれど何も見ていない顔。
翠が肩を並べて立ち尽くす。
「どうした?」
驚きを隠さず問いかける。その一瞬、初めてティルの目に正気が戻り翠を捉えたように思えた。けれど目が合ったのはほんの数秒。すぐに踵を返すともの言わずに駆け出してしまった。その後ろ姿を見て咄嗟に追い駆けるべきか逡巡したが、
「例のルームメイトだろ」
翠の一言で思いとどまった。冷淡とした言葉。既に関心をなくしたように、それまでの表情を払拭させると何事もなかったように再び歩き出した。
早鐘を打つ胸を押さえ、鬱憤とした感情に心が押し潰されそうになる。彼のようにすんなりと感情のスイッチを切り替えられない。どんどん醜い想像が膨らみ、彼女への嫌悪感へ直結していく。
ティルを見ていると母親を思い出す。平然とした顔でどんな汚いことでもやってのけ、時に自らの肉体を餌に男達を操る最低の女。
嫌だ……気持ち悪い…。
辛い気持ちに負け涙腺が緩みそうになる。それでも率先して歩く翠に負けたくなくて、必死に唇を噛み締めて堪えた。
「そぅ。図書館に行っても無駄だよ。この学園に卒業アルバムを作る習慣はない」
冷たい口調に思わず嘆息する。私の目的も既に見破られていたのね。
「どうせなら、例の…個人レッスンでもしてせいぜい関係を深めておくんだな」
「どういう意味?」
反射的に咎めるように鋭く問いかける。翠は僅かに首を傾け私を見ると、美術室の前で立ちどまり中に人がいないかを確認し入っていった。目の前で閉まりかける扉を押さえてその後を追う。
黒く塗り潰した画用紙の一部分を消しゴムで抜いたように、暗闇の中に白い肢体が浮かび上がる。手元の電気をつけると、壁際に並ぶ無数の石膏像の蒼褪めた顔が明らかになった。
ブルータス、ジョルジュ、ミケランジェロ、マルスやアマゾンの胸像や立像。教室後部には生徒作品の像があり、壁にはそれらの生前の姿を想定したデッサンも飾れていた。第二美術室は基本的に造形専用の教室になっている。なのでここに足を踏み入れるのは初めてだった。
「そのドナテルロの少女……モノクロ写真みたい」
生徒たちのデッサン力の高さに舌を巻きつつも、中でも一際目立つ完成度の高い作品に近づき驚嘆する。まさかとは思ったが、やはり画面右下にはキサメのサインが記されていた。
モノクロの画面の中で少女は屈託のない無邪気な笑顔を見せていた。けれど男性ではなく少女を選ぶあたりは彼らしい趣向かもしれないと思った。
「セト・イチノセ」
静寂を裂く凛とした声に心臓が震える。振り向くその先に待っている翠の顔を思い浮かべゆっくりと視線を足元へ落とす。
「父親は既に死別。母親が学園長イサム・ハナブサの娘で、ハナブサ氏には息子がいたけれど七年前に病死している。バロの息子は離婚して引き取られた母親の姓を名乗っていたようだけど、途中から父親方の祖父の元で暮らしていたらしい」
「バロの…息子?」
反射的に振り返る。教卓に腰を下ろす翠は静かに顎をひいて肯定した。
「ぼくが調べた限りでもそのくらいしかわからなかった。彼を詳しく知る人間がここにはいない。敢えて取り上げるならゲンジロウがセトの幼馴染だけど、接触が難しい」
ずっとセトの傍らから離れようとしないゲンジロウの顔を思い出し、翠が音を上げるくらいガードが固いのだと驚いた。そういえば彼がセト以外の人間と行動を共にしているのを見た覚えがない。
「バロの息子がこの学園を継ぐはずだったってことぐらいしか…私も知らないわ」
「つまりセトが成長するまで、祖父のハナブサ氏が経営するんだな」
『経営』という言葉がひどく歪に聞こえた。まるで会社を指すような口調だ。私立の学園なのだからやはり勝手が違うのは仕方ないけれど、それでも後継者を学園で育てるというのはまるで監禁だ。
「セトについて調べるのが……父親探しに繋がると思っているの?」
「興味深いんだよ。この学園に集う子どもたちとはまったく違う、彼の存在がね」
机の上で脚を組み替え答える。その恐れを知らない瞳を見上げながら、先程の会話で聞き出したキッコの苗字を思い出した。
「……キッコの苗字は調べたわ。ノグチキクコ。多分、篦口財閥の家系じゃないかしら」
珍しい漢字を使うので宙にそれを描きながら説明した。
「ふぅん……」
ふいに私を正面から捉えると
「忠告してやるよ。周囲の嫉妬を買う真似は控えた方がいい」
と短く釘を刺した。
「今朝リンコに告白したシーリーは去年、キッコが振られた相手だ」
居心地の悪い視線に耐えられず顔を逸らす。
「けれど断ったわ。それに…そんなことを言われても、私は」
「知らなかった。が、本当に通用するかどうかはよくわかってるんだろ。今はファルバロと個人的に付き合いがあるというだけで、周囲の見る目も少し甘くなっただけだ。油断すればすぐにでも突き落とされるぞ」
悔しさと恥ずかしさが入り混じって頬が一気に紅潮する。反論したくてもうまく言葉が見つからずもどかしさに唇を噛み締めた。
翠はちらりと腕時計を一瞥すると机から降りて入り口へ向かった。ノブに手をかけると冷ややかな笑みを口元に宿し
「さすが…母さんの娘だよ」
心からの蔑みを込めて呟き教室を去っていった。
遠くで誰かの話し声が聞こえる。短い言葉が途切れ途切れに響く度に、痺れた頭の奥が気分の悪い痛みを発していた。痛みに耐えかねて『ぼく』は何とか瞼を持ち上げるものの、すぐに重力に負けて再び閉ざしてしまった。
あぁ、また寝ていたんだ…
もう授業も終わっているのかな。周りが真っ暗で何も見えない。教室の電気を全部消されてしまったのかもしれない。
「今日…ベンジャミンが授業に出たわ」
少し息の乱れた女の声。合間にギシギシとバネが軋むような音が聞こえる。
「珍しくお利口さんだったのよ。真面目に私の話も」
その瞬間女の声が途切れ、代わりに言葉にならない悦の入った低い悲鳴が響く。
「きみに見惚れていたのではないのか?」
声を聞いた限りまだ若いけれど、穏やかな口調の男の声。こちらもやはり息が乱れていた。やや間を置いてから忍び笑いが漏れる。同時に耳障りだったバネの軋む音も聞こえなくなった。
「けれど知っていたかしら? 彼、芸術は商品でそれを自の手で作るのは貧乏人か職人のすることだって言って、私や他の美術教員を蔑んでいたのよ」
カチッという音と一緒に一瞬暗闇の向こうが明るくなる。大きな溜息と共に不思議な匂いの煙が漂い始めた。
「それで…ツインは今日も真面目に授業を受けていたのかな?」
「えぇ勿論。仲よく机を向かい合わせて人物画を描かせたわ。貴方には到底及ばないけれど、よく似ていてどちらがどちらの作品かわからなくなってしまったもの。そう、貴方が作ったドナテルロの少女だけど、美術館へ出展しないかって話がいくつかきているわよ」
「いじわるな人だ。作品を世に送り出さないって条件で、制作が許されているっていうのに」
「貴方の才能を埋没させようとする輩なんて、厳重に罰せられるべきよ」
長い沈黙が続く。時折、小さく嘆息する声がするだけで暗闇の向こうの会話はもう聞こえなくなってしまった。再び雑音が始まったけれど二人の嗚咽に嫌悪して立ち上がる。
どこへ行こうか、そう考えながら振り返ると、暗闇の向こうから誰かを呼ぶ声が聞こえてきた。
年齢を重ねた、低くそれでいてよく響く声。自然と『ぼく』の脚が動き歩き出す。まるで見えない糸で操られているように、身体は軽やかに進んでいった。
リンコと別れた後、一人で食堂へいく気分にもなれずあたしは寮の自分の部屋へ戻ってきた。ルームメイトの姿がなかったのがせめてもの救いだ。
転校生ってだけでこれほど色々な噂が飛び交ったのも、きっと二人の容姿と独特の雰囲気に魅了されたからだろう。無関心を装って常に二人の動向に気をかけているのもその所為だ。
でも…だからって言って、むかし振った女の前でリンコを口説こうとするかしら。
脳裏に蘇るかつての想い人の顔を振り払いベッドに横たわる。寝返りを打つとバネが軋む音がした。
―――ここのベッドも結構古いのね。動くたびにうるさくて仕方がないわ。
それでも悶々とした醜い感情は拭いきれない。あたしだってミドリをかっこいいと思うし、それに紳士だわ。会ってもちゃんと挨拶をしてくれる。それにあたしが男だとしたら、やっぱりリンコを好きになるに決まっている。性格なんて知らなくていい。あの雰囲気に魅力を感じた瞬間から、恋に落ちることだってできるのよ。同性でもリンコに憧れているもの。
リンコは優しいわ。一緒にいて退屈させないし、常に笑顔が絶えない。それに頭だっていいもの。非の打ちどころもない。けれどリンコが一人でいる時のあの表情を思い出し、背筋に冷たいものが走った。
集団とは完全に距離を置いた様子は、一切の他人を否定しているように思えた。そういえば、リンコって全然男の子に興味を持たないってよりも……男の子を嫌っている節がある。例外って言えばセトとモリアくらいだわ。他にリンコに話しかけてくる男子には、どこかよそよそしい。
