失われた子どもたちの童話集  ――This is the story of Lost children.

青海汪

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第二部 首を繋がれた王と姫君

第十三話 狂宴へ招かれた○番目の山羊

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第十三話 狂宴へ招かれた○番目の山羊
 
 ―――This is the story of Moria.
 
 ぼくが生まれた家には誰も知らない秘密の通路があった。明治から建つとても古い家屋で、何度も改築を重ねた結果その通路が隠されてしまったらしい。
 そこへは家主であったお祖父ちゃんの寝室の押入れから、天井の羽目板を外さなければ行き来できなかったので家族の留守を狙ってはよく忍び込んだ。わずかに漏れる灯りを頼りに細い通路を進むと、キリノ家が何よりも隠したがっていた残虐な死刑道具たちをしまった部屋へ通じる。
ぼくは微光を受け鈍い輝きを発する斬首台に凭れかかり、持ってきた懐中電灯で本を読むのがとても好きだった。冷たい石畳の床の感触も、長年閉じ込められてきた重たく黴臭い空気も、すべてが好きだった。
 一族が行ってきた残虐非道な行為に使われてきたこの道具たちは、自由と平等を掲げるこの時代から置いてきぼりをくらって今は邪魔者扱いされている。
望んで人を殺す道具になりたかった訳じゃない。
 望んでこの家に生まれた訳じゃない。
 居場所を取り上げられた道具たちとぼくは、よく似ていた。
そしてこの学園も―――
 「例の件は着々と進んでいるよ」
 図書室で本を読んでいたぼくは突然の呼びかけに驚いて顔を上げた。見るとテーブルを挟んで向こう側に、いつの間にかセトがぼくを見上げていた。
 「い、いつきたの…?」
 驚きのあまり早鐘を打つ心臓を押さえ、しどろもどろに答える。けれどぼくの問いを聞こえなかったように無視すると
 「何も心配いらないから、安心して」
と繰り返した。いつもと違うセトの雰囲気に気づき、ふっと冷静さを取り戻した。なんだか表情が硬くて目の焦点が定かじゃない気がする。訝しむぼくを尻目に椅子の上で両膝を抱えると、虚ろな眼差しを遠くへ向けて独り言のようにぼやいた。
 「モリアはイヒヌゥでも、仲間だから。……にだって、文句は言わせないよ」
 珍しいセトの様子に感化され落ち着かない気持ちで唾を飲んだ。心臓がドキドキとうるさく掌にもじっとり汗をかいていた。
 例の件とは先日頼んだことだろう。ぼくがそれを頼んだ時、色々な問題があるとバロに渋られたけれどセトは了解してくれた。法律的に問題があることだけど、本当にぼくが望むならきっと叶えてあげるよ、と約束してくれた。
 ぼくの願い。
 天井にまで届く巨大な書架を見回す。ここには読みきれないほどの本がある。けれどあの家のように隠された沢山の罪があった。
 ぼくが犯した罪。
でもセトは認めてくれた。重大な罪を背負ったぼくを仲間だと受け入れてくれた。もし本当のぼくを知られたら、世界中の人々から後ろ指をさされ一生を棒に振ることになる。
「……!」
ぼくを嘲笑う人々の声を聞いた気がして背筋に冷たいものが走った。
真実を知ったら世界がぼくを見捨てるんだ。取り残されて…生きて、いけない……
「…ぼく……」
押し込められた恐怖が言葉に変わり乾いた口から空気が漏れた。心の中で何度も繰り返し、後悔しないと決めたその言葉を口にするまで数秒の時間を要した。
「セトと一緒に生きたい―――」
渾身の力を込めて呟くと、無表情だったセトが初めて頬を緩めて微笑んだ。
 
 
 美術の授業は新しいモチーフを使って静物デッサンを行った。
 モチーフは白いロープと煉瓦が二つと、青いハンカチ。それと赤い林檎かバナナを選び、それぞれを構成して三時間で完成させなければいけない。私は煉瓦を横に二つ積みその上にハンカチを乗せ、右手前に林檎を置き空いた左側の空間をロープで補った。全体のバランスが整ったのでカルトンを膝に乗せ、描き始めようとしたら後ろからカナムラ教授の声が飛んできた。
 「これじゃぁハンカチと林檎って、トーンの濃いものが右側に集中しているわ」
 普段は小奇麗な服装をしているけれど、授業の時はデッサンのように大して汚れることもない作業でも必ず作業着姿になるカナムラ教授は「ちょっといいかしら」と断って、ロープと林檎の位置を換えた。
