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第一部 迷路に集う子どもたち
第七話 少年に捧ぐ白い小石
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第七話 少年へ捧ぐ白い小石
―――This is the story of Kisame.
長い赤毛を掻き上げると襟首からの白いうなじが覗いた。艶やかな髪に櫛を入れながら、ミラーに向かってベティはうっとりとした表情で呟いた。
「すべてはキサメの予想通りなのね」
ワックスを掌で伸ばし彼女は丁寧に髪に撫でつけた。この時期は二十四時間暖房がきくのですぐに髪が乾燥して毛が立つのだと日頃から気にかけていたことを思い出す。
「あれからリンコはあまりキッコと一緒にいないようよ。ずっとキッコがついて回っていたから今は一人の時間を使って図書室へいっているみたい。それに最近…ファルバロの個人レッスンを受けていないみたいなの。理由はわからないけど」
胸元についたキスマークをコンシーラーで消し、ボタンを最後までとめるとようやく振り向きぼくの方を見た。化粧も直しさっきよりも色が濃くなった唇を緩め、やや引きつった顔で問いかけた。
「ねぇ、私は貴方の役に立っているかしら?」
冗談など一切滲ませない面差しを受け止めて、まだ温もりの残るベッドから起き上がるとぼくは少し意地悪く微笑んで見せた。
「そうだねぇ」
語尾を曖昧に濁し、返答の代わりに両手を広げ彼女を迎えた。するとはぐらかされた返事を求めるように、ベティは今にも泣き出しそうな顔で抱きついてきた。
東洋人の割に豊満な肉体を持つカナムラ教授と彼女を比較しながら、キサメは以前よりも痩せた身体をおさめる両腕に力を込めた。肉は落ちても胸元の心地よい感触は変わらない。衣服を通してもその弾力は十分に伝わった。
「貴方以外に考えられないの。今は認められないけれど、いつかきっと…二人で幸せになれると信じているわ」
またその話かと思いながらキサメは優しく相槌を打った。典型的な深窓の令嬢として育った孤独な少女が描く、幼稚で非現実的な理想に内心溜息を吐いた。
「愛していると言って」
瞬きと同時に再び透明なものが目尻を伝う。薄い肩がビクッと震え長く伸びた爪を立てられた鈍い痛みに、ぼくは一瞬顔をしかめた。が、興奮する彼女を優しく包むと応える代わりに抱きしめる腕に力を込めた。
「お願いよ…キサメ。私だけを愛していると言って…」
薄い唇が繰り返し戯言を囁く。
『愛しているわ』
ベティの声に重なって脳裏に母の姿が思い出された。
『私も貴方を愛しているの。だから貴方も素直になってちょうだい』
思い詰めた切実な表情は今のベティによく似ている。けれど綺麗事を言っても、所詮は彼女も愛憎ドラマのヒロインに自分を投影して酔い痴れているだけ。後妻にやってきた若い愛人が前妻の子どもを息子として愛せる訳がない。愛情なんて飾り物にすぎない。己を着飾るブランドやアクセサリーの一貫として見ているのだからこちらも物として彼女たちを扱えばいい。
若い母親は女が喜ぶ術を身をもって教えてくれた。彼女の価値はそれだけしかない。そしてベティの豊満な胸よりも、彼女自身が持つ幅広い交友関係は何よりも魅力的だった。
「リンコがおかしな噂の所為で、随分と苦境に立たされているらしいんだ。彼も妹のことで気に病んでいて…しかし下手にぼくが動けば噂を助長する恐れがあるからね」
「あの子が男好きだって…」
ベティは目尻に残る涙を拭い紡いだ。
「みんなが信じ込んでいるわ。私だってキサメからそうじゃないって聞くまで、ずっと思い込んでいたもの」
「きみを信じているよ」
「私に任せて」
再びキスを交わすと枕元の時計を見てベティはやや慌てた表情を作った。そしてぼくから離れると名残惜しむように何度も振り返りながら寮のドアまで移動した。
「選挙は昼食が終わったら講堂で始まるわ…」
「あぁ、スピーチまでにはいくよ」
「健闘を祈ってる」
激励に手を上げて応えると、ベティは周囲に人気がないかを確認し部屋から出ていった。
ドアが完全に閉まるのを待ってぼくもノロノロとベッドを抜け出す。床に散らかっていたズボンを穿いていると誰かがノックをした。相手は既に検討がついていたので、シャツのボタンをとめてからのんびりと返事をする。
「やっと帰ったのか」
鬱陶し気な表情を隠しもせず、ミドリはぼやきながら入ってきた。転入して数週間しか経っていない彼が生徒会長に推薦された大きな所以は、その日本人らしい人心掌握術にある。目には見えないはずの空気を読み相手の望むものを提供する能力が素晴らしく長けているのだが、その特技をぼくに対しては一向に使おうとしないのだ。
彼がこうして素の自分を出すのはぼくを除くとただ一人しかいない。敢えてそれを指摘したことはないが、選別された立場というものに優越感を覚えずにはいられなかった。
ミドリが部屋に入ってくるなり勢いよく窓を開けた為、ほどよく火照っていた身体が急速に冷却されていった。灰色に染まった世界に粉雪がちらほらと白い斑点をつけて舞い降りる。もう冬は目前まで近づいていた。ガドレの始まる日は、いつも湖に氷が張る寒い時期だった。
「首尾はどうだい?」
煙草に火をつけながら問いかける。
「問題ない。予想通りの面子が当選しそうだ」
他の候補者たちの顔を思い浮べながらふっと苦笑した。
「ぼくときみ以外はただの操り人形だね。どれもバロの息がかかった連中なのだから」
ミドリは何も言わず机の前に立ち、ピースが足りず未完成のままの『睡蓮』を眺めた。
吸殻を空のマグカップの中へ捨ててから彼の隣に並んだ。煙草の臭いにミドリは露骨に眉間をしかめた。
もう十分に室内の空気は入れ替えられ寒さのあまり鳥肌が立つ。ブルッと身震いをしてから冷えきった鉄製の取っ手に手を伸ばそうとしたら、寮の裏手に広がる木立の間を彷徨うティルの姿を見つけた。
手にはスコップが握られている。泥だらけの手足を一瞥しまたベンジャミンの死体を捜しているのか…と蔑みを込めてぼやいた。まさかあのコルスティモが彼に本気だったとは考えにくい。けれどファルバロとの関係を念頭に置くならば、彼女はやはり―――
「狙いはバロを蹴落とすだけじゃないんだな」
いつの間にか外の様子を食い入るように見つめていたぼくに対しミドリは冷ややかに呟いた。そんな彼にふっと笑みを送ると、窓を閉めて答えた。
「彼を蹴落とすだなんて、たいそれたことを。これでもぼくは紳士だよ」
眼鏡のレンズに光が反射する。その一瞬、彼の表情が読めなかった。
「例の薬を調べるのは、お前の父親絡みの事情もあるんだろ?」
不敵に歪んだ唇の端からこぼれた言葉につい眉間を寄せる。どこから情報を掴んだのか問い詰めたい衝動に駆られたが、ぼくは溜息交じりに笑うことで感情を抑えた。
「まいったなぁ」
快活に笑い両手を挙げてお手上げのポーズをとった。慧眼を持つ彼を前に下手な嘘は自滅に繋がるだろう。貼りつけた笑顔が剥がれ落ち、足元に広がる二人の影が大きな闇を作り出した。例え表面を繕ったとしても無意味であるとよくわかっていた。手を組もうとしても互いにナイフを隠し持つことは忘れていない。ぼくが彼の弱みを理解しているように、彼もまた、ぼくの触れて欲しくない傷を見つけているのだ。
「しかし……きみだって、薬については知りたがっているのだろう? 世界中がその秘密を渇望しているのだからね」
短い間を置き、ミドリは口元を醜く歪めて笑った。
「せいぜい自慢のその顔で、情報収集に精を出すんだな」
シニカルな態度を変えずズボンから最後のピースを取り出しそれをはめる。遂に完成したモネの名作を額へはめ壁にかける後ろ姿を眺めながら、手段を選ばない性格に共感を覚えた。
―――どんな方法を使ったのか知らないがまさか、セトの手元からなくなったピースを取り戻すとは、思っていたよりも大胆な性格だ。
「……手は組んでやるよ」
けれど、と続け睨むようにこちらを見上げた。
「お前の仲間には、ならない」
漆黒の瞳に秘められた色濃い警戒心に胸が躍る。こんなに面白い兄妹をファルバロたちが放っておく訳がない。美しいが故に、謎もまた甘美な匂いを発している。何も語らずとも、滲み出る秘密の香りはとても気高さを感じさせた。
端正なミドリの横顔を観察するうちに、ふとキッコがあらゆる噂を使ってリンコを独占したがった気持ちが少し理解できた気がした。大切な宝物は、いつだって箱の一番奥に隠しておくものだから。
扉を隔てた向こう側でキッコの声が聞こえてきた。
「だから嘘じゃないの。だって……私と仲よくなったのだって、私がいれば自分がもっと見栄えするからだって思ってるんだもの。でもね、いい子よ! それは本当…なんだけどね」
「そうなの? やっぱり噂どおりの子なのねぇ! キッコが可哀想よ!」
いきり立つ女子生徒たちの同調する声が響いた。
「セトの手前、できるだけ話かけるようにはしていたけど…やっぱりあの子って」
「ねぇ」
「そんなにリンコを悪く言わないで。根は優しいから」
畳みかけるように囁くキッコ。その後に続く哀れな彼女を慰め、私を罵倒する言葉を予測しそっと教室から離れ踵を返す。
もういい加減うんざりだ。
『……巧みに噂を操りきみを独占することに成功した』
耳に貼りついて離れないセトの言葉が、何度もこだまするうちに自嘲してしまいそうになった。まさかキッコに裏切られるとは思ってもみなかったわ。妥協から始まった付き合いでも、共有する時間が多くなるにつれ私はキッコを信頼していった。だからこそ余計に情けなくて、こんなことが翠に知れたら……きっと彼女ら以上に軽蔑されるだろう。
午後から始まる選挙の準備に追われ舞台となる講堂に生徒が集まっている。その為か普段より更に各階は閑散としている校内を、水面を漂うゴミのように目的もないままふらふらと歩く私。
少し熱っぽい頭はぼんやりとし、散漫になった意識は走馬灯のようにこれまでの記憶を蘇らせていった。
「琳子ちゃんって、ちょっと違うよね」
幼稚園に入園して最初に言われたたその一言は、それから辿る私の人生を暗示していたのかもしれない。他人と少し違う私。父親のいない私。母親はいつも忙しくて、それでもブランド商品を手がける会社の社長。好奇の眼差しで追いかけられ、時に蔑まれる。何をしても常に誰かの視線がついて回っていた。
「由良川の兄ちゃんも頭いいしな。これくらい当たり前だよな」
例え優秀な成績を収めたとしてもすべては当たり前。それ以上の評価もなければ、誰かに劣る成績など論外だった。赤丸ばかりの答案を沢山もらって家に帰っても、母は関心を示してくれない。彼女もまたそれが当たり前だと思っていたから。
小学校に上がってしばらくすると、満点の答案を近くの林に埋めてから帰るようになった。家にあっても紙くず同然のそれは邪魔でしかない。その癖手元にあると、それを材料に私を認めて欲しいという厄介な欲望が疼くのだ。
寂しかったのかもしれない。だから私は、いつからか演じることを覚えた。本当の友だちじゃなくていい。ただ、一人でいるのは辛いから傍にいて欲しい。人とは違うからと言って離れないで。私は貴方の望む立場に立ってあげるから。
「こんなこと話せるのは琳ちゃんだけだよ」
「琳子ちゃんが大好き!」
「私たち、ずっと親友でいようね」
都合のよい『お友だち』に惹かれ、私の周りには常に人が集まるようになっていた。誰もが私の一番の友達だと思い込み、その度に気に入らないクラスメートの陰口や秘密などを漏らしていった。一見してとても仲のよいグループでも、裏を返せば互いを毛嫌いし恐れているのだと知り、他人の秘密を知れば知るほどクラスメートらの本性に触れた気がして怖くなった。
私だけじゃない。みんな演じているんだ。透明な仮面を被り笑顔を貼りつけ何も変わらない一日を、みんなで演じている。タイトルは『平穏な日常』。
