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第一部 迷路に集う子どもたち
第八話 白鳥から生まれたアヒルの子
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第八話 白鳥から生まれたアヒルの子
―――This is the story of Genzirou.
全身を包む温かな感触は、かつてむかしに当たり前のように享受していたあの人たちの温もりとよく似ていた。いつからか触れるのも憚れるようになった懐かしい体温。頭を撫ぜてくれたあの大きな手が大好きで、俺は父と呼んだ彼によく懐いていた。どんな時も両腕を広げて俺を迎え入れてくれた母と親しんだ彼女の温もりが今も忘れられず。二人が幼い俺の世界のすべてだった。
「……」
覚醒しつつある頭の隅で今置かれている状態を考えながら寝返りを打つ。ぼんやりとしたまま記憶を辿るうちに、講堂で行われていた生徒会役員選挙に参加していたのだと思い出した。
あれ、じゃぁ俺、なんでここにいるんだよ。自問自答してから腫れぼったい瞼を持ち上げる。気の所為か身体が火照っている気がした。それまで堪能していた慣れた手触りも、やはりいつものベッドで横たわったまま眺める室内の風景も何ら変わりなかった。
一面にセトの収集物が所狭しと飾られている。量が増えるにつれ俺のテリトリーを侵略されつつあったので、実は彼に内緒で邪魔なものは処分していたりするのだが、気づいているかは不明だ。それに集めた時点でもう興味も失せるらしく、セトは熱しやすく冷めやすいの代名詞のような性格だった。
「ゲンジロウ」
いつの間にか現れたのかベッドの縁にセトが立ち、俺を見下ろしていた。
「目は覚めた?」
瞬きを繰り返しながら素っ気ない質問に相槌を打つと上体を起こした。今朝よりもセトの顔色が悪い。疲れているのかすぐシーツの裾に腰を下ろすと一点を睨み黙り込んだ。
その姿を見るうちに俺も事の次第を悟った。
「また発作起こしちまったんだなぁ」
申し訳なさげに愛想笑いをする俺を無視し、セトは言葉数少なく答えた。
「生徒会役員選挙、結果が出ている」
「ふぅん」
適当に返事をして大きく伸びをした。さすがにパジャマに着替えさせてくれなかったらしく制服は皺だらけになっていた。随分と眠っていたようだ。眠りすぎて頭が痛かったが、久しぶりに熟睡できたので頭はすっきりしている。
「結局、投票できなかったなぁ」
今年は何かと話題に事欠かかないミドリとキサメが立候補するということで周りはおおいに騒いでいたが、俺からすれば授業がサボれるならどうだってよかった。投票も適当に名前を書いて入れるつもりだったし、誰が何をしようとここの生活は大して変わらない。生徒会役員選挙なんてあるようでない存在だった。
「生徒会長にミドリ。副会長にキサメ。会計は紅一点のドーニャ。書記にはジョナサンが選ばれたから」
淡々としたセトの態度には友人を気遣う様子などない。今に始まったことではないが、それでも一度体調を崩した身としては一抹の心寂しさを覚えた。
報告のような会話を終えるとセトはじっと動かず黙っていた。その微動しない姿勢はまるで徹底した訓練を受けた兵士のようでもあったし、感情の見えない表情は蝋人形で作られた紛い物のようにも見えた。
次第に流れる沈黙が意味もなく重たく思え、宙を彷徨っていた俺の視線は窓の景色へ向けられた。今朝から降っていた雪がいつの間にか高く積もっている。もう夕暮れ時だろうけど、分厚い雲に隠され太陽の存在はまったく感じられない。青みがかった灰色の空を背景に、葉をすべて落とした痩せた木々のシルエットはとても寂しげだが凛として身の凍るような綺麗な眺めだった。
雲が割れて注ぐ太陽の光を雪が反射し、眩しさに目を細めた。
「……」
冷暖房が完備された敷地内しか歩いていないので、とうにあの白い結晶体の冷たさも忘れていた。まるでそれは世界から取り残されたような学園だと大抵の奴は思っていることだろう。再び外の世界に戻った時、どんなにここが恵まれていたのかを思い知らされるのだ。
「…セト?」
ふいにただならぬ気配を察しセトの横顔に再び目を向けた。呼吸するたびに上下する細い肩が何故か震えている。血走った眼球は虚ろに宙を捉え、少し開いた唇からは小さく呻き声が漏れている。
長い付き合いから予測される嫌な予感が頭を過ぎった。俺は勢いよく肩を掴みこちらに顔を向けさせると詰問した。
「お前……今度は何番目の『セト』になるんだ?」
「!」
不安に煽られつい口走ってしまった禁句に、一瞬、セトの顔から表情が消え耳が痛くなるような沈黙が流れた。すぐに失言に気づいたがもう遅い。どうしようもなく、セトの様子が落ち着くまで見守った。
「……はぁ…」
セトは長い溜息を吐き出した後、おもむろにこめかみに手を当てぎこちない動作で肩を揺らした。
「何番目って…?」
初めて焦点の合った顔で答えた。既に身体の震えは止まり、さっきよりも血色がややよくなっている。俺の心配を一蹴し小馬鹿にした表情を見せた。
「休憩時間にお菓子を食べようと談話室にいって発作を起こしたみたいだよ。ゲンジロウらしいね」
といつもの調子で毒づきながらポケットから粉薬を取り出した。
「バロから貰ってきた。ちゃんと薬を飲まないと駄目だよ」
「わかってるよ…」
セトから薬を受け取り枕元のコップに水を注いでその場で飲んだ。あまりにひどい味に顔中に皺が寄った。泣きたくなる思いでなんとか飲み込んだが、喉元を過ぎてもしつこく薬の余韻が残る。
「うっ」
つい胃が薬を拒否しようと蠢いたが、すかさずセトが口直しのチョコレートを差し出してきたので堪えた。舌先に残る不愉快な感覚にチョコの甘くとろける味を重ねていく。
「俺ってさいつまでこれ、飲み続けなきゃいけないんだろうなぁ」
「抗体ができるまで、だよ?」
大人たちから言い聞かせられ続けた科白を引用し、わざとらしく同情を見せて応えた。
「そもそも他人と生まれ方からして違うんだぜ。本当に抗体ができるかも疑わしいのに」
俯くうちに溜め込み続けた弱音がどんどん飛び出ていった。セト相手にしか漏らすことのできない悩みだった。
双方の両親が仲が良かったこともあり、俺たちは物心つく前からの知り合いだった。しかし顔は知っているものの特別関わることもなく、親しくなるまで時間がかかった。日本にいた頃は俺は病院通いの毎日を送っており、セトも一年のほとんどを海外で過ごしていたこともあって顔を合わせることすら稀だった。そんな俺らが初めて互いの目を見て、言葉を交わしたあの日を決して忘れられないだろう。
バロの息子―――ユキオの葬式だった。
思えばあの時見たセトの涙が初めてであると同時に、きっとこの先彼が心から悲しんだり喜んだりもないだろう。今、目の前にあるセトの笑顔も、彼を慕ってくる連中に向ける眼差しとさほど違いはない。俺にとって彼は大切な友だちだが、セトからしたら俺は数ある仲間の一人にすぎない。
それでもセトは分け隔てない態度で、俺のチョコレートが完全に溶けきる頃合いを見計らうと
「食堂で、新生徒会誕生を祝ってケーキが振る舞われているんだ」
いつもの優しい顔で誘ってくれた。
霧の向こうで誰かが私に向かって手を振っていた。背格好からそれは大人の男だろうと思ったけれど、いつまでも親しげに振り続けるので終いに無視するのも哀れに感じ近づいてみた。だけど、どんなに歩き進めてもいっこうに彼の元へ辿りつけない。脚を動かせば動かすほど辺りの霧は濃くなり、その男の顔を更に隠していった。
おーい…おーい……と私を呼ぶ声だけが虚しく響く。
誰? 伯父さん? それとも翠なの?人影が一瞬揺らめいたと思うと同時に
『琳子ちゃんはそんなに本が好きなの?』
背筋を走る嫌悪感。聞き覚えのある声に全身が拒否反応を示す。霧の向こうに対峙する人物から危険を察知し、急いで逃げ出そうと向きを変えた。けれどそれまでちっとも近づけなかったはずが、私が走り出そうとしたら三つ編みにした毛先を強く掴れた。
振り向いちゃ駄目! 本能がそう告げるのに、身体はまるで見えない何かに操られているかの如くゆっくりと翻った。乳白色の霧が漂う向こうに彼の輪郭を見つけ―――
「!」
心臓が大きく飛び跳ねその振動に驚いて目が覚めた。いつの間にか喉がカラカラに渇き、ほどよく暖房がきいている医務室がとても暑く感じた。汗ばんだ首元に触れながら記憶を回想する。そうだ…私、眠っていたんだ。
薄暗い室内には他に人の気配はない。時計が見えないけれどもう夕方ぐらいだろうか。
「ドクター・アンジー……?」
確認のつもりで名前を呼んでみるも、やはり返事はない。とりあえず生徒会役員選挙の結果も気にかかったので、温もりの残るベッドから出てカーテンで仕切られた室内を覗いてみた。
窓辺に置かれた机の脇のゴミ箱にくしゃくしゃにして捨てられた煙草の箱がある。手編みの膝掛けが背もたれに畳んで置いてあるが、まだほのかに温かい。
煙草を取りにいったのかしら…
綺麗に整頓されている机の上を一瞥してから部屋を出ようとしてふと、思いとどまった。
確かドクター・アンジ―は校医として勤務もしているが、彼女はツインらが所属する演劇部の顧問も兼任していた。イベントの際には何かと引っ張り出される演劇部のシナリオはすべて彼女が作成していると聞いた。校医としての仕事の傍らそんな部活の指導までこなしているのだからあぁ見えて多忙なのだろう。私ならきっと空いて時間を使って次の劇の構成を練ったり、生徒がいない隙を狙ってここでシナリオを書くだろう。
「……」
さっと観察した限り机の上には医学書の類や日誌しか見当たらない。引き出しはやはりどれも鍵がかかっていて中を確認できなかった。仕方ないので改めて机上の書類を広げてみると、日誌の下に一冊のノートが置かれていることに気づいた。何回も手に取っているものらしく普通の大学ノートだけど、表紙は使い古されている感じがあった。
もう一度廊下の向こうに気配がないか確かめ、私はノートをめくった。
どうやらこれは思いついたアイデアを書き留める為のものらしい。時に走り書きのような感じで単語や短い文章。ストーリーの展開等様々な文が自由に書かれていた。しばらくそれらを眺めていたけれど、どうしても気になる文章を見つけてしまい手を止めた。
『Dina da doo.―――本来の意味?』
ガドレの開催を告げられてから度々耳にするようになったその合言葉。確かキッコたちは錠をかけて鍵は飲み込みなさいという意味だと言っていた。レドヴァス語は季節や男女によって使い方や意味も大きく変わってくる。同じ単語でも別の音調を用いるとまったく異なる意味合いを含む場合もあることを思い出し、私は悩むことをやめた。この件に関しては再び調べ直すとして…
「これって、ベンジャミンのことかしら…」
その下に書かれていた短い文章の群れ。走り書きで読み辛いところも多々あったけれど、要約すると一人の生徒が学園の秘密を知り殺されてしまった。誰も予測していなかった失踪に安寧とした日常生活に亀裂が入るのを食い止めようと、生徒たちは率先し事件の隠蔽を謀る。と書いてある。そして『誰が演じるか?』という文章に何重にも丸が書かれていた。
