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第一部 迷路に集う子どもたち
第六話 塔から飛び降りた姫君
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第六話 塔から飛び降りた姫君
―――This is the story of Yunfu.
あっ……違う。
計算間違いに気づき私はノートを睨みつけたまま筆箱に手を伸ばした。
確か鉛筆と一緒に入れていた消しゴムが見つからず、苛々しながら筆箱の中を探した。すると何か硬い紙のようなものが当たり、私は反射的に顔を上げた。旧正月に撮った九年前の写真が筆箱からはみ出ていた。途端にそれまでの集中力が途切れ、私は頬杖をつくとその写真に写る幼い自分自身と家族の姿を見詰めた。
本来なら額にでも飾っておくべきものなのだろうけれど、寮にいても壁なんて見ている暇もない。グドゥと呼ばれ昼夜問わず徹底的な英才教育を受ける自分に、参考書以外を眺める気持ちの余裕なんて欠片もなかった。できるだけ自分の目について且つ普段から持ち運べる場所ということで筆箱が選らばれた。
―――これだけが、唯一の思い出の品。もうどこにもお姉ちゃんが残したものはない。
「ねぇ、ユン。今年もまた、ガドレが始まるね」
凍りついた窓ガラスに手を当ててセトは淡い光を背景に微笑んだ。授業を終えた教室に残るのは彼と私の二人だけ。本館と離れた塔で行われるグドゥたちの授業に、自由に参加できるのも彼だけだった。
何も答えずにじっと写真を見詰めていると、セトはからかうような口調で問いかけてきた。
「怖い? 七年前と同じことが、また、繰り返されると思っているの?」。
「私、昨日ベンジャミンに会ったの」
結局探していた消しゴムを諦め、間違えた部分を黒く塗り上の行に正しい公式を書いた。
「……まだ、生きていたんだ」
半ば独り言のように呟く。片頬がひきつって自分でも卑屈な笑い顔をしているのがわかり、彼の視線がそこに注がれていることを意識する。歪な笑顔をそれ以上見せたくなくて教科書を片づけながら顔を背けた。今日は授業が半日で終了するので、他のグドゥたちは自習室で勉強をしなければいけない。
「ユン」
再び名前を呼びかけるとセトの瞳が私を見詰めた。同時に頬が紅潮し心臓が早鐘を打ち始めた。そんな私の胸中なんて一切察することもなく、セトは音もなく立ち上がると机の下に転がっていた消しゴムを拾い微笑んだ。
笑顔を正面から受け止めギュッと唇を噛み締める。消しゴムを受け取る時に指が少しだけ触れた。ただそれだけのことなのに全身が火照り恥ずかしさのあまり俯いた。
「ユンはもう転校生と、喋った?」
「噂だけなら何度も聞いているよ。兄は優秀だけど妹はどうしようもない男好きだって。兄はともかく…妹とは喋りたくない」
たまに遠くから兄妹の姿を確認することはあった。あまり似てはいないけれどバロが好みそうな綺麗な顔立ちをしていると思った。他の生徒と接する機会の少ないグドゥの中にも二人に関心を持つ子は大勢いた。
「他にはどんな噂を聞いたの?」
どうして彼がそんなに噂を気にするのか疑問に思いながらも私が今日まで耳にした噂をすべて伝えた。
「妹が友だちの恋人を奪って振った。遺産を独り占めしたくて、妹が父親を探しているって聞いたわ。それと……」
指折りに数えながら喋っていると、突然セトが口の端を曲げて笑い出した。ひとしきりお腹を抱えて笑うと、楽しそうに目を細め
「どうして…リンコを中傷する噂ばかり流れているんだろ?」
「ある程度は事実だから、そんな噂が流れるんでしょ」
「事実を脚色するのは楽しいからね」
脚色という表現に腑に落ちないと思った。何よりこれまで誰かの噂話を聞いても、セトは楽し気に笑いこそするがこうして噂自体を疑うことはなかった。
「誰かが意図的におかしな噂を流しているのかも。だとしたら相当、彼女は嫌われているね」
女子同士の面倒なしがらみ関係だろうと見切りをつけて、私はやや鬱陶しそうに切り捨てた。セトにしても、何故転校生に個人レッスンを行っているのか問いただしてやめさせてやりたい気持ちでいっぱいだった。転校生と二人きりの時間を持つなら、同じくらい私にも彼の時間を割いて欲しいとも言える訳もなく。
これが恋なのか知る由もなく。ただ私は他の生徒たちよりも、少し彼に近いというだけ。そんなささやかな優越感を守りがたいが為に、どうでもいいという気持ちとは裏腹にあの転校生についてチクリと悪態を吐いてしまう。
「嫌われるには理由があるもの。それなりの原因を転校生が持っているってことだし」
「嫌われている? まさか。リンコはとても愛されているんだよ」
「じゃあどうして噂が流れるの? コルスティモと同室になったのだって、似たもの同士だからって聞いたもん」
「誰にも見向きされない時に近づいたら独占できる。周りに馴染めないうちに噂を脚色してしまえば、みんなもそれを信じ込む」
時々見かける妹の隣には、必ずと言ってもいいほど同じ女子生徒がいる。確かキッコと呼ばれていたはずだ。彼女が一人で行動している所も見たことがない。
「彼女を孤立させて……独り占めしようとしているの?」
答えを求めてセトを見たが彼は意味深に微笑むだけだった。
「でもあの子だってイヒヌゥじゃない。ねぇどうしてそなにあの子に関わるの? お姉ちゃんだって」
「――ユン。ユンファ…」
たった一言だが、そこには身も心も凍らせるような絶対的な冷たさが込められていた。凍てついたガラスから注ぐ光さえ彼を溶かすことはできない。呼吸する度に息が詰まるよう冷気が身体を侵していく。
いつの間にか私の手足は震えていた。理屈ではない本能が恐怖を関知し怯えている。華奢な彼の手が耳元で揃えた毛先に触れた瞬間、無意識に身体が大きく反応した。
「チュチュは、とても長い髪だったね」
目を逸らしたまま小さく頷く。しばらくしてからセトの手は静かに離れていった。クルリと軽やかに身を翻すと隅に置いていた一冊の古い革本を胸に抱え
「Dina da doo.」
と呟いた。
「錠をかけて鍵を飲み込むまで、何も語ってはいけないんだよ。例えきみがぼくの仲間だとしても、与えられた科白以外に喋っちゃ…」
それは笑顔の警告だった。私情に振り回され余計なことを語るなと、言葉以上の迫力を伴って迫っていた。そうやって彼はいつも私が近づこうとするのを阻むんだ。
Dina da doo.―――おまじないのように呟くその言葉の意味だって、彼は決して教えてはくれない。
昼食を終えキッコと一緒に校内を歩き回りながら私はお喋りを続けていた。
校内はとても広く、転校して何週間か経つのに未だに内部の構造を十分に把握しきれない。それに私を見つける度に露骨に顔をしかめ、後方で声もひそめず罵倒する生徒が今も多くいることにも辟易していた。
「リンコはやっぱりミドリに投票するつもりなの?」
柱にもたれかかるとコンパクトミラーでヘアスタイルを確認していたキッコが問いかけてきた。
「まだ決めていないわ」
「そうなの? あたしはもう全員決めちゃったわよ。まず生徒会長はミドリで副会長はキサメ。書記がトリィで会計はラウよ」
指折りに名前を挙げながらキッコは満面の笑顔を浮べた。
「…まったく貴方らしいわね。…全員男子生徒ばっかりじゃない」
「偶然よぉ。それに女子だとどうしても裏側を知っているっていうか」
同意を求めるように上目遣いをしてきたが曖昧に頷いておいた。こうも恋愛方面に積極的な所は、本当に真似できないので素直に感心してしまう。そんな風に気軽に誰かに恋をできたならもっと人生を楽しめるのかもしれない。
「それはそうとレポートを渡さなくていいの?」
昨日締め切りのレポートを提出しなくちゃいけないって言っていたのに随分と悠長だ。しばらくその理由がわからなかったけれど、周囲に男子生徒が溢れていることでようやく納得した。
「ねぇ、リンス変えたから髪の毛のボリュームが少し減った感じするでしょう?」
苦笑しつつ頷きながら内心溜息を吐いた。思っていたよりもキッコは、自分の容姿にコンプレックスを抱いているようだ。その反動でミーハーな性格になってしまったのかしら。ある意味わかりやすいけれど、そんな彼女こそ様々な意味で思春期の女子そのものだと思った。
「あっ、ベンジャミンだわ」
ステンドグラスの美しい光が注ぐ廊下をベンジャミンとレオが並んで歩いていた。歩く度にベンジャミンのふんわりとした茶色い髪の毛が上下に動く。何を喋っているのかわからないけれど終始レオは口角を上げ、楽しそうに笑っていた。
人懐っこい笑顔をこぼしながら二人は歩いていく。
あの日以来、私はベンジャミンの姿をよく見かけるようになった。そしてティルは変わらず規則に縛られない毎日を送り、キッコは気がつけばお菓子を食べている。何も変わらない単調で退屈な日常。けれど何かが違う。肌で感じる生徒達の間に流れる空気が、ほんの少し下がった気がする。
「さぁて、ちゃっちゃと渡してくるからリンコはここで待っていてね!」
小走りに駆けていく姿に手を振りながら、ふっと肩の力を抜く。同時にようやく自由になった時間を使ってこれからについて考えた。グドゥと呼ばれ英才教育を受けるユンとどうやって繋がりを作るか。専用教室として城の離れにある塔がグドゥの為に宛がわれているので、普段から彼女達と接触する機会はほとんどない。また絶対厳守の寮生活でも規則に束縛されない独自の権限が与えられているので、生活リズムも一般の生徒と比べ把握しづらい。基本的に四六時中、教科書や参考書と睨めっこをしている毎日だそうだけど。
彼女たちが他の生徒と同じ空間に現れるとしたら……生徒会役員選挙。その時を於いて他にチャンスはないかもしれない。
「…ほら、あの子が」
「あぁ。噂の……」
視線を感じたので柱から離れ壁際へ移動した。まるで生徒一人一人が自主的に監視員を務める監獄だ。常にお互いをそれとなく監視し抜け駆けを許さない緊迫した空気が漂っている。それなのにベンジャミンが消えた時さほど動揺は感じられなかった。
それは彼が国外逃亡してきたから? クーデターに命を狙われた王子が消えた所で、恐れるものはないのかしら。むしろ閉鎖的な環境下で生徒間の団結は強まるはず。その象徴のようにセトは学年を超えてすべての生徒達から愛され、また彼を通して互いに仲間意識を共有していた。
もしベンジャミンが本当に殺されたのだとしたら学園ぐるみの犯罪となる。犯人を生徒全員が庇い合っているとしたらどうだろう。きっと探し出せない。そうすると過去にパルトロに選ばれ消えたユンの姉も、既にこの世にいないかもしれない。
姉のチュチュも同じくグドゥと呼ばれる優等生だった。二人の共通点といえばパルトロに選ばれたぐらい。いくら過去を遡っても、パルトロに選ばれ行方不明になったのはチュチュだけだわ。けれどベンジャミンがあぁして生前と変わらず生活をしているのに、ティルは彼が死んだという。