階段を下りるうちに急に両肩が重たくなったように感じた。眩暈に耐えきれずその場に座り込み、膝を抱える腕に顔を沈めた。頭は熱を帯びているのに身体は芯から冷え鳥肌が立っていた。
我慢しなくちゃ…これくらい、何でもないから……
急に身体の奥底から思い詰めた感情が込み上げてくる。それは涙腺を刺激し熱い水を流し始めた。
「もうぼくらは、他人だ」
脳裏に響くあの声が何度もこだました。冷たい雨が肩を叩いていく。あぁ、これはあの時の記憶。息苦しい家の空気に耐えられず嵐の夜に飛び出した私に、翠は傘を持って追いかけてきた。涙が出てきたのは痛みだけじゃない。私を見る翠の瞳に心からの憎しみを見つけたからだ。
母の告白で私たちの平穏な日常は突然失われた。お兄ちゃんだけは変わらない。翠だけは演じずに私に接してくれる。そう信じていたのに、あまりに唐突な日常との決別に悲しみを隠せなかった。
「家族でもない。だから今までみたいに『お兄ちゃん』って呼ぶのもやめてくれ」
傘をさしたまま翠は、科白を読み上げるように淡々と言葉を紡いだ。諦め、すべてを悟ったようなその口調に抗えず、雨に打たれたままずっと涙を流した。嫌だと何度も何度も繰り返し呟き、喉が嗄れるまで泣いた。
嫌わないで。私を……嫌いにならないで…
涙で濁った視界がゆっくりと開かれる。睫についた水滴を拭い、泣き顔を誰かに見られる前に隠した。
「リンコ……」
消え入るようなか細い声。咄嗟に振り返ると本を抱えたモリアが弱々しげに笑いながら踊り場に立っていた。
「どうしたの?」
「モリアこそ」
腫れた目元を隠しながら立ち上がりスカートの皺を伸ばした。
「ずっと生徒会役員選挙の準備で忙しそうだったじゃない」
「う、うん…でもセトはもっと忙しかったから。ちゃんと寝てるかなぁってみんなが心配しているよ」
彼の名前が出た途端、胸が大きく飛び跳ねた。同時に図書室で見せた瞳の奥で揺らぐ底の見えない翳りを思い出し、心がいっぱいになって苦しくなった。けれど激しくのた打ち回る感情を押さえつけ彼が望む『リンコ』を演じた。
「でもこれでやっと役員も決まるし、モリアたちも肩の荷が下りるわね。新しく結成される生徒会じゃキサメの当選も確実だって言われているみたいだし」
「……あ、あの…」
恐る恐ると口を挟むと、悩むように眉根を寄せて視線を漂わせた。意識的に回避していた話題が持ち上がりそうな気配を感じ、思わず身構えた。
「キッコと何か」
「リンコー!」
弱々しいモリアの語尾に覆い被せるようにしてサエの甲高い呼び声が響く。階段を下りると廊下からサエとコートを手にしたベティが手を振って駆けてきた。
「もぉ探したよ! ベティなんて外にまで出て探してたらしいのぉ!」
「そうだったの? ごめんなさい」
満面の笑顔はどこか嘘っぽくて、いつからか私に近づくようになった二人。交わす会話は中身がないにも関わらず二人は大袈裟に笑う。
二人の登場に動揺を隠せずにいたモリアは、私と目が合うと急に俯き
「じ、じゃあ…後で……」
と言い残しそそくさとこの場を去っていってしまった。
「あら、私たちってばお邪魔だったぁ? モリアと仲がよかったんだ」
「久しぶりに会ったから少しお喋りしていただけよ」
ありがちな話題のくっつけ方に私はさり気なく釘を刺しておいた。すると私の手をとりベティは急げとばかりに急き立てた。
「それよりもうすぐスピーチが始まるわ」
「そう! ミドリの演説は何を置いても聴かなきゃ!」
「キサメの方が素敵な言葉を使って、私たちにわかりやすく教え説いてくれるわ」
「ジェニーが先に席をとってくれているから行こう」
ベティとサエに両脇を挟まれ、私はまるで連行されるみたいに講堂へ向かって歩き出した。
「これでキサメが当選したらさぁ、ベティにもっとライバルが増えちゃうわね」
歩くたびにふわりと舞う赤い髪の毛から、仄かにシャンプーと煙草の匂いがする。綺麗に化粧が施された横顔は、もう昼の二時を過ぎたというのにまるで、出来立てのような仕上がりだ。
「……」
何も語らずただ微笑むベティを横目で盗み見ながら、彼女とキサメの仲は、まだ完全に断ち切れていないのかもしれないと思った。
講堂に設けられた壇上に候補者たちの席が設けられていた。これから五分間のスピーチを行いその後投票が始まり今日の夕食前には結果が明らかになる。観客席は既に埋まり、開始を告げるベルを待っていた。
「キサメでも緊張するのね」
舞台袖にある鏡で襟首を正していたぼくにカナムラ教授が話しかけてきた。
「貴方に見詰められているとね」
冗談交じりに返すと、彼女の膨らんだ胸ポケットから手紙を抜き取った。
「ベティがここまで入ってこようとしていたのを係り生徒が必死に止めていたのよ。貴方にどうしてもこれを渡したいんだって叫んでいたから、私が預かってきたわ」
「それは光栄の至りだね」
「私の前では読めないの?」
手紙を折り畳みそのまま片づけようとしたらカナムラ教授はニヤニヤしながら問いかけた。周りに溢れる生徒の視線が気になったが、断る理由もないのでふっと口元を緩めて応えた。
「ただガドレの主と姫君の関係を調べていただけだよ」
「主と…のねぇ」
睫を上下させ長い毛先を指に絡ませながら呟く。もう少し内容を広げて説明してもよかったが、ベルの音がぼくらの会話を終了させた。
「私もあの、三つ編みのお嬢さんについて調べたわよ」
挑発的な口調につい興味がくすぐられた。やけに今日はお喋りだな、と不意に疑問が過ったが美しく整った彼女の顔を見据え、唇に小指を当てて微笑んだ。
『後で部屋へ…』
秘密の合図に彼女は満足げに頷くと、教員席へと戻っていった。
「女の考えることは大概、同じだな」
会計に立候補する生徒のスピーチに耳を傾けながら、隣に座る翠はふいに漏らした。舞台に立つのは初めてなのか、候補者のウッドは終始顔を赤らめながらも自己アピールを綴っていった。スピーチの内容はまずまずだが、彼らの予想では彼は落選すると見ていた。
「ベティのことかな?」
他に誰がいるのだと言わんばかりに横目でこちらを一瞥する。彼の言い分も理解できるが、リンコを軽蔑する割には彼女を誰よりも心配している矛盾をもう少し突っついてみたくなった。可愛らしい妹は彼にとってアキレスの急所に等しい存在なのだろう。壇上の向こうに集まる生徒の中で、ベティたちに挟まれ座るリンコの胸中に思いを馳せた。
「今はリンコから噂のイメージを払拭しなければならないだろう? 女子の中でも有力な人間を味方につけるのは、一番効果があるのさ」
ベティとその友人の監督生のジェニファーとサエ。女子の中でも彼女達は独自の地位を確立していた。何よりキッコから虚偽の噂を聞いたサエが、ベティとジェニファーにそれを伝え、リンコに冷遇を処したことが他の生徒らにも大きな影響を与えたのだ。
ウッドのスピーチが終わり短い拍手が湧く。続いてジョナサンが壇上に立つ。マイクを自分に合った高さまで上げると、落ち着いた口調で語り始めた。彼は間違いなく当選するだろう。
「あいつを甘く見るな。すぐにベティの演技に気づく」
「何故?」
「……道標にしようと捨てた小石も、月のある夜間でなければ無用のもの。一定の条件を満たさなければ役に立たないものは、最後はゴミになるのがオチだ」
眼鏡のブリッジを持ち上げるとミドリは再び視線をジョナサンへ向けた。
「なるほど…ね」
ヘンゼルとグレーテルの物語を思い出し、この学園にふさわしい比喩だと感心した。
お菓子の家を求めてやってきた生徒たち。まさかここが地上の牢獄だと気づかず、差し出されたものを食べ幸せだと思い込むうちは、偽りでも幸せなのかもしれない。
総勢三十七人の立候補者が生徒会長、副会長、書記、会計の座狙い戦っている。雑用係と言う割には立候補者の数が半端ない。
「私も立候補すればよかったわぁ」
壇上の斜め横に座る立候補者の中から翠を見つけ出し、頬を染めながらサエが呟く。そういえばむかしからこのタイプに翠は好かれる。サエとキッコはどこか似ていた。だから反りが合わなかったのかもしれない。
「どうして立候補しなかったの?」
毎度繰り返し後悔しているらしく、ベティもジェニファーも完全に彼女の独り言を無視していたので、私の合いの手に嬉々として応じた。
「申請期間が終わってからミドリが好きだって気づいたの。ホンットに運がないわぁ」
三分の一ほどが終わってからようやく休憩時間になった。トイレへいく生徒などで辺りは騒然とする。だいぶ離れた所にいたキッコがこちらへ向かってこようとしていたので、
「お手洗いへいってくるわ」。
背後でキッコが当惑する様子が伝わるも構わず小走りに廊下へ出た。いくつもの照明が設置された講堂に目が慣れて、廊下がやけに薄暗く感じた。それも窓の向こうに高く積もっている雪の所為だろう。少し講堂から離れればすぐに人気がなくなり深々と降る雪の音が聞こえてきた。
ガラスが凍っていたけれどそっと手を当ててみた。冷たさのあまり鈍い痛みが走るけれど微熱で火照った体には少し心地よい。転校して以来、一度も土を踏んでいないことが外の世界への憧れを増幅させていった。
「飛び降りるの?」
「!」
胸が大きく高鳴り驚き顔を上げる。窓ガラスには小柄なショートカットの少女、ユンが睨むように私を見上げる姿が映っていた。
「せっかくいい話を持ってきてあげたのに」
初めて言葉を交わすにも関わらずやけに高飛車な態度だ。しかし裏を返せばとても素直な様子に自然と笑みを浮かべた。
「あら…どんなお話かしら」
「お兄さんのミドリは断ったわ。けれど、貴方は私たち、グドゥの仲間に入りたいか聞きたいの」
「グドゥ…の?」
予想もしなかった質問に当惑した。どうして私がグドゥに招かれたのだろうという疑惑と、翠がそれを断った理由が気になった。
「返事はガドレが始まるまでにしてね。もし仲間になりたいなら、試験をすべてパスすれば貴方も入れるんだから」
「どうして私に? 他にも優秀な生徒は沢山いるでしょう?」
「教授の推薦が最低で五科目以上必要なの」
「ありがとう。…考えておくわ」
このチャンスを使って彼女から聞き出したい情報をまとめた。
「グドゥは毎年優先的に、他校へ転校するって聞いたわ。貴方も今年どこかへいくの?」
「私はまだ、いかない。まだ、ここにいたい」
ギュッとスカートの裾を握り締め睫を伏せるユン。それはまるで群れからはぐれた迷子の子羊のような哀愁が漂う。その佇まいはセトと共通した雰囲気を感じさせた。
秘密の部屋で窓の外を眺めていたセト。廊下で擦れ違った時、ゲンジロウと一緒にいる時、食堂で見かけた時。いつも何かが違う。肌で感じる雰囲気が、交わした言葉の調子が、笑った顔がどれも少しずつ、ずれている。
一つの印象として彼をくくれない。
「……」
悩みに悩んで言葉を選んで淀む。どんなに洗練された科白を厳選しても今の彼女の耳には届かないと思った。
「ここが…好きなのね……」
自然と漏れた独り言にユンはピクリと肩を反応させた。
「私はセトの仲間だから。彼が一人になる所をもう見たくない」
怯えと同情の混じった口調に続く言葉を飲み、ユンは私を一瞥すると唇をきつく閉ざして走り去っていった。廊下に響く短い足音を聞きながら、ずっと心につかえている感情が今までに経験したことがない種類のものだと気づいた。すべてを見透かしたあの瞳が怖い。けれどその傍らで揺らぐ翳りが気になって、逃げ出したいのにもっと知りたいと思ってしまう矛盾した気持ち。
セトは…彼は、私にも仲間になれると言ってくれた。彼女も仲間なの? ゲンジロウも? もしかして、ティルも? グドゥになることが、彼の仲間になると言うことなのだろうか。バロの息子でセトの伯父が病死したのも、ユンの姉が消えたのも七年前。その事件が二人の共通点を作りだしていたとしたら、今回のベンジャミン事件にも彼らが関わっている可能性もある。
私は何も知らない…二人の接点……
痛む胸に手を当てる。正体の知れない感情を抑え、身を翻し講堂へ戻ろうと歩き出した。