でもその理由さえわからない。いつも傍にいるのに何も語ってもらえない寂しさ。リンコは何も語らない。それは意図的に隠しているように思えた。
…やっぱりミドリも関係しているのかしら。
あれは二人が転校してきた日のことだった。職員室に寄っていたあたしは、レオたちが転校生を案内している所を偶然に目撃した。最初の印象は本当に兄妹なの? と疑いから始まった。勿論あまり外見が似ていない点もあったが、何よりもあの二人の間に漂う空気は普段とまったく異なるものだったのだ。もしミドリの手元が隠されていたらきっとリンコの背中にナイフか何かを突きつけていると想像しただろう。それくらい二人から緊迫した空気を感じた。
そしてもう一つ気になる所があった。そのことを考える度にキッコは多分気のせいだろう。そうじゃなくちゃ、おかしい。と自分を説得しようとした。
でも……気がつけばミドリの視線は、いつもリンコを追っているように思える。憎しみとも悲しみとも取れない、あたしには理解できない複雑な感情を滲ませてずっとリンコを見ていた。
「……違うわ」
かぶりを振り否定する。きっと妹想いなのよと、自身にそう言い聞かせ起き上がろうとしたその時、突然ノックもなしにドアが開いた。
黒髪を耳元で束ねたサエが視界にあたしを捉えた瞬間、露骨に眉をしかめた。
「ちゃんと綺麗に片づけてよぉ。ネズミがきたらあんたの所為だからね」
「え…?」
我に返り手元を見る。いつの間にかスカートの上に、クッキーやパイの食べかすが広がっていた。茶菓子に用意されていたお菓子もほとんど残っていない。下腹部が膨れているのが一目でわかった。
「これからミドリとご飯食べるのよ」
驚き呆然とするあたしを無視し、サエは鞄を置くと壁にかけていたコートを取って再びドアに戻った。
「彼ってね、ロングヘアが好みだそうよ。剛毛の癖毛なんてお呼びではないのよね」
艶やかな黒髪を自慢げに見せびらかせると、サエは鼻歌交じりに立ち去っていった。その細身の後ろ姿を見送り苛立ちを覚える。
―――何よ。ロングヘアが好きだなんていったら、単純にガドレの主と趣味が同じじゃない。それに長いだけならこの学校でも沢山いるわよ。あたしがリンコを介してミドリとも仲がいいって思い込むようになって以来、サエとの関係は急激に悪化した。前からあたしを軽視していたけど、最近ではあんな風に露骨にあたしを馬鹿にするようになった。
苛々する。頭に血が上り怒りに我を忘れそうになった。
あたしには何もない。何もないから、リンコしかいない。胡桃を割れなくなった人形は捨てられる。だから完璧なリンコの『友だち』という役だけは、誰にも渡さない。
口元についたかすを拭うと、あたしの右手は新たなお菓子へ向かっていた。
食堂へ行ってもキッコの姿はなかった。もう夕食の時間が始まり堂内も賑わい始めている。しばらく入り口に立って待っていたけれど、一向に現れる気配も見せないのでどうしようかと逡巡した。
出入りの激しい入り口で、ふいに誰かが立ち止まる。顔を上げるとそれはモリアだった。隣にセトの姿もゲンジロウの姿もない。
「ど、どうしたの?」
「キッコを待っているの。まだきていないみたいだから、戻ろうか考えていたのよ」
すると食堂内を見渡し「あ、あそこに…お兄さんがいるけど…」と女子生徒たちと腰を下ろしている翠を指差した。その面子の中にはベティの姿もあった為、キサメは右側に翠を座らせ左に三人ほど他の女子生徒を置いていた。そして向かいにツインを座らせてガードしているので、傍から見てもベティの機嫌がよいとは思えなかった。
「いいのよ。友だちと楽しんでいるようだから」
むしろ到底あの輪に入る気分ではない。
「それよりセトたちといたんじゃないの?」
「あ…あの、ぼく…暇だから…ただ次の選挙の手伝いを頼まれていただけで……。それにファルバロは途中でどこか行っちゃったし…」
「神出鬼没なのね」
笑いながら答える。
するとモリアは突然真面目な表情になり「あ、あの…あの」と何度もどもりながら言葉を紡ごうとした。
「どうしたの?」
逆に顔を覗き込むと、どんどん顔が赤くなっていった。そんな純粋な彼の反応を見て自己嫌悪に襲われた。モリアの気持ちには気づいていたけれど、応えるつもりもなかったのでずっと知らないふりをしていた。まさに『何も知らない』がいつまでも通じる訳ではないんだと、改めて思い知らされる。
「……一緒に、食べない?」
ふっと溜息を吐いた瞬間つい無意識に言葉が突いて出た。自分自身でも意外な言葉だったが、喜びに輝くモリアの表情を見て撤回するのは無理だと悟った。
「う、うん!」
子どもらしい笑顔で頷く彼を見てわずかに心が痛む。仕方なく並んで料理を取り空いている席に腰を下ろした。
「モリアとセトは普段から仲がいいの?」
「そ、そんなことないよ…。ぼく…友だち少ないし…セトは誰にでも優しいから」
スープを掻き混ぜながら、モリアはどこか言い訳がましく呟いた。
「けれど大変ね。選挙の準備はすべて有志の生徒が行うの?」
「あ、ありがとう。う、うん…一応、監督生たちがやるんだけど、今年は男子監督生が少ないから力仕事を頼める人が足りないんだって」
「…バロの孫だから率先して学内行事に手伝わなくちゃいけないのかしら」
「わ、わからない。で、でもね、バロから直接セトにお願いしてもらっている訳じゃないから、セトが自主的に動いているだけみたいだよ」
「優しいのね」
「うん。とっても優しいんだよ。優し過ぎて…怖くなるくらい」
ふと疑問が湧く。優しいのね、に対しては一言もどもらなかった。
「…ガドレと選挙が終わったら編入期間が始まるんでしょう? モリアは将来の夢はあるの?」
「ま、まさか……。ぼ、ぼくは成績もよくないし、編入とか考えられないから、ぶ、無事に卒業できたらいいんだ」
「卒業したら日本へ帰るの?」
「……か、帰れない。た、多分、別の国の大学に行くかもしれない…。で、でも、でもね。できたらこの国に残りたいんだ」
「ここの環境が好きなのね」
数秒の沈黙。その間モリアはずっとスープを掻き混ぜていた。
「い、家に帰っても…家族が、こま…困っちゃから」
「でもモリアは一人っ子なんでしょう? ご両親が寂しがらないの?」
かぶりを振り視線を渦巻くスープ皿に注いだまま
「ぼ、ぼくがいても役に立たないから…養子をもらったって聞いた……。日本に帰っても、きっと、ぼ、ぼくの部屋も片づけられて…新しい弟が使っているか、から」
「……後継者問題、なの?」
その問いかけに彼は俯いたまま頷いた。
「その、キリノ家は……伝統のある家柄だから、お、落ちこぼれ…がいると困るんだ…」
桐乃家は内親王が降嫁した由緒正しい財閥だ。確か著名な日本画家も桐乃の出身だった。伝統と格式を重んじる家系ならば尚更、彼のような性格では非難されてきたのだろう。そんな胸の内を思うと、つい同情心が湧いてしまう。
名前を調べるという目的を果たし後は共通の趣味などについて喋り続けた。最初は態度の硬かったモリアも次第に緊張が解れたのか、端々にこちらへ寄せる好意を感じさせその度に心に針が刺さったような痛みを覚えた。食事を終え図書室へ行こうと誘われたけれど、やはりキッコが気にかかったので丁重に断わり急いで寮へ戻った。
玄関から入り私のポストから芹沢さんの手紙を抜き取る。それをポケットにしまいキッコの部屋を訪ねたが、眠っているのか返事がなかった。寮内の時計も七時を示していたので、もしかしたら疲れていたのかもしれないと納得し私も部屋へ戻った。
いつものことだけど、やはりティルは帰っていなかった。もう一昨日まで付き合っていた生徒と別れ、新たなボーイフレンドと遊んでいるようだ。
ふと翠と見かけた時の彼女の様子が気になったけど、かぶりを振って頭から追いやった。
ベッドに腰をかけて封筒を取り出す。芹沢さんに調査を依頼したお菓子の成分についての検査結果が同封されていた。簡単な近状報告と会社の運営が少し傾いているとのことがそれとなく書かれ、その後に依頼内容に触れていた。
『それで頼まれていた成分だけど、私の母校の大学に頼んだ所異常は見つからなかったわ。敢えて取り上げるなら日本にはない種類の小麦や、砂糖などが使われているからそれが原因で体調を崩したのではないかという見解です。女の子はお腹を壊しちゃいけないから、恥ずかしくても腹巻をすることをお勧めします。何か必要があればこうして連絡をしてくれたら、できる限り手伝うのでその旨を翠くんにも伝えてちょうだいね。友だちもできて学校生活を楽しんでいるようで安心しました。くれぐれも身体には気をつけて、無理はしないように。
それでは、またね。
追伸 今朝やっと気温が二十度をきったばかりよ。まだまだ日本は暑く秋は遠いです』
もう一度、冒頭からすべて読み返してみる。特に検査結果については丹念に目を通した。