「……」
ティルの真剣な表情を思い出し唇を噛み締めた。どうしても嘘だとは思えない。けれど真実だとしたら、矛盾が多い。
「ユラガワ」
突然目の前に黒い人影が現れた。普段呼びなれない苗字で声をかけられたので、思わず驚いた表情のまま対峙する人物を見上げた。両腕には分厚い教材が山積みにして抱えられていたので、バランスを崩さないようゆっくり体勢を変え私を見ると
「そうやっているとヒサコさんにそっくりだな」
とベンバー教授は嬉しそうに話しかけてきた。
「……母とは、お知り合いだったんですね」
警戒心のない笑顔につい素っ気なく応える。似ていると言われることは多いけれど、一度だってそれを褒め言葉として受け止めたことはなかった。
「先輩だったんだよ。ここへ留学した時も一緒だったぁあ゛!」
突然バランスを崩し、高く積んでいた参考書が彼の足元へ落ちていった。激痛に巨体を屈ませ痛みに絶句したが、無情にも残る本も彼の腕から滑り下りていってしまった。
「あぁ…」
小さく嘆息し見事に四方へ散らばった本を寄せ集める。手渡そうとしたが床に本を重ねて持ち上げようとする姿を見た途端、また同じ事態を招くように思えた。
「手伝います。職員室までですか?」
「ありがとう。ジャックに借りていたから返しにいくんだよ」
照れ臭そうにはにかみながら何冊か私に手渡すと再び本を抱えて立ち上がった。
分厚い専門書ばかりだったけれど、何故か私のよく知る童話が一冊だけ紛れていた。
「あぁ、そのピーター・パンの本はね…ジャックのお気に入りの本なんだよ。あの外見で意外にメルヘンだと思わない?」
嘘か本当かよくわからないジョークに小さく笑い、歩調を合わせゆっくりと進むベンバー教授の後を追い肩を並べる。
「それにしても、こうしてリンコと直に喋るのは初めてだね」
喋り方が落ちついているので、身長差が生む威圧感は次第に包容力に変わっていった。初対面なのに何故か相手の警戒心を解く独特の雰囲気を備え持っている。それが人気の秘訣かもしれない。
「そうですね。数学はチュンホワ教授を選択しているので」
「彼女の授業は難しい? ぼくと違ってレヴェルが高いからね」
「できるだけ予習をして受けているけど、やっぱり大変です。それでも教え方がうまいから何とか追いついてはいるって感じです」
「お兄さんのミドリも優秀だってことを聞いているよ。あぁ…そう……」
突然歯切れが悪くなったので、それとなく顔色を伺ってみると眉間に皺を寄せて困ったように視線を漂わせていた。見上げる角度によって筋の通った鼻が目立つ。キッコから聞いた所によると、父親はアメリカ人だそうだ。彼が私か翠の父親である可能性はどのくらいあるのかしら。
お菓子を調べさせるのは簡単だった。けどDNA鑑定となれば芹沢さんに頼む訳にもいかない。失礼にならない程度にベンバー教授の整った顔を観察する。艶やかな黒髪に濃い眉は日本人の母親譲りかもしれない。今は伏せられている光の加減で小麦色にも見える茶色い瞳は、傍から見れば私と似ているかしら。
突然歩みを止めると、それまで閉ざされていた唇を持ち上げ「あー」と唸るように声を出した。
「その…今更だけど、ヒサコさん…いや、お母さんに関しては残念だったね。まさか事故で亡くなるような人には見えなかったから、訃報を聞いてぼくも驚いたよ」
再び言葉を区切り、正面から私を見据え軽く低頭した。
「心からお悔やみ申し上げます」
こんなに大きな男の人に頭を下げられるなんて変な感じだ。律儀な一面に苦笑しながら
「教授は卒業後も母と連絡を取られていたんですか?」
「パソコンのメールでやり取りするくらいには、ね。同窓会をしても仕事が忙しいらしくて参加できなかったから」
「むかしの母ってどんな生徒でした?」
「一言でいうなら女王様かな。成績も優秀だしとても人気があったからね。でも当時のぼくのガールフレンドと折り合いが悪くって、板挟みにされることがよくあったよ」
喋りながら思い出を振り返るようにふっと口元を緩めた。その一瞬、彼からは子どものような幼さを垣間見た気がした。
「それでも彼女が実家を出て会社を興したって聞いた時は、ぼくらも驚いたよ。いや、やっぱりお嬢様育ちだって思っていたからね。それに…まだ子どもが幼いうちは母親を楽しみたいって本人言っていたからさ」
「挙式に参加されたんですか?」
「あぁ。イギリスでの挙式はね。ヒサコさん、とても綺麗だったよ。同級生たちも集まって一晩中騒いで楽しかった」
イギリスの挙式? やはり入籍せず挙式だけは何回か行っていたのね。派手好きな彼女らしいけれど…
「新郎について」
「彼女が何も語らなかったのを、ぼくが伝える訳にはいかないよ」
突然声の調子を落として断言する。それまでの優しさに溢れた態度を一変させ、覇気を感じさせない冷たさがまとう。並行する二人の間の空気が急激に下がったのがわかった。
「ここでいいよ」
廊下の向こう側にジャックの姿を捉えるなりベンバー教授は再び笑顔を取り戻した。私たちに気づいたジャックも歩み寄り、私が抱えていた本を持ってくれた。
「ベンバー、女性にこんな重いものを持たせるのはいかがかなものかと思うよ」
「一度床にぶちまけてしまったのを彼女が助けてくれたんだ」
角が傷んだ高価そうな本を見て、顔をしかめるジャックに気づかず私に例を述べると
「お礼にお茶でもご馳走したいんだけど」
「いえ、友だちが待っていると思うので結構です」
「友だちって……キッコ?」
その意外そうに問い返す反応に違和感を覚えたが頷いた。すると安心したようにほっと嘆息した。
「彼女と仲良くしているんだね。よかった」
「そういえば、きみはキッコから随分と相談を受けていたようだね」
「キッコがどうかしたんですか?」
驚いて訪ねるとジャックと一瞬顔を見合わせて、ややぎこちなく答えた。
「きみと仲良くなりたいけど、いつも壁を感じるって言っていたんだよ。彼女は寂しがりな所があるからね。リンコをすごく尊敬して憧れだってよくいっていたよ」
「……そうだったんですか」
相槌を打ちながら内心で溜息を吐いた。キッコが意外にも鋭い面があるのはよくわかったけど、集団を好む女子を否定的に捉え自分が抱える寂しさを紛らわせようとしているだけのように思える。彼女が求めているのは私ではなく、ただ自分を一人にさせない都合のいいお友だちじゃないのかしら。
……中身のない薄っぺらい会話で満足する程度の付き合いだもの。それでも大人は、子どもたちが仲よく手を繋いでおけば満足する。無邪気な笑顔の裏でどんな駆け引きが行われているのか知らずに。
「私も寂しがりなんで彼女とは気が合いますよ」
期待通りの答えに二人は嬉しそうに頬を緩ませた。
冷たい石の壁に手をかけて『ぼく』はいつもの習慣で二つの穴から温かい光に包まれる室内を覗き込んだ。左右対称に置かれたベッドと机の一つに、黒髪の少年が腰を下ろし何か作業をしている。ここからは後ろ姿しか見えない。備えつけの暖房がきいて彼のいる室内はとても暖かそうなのにこっちはとても寒い。石畳の通路は冷たく寒さのあまり全身の筋肉が硬直していた。
狭い通路なのであまり身動きはできない。けれど覗き穴は二つしかないので、首をひねりもっと壁の向こうをよく見ようと思った時、死角から別の少年の声が聞こえた。
「また新しいパズルを始めているのかい?」
指にピースを挟んだまま黒縁眼鏡の少年が振り返る。対峙する少年を見据えふっと口元を緩めた。
「随分と早い帰りだな。カナムラ教授のレッスンはもう終わったの?」
「あぁ、結局ドナテルロはアーティスト・ネームを使って出品することに決まったよ」
金髪の長身の少年が視界に入る。彼は机の端に腰をかけると、机上に置かれたパズルを眺めた。
「ベティは何回きた?」
「七回。電話が二回。ツインが怯えていたぞ。ずっと寮の入り口できみを待ち伏せしていたらしいから」
「男冥利に尽きるね」
眼鏡の少年は呆れた様子で溜息を漏らした。そして手元のパズルを見詰めたまま呟いた。
「最後のピースがまたどこかいってる……」
よく見ると彼の机の周りには未完成のパズルが沢山飾られていた。大きいものでは横幅一メートルのものもある。ボッティチェッリのヴィーナス誕生やレンブラントの夜警、ダ・ヴィンチの岩窟の聖母子など有名な絵画作品を集めたもので、見る限りでも難易度が高いものばかりだ。
「まぁ、犯人はセトだろうけどね」
苦笑しながらキサメと呼ばれた少年も相槌を打つ。
「彼の収集癖は有名だし、地下の図書室の本もすべてセトの所有物だって言われているくらいだ。面白い人だよ」
「一度、じっくり話してみたいな」
「あれは難しいね。ゲンジロウといつも一緒にいるようで、実は自由勝手に色々と徘徊している。彼の場合、グドゥの講義を受けることまでできるしね」
ポケットから白い箱を取り出すと煙草をくわえた。その様子を見ていた眼鏡の少年に、いるか? と問いかけるが断られた。
「日本のシガレットが一番おいしいよ。特にセブンスターが好きだね」
うまそうに白い煙を吐き出しながら笑顔になる。しばらく眼鏡の少年も彼の横顔を眺めていたが、二本目の煙草を箱から出すの見届けてから席を立った。
「ねぇミドリ」
コーヒーを淹れるミドリの背中に向かって言葉を発する。
「そろそろ、ぼくと手を組まない?」
「きみの力を借りなくても生徒会長にはなれる」
「当たり前だよ。じゃなくちゃ手を組む価値もないさ」
一人分のコーヒーを注ぐミドリに向かって「あっ、ぼくはシュガーだけでいいよ」と注文した。それを聞いて面倒臭そうに彼の分のカップにも淹れ、そこに砂糖と並んで置かれていた塩を加えた。その後の喜劇を想像するとつい『ぼく』は口元を緩めてしまった。
「どうせもう、色々と調べているのだろ? 生徒たちの過去もファルバロのことも。そしてぼくについても」
塩入コーヒーとは知らずに受け取ると、キサメは一口啜るなり目玉を飛び出さん勢いで目を開いて咳き込んだ。
「ゲフォ! ゲホッ」
「それだけのレベルの技術を持っている癖に、道楽で芸術をしているとは思えなかったからな。何よりきみは目立ちたがり屋だ」
ブラックで飲みながらミドリは、それまでの態度を一変させ漏らした。あぁ、そういえば妹といる時も彼はこんな刺々しい空気を醸し出していたなと思い出した。
苦々しげに横目でミドリを睨み、キサメは塩入りコーヒーを捨てて新しく淹れ直した。
「いずれリンコにも協力して欲しいって思っているのだよ。何せ同じ年頃の少女がいなければ、華やかさに欠けるものね」
「邪魔だ」
キサメの提案を短く切り捨てる。
「どうして? 今、最もセトに近づけるのは彼女だ」
「あの女の噂の所為でリンコが動けば他の生徒も注目する」
「それならもう手筈は整っているよ。キッコからリンコを離せばいい」
「あいつは足手まといになる」
ミドリは初めて感情をあらわにして怒った。あまりに意外な反応だったので自然と沈黙が流れた。
あ…れ……?