もうすぐで休憩も終わりだろう。閑散とした廊下に響く一人ぼっちの足音に耳を澄ませながら、再びサエとジェニファー、そしてベティに囲まれ中身のない会話に相槌を打たなければいけない虚しさに憂鬱を覚えた。
気の所為かもしれないけど、キッコと距離を置くと同時に三人が接近してきた。キッコの噂が原因で今まで周囲から白眼視されていたのだとしたら、どうして彼女と離れた途端近づいてきたのだろう。
翠が生徒会長に立候補したのもキッコが私の噂を流したことも、そしてベンジャミンが消えたのも……常に誰かの意図を感じるのは、考えすぎかしら。
「……」
談話室の扉が開いている。誰かが閉め忘れたのかもしれない。深く理由を考えず戸口に立ち薄暗い室内を覗いた。ソファの上に誰かが背中を丸め寝そべっているようだ。
「うっ……う゛ぅぅ…」
低い少年の唸り声に危機感を覚える。
「誰?」
ただちに灯りをつけると驚いたのか少年はソファから転がり落ちた。鈍い振動が床を伝う。急いで駆け寄るとテーブルの下で、お腹を抱えたままゲンジロウは身体を曲げて呻いていた。
「!」
事態の異常さがわかった。全身が蒼褪めているのに顔はむくみ、目は赤く充血している。歯を食い縛った唇は異様なほど赤く染まり、血が混じった涎が辺りに散っていた。
小刻みに震える身体に駆け寄ろうとしたその時、強く肩を掴まれ引き戻された。
「キサメ…っ」
仰ぎ見る彼の顔は一瞬嬉しそうに目を細めた。けれどその後ろで頬を引きつらせたセトを見た途端、私は決定的な現場に鉢合わせてしまったのだと思わずにはいられなくなかった。
小休憩の間に今朝の久しぶりの抱合で味をしめたベティが、近づいてくるおそれがあった。今はまだお互いの関係を公にされたくなくて、ぼくは適当に理由を作って講堂を出ることにした。
「ベルが鳴るまでには戻るよ」
ミドリは膝を組み瞑想したまま顎を引いて応えた。瞼を閉ざすと意外に長い睫が目立つ。いつか彼ら兄妹をモデルに作品を作ってみたいと制作意欲がふいに湧いた。二人の間に流れる緊迫した空気をこの手で表現したい。
賑わう講堂の脇でバロが教授に囲まれ談笑をしていた。上品な皺に彩られたバロは、ぼくと目を合わせると優しく微笑んで見せた。軽く低頭し彼らの横をすり抜けていく。穏やかな老紳士の仮面で彼は一体どれだけの人間を騙し、蹴落とし今へ至ったのだろう。その栄光の裏に己の息子さえも犠牲にした鉄の男。
学園が一つの王国だとしたら、彼は王。彼の元に集う子どもたちは位ごとに分別されていた。ぼくはどれに属するのだろうなと、小さくぼやいた。三つに分かれる生徒を区分する言葉のうち、調べてわかったのはグドゥ(鍵)とイヒヌゥ(門前に集まる子ども)の二つだけ。世界中から集められ未来を有望視された子どもをグドゥと称し、彼らの行く末をすべて導いてくれる。対してイヒヌゥは各家庭から爪弾きされた子どもたちが集められていた。世界的に力のある権力者たちの子どもが主にイヒヌゥに分類され、肩書きだけは申し分のない学歴を与えられ卒業していた。
しかし同じイヒヌゥの中にもベンジャミンのように、特別な目的を持ってここへ送られてくる者もいた。誰にも知られずこの世から抹消される為に、彼はやってきた。クーデターから逃げると言う大人の言葉を信じ幸せな学園生活を夢見て。事実、何者かの手にかかるまでのベンジャミンは充実した毎日を送っていたそうだ。少なくとも、他の女子の報告ではそう伝えられていた。
廊下へ出て人気のない階段の踊り場まで移動すると、ベティからの手紙を取り出し広げた。四ツ折りされた便箋を開けた瞬間、彼女が愛用する香水が漂った。ペンをふんだんに使った可愛らしい文体で、様々な言葉を使って愛を書き連ねられている。そして依頼していた事柄の結果は二枚目に書かれていた。
『ガドレの主と姫君の関係は貴方の予想と合致していて、私は改めて貴方のずば抜けた才能に尊敬してしまったわ。自白剤を使って喋らせたから嘘はないと思うの。けれど姫君は最後におかしなことを言い出したの。特別な意味はないかもしれないし私もすべて聞き取れた訳じゃないけれど「誰も…なれない」って言っていたの』
反芻し手紙を破ろうとしたその時、足元に伸びる人影に気づいた。
「またラブレターをもらったの?」
心臓がひやりと驚き縮まる。振り向く先で待っている彼の笑顔を予測し、げんなりとした態度を装った。
「そう思って意気揚々と読んでいたら、何とベティからだったのだよ」
セトはおかしそうに笑った。笑い声が天井の辺りでこまだする。そして雲居から下界を覗く天井画の神々を一瞥すると、セトは笑顔はそのままに冷ややかに微笑んだ。
「そんなに笑えるかな?」
「うん、とってもおかしいからさ」
潤んでいない目元をこすりセトは微笑んだ。
「ぼくとティルの関係について調べていたんでしょ?」
疑問符をつけているにも関わらず、確信に満ちた眼差しはぼくを捉えて離さない。
「…しらを切るつもりはないけれど、どうしてそう思うのだい?」
掌の中で手紙を握り潰しながら平穏を装って問う。大理石の手摺りに腰をかけるとセトは脚を前後に動かしこちらを観察してきた。
「キサメもリンコも、ミドリも…みんな目的を持って行動しているね。そんな子どもたちをシィクンツッって呼ぶんだよ」
どこまでも挑発的な瞳。『今の彼』なら刺激させれば喋るかもしれないが、同時に身の危険も感じた。静まり返った踊り場に腕時計の秒針が大きく響く。そろそろ時間が迫っているだろう。ゆっくりと歩き出すとぼくの後からセトがついてくる気配が伝わった。
「きみが毎年パルトロを選んでいる。女子生徒たちはみな、きみに…いや、ガドレの主に気に入られようと髪を伸ばしている。それもユンの姉が綺麗な長い黒髪だったからなのだろう?」
「あぁ、だからぼくをガドレの主って呼ぶんだね。ここに住むゴーストを指しているのかと思ったよ」
沢山呼び名があるなぁと、セトは後頭部を掻きながら他人事のように呟いた。
「『キサメは悪い子だね』」
心臓を鷲掴みにされたような恐怖を感じ立ち止まる。それまで大人しく後からついてきていた少年は、喜怒哀楽を一切排除した無の表情でぼくの前に回りこんできた。
何もない。目を開けたまま眠っているように、その瞳は映り込んだものをまったく認識すらしていないように見えた。
「今朝、ドイツできみの両親の離婚が成立したらしいよ。理由は奥さんの不倫。でも、生まれてきた子どもって、本当はきみの子じゃないの?」
淡々とした口調で言葉を紡いでいく。まるでそこに込められた意味を理解せず、ただ用意された科白を朗読しているように。義母の関係を知る筈がない彼が、どうしてそれを? 軽い焦燥に駆られ握り締めた掌が汗ばんでいく。
「大人を裏切ったキサメは、とても悪い子だよね」
不敵な笑顔は無言でぼくを追い詰める。針が時を刻んでいく度に沈黙は重くなり、次第に呼吸さえもままならなくなってきた。首筋から冷や汗が流れる。ガラス玉が向ける視線に耐え切れず、顔を背けようとした時セトの表情にも変化が訪れた。
「!」
息を吹き返した死人のように突然動き出すと、残る段を飛び下りて続く廊下を走り出した。慌ててぼくも後を追う。出だしで遅れをとったが脚には多少の自信があった。すぐにセトの背中に接近すると彼の足取りを追った。
半開きになった談話室の扉を押し開けて床に倒れるゲンジロウを確認する。ついに決定的な現場に出会えたかとリンコの肩を掴み呼吸を整えながら、ぼくは嬉しさのあまり微笑んだ。
「アンジーを呼んで」
切り裂くような鋭い口調でセトが叫ぶ。彼の足元でゲンジロウは苦しげに手足をばたつかせ始めていた。
「リンコ!」
名指しされようやく我に返る。けれど熱っぽい頭は寸分前までの記憶を失い、何を指示されていたのかわからず途方に暮れてしまった。
「いいよ、ぼくがいく」
先程からずっと肩を支えていたキサメが耳元で囁く。現状にはひどく不似合いな落ち着いた声につい私も平静さを取り戻した。
「リンコはここで、待っていておくれ」
ここで、という所を強調し肩を軽く叩くと扉を越えて出ていく。すぐに駆け出したのか足音が遠退いていった。
「いつもの発作」
言い訳のように呟くと、セトは涙を流すゲンジロウの手を握った。
「どこか…悪いの?」
むしろ一緒にいるセトの方がずっと身体が弱そうなイメージが強くて、そんな彼と対比して見えていた。
「生まれつきだから、仕方ない。ここには療養も兼ねてきているから」
淡々とした口調は目の前に横たわる病人が友人であることも忘れたような、そんな冷たさも感じた。
一つの印象で彼をくくれない。
ゲンジロウと一緒にいる時のセトからは想像もできない。触れたら私まで凍りついてしまいそうな眼差しは、どこかわからない宙の一点を見詰めている。何を考えているの? もどかしい感情が堂々巡りを繰り返す。聞きたいけれど口にはできない。言葉に変えられない気持ちが喉元までのぼっているのに、それを表現できない。
わからない。私は彼を何も知らない。だからこそ、知りたいと強く願う。
「セ……」
乾ききった喉から搾り出すように声を吐き出す。けれど続きを紡ぐよりも早く、バロの威圧的な声が背後から響いた。
「何事だね」
振り向かなくてもバロの顔が引きつったのが気配でわかった。
「ゲンジロウが例の発作で倒れていた」
機械的に説明をするセト。なんだか彼の登場でさっきよりも空気が強ばったように感じる。恐る恐る振り返りバロの表情を仰ぎ見る。深い皺が刻まれた顔は微妙な陰影をつけ、普段よりも更に老けて見えた。光の加減でやや青みがかって見える瞳を曇らせ、私とセトを交互に一瞥すると更に眉間の皺を寄せた。
「アンジーは」
校医の名前を口にした時、廊下から響く大きな足音に気づいた。誰か他の教授もついてきたのかしら。そう思い戸口から離れようとしたら突然バロに肩を掴まれた。
「きみは講堂へ戻りなさい」
そして私は有無を言わさず押し出されてしまった。入れ替わりに校医のアンジーと何故かジャックが駆けつけ、閉まりかかっていた扉の隙間から滑り込むように入っていった。
目の前で勢いよく閉ざされる扉を途方に暮れた思いで眺める。何か見られてはまずいことでもあったのだろうか? それとも生徒のプライバシーを守る為?
「追い出されてしまったね」
クックックと言う忍び笑いと共に後から歩いてきたキサメが話しかけてくる。浮かない表情のまま相槌を打つと、肩を並べて講堂へ向かって足を進めた。
「……急がなくてもいいの?」
あまりにゆっくりと歩くのでふいに心配になってしまった。けれど悠長に進みながら
「それより、きみは何故ゲンジロウが倒れていたのか気にならないのかい?」
「気にはなるけど…」
「ベンジャミンは死んだのに、どうして彼が今も生きているのか。何故ここの生徒たちはあぁもお菓子を貪り食べるのか。そして七年前に消えた女子生徒の真実は。あぁ、それときみの父親の正体も気になるのかな? 両親はここの卒業生だったらしいね」
あまりに平然と公言するのでつい私の方が呆気にとられてしまった。
もしも翠と手を組んでいたとしても、彼がここまでべらべらと喋るはずがない。恐らく自身のネットワークで下調べをしてから私に接近してきていたのだろう。
「またおかしな噂でも流れていたのかしら? それとも何かのジョーク?」
彼の情報網。それはベティを筆頭に、数多くの女子生徒から成り立っているに違いない。
「笑えないわ」
「ジョークだとしたら、大失敗だけれどね」
片目をつぶって冗談めかしてウィンクをするキサメ。
「警戒しなくともミドリとは既に手を組んでいるのだよ。ぼくも同じように学園の秘密を嗅ぐっている。つまりリンコにも協力したいのだ」
「……私に協力するのが貴方の利益に繋がるとは思えないわね」
「もう少し掘り下げて話すのなら、ぼくもミドリもきみの父親がこの学園にいるとほぼ確信している。それもバロ…いや、学園にとっても重要なポイントに立っているだろう」
「翠も…」
彼はいつそう確信したのだろう。私の父親がここにいる? でもそうだとしたら、どうして翠は尚も父親を探そうとしているの?