 「ついでだからロープを巻いて煉瓦にも絡ませてみると面白いわよ」
 彼女の助言に従ってモチーフを直し、再び描き始めようとしたがずっとカナムラ教授が背後にいることに気づいた。生徒たちがデッサンに集中して辺りは静まり返る。けれど背中に貼りついた彼女の視線を感じ、モチーフの形を取るふりをして画用紙の隅に
 『後見人とは親しい仲なんですか』と書いた。
 するとふっと背後から移動し、教室内を回り始めたのですぐに文字を消しデッサンを始めた。
 三十分ほどしてモチーフの形を取り終え、大まかな明暗をつけていこうとした私の横に再び戻ってくると筆箱から鉛筆を取り出し
 「ここはもう少し曲線をつけた方がいいわ」
 と言いながら、画用紙の端に『セリサワは素敵なお友だちよ』と書いた。
 「それとぉ…B以上のもっと柔らかな鉛筆で影は描いた方がいいわ。細かい所にいくにつれ、今みたいな硬い鉛筆を使いなさい」
 『セトとのデートは楽しかったかしら?』
 消しゴムを取り出し彼女が書いた文章を消すと、フフッと笑いを残して再び巡回に戻った。遠のいていく彼女の後ろ姿を睨み、芹沢さんに近づいた目的について改めて考えた。
あれから芹沢さんからの手紙は届いていない。けれどあれだけ母を崇拝していた人だ。きっとユイコさんとも連絡を取り合っているに違いない。しかしカナムラ教授とユイコさんが、繋がっている可能性も捨てきれない。一方は学園に在籍しもう一方は日本で、芹沢さんに近づき…
でも何が目的なの? もしかして彼女たちも、一見して学園側の人間と見せかけて違うのかもしれない。そうだとしたら、何を置いても欲しがるのは例の薬についての情報だろう。私の父親が関わっていたならば母の身辺調査から始めるのが常套手段ではないかしら。カナムラ教授は私について調べ、日本にいるユイコさんは母について調べる。
 彼女はバロの息子の、大切な人と友だちだった。きっと重要な鍵を握っているに違いない。でもどうやって接触しよう。と、考えてベンバー教授のことを思い出した。彼もバロの息子や、ユイコさんと同窓生だった。ユイコさんに近づくよりも手っ取り早い。
 けれど母についてベンバー教授は固く口を閉ざしている。
 鉛筆を変えて濃淡をつけながら閃いた。
 そうだ。彼は何よりも私とキッコのことを気にかけていたのだから……彼女を利用しない手はない。今日の時間割を思い出し、その中でキッコと接触を図る機会がないか考えた。
 
 
 授業を終えて談話室にいくとやっぱりキッコの姿があった。最近キッコはよくここへくる。リンコと疎遠になって以来、急にお菓子を食べる量が減ったらしく前より一回り痩せちゃったみたいだ。
 ぼくに気づくとキッコは嬉しそうに目を細めた。
 ソファに腰を下ろすと「いよいよ明日からガドレね」と呟いた。
 そこに込められた意味を理解しつい口を閉ざす。みんな平静を装っているものの内心では明日がくるのを怯えていた。今年もガドレが始まってしまう。正気から開放された狂気が渦巻く、あの宴が明日行われる―――
 「楽しみだわ。二人は何を着るの?」
 聞き覚えのある声にキッコと同時に振り向いた。
 「ふふっ。シュカからお下がりのドレスを貰っちゃったの」
 肩を竦めてリンコがペロッと舌を出して微笑んだ。
 あまりに意外だった彼女の登場にキッコはしばらく呆然としていた。でも氷が解けるようにみるみると顔を赤らめると、泣き出しそうな顔で
 「あ、あたし…着物を…」
 「すごい! 着つけができるのね!」
拍手を送りながらキッコの傍らに回ると、手近な所にあった椅子を持ってきて腰をかけた。
 「モリアは? もしかして袴?」
 「ま、ま…さか」
突然話題を振られて思いっきり舌を噛んでしまった。
「ぼ、ぼ、ぼくはタキシードだよ」
 舌先の痛みについ涙をこぼしそうになりながら答えるとリンコは目を輝かせてくれた。
 「きっと似合うわね。明日がすっごく楽しみ!」
 どういうことだろう。でもリンコがこうしてキッコの元に戻ってきてくれて、言葉にできないくらい嬉しかった。久しぶりに見るキッコの笑顔が眩しい。三人でまた仲良くお喋りできるこの時間が、かけがえもない大切な時だと実感した。
 「ねぇリンコは、今年は誰が乙女に選ばれるって思う?」
 いつもの調子を取り戻したキッコが明るい声で話しかけた。
 「去年はシュカだったんでしょう? う~ん…なかなか難しい予想ねぇ……。セトの好みの子が選ばれるんでしょ」