ふと胸に手を当てると、いつの間にか鼓動が早まっていた。おかしいな、薬はちゃんと飲んだのに。どんどん熱が上がってくる頭を押さえる。身体が重たくなり立つのもしんどくなってきた。脚から力が抜け石畳の床に座り込む。
頑張らなくちゃ。こいつらはバロの敵になのに、もっと情報を聞き出さなくちゃいけないのに。じゃなきゃ、バロは褒めてくれない。こめかみから大量の汗が流れ落ちた。耳元で心臓が鳴っているようだ。
「いつもリンコを見ているのは彼女が憎いから? それとも」
『ぼく』の意識が途切れる瞬間、カップが床に落ち割れる音を聞いた。
―――お姉ちゃんが消えたガドレが、また始まろうとしている。
今年は例外にも中等部からパルトロが選ばれた。何かの予兆だと一部の生徒たちは騒いでいたが、彼らの日々の暮らしに変化などない。むしろ小さな変化は誰かの目に留まる前に静かに隠されてしまうのだ。この学園では誰もが役者となり、舞台の進行を阻むことを何よりも恐れている。
遅くなった昼食を済ませると私は実習室へ向かう足を速めた。周囲にはイヒヌゥが溢れ、見慣れない生徒に対する態度が冷ややかに感じられた。自分の脚を見てただひたすら目的地に向かって歩いた。
前方から甲高い笑い声が聞こえてきたのでそっと顔を上げる。グドゥの塔ではこんな笑い声を聞く機会もないので、何となく新鮮味を帯びて感じられた。
廊下の中心でベティたちがお喋りをしている。
「何回も寮にキサメを探しにいったのにずぅっと留守だったのよ」
「あんた、もういい加減に諦めなよ」
ベティを囲いサエとジェニファーが呆れ顔で口を挟んでいた。彼女たちは女子たちの中でも特に目立つグループで、グドゥである私でさえ一人一人の顔と名前をよく知る数少ない生徒たちだった。
「だって、もうすぐで生徒会役員選挙よ。身体を壊したらと思うと心配で…」
赤毛のベティが悲しげに睫を伏せて呟く。次の生徒会占拠まで日が迫っている為、こうして個々の後援者たちが焦り出している所をよく見かけるようになった。
「そう、私さっきね、偶然リンコと喋っちゃったのよ! それがさぁ意外にもいい子で驚いちゃったわ。さすがミドリの妹よね」
「調子いいこと言って。昨日までのあんたは、どうしてあんな子がミドリの妹なのか理解できないって息巻いてたくせに」
「それはぁ…だって、それまではよく知らなかったんだもん。噂に聞いていた子とは違うのよぉ」
「ジェニー、人を噂だけで判断してはいけないわ」
鼻にかかる甘ったれた口調で反論するサエを擁護し、ジェニファーを諭すベティ。まるっきり善人ぶった面持ちだ。本人もなりきっているのか、豊かな胸に両手を当て聖母のような慈愛に満ちた眼差しで宙を見詰めると
「本当は心の綺麗な少女よ。それにお母様が亡くなられて日が浅いうちに、異国へ転校させられたのだもの。同情こそしても非難なんてしてはいけないわ」
と一言一言に感情を込めて紡いだ。
「あんたまで! 一番嫌ってたのに、どういう風の吹き回しよ…」
ジェニファーのぼやきも次第に辺りの喧騒に掻き消されていった。
三人から遠退いてもサエの声がしつこく耳に残る。
『噂で聞いていた子とは違う』
塔で交わしたセトとの会話を思い出し再び疑問を抱いた。何故そこまでしてリンコの友人は彼女に執着するのだろうか。
リンコ……か。転校生の名前を反芻しながら職員室の前を通過しようとしたその時、扉が開き中からカナムラ教授が出てきた。
「あら、ユン」
同じ東洋人でも彼女は目鼻立ちがはっきりしている。きっと舞台でも映える顔立ちだろう。事実、女優クラスの美貌の彼女は日本の有名な大女優の娘だと聞いたことがあった。
「こんにちは」
嫌な予感がしたので軽く頭を下げその場を去ろうとしたけど、素早く私の腕を掴むと満面の笑顔で
「貴方って本当に運がいいわぁ。たまには身体を動かさなくちゃ大きくなれないんだもの」
と有無を言わせずに美術室へ引きずっていった。グドゥに授業としての美術はない。つまり私がこうして美術室へ足を運ぶなんて、本来なら卒業するまであり得なかったはずなのに、済し崩し的に気がつけば作業着に着替えたカナムラ教授に石膏像の梱包を手伝わされてしまった。
「宿題が溜まっていて時間がないんですけど」
精一杯の嫌味を込めて呟く。
「大丈夫よ。貴方はまだ若いからいくらでも時間があるものなの。それよりその石膏は美術館に出品するから、首元にもっと梱包材入れて固定しておいてね」
自分勝手な言い分ばかりだ。美人で授業も面白いと評判が高いのは知っているが、私とは相容れない性格の持ち主だった。苛々しながらそれでもきちんと片づけないと落ち着かない性格なので丁寧に梱包をしていると、作品をダンボールに詰めていたカナムラ教授がおかしそうに笑い出した。
「やっぱり几帳面ねぇ。チュチュもそうだったけれど、貴方もさすがA型だわ」
「教授が姉を知っているのはおかしいです。七年前と言えば、教授は二十歳そこそこです」
「あら、やだっ。私の本当の年齢を知っているの? サバ読めないわね…」
とぼやきながら続けた。
「私が教育実習生としてここに戻ってきた時に、ちょうどチュチュが進級した頃だったのよ。月日が経つのって早いわねぇ」
彼女がこの学校で大人しく生徒をしていたのは意外だったけれど、教授の半数以上が卒業生で占められていた。それだけみんな、この学校に依存していると言えるのだろう。
「そういえば貴方って、ファルバロと仲がよかったかしら?」
「時々勉強を教えてもらう程度です」
「そう。もしも顔を合わせたらたまには美術部にも顔を出しなさいって言っといて」
「セトは部活に入っていません」
「お喋りしたいだけなの。彼ってあまり授業に顔を出さないし、そのくせ課題はちゃんと提出するからコミュニケーションをとる機会がないのよね」
わかりました、と答えたけれどきっと彼に伝えても現状は変わらないだろう。誰も彼を束縛できない。けれど彼が仲間として認めてくれたあの日から私は彼の同志になったんだ。私はただのグドゥじゃない。選ばれたのよ。そんな誇らしい思いを抱きながら、私は少女ドナテルロの愛らしい笑顔を梱包した。
レポートの再提出を命じられたキッコが図書室で調べものをしたいと言ったので、私もついていった。初めて足を踏み入れた図書室は決して予想を裏切らず、室内は広く天井高くまで書架が並び、本にしみついた古い匂いが充満していた。
「もしかしたらモリアがいるかもしれないわね」
書見台にレポート用紙を広げながらキッコが呟く。
「でもこれだけ広かったら探せないわ」
肩を竦め苦笑いをした。それよりも四方を本で囲まれ、久しぶりに本を読み漁りたくなってきた。
「少し回ってくるわ」
「うん。あたしもしばらくこれに集中するから」
げんなりした顔で紙面を睨みつけるキッコを激励し書架の間を歩き回った。まさに世界各国の文学が揃えられているらしく、見慣れない文字を眺めながらここにきて初めて楽しくなってきた。
ずっとこんな感覚を忘れていた。黄ばんだ紙を指でなぞるうちに自然と口元が綻ぶ。
―――むかしからずっと本が好きだった。
ふと私が小さかった時を思い出した。小学校に上がって間もない頃。早くも塾へ通っていた翠は、学校が終わるとそのまま塾へ直行する毎日を送っていた。まだ習いごとをしていなかった私は、一人の時間を潰す為に近所の図書館へよくいっていた。
そこではみんなが一人ぼっちだった。人とは少し違う自分の髪も瞳も、誰も気にしない。誰もが独自の自分の世界を築き、ただひたすら空想の世界に浸かっていられた。みんな本の持つ魔力に魅入られている。麻薬のようだと、子ども心にも思った。
ページをめくれば新たな世界が広がっている。そこに自分自身を投影し、現実から逃れようとしていた。平仮名を習い始めたばかりの頃は、図書館にある童話をとにかく読み漁っていた。グリム童話やマザーグース、アンデルセン……どれも好きだった。
壁にかかれた本の種類を読みながらどんどんと奥へ入っていく。いつの間にかキッコの姿が見えなくなった。本の壁に囲まれた空間に、ようやく自分だけのテリトリーを持てた気がしてほっと安心の溜息を漏らす。誰にも気兼ねのいらない開放感に心が高揚する。
そうだわ。この国の歴史かむかし話でも、活字になって残っているかもしれない。思い立つなり早速歴史資料が置かれている棚へ向かい、デ・ディウ国に関係ありそうな書物を集めた。
書見台に高く積んだ本を開き思わず苦笑いをしてしまった。やはりどれもレドヴァス語で記されている。短い文章なら辞書を片手に読めるけれど、季節によって変わる季語や男女によって違う文体をいちいち調べるのはかなり骨を折る作業だ。
しばし途方に暮れたが他に道はないと思い分厚い辞書を開いた。
そうして何時間、辞書とノートを交互に睨みつけていただろう。だいたい半分ほど和訳を終え、肩が凝り目も痛くなってきたので一休みしようと顔を上げるといつの間にきたのか向かいの席にセトが腰を下ろして本を読んでいた。
まったく存在を感じさせなかったので突然の登場に虚を衝かれる。当のセト本人は私の視線に気づかず手元の本をめくっていた。
「……もう、勉強は終わったの?」
しばらくしてからようやく私に気づくと、本を閉じて優しく微笑んできた。
「いつからここに? びっくりしたわ」
そう呟きそれとなく彼が読んでいた本を観察する。何度も読み返されているらしく、革表紙が黒ずんでいる。中身もきっと白い紙だったのだろうけど黄ばんでぼろぼろになっていた。
「ずっと調べていたみたいだから」
セトは視線を私の手元に注ぎ首を傾げて見せた。
「歴史を…調べているの?」
「ガドレの湖の伝説について知りたかったから」
と答えてから、和訳し書き写したノートの上にさり気なく腕を置いて内容を隠した。
「伝説は実話に基づいていたのね」
「身分違いの恋から生まれた悲劇だった」
唐突に語り始めるセトを見詰め続く言葉を待った。
「恋人はこの国を侵略しにきた。剣は王の証し。敵国の王族だった。乙女は民の信頼を一身に集める巫女。恋人は身分を偽りスパイとしてやってきた。乙女に近づいたのも巫女が強い発言権を持っていたから」
「けれど二人は恋に落ちたんでしょう? どうして乙女はともかく、最初から結ばれないってわかっていたのに恋人の男は…」