何も問題はない。それを鵜呑みするしかないのだろうけど何故か腑に落ちない。ツインがお菓子を拒否した理由は、ただ日本にない食材に抵抗を感じていただけかしら。けれどキッコのように貪るようにお菓子を食する生徒もいるので、アレルギーの可能性はあまりないだろう。
唇に指を当てて考えてみた。確かに味は文句をつけようがない。育ち盛りの子どもが甘いものに夢中になるのは自然なことだから。
私の考えすぎだったのかしら……。
立ち上がり机の引き出しに便箋ごと手紙をしまうと、ふいにドアの向こうに人の気配を感じた。聞き覚えのある神経質な声ですぐに相手がわかった。ノックが連続して三回鳴る。五秒以上待たせるとドアを開けると、般若のような顔をした彼女が待っているので慌てて駆け寄ってドアを開けた。
シュカと並んで見たこともない男の子が立っていた。栗色の毛がふわふわとしていて綿菓子のよう。小柄でまだ幼さを残した体格を包む制服から、彼も中等部の生徒だとわかった。
背中に背負われている人物に気づき、一瞬声を失う。白く細い腕がだらりと垂れている。綺麗な指には小さな引っかき傷が無数についていて、線を引いたような血が滲み出ていた。
「ティル…」
声をかけるも反応はない。シュカの顔を仰ぐも、彼女が開口するよりも早く隣に立つ男子生徒が、声変わりを控えた高く澄んだ声を出した。
「温室で倒れていたのをぼくが見つけました」
「彼がいなくちゃ運べやしなかったわ。男子禁制なのにっ」
苛立たしげに爪を噛みながらシュカが毒づく。
「どうして温室に行っていたのか目が覚めたら問い質して、私に報告しなさい。授業時
間内に校舎から出るだなんて、問題外だわ」
男子生徒の肩に預けていた金色の頭が、規則正しく穏やかな寝息をたてている。ティルをベッドに下ろすのを手伝いそっとシーツをかけると、ふと男子生徒と目が合った。その一瞬、私は彼を既に知っていたように錯覚した。どこかで見た気がする。けれどどこだろう……記憶を手繰っている間に、薄い唇に人懐っこい笑顔を貼りつけ
「きっともう名前は知っているだろうけど、パルトロに選ばれたベンジャミンです。こうしてお会いするのは初めてですね」
全身を軽い電流が駆け抜けた。そうだ、目の前で微笑みかける可愛らしい少年は、歓迎会の時に見たあの人形と瓜二つなんだ。私たちが転校したその日に姿を消したベンジャミン。噂でしか聞くことのなかった当の本人が目の前にいるというのに、少しも心は浮き立たない。むしろ妙な警戒心が奥深くで芽生え始めていた。
「えぇ、本当に……貴方の噂だけはよく聞いていたけれど、こうして会うと初対面って感じがしないわ」
一語一語に気をつけて言葉を返す。確かハルキのルームメイトで同じ年だと聞いたから、一つしか年は違わないけれど目線はやや彼の方が高かった。
「用が終わったら出て行きなさい。男子禁制なのよ」
冷たい態度のシュカに向かって悲しげに目を向けると、追い立てられるように出て行ってしまった。同時に部屋を去って行ったシュカの後ろ姿を見送りドアを閉める。
思わず溜息が漏れた。
お菓子にしろ失踪していた生徒の登場にしろ……ことごとく私の予想は外れてしまった。
ただ習慣が違う異国の学校と同じなんだわ。これだけの設備を維持しようとすればお金がかかるのは当たり前だしこの環境を考えれば、暗い過去を背負ってくる生徒がいたとしても不思議ではない。
私も空想が過ぎた。まさか…ベンジャミンが死んでいるって思うなんて。
踵を返し机へ戻ろうとした時、いつの間にか起き上がったティルが私を見詰めていた。
「…起きて…いたの……?」
あまりに突然彼女と目が合ってしまったので、つい歯切れが悪くなってしまった。気まずい沈黙に捕まる前にティポットに茶葉を入れてお湯を注いだ。
「シュカが怒っていたわよ。どうして温室へ行っていたんだって。理由を彼女に報告しなくちゃいけないの」
机上の目覚まし時計で時間をはかり、カップに注ぐ。明るいオレンジ色の紅茶が爽やかな香りを漂わせた。
「……違うカァラ」
「え?」
カップを渡そうとして立ちどまる。そして目を見張った。茶色い瞳にいっぱいの涙を溜めてティルは悔しそうに唇を噛み締めていた。
「違うカァラ。違うカァラ。違うカァラァ……」
両手を膝の上でギュッと握り拳を震わせる。初めて見る彼女の怒る様子にしばし呆然とした。
「何が…違うの?」
カップを置いて近寄ってみる。拳の震えは全身に伝わっていた。
「…違ィの…ノー、ベンジャミン…ベンジャミン!」
「違うって…彼がベンジャミンじゃないって、どうして言えるの?」
「違うっ!」
赤く充血した目で私を傾斜に睨みつけると、ティルは押し殺した声で呟いた。
「彼は死んでいる」
―――This is the story of Kikuko.
授業終了を告げる鐘が鳴った。それまで椅子を埋めていた背中が、息を吹き返したようにざわめき躍動感に溢れる。慌てて教科書を片づけ鞄にしまうと、あたしは早くも教室の外へ出ようとしているベンバー教授の後を追った。廊下に出ると既にお決まりの女子たちが彼の周りを囲っていた。それでもあたしに気づくと「ごめんよ、彼女と話があるんだ」と手刀を切って輪を越えてやってきてくれた。
長身のベンバー教授の端正な顔を見上げ、ふっと溜息を吐く。同時に我慢しようとしていた言葉まで吐き出してしまった。
「……やっぱり、無理です」
ベンバー教授は何も言わずにあたしの肩を叩くと歩き出した。
「キッコが無理だと言う限り、すべての可能性を否定することになるんだよ」
よく通る低く優しい声で話しかける。茶色い瞳を瞬きさせこちらの反応を待つ様子はいつだって女子の心を優しくくすぐぐってくれた。
―――紳士で限りなく優しい彼があたしの父親だったら、きっと毎日が薔薇色だわ。腕力にものを言わせ妻をねじ伏せ、日本で悠々自適な毎日を送る父の顔を思い浮べ憎々しげに口元を歪めた。
「あたしが知っているのはお母さんの遺言でここへきたってのと、ミドリとは別々に海外留学していたってくらい…。リンコは自分について話したがらないし、そういう話題になってもいつもさり気なく避けられるもの。人のプライバシーを嗅ぎまわっちゃいけないってわかっているけど、でも、もっと友だちになりたいから…」
「相手のすべてを知ることが親しくなる方法だとは思わないな」
ベンバー教授はやんわりと合いの手を入れた。そして廊下を曲がり緩やかな曲線を描く階段を並んで下りた。
「もしもキッコが彼女と形だけではなく親しくなりたいのなら、彼女が自ら口を開いてくれるまで待ってみるのも一つだと思うよ。誰しも、語りたくない思い出は持っているものだ」
踊り場に飾られた暗い色調のステンドグラスから注ぐ青色に染められ、気のせいかベンバー教授の横顔に深い翳りが宿っているように思えその瞬間心を奪われそうになった。でも、と同時に自身の容姿に対する自己評価がそれを拒絶する。
精巧に作られた人形のように美しいリンコを思い出しながら、あたしは癖のある毛を指でいじりふくよかな輪郭を隠しながら問いかけた。
「……教授は日本の姉妹校出身だったんですよね? 教授も友だちのことで悩んだりしたんですか?」
「悩んださ。沢山ね」
間髪入れず呟く。思いのほか重たく沈んだ口調だったが、階段を下り終えた時にはもう元の笑顔を取り戻していた。
「次の授業は?」
左に曲がれば職員室だ。大きな窓ガラスの向こうで、短い休み時間を利用してバルコニーで煙草をふかしている教授の姿が何人も確認できた。余程寒いのだろう。全員が指定のマントを羽織り、赤くなった指の間にパイプや葉巻など様々な種類の煙草を挟み白い息を吐き出していた。
窓の縁が絵画の額縁のように見えた。黒いマントの人々がポーズを取って立っている姿は、青く染まった霧を背景に怪しげで心許ない不安を掻き立てる。いささか不気味だがこの学校の雰囲気にとても馴染んでいた。
「次は休講です。リンコと待ち合わせをしているから…」
「そう。それじゃあぼくは授業の準備をしてくるよ」
右手を挙げ応えるとベンバー教授は踵を返そうとしたが、思いついたように立ち止まるとやや躊躇いがちに口を開いた。
「転校生に関する噂を聞いたんだけど、その…」
「あ、もしかして父親のことですか?」
言い淀むベンバー教授の科白を先回りして問うと、彼は苦々しげに笑い頷いた。
「あまりおかしな噂が流れていたら、きみの方からも否定して欲しいんだ」
「ふふ…ベンバー教授が父親だって言われているからでしょ? 教授がいつまでも独身だからそんな風に噂されるんですよ」
「ジャックも同じ花の独身なのに、どうしてぼくばかり避難されるんだろうね」
広い肩を落として溜息を吐く。大人がそんな風に落ち込む姿は惨めだけど、彼の場合は可愛さが倍増されてしまう。もう少し教授と過ごしたい欲求もあったが談話室で待っているリンコを思って引き下がった。