 「う、噂ではそう言われているけど、実際はち、違うって言ってたよ」
 「それはセト本人が?」
 「う、うん。な、なんでも、内緒で不特定多数からアンケートをとって、それで選ぶんだって」
 「じゃぁミス・メール・ヴィってことなの? でもそうじゃなきゃ、さすがにセトの好みで選ばれたら偏りもでちゃうよねぇ」
 キッコに同調しながら、ぼくは内心で今年はリンコが選ばれたらいいのになって思った。
 「サエが乙女に選ばれたら、翠も振り向いてくれるかしらって騒いでいたわ」
 「それならもうパートナーを頼んだのかしら?」
 「パートナー?」
 「うん。ガドレでダンスパーティがあるのよ。別に踊らなくってもいいんだけど、カップルたちはこぞって出てくるの。もぅ日本と感覚が違うって言うか、すごいのよぉ。見ていて顔を覆いたくなるくらい、熱々ぶりを見せつけてくるんだから」
 と言うものの、密かにそのパーティにカップルで出るのが生徒たちの楽しみにもなっていた。パートナーを組んだ相手とは一年間公認の仲とされるので、ガドレは多くのカップルの誕生にも一役買っていた。
 何人かリンコをパーティに誘うっていう話を聞いているので、ずっと気になってしかたがなかった。けどこの調子じゃまだリンコはパートナーを選んでいないようだ。
 「リンコはもう決めたの?」
 「う~ん……誘われたけど、私、踊ったことないから断ったの」
 「え! それって告白を断ったことと同じ意味になるのよ!」
 「あら、そうだったの?」
 両目を大きく見開いて驚くリンコを見て、キッコと同時に吹き出してしまった。何だか普段大人っぽいイメージがあるから、こういう所がとっても可愛い。
 
 
 しばらく三人で取りとめのない話を繰り返してから、モリアと別れた。私の後をついてきたキッコはしばし、ベティたちのことを気にかけていたが
 「四六時中、一緒にいる訳じゃないわよ」
 と明るく笑い飛ばすとすぐに元の調子を取り戻した。次の時間に授業を入れていなかったので、また適当な話をしながら二人で校内を巡回した。一階まで下りて噴水の間に向かって歩いていくうちに体感温度が下がっていくのがわかった。
 前方に馬蹄形アーチが見える。そこから聞こえてくる噴水の音に耳を澄まし、なんとなしにそのまま直行してみた。室内にも関わらず薄っすらと白い霧が漂う女神の像へ近づき、その足元に踏まれた王冠を見る。
 「この女神像も卒業生が作ったのかしら?」
 腕をさするキッコに問いかけると、しばし考え込み
 「ベンバー教授が教えてくれたんだけど、それは、バロの亡くなった息子が在学中に作った唯一の作品らしいわ」
 「バロの、息子が?」
 「うん……ほら、その女神の右腕。剣を抱えているけど、脇に微妙な空間があるでしょ? 完成当時はそこに本が挟まれていたらしいんだけど、いつの間にかなくなっちゃったんだって」
 再び女神の像を見上げ感嘆する。そういえば彼女が掲げる剣は、あの寺院で見た剣とよく似ている。刃にも読めないけど文字らしいものが刻まれていた。
 王冠を踏みにじる乙女―――
 バロはここでは王に相応しい権力を持っているのに、それを否定的に捉えるようなポーズ。それに王冠に刻まれた『Dina da doo.』の意味は本当に鍵をかけて錠を飲み込めというだけなのだろうか。随分と前にモリアがその意味を調べてくれると言っていたけれど、もう忘れてしまっているかもしれない。
 「ねぇリンコ。あたし、リンコに伝えたかったことがあるの」
 落ちつかなげに視線を漂わせたまま佇む彼女を見守る。しばし逡巡する様子だったが、意を決した表情をすると、真っ直ぐに私を見据えた。
 「ベンバー教授は九月の…リンコのお母さんが亡くなったその日まで、日本に滞在していたの」
 全身を電流が駆け巡るような衝撃が貫いた。彼女の言葉を何度もこだまさせ、その意味を必死に考えるうちに葬儀の後、私も翠も事故死として片づけられた母の死を疑問に思っていたことを思い出した。
 『犯人がいるとしたら…利益だけが目的じゃないかもしれない』
 エレベーターの中で自分が発したあの科白が克明に蘇る。そうだ、利益を目的とした犯罪じゃなければ、ベンバー教授が何故日本に滞在していたかその理由も限定されていく。
 死ぬ前に突然私たちをここへ転入させたいと言い出したその背景に、あの男が大きく関わっている。
 「あたしさ…リンコのことがすっごく好き。憧れているの」
 黙り込んでいた私に再びキッコが語り出す。