「この国には理想郷と謳われる地があった。身分も何もかもを捨て、あるがままの姿でいられるユートピア。すべてを捨てた者だけがいける、伝説の地だった。二人は覚悟を決めすべてを捨てるつもりだった。けれど恋人は待ち合わせの場所に姿を見せなかった。乙女に剣だけを託して。二人はそれ以来、出会うことはなかった」
「……結局、怖くなったのね。それまでの地位も財産もすべてを投げ出すことが」
クスッと笑い頬杖をつくと私を見上げながら
「その理想の地をマディア・ウロって言うんだ。そしてマディア・ウロに繋がる道がディアム・ガドレ。ガドレの由来はマディア・ウロへ恋人を連れていき、乙女との約束を果たさせるってことなんだよ」
「意外と辛辣ね。仮にも二人が再会したって、逃げ出した恋人からすれば気まずくて仕方ないわ」
視線が絡まると私たちはどちらともなく吹き出した。きっとキッコなら夢がないとかなんとか言って大いに反論してきそうな私の意見も、セトからすれば単純に笑いのネタに変わってしまうようだ。
「それでも儀式はかつて神聖視され、月の綺麗な夜を選んで生贄が捧げられていた」
「…パルトロを生贄にしていたんでしょう?」
俯く私の顔を覗き込むとセトはふっと微笑みその目を細めた。
「でもね、パルトロは自由に二つの世界を行き来できる力を与えられるんだよ」
表情から感情が読みとれなく、捉えどころのない本音を見せない不透明な笑顔に警戒心を抱く。
「消えた生徒はマディア・ウロにいったとでも思われているのかしら」
表情の微妙な変化も見逃さないよう、様子を伺いながら疑問を紡いだ。
「グドゥと言われる優等生だったその生徒は……とても有望だったらしいけれど、親族との折り合いが悪く周囲の嫉妬も多く買っていたそうね。父親のキム氏が所有していた土地を巡って、色々と争いもあったそうだし」
私が調べたユンの情報だ。彼女は中国でも有名な大富豪の娘だった。
「そんな生徒が消えても、誰も悲しまな―――」
突然唇に指を一本突きつけられた。いつの間にか至近距離にあった顔に驚き、一瞬にして頭の中が混乱してしまった。
「リンコはどうしてお菓子を食べないの?」
甘えるような柔らかい口調。そういえば、何となくさっきまでの雰囲気と違う気がする。一回りも年が離れた幼い弟のようなどこか頼りなげな眼差しは、母親の温かい胸に抱かれることを望む無邪気な笑顔へ変わっていた。
「…え?」
訳がわからず眉間に皺を寄せた。すると私の反応を楽しむように唇から指を離す。背後でキッコの呼ぶ声が聞こえる。
「!」
椅子を倒して立ち上がる。慌てて返事をしようとしたその時、後頭部を引っ張られた。
振り向くと私の三つ編みを握り締めたセトが、じっと射抜くような眼差しを向けていた。
「きみたちの狙いは父親探しだけじゃなかったの?」
背筋が凍るような冷たい口調。それまでの温かい笑顔は完全に姿を消し、目の前に立つ彼はまるで氷像のようだった。錯覚かもしれないが冷気を感じ全身が硬直する。こんな空気を出す人間を、翠以外に知らなかった。心の底まで見透かされそうな澄んだ眼差しは、綺麗すぎて感情とかいった人間らしいものを見出せない。
呼吸を忘れ彼の顔を凝視する。
キッコの声がもう間近まで迫っている。彼女にこんな場面を見られたらなんと言うだろう。とにかく離れようと決すると、ふいにそれまでの冷酷とした口調から再び豹変し
「あの子は完璧なリンコの友だちになりたがっていた。巧みに噂を操りきみを独占することに成功した」
と舞台のナレーションのように淡々と言葉を紡ぎ始めた。
唐突な変貌に動揺を隠せない。どうしてコロコロと態度を変えられるの?
「な…何を言っているの? キッコがそんなことをする訳が」
「でもリンコも同じだったのかな」
子どものような甲高い笑い声を出しながら紡ぐ。仕草までやんちゃな盛りの子どもそのものになっていた。セトは椅子の上で膝を抱えると、身を乗り出して更に距離を縮ませた。
「ミドリのようにうまく振る舞えない。噂の影響で一人になるのを嫌って、キッコを迎え入れたんだよね。本当は一緒にいてもつまらない。打算して友だちを演じているのに」
「!」
誰にもわからないようにしていたのに。隠していた本音を見抜かれ、怒りや驚き、情けなさが混じった複雑な気分でセトを睨んだ。
「…どう…して…」
痛みを忘れるほど唇を噛み締め悔しさを堪える。今まで誰かに見抜かれるなんてなかった。どんな時もちゃんと騙してきたって自負があった。それなのにどうして、彼には見抜かれていたの?
ゆっくりと瞬きを繰り返す。睫が瞳を覆う度に、秘められた色も微妙な変化を見せた。
「だって、ここは物語の世界だから」
そう囁くと彼は私の髪から手を離した。
自由になった髪を握り歯を食い縛る。彼が触れていた部分がとても熱く感じられた。頬が紅潮し心臓が早鐘を打ち、溶岩のような熱い感情が全身を駆け巡る。
これは怒り…? それとも恥辱? 手に余る複雑な気持ちに歯痒さを覚えた。セトの伏目がちの大きな瞳が優しげに微笑む。すべてを知り尽くした余裕から生まれる笑顔が、憎たらしいのに目が離せなかった。
翳りを帯びたその瞳に吸い込まれそうになる。謎に覆われた彼という存在から注意を逸らせない。
「リンコー? どうしたの?」
書架の間からキッコが顔を覗かせる。
「な、何でもないわ」
我に返ると私はセトから同時に逃れるように駆け出した。
今私の頭を支配するのは無限の数字とアルファベットたちだった。教授から新たに出された課題に取り掛かる際は常人ならぬ集中力で問題を解いていっている。その気迫に恐れをなし談話室に集まる他の生徒たちは、誰一人として私の近くを通ろうとしなかった。ただ一人を除いて。
「ねぇ、ユンってば! ユンユンユンユン! ユーンファッ!!」
「………もーうっ!」
ついに限界を迎え私は勢いよくテーブルを叩き、向かいの席に座るナルキを睨みつけた。
「うるっさいわねぇ! 貴方と違って忙しいのよ」
「だって…何回呼んでも待ってくれないんだもん…」
「お菓子なら間に合っているわよっ」
常々試作品という名目で様々な手作り菓子を一方的にプレゼントにくるナルキ。構って欲しいのが目に見えてわかる態度に、苛々しながらポケットからキャンディを取り出して口に放り込んだ。
「違うよぉ。お菓子じゃなくて」
「なら用はないんでしょ」
「あるもん!」
と叫んでナルキは頬を膨らませると、私の家族写真を置いた。筆箱に入れていたものだが、気がつかない間に落としていたようだ。
「……ありがとう」
大切なものだけに拾ってくれた相手を無碍にもできず苦々しげに呟いた。
「どういたしまして。ねぇ、その人ってユンのお姉さん? 綺麗な人だね」
「………似てないのに、よくわかったわね」
「ユンは可愛いんだよ!」
真面目な口調で言われても彼が言うとどこか嘘っぽい。演劇部に所属しているだけあって、時々ナルキが無意識に「恋している年頃の男子生徒」を演じているのではないかと疑ってしまうこともあった。
「あぁ、信じてないでしょ! 本当だもん。ハルキも顔は可愛いっていってたもん」
……褒めてないじゃない。
微妙な評価に反論するのも面倒になり、おもむろに溜息を吐いて自身のストレスを伝えようとした。
「眠たいの?」
的外れな返答にナルキの無邪気な笑顔が鼻につく。それどころか彼のよく通る声と大袈裟な動きが談話室で寛ぐ他の生徒たちの非難の視線を集めるようになり、私は仕方なく彼を連れて廊下へと移動した。
「ねっ! ユン、見て! 雪が降ってきたよ」
窓ガラスに手を当て嬉しそうに呼びかける。あまりに必死に手招きするので私もその隣に近づいた。
灰色の世界にちらほらと白いものが舞う。湖も空の色を映して今日は濁って見えた。寒さの所為でガラスには雪の結晶が張りついている。延々と続く山並みは、俗世と隔離された学園を見張っているようで白銀の世界にはどこにも人の姿はない。
―――きっと外はとても寒い。寒くて寒くて……ここにいなければ、死んでしまうかもしれない。
学園から手紙がきた時もこんな風に雪が降っていた。姉が学園から消えたと告げるその手紙を受け取った伯父の、勝ち誇ったあの顔は今も忘れられない。姉が家を継げば何かと損害が出ると踏んでいたからこそ、失踪の便りを聞いた時に親戚たちは小躍りせずにはいられなかったのかもしれない。
―――お姉ちゃんは、学園を出ようとしていた。将来を約束されたグドゥに選ればれていながら、どうしてここを抜けようとしていたのかわからない。わからなかったけれど、こんな時は少しだけお姉ちゃんの気持ちに近づけたような気がした。
閉じ込められているのだと、思った時。自由な世界に憧れを抱いてしまったラプンツェルのように。
「…ぼくね、卒業したらお父さんの跡を継いでパティシェ兼オーナーにならなくちゃいけないんだ」
廊下には誰もいない。静寂の中に彼の声がこだましていく。
「ハルキと違って、ぼくには才能がないの。でもお父さんが築いてきたものを守る為に、ぼくかハルキが跡を継がなくちゃいけない。そのことでむかしからお父さんとハルキは喧嘩していた。ハルキはお菓子なんて作りたくない。才能があってもやりたくないって。だから……ぼくが継ぐんだ。お父さんもお母さんも、すごく悲しがるから」
「貴方の意思はどうなるの」
「だって、ぼくらが生まれる前からずっと大人たちは期待していたんだよ。自分の店を継げるのは血を分けた子どもだけだって。そうやって代々受け継がれてきたものだから」
大きな瞳が瞬きを繰り返す。その目元に光るものを見つけた気がしたけれど、黙って耳を傾け続けた。
「でも、もしもこの窓が開いたら…ぼくも飛び出したくなるんだ」
心臓を鷲掴みにされたような衝撃。胸が圧迫され息をするのも辛くなり、私は無意識にナルキの制服の裾を握りしめた。そうでもしないと、彼は本当にこの窓の向こうに飛んで行ってしまいそうに見えたから。
するとナルキはそれまでのただ無邪気に、陽気に騒ぐだけの演技をやめて私を静かに見詰めた。
「噂って…ある程度、事実だから流れるんだよ。七年前、お姉さんはグドゥの塔から飛び降りた。本当は消えたんじゃない。親族が遺体の引取りを拒んだから、そんな噂を流したんでしょう? ―――ユン」
―――This is the story of Yunfu.