「二人ともいい加減にしないと適齢期越えちゃいますよぉ」
いじけるベンバー教授に追い討ちをかけると、あたしは笑いながら駆け出した。
四階の談話室で待ち合わせましょう、とキッコに言われたけどこんなにもいくつも談話室があるだなんて知らなかったから二つ返事で答えてしまったのを今更ながら後悔した。
やっぱりロッカーに鞄をしまってから行こうかしら。そんなことを考えながら長い廊下を移動していると、正面から見覚えのある顔が近づいきた。彼も私に気づくと一旦周囲を気にかける素振りを見せた。けれど既に授業が始まり廊下に人気はない。耳を澄ませると、壁越しに教科書を朗読する声が聞こえてくる。
徐々に翠との距離が縮まってくる。けれどお互いの視線は前方を見据えたまま交差せず、そのまま擦れ違うかと思ったその時
「聞きたいことがある」
擦れ違い数歩進んだ所で立ち止まる。私はすぐに振り向いたけど、翠はしばらく背を向けたままだった。
開いた二人の間の壁に巨大な人物画が飾られている。黒い髭の豪華な冠と錫を携えた男性だ。長いマントとその威厳に満ちた立ち姿だったがよく見ると口元は醜く歪んでいる。細い目はやや俯き加減で、まるで私たちを見下し冷笑を浴びせているようだった。
「キッコとモリアの苗字を教えてくれ」
「モリアも?」
つい眉を寄せて問いかける。するとゆっくりと振り返り眼鏡の縁に触れると冷ややかに答えた。
「最近よく三人で行動している所を見かけている」
飽く迄冷徹とした態度に軽い反抗心を覚える。もう私の知らない間に彼は、独自に調査を進めているのだと予告され焦燥感に駆られた。
「理由を教えて。苗字が何か関係あるの?」
短い沈黙の間翠はただじっと私を見詰めた。何ら表情のないその裏側では、無知な妹を愚弄する言葉で溢れているのだろうか。
「……レオ、シュカ・ヒスズミ。ナルキ、ハルキ・シラクラ。ゲンジロウ・ナツシゲ。サエ・ナガタ。ジェニファー・クルス。ベティ・レイラ・クレンディ。キサメ・リトバルスキー。そしてベンジャミン・ワルト・カーリー」
と、言葉を区切り私の反応を待つように黙り込んだ。鋭い視線を意識しつつも、列挙されたフルネームを反芻した。
比須角…白鞍…夏繁…永多……日本の著名人たちの名前。国内外を問わず有名な俳優や王族、学者、財閥。誰もが一度はその名を聞いたことがある大物ばかりだ。確かにここの学費が並みたいていのものではないと知っていたけれど。
「カーリーって…国内でクーデターが起きているあの国の…」
「暗殺から逃れる為に、ここへきたのかもしれない。今挙げた生徒以外にも表立って存在されては困るような立場の子どもが大勢いる」
ふと口を閉ざし、再び廊下を漂う静寂に耳を傾けた。まるで誰かにこの会話を盗聴されていることを前提に話しているようなそんな緊張感。流れる無言を介して、翠は私に答えを求めてきた。
二人の兄妹はしばらくお互いに見詰め合っていた。バックミュージックは、壁の向こうで朗詠される教科書の文章。いくつも重なって不思議と、お呪いのようにも聞こえていた。
何だか眠い…
『ぼく』は必死に開けていた瞼が重たくなってもう我慢でなくなってきた。冷たい石の床でもいい。どこかで横になりたい。頭の奥がぼんやりとして意識も朦朧とする。壁にしがみつき震える足を支えたものの次第に指の力が抜けてきた。
虫の鳴くような小さな声で妹が
「……調べてみるわ」
と呟いた。二人の視線もどこか遠くへ向けられる。その一言で兄妹の会話はすべて終了したらしく、同時に踵を返すと背中を向けて歩き出した。廊下に響く二人分の足音に耳を傾けながら膝から崩れ落ちた。白い大理石の床が暗闇の中で淡く白光している。頬に伝わる冷たい石の感触を確かめながら全身の力が尽きたのだと悟った。
いつもの発作だ。少し眠れば元に戻る。そう言い聞かせ、不規則に刻まれる鼓動が辺りに響くのを聞いた。
昼下がりの談話室には授業を終えた生徒たちが個々にグループを作り、お菓子を片手にくつろいでいた。あたしはその中にリンコの姿を探したが一向に見当たらなかった。
まだきていないのかしら。
そのまま待とうと思い部屋の隅にある小さなソファに腰を下ろした。中心の明かりから離れて妙な疎外感が漂う。しばらく何とかリラックスしようと足を組み替えたりお菓子を頬張ってみたりと努力したが、最初に感じた一抹の不安はなかなか拭えなかった。
少なくともこれは、あたしが学園に入学した時からずっと感じ培われてきたコンプレックスだった。
三年前、あたしの父親は進学先に迷う彼女にこの学園への入学を「命令」した。家長の命に従う以外の選択肢などなく。またあたし自身も古い因習に縛られた実家での生活に限界を感じていたこともあり、喜んで異国の学園へ向かった。生まれた時より虐げられてきた自己に対する評価を、新境地で清算することができるという期待があったからだった。
しかし現実は決して甘くはなく、入学して数か月としないうちに諦めを知った。
誰からも愛される非の打ちどころのない人間。そんな高い理想を努力なく叶えることなどできるはずもなく。努力を怠れば自然と自ら望みすら抱くこともなくなった。
リンコに会うまではそれでもいいと思っていた。
「…キッコ?」
ふいに名前を呼ばれはっと顔を上げた。本を抱えたモリアがこちらを見下ろしていた。
「珍しいじゃない図書室以外にもちゃんと行っているのね」
「セトと待ち合わせをしているんだよ。キッコは…?」
と問いかけるも、その面差しは既に待ち人を予測してほのかに紅潮していた。そんな彼の胸中が手に取るようにわかり、羨ましいような妬ましいような複雑な思いを噛み締めた。
「リンコと待ち合わせをしているの」
「あ…あぁ、そうなんだ」
「ねぇ知ってる? リンコってば今朝も告白されたのよ。転校して何週間か経つけど、さすがって感じよね」
「リ、リンコは…もてるんだね」
「でもね、全然喋ったこともない上級生からも告白されてたのよ。かっこいいわぁ。憧れちゃう」
「ミ、ミドリも人気があるみたいだけど」
「そうなのよ。あたしのルームメイトのサエって知ってるでしょ? ベティの友だちの日本人だけど、彼女もミドリにお熱なのよ。嫌になっちゃうわ」
「あの、る、類は友を呼ぶっていうからね。サエとはあまり馬も合わないんでしょ?」
「そう、だから私たちの部屋に入り浸っているのよ」
と、いつの間にか現れたリンコが明るく笑いながら答えた。
「まだまだ勝手がわからなくて、迷っちゃったわ」
「あ! ごめんなさい。そうよね、談話室っていっても沢山あるもの。あたしってばうっかりしていたわ」
「いいのよ、運動になったもの。それよりテーブルに移動しない? そこに私のお尻を置くスペースはないみたいだから」
運動を必要とするような体型でもないくせに。リンコの優しいジョークだとわかっていてもあたしはこんな些細なことでも嫉妬してしまう。
「やだわ、リンコったら」
モリアと一緒に笑うとその顔から笑顔が剥がれないよう気をつけて、あたしたちは場所を変えた。
談話室のテーブルはっほとんど埋まっていた。中でもシュカがテーブルを二つほど独占しものすごい形相で問題集を解いていたので誰ともなく離れているようだった。私たちも触らぬ神に祟りなしということで、窓辺に絨毯を敷いて設えた石造りの椅子に向かい合って腰を下ろした。
「モリアとこうしてゆっくり話をするのって久しぶりね」
どこか落ち着かない様子で視線を漂わせる彼に話しかけた。
「あ…う、うん…」
いつからかモリアは私の目をちゃんと見ないようになっていた。それでも顔を合わせれば挨拶を交わし、キッコを交えた三人で教室移動などはするのだけど彼の態度が微妙に変わったのはつい最近の話ではなかった。
「ファルバロと待ち合わせをしているんでしょう? あいかわらず時間にはルーズよね」
「い…いいんだ。別に急ぎの用って訳じゃないし」
言葉を選びながら紡ぐモリアから何に怯えているような危機感を感じた。本人は意識してそれを隠しているようだけど、扉が開く度に絶望の色を滲ませた顔で入ってくる人間を確認する様子はおかしい。
一つ考えられるのはセトによる何らかの介入だった。私たちの歓迎会の日もそうだったけれど、度々彼がモリアを探し接触している。そしてあの階段から足を踏み外して…と言っていた日から、モリアの周囲に対する態度は変わっていった。元々あまり他人と交流を持たないタイプのようだったけれど、決して人間不信とかそういった類ではなかった。それがここ最近の彼の様子を見ていると、決まった人以外には決して交わろうとせず。猫背気味だった背中はより丸く曲がり周囲の視線から身を守ろうとしているように思えた。
「そ、そういえば、もうすぐ生徒会の立候補期間が終わるけど、ミ、ミドリも…生徒会長に推薦されているって聞いた?」
「…初耳よ。でもキサメも立候補するって言っていたけど」