私を憎んでいるのに、どうして……
かぶりを振って気持ちを集中させる。今、対峙している人物は本当に私にとって有益な存在となり得るのかどうか、それは私自身で見極めなければいけないのだから。
「貴方の狙いは何?」
「ぼくの狙い?」
茶化すように両目を大きく開き、わざと上体をそらせ大袈裟にリアクションをとる。
「貴方が指示してベティたちを近づけてきたんでしょう? 私がキッコと仲違いするのも予め見当がついていたのね。素晴らしい段取りだわ」
『仲違い』と言ってから急に虚しさがかすめた。所詮、キッコとは上辺だけの友だちとして付き合っていたのに、いざ傍らに彼女がいなくなると、どうしてこんなに物足りなさを感じるのだろう。
気の強い猫を連想させる瞳はぐっとキサメを捉え離さなかった。こうして正面から見ると亡くなった彼女の母親によく似ている。カナムラ教授に調べさせたリンコの母親もアジア系の綺麗な人形みたいな顔をしていた。
まさか、とは思っていたがミドリの助言は当たっていた。彼の予想よりもリンコは聡明で鋭い感性を持っている。この兄妹は似ていないようで、意外と似ていると感じた。
「この学園にばらまかれている薬について、調べているのだよ」
「薬について?」
「そう。麻薬に等しい効果がある魔法のような薬があるのだ」
しばしぼくの発した言葉を反芻するように黙り込むと怪訝そうに眉根を寄せ
「そんなものがあるとは思えないわ。それに何の為に薬を学園内にばらまいているの?」
長い睫が瞬きをする度に目元に濃い影を落とす。柔らかそうな唇は何も塗っていないにも関わらず赤く艶やかで、そこから飛び出す言葉ごと塞いでしまいたくなる。一見して清楚で純情なイメージだけれど近づいた途端、恐らく彼女も意識せずに不思議な魅力を醸し出す。まさに天性の魔性を持ち合わせているのだろう。彼女の母親がまたそうであったように。
「……公には知られていないけれど、ここには生徒を三段階に区分しそれぞれに呼称をつけている」
熱くなった身体に気づき彼女から目を逸らして気持ちを他へ飛ばした。
「まずは『グドゥ』。彼らには最高の名誉と栄光が用意されている。良家の中でも選ばれた、才能のあるお坊ちゃんやお嬢さんが送られてくる。そして『イヒヌゥ』。亡くなったベンジャミンもこれに属していた」
亡くなったという表現に反応し再びリンコはキサメを見上た。
「つまりどの家でも扱いに困っている子どもだ。ベンジャミンの身分についてはもう知っているのだろう?」
「…えぇ」
「国内で彼の存在が邪魔になっていた。宗教的理由から規律のうるさい国で、特に若いベンジャミンなど保守派に対立し何かと国民の反感を買っていたそうだからね。国王としても悩みの種だったのだろう。だから邪魔者を消す為に、彼をここへ編入させたのだよ」
「彼を……殺す為に、学園が始末したのね? じゃあ、あのベンジャミンは誰なの?」
「ぼくの予想では、ベンジャミンをパルトロに選びガドレを終えてから消すつもりだったと思う。けれど何らかの理由で早々に彼を消し、誰かにその身代わりを演じさせているのだとしたら……」
衝撃的だったのだろう。しかしある程度の予測もしていたのか、リンコは何度も瞬きを繰り返し俯いた。そして全身の震えを隠すようにキッと唇を噛み締めると
「薬漬けにして…生徒たちを意のままに操っているとでも言いたげね」
それまでの怯えを掻き消した凛とした面持ちで呟いた。
「けれど貴方の話にはまだ確実な証拠がないわ」
「その通り。だから共に協力し合い、証拠を掴もうではないか」
「たかだか父親探しを目的とする私と、学園の存続に関わる大事件を暴こうとする貴方。残念だけれどこれじゃあ、あまりにも私が負うリスクが高すぎるわ」
どこまでも警戒心がついて回る。キッコとの件があったから仕方ないかもしれないが、彼女のガードは兄以上に高く感じられた。
「きみの父親も恐らく関係している」
父親の話題になると急にリンコの視線が宙を彷徨う。しばし目を泳がせ、言葉を選ぶように黙り込むと静かに
「残る…生徒の呼称は?」
「『シィクンツッ』。セトいわく、ぼくらはこれに分類されるそうだよ」
リンコは目を大きく開け言葉を失い黙り込んだ。
長い間、医務室を空けていたドクター・アンジーが帰ってきた。どうやら例の少年の手当ては終了したようだ。彼のカルテを棚にしまいそれまでやりかけていた仕事を再開させた。
あの子はまだ生きているのかな? バロが怖い顔のまま講堂に戻ってきたから他の生徒も怯えていた。色々と彼女に聞いてみたいけれど、いつものように壁の裏側から覗いていても『ぼく』に気づいてくれない。
しばらくアンジーは机に向かったままずっと鉛筆を走らせた。短針が数字を越えても彼女は微動だせず、超絶した集中力を維持させ何かを書いていた。が、扉をノックする音でそれまで絶えず響いていた鉛筆の音が途切れる。
「どうぞ」.
振り向き肩をぐるぐると回しながら返事をすると、ジェニファーとサエに支えられてリンコが入ってきた。
「あら…あらあら、どうしたの?」
蒼褪めたリンコの顔を見るなり立ち上がり、すぐに駆け寄った。
「生理痛がひどいみたいで」
「生徒会役員選挙も終わったからぁ、休ませてあげて下さいよぉ」
「えぇ、そうね。リンコ? 鎮痛剤は飲んだの?」
そうとう辛いのか顎を引いて返事をする。
「さっき飲みました」
ジェニファーが代わりに答えるとアンジーは相槌を打って彼女をベッドへ移動させた。
白いカーテンで仕切られてしまったのでここからリンコの様子がわからない。仕方なく、狭い通路を移動してもう一箇所の覗き穴まで移った。
「いつもこんなにひどいの?」
「忙しかったから、遅れて」
「そういう時はすぐに私の所へきなさい。医務室といえど、それなりに機材も薬もは整っているんだから」
シーツをかけて優しく労わるとアンジーはくるりと踵を返しカーテンの向こうに待つ二人に声をかけた。
「貴方たちはもう出ていきなさい。ミドリにも、彼女がここで休んでいるって伝えてあげるといいわ」
「それならぁ私が喜んでっ!」
飛び上がり挙手するサエの襟首を掴みしっかり者のジェニファーが頭を下げた。
「ゆっくり休みなよ、病気じゃないんだから」
ベッドに横たわりながらリンコは弱々しく笑い二人を見送ったが、すぐにその瞼は閉ざされた。穏やかな寝息をたて上下する胸元を見詰めアンジーは
「ヒサコの娘か……」
と呟いた。目尻の皺を刻みふっと笑みを漏らす。そう言えば彼女は今年で勤務三十年目になるベテランの教授の一人だった。リンコの母親もよく覚えているに違いない。
再びリンコを一瞥すると踵を返しカーテンを閉ざした。
秒針が進む音とアンジーの書きものの音だけが響く。今日は随分とのっているようだ。そうして三十分ほど経っただろうか。最初よりも随分と顔色がよくなったリンコを確認し、そろそろ帰ろうと覗き穴から身を離した時。それまでの静寂を破るノックが聞こえてきた。
返事を待たずに扉が開かれる。白いカーテンの向こうに人影が映った。
「妹が倒れたと聞いたんですが」
ミドリだ。普段の彼からは想像もできない珍しく慌てた口調だった。
「大丈夫よ、単なる貧血だから。今もベッドにいるわ」
「そうですか…」
驚いたことに、状態を聞いて安堵したのか嘆息する気配まで聞こえた。
「少し席を外してもいいかしら? ニコチンが切れちゃったみたいで、集中できないの」
「えぇ、いいですよ」
喜々とし外へ出ていくアンジーが消えると静かになった医務室にミドリの影だけが残った。しばらくじっと動かずにいたが、肩を上下させ大きく息を吐き出すとカーテンを開いた。
逆光であまり表情がわからない。
他のベッドに人がいないことを確認し後ろ手で閉める。光が遮られ薄暗い闇が辺りを包む。ミドリはゆっくりとリンコの傍らまで移動し、先程と変わらず穏やかな寝息に耳を澄ませ枕元から彼女を見下ろすように眺めた。けれどその眼差しには、普段彼女に向ける刺々しさや憎しみのない、けれど複雑な感情が滲んでいた。
「………」
静かに腕を持ち上げ、人差し指をリンコの口元に触れさせた。
ずっと唇に触れたまま動かない。何故かその光景を眺めるうちに『ぼく』の頬が熱く感じた。しばらくしてから口にかかっていた髪の毛を払い腕を戻した。再びリンコを見詰める視線には、何かそれまでにないものが込められている。
唇を噛み締め眉間に濃い皺を寄せるも、とても妹に対する所作とは思えない空気が漂う。リンコを憎んでいるのだとばかり思っていたけれど、今の表情には暗澹とした悲しみが伺えた。
「待たせたわね」
アンジーの登場に、ミドリはすぐさまそれまでの表情を払拭させいつもの笑顔を貼りつけた。
「まだ眠っているので、ぼくはこれで失礼します」
「あら、そう? もう少しゆっくりしていってもいいのよ」
「ただの貧血ならそれほど心配しなくてもいいかと思うので」
「サエが吹聴するに貴方ってフェミニストで有名なのに、案外身内にはシビアなのね。血を分けた兄妹なのに」
皮肉めいた科白に言葉を返す前に扉が開く音がする。
「だからですよ。早々に自立して、独り立ちしてもらわなくちゃ」
「ふふ。そんな所、ヒサコによく似ているわ」
一瞬の間の後冷ややかな口調で
「……母親、ですから」
と答え、ミドリは静かに扉を閉めた。
薄暗い部屋に吐き出した白い煙が漂う。ぼくの胸元に頭を委ねていたカナムラ教授は、起き上がり枕元に置いていた腕時計を確認した。
「そろそろ投票結果も出る頃ね」
顔にかかっていた髪をかき上げ、一糸まとわぬ豊満な肉体は暗闇に白いシルエットを生み出した。
「結果は火を見るより明らかだよ」
「そうね」
相槌を打ちぼくがくわえていた煙草を奪い、うまそうに吸い始めた。
「ベティたちが様々な手段で貴方たちの票を集めたんですものね」
ふぅと煙を吐き出すと灰皿に押し潰して火を消した。
「けれど私が調べたリンコの情報も、とても役に立つと思うわ」
挑発的な眼差しを受けとめ微笑み返すと、カナムラ教授は再び甘えるように肢体を重ねてきた。
「あの子、これまで何人かのアプローチを受けていたけれどすべて断っているの。周囲は男嫌いなのかもしれないって言っているわ」
「確かに……警戒心の強いタイプだね」
「えぇ、でも調べていったら面白いことがわかったのよ。あの子は十一歳の時に入退院を繰り返していたの。そして何故かリンコが退院した後に、それまで父親について一切語らなかった母親はそのことを暴露した。直結する理由はわからないけれど、元々地元の中学校へ進学を予定していたミドリとリンコは、ドイツとイギリスへ留学を希望した」
「つまりリンコが男性を嫌う背景に母親の淫行が影響しているのだろうね。それにしても彼女は何故入院をしていたのだろう?」
「さぁ…私が接触した母親の秘書も頑なに口を閉ざすのよ」
続く彼女の報告に耳を傾けながら新たな煙草を取り出して火をつけた。ゆっくりと息を吐き出し、細長い煙が暗闇に消えていくさまを見届け母親の淫行が幼い少女に与えた影響について考えた。
「……」
―――大人はいつだってぼくらを操っているつもりでいる。すべてを知り、己の手の内で粋がっているだけだと思い込んでいるけれど、真に実権を握るのは一部の子どもだ。ぼくらが未来を築く。大人たちに行く先を案内してもらうグドゥでも、いつ切り捨てられるかわからないイヒヌゥでもない。ぼくらは―――
『そんな子どもたちをシィクンツッって呼ぶんだよ』
談話室で倒れていたゲンジロウを思い出し、ぼくは込み上げてきた笑いを抑えきれずに吹き出した。
「あの時のファルバロの顔を…きみにも見せてあげたかったよ」
世界が薬の秘密を求め信じられないような金が動いている今、燻り続けていた予感は確信に変わった。
姫君は……ティル・トラヴィスは、ファルバロの手から逃れようとしている。
―――This is the story of Kisame.