 「でも、何となく気づいてた。リンコは沢山悩んでいて、それは誰にも言えないんだって。ルゲッツって呼ばれた原因にあるんじゃないかなって…」
 「……」
 「だからさ、あたしは自称リンコの一番の友だちになろうって決めたの。あんなひどい噂流したりして…本当に悪いことをしたって思っている。リンコが傷ついた分、あたしを使って!」
 明るく跳ね上がった語尾がホールに響いた。幾重にも重なり落ちてくる彼女の嘆願に耳を澄ませていると、歩み寄りキッコは私の手を握り締めた。
「あたしはリンコの手となり、足となり…なんでもするわ。ファルバロのことだって調べられることなら調べる」
 真摯な眼差しを向ける。自分の指と比べてとても温かなキッコの手を眺め、胸を押し潰そうとする感情を耐えた。冷静な判断を持って、この子が私にとって有益な存在となるかどうかを見極めなければいけない。
いけないけど……わかってはいるのに、胸の高鳴りを否定することはできなかった。
脳裏に走馬灯のように蘇る『友だち』を語る他人との思い出。喜びも悲しみも、怒りも憎しみも、何一つ共有することができず上辺だけの付き合いを続けてきた私。不要であれば切り捨て必要であればまた接近する。キッコに対しても、ベンバー教授への足掛けのつもりだった。
なのに、どうしてこんなにも心が揺れるのだろう。
裏切りに傷つき、怒りを伝える代わりに彼女から離れた私。ベティたちといても、本音で語り合える相手がいないことがひどく悲しかった。
―――どうして、気づかなかったのかしら。
憎しみも怒りも……悲しみも、私はキッコに伝えていた。そして今、この胸を震わす感情こそ、喜びというのだろう。
 「どうして…私なの?」
 「リンコがあたしの理想だから」
 彼女は即答した。
「あたしにないものを持っているリンコが、大好きなの」
 きっと、その言葉には嘘も偽りもないだろう。彼女は心の底からありがままの私を受け止めようとしてくれている。
温もりのある血の通った指がとても懐かしかった。ずっとこんな温かみを忘れていた。
「私は…」
 掠れた声で込み上げてくる思いを言葉に変えた。
「私を好いてくる人が、何よりも嫌いなの。何故なら私に…一方的に理想を押しつけて、それが真実ではないと気づいた時。容赦なく切り捨てられるから」
自分たちこそは家族だと信じたあの頃の気持ちも、誰かに想いを寄せるその言葉も、すべては一方的に相手と自分に盲目しているだけなのだから。人と人との関わりに確実なものなんて何もない。
「必要に迫られたら容赦なく…裏切るわ」
私の宣言にキッコは真っ赤になった顔でかぶりを振った。
「それでもいいの。ここに入れられた時点で、あたしは家族から見捨てられたから」
と静かに笑いながら涙を流した。
「初めて会った時からわかった。リンコはあたしたちと違うって。社会や家族から邪魔者にされて、ここに押し込められたんじゃない。見捨てられたってことを認められなくって、選ばれたんだって思い込もうとする…あたしたちとは違う。リンコは…」
『リンコの瞳は、いつも、真実を探している』
彼女は静かに言い放った。
 
 
 午前の生物学で使う参考書をロッカーへ置こうと、廊下を歩いていると何人もの監督生の姿を見かけた。また有志のスタッフバッチをつけた生徒も多く行き来して、一段とガドレへ向かって意識が強まった気がした。
 廊下の向こうから飾りに使う薔薇のコサージュとカーテンを抱えるドーニャとレオを見つけた。
 「やぁ、忙しそうだね」
 「モリア! 順調に進んでるよ。ミドリもキサメも要領がいいから、ぼくらも動き易い」
 「薔薇をふんだんに使うから会場はすごい匂いがするわ」
 薔薇のコサージュを髪につけてドーニャがフフッと笑った。
 「フッバロも手伝っているの?」
 「どうだったかな? 最初は手伝っていたみたいだけど…」
 「彼ならグドゥの授業があるからって、さっき出ていったわよ」
 「そ…そっか」
 安堵と不安の入り混じった複雑な思いで溜息を吐いた。
 「あら、ベンジャミン! パルトロがこんな所で何しているのよ」
 ドーニャの呼び声に、談話室を出てきたばかりのベンジャミンが手を振って応えた。
 あの日となんら変わらないベンジャミンが微笑みかけている。柔らかそうにカールした髪を揺らし、背後から彼が近づいてくる気配を感じ、全身の血が一気に凍りつくような恐怖を覚えた。
 動悸がする。呼吸ができない……