高等部に所属する生徒であれば学年や年齢の制限なく会長に立候補できるとは聞いていたので、翠が立候補するというのはさほど意外ではなかった。
「キサメは副会長の副会長に立候補するらしいわ。キサメの場合女子の投票は確実だから、当選も絶対だって言われているのよ。噂ではベティがせっセト彼の票集めに奔放しているらしいけど。でもミドリだって勝算はあるわ。ベティの友だちのサエって子が彼に夢中なのよ」
「例年、監督生が生徒会を結成するようなことを聞いたけど」
随分前に食堂で交わしたキサメとの会話を思い出し、私は小首を傾げて尋ねた。
「それは誰も立候補したがらなかったからよ。生徒会なんて内申点は高くなるけど忙しいし、色々と時間をとられるから。たまに皮肉で『バロの雑用係』なんて呼ばれることもあるのよ」
キッコのもの言いについ気持ちが緩んだ。
「投票はガドレが始まる前。新しい生徒会が決まったらすぐに一大行事が待っているのよ。それにガドレが終われば編入期間と重なって冬休みになるし生徒会は大忙しよ」
「編入期間?」
「あら、バロに聞かなかった? 成績優秀者が他校に編入する為の期間なのよ。世界中から転校生がくるけど、まぁ大抵が出て行っちゃうわね。もっと自分の得意分野を磨く為に、それぞれに似合った学習場所をバロが探してきてくれるのよ。そうそう、今年はベンジャミンも転校するって聞いたわ」
ベンジャミン。その名前を聞くのも久しぶりだった。転校したその日に行方不明になった生徒。噂で聞くくらいでしか、彼のことを調べられなかったけれど翠との会話が作用して嫌な想像が膨らんでしまう。
「前から気になっていたけど、パルトロに選ばれた生徒は一定期間学園から姿を消すのよね?」
同意を求めてキッコとモリアの顔を見比べる。パルトロについては彼女たちはいつも表情を硬くする為、私は軽い口調を心掛けた。
「その間、選ばれた生徒はどこへ行くのかしら? もしかしてパルトロだけ授業はすべて免除されるなんて、素敵な特典はないわよね」
否定的にならないよう言葉遣いに気をつけて問う。けれどモリアだけではなく、キッコまでもが口を閉ざし俯いてしまった。
「消えるのは、ただの建前だよ」
突然横から合いの手が入った。驚いて顔を向けると、そこにはゲンジロウを連れ添えたセトが立っていた。瞬時にモリアの表情が変わる。畏怖と懸念、僅かな望み。いくつもの感情が入り混じった複雑な眼差しをセトへ向けるが、すぐにそれらを飲み込むとぎこちないながらもいつもの面持ちを取り戻した。
「パルトロに選ばれる前と変わらず、ベンジャミンは毎日授業に出ているし友だちも交流している。何百人って生徒がいるから普段、彼の姿を見かける機会が少ないだけだよ」
優しく畳みかけるように諭すセトとは違い、ゲンジロウは馬鹿にしたように言い放った。
「いっくらここが特殊だからって言っても、パルトロに選ばれた生徒を拘束する訳ないだろ」
確かにその通りだけれど、実際にベンジャミンの姿を確認していない以上は可能性を否定する訳にもいかない。とは言えそんな反論を唱えるつもりもなく、肩を竦めて苦笑した。すると場の雰囲気を変えようとセトが再び開口した。
「そうだ、リンコ宛に日本から封筒がきていたよ。寮のポストに配達されているはずだから、後で確認しておいて」
芹沢さんに送った返事だろう。幾分気持ちが晴れる思いで頷くとセトも微笑んだ。そして視線を先程から一言も言葉を発していないモリアに向け
「随分……待たせちゃってごめんね。いこうか」
「あ。う、うん」
ゼンマイ仕掛け人形のような動作で立ち上がると振り返り、私たちを一瞥した。その瞳に何かを切実と求めるものを感じた。
「それじゃぁ…またね」
別れの言葉を告げられ、えぇと相槌を返すしかできなかった。それでもモリアの後ろ姿を見送る間、妙に嫌な予感が残った。
セトたちがモリアを連れていった後、キッコはリンコとのお喋りに夢中にった。リンコは聞き上手で何も考えなしに思いつく話題を喋り続けたにも関わらず、二人の間には笑い声が絶えなかった。授業で最近やけに宿題が多くなった、ルームメイトが四六時中ミドリを話題にする、日本では秋の中頃なのにここでは気温が下がる一方だ…など意味のない会話を投げては返し、それを何十往復と繰り返していた。
談話室に男子生徒が入ってくるたびに、リンコへ向けられる視線が気になった。しかし本人はまったく意に介していないようだった。男子生徒たちの熱い視線は他の女子の反感を買うが、リンコへ対する態度が急に変わったのはセトの影響だろう。セトの個人レッスンを受けるリンコを非難するのは、間接的にバロやその孫のファルバロをも中傷することになるのだ。
灰色の空を背景に微笑むリンコは、同性のあたしから見ても本当に羨むくらい綺麗だ。
だからファルバロが気に入るのも当たり前。当たり前だから……仕方ない。リンコはきっと選ばれた側の人間なのだと、あたしは心の奥で繰り返し呟いていた。
「……もうそろそろ、やめておいたら?」
突然リンコが躊躇いがちに口を挟んできた。ずっと喋っていたからか、一瞬何を示しているのかわからなくて呆然としてしまった。
「あまり食べると夕飯が入らなくなるわよ」
気を遣っているのか絶えず優しげな微笑を浮かべて、リンコはあたしの手元に視線を注いだ。それに気づいて手を見る。いつの間にかスコーンやチョコレートの食べかすがついていた。よく見れば膝にはお菓子を持った紙ナプキンが置かれている。後でリンコと食べようと今朝、鞄に詰めてきたものだったがその半分以上が既に彼女の胃袋に収まっていたのだ。
全然…気づかなかった……。
それでも口の中に残る甘い余韻や、満腹になった腹部の感覚からして決して嘘ではないだろう。無意識に伸びた指が唇についた粉砂糖に触れる。リンコでさえ微笑みにやや呆れに似たものを覗かせていた。
急に惨めさと恥ずかしさが同時に込み上げてくる。
「やだぁ、あたしったら。ついつい食べちゃうのよね。でもね! これでも一キロ落ちたのよ」
大袈裟な身振りを加えてごまかす。残っていたお菓子もナプキンに包んで鞄へ戻した。
―――何だか泣き出したい気分だ。
「いいなぁ。私は今朝体重をはかったら増えていたのよ。ここの料理が美味しいからつい、食べ過ぎちゃうわね」
見た限り増えたようには思えなかったけど、彼女の気遣いだけはひしひしと感じられた。
リンコは本当に素敵な子だ。一人でも絶対に負けないような強さと、優しさと賢さを兼ね備えている。そんな子と友だちになれたことがあたしにとってはすごくハッピーなんだから。そう言い聞かせ何故かチクリと痛む心を慰めた。
気を取り直して顔を上げたその時視界の端に珍しい顔を捉えた。
「…ユンだわ」
「え?」
あたしの言葉にリンコも反応して振り向いた。談話室に入ってきたユンは空いているテーブルを探し、しばらく室内をうろうろしていた。しかしほとんどの席が埋まっていたので、仕方なく問題集を解くシュカに声をかけた。
「ここ、空いている?」
問題に集中していたシュカが顔を上げユンの顔を確認すると、無表情に身振りで座るよう促した。二人はそれ以上言葉を交わさず再び無言を背負ったまま問題集に没頭した。一連のやり取りを何となく緊張した思いで見守っていたあたしたちだが、ようやくオチが着いたのでホッと溜息を漏らした。
今も視線を二人へ向けているリンコに向かって説明した。
「あの子、ユンファって言うの。私たちの一つ下の学年。みんな、ユンって呼んでいてすごく頭がよくて特別に英才教育を受けているくらいなの。彼女の為に選任教員が五人もいるのよ。普段からあたしたちと違う教室で勉強をしているから、あぁして姿を見かけるのも珍しいくらいなの」
「他に英才教育を受ける生徒はだいたいどのくらいいるの?」
「えぇっと…どのくらいかしら? それほど多くはないはずよ。特別教育を受ける子たちをグドゥって呼んでいて、グドゥは毎年優先的に他校へ編入していくの。だから大抵が言葉も交わさずに消えていくから、みんなどこかよそよそしいのよね。どうせ仲よくなっても転校しちゃうから…って所があるもの」
ユンの話題ついでにあたしは七年前に突然消えた、彼女の姉についての噂を思い出した。
長い髪が印象的なとても綺麗な人だったらしいけど、パルトロに選ばれていた為、異例にもその年はガドレが行われなかったのだとか。
―――あたしが生まれる前から既にこの学園は存在していて、あたしたちがそうであるように同じ制服に身を包んだ生徒たちがここで集団生活を営んでいたんだ。選ばれた子どもたち。綺麗な人、聡明な人、特殊な才能がある人……どれにも当てはまらないあたしは、選ばれた人たちに黄色い声を浴びせ、栄光のおこぼれを預かるくらいしかできないのかもしれない。
例えリンコがあたしに心を開いてくれなくても、傍にいなければあたしは、自分自身の存在意義さえ、見つけられなくなってしまう。