「……っ」
何となく気分が悪くなった。たまたまベンジャミンが失踪したことをきっかけに生まれたアイデアなのかもしれないけれど、これではまるで―――私たちは誰かの描いたシナリオを無意識のうちに演じさせられているように錯覚してしまう。何よりもまだベンジャミンが死んでいるのだと確定できていないのだから。
私は不吉な考えを振り払い未だ医務室へ戻ってこないヘビースモーカーの教授たちの為に、煙草はどこで売られているのだろうと別のことを思いながらそ夢の内容を反芻した。
寝癖のついた毛先をつまみ、霧の向こうにいた男の面影を描き出そうと必死に内容を辿る。知らない人なのにどうしてあんなに怯えていたのかしら。
医務室から出て廊下の角を曲がり少しして、つい真剣に理由を考え始めている自分に気づき自嘲してしまった。何も気にするほどの内容でもないのに。
歩くうちに寝起きの体がほどよく冷めていく。ようやく意識もはっきりしたので、とりあえず講堂へ向かった。もう生徒たちは夕食へ出ているのか、広い講堂内には誰もいない。けれど足元に今も残るクラッカーや紙吹雪の残骸を見て、彼らにとっていかに重大なイベントなのかがよく伝わった。天井に飾られた石板に、歴代生徒会のメンバーに続いて新たに翠ら四人の名前が刻まれていた。確認するまでもなくキサメの名前もある。
『キサメ・リトバルスキー』
確かドイツの政治家が彼と同じ苗字だった気がする。あの余裕に満ちたキサメの顔を思うと自然と掌が汗ばんでいた。翠が手を組んだ相手。それだけでも驚くべきことなのに、彼は既に奥深い所まで調べ尽くしている。
人気のない講堂に佇むうちに肌寒さを覚える。暖房はちゃんときいているはずなのに鳥肌が立った。違う。これは、戦慄―――
この学園に足を踏み入れた時から、私も多くの生徒たちと運命を共にしている。
「………」
腕をさすっていた指を広げギュッと握り締めた。爪が肉に食い込む痛みに意識を集中させ、足元に伸びる人影を一瞥し覚悟を決めて振り向いた。周りにいるのはすべて敵。私に、味方はいないのだから。
「もう夕食は始まっているよ?」
講堂にいたリンコに呼びかけながら、セトは忍び足で逃げ出そうとしていた俺の裾を掴んだ。
「なんだよっ。俺は関係ないだろ」
あまり人付き合いの得意ではない方だが、特に琳子は初対面から苦手意識が強くあった。更に言うならば兄の翠も同じく苦手だった。まるで絵に描いたような美形の兄妹で、周囲からの評判も高く非の打ちどころがない。そんな彼らの隣に立たされてしまえば、俺は普段目を逸らし続けている自分の欠点を否応なく見せつけられるに違いない。
「もう体調はいいの?」
そんな俺の胸中など知る由もない琳子は、彼の姿を認めると優しい口調で体調を気遣った。別段俺とは親しくもないくせにと訝しんだ所でセトが補足した。
「倒れている所をリンコが見つけてくれたんだよ」
「……悪かったな。もう大丈夫だ」
「リンコも一緒に食堂へいかない?」
「!」
これは俺だから気づいたことだが、俺が苦手意識を持っていると悟った上でセトはわざわざ彼女を誘った。慈悲深いような顔して、たまにこんな嫌がらせを幼馴染に仕掛けてくるのだ。とは言え露骨に態度にあらわす訳にもいかず、複雑な心境のまま横目でセトを睨むが彼はは素知らぬふりをしていた。
「ありがとう。でも、これからやらないといけないことがあって」
「そう…」
話の区切りがついた隙を狙ってすかさその場を切り上げにかかった。
「さーいこうぜ。腹減っちゃった」
「……バイバーイ」
手を振りながら歩き出すその仕草は幾分幼い。けれど俺はわざと彼女からセトを引き離すように足早に移動した。
「まだデザート残ってるかなぁ」
これ以上余計な回り道をしたくなくて廊下を一心に歩きながらぼやいた。
食堂まで道のりは遠いく、陽は完全に暮れて外は漆黒の闇に塗り潰されていた。灯りの少ない通路はとても暗く白い大理石の柱だけが色を抜いたようにぼんやりと浮かんで見えた。
相槌もないので立ち止まり振り返る。セトは相変わらずどこを見ているのかわからない腑抜けた顔をしていた。
「お前ってさ、むかしからロン毛の女が好きだよなぁ。あれか? 初恋の相手が忘れられないとかってやつだとしたら、あいつも女冥利に尽き」
「その話は聞きたくない!」
語尾に被せるように鋭く言い放った。あまりに急なセトの豹変ぶりに驚きつい言葉を失った。こんな風に口調を荒げたセトは初めてだ。沈黙がこれまでになく重たくて刺々しい。あまり口数の多い方ではないが、こんなに黙り込むのも珍しかった。さっきの話題はそうとうの顰蹙を買ってしまったようだ。理由がわからずあれこれ悩む俺に対し、セトは冷ややかな笑顔を向けた。
「裏切り者は、もう物語の舞台に立てないんだよ」
「それって……」
チュチュの、と紡ぎかけた俺の科白を遮るように
「早くしなきゃケーキも残ってないよ」
そう呟いてセトは俺を追い抜いて駆け出した。
「あ、待てよ!」
ただちに思考を止めると俺も走り出した。ほんのりと温かみを帯びた風が身体を抜けて気持ちいい。廊下に響く俺らの駆け足に乗って懐かしい声が蘇ってきた。
『指きりげんまー…』
急に胸が締めつけられるような切なさに涙がこぼれそうになった。痩せ細った抜けるような白い指に、幼い俺の小さな指を絡ませる。まるで陶器のように冷たくて思わず身震いをした。
いつも大人たちに出入りを禁じられていた扉を開け、長い廊下を走り抜けては遊びにいっていた。恐ろしい検査なんかよりもずっと楽しくて、スリリングだったのを覚えている。
白塗りの壁に四方を囲まれ、あの人は毎日をベッドの上で過ごしていた。滅多に笑わない人だったが、あの時はかさついた口角を上げて笑ってくれた。
『嘘吐いたら 針千本のーますぅ… 指切った…』
リズムに合わせて動いていた二人の手が、歌の終わりと共に再び離れていく。どこを見ているのかわからない目で俺を捉えると『約束だよ』と囁いた。その言葉に込められた様々なメッセージを受けとめ、幼い俺はわからないながらも誓った。
―――セトを傷つける奴が現れたら決して容赦しない。与えられた以上の報復を返し、守れなかったあの人の代わりに守るんだ。あいつにはそれだけの価値がある。存在するだけで多くの迷子たちが救われるのなら、俺は、死んだっていい。
目の前を走る細い身体がもう手を伸ばせばすぐにでも届きそうだ。乱れる髪から覗き見えた口元に本物の笑顔を発見し、思わず湧き上がる喜びを隠せずに叫んだ。
「フライングだぞっ!」
久しぶりに聞いた笑い声が閑散とした廊下にこだまする。襟首を捕まえてようやく脚を止めたセトは、背中を丸めて笑った。
「ゲンジロウってば本気になりすぎだよぉ」
「バーカ。勝負に遊びはないんだよ」
肩で息を吸い呼吸を整え上下する頭を軽く小突く。薄っすらと汗ばんだ額が眩しくて、目の前にある笑顔だけは間違いないのだと自信を持った。汚れのない純真なままのセトを世界から守るナイト。それが俺に与えられた役目でもあり演じ続ける限り―――出来損ないでも存在する意味が生まれるんだ。
二人が立ち去ったのを確認し私も歩き出した。やるべき課題は沢山ある。頭の中でこれからの計画を練りながら地下の図書室へ移動した。大きな扉を押し開けるも夕食時だけに生徒の姿はほとんど見当たらず室内はとても閑散としていた。交代に食事をとりにいっているのか司書の数も少ない。
けれど、やはり彼はそこにいた。入り口から遠く離れた書架の間に佇み本を読んでいる。
「……モリア」
甘い呼び声にモリアは頬を薔薇色に染めて振り向いた。
「ど、どう、どうしたの?」
舌を噛みながら本を閉ざし、落ち着かない様子で言葉を紡ぐ。こんなにわかりやすい子も珍しいかもしれないと、彼が喜ぶ笑顔を作り用意してきた口上を述べた。
「用はないんだけど、ただ会いたかったの」
彼に私を裏切れない。いいえ、裏切れるような生半可な関係なんて、もういらない。
ただ純粋に喜びを表現するモリアを眺め恥じらいを含めて微笑んだ。するとふいに瞳に翳りを宿し、怯えた様子で私を伺いながら躊躇いがちに問いかけてきた。
「……さ、最近、キッコと一緒にいないよね」
「キッコから何か聞いたの?」
「う…ん……。リンコから避けられているって」
そして慌てて繕うように続けた。
「で、でも別にリンコを嫌っているとかじゃないよ。キッコはずっとリンコに憧れていたんだ。そ、その…ぼくとキッコって、似ているからさ…な、なんとなくわかるんだ」
「別に何があった訳でもないわ。ただ最近はベティたちとも喋るようになったから。ほら、サエが苦手みたいだから、それでじゃないかしら」
「そ、そぅ…なの?」
腑に落ちないものを感じつつも取りあえず納得する。そんな彼の傍らに移動すると、先程まで読んでいた本の表紙を覗き込んだ。
「童話?」
「この国の…で、伝承をまとめたものだよ。これもセトの収集物だったみたい」
本の裏に書かれた彼のサインを見せてくれた。
「セトがこの本も薦めてくれたから。リンコも読んでみる?」
えぇと、頷きながら彼の肩に手を置いて後ろに回った。
「やっぱり、埃がついてるわ」
「え、えっ!」
全身を硬直させ立ち竦むモリアの背を軽くはたく。腕を上げ下げさせながら彼の制服を観察した。ズボンの後ろポケットの膨らみを注視しながら
「私も前、高い所にあった本を取った時に埃を被っちゃったのよ」
指が触れるたびに彼の緊張は高まっていくようだ。素直な反応がおかしかったけれど、適当にはたいてから離れた。
「ぐ…ありがとう」
頬を染め恥ずかしげに目を逸らし呟く。どういたしまして、と答えわざと微笑んだけれど、さっきよりも落ちつかなげに手持ち無沙汰ない様子で視線を彷徨わせた。これ以上に顔を赤くされたら誰かに不審に思われるかもしれない。頃合いをはかって別れる口実を切り出した。
「それじゃ、ベティたちが待っていると思うから私も食堂へいってくるわね」
「う、うん。それじゃぁまた…」
名残惜しそうに手を振るモリアを視界の隅に捉えゆっくりと歩き去る。書架にその姿が隠れると音を立てずに小走りに図書室から出た。螺旋階段を駆け上り一階まで辿り着くと、やっと脚を止めて深呼吸をした。走った所為で心臓が激しく鼓動を打っている。額に浮かんだ汗を拭い高鳴る胸にそっと手を置く。けれど急がなくちゃ。今のうちに調べなくてはいけない。
「……可愛い…」
指に絡ませた男子寮の鍵を目線の高さまで持ち上げ微笑む。ホルダーについた古びた豚のマスコットが金属部にぶつかって音を立てた。モリアがこの鍵をなくしたと気づく前に、返さなくちゃいけないもの。
食堂にはまだまだ料理もデザートも沢山揃っていた。中でも人だかりができている特製デコレーションケーキに目を奪われているゲンジロウの傍らでセトは辺りを見回し
「全員がちゃんと参加しているね」
念押しするように呟いた。何を気にかけてるんだ、と疑問を抱いたが早速ケーキに集まる列に加わった。するとちょうど俺の前に並んでいたレオが振り向いた。
「やぁ、もう体調はいいの?」
「お前まで知ってんのかよ」
生徒たちの耳の良さに改めて辟易しながらも答えた。