 「これからバロの元で、儀式の段取りをレクチャーしてもらうんだ」
 薔薇の香りが意識を混濁させる。耳鳴りの狭間を縫って、ベンジャミンの声がこだまするように響いた。
 「モリア!」
 後ろからレオの声が聞こえたけど、恐怖に負けてぼくは止まらず駆け出した。
 
 
 『ぼく』は人気のない道を歩いていた。見覚えはあるけどいつも壁の後ろ側から覗いていただけだったから、この道の先に何があるのかは知らなかった。
 頭がぼんやりとする。長い廊下を進んで…空中渡り廊下を抜けると……
 ふいに誰かに腕を掴まれて振り向いた。
 「こんな所を誰かに見られたら…」
 そう呟き、ジャックは持ってきたマントを頭にかぶせた。真っ黒なマントに覆われ目の前が見えない。もがいていると、『ぼく』の手を掴み歩き出した。
 「薬を変えましょう。ここ最近、貴方の奇行が目立っています」
しばらくして目の前で扉が開く気配がした。温かな空気に乗って聞いたことのない古いメロディが頬を撫ぜていった。足裏の感触が変わり心地のよい絨毯の上に連れてこられた。
 「グドゥの塔近くで彷徨っていました」
 傍らのジャックが答える。
 「やはり投与する薬の種類を減らし、負担の少ないものを」
 「ジャック」
 低いけどよく通るバロの声が響いた途端、ジャックが一瞬身体を強張らせた気がした。
 ゆっくりと近づいてくると、ずっとかぶせられたままだったマントを取り払い『ぼく』の顔を覗き込んできた。
 「今の名前は?」
 ほんの少し青みがかって見える双方の瞳を見詰め
 「……ベンジャミン・ワルト・カーリー」
 『ぼく』の返答に、一瞬虚を衝かれた顔をしたがすぐに相好を崩し吹き出すと
「新たな迷子が生まれたな」
とても大きな声で笑った。
 
 
 ベンバー教授が日本に滞在していた。それも母が亡くなるその日まで。
 「という時代背景を考慮してこの作品を読むと―――」
壇上で熱心に講義をする教授の顔を見詰め、空白のノートを広げ鉛筆を動かしながら混沌とする考えを整理した。お母さんと私の父親は同窓生だった。そしてバロの息子と恋人のハスミさん、ベンバー教授とユイコさん。持ち札から導き出せる答えはすべて同じだ。けれど、もし彼が薬に関わっているという重大な証拠でも見つけてしまったら……
 胃の辺りが鋭い痛みを発した。
 『今更…父親に何を求めてるんだよ?』
冷笑を漏らす翠。いつも悠然とした態度で戦っていた母。みんな枠に囚われず己の道を突き進んでいた。例え父親が違ったとしても、その選択から生まれた私たちには否定できない。
だから翠が私を嫌うようになったことも、お祖父ちゃんたちが突然死んでしまったことも…すべて仕方がない。私が本当に求めていることは父親を明らかにすることじゃない。
 本当に欲しいのは…
 「リンコ」
 突然名指しされ我に返えると、教室に設置されている内線電話を持った教授が手招きをしていた。
 「バロがお呼びよ。行きなさい」
 騒然とする周りから一際強い眼差しを向けてくるベティを一瞥し、立ち上がると教室を後にした。
 学長室の前に立つと、誰かいるのか扉の向こうから笑い声が聞こえてきた。
 「リンコです」
 ノックをすると声が一旦止みすぐに応答があった。
 「入りなさい」
 「失礼します」
扉を押し開けると室内に充満した薔薇の香りが鼻腔をくぐった。校内も赤い薔薇で埋め尽くされていたが、種類の異なる白とオレンジの薔薇が彩られていた。
 ソファに腰をかけたバロと彼の傍らに立つジャック。そして向かい合わせに座るベンジャミンの姿を見て静電気が走ったようなショックを受けた。
 「おや、もしかして授業中だったのかい」
 「はい」
視線をベンジャミンから逸らしながら
「ローゼ教授に呼ばれました」
 「特に急ぎの用でもなかったんだが…まぁいい。ではベンジャミン、段取りは話した通りに進めるんだよ」
 「わかりました」
 立ち上がり一礼をすると私にも微笑みを投げかけ、脇を通って出ていってしまった。
 擦れ違う瞬間あまり彼から薔薇の香りを感じなかったので、大して長くここにいた訳ではなかったのだろう。
 「授業中だったのなら手短に話そう。きみは教授たちの推薦を受けてグドゥに入ることを許可されている旨は…既に説明を受けているかね?」
 「はい。ユンから聞きました」
 頷き立ち上がると、すかさずジャックがテーブルの上を片づけ始めた。
 机に腰をかけ引き出しから書類を取り出すと