長い赤毛を掻き上げると襟首からの白いうなじが覗いた。艶やかな髪に櫛を入れながら、ミラーに向かってベティはうっとりとした表情で呟いた。
「すべてはキサメの予想通りなのね」
ワックスを掌で伸ばし彼女は丁寧に髪に撫でつけた。この時期は二十四時間暖房がきくのですぐに髪が乾燥して毛が立つのだと日頃から気にかけていたことを思い出す。
「あれからリンコはあまりキッコと一緒にいないようよ。ずっとキッコがついて回っていたから今は一人の時間を使って図書室へいっているみたい。それに最近…ファルバロの個人レッスンを受けていないみたいなの。理由はわからないけど」
胸元についたキスマークをコンシーラーで消し、ボタンを最後までとめるとようやく振り向きぼくの方を見た。化粧も直しさっきよりも色が濃くなった唇を緩め、やや引きつった顔で問いかけた。
「ねぇ、私は貴方の役に立っているかしら?」
冗談など一切滲ませない面差しを受け止めて、まだ温もりの残るベッドから起き上がるとぼくは少し意地悪く微笑んで見せた。
「そうだねぇ」
語尾を曖昧に濁し、返答の代わりに両手を広げ彼女を迎えた。するとはぐらかされた返事を求めるように、ベティは今にも泣き出しそうな顔で抱きついてきた。
東洋人の割に豊満な肉体を持つカナムラ教授と彼女を比較しながら、キサメは以前よりも痩せた身体をおさめる両腕に力を込めた。肉は落ちても胸元の心地よい感触は変わらない。衣服を通してもその弾力は十分に伝わった。
「貴方以外に考えられないの。今は認められないけれど、いつかきっと…二人で幸せになれると信じているわ」
またその話かと思いながらキサメは優しく相槌を打った。典型的な深窓の令嬢として育った孤独な少女が描く、幼稚で非現実的な理想に内心溜息を吐いた。
「愛していると言って」
瞬きと同時に再び透明なものが目尻を伝う。薄い肩がビクッと震え長く伸びた爪を立てられた鈍い痛みに、ぼくは一瞬顔をしかめた。が、興奮する彼女を優しく包むと応える代わりに抱きしめる腕に力を込めた。
「お願いよ…キサメ。私だけを愛していると言って…」
薄い唇が繰り返し戯言を囁く。
『愛しているわ』
ベティの声に重なって脳裏に母の姿が思い出された。
『私も貴方を愛しているの。だから貴方も素直になってちょうだい』
思い詰めた切実な表情は今のベティによく似ている。けれど綺麗事を言っても、所詮は彼女も愛憎ドラマのヒロインに自分を投影して酔い痴れているだけ。後妻にやってきた若い愛人が前妻の子どもを息子として愛せる訳がない。愛情なんて飾り物にすぎない。己を着飾るブランドやアクセサリーの一貫として見ているのだからこちらも物として彼女たちを扱えばいい。
若い母親は女が喜ぶ術を身をもって教えてくれた。彼女の価値はそれだけしかない。そしてベティの豊満な胸よりも、彼女自身が持つ幅広い交友関係は何よりも魅力的だった。
「リンコがおかしな噂の所為で、随分と苦境に立たされているらしいんだ。彼も妹のことで気に病んでいて…しかし下手にぼくが動けば噂を助長する恐れがあるからね」
「あの子が男好きだって…」
ベティは目尻に残る涙を拭い紡いだ。
「みんなが信じ込んでいるわ。私だってキサメからそうじゃないって聞くまで、ずっと思い込んでいたもの」
「きみを信じているよ」
「私に任せて」
再びキスを交わすと枕元の時計を見てベティはやや慌てた表情を作った。そしてぼくから離れると名残惜しむように何度も振り返りながら寮のドアまで移動した。
「選挙は昼食が終わったら講堂で始まるわ…」
「あぁ、スピーチまでにはいくよ」
「健闘を祈ってる」
激励に手を上げて応えると、ベティは周囲に人気がないかを確認し部屋から出ていった。
ドアが完全に閉まるのを待ってぼくもノロノロとベッドを抜け出す。床に散らかっていたズボンを穿いていると誰かがノックをした。相手は既に検討がついていたので、シャツのボタンをとめてからのんびりと返事をする。
「やっと帰ったのか」
鬱陶し気な表情を隠しもせず、ミドリはぼやきながら入ってきた。転入して数週間しか経っていない彼が生徒会長に推薦された大きな所以は、その日本人らしい人心掌握術にある。目には見えないはずの空気を読み相手の望むものを提供する能力が素晴らしく長けているのだが、その特技をぼくに対しては一向に使おうとしないのだ。
彼がこうして素の自分を出すのはぼくを除くとただ一人しかいない。敢えてそれを指摘したことはないが、選別された立場というものに優越感を覚えずにはいられなかった。
ミドリが部屋に入ってくるなり勢いよく窓を開けた為、ほどよく火照っていた身体が急速に冷却されていった。灰色に染まった世界に粉雪がちらほらと白い斑点をつけて舞い降りる。もう冬は目前まで近づいていた。ガドレの始まる日は、いつも湖に氷が張る寒い時期だった。
「首尾はどうだい?」
煙草に火をつけながら問いかける。
「問題ない。予想通りの面子が当選しそうだ」
他の候補者たちの顔を思い浮べながらふっと苦笑した。
「ぼくときみ以外はただの操り人形だね。どれもバロの息がかかった連中なのだから」
ミドリは何も言わず机の前に立ち、ピースが足りず未完成のままの『睡蓮』を眺めた。
吸殻を空のマグカップの中へ捨ててから彼の隣に並んだ。煙草の臭いにミドリは露骨に眉間をしかめた。
もう十分に室内の空気は入れ替えられ寒さのあまり鳥肌が立つ。ブルッと身震いをしてから冷えきった鉄製の取っ手に手を伸ばそうとしたら、寮の裏手に広がる木立の間を彷徨うティルの姿を見つけた。
手にはスコップが握られている。泥だらけの手足を一瞥しまたベンジャミンの死体を捜しているのか…と蔑みを込めてぼやいた。まさかあのコルスティモが彼に本気だったとは考えにくい。けれどファルバロとの関係を念頭に置くならば、彼女はやはり―――
「狙いはバロを蹴落とすだけじゃないんだな」
いつの間にか外の様子を食い入るように見つめていたぼくに対しミドリは冷ややかに呟いた。そんな彼にふっと笑みを送ると、窓を閉めて答えた。
「彼を蹴落とすだなんて、たいそれたことを。これでもぼくは紳士だよ」
眼鏡のレンズに光が反射する。その一瞬、彼の表情が読めなかった。
「例の薬を調べるのは、お前の父親絡みの事情もあるんだろ?」
不敵に歪んだ唇の端からこぼれた言葉につい眉間を寄せる。どこから情報を掴んだのか問い詰めたい衝動に駆られたが、ぼくは溜息交じりに笑うことで感情を抑えた。
「まいったなぁ」
快活に笑い両手を挙げてお手上げのポーズをとった。慧眼を持つ彼を前に下手な嘘は自滅に繋がるだろう。貼りつけた笑顔が剥がれ落ち、足元に広がる二人の影が大きな闇を作り出した。例え表面を繕ったとしても無意味であるとよくわかっていた。手を組もうとしても互いにナイフを隠し持つことは忘れていない。ぼくが彼の弱みを理解しているように、彼もまた、ぼくの触れて欲しくない傷を見つけているのだ。
「しかし……きみだって、薬については知りたがっているのだろう? 世界中がその秘密を渇望しているのだからね」
短い間を置き、ミドリは口元を醜く歪めて笑った。
「せいぜい自慢のその顔で、情報収集に精を出すんだな」
シニカルな態度を変えずズボンから最後のピースを取り出しそれをはめる。遂に完成したモネの名作を額へはめ壁にかける後ろ姿を眺めながら、手段を選ばない性格に共感を覚えた。
―――どんな方法を使ったのか知らないがまさか、セトの手元からなくなったピースを取り戻すとは、思っていたよりも大胆な性格だ。
「……手は組んでやるよ」
けれど、と続け睨むようにこちらを見上げた。
「お前の仲間には、ならない」
漆黒の瞳に秘められた色濃い警戒心に胸が躍る。こんなに面白い兄妹をファルバロたちが放っておく訳がない。美しいが故に、謎もまた甘美な匂いを発している。何も語らずとも、滲み出る秘密の香りはとても気高さを感じさせた。
端正なミドリの横顔を観察するうちに、ふとキッコがあらゆる噂を使ってリンコを独占したがった気持ちが少し理解できた気がした。大切な宝物は、いつだって箱の一番奥に隠しておくものだから。
扉を隔てた向こう側でキッコの声が聞こえてきた。
「だから嘘じゃないの。だって……私と仲よくなったのだって、私がいれば自分がもっと見栄えするからだって思ってるんだもの。でもね、いい子よ! それは本当…なんだけどね」
「そうなの? やっぱり噂どおりの子なのねぇ! キッコが可哀想よ!」
いきり立つ女子生徒たちの同調する声が響いた。
「セトの手前、できるだけ話かけるようにはしていたけど…やっぱりあの子って」
「ねぇ」
「そんなにリンコを悪く言わないで。根は優しいから」
畳みかけるように囁くキッコ。その後に続く哀れな彼女を慰め、私を罵倒する言葉を予測しそっと教室から離れ踵を返す。
もういい加減うんざりだ。
『……巧みに噂を操りきみを独占することに成功した』
耳に貼りついて離れないセトの言葉が、何度もこだまするうちに自嘲してしまいそうになった。まさかキッコに裏切られるとは思ってもみなかったわ。妥協から始まった付き合いでも、共有する時間が多くなるにつれ私はキッコを信頼していった。だからこそ余計に情けなくて、こんなことが翠に知れたら……きっと彼女ら以上に軽蔑されるだろう。
午後から始まる選挙の準備に追われ舞台となる講堂に生徒が集まっている。その為か普段より更に各階は閑散としている校内を、水面を漂うゴミのように目的もないままふらふらと歩く私。
少し熱っぽい頭はぼんやりとし、散漫になった意識は走馬灯のようにこれまでの記憶を蘇らせていった。
「琳子ちゃんって、ちょっと違うよね」
幼稚園に入園して最初に言われたたその一言は、それから辿る私の人生を暗示していたのかもしれない。他人と少し違う私。父親のいない私。母親はいつも忙しくて、それでもブランド商品を手がける会社の社長。好奇の眼差しで追いかけられ、時に蔑まれる。何をしても常に誰かの視線がついて回っていた。
「由良川の兄ちゃんも頭いいしな。これくらい当たり前だよな」
例え優秀な成績を収めたとしてもすべては当たり前。それ以上の評価もなければ、誰かに劣る成績など論外だった。赤丸ばかりの答案を沢山もらって家に帰っても、母は関心を示してくれない。彼女もまたそれが当たり前だと思っていたから。
小学校に上がってしばらくすると、満点の答案を近くの林に埋めてから帰るようになった。家にあっても紙くず同然のそれは邪魔でしかない。その癖手元にあると、それを材料に私を認めて欲しいという厄介な欲望が疼くのだ。
寂しかったのかもしれない。だから私は、いつからか演じることを覚えた。本当の友だちじゃなくていい。ただ、一人でいるのは辛いから傍にいて欲しい。人とは違うからと言って離れないで。私は貴方の望む立場に立ってあげるから。
「こんなこと話せるのは琳ちゃんだけだよ」
「琳子ちゃんが大好き!」
「私たち、ずっと親友でいようね」
都合のよい『お友だち』に惹かれ、私の周りには常に人が集まるようになっていた。誰もが私の一番の友達だと思い込み、その度に気に入らないクラスメートの陰口や秘密などを漏らしていった。一見してとても仲のよいグループでも、裏を返せば互いを毛嫌いし恐れているのだと知り、他人の秘密を知れば知るほどクラスメートらの本性に触れた気がして怖くなった。
私だけじゃない。みんな演じているんだ。透明な仮面を被り笑顔を貼りつけ何も変わらない一日を、みんなで演じている。タイトルは『平穏な日常』。
階段を下りるうちに急に両肩が重たくなったように感じた。眩暈に耐えきれずその場に座り込み、膝を抱える腕に顔を沈めた。頭は熱を帯びているのに身体は芯から冷え鳥肌が立っていた。
我慢しなくちゃ…これくらい、何でもないから……
急に身体の奥底から思い詰めた感情が込み上げてくる。それは涙腺を刺激し熱い水を流し始めた。