あっ……違う。
計算間違いに気づき私はノートを睨みつけたまま筆箱に手を伸ばした。
確か鉛筆と一緒に入れていた消しゴムが見つからず、苛々しながら筆箱の中を探した。すると何か硬い紙のようなものが当たり、私は反射的に顔を上げた。旧正月に撮った九年前の写真が筆箱からはみ出ていた。途端にそれまでの集中力が途切れ、私は頬杖をつくとその写真に写る幼い自分自身と家族の姿を見詰めた。
本来なら額にでも飾っておくべきものなのだろうけれど、寮にいても壁なんて見ている暇もない。グドゥと呼ばれ昼夜問わず徹底的な英才教育を受ける自分に、参考書以外を眺める気持ちの余裕なんて欠片もなかった。できるだけ自分の目について且つ普段から持ち運べる場所ということで筆箱が選らばれた。
―――これだけが、唯一の思い出の品。もうどこにもお姉ちゃんが残したものはない。
「ねぇ、ユン。今年もまた、ガドレが始まるね」
凍りついた窓ガラスに手を当ててセトは淡い光を背景に微笑んだ。授業を終えた教室に残るのは彼と私の二人だけ。本館と離れた塔で行われるグドゥたちの授業に、自由に参加できるのも彼だけだった。
何も答えずにじっと写真を見詰めていると、セトはからかうような口調で問いかけてきた。
「怖い? 七年前と同じことが、また、繰り返されると思っているの?」。
「私、昨日ベンジャミンに会ったの」
結局探していた消しゴムを諦め、間違えた部分を黒く塗り上の行に正しい公式を書いた。
「……まだ、生きていたんだ」
半ば独り言のように呟く。片頬がひきつって自分でも卑屈な笑い顔をしているのがわかり、彼の視線がそこに注がれていることを意識する。歪な笑顔をそれ以上見せたくなくて教科書を片づけながら顔を背けた。今日は授業が半日で終了するので、他のグドゥたちは自習室で勉強をしなければいけない。
「ユン」
再び名前を呼びかけるとセトの瞳が私を見詰めた。同時に頬が紅潮し心臓が早鐘を打ち始めた。そんな私の胸中なんて一切察することもなく、セトは音もなく立ち上がると机の下に転がっていた消しゴムを拾い微笑んだ。
笑顔を正面から受け止めギュッと唇を噛み締める。消しゴムを受け取る時に指が少しだけ触れた。ただそれだけのことなのに全身が火照り恥ずかしさのあまり俯いた。
「ユンはもう転校生と、喋った?」
「噂だけなら何度も聞いているよ。兄は優秀だけど妹はどうしようもない男好きだって。兄はともかく…妹とは喋りたくない」
たまに遠くから兄妹の姿を確認することはあった。あまり似てはいないけれどバロが好みそうな綺麗な顔立ちをしていると思った。他の生徒と接する機会の少ないグドゥの中にも二人に関心を持つ子は大勢いた。
「他にはどんな噂を聞いたの?」
どうして彼がそんなに噂を気にするのか疑問に思いながらも私が今日まで耳にした噂をすべて伝えた。
「妹が友だちの恋人を奪って振った。遺産を独り占めしたくて、妹が父親を探しているって聞いたわ。それと……」
指折りに数えながら喋っていると、突然セトが口の端を曲げて笑い出した。ひとしきりお腹を抱えて笑うと、楽しそうに目を細め
「どうして…リンコを中傷する噂ばかり流れているんだろ?」
「ある程度は事実だから、そんな噂が流れるんでしょ」
「事実を脚色するのは楽しいからね」
脚色という表現に腑に落ちないと思った。何よりこれまで誰かの噂話を聞いても、セトは楽し気に笑いこそするがこうして噂自体を疑うことはなかった。
「誰かが意図的におかしな噂を流しているのかも。だとしたら相当、彼女は嫌われているね」
女子同士の面倒なしがらみ関係だろうと見切りをつけて、私はやや鬱陶しそうに切り捨てた。セトにしても、何故転校生に個人レッスンを行っているのか問いただしてやめさせてやりたい気持ちでいっぱいだった。転校生と二人きりの時間を持つなら、同じくらい私にも彼の時間を割いて欲しいとも言える訳もなく。
これが恋なのか知る由もなく。ただ私は他の生徒たちよりも、少し彼に近いというだけ。そんなささやかな優越感を守りがたいが為に、どうでもいいという気持ちとは裏腹にあの転校生についてチクリと悪態を吐いてしまう。
「嫌われるには理由があるもの。それなりの原因を転校生が持っているってことだし」
「嫌われている? まさか。リンコはとても愛されているんだよ」
「じゃあどうして噂が流れるの? コルスティモと同室になったのだって、似たもの同士だからって聞いたもん」
「誰にも見向きされない時に近づいたら独占できる。周りに馴染めないうちに噂を脚色してしまえば、みんなもそれを信じ込む」
時々見かける妹の隣には、必ずと言ってもいいほど同じ女子生徒がいる。確かキッコと呼ばれていたはずだ。彼女が一人で行動している所も見たことがない。
「彼女を孤立させて……独り占めしようとしているの?」
答えを求めてセトを見たが彼は意味深に微笑むだけだった。
「でもあの子だってイヒヌゥじゃない。ねぇどうしてそなにあの子に関わるの? お姉ちゃんだって」
「――ユン。ユンファ…」
たった一言だが、そこには身も心も凍らせるような絶対的な冷たさが込められていた。凍てついたガラスから注ぐ光さえ彼を溶かすことはできない。呼吸する度に息が詰まるよう冷気が身体を侵していく。
いつの間にか私の手足は震えていた。理屈ではない本能が恐怖を関知し怯えている。華奢な彼の手が耳元で揃えた毛先に触れた瞬間、無意識に身体が大きく反応した。
「チュチュは、とても長い髪だったね」
目を逸らしたまま小さく頷く。しばらくしてからセトの手は静かに離れていった。クルリと軽やかに身を翻すと隅に置いていた一冊の古い革本を胸に抱え
「Dina da doo.」
と呟いた。
「錠をかけて鍵を飲み込むまで、何も語ってはいけないんだよ。例えきみがぼくの仲間だとしても、与えられた科白以外に喋っちゃ…」
それは笑顔の警告だった。私情に振り回され余計なことを語るなと、言葉以上の迫力を伴って迫っていた。そうやって彼はいつも私が近づこうとするのを阻むんだ。
Dina da doo.―――おまじないのように呟くその言葉の意味だって、彼は決して教えてはくれない。
昼食を終えキッコと一緒に校内を歩き回りながら私はお喋りを続けていた。
校内はとても広く、転校して何週間か経つのに未だに内部の構造を十分に把握しきれない。それに私を見つける度に露骨に顔をしかめ、後方で声もひそめず罵倒する生徒が今も多くいることにも辟易していた。
「リンコはやっぱりミドリに投票するつもりなの?」
柱にもたれかかるとコンパクトミラーでヘアスタイルを確認していたキッコが問いかけてきた。
「まだ決めていないわ」
「そうなの? あたしはもう全員決めちゃったわよ。まず生徒会長はミドリで副会長はキサメ。書記がトリィで会計はラウよ」
指折りに名前を挙げながらキッコは満面の笑顔を浮べた。
「…まったく貴方らしいわね。…全員男子生徒ばっかりじゃない」
「偶然よぉ。それに女子だとどうしても裏側を知っているっていうか」
同意を求めるように上目遣いをしてきたが曖昧に頷いておいた。こうも恋愛方面に積極的な所は、本当に真似できないので素直に感心してしまう。そんな風に気軽に誰かに恋をできたならもっと人生を楽しめるのかもしれない。
「それはそうとレポートを渡さなくていいの?」
昨日締め切りのレポートを提出しなくちゃいけないって言っていたのに随分と悠長だ。しばらくその理由がわからなかったけれど、周囲に男子生徒が溢れていることでようやく納得した。
「ねぇ、リンス変えたから髪の毛のボリュームが少し減った感じするでしょう?」
苦笑しつつ頷きながら内心溜息を吐いた。思っていたよりもキッコは、自分の容姿にコンプレックスを抱いているようだ。その反動でミーハーな性格になってしまったのかしら。ある意味わかりやすいけれど、そんな彼女こそ様々な意味で思春期の女子そのものだと思った。
「あっ、ベンジャミンだわ」
ステンドグラスの美しい光が注ぐ廊下をベンジャミンとレオが並んで歩いていた。歩く度にベンジャミンのふんわりとした茶色い髪の毛が上下に動く。何を喋っているのかわからないけれど終始レオは口角を上げ、楽しそうに笑っていた。
人懐っこい笑顔をこぼしながら二人は歩いていく。
あの日以来、私はベンジャミンの姿をよく見かけるようになった。そしてティルは変わらず規則に縛られない毎日を送り、キッコは気がつけばお菓子を食べている。何も変わらない単調で退屈な日常。けれど何かが違う。肌で感じる生徒達の間に流れる空気が、ほんの少し下がった気がする。
「さぁて、ちゃっちゃと渡してくるからリンコはここで待っていてね!」
小走りに駆けていく姿に手を振りながら、ふっと肩の力を抜く。同時にようやく自由になった時間を使ってこれからについて考えた。グドゥと呼ばれ英才教育を受けるユンとどうやって繋がりを作るか。専用教室として城の離れにある塔がグドゥの為に宛がわれているので、普段から彼女達と接触する機会はほとんどない。また絶対厳守の寮生活でも規則に束縛されない独自の権限が与えられているので、生活リズムも一般の生徒と比べ把握しづらい。基本的に四六時中、教科書や参考書と睨めっこをしている毎日だそうだけど。
彼女たちが他の生徒と同じ空間に現れるとしたら……生徒会役員選挙。その時を於いて他にチャンスはないかもしれない。
「…ほら、あの子が」
「あぁ。噂の……」
視線を感じたので柱から離れ壁際へ移動した。まるで生徒一人一人が自主的に監視員を務める監獄だ。常にお互いをそれとなく監視し抜け駆けを許さない緊迫した空気が漂っている。それなのにベンジャミンが消えた時さほど動揺は感じられなかった。
それは彼が国外逃亡してきたから? クーデターに命を狙われた王子が消えた所で、恐れるものはないのかしら。むしろ閉鎖的な環境下で生徒間の団結は強まるはず。その象徴のようにセトは学年を超えてすべての生徒達から愛され、また彼を通して互いに仲間意識を共有していた。
もしベンジャミンが本当に殺されたのだとしたら学園ぐるみの犯罪となる。犯人を生徒全員が庇い合っているとしたらどうだろう。きっと探し出せない。そうすると過去にパルトロに選ばれ消えたユンの姉も、既にこの世にいないかもしれない。
姉のチュチュも同じくグドゥと呼ばれる優等生だった。二人の共通点といえばパルトロに選ばれたぐらい。いくら過去を遡っても、パルトロに選ばれ行方不明になったのはチュチュだけだわ。けれどベンジャミンがあぁして生前と変わらず生活をしているのに、ティルは彼が死んだという。
「……」
ティルの真剣な表情を思い出し唇を噛み締めた。どうしても嘘だとは思えない。けれど真実だとしたら、矛盾が多い。
「ユラガワ」