…そんな気がする。
談話室で時間を潰していると、ようやく一日の授業の終了を告げる鐘が鳴った。逆算して四時間はキッコのお喋りに付き合っていたことになる。彼女の饒舌ぶりには改めて感嘆させられる。けれどそろそろ切り上げなければ、このままだと無駄に一日が終わってしまいそうだ。適当な所で話題をまとめると
「カリキュラについて教授に呼ばれているから、職員室に行ってくるわ」
「一人で大丈夫?」
不安げに眉を寄せながら呟く。一人になるのが嫌だと、言葉ではなく態度で訴えかけていた。
「えぇ。前の学校での単位についても話し合わなくちゃいけないから。先に食堂へ行っておいて」
これから行うことを考えて、やはり単独で行動するべきだと思い彼女の願いを断った。寂しげに笑いながら手を振る彼女に応えながら、賑わい始めたテーブルの間を抜けてドアへ向かった。辞書に顔を沈め鉛筆を動かすユンの小さな背中に回った時、ふいに彼女の手元に置かれた筆箱が目に止まった。
先端が針のように尖った鉛筆の上に乗せられた写真。高等部の制服を着た長い黒髪の少女がこちらに向かって微笑んでいる。その隣に並ぶ小さな女の子。きっと幼き頃の彼女だろう。長髪の少女はお姉さんかしら。脳裏に少女の面影を焼きつけながらそっと談話室を後にした。
長い廊下を歩きながら、擦れ違う生徒たちをそれとなく目で追う。そうするうちに、ふとある共通点に気づいた。色とりどりの髪の毛をそれぞれに飾る女子生徒たち。少し手を伸ばせば指先に絡まりそうな、美しい毛並み。
角を曲がると翠が待ち構えていた。窓枠に腰かけ本を読んでいた彼は、私に気づくとただ黙ってこちらを見詰めてきた。観察と言うよりも監視に近い感情を悟る。
「誰かを待っているの?」
沈黙に耐えきれず問いかける。廊下には生徒の笑い声が響いている。他人の目を意識した優しげな表情を作った。
「キサメがガールハントに出ているから、暇潰しをしていたんだ」
穏やかな笑みを絶やさず
「琳子こそ、どうかしたのか?」
とさり気ない気遣いを滲ませて質問をする。
「図書室へ行こうと思って。次の美術の授業で使う画集を借りなきゃいけないのよ」
「あぁ、カナムラ教授の授業だろ?」
「えぇ、彼女の授業は人気があるみたいね」
苦笑する翠。その理由も気になったが、それよりも生徒会立候補の噂を確認したくなった。
「生徒会に立候補するって本当なの?」
「耳が早いね。今朝申し込んだのに」
「キッコから聞いたのよ」
他愛のない会話。どこの家庭でも普通に行われるであろう話題なのに、廊下から生徒の姿が消えた途端、二人の間に流れる空気も一変してしまった。眼鏡越しに向けられる鋭い眼差しを受けとめ思いついた言葉を吐き出した。
「何を…考えているの?」
「お互いさま、だろ」
そう言い放つと翠は窓枠から離れて廊下を進んだ。その後ろ姿を追いながら注意して擦れ違う生徒らを観察した。
長い髪の少女たち。そういえば湖の伝説の乙女も黒い長髪だったけれど、何か関係しているのだろうか。それに初めて寮へ案内された時、シュカが忠告してきた。長い髪は好かれない、と。私だから嫉妬されるのだと。どういう意味? 私だから?
短髪は二人しか知らない。談話室で見たユンとルームメイトの…ティル。
「!」
誰かと肩がぶつかり、その反動で床に手をついてしまった。つい注意散漫になっていた。前方で呆れ返る翠の顔を見つけ慌てて謝った。
「ごめんなさ…え…?」
慌てて立ち上がるとこちらを見詰める相手に気づいた。
「ティル…?」
名前を呟いてハッと目を見張る。片手で押さえている胸元のボタンが取れ、白い肌がはだけていた。背筋に怖気が走ると同時に顔が引きつるのがわかった。翠がゆっくりと近づいてくるが、歩き方がどこかぎこちなくなった。彼も彼女の異変に気づいたからだろう。
意を決し顔を上げる。正面からティルの顔を直視ようとしたけれど視線が合わない。茶色い目がどこを捉えているのかさえわからない。無表情ではない。けれど何も見ていない顔。
翠が肩を並べて立ち尽くす。
「どうした?」
驚きを隠さず問いかける。その一瞬、初めてティルの目に正気が戻り翠を捉えたように思えた。けれど目が合ったのはほんの数秒。すぐに踵を返すともの言わずに駆け出してしまった。その後ろ姿を見て咄嗟に追い駆けるべきか逡巡したが、
「例のルームメイトだろ」
翠の一言で思いとどまった。冷淡とした言葉。既に関心をなくしたように、それまでの表情を払拭させると何事もなかったように再び歩き出した。
早鐘を打つ胸を押さえ、鬱憤とした感情に心が押し潰されそうになる。彼のようにすんなりと感情のスイッチを切り替えられない。どんどん醜い想像が膨らみ、彼女への嫌悪感へ直結していく。
ティルを見ていると母親を思い出す。平然とした顔でどんな汚いことでもやってのけ、時に自らの肉体を餌に男達を操る最低の女。
嫌だ……気持ち悪い…。
辛い気持ちに負け涙腺が緩みそうになる。それでも率先して歩く翠に負けたくなくて、必死に唇を噛み締めて堪えた。
「そぅ。図書館に行っても無駄だよ。この学園に卒業アルバムを作る習慣はない」
冷たい口調に思わず嘆息する。私の目的も既に見破られていたのね。
「どうせなら、例の…個人レッスンでもしてせいぜい関係を深めておくんだな」
「どういう意味?」
反射的に咎めるように鋭く問いかける。翠は僅かに首を傾け私を見ると、美術室の前で立ちどまり中に人がいないかを確認し入っていった。目の前で閉まりかける扉を押さえてその後を追う。
黒く塗り潰した画用紙の一部分を消しゴムで抜いたように、暗闇の中に白い肢体が浮かび上がる。手元の電気をつけると、壁際に並ぶ無数の石膏像の蒼褪めた顔が明らかになった。
ブルータス、ジョルジュ、ミケランジェロ、マルスやアマゾンの胸像や立像。教室後部には生徒作品の像があり、壁にはそれらの生前の姿を想定したデッサンも飾れていた。第二美術室は基本的に造形専用の教室になっている。なのでここに足を踏み入れるのは初めてだった。
「そのドナテルロの少女……モノクロ写真みたい」
生徒たちのデッサン力の高さに舌を巻きつつも、中でも一際目立つ完成度の高い作品に近づき驚嘆する。まさかとは思ったが、やはり画面右下にはキサメのサインが記されていた。
モノクロの画面の中で少女は屈託のない無邪気な笑顔を見せていた。けれど男性ではなく少女を選ぶあたりは彼らしい趣向かもしれないと思った。
「セト・イチノセ」
静寂を裂く凛とした声に心臓が震える。振り向くその先に待っている翠の顔を思い浮かべゆっくりと視線を足元へ落とす。
「父親は既に死別。母親が学園長イサム・ハナブサの娘で、ハナブサ氏には息子がいたけれど七年前に病死している。バロの息子は離婚して引き取られた母親の姓を名乗っていたようだけど、途中から父親方の祖父の元で暮らしていたらしい」
「バロの…息子?」
反射的に振り返る。教卓に腰を下ろす翠は静かに顎をひいて肯定した。
「ぼくが調べた限りでもそのくらいしかわからなかった。彼を詳しく知る人間がここにはいない。敢えて取り上げるならゲンジロウがセトの幼馴染だけど、接触が難しい」
ずっとセトの傍らから離れようとしないゲンジロウの顔を思い出し、翠が音を上げるくらいガードが固いのだと驚いた。そういえば彼がセト以外の人間と行動を共にしているのを見た覚えがない。
「バロの息子がこの学園を継ぐはずだったってことぐらいしか…私も知らないわ」
「つまりセトが成長するまで、祖父のハナブサ氏が経営するんだな」
『経営』という言葉がひどく歪に聞こえた。まるで会社を指すような口調だ。私立の学園なのだからやはり勝手が違うのは仕方ないけれど、それでも後継者を学園で育てるというのはまるで監禁だ。
「セトについて調べるのが……父親探しに繋がると思っているの?」
「興味深いんだよ。この学園に集う子どもたちとはまったく違う、彼の存在がね」
机の上で脚を組み替え答える。その恐れを知らない瞳を見上げながら、先程の会話で聞き出したキッコの苗字を思い出した。
「……キッコの苗字は調べたわ。ノグチキクコ。多分、篦口財閥の家系じゃないかしら」
珍しい漢字を使うので宙にそれを描きながら説明した。
「ふぅん……」
ふいに私を正面から捉えると
「忠告してやるよ。周囲の嫉妬を買う真似は控えた方がいい」
と短く釘を刺した。
「今朝リンコに告白したシーリーは去年、キッコが振られた相手だ」
居心地の悪い視線に耐えられず顔を逸らす。
「けれど断ったわ。それに…そんなことを言われても、私は」
「知らなかった。が、本当に通用するかどうかはよくわかってるんだろ。今はファルバロと個人的に付き合いがあるというだけで、周囲の見る目も少し甘くなっただけだ。油断すればすぐにでも突き落とされるぞ」
悔しさと恥ずかしさが入り混じって頬が一気に紅潮する。反論したくてもうまく言葉が見つからずもどかしさに唇を噛み締めた。