「もうぼくらは、他人だ」
脳裏に響くあの声が何度もこだました。冷たい雨が肩を叩いていく。あぁ、これはあの時の記憶。息苦しい家の空気に耐えられず嵐の夜に飛び出した私に、翠は傘を持って追いかけてきた。涙が出てきたのは痛みだけじゃない。私を見る翠の瞳に心からの憎しみを見つけたからだ。
母の告白で私たちの平穏な日常は突然失われた。お兄ちゃんだけは変わらない。翠だけは演じずに私に接してくれる。そう信じていたのに、あまりに唐突な日常との決別に悲しみを隠せなかった。
「家族でもない。だから今までみたいに『お兄ちゃん』って呼ぶのもやめてくれ」
傘をさしたまま翠は、科白を読み上げるように淡々と言葉を紡いだ。諦め、すべてを悟ったようなその口調に抗えず、雨に打たれたままずっと涙を流した。嫌だと何度も何度も繰り返し呟き、喉が嗄れるまで泣いた。
嫌わないで。私を……嫌いにならないで…
涙で濁った視界がゆっくりと開かれる。睫についた水滴を拭い、泣き顔を誰かに見られる前に隠した。
「リンコ……」
消え入るようなか細い声。咄嗟に振り返ると本を抱えたモリアが弱々しげに笑いながら踊り場に立っていた。
「どうしたの?」
「モリアこそ」
腫れた目元を隠しながら立ち上がりスカートの皺を伸ばした。
「ずっと生徒会役員選挙の準備で忙しそうだったじゃない」
「う、うん…でもセトはもっと忙しかったから。ちゃんと寝てるかなぁってみんなが心配しているよ」
彼の名前が出た途端、胸が大きく飛び跳ねた。同時に図書室で見せた瞳の奥で揺らぐ底の見えない翳りを思い出し、心がいっぱいになって苦しくなった。けれど激しくのた打ち回る感情を押さえつけ彼が望む『リンコ』を演じた。
「でもこれでやっと役員も決まるし、モリアたちも肩の荷が下りるわね。新しく結成される生徒会じゃキサメの当選も確実だって言われているみたいだし」
「……あ、あの…」
恐る恐ると口を挟むと、悩むように眉根を寄せて視線を漂わせた。意識的に回避していた話題が持ち上がりそうな気配を感じ、思わず身構えた。
「キッコと何か」
「リンコー!」
弱々しいモリアの語尾に覆い被せるようにしてサエの甲高い呼び声が響く。階段を下りると廊下からサエとコートを手にしたベティが手を振って駆けてきた。
「もぉ探したよ! ベティなんて外にまで出て探してたらしいのぉ!」
「そうだったの? ごめんなさい」
満面の笑顔はどこか嘘っぽくて、いつからか私に近づくようになった二人。交わす会話は中身がないにも関わらず二人は大袈裟に笑う。
二人の登場に動揺を隠せずにいたモリアは、私と目が合うと急に俯き
「じ、じゃあ…後で……」
と言い残しそそくさとこの場を去っていってしまった。
「あら、私たちってばお邪魔だったぁ? モリアと仲がよかったんだ」
「久しぶりに会ったから少しお喋りしていただけよ」
ありがちな話題のくっつけ方に私はさり気なく釘を刺しておいた。すると私の手をとりベティは急げとばかりに急き立てた。
「それよりもうすぐスピーチが始まるわ」
「そう! ミドリの演説は何を置いても聴かなきゃ!」
「キサメの方が素敵な言葉を使って、私たちにわかりやすく教え説いてくれるわ」
「ジェニーが先に席をとってくれているから行こう」
ベティとサエに両脇を挟まれ、私はまるで連行されるみたいに講堂へ向かって歩き出した。
「これでキサメが当選したらさぁ、ベティにもっとライバルが増えちゃうわね」
歩くたびにふわりと舞う赤い髪の毛から、仄かにシャンプーと煙草の匂いがする。綺麗に化粧が施された横顔は、もう昼の二時を過ぎたというのにまるで、出来立てのような仕上がりだ。
「……」
何も語らずただ微笑むベティを横目で盗み見ながら、彼女とキサメの仲は、まだ完全に断ち切れていないのかもしれないと思った。
講堂に設けられた壇上に候補者たちの席が設けられていた。これから五分間のスピーチを行いその後投票が始まり今日の夕食前には結果が明らかになる。観客席は既に埋まり、開始を告げるベルを待っていた。
「キサメでも緊張するのね」
舞台袖にある鏡で襟首を正していたぼくにカナムラ教授が話しかけてきた。
「貴方に見詰められているとね」
冗談交じりに返すと、彼女の膨らんだ胸ポケットから手紙を抜き取った。
「ベティがここまで入ってこようとしていたのを係り生徒が必死に止めていたのよ。貴方にどうしてもこれを渡したいんだって叫んでいたから、私が預かってきたわ」
「それは光栄の至りだね」
「私の前では読めないの?」
手紙を折り畳みそのまま片づけようとしたらカナムラ教授はニヤニヤしながら問いかけた。周りに溢れる生徒の視線が気になったが、断る理由もないのでふっと口元を緩めて応えた。
「ただガドレの主と姫君の関係を調べていただけだよ」
「主と…のねぇ」
睫を上下させ長い毛先を指に絡ませながら呟く。もう少し内容を広げて説明してもよかったが、ベルの音がぼくらの会話を終了させた。
「私もあの、三つ編みのお嬢さんについて調べたわよ」
挑発的な口調につい興味がくすぐられた。やけに今日はお喋りだな、と不意に疑問が過ったが美しく整った彼女の顔を見据え、唇に小指を当てて微笑んだ。
『後で部屋へ…』
秘密の合図に彼女は満足げに頷くと、教員席へと戻っていった。
「女の考えることは大概、同じだな」
会計に立候補する生徒のスピーチに耳を傾けながら、隣に座る翠はふいに漏らした。舞台に立つのは初めてなのか、候補者のウッドは終始顔を赤らめながらも自己アピールを綴っていった。スピーチの内容はまずまずだが、彼らの予想では彼は落選すると見ていた。
「ベティのことかな?」
他に誰がいるのだと言わんばかりに横目でこちらを一瞥する。彼の言い分も理解できるが、リンコを軽蔑する割には彼女を誰よりも心配している矛盾をもう少し突っついてみたくなった。可愛らしい妹は彼にとってアキレスの急所に等しい存在なのだろう。壇上の向こうに集まる生徒の中で、ベティたちに挟まれ座るリンコの胸中に思いを馳せた。
「今はリンコから噂のイメージを払拭しなければならないだろう? 女子の中でも有力な人間を味方につけるのは、一番効果があるのさ」
ベティとその友人の監督生のジェニファーとサエ。女子の中でも彼女達は独自の地位を確立していた。何よりキッコから虚偽の噂を聞いたサエが、ベティとジェニファーにそれを伝え、リンコに冷遇を処したことが他の生徒らにも大きな影響を与えたのだ。
ウッドのスピーチが終わり短い拍手が湧く。続いてジョナサンが壇上に立つ。マイクを自分に合った高さまで上げると、落ち着いた口調で語り始めた。彼は間違いなく当選するだろう。
「あいつを甘く見るな。すぐにベティの演技に気づく」
「何故?」
「……道標にしようと捨てた小石も、月のある夜間でなければ無用のもの。一定の条件を満たさなければ役に立たないものは、最後はゴミになるのがオチだ」
眼鏡のブリッジを持ち上げるとミドリは再び視線をジョナサンへ向けた。
「なるほど…ね」
ヘンゼルとグレーテルの物語を思い出し、この学園にふさわしい比喩だと感心した。
お菓子の家を求めてやってきた生徒たち。まさかここが地上の牢獄だと気づかず、差し出されたものを食べ幸せだと思い込むうちは、偽りでも幸せなのかもしれない。
総勢三十七人の立候補者が生徒会長、副会長、書記、会計の座狙い戦っている。雑用係と言う割には立候補者の数が半端ない。
「私も立候補すればよかったわぁ」
壇上の斜め横に座る立候補者の中から翠を見つけ出し、頬を染めながらサエが呟く。そういえばむかしからこのタイプに翠は好かれる。サエとキッコはどこか似ていた。だから反りが合わなかったのかもしれない。
「どうして立候補しなかったの?」
毎度繰り返し後悔しているらしく、ベティもジェニファーも完全に彼女の独り言を無視していたので、私の合いの手に嬉々として応じた。
「申請期間が終わってからミドリが好きだって気づいたの。ホンットに運がないわぁ」
三分の一ほどが終わってからようやく休憩時間になった。トイレへいく生徒などで辺りは騒然とする。だいぶ離れた所にいたキッコがこちらへ向かってこようとしていたので、
「お手洗いへいってくるわ」。
背後でキッコが当惑する様子が伝わるも構わず小走りに廊下へ出た。いくつもの照明が設置された講堂に目が慣れて、廊下がやけに薄暗く感じた。それも窓の向こうに高く積もっている雪の所為だろう。少し講堂から離れればすぐに人気がなくなり深々と降る雪の音が聞こえてきた。
ガラスが凍っていたけれどそっと手を当ててみた。冷たさのあまり鈍い痛みが走るけれど微熱で火照った体には少し心地よい。転校して以来、一度も土を踏んでいないことが外の世界への憧れを増幅させていった。
「飛び降りるの?」
「!」
胸が大きく高鳴り驚き顔を上げる。窓ガラスには小柄なショートカットの少女、ユンが睨むように私を見上げる姿が映っていた。
「せっかくいい話を持ってきてあげたのに」
初めて言葉を交わすにも関わらずやけに高飛車な態度だ。しかし裏を返せばとても素直な様子に自然と笑みを浮かべた。
「あら…どんなお話かしら」
「お兄さんのミドリは断ったわ。けれど、貴方は私たち、グドゥの仲間に入りたいか聞きたいの」
「グドゥ…の?」
予想もしなかった質問に当惑した。どうして私がグドゥに招かれたのだろうという疑惑と、翠がそれを断った理由が気になった。
「返事はガドレが始まるまでにしてね。もし仲間になりたいなら、試験をすべてパスすれば貴方も入れるんだから」
「どうして私に? 他にも優秀な生徒は沢山いるでしょう?」
「教授の推薦が最低で五科目以上必要なの」
「ありがとう。…考えておくわ」
このチャンスを使って彼女から聞き出したい情報をまとめた。
「グドゥは毎年優先的に、他校へ転校するって聞いたわ。貴方も今年どこかへいくの?」
「私はまだ、いかない。まだ、ここにいたい」
ギュッとスカートの裾を握り締め睫を伏せるユン。それはまるで群れからはぐれた迷子の子羊のような哀愁が漂う。その佇まいはセトと共通した雰囲気を感じさせた。
秘密の部屋で窓の外を眺めていたセト。廊下で擦れ違った時、ゲンジロウと一緒にいる時、食堂で見かけた時。いつも何かが違う。肌で感じる雰囲気が、交わした言葉の調子が、笑った顔がどれも少しずつ、ずれている。
一つの印象として彼をくくれない。
「……」
悩みに悩んで言葉を選んで淀む。どんなに洗練された科白を厳選しても今の彼女の耳には届かないと思った。
「ここが…好きなのね……」
自然と漏れた独り言にユンはピクリと肩を反応させた。
「私はセトの仲間だから。彼が一人になる所をもう見たくない」
怯えと同情の混じった口調に続く言葉を飲み、ユンは私を一瞥すると唇をきつく閉ざして走り去っていった。廊下に響く短い足音を聞きながら、ずっと心につかえている感情が今までに経験したことがない種類のものだと気づいた。すべてを見透かしたあの瞳が怖い。けれどその傍らで揺らぐ翳りが気になって、逃げ出したいのにもっと知りたいと思ってしまう矛盾した気持ち。
セトは…彼は、私にも仲間になれると言ってくれた。彼女も仲間なの? ゲンジロウも? もしかして、ティルも? グドゥになることが、彼の仲間になると言うことなのだろうか。バロの息子でセトの伯父が病死したのも、ユンの姉が消えたのも七年前。その事件が二人の共通点を作りだしていたとしたら、今回のベンジャミン事件にも彼らが関わっている可能性もある。
私は何も知らない…二人の接点……
痛む胸に手を当てる。正体の知れない感情を抑え、身を翻し講堂へ戻ろうと歩き出した。
もうすぐで休憩も終わりだろう。閑散とした廊下に響く一人ぼっちの足音に耳を澄ませながら、再びサエとジェニファー、そしてベティに囲まれ中身のない会話に相槌を打たなければいけない虚しさに憂鬱を覚えた。