突然目の前に黒い人影が現れた。普段呼びなれない苗字で声をかけられたので、思わず驚いた表情のまま対峙する人物を見上げた。両腕には分厚い教材が山積みにして抱えられていたので、バランスを崩さないようゆっくり体勢を変え私を見ると
「そうやっているとヒサコさんにそっくりだな」
とベンバー教授は嬉しそうに話しかけてきた。
「……母とは、お知り合いだったんですね」
警戒心のない笑顔につい素っ気なく応える。似ていると言われることは多いけれど、一度だってそれを褒め言葉として受け止めたことはなかった。
「先輩だったんだよ。ここへ留学した時も一緒だったぁあ゛!」
突然バランスを崩し、高く積んでいた参考書が彼の足元へ落ちていった。激痛に巨体を屈ませ痛みに絶句したが、無情にも残る本も彼の腕から滑り下りていってしまった。
「あぁ…」
小さく嘆息し見事に四方へ散らばった本を寄せ集める。手渡そうとしたが床に本を重ねて持ち上げようとする姿を見た途端、また同じ事態を招くように思えた。
「手伝います。職員室までですか?」
「ありがとう。ジャックに借りていたから返しにいくんだよ」
照れ臭そうにはにかみながら何冊か私に手渡すと再び本を抱えて立ち上がった。
分厚い専門書ばかりだったけれど、何故か私のよく知る童話が一冊だけ紛れていた。
「あぁ、そのピーター・パンの本はね…ジャックのお気に入りの本なんだよ。あの外見で意外にメルヘンだと思わない?」
嘘か本当かよくわからないジョークに小さく笑い、歩調を合わせゆっくりと進むベンバー教授の後を追い肩を並べる。
「それにしても、こうしてリンコと直に喋るのは初めてだね」
喋り方が落ちついているので、身長差が生む威圧感は次第に包容力に変わっていった。初対面なのに何故か相手の警戒心を解く独特の雰囲気を備え持っている。それが人気の秘訣かもしれない。
「そうですね。数学はチュンホワ教授を選択しているので」
「彼女の授業は難しい? ぼくと違ってレヴェルが高いからね」
「できるだけ予習をして受けているけど、やっぱり大変です。それでも教え方がうまいから何とか追いついてはいるって感じです」
「お兄さんのミドリも優秀だってことを聞いているよ。あぁ…そう……」
突然歯切れが悪くなったので、それとなく顔色を伺ってみると眉間に皺を寄せて困ったように視線を漂わせていた。見上げる角度によって筋の通った鼻が目立つ。キッコから聞いた所によると、父親はアメリカ人だそうだ。彼が私か翠の父親である可能性はどのくらいあるのかしら。
お菓子を調べさせるのは簡単だった。けどDNA鑑定となれば芹沢さんに頼む訳にもいかない。失礼にならない程度にベンバー教授の整った顔を観察する。艶やかな黒髪に濃い眉は日本人の母親譲りかもしれない。今は伏せられている光の加減で小麦色にも見える茶色い瞳は、傍から見れば私と似ているかしら。
突然歩みを止めると、それまで閉ざされていた唇を持ち上げ「あー」と唸るように声を出した。
「その…今更だけど、ヒサコさん…いや、お母さんに関しては残念だったね。まさか事故で亡くなるような人には見えなかったから、訃報を聞いてぼくも驚いたよ」
再び言葉を区切り、正面から私を見据え軽く低頭した。
「心からお悔やみ申し上げます」
こんなに大きな男の人に頭を下げられるなんて変な感じだ。律儀な一面に苦笑しながら
「教授は卒業後も母と連絡を取られていたんですか?」
「パソコンのメールでやり取りするくらいには、ね。同窓会をしても仕事が忙しいらしくて参加できなかったから」
「むかしの母ってどんな生徒でした?」
「一言でいうなら女王様かな。成績も優秀だしとても人気があったからね。でも当時のぼくのガールフレンドと折り合いが悪くって、板挟みにされることがよくあったよ」
喋りながら思い出を振り返るようにふっと口元を緩めた。その一瞬、彼からは子どものような幼さを垣間見た気がした。
「それでも彼女が実家を出て会社を興したって聞いた時は、ぼくらも驚いたよ。いや、やっぱりお嬢様育ちだって思っていたからね。それに…まだ子どもが幼いうちは母親を楽しみたいって本人言っていたからさ」
「挙式に参加されたんですか?」
「あぁ。イギリスでの挙式はね。ヒサコさん、とても綺麗だったよ。同級生たちも集まって一晩中騒いで楽しかった」
イギリスの挙式? やはり入籍せず挙式だけは何回か行っていたのね。派手好きな彼女らしいけれど…
「新郎について」
「彼女が何も語らなかったのを、ぼくが伝える訳にはいかないよ」
突然声の調子を落として断言する。それまでの優しさに溢れた態度を一変させ、覇気を感じさせない冷たさがまとう。並行する二人の間の空気が急激に下がったのがわかった。
「ここでいいよ」
廊下の向こう側にジャックの姿を捉えるなりベンバー教授は再び笑顔を取り戻した。私たちに気づいたジャックも歩み寄り、私が抱えていた本を持ってくれた。
「ベンバー、女性にこんな重いものを持たせるのはいかがかなものかと思うよ」
「一度床にぶちまけてしまったのを彼女が助けてくれたんだ」
角が傷んだ高価そうな本を見て、顔をしかめるジャックに気づかず私に例を述べると
「お礼にお茶でもご馳走したいんだけど」
「いえ、友だちが待っていると思うので結構です」
「友だちって……キッコ?」
その意外そうに問い返す反応に違和感を覚えたが頷いた。すると安心したようにほっと嘆息した。
「彼女と仲良くしているんだね。よかった」
「そういえば、きみはキッコから随分と相談を受けていたようだね」
「キッコがどうかしたんですか?」
驚いて訪ねるとジャックと一瞬顔を見合わせて、ややぎこちなく答えた。
「きみと仲良くなりたいけど、いつも壁を感じるって言っていたんだよ。彼女は寂しがりな所があるからね。リンコをすごく尊敬して憧れだってよくいっていたよ」
「……そうだったんですか」
相槌を打ちながら内心で溜息を吐いた。キッコが意外にも鋭い面があるのはよくわかったけど、集団を好む女子を否定的に捉え自分が抱える寂しさを紛らわせようとしているだけのように思える。彼女が求めているのは私ではなく、ただ自分を一人にさせない都合のいいお友だちじゃないのかしら。
……中身のない薄っぺらい会話で満足する程度の付き合いだもの。それでも大人は、子どもたちが仲よく手を繋いでおけば満足する。無邪気な笑顔の裏でどんな駆け引きが行われているのか知らずに。
「私も寂しがりなんで彼女とは気が合いますよ」
期待通りの答えに二人は嬉しそうに頬を緩ませた。
冷たい石の壁に手をかけて『ぼく』はいつもの習慣で二つの穴から温かい光に包まれる室内を覗き込んだ。左右対称に置かれたベッドと机の一つに、黒髪の少年が腰を下ろし何か作業をしている。ここからは後ろ姿しか見えない。備えつけの暖房がきいて彼のいる室内はとても暖かそうなのにこっちはとても寒い。石畳の通路は冷たく寒さのあまり全身の筋肉が硬直していた。
狭い通路なのであまり身動きはできない。けれど覗き穴は二つしかないので、首をひねりもっと壁の向こうをよく見ようと思った時、死角から別の少年の声が聞こえた。
「また新しいパズルを始めているのかい?」
指にピースを挟んだまま黒縁眼鏡の少年が振り返る。対峙する少年を見据えふっと口元を緩めた。
「随分と早い帰りだな。カナムラ教授のレッスンはもう終わったの?」
「あぁ、結局ドナテルロはアーティスト・ネームを使って出品することに決まったよ」
金髪の長身の少年が視界に入る。彼は机の端に腰をかけると、机上に置かれたパズルを眺めた。
「ベティは何回きた?」
「七回。電話が二回。ツインが怯えていたぞ。ずっと寮の入り口できみを待ち伏せしていたらしいから」
「男冥利に尽きるね」
眼鏡の少年は呆れた様子で溜息を漏らした。そして手元のパズルを見詰めたまま呟いた。
「最後のピースがまたどこかいってる……」
よく見ると彼の机の周りには未完成のパズルが沢山飾られていた。大きいものでは横幅一メートルのものもある。ボッティチェッリのヴィーナス誕生やレンブラントの夜警、ダ・ヴィンチの岩窟の聖母子など有名な絵画作品を集めたもので、見る限りでも難易度が高いものばかりだ。
「まぁ、犯人はセトだろうけどね」
苦笑しながらキサメと呼ばれた少年も相槌を打つ。
「彼の収集癖は有名だし、地下の図書室の本もすべてセトの所有物だって言われているくらいだ。面白い人だよ」
「一度、じっくり話してみたいな」
「あれは難しいね。ゲンジロウといつも一緒にいるようで、実は自由勝手に色々と徘徊している。彼の場合、グドゥの講義を受けることまでできるしね」
ポケットから白い箱を取り出すと煙草をくわえた。その様子を見ていた眼鏡の少年に、いるか? と問いかけるが断られた。
「日本のシガレットが一番おいしいよ。特にセブンスターが好きだね」
うまそうに白い煙を吐き出しながら笑顔になる。しばらく眼鏡の少年も彼の横顔を眺めていたが、二本目の煙草を箱から出すの見届けてから席を立った。
「ねぇミドリ」
コーヒーを淹れるミドリの背中に向かって言葉を発する。
「そろそろ、ぼくと手を組まない?」
「きみの力を借りなくても生徒会長にはなれる」
「当たり前だよ。じゃなくちゃ手を組む価値もないさ」
一人分のコーヒーを注ぐミドリに向かって「あっ、ぼくはシュガーだけでいいよ」と注文した。それを聞いて面倒臭そうに彼の分のカップにも淹れ、そこに砂糖と並んで置かれていた塩を加えた。その後の喜劇を想像するとつい『ぼく』は口元を緩めてしまった。
「どうせもう、色々と調べているのだろ? 生徒たちの過去もファルバロのことも。そしてぼくについても」
塩入コーヒーとは知らずに受け取ると、キサメは一口啜るなり目玉を飛び出さん勢いで目を開いて咳き込んだ。
「ゲフォ! ゲホッ」
「それだけのレベルの技術を持っている癖に、道楽で芸術をしているとは思えなかったからな。何よりきみは目立ちたがり屋だ」
ブラックで飲みながらミドリは、それまでの態度を一変させ漏らした。あぁ、そういえば妹といる時も彼はこんな刺々しい空気を醸し出していたなと思い出した。
苦々しげに横目でミドリを睨み、キサメは塩入りコーヒーを捨てて新しく淹れ直した。
「いずれリンコにも協力して欲しいって思っているのだよ。何せ同じ年頃の少女がいなければ、華やかさに欠けるものね」
「邪魔だ」
キサメの提案を短く切り捨てる。
「どうして? 今、最もセトに近づけるのは彼女だ」
「あの女の噂の所為でリンコが動けば他の生徒も注目する」
「それならもう手筈は整っているよ。キッコからリンコを離せばいい」
「あいつは足手まといになる」
ミドリは初めて感情をあらわにして怒った。あまりに意外な反応だったので自然と沈黙が流れた。
あ…れ……?