翠はちらりと腕時計を一瞥すると机から降りて入り口へ向かった。ノブに手をかけると冷ややかな笑みを口元に宿し
「さすが…母さんの娘だよ」
心からの蔑みを込めて呟き教室を去っていった。
遠くで誰かの話し声が聞こえる。短い言葉が途切れ途切れに響く度に、痺れた頭の奥が気分の悪い痛みを発していた。痛みに耐えかねて『ぼく』は何とか瞼を持ち上げるものの、すぐに重力に負けて再び閉ざしてしまった。
あぁ、また寝ていたんだ…
もう授業も終わっているのかな。周りが真っ暗で何も見えない。教室の電気を全部消されてしまったのかもしれない。
「今日…ベンジャミンが授業に出たわ」
少し息の乱れた女の声。合間にギシギシとバネが軋むような音が聞こえる。
「珍しくお利口さんだったのよ。真面目に私の話も」
その瞬間女の声が途切れ、代わりに言葉にならない悦の入った低い悲鳴が響く。
「きみに見惚れていたのではないのか?」
声を聞いた限りまだ若いけれど、穏やかな口調の男の声。こちらもやはり息が乱れていた。やや間を置いてから忍び笑いが漏れる。同時に耳障りだったバネの軋む音も聞こえなくなった。
「けれど知っていたかしら? 彼、芸術は商品でそれを自の手で作るのは貧乏人か職人のすることだって言って、私や他の美術教員を蔑んでいたのよ」
カチッという音と一緒に一瞬暗闇の向こうが明るくなる。大きな溜息と共に不思議な匂いの煙が漂い始めた。
「それで…ツインは今日も真面目に授業を受けていたのかな?」
「えぇ勿論。仲よく机を向かい合わせて人物画を描かせたわ。貴方には到底及ばないけれど、よく似ていてどちらがどちらの作品かわからなくなってしまったもの。そう、貴方が作ったドナテルロの少女だけど、美術館へ出展しないかって話がいくつかきているわよ」
「いじわるな人だ。作品を世に送り出さないって条件で、制作が許されているっていうのに」
「貴方の才能を埋没させようとする輩なんて、厳重に罰せられるべきよ」
長い沈黙が続く。時折、小さく嘆息する声がするだけで暗闇の向こうの会話はもう聞こえなくなってしまった。再び雑音が始まったけれど二人の嗚咽に嫌悪して立ち上がる。
どこへ行こうか、そう考えながら振り返ると、暗闇の向こうから誰かを呼ぶ声が聞こえてきた。
年齢を重ねた、低くそれでいてよく響く声。自然と『ぼく』の脚が動き歩き出す。まるで見えない糸で操られているように、身体は軽やかに進んでいった。
リンコと別れた後、一人で食堂へいく気分にもなれずあたしは寮の自分の部屋へ戻ってきた。ルームメイトの姿がなかったのがせめてもの救いだ。
転校生ってだけでこれほど色々な噂が飛び交ったのも、きっと二人の容姿と独特の雰囲気に魅了されたからだろう。無関心を装って常に二人の動向に気をかけているのもその所為だ。
でも…だからって言って、むかし振った女の前でリンコを口説こうとするかしら。
脳裏に蘇るかつての想い人の顔を振り払いベッドに横たわる。寝返りを打つとバネが軋む音がした。
―――ここのベッドも結構古いのね。動くたびにうるさくて仕方がないわ。
それでも悶々とした醜い感情は拭いきれない。あたしだってミドリをかっこいいと思うし、それに紳士だわ。会ってもちゃんと挨拶をしてくれる。それにあたしが男だとしたら、やっぱりリンコを好きになるに決まっている。性格なんて知らなくていい。あの雰囲気に魅力を感じた瞬間から、恋に落ちることだってできるのよ。同性でもリンコに憧れているもの。
リンコは優しいわ。一緒にいて退屈させないし、常に笑顔が絶えない。それに頭だっていいもの。非の打ちどころもない。けれどリンコが一人でいる時のあの表情を思い出し、背筋に冷たいものが走った。
集団とは完全に距離を置いた様子は、一切の他人を否定しているように思えた。そういえば、リンコって全然男の子に興味を持たないってよりも……男の子を嫌っている節がある。例外って言えばセトとモリアくらいだわ。他にリンコに話しかけてくる男子には、どこかよそよそしい。
でもその理由さえわからない。いつも傍にいるのに何も語ってもらえない寂しさ。リンコは何も語らない。それは意図的に隠しているように思えた。
…やっぱりミドリも関係しているのかしら。
あれは二人が転校してきた日のことだった。職員室に寄っていたあたしは、レオたちが転校生を案内している所を偶然に目撃した。最初の印象は本当に兄妹なの? と疑いから始まった。勿論あまり外見が似ていない点もあったが、何よりもあの二人の間に漂う空気は普段とまったく異なるものだったのだ。もしミドリの手元が隠されていたらきっとリンコの背中にナイフか何かを突きつけていると想像しただろう。それくらい二人から緊迫した空気を感じた。
そしてもう一つ気になる所があった。そのことを考える度にキッコは多分気のせいだろう。そうじゃなくちゃ、おかしい。と自分を説得しようとした。
でも……気がつけばミドリの視線は、いつもリンコを追っているように思える。憎しみとも悲しみとも取れない、あたしには理解できない複雑な感情を滲ませてずっとリンコを見ていた。
「……違うわ」
かぶりを振り否定する。きっと妹想いなのよと、自身にそう言い聞かせ起き上がろうとしたその時、突然ノックもなしにドアが開いた。
黒髪を耳元で束ねたサエが視界にあたしを捉えた瞬間、露骨に眉をしかめた。
「ちゃんと綺麗に片づけてよぉ。ネズミがきたらあんたの所為だからね」
「え…?」
我に返り手元を見る。いつの間にかスカートの上に、クッキーやパイの食べかすが広がっていた。茶菓子に用意されていたお菓子もほとんど残っていない。下腹部が膨れているのが一目でわかった。
「これからミドリとご飯食べるのよ」
驚き呆然とするあたしを無視し、サエは鞄を置くと壁にかけていたコートを取って再びドアに戻った。
「彼ってね、ロングヘアが好みだそうよ。剛毛の癖毛なんてお呼びではないのよね」
艶やかな黒髪を自慢げに見せびらかせると、サエは鼻歌交じりに立ち去っていった。その細身の後ろ姿を見送り苛立ちを覚える。
―――何よ。ロングヘアが好きだなんていったら、単純にガドレの主と趣味が同じじゃない。それに長いだけならこの学校でも沢山いるわよ。あたしがリンコを介してミドリとも仲がいいって思い込むようになって以来、サエとの関係は急激に悪化した。前からあたしを軽視していたけど、最近ではあんな風に露骨にあたしを馬鹿にするようになった。
苛々する。頭に血が上り怒りに我を忘れそうになった。
あたしには何もない。何もないから、リンコしかいない。胡桃を割れなくなった人形は捨てられる。だから完璧なリンコの『友だち』という役だけは、誰にも渡さない。
口元についたかすを拭うと、あたしの右手は新たなお菓子へ向かっていた。
食堂へ行ってもキッコの姿はなかった。もう夕食の時間が始まり堂内も賑わい始めている。しばらく入り口に立って待っていたけれど、一向に現れる気配も見せないのでどうしようかと逡巡した。
出入りの激しい入り口で、ふいに誰かが立ち止まる。顔を上げるとそれはモリアだった。隣にセトの姿もゲンジロウの姿もない。
「ど、どうしたの?」
「キッコを待っているの。まだきていないみたいだから、戻ろうか考えていたのよ」
すると食堂内を見渡し「あ、あそこに…お兄さんがいるけど…」と女子生徒たちと腰を下ろしている翠を指差した。その面子の中にはベティの姿もあった為、キサメは右側に翠を座らせ左に三人ほど他の女子生徒を置いていた。そして向かいにツインを座らせてガードしているので、傍から見てもベティの機嫌がよいとは思えなかった。
「いいのよ。友だちと楽しんでいるようだから」
むしろ到底あの輪に入る気分ではない。
「それよりセトたちといたんじゃないの?」
「あ…あの、ぼく…暇だから…ただ次の選挙の手伝いを頼まれていただけで……。それにファルバロは途中でどこか行っちゃったし…」
「神出鬼没なのね」
笑いながら答える。
するとモリアは突然真面目な表情になり「あ、あの…あの」と何度もどもりながら言葉を紡ごうとした。
「どうしたの?」
逆に顔を覗き込むと、どんどん顔が赤くなっていった。そんな純粋な彼の反応を見て自己嫌悪に襲われた。モリアの気持ちには気づいていたけれど、応えるつもりもなかったのでずっと知らないふりをしていた。まさに『何も知らない』がいつまでも通じる訳ではないんだと、改めて思い知らされる。
「……一緒に、食べない?」
ふっと溜息を吐いた瞬間つい無意識に言葉が突いて出た。自分自身でも意外な言葉だったが、喜びに輝くモリアの表情を見て撤回するのは無理だと悟った。
「う、うん!」
子どもらしい笑顔で頷く彼を見てわずかに心が痛む。仕方なく並んで料理を取り空いている席に腰を下ろした。
「モリアとセトは普段から仲がいいの?」