「一応これでも監督生だからね。他の子もきみたちがきていないから色々と勘ぐっていたみたいだけど」
「どーせ俺じゃなくてセトがいないことにだろ」
「そらそうさ。ぼくだってまさか、ゲンジロウがゲイだとは思わなくてもついムラムラしてしまったんじゃないかって、つい勘ぐっちゃったしね」
「バイのお前にだけはいわれたくねぇよっ! だいたい俺はノーマルだしあいつとは同室で寝てるのにそんな気になる訳ないだろ」
「まったくもったいないなぁ…」
「お前と一緒にするなっ。たっく……なんだよ。それ…」
「安心しなよ。ぼくときみはまったく違うからさ」
嫌みったらしい捨て台詞を残すとレオはケーキを受け取って去っていってしまった。
「やっぱりきみは絶対に食べにくると思ってたよ」
給仕をしていた顔見知りのシェフに笑いかけケーキを受け取ると、俺はすぐにセトの元へ戻った。するとバロと何やら話し込んでいるらしい奴の姿を見つけた。
バロも俺に気づくと会釈を浮かべ、それから気遣うようにこちらの顔を見詰めた。
「ちゃんと薬は飲んだね?」
「はい。セトにも怒られたんで」
つい苦笑しながら答えるとバロは満足げに頷いた。
「きみのご両親にもくれぐれも頼むと言われているからね。今日は診察と点滴を受けてから眠りなさい」
「はい…」
バロの命令とは言え、再び針を刺されるのかと思い俺はつい肩を落とした。
「あぁ、ミス・カナムラ」
少し離れた所でツインとお喋りをしていたカナムラ教授を手招きした。彼女はツインに二、三言喋り別れるとすぐに、極上の笑みを浮かべ近づいてきた。
「お呼びでしょうか?」
生まれついての華がある彼女が動くと辺りは映画のワンシーンのように見えた。スポットライトを一身に受けたヒロインの登場に従って、脇役の俺はさりげなくバロの視界から移動した。
「後でジャックにわたしの部屋へくるように伝えてくれ」
「わかりました。私にも何かお手伝いできることがありましたら、お申しつけ下さい」
「気持ちだけありがたく受け取っておくよ。優秀な秘書が一人いれば、雑用はすべてこと足りるからね」
「まぁ、褒めていらっしゃるのかよくわかりませんわ」
口に手を当てて笑うカナムラ教授を見上げ、大人たちの会話ってやっぱりよくわかんねぇな、と思った。どこか気取って本音を見せない。その癖面白くもないのに大袈裟に笑う。今頃になって気づいたが、それはあの兄妹にも同じ感想が言えた。カナムラ教授同様に人生の主役級の二人だが、それは同時に生涯を脇役で過ごす俺とは住む世界が違うということだった。きっと彼らと共に心から笑える日はこないだろう。
会話の区切りがついたので、ここ最近ずっと聞き出せずにいた話題を持ち上げた。
「あの…俺宛に日本から手紙はきてますか?」
短い間を置いてバロは同情を滲ませた表情を浮かべた。
「いや、まだ誰からもきてはいないよ」
「…あ、いや、そうかなぁとは思ったんですけどね。…はは」
同情されるのは惨めだった。あんな夢を見たからつい恋しくなってしまっただけだと、自己嫌悪に陥る自分に言い訳しながら、手つかずだったケーキにフォークを刺した。
「……煙草の、匂いがする」
ふいにそれまで沈黙を守っていたセトが開口し、カナムラ教授をその視界に捉えた。
「セブン、スター…かな? いつもは違う銘柄を吸っていたよね」
のんびりとした口調だったが対するカナムラ教授は少し眉間に皺を寄せた。
「きっと他の教授の匂いが移ったのかしら。それにしても鼻がきくわね」
「……次、日本へ帰ったらぼくにもお土産を買ってきてね。煙草じゃなくてさ」
屈託のない笑顔のセトとは対照的に彼女の顔は一瞬だけ蒼褪めた。傍らに立つバロの表情まで硬くなった気がする。
数秒だけ流れる空気の質が変わり息苦しさを覚えたが、再びセトがこの場を和ませた。
「お腹すいちゃったよ。ゲンジロウ、一緒に料理も取りにいこう」
「あ…あぁ」
腕を掴まれセトはバロたちから俺を引き離すかのようにしてその場を後にした。
「カナムラ教授はいつの間に日本に帰ってたんだぁ?」
残されたバロたちの表情を振り返って見る勇気がなく、人混みに紛れてからセトを呼び止め問いかけた。
「ん~……向こうで展覧会に出品しているらしいよ」
ただそれだけでバロが反応する訳がない。だけど今のこいつは絶対にすっとぼけた返答しかしないとわかっていたので黙っておいた。
「ねぇ、ゲンジロウ。何か聞きたげだね?」
近くのテーブルにあったピザを皿に盛りながら、確信に満ちた声で呟く。疑問符をつけているが、早くも俺の質問に耳を傾ける態度をとっていた。
「聞きたいことは山ほどあるんだぜ。でも、どうせ答えてくれねぇだろ」
「気分次第だよ。今の『ぼく』ならすこぉし口が軽いかもしれないよ」
からかうように目を細めるセト。なで肩からのラインが猫で妙な色気を感じたが、レオの言葉を思い出し慌てて頭を振ってごまかした。
「……俺はお前のすべてを理解しようとは思っていない」
絡み合った言葉を丁寧に解き、ゆっくりと気持ちを整理しながら紡いだ。
「だけど俺は絶対に、裏切らない。それにここにいる時点で俺たちは同志だろ? いつ、ユンを仲間にしたのかわかんねぇし、ベンジャミンをどうしてパルトロに選んだのかも敢えて聞かねぇよ。だけどユキオさんの意思を貫くなら、あの転校生には関わらないでくれ」
「……どうして?」
「あいつらは…俺たちの仲間になれない。むしろ他の女に優しくする暇があるなら、ティルとちゃんと話をつけろよ。このままじゃ口先だけで結局、お前も……大人のいいように動かされてるだけじゃねぇか」
「話はしたよ」
セトはピザを口へ運びながら答えた。
「もう彼女とぼくの接点はないけど、向こうが勝手に疑っているだけだからさ」
「疑って?」
セトは時間をかけて咀嚼しゆっくりと飲み込むとほっと溜息を吐いた。
「大切な人を奪ったのは、本当はぼくなんじゃないかって疑っているんだ」
セトの口が不気味に歪むのを見て背筋に冷たいものが走った。時々彼はそんな顔をする。まるで迷路で右往左往し出口をいつまで経っても見出せずにいる俺たちを頭上から眺め、心から馬鹿にしたような冷たい笑い方を。
「そうだ、先生から冬休みを利用して検診をするって連絡がきていたよ」
「あ、あぁ…えっと……」
うまく呂律が回らずしどろもどろになる俺を一瞥し、ふっと苦笑した。
「怖いの? ちょっと細胞を取って検査するだけでしょ? ドックみたなもんだって」
「……むかしからあそこには慣れねぇんだよ」
からかわれていることに気づき不貞腐れながらぼやいた。俺は年に数回日本で行われる検診を受けることが義務付けられていた。病院の別塔に用意されたフロアに入る前に俺の身体は完全消毒される。そして白衣をまとった大人たちがいつも、見かけだけの笑顔で出迎えてくれるのだった。
―――それも俺の肩書きの威力だ。
それは亡きゲンジロウから受け継いだ肩書き。重みもありがたみもないが、時々無性に邪魔で、悔しいくらいの自己嫌悪に彼を陥れるだけの効果があった。
―――立派な両親様から生まれた俺だから同じ細胞を、DNAを持つ俺だから間違っても死んだ人間に劣る訳がないんだ。
「生まれる前からあそこにいたのにな……」
俺は科学の力で生まれたクローン人間だった。日本の政界に於いて巨大な影響力を持つとある政治家夫妻の子どもが、ある日突然亡くなった。それまで健康体そのものだった子どもは、死後の検査により先天性の疾患があったことがはわかった。そして少年の有事の際に臓器提供ができるようにと出生と同時に作られていた人工の命に、亡くなった彼の『源次郎』の名前が受け継がれた。最初は子を失った痛手から両親も本当の子どもとして可愛がっていたが、時が心の傷を癒すにつれ倫理的観念から見た俺の存在が邪魔になりここへ押し込めた。
悲しむ理由はどこにもない。始めからあの人たちにとって、俺の価値はいざという時の保険だったんだから。毎月途切れずに送られていた両親からの手紙が、いつからか届かなくなったとしてもそれは仕方ない。生まなければよかったって、思われていることも知っていた。悲しみを紛らわせる為に作ったものの、成長するうちに亡くなった源次郎との違いが明らかになり、周囲の目も気にしなければいけなくなって扱いに困っていった。
『お宅のお子さんって、失礼ですけどお亡くなりになっていたんじゃないんですの?』
近所のお喋り婆の追及にしどろもどろになりながら、母親はこう答えていた。
『双子の姉の子どもなんですのよ。今は受験勉強の為に預かっているんですの。亡くなった源次郎とよく似ていて、つい同じ名前で呼んでしまいますのよねぇ』
口元を隠し上品に笑う母と呼んでいた彼女の背中を見て俺は自分の未来を予感した。
―――死んだはずの子どもが生きていていい訳がない。じゃあ、俺はいつか殺されるのか? もう、二人と一緒にいれないかなって。それでも飛行機の切符を渡されるまではわずかでも、心のどこかで期待していた。
例え死んだ源次郎に劣ったとしても、今の自分を息子として認めてくれていると。しかし予感は見事に的中した。俺は遠い異国のこの学校に押し込まれ、恐らく死ぬまで日本に帰れない。
でもそれも、仕方ない。と思うしかなかった。現実はいつだって冷たくて、子どもたちを生み育てそして選ぶのは大人たちの役割だった。
―――俺は生まれてはいけない子どもだったから。不条理であろうとなかろうと。それは揺るぎない事実として突きつけられ続けた。
生徒たちが本館で授業を受けている間、寮の入り口には鍵が閉められ原則として授業が終了するまで入れない。だからこそ女の私が男子寮へ忍び込めるのは、学校全体が生徒会の再結成を祝い喜び、宴を行っているこの時間帯だけだった。
年季の入った扉の錠に鍵を差し込む。白い息を吐き出しながら、かじかむ指に挟んだ真鍮の鍵を半回転させるとカチッと音を鳴らした。
ようやくやんだ雪が辺り一面を白く染め、その上を駆ける風の音の他は何も聞こえないの。なのに、さっきから誰かの視線を感じていた。身震いをしてから羽織ってきたマントの首元を握り締める。背筋を撫ぜる冷たい風が不穏な気配に怯える私を嘲笑っているみたい。背後に広がる闇からすれば取るに足らない小娘に過ぎないのに。
そっとノブに当てていた手に力を込めてみる。強く押すと厚い木の扉は軋みながらゆっくりと開いた。
夜の闇とは異なる暗い廊下が目の前に広がっていく。女子寮と内部構造はすべて同じだけど、丘の上にある校舎から向かって女子寮と左右対称に建っている為、多少の位置関係の違いはあった。
多分目的とする部屋は最上階の三階だろう。何故か彼は人よりも新鮮な、汚れのない空気を求めているような気がしたけど、郵便受けのネームプレートを確認するとその予想は見事に的中していた。
玄関口のすぐ傍らにある管理人室の扉から淡い光が漏れている。男の話し声がしているけど、誰かと電話をしているのか一方的な声しか聞こえない。腰を屈めマントを頭から被り、衣擦れの音にも注意を払いながら扉の前を抜ける。
こうして大人の目を盗んで走るのは母の葬式以来だった。
母は三段階のうちどこに区分されていたのだろう。道の先まで導いてくれるグドゥ? それとも家庭から邪魔者扱いされ、ここに押し込められたイヒヌゥ?