ふと胸に手を当てると、いつの間にか鼓動が早まっていた。おかしいな、薬はちゃんと飲んだのに。どんどん熱が上がってくる頭を押さえる。身体が重たくなり立つのもしんどくなってきた。脚から力が抜け石畳の床に座り込む。
頑張らなくちゃ。こいつらはバロの敵になのに、もっと情報を聞き出さなくちゃいけないのに。じゃなきゃ、バロは褒めてくれない。こめかみから大量の汗が流れ落ちた。耳元で心臓が鳴っているようだ。
「いつもリンコを見ているのは彼女が憎いから? それとも」
『ぼく』の意識が途切れる瞬間、カップが床に落ち割れる音を聞いた。
―――お姉ちゃんが消えたガドレが、また始まろうとしている。
今年は例外にも中等部からパルトロが選ばれた。何かの予兆だと一部の生徒たちは騒いでいたが、彼らの日々の暮らしに変化などない。むしろ小さな変化は誰かの目に留まる前に静かに隠されてしまうのだ。この学園では誰もが役者となり、舞台の進行を阻むことを何よりも恐れている。
遅くなった昼食を済ませると私は実習室へ向かう足を速めた。周囲にはイヒヌゥが溢れ、見慣れない生徒に対する態度が冷ややかに感じられた。自分の脚を見てただひたすら目的地に向かって歩いた。
前方から甲高い笑い声が聞こえてきたのでそっと顔を上げる。グドゥの塔ではこんな笑い声を聞く機会もないので、何となく新鮮味を帯びて感じられた。
廊下の中心でベティたちがお喋りをしている。
「何回も寮にキサメを探しにいったのにずぅっと留守だったのよ」
「あんた、もういい加減に諦めなよ」
ベティを囲いサエとジェニファーが呆れ顔で口を挟んでいた。彼女たちは女子たちの中でも特に目立つグループで、グドゥである私でさえ一人一人の顔と名前をよく知る数少ない生徒たちだった。
「だって、もうすぐで生徒会役員選挙よ。身体を壊したらと思うと心配で…」
赤毛のベティが悲しげに睫を伏せて呟く。次の生徒会占拠まで日が迫っている為、こうして個々の後援者たちが焦り出している所をよく見かけるようになった。
「そう、私さっきね、偶然リンコと喋っちゃったのよ! それがさぁ意外にもいい子で驚いちゃったわ。さすがミドリの妹よね」
「調子いいこと言って。昨日までのあんたは、どうしてあんな子がミドリの妹なのか理解できないって息巻いてたくせに」
「それはぁ…だって、それまではよく知らなかったんだもん。噂に聞いていた子とは違うのよぉ」
「ジェニー、人を噂だけで判断してはいけないわ」
鼻にかかる甘ったれた口調で反論するサエを擁護し、ジェニファーを諭すベティ。まるっきり善人ぶった面持ちだ。本人もなりきっているのか、豊かな胸に両手を当て聖母のような慈愛に満ちた眼差しで宙を見詰めると
「本当は心の綺麗な少女よ。それにお母様が亡くなられて日が浅いうちに、異国へ転校させられたのだもの。同情こそしても非難なんてしてはいけないわ」
と一言一言に感情を込めて紡いだ。
「あんたまで! 一番嫌ってたのに、どういう風の吹き回しよ…」
ジェニファーのぼやきも次第に辺りの喧騒に掻き消されていった。
三人から遠退いてもサエの声がしつこく耳に残る。
『噂で聞いていた子とは違う』
塔で交わしたセトとの会話を思い出し再び疑問を抱いた。何故そこまでしてリンコの友人は彼女に執着するのだろうか。
リンコ……か。転校生の名前を反芻しながら職員室の前を通過しようとしたその時、扉が開き中からカナムラ教授が出てきた。
「あら、ユン」
同じ東洋人でも彼女は目鼻立ちがはっきりしている。きっと舞台でも映える顔立ちだろう。事実、女優クラスの美貌の彼女は日本の有名な大女優の娘だと聞いたことがあった。
「こんにちは」
嫌な予感がしたので軽く頭を下げその場を去ろうとしたけど、素早く私の腕を掴むと満面の笑顔で
「貴方って本当に運がいいわぁ。たまには身体を動かさなくちゃ大きくなれないんだもの」
と有無を言わせずに美術室へ引きずっていった。グドゥに授業としての美術はない。つまり私がこうして美術室へ足を運ぶなんて、本来なら卒業するまであり得なかったはずなのに、済し崩し的に気がつけば作業着に着替えたカナムラ教授に石膏像の梱包を手伝わされてしまった。
「宿題が溜まっていて時間がないんですけど」
精一杯の嫌味を込めて呟く。
「大丈夫よ。貴方はまだ若いからいくらでも時間があるものなの。それよりその石膏は美術館に出品するから、首元にもっと梱包材入れて固定しておいてね」
自分勝手な言い分ばかりだ。美人で授業も面白いと評判が高いのは知っているが、私とは相容れない性格の持ち主だった。苛々しながらそれでもきちんと片づけないと落ち着かない性格なので丁寧に梱包をしていると、作品をダンボールに詰めていたカナムラ教授がおかしそうに笑い出した。
「やっぱり几帳面ねぇ。チュチュもそうだったけれど、貴方もさすがA型だわ」
「教授が姉を知っているのはおかしいです。七年前と言えば、教授は二十歳そこそこです」
「あら、やだっ。私の本当の年齢を知っているの? サバ読めないわね…」
とぼやきながら続けた。
「私が教育実習生としてここに戻ってきた時に、ちょうどチュチュが進級した頃だったのよ。月日が経つのって早いわねぇ」
彼女がこの学校で大人しく生徒をしていたのは意外だったけれど、教授の半数以上が卒業生で占められていた。それだけみんな、この学校に依存していると言えるのだろう。
「そういえば貴方って、ファルバロと仲がよかったかしら?」
「時々勉強を教えてもらう程度です」
「そう。もしも顔を合わせたらたまには美術部にも顔を出しなさいって言っといて」
「セトは部活に入っていません」
「お喋りしたいだけなの。彼ってあまり授業に顔を出さないし、そのくせ課題はちゃんと提出するからコミュニケーションをとる機会がないのよね」
わかりました、と答えたけれどきっと彼に伝えても現状は変わらないだろう。誰も彼を束縛できない。けれど彼が仲間として認めてくれたあの日から私は彼の同志になったんだ。私はただのグドゥじゃない。選ばれたのよ。そんな誇らしい思いを抱きながら、私は少女ドナテルロの愛らしい笑顔を梱包した。
レポートの再提出を命じられたキッコが図書室で調べものをしたいと言ったので、私もついていった。初めて足を踏み入れた図書室は決して予想を裏切らず、室内は広く天井高くまで書架が並び、本にしみついた古い匂いが充満していた。
「もしかしたらモリアがいるかもしれないわね」
書見台にレポート用紙を広げながらキッコが呟く。
「でもこれだけ広かったら探せないわ」
肩を竦め苦笑いをした。それよりも四方を本で囲まれ、久しぶりに本を読み漁りたくなってきた。
「少し回ってくるわ」
「うん。あたしもしばらくこれに集中するから」
げんなりした顔で紙面を睨みつけるキッコを激励し書架の間を歩き回った。まさに世界各国の文学が揃えられているらしく、見慣れない文字を眺めながらここにきて初めて楽しくなってきた。
ずっとこんな感覚を忘れていた。黄ばんだ紙を指でなぞるうちに自然と口元が綻ぶ。
―――むかしからずっと本が好きだった。
ふと私が小さかった時を思い出した。小学校に上がって間もない頃。早くも塾へ通っていた翠は、学校が終わるとそのまま塾へ直行する毎日を送っていた。まだ習いごとをしていなかった私は、一人の時間を潰す為に近所の図書館へよくいっていた。
そこではみんなが一人ぼっちだった。人とは少し違う自分の髪も瞳も、誰も気にしない。誰もが独自の自分の世界を築き、ただひたすら空想の世界に浸かっていられた。みんな本の持つ魔力に魅入られている。麻薬のようだと、子ども心にも思った。
ページをめくれば新たな世界が広がっている。そこに自分自身を投影し、現実から逃れようとしていた。平仮名を習い始めたばかりの頃は、図書館にある童話をとにかく読み漁っていた。グリム童話やマザーグース、アンデルセン……どれも好きだった。
壁にかかれた本の種類を読みながらどんどんと奥へ入っていく。いつの間にかキッコの姿が見えなくなった。本の壁に囲まれた空間に、ようやく自分だけのテリトリーを持てた気がしてほっと安心の溜息を漏らす。誰にも気兼ねのいらない開放感に心が高揚する。
そうだわ。この国の歴史かむかし話でも、活字になって残っているかもしれない。思い立つなり早速歴史資料が置かれている棚へ向かい、デ・ディウ国に関係ありそうな書物を集めた。
書見台に高く積んだ本を開き思わず苦笑いをしてしまった。やはりどれもレドヴァス語で記されている。短い文章なら辞書を片手に読めるけれど、季節によって変わる季語や男女によって違う文体をいちいち調べるのはかなり骨を折る作業だ。
しばし途方に暮れたが他に道はないと思い分厚い辞書を開いた。
そうして何時間、辞書とノートを交互に睨みつけていただろう。だいたい半分ほど和訳を終え、肩が凝り目も痛くなってきたので一休みしようと顔を上げるといつの間にきたのか向かいの席にセトが腰を下ろして本を読んでいた。
まったく存在を感じさせなかったので突然の登場に虚を衝かれる。当のセト本人は私の視線に気づかず手元の本をめくっていた。
「……もう、勉強は終わったの?」
しばらくしてからようやく私に気づくと、本を閉じて優しく微笑んできた。
「いつからここに? びっくりしたわ」
そう呟きそれとなく彼が読んでいた本を観察する。何度も読み返されているらしく、革表紙が黒ずんでいる。中身もきっと白い紙だったのだろうけど黄ばんでぼろぼろになっていた。
「ずっと調べていたみたいだから」
セトは視線を私の手元に注ぎ首を傾げて見せた。
「歴史を…調べているの?」
「ガドレの湖の伝説について知りたかったから」
と答えてから、和訳し書き写したノートの上にさり気なく腕を置いて内容を隠した。
「伝説は実話に基づいていたのね」
「身分違いの恋から生まれた悲劇だった」
唐突に語り始めるセトを見詰め続く言葉を待った。
「恋人はこの国を侵略しにきた。剣は王の証し。敵国の王族だった。乙女は民の信頼を一身に集める巫女。恋人は身分を偽りスパイとしてやってきた。乙女に近づいたのも巫女が強い発言権を持っていたから」
「けれど二人は恋に落ちたんでしょう? どうして乙女はともかく、最初から結ばれないってわかっていたのに恋人の男は…」