「そ、そんなことないよ…。ぼく…友だち少ないし…セトは誰にでも優しいから」
スープを掻き混ぜながら、モリアはどこか言い訳がましく呟いた。
「けれど大変ね。選挙の準備はすべて有志の生徒が行うの?」
「あ、ありがとう。う、うん…一応、監督生たちがやるんだけど、今年は男子監督生が少ないから力仕事を頼める人が足りないんだって」
「…バロの孫だから率先して学内行事に手伝わなくちゃいけないのかしら」
「わ、わからない。で、でもね、バロから直接セトにお願いしてもらっている訳じゃないから、セトが自主的に動いているだけみたいだよ」
「優しいのね」
「うん。とっても優しいんだよ。優し過ぎて…怖くなるくらい」
ふと疑問が湧く。優しいのね、に対しては一言もどもらなかった。
「…ガドレと選挙が終わったら編入期間が始まるんでしょう? モリアは将来の夢はあるの?」
「ま、まさか……。ぼ、ぼくは成績もよくないし、編入とか考えられないから、ぶ、無事に卒業できたらいいんだ」
「卒業したら日本へ帰るの?」
「……か、帰れない。た、多分、別の国の大学に行くかもしれない…。で、でも、でもね。できたらこの国に残りたいんだ」
「ここの環境が好きなのね」
数秒の沈黙。その間モリアはずっとスープを掻き混ぜていた。
「い、家に帰っても…家族が、こま…困っちゃから」
「でもモリアは一人っ子なんでしょう? ご両親が寂しがらないの?」
かぶりを振り視線を渦巻くスープ皿に注いだまま
「ぼ、ぼくがいても役に立たないから…養子をもらったって聞いた……。日本に帰っても、きっと、ぼ、ぼくの部屋も片づけられて…新しい弟が使っているか、から」
「……後継者問題、なの?」
その問いかけに彼は俯いたまま頷いた。
「その、キリノ家は……伝統のある家柄だから、お、落ちこぼれ…がいると困るんだ…」
桐乃家は内親王が降嫁した由緒正しい財閥だ。確か著名な日本画家も桐乃の出身だった。伝統と格式を重んじる家系ならば尚更、彼のような性格では非難されてきたのだろう。そんな胸の内を思うと、つい同情心が湧いてしまう。
名前を調べるという目的を果たし後は共通の趣味などについて喋り続けた。最初は態度の硬かったモリアも次第に緊張が解れたのか、端々にこちらへ寄せる好意を感じさせその度に心に針が刺さったような痛みを覚えた。食事を終え図書室へ行こうと誘われたけれど、やはりキッコが気にかかったので丁重に断わり急いで寮へ戻った。
玄関から入り私のポストから芹沢さんの手紙を抜き取る。それをポケットにしまいキッコの部屋を訪ねたが、眠っているのか返事がなかった。寮内の時計も七時を示していたので、もしかしたら疲れていたのかもしれないと納得し私も部屋へ戻った。
いつものことだけど、やはりティルは帰っていなかった。もう一昨日まで付き合っていた生徒と別れ、新たなボーイフレンドと遊んでいるようだ。
ふと翠と見かけた時の彼女の様子が気になったけど、かぶりを振って頭から追いやった。
ベッドに腰をかけて封筒を取り出す。芹沢さんに調査を依頼したお菓子の成分についての検査結果が同封されていた。簡単な近状報告と会社の運営が少し傾いているとのことがそれとなく書かれ、その後に依頼内容に触れていた。
『それで頼まれていた成分だけど、私の母校の大学に頼んだ所異常は見つからなかったわ。敢えて取り上げるなら日本にはない種類の小麦や、砂糖などが使われているからそれが原因で体調を崩したのではないかという見解です。女の子はお腹を壊しちゃいけないから、恥ずかしくても腹巻をすることをお勧めします。何か必要があればこうして連絡をしてくれたら、できる限り手伝うのでその旨を翠くんにも伝えてちょうだいね。友だちもできて学校生活を楽しんでいるようで安心しました。くれぐれも身体には気をつけて、無理はしないように。
それでは、またね。
追伸 今朝やっと気温が二十度をきったばかりよ。まだまだ日本は暑く秋は遠いです』
もう一度、冒頭からすべて読み返してみる。特に検査結果については丹念に目を通した。
何も問題はない。それを鵜呑みするしかないのだろうけど何故か腑に落ちない。ツインがお菓子を拒否した理由は、ただ日本にない食材に抵抗を感じていただけかしら。けれどキッコのように貪るようにお菓子を食する生徒もいるので、アレルギーの可能性はあまりないだろう。
唇に指を当てて考えてみた。確かに味は文句をつけようがない。育ち盛りの子どもが甘いものに夢中になるのは自然なことだから。
私の考えすぎだったのかしら……。
立ち上がり机の引き出しに便箋ごと手紙をしまうと、ふいにドアの向こうに人の気配を感じた。聞き覚えのある神経質な声ですぐに相手がわかった。ノックが連続して三回鳴る。五秒以上待たせるとドアを開けると、般若のような顔をした彼女が待っているので慌てて駆け寄ってドアを開けた。
シュカと並んで見たこともない男の子が立っていた。栗色の毛がふわふわとしていて綿菓子のよう。小柄でまだ幼さを残した体格を包む制服から、彼も中等部の生徒だとわかった。
背中に背負われている人物に気づき、一瞬声を失う。白く細い腕がだらりと垂れている。綺麗な指には小さな引っかき傷が無数についていて、線を引いたような血が滲み出ていた。
「ティル…」
声をかけるも反応はない。シュカの顔を仰ぐも、彼女が開口するよりも早く隣に立つ男子生徒が、声変わりを控えた高く澄んだ声を出した。
「温室で倒れていたのをぼくが見つけました」
「彼がいなくちゃ運べやしなかったわ。男子禁制なのにっ」
苛立たしげに爪を噛みながらシュカが毒づく。
「どうして温室に行っていたのか目が覚めたら問い質して、私に報告しなさい。授業時
間内に校舎から出るだなんて、問題外だわ」
男子生徒の肩に預けていた金色の頭が、規則正しく穏やかな寝息をたてている。ティルをベッドに下ろすのを手伝いそっとシーツをかけると、ふと男子生徒と目が合った。その一瞬、私は彼を既に知っていたように錯覚した。どこかで見た気がする。けれどどこだろう……記憶を手繰っている間に、薄い唇に人懐っこい笑顔を貼りつけ
「きっともう名前は知っているだろうけど、パルトロに選ばれたベンジャミンです。こうしてお会いするのは初めてですね」
全身を軽い電流が駆け抜けた。そうだ、目の前で微笑みかける可愛らしい少年は、歓迎会の時に見たあの人形と瓜二つなんだ。私たちが転校したその日に姿を消したベンジャミン。噂でしか聞くことのなかった当の本人が目の前にいるというのに、少しも心は浮き立たない。むしろ妙な警戒心が奥深くで芽生え始めていた。
「えぇ、本当に……貴方の噂だけはよく聞いていたけれど、こうして会うと初対面って感じがしないわ」
一語一語に気をつけて言葉を返す。確かハルキのルームメイトで同じ年だと聞いたから、一つしか年は違わないけれど目線はやや彼の方が高かった。
「用が終わったら出て行きなさい。男子禁制なのよ」
冷たい態度のシュカに向かって悲しげに目を向けると、追い立てられるように出て行ってしまった。同時に部屋を去って行ったシュカの後ろ姿を見送りドアを閉める。
思わず溜息が漏れた。
お菓子にしろ失踪していた生徒の登場にしろ……ことごとく私の予想は外れてしまった。
ただ習慣が違う異国の学校と同じなんだわ。これだけの設備を維持しようとすればお金がかかるのは当たり前だしこの環境を考えれば、暗い過去を背負ってくる生徒がいたとしても不思議ではない。
私も空想が過ぎた。まさか…ベンジャミンが死んでいるって思うなんて。
踵を返し机へ戻ろうとした時、いつの間にか起き上がったティルが私を見詰めていた。
「…起きて…いたの……?」
あまりに突然彼女と目が合ってしまったので、つい歯切れが悪くなってしまった。気まずい沈黙に捕まる前にティポットに茶葉を入れてお湯を注いだ。
「シュカが怒っていたわよ。どうして温室へ行っていたんだって。理由を彼女に報告しなくちゃいけないの」
机上の目覚まし時計で時間をはかり、カップに注ぐ。明るいオレンジ色の紅茶が爽やかな香りを漂わせた。
「……違うカァラ」
「え?」
カップを渡そうとして立ちどまる。そして目を見張った。茶色い瞳にいっぱいの涙を溜めてティルは悔しそうに唇を噛み締めていた。
「違うカァラ。違うカァラ。違うカァラァ……」
両手を膝の上でギュッと握り拳を震わせる。初めて見る彼女の怒る様子にしばし呆然とした。
「何が…違うの?」
カップを置いて近寄ってみる。拳の震えは全身に伝わっていた。
「…違ィの…ノー、ベンジャミン…ベンジャミン!」
「違うって…彼がベンジャミンじゃないって、どうして言えるの?」
「違うっ!」
赤く充血した目で私を傾斜に睨みつけると、ティルは押し殺した声で呟いた。
「彼は死んでいる」
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