いえ……まさかそんな訳がない。お祖父ちゃんにもお祖母ちゃんにもとても愛されていた。けれどすべて型にはめられて生きていくグドゥもあの人らしくはない。きっとどこまでも信念を貫き通そうとするから、一部の教授たちから見れば可愛げのない生徒だったに違いないわ。
階段を上がる間、私はずっと母について考えていた。
わからないことや知らないことが多すぎて、彼女と一緒に過ごした時間の短さを痛感する。もしもっと生きていたなら、何らかの形でそれらの疑問に答えてくれていたかもしれない。ずっと傍にいたのに。親子だったのに、彼女は語ってくれなかった。すべての謎と共に闇に葬られた。
棺の中の顔が最後。白い百合で美しく着飾り綺麗に化粧が施された顔はどこか殊勝としていた。あの人と、もう、一緒に作る思い出もない。
…負けたのかもしれない。
私たちが何も知らずに生きていくのを望んでいたとしたら、私は負けている。悔しくて、己の無知さを馬鹿にされるのが辛くて翠と張り合おうとしていた。どんなに努力したって翠には敵わない。敵わないからこそ認めて欲しかった。
私という人間がここにいることを―――
階段を終え廊下に出る。人の気配など一切なく耳を貫く沈黙は寂寥としていた。灯りをつける訳にもいかないので、窓のわずかな射光を手がかりにネームプレートを確認して回った。
一番突き当たりにある部屋のプレートを見つけ、喜びに思わず胸が飛び跳ねた。
『Genjirou Natusige
Seto Itinose』
名前を反芻しドアノブに触れ軽く回してみる。鍵はかかっていなかった。深呼吸と共にゆっくりと押し開けた。
隙間から身を滑り込ませ素早く後ろ手でドアを閉める。手探りで窓枠まで移動すると静かにカーテンをひき持参したペンライトを点灯させた。
ライトを動かし室内を見回す。どうやら左半分がセトのスペースらしく、壁一面に様々な絵画や写真、ポスターが飾られていた。机もきちんと整頓され、一目で何がどこに収納されているのかがわかった。対するゲンジロウの机はやや乱雑で、教科書などが高積みにされていた。
年頃の男の子って掃除もちゃんとできないものなのかしら。
つい顔をしかめつつもセトの机に向かい早速引き出しを開けた。文具や小物がきっちりと収められている。意外にも几帳面な性格なのだろうか。二段目、三段目とも同じだった。半ば諦めた面持ちで最後の四段目に手をかけたその時。その引き出しだけ鍵穴があることに気づいた。一抹の不安が頭をよぎる。もしかして鍵をかけられているかもしれない。けれど、私の不安を他所に引き出しはすんなりと開いた。まるで鍵を取り払い、私がそれを開けてしまうのを予め予想していたみたいに。
ライトが照らす中身は驚くくらいもので溢れ、それらが微妙なバランスを保って押し込められていた。本当にこれがセトのものなの? と疑いたくなるような可愛らしいヌイグルミから大きいものでは図鑑に至るまで様々なものがある。とりあえず一番手近な所にあったノートを取り出した。
それはアルバムだった。日づけはないけど舞台はこの学園だ。生徒たちの授業風景や談話室の様子など、取りとめのない日常を写したものばかり。見覚えのない生徒だけど在校生ではないように思えた。
一通り眺めて閉じようとしたがふいに違和感が残り、再び最初からめくってみた。真ん中あたりのポケットに入れられた写真が妙にごわついている。もしかして、と思い抜いてみるとやはりそこだけ写真が重ねて入っていた。
半袖姿の幼い二人の男女がこちらに向かってポーズを決めて立っている。背景はどこかの公園のようだ。フリスビーで遊ぶ子や散歩をする人々がちらほらと写っている。金色の巻き毛とふわふわの栗毛は淡い陽光を受けて輝き、人懐っこそうな笑顔は現在の彼女らからは到底想像できない。
ティルとベンジャミンは……ただ、恋人というだけの関係ではなかったのかもしれない。
何歳頃の写真だろう。五、六歳くらいかもしれない。
こんな風にティルが笑った所を見た時がなかった。思えばルームメイトなのに私は彼女について何も知らなかった。消えたベンジャミンが最後に付き合った女性というぐらい。いつもコルスティモと呼ばれる彼女の噂に嫌悪して、知らず知らずのうちに母親の醜態を重ねて避けていた。けれどこうしてティルも普通に笑えるのだとわかった今、先入観に振り回され軽蔑するのは、周りと他の生徒たちと大差ないかもしれない。
隣で笑うあどけないベンジャミンと共に脳裏に焼きつけアルバムを閉ざした。
何だかやりきれない。もしも本当にベンジャミンが殺されたのだとしたら。わからないけどただ一つ言えるのは、ここは、おかしい。大人たちが邪魔な子どもを始末する為にあるなんて、信じたくはない。
「……でも、私も同じか…」
深い嘆息と一緒に漏れた言葉は、辺りの闇に溶けるようにして消えていった。
お母さんも、私たちが邪魔だったのかしら。だからここへ転校させたのかもしれない。心のどこかで翠と私が人知れず消えていくのを期待していたかもしれない。
だけど何故か胸が締めつけられるように痛かった。
…コトッ
床下で物音がした。もう誰かが戻ってきたのだろうか。
慌ててアルバムを元の位置に押し込み引き出しをしめようとしたが、奥で何かがひっかかって動かない。ライトでその正体を探ると、花瓶の脇から木箱が飛び出ていた。アルバムに隠れて見えなかったらしい。
木箱を取り出しもう一度、引き出しを戻すとすんなりと収まった。それを見てホッと胸を撫で下ろす。けれどこれはどうしようと逡巡し、膝の上に載せた箱を軽い気持ちで蓋を開けてみた。
「きゃっ!」
開けた途端に溢れ出た黒い毛髪に驚き、反射的に箱を突き飛ばした。
心臓が早鐘を打つ。指に絡まった毛が底知れない怨念のようなものを匂わせ、恐怖に身を縮ませ躍起になって振り払った。暖房はきいているのに制服が汗ばみ、全身が小刻みに震えていた。何故かそれまで何とも思っていなかった闇が急に恐ろしく思え、その感情を抑えようとすればするほど呼吸が難しくなった。
風が窓ガラスを叩く音に、あの嵐の記憶が重なる。頭の奥で耳鳴りがした。アスファルトに激しく叩きつける雨が太鼓のよう。今は傍には誰もいない。闇に身をひそめ、こちらを狙う化け物はどこにもいない。
雷は……鳴って…翠は灯りを探しに…いったのよ。
大丈夫。大丈夫だから…。
私は、何も、何も見ていない。覚えてもいない。
「……ハァ…」
呼吸が楽になると、床に散った髪の毛に気づき焦りを覚えた。つい恐怖心に心が萎えて涙腺が緩みそうになったが堪え、喉元まで上っていた感情を必死に飲み込んだ。
とにかくこのままでは探せない。自殺行為になるかもしれないけど―――立ち上がり部屋の明かりをつけた。スイッチを押すと同時に乳白色の光が頭上で破裂する。眩しさについ顔をしかめたが、辺りの明るさに慣れると、床一面に広がる黒髪に紛れ落ちていた一本の白い棒に気づいた。
もう随分と前になるけど私はそれを壷に入れたことがある。長い箸で、翠と一緒に壷に納めた。だから見間違える訳がない。
「……う…そ」
黄ばんで小さく欠けていても、それは人の骨に違いなかった。
宴は月が高く昇るにつれ盛り上がりを見せ、教授たちも生徒に紛れて騒いでいた。けれどそこには早くも主役たちの姿は消えうせていた。
彼らはどこにいるのだろう。
細い通路を手探りに進み、覗き穴で外を確認しながら『ぼく』は新たに生徒会長に選ばれたミドリと副会長のキサメの姿を探した。ちょっと目を離した隙に二人は食堂から抜け出していた。バロにばれたら怒られてしまう。もっとちゃんと見張らないと駄目だろうって、殺されちゃうかもしれない。だからいつもより慌てて通路を駆けた。
「……こんな所にあった」
暗闇の向こうから声が聞こえた。もしかして、と思い次の角を右に回るともっと明確に聞こえてきた。
「ふぅん。どうやらきみには、探偵の素質もあるのだね」
感心する口調だけど、どこか冷ややかなキサメの声。間違いない。あの二人だ。頭の中で学内の見取り図を描きながら石造りの壁の中から覗き穴を探す。きっとここらへんなら生徒会室だろう。指先の感覚を頼りに石を動かすと、やっと肖像画の瞳に開けられた穴が出てきた。普段はあまり生徒会室なんて見る機会もなかったので、石が硬くなっていて手間取った。
深緑のソファに腰を下ろすキサメとティカップを傍らに、机に向かうミドリの背中があった。それを見て激しく後悔した。まだあそこはちゃんと片づけていなかった。前任の生徒会長たちは、すべてバロが望むがままに動かしていたので生徒たちの資料もまとめて管理させていた。ある程度は処分していたものの、実際に新しい生徒会が始まるのは明後日からだったのでつい油断していた。
「編入期間に出入りした生徒数を除くと、入学時の数と卒業時の頭数がどの学年でも、毎年数人ほど足りない」
「つまり…ぼくら、生徒の知らない間に消えた生徒が過去大勢いるという訳だね」
「それも七年前の女子生徒失踪を皮切りに行われている」
「女子と男子の割合ではどちらが多いのかな?」
「名簿を見る限り女子の方が圧倒的だ」
「美しい少女たちが消えていくだなんて、可哀想でならないね」
深い嘆息を吐き出し、凭れていたソファから身を乗り出すとテーブルに置かれていたカップを取った。
「一連の事件にバロが関わっている証拠があれば、薬と引き換えにできるのだがね」
キサメの独り言にふいに反応を示すと、座ったまま上体をひねり彼に顔を向けた。
「その秘密を、お前はどうして知ったんだ」
質問というよりも詰問に近い口調。彼の面立ちは冷ややかな悪意に満ちているように思えたが、そんな態度を楽しむように口元を緩め
「わかりきったことを聞くなよ」
と答えた。
「ぼくがどうしてここに送り込まれたか、そして父の正体も知っていれば自然とわかる謎々さ。なんたって世界中があの薬を欲しているのだよ。最も怪しまれずに内部を調査できるとしたら、子どもに頼るしかない」
カップの中身を啜り一点を睨みつけると
「世界中に学校を建てるのがバロの夢なのだ。だけど大人に見る夢はない。いつも目の前の現実に戦い挑めばいい。それ以外に彼らの存在意義はないのだって思い知ればいいのさ」
普段の彼からは到底想像もできないような、情け容赦のない憎しみを感じてかさすがのミドリも閉口していた。
「……納得いったよ」
「何がだい?」
「母親を追い出した父親の指示に、ただ素直に従っているとは思えなかった。諸々の費用だけを支払わせて、秘密を手に入れた後は逆に脅迫しようって魂胆なんだな」
「まぁね。彼はぼくの大切なものを奪った。アートにかける情熱も無理やり奪おうとしている。それならそれ相応の報復を受けるべきだ」
ミドリの手元に広げられた分厚い名簿を忌々しい思いで睨みながら、『ぼく』はどうやってこのことをバロに報告しようかと必死に考えた。
大人に背こうと…反逆者だ……。だけど頭の奥で誰かが激しく反論していた。彼らの言うことが正しくて、所詮はバロも子どもを手駒としてしか見ていないのだと。
そうじゃない。本当は薬だって―――
嘘吐きめっ! お前はいつも嘘しか言わない。
争い事は沢山だ。頼られるばかりで何も得られない。
―――大勢の声が重なって大合唱になる。醜い言い争いに耐え切れず『ぼく』は耳を塞ぎその場に座り込むと、意識を手放した。
「じゃあ今日はここで眠りなさい。点滴もゆっくり落とすから」
ドクター・アンジーはそう言って俺の腕を離すと、すぐに踵を返してベッドから離れていこうとした。
「自分の部屋で寝たいなぁ。医務室の枕は硬いんだよ」
「なぁに子どもみたいに駄々をこねているの、って子どもだったわね。ファルバロには私から伝えておくから、一晩くらい我慢しなさい。それとも校舎に一人残されるのは怖いのかしら?」
図星を指され思わず返答に詰まった。それを見てドクター・アンジーは吹き出し、ベッドの近くに椅子を持ってきた。
「貴方が眠るまでここにいてあげるわ。子守唄でも歌ってあげようか?」
「い、いらねぇよ!」
「代わりに一服だけさせてもらうわね」
返事を待たずに携帯灰皿を取り出すと、慣れた手つきで煙草に火をつけてうまそうに煙を吐き出した。病人の前で校医が煙草を吸っていいのかどうか疑問だったが、少なくとも彼女が傍にいてくれることで気持ちが楽になった。
「それにしても宴も最中に、ファルバロはどこにいっちゃったのかしらね」
「……あいつなら心配ないよ。あぁ見えて、しっかりしている時もあるから」
「そう? 付き合いの長い貴方が言うなら間違いないんだろうけど、未だに私は彼を理解しきれていないわ」
眉間の皺をより濃く刻みながら人差し指を立てて続けた。
「ある程度見ていたらどの子も、あぁこんな性格なのねぇってわかるのよ。でも彼の場合はそうはいかないわ。こっちが心配するくらいぼんやりしているかと思えば、突然人の心を読んだようなことを言うし。でも驚くほど親切に接してくれるって関心した次の瞬間には、誰かの宝物を踏みつけても平然としていたりする」
よくわからない子よ…とぼやくドクター・アンジーの横顔を見やりながら、幾分眠たくなった頭で俺は答えた。
「それがセトなんだよ」
顎が外れるくらい大きな欠伸をすると一気に瞼が重たくなった。点滴に睡眠薬も混ざっていたのか、それとも疲れていたのか。
「……あいつの中には…いっぱい…いる…」
途切れ途切れに呟くうちに力尽き、温かな毛布が肩にかけられたのを感じたのを最後に意識は夢の世界へ飛び立った。
―――This is the story of Genzirou.