「それできみの希望を聞きたい。きみは文系科目に於いて大変優秀な成績を修めているね」
 威圧的な瞳が私を捉えた途端思わず目を逸らした。
 「望むなら最高の学歴を与えよう。学者になるのもよし、作家として活躍したいのなら専門の教授をつけてもいい。卒業後は成績次第でスポンサーも紹介しよう」
 すべてはきみ次第だよ―――と彼はつけ加えた。
 『ねぇ、どれを選ぶ?』
 青いステンドグラスの色を受けた冷徹とした態度で私に返答を求めてきたセト。
学園で生きることを望んだ父とは対照的に、外の世界へ出ることを望んだ母は何を思い別れを決意したのだろう。私にふさわしい選択。もっとセトを知りたいと思う欲求に従うのなら。
 「……失礼しました」
 扉を戻して急いで教室へ戻ろうとした私の前に、突然キサメが現れた。
 「モーヴィエ 偶然だね」
 白々しい彼の態度に警戒しながら、僅かに乱れた襟元を睨んだ。
 「口紅がついてるわよ」
 「あぁ…」
今気づいたとばかりに掌で口紅を拭いながらキサメは問いかけてきた。
「こんな時間にバロの元でどうしたんだい?」
やっぱり私を監視していたのね。そう毒づきながら答えた。
 「あら、ガールフレンドたちからいずれ情報は入るんじゃない?」
 教室を出る時に向けられたベティのあの眼差しを思い出し、皮肉を込めて呟く。
 「あぁ、確かにね。それにしても、早くもミドリの忠告を破ってセトとデートしたなんて…さすがはリンコだ」
 「!」
 反射的に彼を睨みつけるも、端正な横顔に余裕を感じさせる笑みを浮かべ少しも態度を変えなかった。
「これでもぼくはミドリと違って、自分の気持ちに嘘は吐けないんだ。もしきみが望むなら、ぼくの手の内を教えてあげたっていいと思っているのだよ」
 甘い誘いの言葉と一緒に赤い口紅の色が頭について離れない。いくら生徒たちが多少なりとも化粧をしているとしても、あんな目立つ色は注意を受けてしまう。そして今朝見かけたカナムラ教授の唇。新色を試したのよ、と上級生たちと楽しげに会話をしていた。
 再びキサメの顔を見詰め、彼の人脈の広さは侮れないと思った。きっとカナムラ教授も彼の諜報員の一人だろう。翠が彼と手を組んだ理由が少し理解できた気がした。
 「誰も…貴方には適わないわ」
上目遣いに彼を見上げると、私は最大の賛辞を送った。彼の眼差しが私に釘付けになる瞬間を見逃さず。
「薬のことも父親のことも…貴方がいなかったら、悔しいけれど私には到底調べられなかったもの」
媚態を秘めた口調にキサメは僅かに視線を逸らした。乾いた咳を二、三度繰り返すとそれまでの余裕を感じさせる態度に細やかな変化を見せた。
「地下で眠る子どもたちのことを話しただろう。あれはセトが気に入った生徒を集めてコレクターしていると思っている」
 彼の名前が出ただけで急に胸が苦しくなった。同時に深い悲しみが込み上げてくる。みんなが口を揃えていう『本当のセト』が存在するのなら、どうして本来の姿を隠してしまったのだろう。けれど理由を考えていくと多くのことが思い当たる。父親の死を筆頭に、慕っていた伯父やハスミさん。そしてチュチュの死……彼を取り巻く環境は本当に幸せだったのだろうか。
歪んだ世界で暮らすうちに善悪の規準さえも曖昧になりつつある。そんな世界を築き上げたバロの元で暮らす彼が、今も、絶対に、幸せだとは言い切れないと思った。
 「それと先程、きみと入れ違いにベンジャミンが学長室にいただろう? 彼の正体がわかったのだよ」
 「正体が?」
 「ハルキが彼に化けている。そして弟のナルキが兄になりきって、一人二役を熱演しているのだよ」
 「……この学園全体がグルになって犯罪を隠しているってことよね」
 ツインの特技をもってすれば叶う役割だった。私の追及にキサメは慎重な面持ちで応えた。
 「恐らくグドゥは犯罪の核心に近い存在だ。いわばメインキャストって訳だね。そしてイヒヌゥたちも、それぞれの流れを肌で感じているけれど素知らぬふりを演じるエキストラ。一連の事件から完璧に排除されたのが、ぼくらシィクンツッという訳だ」
でも私はどれにも属していない。
 選ばれた子どもたちがいる陰で、選ばれなかったものたちが大勢いる。そんな淘汰された環境の中でも、私は一人宙ぶらりんなとても中途半端な存在だった。
 『取り残された…から、選ばれたのかしら。それとも選ばれる為に、取り残されたのかしら』
 『それはすべて、本人次第だよ』
 そう答えた彼の冷たい表情が思い出し、痛む胸をそっと抑えた。