「この国には理想郷と謳われる地があった。身分も何もかもを捨て、あるがままの姿でいられるユートピア。すべてを捨てた者だけがいける、伝説の地だった。二人は覚悟を決めすべてを捨てるつもりだった。けれど恋人は待ち合わせの場所に姿を見せなかった。乙女に剣だけを託して。二人はそれ以来、出会うことはなかった」
「……結局、怖くなったのね。それまでの地位も財産もすべてを投げ出すことが」
クスッと笑い頬杖をつくと私を見上げながら
「その理想の地をマディア・ウロって言うんだ。そしてマディア・ウロに繋がる道がディアム・ガドレ。ガドレの由来はマディア・ウロへ恋人を連れていき、乙女との約束を果たさせるってことなんだよ」
「意外と辛辣ね。仮にも二人が再会したって、逃げ出した恋人からすれば気まずくて仕方ないわ」
視線が絡まると私たちはどちらともなく吹き出した。きっとキッコなら夢がないとかなんとか言って大いに反論してきそうな私の意見も、セトからすれば単純に笑いのネタに変わってしまうようだ。
「それでも儀式はかつて神聖視され、月の綺麗な夜を選んで生贄が捧げられていた」
「…パルトロを生贄にしていたんでしょう?」
俯く私の顔を覗き込むとセトはふっと微笑みその目を細めた。
「でもね、パルトロは自由に二つの世界を行き来できる力を与えられるんだよ」
表情から感情が読みとれなく、捉えどころのない本音を見せない不透明な笑顔に警戒心を抱く。
「消えた生徒はマディア・ウロにいったとでも思われているのかしら」
表情の微妙な変化も見逃さないよう、様子を伺いながら疑問を紡いだ。
「グドゥと言われる優等生だったその生徒は……とても有望だったらしいけれど、親族との折り合いが悪く周囲の嫉妬も多く買っていたそうね。父親のキム氏が所有していた土地を巡って、色々と争いもあったそうだし」
私が調べたユンの情報だ。彼女は中国でも有名な大富豪の娘だった。
「そんな生徒が消えても、誰も悲しまな―――」
突然唇に指を一本突きつけられた。いつの間にか至近距離にあった顔に驚き、一瞬にして頭の中が混乱してしまった。
「リンコはどうしてお菓子を食べないの?」
甘えるような柔らかい口調。そういえば、何となくさっきまでの雰囲気と違う気がする。一回りも年が離れた幼い弟のようなどこか頼りなげな眼差しは、母親の温かい胸に抱かれることを望む無邪気な笑顔へ変わっていた。
「…え?」
訳がわからず眉間に皺を寄せた。すると私の反応を楽しむように唇から指を離す。背後でキッコの呼ぶ声が聞こえる。
「!」
椅子を倒して立ち上がる。慌てて返事をしようとしたその時、後頭部を引っ張られた。
振り向くと私の三つ編みを握り締めたセトが、じっと射抜くような眼差しを向けていた。
「きみたちの狙いは父親探しだけじゃなかったの?」
背筋が凍るような冷たい口調。それまでの温かい笑顔は完全に姿を消し、目の前に立つ彼はまるで氷像のようだった。錯覚かもしれないが冷気を感じ全身が硬直する。こんな空気を出す人間を、翠以外に知らなかった。心の底まで見透かされそうな澄んだ眼差しは、綺麗すぎて感情とかいった人間らしいものを見出せない。
呼吸を忘れ彼の顔を凝視する。
キッコの声がもう間近まで迫っている。彼女にこんな場面を見られたらなんと言うだろう。とにかく離れようと決すると、ふいにそれまでの冷酷とした口調から再び豹変し
「あの子は完璧なリンコの友だちになりたがっていた。巧みに噂を操りきみを独占することに成功した」
と舞台のナレーションのように淡々と言葉を紡ぎ始めた。
唐突な変貌に動揺を隠せない。どうしてコロコロと態度を変えられるの?
「な…何を言っているの? キッコがそんなことをする訳が」
「でもリンコも同じだったのかな」
子どものような甲高い笑い声を出しながら紡ぐ。仕草までやんちゃな盛りの子どもそのものになっていた。セトは椅子の上で膝を抱えると、身を乗り出して更に距離を縮ませた。
「ミドリのようにうまく振る舞えない。噂の影響で一人になるのを嫌って、キッコを迎え入れたんだよね。本当は一緒にいてもつまらない。打算して友だちを演じているのに」
「!」
誰にもわからないようにしていたのに。隠していた本音を見抜かれ、怒りや驚き、情けなさが混じった複雑な気分でセトを睨んだ。
「…どう…して…」
痛みを忘れるほど唇を噛み締め悔しさを堪える。今まで誰かに見抜かれるなんてなかった。どんな時もちゃんと騙してきたって自負があった。それなのにどうして、彼には見抜かれていたの?
ゆっくりと瞬きを繰り返す。睫が瞳を覆う度に、秘められた色も微妙な変化を見せた。
「だって、ここは物語の世界だから」
そう囁くと彼は私の髪から手を離した。
自由になった髪を握り歯を食い縛る。彼が触れていた部分がとても熱く感じられた。頬が紅潮し心臓が早鐘を打ち、溶岩のような熱い感情が全身を駆け巡る。
これは怒り…? それとも恥辱? 手に余る複雑な気持ちに歯痒さを覚えた。セトの伏目がちの大きな瞳が優しげに微笑む。すべてを知り尽くした余裕から生まれる笑顔が、憎たらしいのに目が離せなかった。
翳りを帯びたその瞳に吸い込まれそうになる。謎に覆われた彼という存在から注意を逸らせない。
「リンコー? どうしたの?」
書架の間からキッコが顔を覗かせる。
「な、何でもないわ」
我に返ると私はセトから同時に逃れるように駆け出した。
今私の頭を支配するのは無限の数字とアルファベットたちだった。教授から新たに出された課題に取り掛かる際は常人ならぬ集中力で問題を解いていっている。その気迫に恐れをなし談話室に集まる他の生徒たちは、誰一人として私の近くを通ろうとしなかった。ただ一人を除いて。
「ねぇ、ユンってば! ユンユンユンユン! ユーンファッ!!」
「………もーうっ!」
ついに限界を迎え私は勢いよくテーブルを叩き、向かいの席に座るナルキを睨みつけた。
「うるっさいわねぇ! 貴方と違って忙しいのよ」
「だって…何回呼んでも待ってくれないんだもん…」
「お菓子なら間に合っているわよっ」
常々試作品という名目で様々な手作り菓子を一方的にプレゼントにくるナルキ。構って欲しいのが目に見えてわかる態度に、苛々しながらポケットからキャンディを取り出して口に放り込んだ。
「違うよぉ。お菓子じゃなくて」
「なら用はないんでしょ」
「あるもん!」
と叫んでナルキは頬を膨らませると、私の家族写真を置いた。筆箱に入れていたものだが、気がつかない間に落としていたようだ。
「……ありがとう」
大切なものだけに拾ってくれた相手を無碍にもできず苦々しげに呟いた。
「どういたしまして。ねぇ、その人ってユンのお姉さん? 綺麗な人だね」
「………似てないのに、よくわかったわね」
「ユンは可愛いんだよ!」
真面目な口調で言われても彼が言うとどこか嘘っぽい。演劇部に所属しているだけあって、時々ナルキが無意識に「恋している年頃の男子生徒」を演じているのではないかと疑ってしまうこともあった。
「あぁ、信じてないでしょ! 本当だもん。ハルキも顔は可愛いっていってたもん」
……褒めてないじゃない。
微妙な評価に反論するのも面倒になり、おもむろに溜息を吐いて自身のストレスを伝えようとした。
「眠たいの?」
的外れな返答にナルキの無邪気な笑顔が鼻につく。それどころか彼のよく通る声と大袈裟な動きが談話室で寛ぐ他の生徒たちの非難の視線を集めるようになり、私は仕方なく彼を連れて廊下へと移動した。
「ねっ! ユン、見て! 雪が降ってきたよ」
窓ガラスに手を当て嬉しそうに呼びかける。あまりに必死に手招きするので私もその隣に近づいた。
灰色の世界にちらほらと白いものが舞う。湖も空の色を映して今日は濁って見えた。寒さの所為でガラスには雪の結晶が張りついている。延々と続く山並みは、俗世と隔離された学園を見張っているようで白銀の世界にはどこにも人の姿はない。
―――きっと外はとても寒い。寒くて寒くて……ここにいなければ、死んでしまうかもしれない。
学園から手紙がきた時もこんな風に雪が降っていた。姉が学園から消えたと告げるその手紙を受け取った伯父の、勝ち誇ったあの顔は今も忘れられない。姉が家を継げば何かと損害が出ると踏んでいたからこそ、失踪の便りを聞いた時に親戚たちは小躍りせずにはいられなかったのかもしれない。
―――お姉ちゃんは、学園を出ようとしていた。将来を約束されたグドゥに選ればれていながら、どうしてここを抜けようとしていたのかわからない。わからなかったけれど、こんな時は少しだけお姉ちゃんの気持ちに近づけたような気がした。
閉じ込められているのだと、思った時。自由な世界に憧れを抱いてしまったラプンツェルのように。
「…ぼくね、卒業したらお父さんの跡を継いでパティシェ兼オーナーにならなくちゃいけないんだ」
廊下には誰もいない。静寂の中に彼の声がこだましていく。
「ハルキと違って、ぼくには才能がないの。でもお父さんが築いてきたものを守る為に、ぼくかハルキが跡を継がなくちゃいけない。そのことでむかしからお父さんとハルキは喧嘩していた。ハルキはお菓子なんて作りたくない。才能があってもやりたくないって。だから……ぼくが継ぐんだ。お父さんもお母さんも、すごく悲しがるから」
「貴方の意思はどうなるの」
「だって、ぼくらが生まれる前からずっと大人たちは期待していたんだよ。自分の店を継げるのは血を分けた子どもだけだって。そうやって代々受け継がれてきたものだから」
大きな瞳が瞬きを繰り返す。その目元に光るものを見つけた気がしたけれど、黙って耳を傾け続けた。
「でも、もしもこの窓が開いたら…ぼくも飛び出したくなるんだ」
心臓を鷲掴みにされたような衝撃。胸が圧迫され息をするのも辛くなり、私は無意識にナルキの制服の裾を握りしめた。そうでもしないと、彼は本当にこの窓の向こうに飛んで行ってしまいそうに見えたから。
するとナルキはそれまでのただ無邪気に、陽気に騒ぐだけの演技をやめて私を静かに見詰めた。
「噂って…ある程度、事実だから流れるんだよ。七年前、お姉さんはグドゥの塔から飛び降りた。本当は消えたんじゃない。親族が遺体の引取りを拒んだから、そんな噂を流したんでしょう? ―――ユン」
0
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