全身を包む温かな感触は、かつてむかしに当たり前のように享受していたあの人たちの温もりとよく似ていた。いつからか触れるのも憚れるようになった懐かしい体温。頭を撫ぜてくれたあの大きな手が大好きで、俺は父と呼んだ彼によく懐いていた。どんな時も両腕を広げて俺を迎え入れてくれた母と親しんだ彼女の温もりが今も忘れられず。二人が幼い俺の世界のすべてだった。
「……」
覚醒しつつある頭の隅で今置かれている状態を考えながら寝返りを打つ。ぼんやりとしたまま記憶を辿るうちに、講堂で行われていた生徒会役員選挙に参加していたのだと思い出した。
あれ、じゃぁ俺、なんでここにいるんだよ。自問自答してから腫れぼったい瞼を持ち上げる。気の所為か身体が火照っている気がした。それまで堪能していた慣れた手触りも、やはりいつものベッドで横たわったまま眺める室内の風景も何ら変わりなかった。
一面にセトの収集物が所狭しと飾られている。量が増えるにつれ俺のテリトリーを侵略されつつあったので、実は彼に内緒で邪魔なものは処分していたりするのだが、気づいているかは不明だ。それに集めた時点でもう興味も失せるらしく、セトは熱しやすく冷めやすいの代名詞のような性格だった。
「ゲンジロウ」
いつの間にか現れたのかベッドの縁にセトが立ち、俺を見下ろしていた。
「目は覚めた?」
瞬きを繰り返しながら素っ気ない質問に相槌を打つと上体を起こした。今朝よりもセトの顔色が悪い。疲れているのかすぐシーツの裾に腰を下ろすと一点を睨み黙り込んだ。
その姿を見るうちに俺も事の次第を悟った。
「また発作起こしちまったんだなぁ」
申し訳なさげに愛想笑いをする俺を無視し、セトは言葉数少なく答えた。
「生徒会役員選挙、結果が出ている」
「ふぅん」
適当に返事をして大きく伸びをした。さすがにパジャマに着替えさせてくれなかったらしく制服は皺だらけになっていた。随分と眠っていたようだ。眠りすぎて頭が痛かったが、久しぶりに熟睡できたので頭はすっきりしている。
「結局、投票できなかったなぁ」
今年は何かと話題に事欠かかないミドリとキサメが立候補するということで周りはおおいに騒いでいたが、俺からすれば授業がサボれるならどうだってよかった。投票も適当に名前を書いて入れるつもりだったし、誰が何をしようとここの生活は大して変わらない。生徒会役員選挙なんてあるようでない存在だった。
「生徒会長にミドリ。副会長にキサメ。会計は紅一点のドーニャ。書記にはジョナサンが選ばれたから」
淡々としたセトの態度には友人を気遣う様子などない。今に始まったことではないが、それでも一度体調を崩した身としては一抹の心寂しさを覚えた。
報告のような会話を終えるとセトはじっと動かず黙っていた。その微動しない姿勢はまるで徹底した訓練を受けた兵士のようでもあったし、感情の見えない表情は蝋人形で作られた紛い物のようにも見えた。
次第に流れる沈黙が意味もなく重たく思え、宙を彷徨っていた俺の視線は窓の景色へ向けられた。今朝から降っていた雪がいつの間にか高く積もっている。もう夕暮れ時だろうけど、分厚い雲に隠され太陽の存在はまったく感じられない。青みがかった灰色の空を背景に、葉をすべて落とした痩せた木々のシルエットはとても寂しげだが凛として身の凍るような綺麗な眺めだった。
雲が割れて注ぐ太陽の光を雪が反射し、眩しさに目を細めた。
「……」
冷暖房が完備された敷地内しか歩いていないので、とうにあの白い結晶体の冷たさも忘れていた。まるでそれは世界から取り残されたような学園だと大抵の奴は思っていることだろう。再び外の世界に戻った時、どんなにここが恵まれていたのかを思い知らされるのだ。
「…セト?」
ふいにただならぬ気配を察しセトの横顔に再び目を向けた。呼吸するたびに上下する細い肩が何故か震えている。血走った眼球は虚ろに宙を捉え、少し開いた唇からは小さく呻き声が漏れている。
長い付き合いから予測される嫌な予感が頭を過ぎった。俺は勢いよく肩を掴みこちらに顔を向けさせると詰問した。
「お前……今度は何番目の『セト』になるんだ?」
「!」
不安に煽られつい口走ってしまった禁句に、一瞬、セトの顔から表情が消え耳が痛くなるような沈黙が流れた。すぐに失言に気づいたがもう遅い。どうしようもなく、セトの様子が落ち着くまで見守った。
「……はぁ…」
セトは長い溜息を吐き出した後、おもむろにこめかみに手を当てぎこちない動作で肩を揺らした。
「何番目って…?」
初めて焦点の合った顔で答えた。既に身体の震えは止まり、さっきよりも血色がややよくなっている。俺の心配を一蹴し小馬鹿にした表情を見せた。
「休憩時間にお菓子を食べようと談話室にいって発作を起こしたみたいだよ。ゲンジロウらしいね」
といつもの調子で毒づきながらポケットから粉薬を取り出した。
「バロから貰ってきた。ちゃんと薬を飲まないと駄目だよ」
「わかってるよ…」
セトから薬を受け取り枕元のコップに水を注いでその場で飲んだ。あまりにひどい味に顔中に皺が寄った。泣きたくなる思いでなんとか飲み込んだが、喉元を過ぎてもしつこく薬の余韻が残る。
「うっ」
つい胃が薬を拒否しようと蠢いたが、すかさずセトが口直しのチョコレートを差し出してきたので堪えた。舌先に残る不愉快な感覚にチョコの甘くとろける味を重ねていく。
「俺ってさいつまでこれ、飲み続けなきゃいけないんだろうなぁ」
「抗体ができるまで、だよ?」
大人たちから言い聞かせられ続けた科白を引用し、わざとらしく同情を見せて応えた。
「そもそも他人と生まれ方からして違うんだぜ。本当に抗体ができるかも疑わしいのに」
俯くうちに溜め込み続けた弱音がどんどん飛び出ていった。セト相手にしか漏らすことのできない悩みだった。
双方の両親が仲が良かったこともあり、俺たちは物心つく前からの知り合いだった。しかし顔は知っているものの特別関わることもなく、親しくなるまで時間がかかった。日本にいた頃は俺は病院通いの毎日を送っており、セトも一年のほとんどを海外で過ごしていたこともあって顔を合わせることすら稀だった。そんな俺らが初めて互いの目を見て、言葉を交わしたあの日を決して忘れられないだろう。
バロの息子―――ユキオの葬式だった。
思えばあの時見たセトの涙が初めてであると同時に、きっとこの先彼が心から悲しんだり喜んだりもないだろう。今、目の前にあるセトの笑顔も、彼を慕ってくる連中に向ける眼差しとさほど違いはない。俺にとって彼は大切な友だちだが、セトからしたら俺は数ある仲間の一人にすぎない。
それでもセトは分け隔てない態度で、俺のチョコレートが完全に溶けきる頃合いを見計らうと
「食堂で、新生徒会誕生を祝ってケーキが振る舞われているんだ」
いつもの優しい顔で誘ってくれた。
霧の向こうで誰かが私に向かって手を振っていた。背格好からそれは大人の男だろうと思ったけれど、いつまでも親しげに振り続けるので終いに無視するのも哀れに感じ近づいてみた。だけど、どんなに歩き進めてもいっこうに彼の元へ辿りつけない。脚を動かせば動かすほど辺りの霧は濃くなり、その男の顔を更に隠していった。
おーい…おーい……と私を呼ぶ声だけが虚しく響く。
誰? 伯父さん? それとも翠なの?人影が一瞬揺らめいたと思うと同時に
『琳子ちゃんはそんなに本が好きなの?』
背筋を走る嫌悪感。聞き覚えのある声に全身が拒否反応を示す。霧の向こうに対峙する人物から危険を察知し、急いで逃げ出そうと向きを変えた。けれどそれまでちっとも近づけなかったはずが、私が走り出そうとしたら三つ編みにした毛先を強く掴れた。
振り向いちゃ駄目! 本能がそう告げるのに、身体はまるで見えない何かに操られているかの如くゆっくりと翻った。乳白色の霧が漂う向こうに彼の輪郭を見つけ―――
「!」
心臓が大きく飛び跳ねその振動に驚いて目が覚めた。いつの間にか喉がカラカラに渇き、ほどよく暖房がきいている医務室がとても暑く感じた。汗ばんだ首元に触れながら記憶を回想する。そうだ…私、眠っていたんだ。
薄暗い室内には他に人の気配はない。時計が見えないけれどもう夕方ぐらいだろうか。
「ドクター・アンジー……?」
確認のつもりで名前を呼んでみるも、やはり返事はない。とりあえず生徒会役員選挙の結果も気にかかったので、温もりの残るベッドから出てカーテンで仕切られた室内を覗いてみた。
窓辺に置かれた机の脇のゴミ箱にくしゃくしゃにして捨てられた煙草の箱がある。手編みの膝掛けが背もたれに畳んで置いてあるが、まだほのかに温かい。
煙草を取りにいったのかしら…
綺麗に整頓されている机の上を一瞥してから部屋を出ようとしてふと、思いとどまった。
確かドクター・アンジ―は校医として勤務もしているが、彼女はツインらが所属する演劇部の顧問も兼任していた。イベントの際には何かと引っ張り出される演劇部のシナリオはすべて彼女が作成していると聞いた。校医としての仕事の傍らそんな部活の指導までこなしているのだからあぁ見えて多忙なのだろう。私ならきっと空いて時間を使って次の劇の構成を練ったり、生徒がいない隙を狙ってここでシナリオを書くだろう。
「……」
さっと観察した限り机の上には医学書の類や日誌しか見当たらない。引き出しはやはりどれも鍵がかかっていて中を確認できなかった。仕方ないので改めて机上の書類を広げてみると、日誌の下に一冊のノートが置かれていることに気づいた。何回も手に取っているものらしく普通の大学ノートだけど、表紙は使い古されている感じがあった。
もう一度廊下の向こうに気配がないか確かめ、私はノートをめくった。
どうやらこれは思いついたアイデアを書き留める為のものらしい。時に走り書きのような感じで単語や短い文章。ストーリーの展開等様々な文が自由に書かれていた。しばらくそれらを眺めていたけれど、どうしても気になる文章を見つけてしまい手を止めた。
『Dina da doo.―――本来の意味?』
ガドレの開催を告げられてから度々耳にするようになったその合言葉。確かキッコたちは錠をかけて鍵は飲み込みなさいという意味だと言っていた。レドヴァス語は季節や男女によって使い方や意味も大きく変わってくる。同じ単語でも別の音調を用いるとまったく異なる意味合いを含む場合もあることを思い出し、私は悩むことをやめた。この件に関しては再び調べ直すとして…
「これって、ベンジャミンのことかしら…」
その下に書かれていた短い文章の群れ。走り書きで読み辛いところも多々あったけれど、要約すると一人の生徒が学園の秘密を知り殺されてしまった。誰も予測していなかった失踪に安寧とした日常生活に亀裂が入るのを食い止めようと、生徒たちは率先し事件の隠蔽を謀る。と書いてある。そして『誰が演じるか?』という文章に何重にも丸が書かれていた。
「……っ」
何となく気分が悪くなった。たまたまベンジャミンが失踪したことをきっかけに生まれたアイデアなのかもしれないけれど、これではまるで―――私たちは誰かの描いたシナリオを無意識のうちに演じさせられているように錯覚してしまう。何よりもまだベンジャミンが死んでいるのだと確定できていないのだから。