 私たちはいつも、世界に選ばれることを望んでいる。愛され、認められることを待っている。けれど大人たちが築く世界は残酷に、不平等に私たちを選別していく。取り残された私たち。選ばれなかった私たち。それでもいつか、きっと手を差し伸べてもらえると希望を抱かずにはいられない。
 私たちは、無力な子どもだから。
 
 
 ぼくはベンジャミンと会い、再び蘇ったあの恐怖に飲み込まれそうになっていた。あれから寮に戻ってずっと部屋にこもった。
 怖い…怖い…怖い……
 ベッドの中で手足を縮ませ毛布に包まり、何度も繰り返されるあの瞬間を思い出して溢れる涙でシーツを濡らしていった。真っ赤に染まっていくベンジャミン。真っ赤な薔薇が辺りに溢れている。薔薇の香りが、深紅の花びらがぼくを狂わせようとしている。
 大丈夫! だって、セトが約束してくれた。約束してくれたから、きっと、大丈夫……でもこのままあのベンジャミンがいる限り、ぼくはこうして怯えていなくちゃいけないんだ。どうしよう。どうしよう。どうして、ぼくは彼を殺してしまったんだろう。
 「……どうして?」
 自問してからハッと気づいた。ぼくはベンジャミンに特別な感情も何も抱いていなかった。むしろベンジャミンもぼくも、お互いの顔と名前が一致する程度の付き合いしかなかったんだ。
 リンコたちが転校してきたあの日、どうしてぼくは温室へいたんだ? だって普段から校外へ出る機会もないし、ましてや温室で…
 必死に記憶を辿るうちにあることに気づいた。
 リリリーン リリリーン
 静まり返った寮内に響く電話の音。廊下の突き当たりに備えつけられた黒電話だ。女子寮か教員寮から連絡の際に使われるけど、一度管理人に繋がれてからぼくらの階へ回される。
 誰も出ないのでベルが幾重にもこだまする。しばらくして途切れたけど、すぐにまた鳴り出した。思考を邪魔する雑音に億劫とした動作でベッドから這い出ると、うるさく鳴り続ける電話に向かった。ドアを開けても誰の気配もない。ちょうど夕食の時間帯だからまだ食堂にいるのかな。そんなことを思いながら受話器を持ち上げた。
 「…モリアです」
 『きみに電話だよ』
 一瞬回線が途切れる音がした後に
 『モリア?』
とリンコの声が聞こえてきた。
 『すっかり私たちとの約束忘れているのね』
 「あ、あぁ! ご、ごめん…」 
リンコの声を聞いた途端に三人で夕食をとる約束をしていたことを思い出し、ぼくは必死に謝罪の言葉を繰り返した。
 『いいわよ』
とリンコは明るく笑い声を響かせた。
『その代わりに明日、モリアに二人分のエスコートを頼もうかしら』
 冗談半分だろうけどその提案はぼくを舞い上がらせた。
 「ま、任せて! 一生懸命やるよ」
『ふふふ…ありがとう。それじゃあまた明日、ガドレで会いましょう』
 「ま、待って!」
と口走ってからふっと我に返った。受話器の向こうでも沈黙が流れる。耳元に感じられる彼女の吐息を意識しながら、ぼくは意を決して彼女に打ち明けることを決めた。
 「……聞いて、欲しいんだ」
 唐突に喋り出すぼくに、リンコはそっと頷いてくれたように感じた。
 「ぼくは、あの日……ベンジャミンを殺した」
 『……え?』
耳が痛くなるような静寂の後に、絞り出すような声で
『…嘘…でしょ?』
と呻いた。偽りのない素直な反応に再び涙が溢れ出てくる。まさにぼく自身もそう思っていたのだから。誰かにも同じく否定して欲しかった。
 「で、でもわからないんだ。ど、ど、どうして温室にいたのか、どうして…ベンジャミンをっ」
秘密を打ち明けた途端に様々な想いが溢れ出て、普段以上に何度も舌を噛みながら続けた。
 「だ、だ…だって殺意を抱いた覚えもない。だけど記憶にもちゃんとあるんだ。大きな石で、温室で横たわるベ、べンジャミンの寝顔に向かって…な、何度も何度も……。血が顔にかかるのに手を止められなかった。どんどん顔が変形していくんだ」
 ついに堪えきれなくなり嗚咽を漏らす。ずっと誰にも言えなかった。だけどリンコの温かな声を聞いた途端、我慢していた感情が緩み止まらなくなってしまった。
 『ねぇ…落ち着いて、考えてみて』
 畳みかける調子でリンコが口を開いた。
 『貴方が殺したなら矛盾が多く残るじゃない。惨事の後、貴方はどこへいったの? 返り血を浴びたならその制服はどこに処分をしたの? …何より、彼の死体はどうなるの?』
 「そ、そうなんだ…」
冷静な指摘に我を取り戻すと、ぼくは鼻水を啜りながら答えた。