気の所為かもしれないけど、キッコと距離を置くと同時に三人が接近してきた。キッコの噂が原因で今まで周囲から白眼視されていたのだとしたら、どうして彼女と離れた途端近づいてきたのだろう。
翠が生徒会長に立候補したのもキッコが私の噂を流したことも、そしてベンジャミンが消えたのも……常に誰かの意図を感じるのは、考えすぎかしら。
「……」
談話室の扉が開いている。誰かが閉め忘れたのかもしれない。深く理由を考えず戸口に立ち薄暗い室内を覗いた。ソファの上に誰かが背中を丸め寝そべっているようだ。
「うっ……う゛ぅぅ…」
低い少年の唸り声に危機感を覚える。
「誰?」
ただちに灯りをつけると驚いたのか少年はソファから転がり落ちた。鈍い振動が床を伝う。急いで駆け寄るとテーブルの下で、お腹を抱えたままゲンジロウは身体を曲げて呻いていた。
「!」
事態の異常さがわかった。全身が蒼褪めているのに顔はむくみ、目は赤く充血している。歯を食い縛った唇は異様なほど赤く染まり、血が混じった涎が辺りに散っていた。
小刻みに震える身体に駆け寄ろうとしたその時、強く肩を掴まれ引き戻された。
「キサメ…っ」
仰ぎ見る彼の顔は一瞬嬉しそうに目を細めた。けれどその後ろで頬を引きつらせたセトを見た途端、私は決定的な現場に鉢合わせてしまったのだと思わずにはいられなくなかった。
小休憩の間に今朝の久しぶりの抱合で味をしめたベティが、近づいてくるおそれがあった。今はまだお互いの関係を公にされたくなくて、ぼくは適当に理由を作って講堂を出ることにした。
「ベルが鳴るまでには戻るよ」
ミドリは膝を組み瞑想したまま顎を引いて応えた。瞼を閉ざすと意外に長い睫が目立つ。いつか彼ら兄妹をモデルに作品を作ってみたいと制作意欲がふいに湧いた。二人の間に流れる緊迫した空気をこの手で表現したい。
賑わう講堂の脇でバロが教授に囲まれ談笑をしていた。上品な皺に彩られたバロは、ぼくと目を合わせると優しく微笑んで見せた。軽く低頭し彼らの横をすり抜けていく。穏やかな老紳士の仮面で彼は一体どれだけの人間を騙し、蹴落とし今へ至ったのだろう。その栄光の裏に己の息子さえも犠牲にした鉄の男。
学園が一つの王国だとしたら、彼は王。彼の元に集う子どもたちは位ごとに分別されていた。ぼくはどれに属するのだろうなと、小さくぼやいた。三つに分かれる生徒を区分する言葉のうち、調べてわかったのはグドゥ(鍵)とイヒヌゥ(門前に集まる子ども)の二つだけ。世界中から集められ未来を有望視された子どもをグドゥと称し、彼らの行く末をすべて導いてくれる。対してイヒヌゥは各家庭から爪弾きされた子どもたちが集められていた。世界的に力のある権力者たちの子どもが主にイヒヌゥに分類され、肩書きだけは申し分のない学歴を与えられ卒業していた。
しかし同じイヒヌゥの中にもベンジャミンのように、特別な目的を持ってここへ送られてくる者もいた。誰にも知られずこの世から抹消される為に、彼はやってきた。クーデターから逃げると言う大人の言葉を信じ幸せな学園生活を夢見て。事実、何者かの手にかかるまでのベンジャミンは充実した毎日を送っていたそうだ。少なくとも、他の女子の報告ではそう伝えられていた。
廊下へ出て人気のない階段の踊り場まで移動すると、ベティからの手紙を取り出し広げた。四ツ折りされた便箋を開けた瞬間、彼女が愛用する香水が漂った。ペンをふんだんに使った可愛らしい文体で、様々な言葉を使って愛を書き連ねられている。そして依頼していた事柄の結果は二枚目に書かれていた。
『ガドレの主と姫君の関係は貴方の予想と合致していて、私は改めて貴方のずば抜けた才能に尊敬してしまったわ。自白剤を使って喋らせたから嘘はないと思うの。けれど姫君は最後におかしなことを言い出したの。特別な意味はないかもしれないし私もすべて聞き取れた訳じゃないけれど「誰も…なれない」って言っていたの』
反芻し手紙を破ろうとしたその時、足元に伸びる人影に気づいた。
「またラブレターをもらったの?」
心臓がひやりと驚き縮まる。振り向く先で待っている彼の笑顔を予測し、げんなりとした態度を装った。
「そう思って意気揚々と読んでいたら、何とベティからだったのだよ」
セトはおかしそうに笑った。笑い声が天井の辺りでこまだする。そして雲居から下界を覗く天井画の神々を一瞥すると、セトは笑顔はそのままに冷ややかに微笑んだ。
「そんなに笑えるかな?」
「うん、とってもおかしいからさ」
潤んでいない目元をこすりセトは微笑んだ。
「ぼくとティルの関係について調べていたんでしょ?」
疑問符をつけているにも関わらず、確信に満ちた眼差しはぼくを捉えて離さない。
「…しらを切るつもりはないけれど、どうしてそう思うのだい?」
掌の中で手紙を握り潰しながら平穏を装って問う。大理石の手摺りに腰をかけるとセトは脚を前後に動かしこちらを観察してきた。
「キサメもリンコも、ミドリも…みんな目的を持って行動しているね。そんな子どもたちをシィクンツッって呼ぶんだよ」
どこまでも挑発的な瞳。『今の彼』なら刺激させれば喋るかもしれないが、同時に身の危険も感じた。静まり返った踊り場に腕時計の秒針が大きく響く。そろそろ時間が迫っているだろう。ゆっくりと歩き出すとぼくの後からセトがついてくる気配が伝わった。
「きみが毎年パルトロを選んでいる。女子生徒たちはみな、きみに…いや、ガドレの主に気に入られようと髪を伸ばしている。それもユンの姉が綺麗な長い黒髪だったからなのだろう?」
「あぁ、だからぼくをガドレの主って呼ぶんだね。ここに住むゴーストを指しているのかと思ったよ」
沢山呼び名があるなぁと、セトは後頭部を掻きながら他人事のように呟いた。
「『キサメは悪い子だね』」
心臓を鷲掴みにされたような恐怖を感じ立ち止まる。それまで大人しく後からついてきていた少年は、喜怒哀楽を一切排除した無の表情でぼくの前に回りこんできた。
何もない。目を開けたまま眠っているように、その瞳は映り込んだものをまったく認識すらしていないように見えた。
「今朝、ドイツできみの両親の離婚が成立したらしいよ。理由は奥さんの不倫。でも、生まれてきた子どもって、本当はきみの子じゃないの?」
淡々とした口調で言葉を紡いでいく。まるでそこに込められた意味を理解せず、ただ用意された科白を朗読しているように。義母の関係を知る筈がない彼が、どうしてそれを? 軽い焦燥に駆られ握り締めた掌が汗ばんでいく。
「大人を裏切ったキサメは、とても悪い子だよね」
不敵な笑顔は無言でぼくを追い詰める。針が時を刻んでいく度に沈黙は重くなり、次第に呼吸さえもままならなくなってきた。首筋から冷や汗が流れる。ガラス玉が向ける視線に耐え切れず、顔を背けようとした時セトの表情にも変化が訪れた。
「!」
息を吹き返した死人のように突然動き出すと、残る段を飛び下りて続く廊下を走り出した。慌ててぼくも後を追う。出だしで遅れをとったが脚には多少の自信があった。すぐにセトの背中に接近すると彼の足取りを追った。
半開きになった談話室の扉を押し開けて床に倒れるゲンジロウを確認する。ついに決定的な現場に出会えたかとリンコの肩を掴み呼吸を整えながら、ぼくは嬉しさのあまり微笑んだ。
「アンジーを呼んで」
切り裂くような鋭い口調でセトが叫ぶ。彼の足元でゲンジロウは苦しげに手足をばたつかせ始めていた。
「リンコ!」
名指しされようやく我に返る。けれど熱っぽい頭は寸分前までの記憶を失い、何を指示されていたのかわからず途方に暮れてしまった。
「いいよ、ぼくがいく」
先程からずっと肩を支えていたキサメが耳元で囁く。現状にはひどく不似合いな落ち着いた声につい私も平静さを取り戻した。
「リンコはここで、待っていておくれ」
ここで、という所を強調し肩を軽く叩くと扉を越えて出ていく。すぐに駆け出したのか足音が遠退いていった。
「いつもの発作」
言い訳のように呟くと、セトは涙を流すゲンジロウの手を握った。
「どこか…悪いの?」
むしろ一緒にいるセトの方がずっと身体が弱そうなイメージが強くて、そんな彼と対比して見えていた。
「生まれつきだから、仕方ない。ここには療養も兼ねてきているから」
淡々とした口調は目の前に横たわる病人が友人であることも忘れたような、そんな冷たさも感じた。
一つの印象で彼をくくれない。
ゲンジロウと一緒にいる時のセトからは想像もできない。触れたら私まで凍りついてしまいそうな眼差しは、どこかわからない宙の一点を見詰めている。何を考えているの? もどかしい感情が堂々巡りを繰り返す。聞きたいけれど口にはできない。言葉に変えられない気持ちが喉元までのぼっているのに、それを表現できない。
わからない。私は彼を何も知らない。だからこそ、知りたいと強く願う。
「セ……」
乾ききった喉から搾り出すように声を吐き出す。けれど続きを紡ぐよりも早く、バロの威圧的な声が背後から響いた。
「何事だね」
振り向かなくてもバロの顔が引きつったのが気配でわかった。
「ゲンジロウが例の発作で倒れていた」
機械的に説明をするセト。なんだか彼の登場でさっきよりも空気が強ばったように感じる。恐る恐る振り返りバロの表情を仰ぎ見る。深い皺が刻まれた顔は微妙な陰影をつけ、普段よりも更に老けて見えた。光の加減でやや青みがかって見える瞳を曇らせ、私とセトを交互に一瞥すると更に眉間の皺を寄せた。
「アンジーは」
校医の名前を口にした時、廊下から響く大きな足音に気づいた。誰か他の教授もついてきたのかしら。そう思い戸口から離れようとしたら突然バロに肩を掴まれた。
「きみは講堂へ戻りなさい」
そして私は有無を言わさず押し出されてしまった。入れ替わりに校医のアンジーと何故かジャックが駆けつけ、閉まりかかっていた扉の隙間から滑り込むように入っていった。
目の前で勢いよく閉ざされる扉を途方に暮れた思いで眺める。何か見られてはまずいことでもあったのだろうか? それとも生徒のプライバシーを守る為?
「追い出されてしまったね」
クックックと言う忍び笑いと共に後から歩いてきたキサメが話しかけてくる。浮かない表情のまま相槌を打つと、肩を並べて講堂へ向かって足を進めた。
「……急がなくてもいいの?」
あまりにゆっくりと歩くのでふいに心配になってしまった。けれど悠長に進みながら
「それより、きみは何故ゲンジロウが倒れていたのか気にならないのかい?」
「気にはなるけど…」
「ベンジャミンは死んだのに、どうして彼が今も生きているのか。何故ここの生徒たちはあぁもお菓子を貪り食べるのか。そして七年前に消えた女子生徒の真実は。あぁ、それときみの父親の正体も気になるのかな? 両親はここの卒業生だったらしいね」
あまりに平然と公言するのでつい私の方が呆気にとられてしまった。
もしも翠と手を組んでいたとしても、彼がここまでべらべらと喋るはずがない。恐らく自身のネットワークで下調べをしてから私に接近してきていたのだろう。
「またおかしな噂でも流れていたのかしら? それとも何かのジョーク?」
彼の情報網。それはベティを筆頭に、数多くの女子生徒から成り立っているに違いない。
「笑えないわ」
「ジョークだとしたら、大失敗だけれどね」
片目をつぶって冗談めかしてウィンクをするキサメ。
「警戒しなくともミドリとは既に手を組んでいるのだよ。ぼくも同じように学園の秘密を嗅ぐっている。つまりリンコにも協力したいのだ」
「……私に協力するのが貴方の利益に繋がるとは思えないわね」
「もう少し掘り下げて話すのなら、ぼくもミドリもきみの父親がこの学園にいるとほぼ確信している。それもバロ…いや、学園にとっても重要なポイントに立っているだろう」
「翠も…」
彼はいつそう確信したのだろう。私の父親がここにいる? でもそうだとしたら、どうして翠は尚も父親を探そうとしているの?