私は不吉な考えを振り払い未だ医務室へ戻ってこないヘビースモーカーの教授たちの為に、煙草はどこで売られているのだろうと別のことを思いながらそ夢の内容を反芻した。
寝癖のついた毛先をつまみ、霧の向こうにいた男の面影を描き出そうと必死に内容を辿る。知らない人なのにどうしてあんなに怯えていたのかしら。
医務室から出て廊下の角を曲がり少しして、つい真剣に理由を考え始めている自分に気づき自嘲してしまった。何も気にするほどの内容でもないのに。
歩くうちに寝起きの体がほどよく冷めていく。ようやく意識もはっきりしたので、とりあえず講堂へ向かった。もう生徒たちは夕食へ出ているのか、広い講堂内には誰もいない。けれど足元に今も残るクラッカーや紙吹雪の残骸を見て、彼らにとっていかに重大なイベントなのかがよく伝わった。天井に飾られた石板に、歴代生徒会のメンバーに続いて新たに翠ら四人の名前が刻まれていた。確認するまでもなくキサメの名前もある。
『キサメ・リトバルスキー』
確かドイツの政治家が彼と同じ苗字だった気がする。あの余裕に満ちたキサメの顔を思うと自然と掌が汗ばんでいた。翠が手を組んだ相手。それだけでも驚くべきことなのに、彼は既に奥深い所まで調べ尽くしている。
人気のない講堂に佇むうちに肌寒さを覚える。暖房はちゃんときいているはずなのに鳥肌が立った。違う。これは、戦慄―――
この学園に足を踏み入れた時から、私も多くの生徒たちと運命を共にしている。
「………」
腕をさすっていた指を広げギュッと握り締めた。爪が肉に食い込む痛みに意識を集中させ、足元に伸びる人影を一瞥し覚悟を決めて振り向いた。周りにいるのはすべて敵。私に、味方はいないのだから。
「もう夕食は始まっているよ?」
講堂にいたリンコに呼びかけながら、セトは忍び足で逃げ出そうとしていた俺の裾を掴んだ。
「なんだよっ。俺は関係ないだろ」
あまり人付き合いの得意ではない方だが、特に琳子は初対面から苦手意識が強くあった。更に言うならば兄の翠も同じく苦手だった。まるで絵に描いたような美形の兄妹で、周囲からの評判も高く非の打ちどころがない。そんな彼らの隣に立たされてしまえば、俺は普段目を逸らし続けている自分の欠点を否応なく見せつけられるに違いない。
「もう体調はいいの?」
そんな俺の胸中など知る由もない琳子は、彼の姿を認めると優しい口調で体調を気遣った。別段俺とは親しくもないくせにと訝しんだ所でセトが補足した。
「倒れている所をリンコが見つけてくれたんだよ」
「……悪かったな。もう大丈夫だ」
「リンコも一緒に食堂へいかない?」
「!」
これは俺だから気づいたことだが、俺が苦手意識を持っていると悟った上でセトはわざわざ彼女を誘った。慈悲深いような顔して、たまにこんな嫌がらせを幼馴染に仕掛けてくるのだ。とは言え露骨に態度にあらわす訳にもいかず、複雑な心境のまま横目でセトを睨むが彼はは素知らぬふりをしていた。
「ありがとう。でも、これからやらないといけないことがあって」
「そう…」
話の区切りがついた隙を狙ってすかさその場を切り上げにかかった。
「さーいこうぜ。腹減っちゃった」
「……バイバーイ」
手を振りながら歩き出すその仕草は幾分幼い。けれど俺はわざと彼女からセトを引き離すように足早に移動した。
「まだデザート残ってるかなぁ」
これ以上余計な回り道をしたくなくて廊下を一心に歩きながらぼやいた。
食堂まで道のりは遠いく、陽は完全に暮れて外は漆黒の闇に塗り潰されていた。灯りの少ない通路はとても暗く白い大理石の柱だけが色を抜いたようにぼんやりと浮かんで見えた。
相槌もないので立ち止まり振り返る。セトは相変わらずどこを見ているのかわからない腑抜けた顔をしていた。
「お前ってさ、むかしからロン毛の女が好きだよなぁ。あれか? 初恋の相手が忘れられないとかってやつだとしたら、あいつも女冥利に尽き」
「その話は聞きたくない!」
語尾に被せるように鋭く言い放った。あまりに急なセトの豹変ぶりに驚きつい言葉を失った。こんな風に口調を荒げたセトは初めてだ。沈黙がこれまでになく重たくて刺々しい。あまり口数の多い方ではないが、こんなに黙り込むのも珍しかった。さっきの話題はそうとうの顰蹙を買ってしまったようだ。理由がわからずあれこれ悩む俺に対し、セトは冷ややかな笑顔を向けた。
「裏切り者は、もう物語の舞台に立てないんだよ」
「それって……」
チュチュの、と紡ぎかけた俺の科白を遮るように
「早くしなきゃケーキも残ってないよ」
そう呟いてセトは俺を追い抜いて駆け出した。
「あ、待てよ!」
ただちに思考を止めると俺も走り出した。ほんのりと温かみを帯びた風が身体を抜けて気持ちいい。廊下に響く俺らの駆け足に乗って懐かしい声が蘇ってきた。
『指きりげんまー…』
急に胸が締めつけられるような切なさに涙がこぼれそうになった。痩せ細った抜けるような白い指に、幼い俺の小さな指を絡ませる。まるで陶器のように冷たくて思わず身震いをした。
いつも大人たちに出入りを禁じられていた扉を開け、長い廊下を走り抜けては遊びにいっていた。恐ろしい検査なんかよりもずっと楽しくて、スリリングだったのを覚えている。
白塗りの壁に四方を囲まれ、あの人は毎日をベッドの上で過ごしていた。滅多に笑わない人だったが、あの時はかさついた口角を上げて笑ってくれた。
『嘘吐いたら 針千本のーますぅ… 指切った…』
リズムに合わせて動いていた二人の手が、歌の終わりと共に再び離れていく。どこを見ているのかわからない目で俺を捉えると『約束だよ』と囁いた。その言葉に込められた様々なメッセージを受けとめ、幼い俺はわからないながらも誓った。
―――セトを傷つける奴が現れたら決して容赦しない。与えられた以上の報復を返し、守れなかったあの人の代わりに守るんだ。あいつにはそれだけの価値がある。存在するだけで多くの迷子たちが救われるのなら、俺は、死んだっていい。
目の前を走る細い身体がもう手を伸ばせばすぐにでも届きそうだ。乱れる髪から覗き見えた口元に本物の笑顔を発見し、思わず湧き上がる喜びを隠せずに叫んだ。
「フライングだぞっ!」
久しぶりに聞いた笑い声が閑散とした廊下にこだまする。襟首を捕まえてようやく脚を止めたセトは、背中を丸めて笑った。
「ゲンジロウってば本気になりすぎだよぉ」
「バーカ。勝負に遊びはないんだよ」
肩で息を吸い呼吸を整え上下する頭を軽く小突く。薄っすらと汗ばんだ額が眩しくて、目の前にある笑顔だけは間違いないのだと自信を持った。汚れのない純真なままのセトを世界から守るナイト。それが俺に与えられた役目でもあり演じ続ける限り―――出来損ないでも存在する意味が生まれるんだ。
二人が立ち去ったのを確認し私も歩き出した。やるべき課題は沢山ある。頭の中でこれからの計画を練りながら地下の図書室へ移動した。大きな扉を押し開けるも夕食時だけに生徒の姿はほとんど見当たらず室内はとても閑散としていた。交代に食事をとりにいっているのか司書の数も少ない。
けれど、やはり彼はそこにいた。入り口から遠く離れた書架の間に佇み本を読んでいる。
「……モリア」
甘い呼び声にモリアは頬を薔薇色に染めて振り向いた。
「ど、どう、どうしたの?」
舌を噛みながら本を閉ざし、落ち着かない様子で言葉を紡ぐ。こんなにわかりやすい子も珍しいかもしれないと、彼が喜ぶ笑顔を作り用意してきた口上を述べた。
「用はないんだけど、ただ会いたかったの」
彼に私を裏切れない。いいえ、裏切れるような生半可な関係なんて、もういらない。
ただ純粋に喜びを表現するモリアを眺め恥じらいを含めて微笑んだ。するとふいに瞳に翳りを宿し、怯えた様子で私を伺いながら躊躇いがちに問いかけてきた。
「……さ、最近、キッコと一緒にいないよね」
「キッコから何か聞いたの?」
「う…ん……。リンコから避けられているって」
そして慌てて繕うように続けた。
「で、でも別にリンコを嫌っているとかじゃないよ。キッコはずっとリンコに憧れていたんだ。そ、その…ぼくとキッコって、似ているからさ…な、なんとなくわかるんだ」
「別に何があった訳でもないわ。ただ最近はベティたちとも喋るようになったから。ほら、サエが苦手みたいだから、それでじゃないかしら」
「そ、そぅ…なの?」
腑に落ちないものを感じつつも取りあえず納得する。そんな彼の傍らに移動すると、先程まで読んでいた本の表紙を覗き込んだ。
「童話?」
「この国の…で、伝承をまとめたものだよ。これもセトの収集物だったみたい」
本の裏に書かれた彼のサインを見せてくれた。
「セトがこの本も薦めてくれたから。リンコも読んでみる?」
えぇと、頷きながら彼の肩に手を置いて後ろに回った。
「やっぱり、埃がついてるわ」
「え、えっ!」
全身を硬直させ立ち竦むモリアの背を軽くはたく。腕を上げ下げさせながら彼の制服を観察した。ズボンの後ろポケットの膨らみを注視しながら
「私も前、高い所にあった本を取った時に埃を被っちゃったのよ」
指が触れるたびに彼の緊張は高まっていくようだ。素直な反応がおかしかったけれど、適当にはたいてから離れた。
「ぐ…ありがとう」
頬を染め恥ずかしげに目を逸らし呟く。どういたしまして、と答えわざと微笑んだけれど、さっきよりも落ちつかなげに手持ち無沙汰ない様子で視線を彷徨わせた。これ以上に顔を赤くされたら誰かに不審に思われるかもしれない。頃合いをはかって別れる口実を切り出した。
「それじゃ、ベティたちが待っていると思うから私も食堂へいってくるわね」
「う、うん。それじゃぁまた…」
名残惜しそうに手を振るモリアを視界の隅に捉えゆっくりと歩き去る。書架にその姿が隠れると音を立てずに小走りに図書室から出た。螺旋階段を駆け上り一階まで辿り着くと、やっと脚を止めて深呼吸をした。走った所為で心臓が激しく鼓動を打っている。額に浮かんだ汗を拭い高鳴る胸にそっと手を置く。けれど急がなくちゃ。今のうちに調べなくてはいけない。
「……可愛い…」
指に絡ませた男子寮の鍵を目線の高さまで持ち上げ微笑む。ホルダーについた古びた豚のマスコットが金属部にぶつかって音を立てた。モリアがこの鍵をなくしたと気づく前に、返さなくちゃいけないもの。
食堂にはまだまだ料理もデザートも沢山揃っていた。中でも人だかりができている特製デコレーションケーキに目を奪われているゲンジロウの傍らでセトは辺りを見回し
「全員がちゃんと参加しているね」
念押しするように呟いた。何を気にかけてるんだ、と疑問を抱いたが早速ケーキに集まる列に加わった。するとちょうど俺の前に並んでいたレオが振り向いた。
「やぁ、もう体調はいいの?」
「お前まで知ってんのかよ」
生徒たちの耳の良さに改めて辟易しながらも答えた。
「一応これでも監督生だからね。他の子もきみたちがきていないから色々と勘ぐっていたみたいだけど」
「どーせ俺じゃなくてセトがいないことにだろ」