私を憎んでいるのに、どうして……
かぶりを振って気持ちを集中させる。今、対峙している人物は本当に私にとって有益な存在となり得るのかどうか、それは私自身で見極めなければいけないのだから。
「貴方の狙いは何?」
「ぼくの狙い?」
茶化すように両目を大きく開き、わざと上体をそらせ大袈裟にリアクションをとる。
「貴方が指示してベティたちを近づけてきたんでしょう? 私がキッコと仲違いするのも予め見当がついていたのね。素晴らしい段取りだわ」
『仲違い』と言ってから急に虚しさがかすめた。所詮、キッコとは上辺だけの友だちとして付き合っていたのに、いざ傍らに彼女がいなくなると、どうしてこんなに物足りなさを感じるのだろう。
気の強い猫を連想させる瞳はぐっとキサメを捉え離さなかった。こうして正面から見ると亡くなった彼女の母親によく似ている。カナムラ教授に調べさせたリンコの母親もアジア系の綺麗な人形みたいな顔をしていた。
まさか、とは思っていたがミドリの助言は当たっていた。彼の予想よりもリンコは聡明で鋭い感性を持っている。この兄妹は似ていないようで、意外と似ていると感じた。
「この学園にばらまかれている薬について、調べているのだよ」
「薬について?」
「そう。麻薬に等しい効果がある魔法のような薬があるのだ」
しばしぼくの発した言葉を反芻するように黙り込むと怪訝そうに眉根を寄せ
「そんなものがあるとは思えないわ。それに何の為に薬を学園内にばらまいているの?」
長い睫が瞬きをする度に目元に濃い影を落とす。柔らかそうな唇は何も塗っていないにも関わらず赤く艶やかで、そこから飛び出す言葉ごと塞いでしまいたくなる。一見して清楚で純情なイメージだけれど近づいた途端、恐らく彼女も意識せずに不思議な魅力を醸し出す。まさに天性の魔性を持ち合わせているのだろう。彼女の母親がまたそうであったように。
「……公には知られていないけれど、ここには生徒を三段階に区分しそれぞれに呼称をつけている」
熱くなった身体に気づき彼女から目を逸らして気持ちを他へ飛ばした。
「まずは『グドゥ』。彼らには最高の名誉と栄光が用意されている。良家の中でも選ばれた、才能のあるお坊ちゃんやお嬢さんが送られてくる。そして『イヒヌゥ』。亡くなったベンジャミンもこれに属していた」
亡くなったという表現に反応し再びリンコはキサメを見上た。
「つまりどの家でも扱いに困っている子どもだ。ベンジャミンの身分についてはもう知っているのだろう?」
「…えぇ」
「国内で彼の存在が邪魔になっていた。宗教的理由から規律のうるさい国で、特に若いベンジャミンなど保守派に対立し何かと国民の反感を買っていたそうだからね。国王としても悩みの種だったのだろう。だから邪魔者を消す為に、彼をここへ編入させたのだよ」
「彼を……殺す為に、学園が始末したのね? じゃあ、あのベンジャミンは誰なの?」
「ぼくの予想では、ベンジャミンをパルトロに選びガドレを終えてから消すつもりだったと思う。けれど何らかの理由で早々に彼を消し、誰かにその身代わりを演じさせているのだとしたら……」
衝撃的だったのだろう。しかしある程度の予測もしていたのか、リンコは何度も瞬きを繰り返し俯いた。そして全身の震えを隠すようにキッと唇を噛み締めると
「薬漬けにして…生徒たちを意のままに操っているとでも言いたげね」
それまでの怯えを掻き消した凛とした面持ちで呟いた。
「けれど貴方の話にはまだ確実な証拠がないわ」
「その通り。だから共に協力し合い、証拠を掴もうではないか」
「たかだか父親探しを目的とする私と、学園の存続に関わる大事件を暴こうとする貴方。残念だけれどこれじゃあ、あまりにも私が負うリスクが高すぎるわ」
どこまでも警戒心がついて回る。キッコとの件があったから仕方ないかもしれないが、彼女のガードは兄以上に高く感じられた。
「きみの父親も恐らく関係している」
父親の話題になると急にリンコの視線が宙を彷徨う。しばし目を泳がせ、言葉を選ぶように黙り込むと静かに
「残る…生徒の呼称は?」
「『シィクンツッ』。セトいわく、ぼくらはこれに分類されるそうだよ」
リンコは目を大きく開け言葉を失い黙り込んだ。
長い間、医務室を空けていたドクター・アンジーが帰ってきた。どうやら例の少年の手当ては終了したようだ。彼のカルテを棚にしまいそれまでやりかけていた仕事を再開させた。
あの子はまだ生きているのかな? バロが怖い顔のまま講堂に戻ってきたから他の生徒も怯えていた。色々と彼女に聞いてみたいけれど、いつものように壁の裏側から覗いていても『ぼく』に気づいてくれない。
しばらくアンジーは机に向かったままずっと鉛筆を走らせた。短針が数字を越えても彼女は微動だせず、超絶した集中力を維持させ何かを書いていた。が、扉をノックする音でそれまで絶えず響いていた鉛筆の音が途切れる。
「どうぞ」.
振り向き肩をぐるぐると回しながら返事をすると、ジェニファーとサエに支えられてリンコが入ってきた。
「あら…あらあら、どうしたの?」
蒼褪めたリンコの顔を見るなり立ち上がり、すぐに駆け寄った。
「生理痛がひどいみたいで」
「生徒会役員選挙も終わったからぁ、休ませてあげて下さいよぉ」
「えぇ、そうね。リンコ? 鎮痛剤は飲んだの?」
そうとう辛いのか顎を引いて返事をする。
「さっき飲みました」
ジェニファーが代わりに答えるとアンジーは相槌を打って彼女をベッドへ移動させた。
白いカーテンで仕切られてしまったのでここからリンコの様子がわからない。仕方なく、狭い通路を移動してもう一箇所の覗き穴まで移った。
「いつもこんなにひどいの?」
「忙しかったから、遅れて」
「そういう時はすぐに私の所へきなさい。医務室といえど、それなりに機材も薬もは整っているんだから」
シーツをかけて優しく労わるとアンジーはくるりと踵を返しカーテンの向こうに待つ二人に声をかけた。
「貴方たちはもう出ていきなさい。ミドリにも、彼女がここで休んでいるって伝えてあげるといいわ」
「それならぁ私が喜んでっ!」
飛び上がり挙手するサエの襟首を掴みしっかり者のジェニファーが頭を下げた。
「ゆっくり休みなよ、病気じゃないんだから」
ベッドに横たわりながらリンコは弱々しく笑い二人を見送ったが、すぐにその瞼は閉ざされた。穏やかな寝息をたて上下する胸元を見詰めアンジーは
「ヒサコの娘か……」
と呟いた。目尻の皺を刻みふっと笑みを漏らす。そう言えば彼女は今年で勤務三十年目になるベテランの教授の一人だった。リンコの母親もよく覚えているに違いない。
再びリンコを一瞥すると踵を返しカーテンを閉ざした。
秒針が進む音とアンジーの書きものの音だけが響く。今日は随分とのっているようだ。そうして三十分ほど経っただろうか。最初よりも随分と顔色がよくなったリンコを確認し、そろそろ帰ろうと覗き穴から身を離した時。それまでの静寂を破るノックが聞こえてきた。
返事を待たずに扉が開かれる。白いカーテンの向こうに人影が映った。
「妹が倒れたと聞いたんですが」
ミドリだ。普段の彼からは想像もできない珍しく慌てた口調だった。
「大丈夫よ、単なる貧血だから。今もベッドにいるわ」
「そうですか…」
驚いたことに、状態を聞いて安堵したのか嘆息する気配まで聞こえた。
「少し席を外してもいいかしら? ニコチンが切れちゃったみたいで、集中できないの」
「えぇ、いいですよ」
喜々とし外へ出ていくアンジーが消えると静かになった医務室にミドリの影だけが残った。しばらくじっと動かずにいたが、肩を上下させ大きく息を吐き出すとカーテンを開いた。
逆光であまり表情がわからない。
他のベッドに人がいないことを確認し後ろ手で閉める。光が遮られ薄暗い闇が辺りを包む。ミドリはゆっくりとリンコの傍らまで移動し、先程と変わらず穏やかな寝息に耳を澄ませ枕元から彼女を見下ろすように眺めた。けれどその眼差しには、普段彼女に向ける刺々しさや憎しみのない、けれど複雑な感情が滲んでいた。
「………」
静かに腕を持ち上げ、人差し指をリンコの口元に触れさせた。
ずっと唇に触れたまま動かない。何故かその光景を眺めるうちに『ぼく』の頬が熱く感じた。しばらくしてから口にかかっていた髪の毛を払い腕を戻した。再びリンコを見詰める視線には、何かそれまでにないものが込められている。
唇を噛み締め眉間に濃い皺を寄せるも、とても妹に対する所作とは思えない空気が漂う。リンコを憎んでいるのだとばかり思っていたけれど、今の表情には暗澹とした悲しみが伺えた。
「待たせたわね」
アンジーの登場に、ミドリはすぐさまそれまでの表情を払拭させいつもの笑顔を貼りつけた。
「まだ眠っているので、ぼくはこれで失礼します」
「あら、そう? もう少しゆっくりしていってもいいのよ」
「ただの貧血ならそれほど心配しなくてもいいかと思うので」
「サエが吹聴するに貴方ってフェミニストで有名なのに、案外身内にはシビアなのね。血を分けた兄妹なのに」
皮肉めいた科白に言葉を返す前に扉が開く音がする。
「だからですよ。早々に自立して、独り立ちしてもらわなくちゃ」
「ふふ。そんな所、ヒサコによく似ているわ」
一瞬の間の後冷ややかな口調で
「……母親、ですから」
と答え、ミドリは静かに扉を閉めた。
薄暗い部屋に吐き出した白い煙が漂う。ぼくの胸元に頭を委ねていたカナムラ教授は、起き上がり枕元に置いていた腕時計を確認した。
「そろそろ投票結果も出る頃ね」
顔にかかっていた髪をかき上げ、一糸まとわぬ豊満な肉体は暗闇に白いシルエットを生み出した。
「結果は火を見るより明らかだよ」
「そうね」
相槌を打ちぼくがくわえていた煙草を奪い、うまそうに吸い始めた。
「ベティたちが様々な手段で貴方たちの票を集めたんですものね」
ふぅと煙を吐き出すと灰皿に押し潰して火を消した。
「けれど私が調べたリンコの情報も、とても役に立つと思うわ」
挑発的な眼差しを受けとめ微笑み返すと、カナムラ教授は再び甘えるように肢体を重ねてきた。
「あの子、これまで何人かのアプローチを受けていたけれどすべて断っているの。周囲は男嫌いなのかもしれないって言っているわ」
「確かに……警戒心の強いタイプだね」
「えぇ、でも調べていったら面白いことがわかったのよ。あの子は十一歳の時に入退院を繰り返していたの。そして何故かリンコが退院した後に、それまで父親について一切語らなかった母親はそのことを暴露した。直結する理由はわからないけれど、元々地元の中学校へ進学を予定していたミドリとリンコは、ドイツとイギリスへ留学を希望した」
「つまりリンコが男性を嫌う背景に母親の淫行が影響しているのだろうね。それにしても彼女は何故入院をしていたのだろう?」
「さぁ…私が接触した母親の秘書も頑なに口を閉ざすのよ」
続く彼女の報告に耳を傾けながら新たな煙草を取り出して火をつけた。ゆっくりと息を吐き出し、細長い煙が暗闇に消えていくさまを見届け母親の淫行が幼い少女に与えた影響について考えた。
「……」
―――大人はいつだってぼくらを操っているつもりでいる。すべてを知り、己の手の内で粋がっているだけだと思い込んでいるけれど、真に実権を握るのは一部の子どもだ。ぼくらが未来を築く。大人たちに行く先を案内してもらうグドゥでも、いつ切り捨てられるかわからないイヒヌゥでもない。ぼくらは―――
『そんな子どもたちをシィクンツッって呼ぶんだよ』
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