「そらそうさ。ぼくだってまさか、ゲンジロウがゲイだとは思わなくてもついムラムラしてしまったんじゃないかって、つい勘ぐっちゃったしね」
「バイのお前にだけはいわれたくねぇよっ! だいたい俺はノーマルだしあいつとは同室で寝てるのにそんな気になる訳ないだろ」
「まったくもったいないなぁ…」
「お前と一緒にするなっ。たっく……なんだよ。それ…」
「安心しなよ。ぼくときみはまったく違うからさ」
嫌みったらしい捨て台詞を残すとレオはケーキを受け取って去っていってしまった。
「やっぱりきみは絶対に食べにくると思ってたよ」
給仕をしていた顔見知りのシェフに笑いかけケーキを受け取ると、俺はすぐにセトの元へ戻った。するとバロと何やら話し込んでいるらしい奴の姿を見つけた。
バロも俺に気づくと会釈を浮かべ、それから気遣うようにこちらの顔を見詰めた。
「ちゃんと薬は飲んだね?」
「はい。セトにも怒られたんで」
つい苦笑しながら答えるとバロは満足げに頷いた。
「きみのご両親にもくれぐれも頼むと言われているからね。今日は診察と点滴を受けてから眠りなさい」
「はい…」
バロの命令とは言え、再び針を刺されるのかと思い俺はつい肩を落とした。
「あぁ、ミス・カナムラ」
少し離れた所でツインとお喋りをしていたカナムラ教授を手招きした。彼女はツインに二、三言喋り別れるとすぐに、極上の笑みを浮かべ近づいてきた。
「お呼びでしょうか?」
生まれついての華がある彼女が動くと辺りは映画のワンシーンのように見えた。スポットライトを一身に受けたヒロインの登場に従って、脇役の俺はさりげなくバロの視界から移動した。
「後でジャックにわたしの部屋へくるように伝えてくれ」
「わかりました。私にも何かお手伝いできることがありましたら、お申しつけ下さい」
「気持ちだけありがたく受け取っておくよ。優秀な秘書が一人いれば、雑用はすべてこと足りるからね」
「まぁ、褒めていらっしゃるのかよくわかりませんわ」
口に手を当てて笑うカナムラ教授を見上げ、大人たちの会話ってやっぱりよくわかんねぇな、と思った。どこか気取って本音を見せない。その癖面白くもないのに大袈裟に笑う。今頃になって気づいたが、それはあの兄妹にも同じ感想が言えた。カナムラ教授同様に人生の主役級の二人だが、それは同時に生涯を脇役で過ごす俺とは住む世界が違うということだった。きっと彼らと共に心から笑える日はこないだろう。
会話の区切りがついたので、ここ最近ずっと聞き出せずにいた話題を持ち上げた。
「あの…俺宛に日本から手紙はきてますか?」
短い間を置いてバロは同情を滲ませた表情を浮かべた。
「いや、まだ誰からもきてはいないよ」
「…あ、いや、そうかなぁとは思ったんですけどね。…はは」
同情されるのは惨めだった。あんな夢を見たからつい恋しくなってしまっただけだと、自己嫌悪に陥る自分に言い訳しながら、手つかずだったケーキにフォークを刺した。
「……煙草の、匂いがする」
ふいにそれまで沈黙を守っていたセトが開口し、カナムラ教授をその視界に捉えた。
「セブン、スター…かな? いつもは違う銘柄を吸っていたよね」
のんびりとした口調だったが対するカナムラ教授は少し眉間に皺を寄せた。
「きっと他の教授の匂いが移ったのかしら。それにしても鼻がきくわね」
「……次、日本へ帰ったらぼくにもお土産を買ってきてね。煙草じゃなくてさ」
屈託のない笑顔のセトとは対照的に彼女の顔は一瞬だけ蒼褪めた。傍らに立つバロの表情まで硬くなった気がする。
数秒だけ流れる空気の質が変わり息苦しさを覚えたが、再びセトがこの場を和ませた。
「お腹すいちゃったよ。ゲンジロウ、一緒に料理も取りにいこう」
「あ…あぁ」
腕を掴まれセトはバロたちから俺を引き離すかのようにしてその場を後にした。
「カナムラ教授はいつの間に日本に帰ってたんだぁ?」
残されたバロたちの表情を振り返って見る勇気がなく、人混みに紛れてからセトを呼び止め問いかけた。
「ん~……向こうで展覧会に出品しているらしいよ」
ただそれだけでバロが反応する訳がない。だけど今のこいつは絶対にすっとぼけた返答しかしないとわかっていたので黙っておいた。
「ねぇ、ゲンジロウ。何か聞きたげだね?」
近くのテーブルにあったピザを皿に盛りながら、確信に満ちた声で呟く。疑問符をつけているが、早くも俺の質問に耳を傾ける態度をとっていた。
「聞きたいことは山ほどあるんだぜ。でも、どうせ答えてくれねぇだろ」
「気分次第だよ。今の『ぼく』ならすこぉし口が軽いかもしれないよ」
からかうように目を細めるセト。なで肩からのラインが猫で妙な色気を感じたが、レオの言葉を思い出し慌てて頭を振ってごまかした。
「……俺はお前のすべてを理解しようとは思っていない」
絡み合った言葉を丁寧に解き、ゆっくりと気持ちを整理しながら紡いだ。
「だけど俺は絶対に、裏切らない。それにここにいる時点で俺たちは同志だろ? いつ、ユンを仲間にしたのかわかんねぇし、ベンジャミンをどうしてパルトロに選んだのかも敢えて聞かねぇよ。だけどユキオさんの意思を貫くなら、あの転校生には関わらないでくれ」
「……どうして?」
「あいつらは…俺たちの仲間になれない。むしろ他の女に優しくする暇があるなら、ティルとちゃんと話をつけろよ。このままじゃ口先だけで結局、お前も……大人のいいように動かされてるだけじゃねぇか」
「話はしたよ」
セトはピザを口へ運びながら答えた。
「もう彼女とぼくの接点はないけど、向こうが勝手に疑っているだけだからさ」
「疑って?」
セトは時間をかけて咀嚼しゆっくりと飲み込むとほっと溜息を吐いた。
「大切な人を奪ったのは、本当はぼくなんじゃないかって疑っているんだ」
セトの口が不気味に歪むのを見て背筋に冷たいものが走った。時々彼はそんな顔をする。まるで迷路で右往左往し出口をいつまで経っても見出せずにいる俺たちを頭上から眺め、心から馬鹿にしたような冷たい笑い方を。
「そうだ、先生から冬休みを利用して検診をするって連絡がきていたよ」
「あ、あぁ…えっと……」
うまく呂律が回らずしどろもどろになる俺を一瞥し、ふっと苦笑した。
「怖いの? ちょっと細胞を取って検査するだけでしょ? ドックみたなもんだって」
「……むかしからあそこには慣れねぇんだよ」
からかわれていることに気づき不貞腐れながらぼやいた。俺は年に数回日本で行われる検診を受けることが義務付けられていた。病院の別塔に用意されたフロアに入る前に俺の身体は完全消毒される。そして白衣をまとった大人たちがいつも、見かけだけの笑顔で出迎えてくれるのだった。
―――それも俺の肩書きの威力だ。
それは亡きゲンジロウから受け継いだ肩書き。重みもありがたみもないが、時々無性に邪魔で、悔しいくらいの自己嫌悪に彼を陥れるだけの効果があった。
―――立派な両親様から生まれた俺だから同じ細胞を、DNAを持つ俺だから間違っても死んだ人間に劣る訳がないんだ。
「生まれる前からあそこにいたのにな……」
俺は科学の力で生まれたクローン人間だった。日本の政界に於いて巨大な影響力を持つとある政治家夫妻の子どもが、ある日突然亡くなった。それまで健康体そのものだった子どもは、死後の検査により先天性の疾患があったことがはわかった。そして少年の有事の際に臓器提供ができるようにと出生と同時に作られていた人工の命に、亡くなった彼の『源次郎』の名前が受け継がれた。最初は子を失った痛手から両親も本当の子どもとして可愛がっていたが、時が心の傷を癒すにつれ倫理的観念から見た俺の存在が邪魔になりここへ押し込めた。
悲しむ理由はどこにもない。始めからあの人たちにとって、俺の価値はいざという時の保険だったんだから。毎月途切れずに送られていた両親からの手紙が、いつからか届かなくなったとしてもそれは仕方ない。生まなければよかったって、思われていることも知っていた。悲しみを紛らわせる為に作ったものの、成長するうちに亡くなった源次郎との違いが明らかになり、周囲の目も気にしなければいけなくなって扱いに困っていった。
『お宅のお子さんって、失礼ですけどお亡くなりになっていたんじゃないんですの?』
近所のお喋り婆の追及にしどろもどろになりながら、母親はこう答えていた。
『双子の姉の子どもなんですのよ。今は受験勉強の為に預かっているんですの。亡くなった源次郎とよく似ていて、つい同じ名前で呼んでしまいますのよねぇ』
口元を隠し上品に笑う母と呼んでいた彼女の背中を見て俺は自分の未来を予感した。
―――死んだはずの子どもが生きていていい訳がない。じゃあ、俺はいつか殺されるのか? もう、二人と一緒にいれないかなって。それでも飛行機の切符を渡されるまではわずかでも、心のどこかで期待していた。
例え死んだ源次郎に劣ったとしても、今の自分を息子として認めてくれていると。しかし予感は見事に的中した。俺は遠い異国のこの学校に押し込まれ、恐らく死ぬまで日本に帰れない。
でもそれも、仕方ない。と思うしかなかった。現実はいつだって冷たくて、子どもたちを生み育てそして選ぶのは大人たちの役割だった。
―――俺は生まれてはいけない子どもだったから。不条理であろうとなかろうと。それは揺るぎない事実として突きつけられ続けた。
生徒たちが本館で授業を受けている間、寮の入り口には鍵が閉められ原則として授業が終了するまで入れない。だからこそ女の私が男子寮へ忍び込めるのは、学校全体が生徒会の再結成を祝い喜び、宴を行っているこの時間帯だけだった。
年季の入った扉の錠に鍵を差し込む。白い息を吐き出しながら、かじかむ指に挟んだ真鍮の鍵を半回転させるとカチッと音を鳴らした。
ようやくやんだ雪が辺り一面を白く染め、その上を駆ける風の音の他は何も聞こえないの。なのに、さっきから誰かの視線を感じていた。身震いをしてから羽織ってきたマントの首元を握り締める。背筋を撫ぜる冷たい風が不穏な気配に怯える私を嘲笑っているみたい。背後に広がる闇からすれば取るに足らない小娘に過ぎないのに。
そっとノブに当てていた手に力を込めてみる。強く押すと厚い木の扉は軋みながらゆっくりと開いた。
夜の闇とは異なる暗い廊下が目の前に広がっていく。女子寮と内部構造はすべて同じだけど、丘の上にある校舎から向かって女子寮と左右対称に建っている為、多少の位置関係の違いはあった。
多分目的とする部屋は最上階の三階だろう。何故か彼は人よりも新鮮な、汚れのない空気を求めているような気がしたけど、郵便受けのネームプレートを確認するとその予想は見事に的中していた。
玄関口のすぐ傍らにある管理人室の扉から淡い光が漏れている。男の話し声がしているけど、誰かと電話をしているのか一方的な声しか聞こえない。腰を屈めマントを頭から被り、衣擦れの音にも注意を払いながら扉の前を抜ける。
こうして大人の目を盗んで走るのは母の葬式以来だった。
母は三段階のうちどこに区分されていたのだろう。道の先まで導いてくれるグドゥ? それとも家庭から邪魔者扱いされ、ここに押し込められたイヒヌゥ?
いえ……まさかそんな訳がない。お祖父ちゃんにもお祖母ちゃんにもとても愛されていた。けれどすべて型にはめられて生きていくグドゥもあの人らしくはない。きっとどこまでも信念を貫き通そうとするから、一部の教授たちから見れば可愛げのない生徒だったに違いないわ。
階段を上がる間、私はずっと母について考えていた。
わからないことや知らないことが多すぎて、彼女と一緒に過ごした時間の短さを痛感する。もしもっと生きていたなら、何らかの形でそれらの疑問に答えてくれていたかもしれない。ずっと傍にいたのに。親子だったのに、彼女は語ってくれなかった。すべての謎と共に闇に葬られた。
棺の中の顔が最後。白い百合で美しく着飾り綺麗に化粧が施された顔はどこか殊勝としていた。あの人と、もう、一緒に作る思い出もない。
…負けたのかもしれない。
私たちが何も知らずに生きていくのを望んでいたとしたら、私は負けている。悔しくて、己の無知さを馬鹿にされるのが辛くて翠と張り合おうとしていた。どんなに努力したって翠には敵わない。敵わないからこそ認めて欲しかった。
私という人間がここにいることを―――
階段を終え廊下に出る。人の気配など一切なく耳を貫く沈黙は寂寥としていた。灯りをつける訳にもいかないので、窓のわずかな射光を手がかりにネームプレートを確認して回った。
一番突き当たりにある部屋のプレートを見つけ、喜びに思わず胸が飛び跳ねた。
『Genjirou Natusige
Seto Itinose』
名前を反芻しドアノブに触れ軽く回してみる。鍵はかかっていなかった。深呼吸と共にゆっくりと押し開けた。
隙間から身を滑り込ませ素早く後ろ手でドアを閉める。手探りで窓枠まで移動すると静かにカーテンをひき持参したペンライトを点灯させた。
ライトを動かし室内を見回す。どうやら左半分がセトのスペースらしく、壁一面に様々な絵画や写真、ポスターが飾られていた。机もきちんと整頓され、一目で何がどこに収納されているのかがわかった。対するゲンジロウの机はやや乱雑で、教科書などが高積みにされていた。
年頃の男の子って掃除もちゃんとできないものなのかしら。
つい顔をしかめつつもセトの机に向かい早速引き出しを開けた。文具や小物がきっちりと収められている。意外にも几帳面な性格なのだろうか。二段目、三段目とも同じだった。半ば諦めた面持ちで最後の四段目に手をかけたその時。その引き出しだけ鍵穴があることに気づいた。一抹の不安が頭をよぎる。もしかして鍵をかけられているかもしれない。けれど、私の不安を他所に引き出しはすんなりと開いた。まるで鍵を取り払い、私がそれを開けてしまうのを予め予想していたみたいに。
ライトが照らす中身は驚くくらいもので溢れ、それらが微妙なバランスを保って押し込められていた。本当にこれがセトのものなの? と疑いたくなるような可愛らしいヌイグルミから大きいものでは図鑑に至るまで様々なものがある。とりあえず一番手近な所にあったノートを取り出した。
それはアルバムだった。日づけはないけど舞台はこの学園だ。生徒たちの授業風景や談話室の様子など、取りとめのない日常を写したものばかり。見覚えのない生徒だけど在校生ではないように思えた。
一通り眺めて閉じようとしたがふいに違和感が残り、再び最初からめくってみた。真ん中あたりのポケットに入れられた写真が妙にごわついている。もしかして、と思い抜いてみるとやはりそこだけ写真が重ねて入っていた。
半袖姿の幼い二人の男女がこちらに向かってポーズを決めて立っている。背景はどこかの公園のようだ。フリスビーで遊ぶ子や散歩をする人々がちらほらと写っている。金色の巻き毛とふわふわの栗毛は淡い陽光を受けて輝き、人懐っこそうな笑顔は現在の彼女らからは到底想像できない。
ティルとベンジャミンは……ただ、恋人というだけの関係ではなかったのかもしれない。
何歳頃の写真だろう。五、六歳くらいかもしれない。
こんな風にティルが笑った所を見た時がなかった。思えばルームメイトなのに私は彼女について何も知らなかった。消えたベンジャミンが最後に付き合った女性というぐらい。いつもコルスティモと呼ばれる彼女の噂に嫌悪して、知らず知らずのうちに母親の醜態を重ねて避けていた。けれどこうしてティルも普通に笑えるのだとわかった今、先入観に振り回され軽蔑するのは、周りと他の生徒たちと大差ないかもしれない。
隣で笑うあどけないベンジャミンと共に脳裏に焼きつけアルバムを閉ざした。
何だかやりきれない。もしも本当にベンジャミンが殺されたのだとしたら。わからないけどただ一つ言えるのは、ここは、おかしい。大人たちが邪魔な子どもを始末する為にあるなんて、信じたくはない。
「……でも、私も同じか…」
深い嘆息と一緒に漏れた言葉は、辺りの闇に溶けるようにして消えていった。
お母さんも、私たちが邪魔だったのかしら。だからここへ転校させたのかもしれない。心のどこかで翠と私が人知れず消えていくのを期待していたかもしれない。
だけど何故か胸が締めつけられるように痛かった。
…コトッ
床下で物音がした。もう誰かが戻ってきたのだろうか。
慌ててアルバムを元の位置に押し込み引き出しをしめようとしたが、奥で何かがひっかかって動かない。ライトでその正体を探ると、花瓶の脇から木箱が飛び出ていた。アルバムに隠れて見えなかったらしい。
木箱を取り出しもう一度、引き出しを戻すとすんなりと収まった。それを見てホッと胸を撫で下ろす。けれどこれはどうしようと逡巡し、膝の上に載せた箱を軽い気持ちで蓋を開けてみた。
「きゃっ!」
開けた途端に溢れ出た黒い毛髪に驚き、反射的に箱を突き飛ばした。
心臓が早鐘を打つ。指に絡まった毛が底知れない怨念のようなものを匂わせ、恐怖に身を縮ませ躍起になって振り払った。暖房はきいているのに制服が汗ばみ、全身が小刻みに震えていた。何故かそれまで何とも思っていなかった闇が急に恐ろしく思え、その感情を抑えようとすればするほど呼吸が難しくなった。
風が窓ガラスを叩く音に、あの嵐の記憶が重なる。頭の奥で耳鳴りがした。アスファルトに激しく叩きつける雨が太鼓のよう。今は傍には誰もいない。闇に身をひそめ、こちらを狙う化け物はどこにもいない。
雷は……鳴って…翠は灯りを探しに…いったのよ。
大丈夫。大丈夫だから…。
私は、何も、何も見ていない。覚えてもいない。
「……ハァ…」
呼吸が楽になると、床に散った髪の毛に気づき焦りを覚えた。つい恐怖心に心が萎えて涙腺が緩みそうになったが堪え、喉元まで上っていた感情を必死に飲み込んだ。
とにかくこのままでは探せない。自殺行為になるかもしれないけど―――立ち上がり部屋の明かりをつけた。スイッチを押すと同時に乳白色の光が頭上で破裂する。眩しさについ顔をしかめたが、辺りの明るさに慣れると、床一面に広がる黒髪に紛れ落ちていた一本の白い棒に気づいた。
もう随分と前になるけど私はそれを壷に入れたことがある。長い箸で、翠と一緒に壷に納めた。だから見間違える訳がない。
「……う…そ」
黄ばんで小さく欠けていても、それは人の骨に違いなかった。
宴は月が高く昇るにつれ盛り上がりを見せ、教授たちも生徒に紛れて騒いでいた。けれどそこには早くも主役たちの姿は消えうせていた。
彼らはどこにいるのだろう。
細い通路を手探りに進み、覗き穴で外を確認しながら『ぼく』は新たに生徒会長に選ばれたミドリと副会長のキサメの姿を探した。ちょっと目を離した隙に二人は食堂から抜け出していた。バロにばれたら怒られてしまう。もっとちゃんと見張らないと駄目だろうって、殺されちゃうかもしれない。だからいつもより慌てて通路を駆けた。
「……こんな所にあった」
暗闇の向こうから声が聞こえた。もしかして、と思い次の角を右に回るともっと明確に聞こえてきた。
「ふぅん。どうやらきみには、探偵の素質もあるのだね」
感心する口調だけど、どこか冷ややかなキサメの声。間違いない。あの二人だ。頭の中で学内の見取り図を描きながら石造りの壁の中から覗き穴を探す。きっとここらへんなら生徒会室だろう。指先の感覚を頼りに石を動かすと、やっと肖像画の瞳に開けられた穴が出てきた。普段はあまり生徒会室なんて見る機会もなかったので、石が硬くなっていて手間取った。
深緑のソファに腰を下ろすキサメとティカップを傍らに、机に向かうミドリの背中があった。それを見て激しく後悔した。まだあそこはちゃんと片づけていなかった。前任の生徒会長たちは、すべてバロが望むがままに動かしていたので生徒たちの資料もまとめて管理させていた。ある程度は処分していたものの、実際に新しい生徒会が始まるのは明後日からだったのでつい油断していた。
「編入期間に出入りした生徒数を除くと、入学時の数と卒業時の頭数がどの学年でも、毎年数人ほど足りない」
「つまり…ぼくら、生徒の知らない間に消えた生徒が過去大勢いるという訳だね」
「それも七年前の女子生徒失踪を皮切りに行われている」
「女子と男子の割合ではどちらが多いのかな?」
「名簿を見る限り女子の方が圧倒的だ」
「美しい少女たちが消えていくだなんて、可哀想でならないね」
深い嘆息を吐き出し、凭れていたソファから身を乗り出すとテーブルに置かれていたカップを取った。
「一連の事件にバロが関わっている証拠があれば、薬と引き換えにできるのだがね」
キサメの独り言にふいに反応を示すと、座ったまま上体をひねり彼に顔を向けた。
「その秘密を、お前はどうして知ったんだ」
質問というよりも詰問に近い口調。彼の面立ちは冷ややかな悪意に満ちているように思えたが、そんな態度を楽しむように口元を緩め
「わかりきったことを聞くなよ」
と答えた。
「ぼくがどうしてここに送り込まれたか、そして父の正体も知っていれば自然とわかる謎々さ。なんたって世界中があの薬を欲しているのだよ。最も怪しまれずに内部を調査できるとしたら、子どもに頼るしかない」
カップの中身を啜り一点を睨みつけると
「世界中に学校を建てるのがバロの夢なのだ。だけど大人に見る夢はない。いつも目の前の現実に戦い挑めばいい。それ以外に彼らの存在意義はないのだって思い知ればいいのさ」
普段の彼からは到底想像もできないような、情け容赦のない憎しみを感じてかさすがのミドリも閉口していた。
「……納得いったよ」
「何がだい?」
「母親を追い出した父親の指示に、ただ素直に従っているとは思えなかった。諸々の費用だけを支払わせて、秘密を手に入れた後は逆に脅迫しようって魂胆なんだな」
「まぁね。彼はぼくの大切なものを奪った。アートにかける情熱も無理やり奪おうとしている。それならそれ相応の報復を受けるべきだ」
ミドリの手元に広げられた分厚い名簿を忌々しい思いで睨みながら、『ぼく』はどうやってこのことをバロに報告しようかと必死に考えた。
大人に背こうと…反逆者だ……。だけど頭の奥で誰かが激しく反論していた。彼らの言うことが正しくて、所詮はバロも子どもを手駒としてしか見ていないのだと。
そうじゃない。本当は薬だって―――
嘘吐きめっ! お前はいつも嘘しか言わない。
争い事は沢山だ。頼られるばかりで何も得られない。
―――大勢の声が重なって大合唱になる。醜い言い争いに耐え切れず『ぼく』は耳を塞ぎその場に座り込むと、意識を手放した。
「じゃあ今日はここで眠りなさい。点滴もゆっくり落とすから」
ドクター・アンジーはそう言って俺の腕を離すと、すぐに踵を返してベッドから離れていこうとした。
「自分の部屋で寝たいなぁ。医務室の枕は硬いんだよ」
「なぁに子どもみたいに駄々をこねているの、って子どもだったわね。ファルバロには私から伝えておくから、一晩くらい我慢しなさい。それとも校舎に一人残されるのは怖いのかしら?」
図星を指され思わず返答に詰まった。それを見てドクター・アンジーは吹き出し、ベッドの近くに椅子を持ってきた。
「貴方が眠るまでここにいてあげるわ。子守唄でも歌ってあげようか?」
「い、いらねぇよ!」
「代わりに一服だけさせてもらうわね」
返事を待たずに携帯灰皿を取り出すと、慣れた手つきで煙草に火をつけてうまそうに煙を吐き出した。病人の前で校医が煙草を吸っていいのかどうか疑問だったが、少なくとも彼女が傍にいてくれることで気持ちが楽になった。
「それにしても宴も最中に、ファルバロはどこにいっちゃったのかしらね」
「……あいつなら心配ないよ。あぁ見えて、しっかりしている時もあるから」
「そう? 付き合いの長い貴方が言うなら間違いないんだろうけど、未だに私は彼を理解しきれていないわ」
眉間の皺をより濃く刻みながら人差し指を立てて続けた。
「ある程度見ていたらどの子も、あぁこんな性格なのねぇってわかるのよ。でも彼の場合はそうはいかないわ。こっちが心配するくらいぼんやりしているかと思えば、突然人の心を読んだようなことを言うし。でも驚くほど親切に接してくれるって関心した次の瞬間には、誰かの宝物を踏みつけても平然としていたりする」
よくわからない子よ…とぼやくドクター・アンジーの横顔を見やりながら、幾分眠たくなった頭で俺は答えた。
「それがセトなんだよ」
顎が外れるくらい大きな欠伸をすると一気に瞼が重たくなった。点滴に睡眠薬も混ざっていたのか、それとも疲れていたのか。
「……あいつの中には…いっぱい…いる…」
途切れ途切れに呟くうちに力尽き、温かな毛布が肩にかけられたのを感じたのを最後に意識は夢の世界へ飛び立った。
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