「でも歓迎会の日にセトに追及されて…それで初めて思い出した。何も、な、何にも覚えていないんだ。だけど…」
 語尾が急にすぼんでいくぼくの言葉尻を捉えるようにリンコは更に冷静に尋ねてきた。
 『殺害当時の記憶はあるのね?』
彼女の背後からキッコの声が聞こえた。ざわめきが大きくなる。食事を終えた生徒たちが食堂から出てきたのだろう。
 『明日、もう一度詳しく話を聞かせて』
 「……う、うん。うん!」
 意を決し頷くと受話器を戻した。静まり返った黒電話を見詰め肩を上下させて深呼吸をした。この数分のやりとりは、セトに助けを求めた時よりもずっと確かな安心感を与えてくれた。本当のことを話したぼくをリンコは軽蔑しなかった。
けれどぼくがセトにあのことを望んだって知ったら、どんな顔をしていただろう。
 ただ一つの願い。逃げるんじゃない、罪から目を逸らそうとしている訳じゃない。でも理由をつけてただ、自分を正当化しようとしているだけかもしれない。
 それでも、願わずにはいられない。
彼の言う通り、ここは唯一ぼくらに残された楽園だから……
 
 
 目覚ましが鳴る前に枕元で動く人の気配で目が覚めた。私が起きたことに気づくと姿見の前に立っていたティルは、くるりと振り返り挨拶をしてきた。
 「モーヴィエ」
彼女が朝から起きているのは珍しかったけれど、今日は待ちに待ったガドレの初日だ。早くもタンポポ色のドレスに身を包み髪型を整えている彼女を見て眠たい瞼をこすった。
 「さすがに今朝は早いのね」
 ベッドから出て顔を洗ってくると、いつの間にか私のドレスを用意してティルが待っていた。
 「リンコのドレス、とっても素敵じゃない」
 「ありがとう」
 ベッドに座り大きく伸びをする。寝癖のついた髪に櫛を入れ始めると、後ろからティルが近づいてきた。そしていつもより上機嫌の様子で私の手を取ると
 「私がアップしてあげるわ」
 と櫛を奪い半ば無理やり姿見の前に椅子を置いて座らされた。
 「せっかく長いんだから、アップにして青い薔薇で飾りましょ」
 なんだか完全におもちゃにされている気がしたが、自分ではどうにもできないので任せることにした。むしろ昨日のモリアとの電話が気になって仕方がなかった。まさか彼にベンジャミンを殺せる訳がない。いつだったか生物の授業で、蛙の解剖をして寝込んでしまったと聞いたことがある。
 慣れた手つきで髪を操るティルを鏡越しに眺め、思いついたことを口にした。
 「貴方は誰がベンジャミンを殺したと思っているの?」
 手が止まり鏡の中の少女は目に見えて血の気の引いた顔をした。小刻みに震える指から私の毛がこぼれ落ちていく。
 「最後に彼を見たのはあの温室だったのね?」
 反応を見て確信しながら質問すると、少ししてからティルは首を縦に振った。
 「誰も私を愛してくれないから……」
掠れた声を吐き出すと櫛を変えて言葉を繋いでいった。
「彼と会う時はいつも、あそこを使っていたの。あの日も同じように温室で会って…気がつけば寝入ってしまっていて…起きたら彼の姿はなかったわ」
 ぐっと唇を噛んで涙を堪えると、ティルは部屋に飾っていた青い薔薇を何本か切りお団子の根元に刺した。残った大量の後れ毛を丁寧に梳くと、三つ編みの癖がついた毛はゆるやかにカーブをし腰まで流れ垂れ落ちた。
 「ここが歪んでいるの? それとも私たちが歪んでいるの?」
私の両肩に手を置くと、ティルは腹の底から押し出すような悲痛な声で呻いた。
 「歪んだ世界でも…私たちは必死に生きている。幸せになりたいから、誰も憎みたくないから。愛しているから…」
 ポタポタと滴り落ちる涙を感じ、耐えきれずに私も俯いた。しばらくすすり泣く声が聞こえたがふいに私から離れると鏡に後ろ姿を映し 
 「バロはむかし息子を虐待していたの」
と鼻をかみながら語り出した。
「離婚し母親が経済的な理由で育てられなくなり、バロの元に息子が戻ったわ。けれど精神を病んでしまった彼はバロの父親…祖父の元で暮らしていたらしいの。祖父が学園長を務める日本の学校に通っていたけれど……。ファルバロはそんな伯父の姿を目の当たりにし育った」
 そして珍しく語尾を荒げ続けた。
「病室に幽閉されたバロの息子を見て、バロが彼を虐げていたことを知って…ファルバロは潜在的な恐怖を植えつけられたのよ」
 顔を赤らめる彼女の興奮が収まるのを待って答えた。
 「……セトがベンジャミンを殺したと言うなら、まだ証拠が少なすぎるわ」
 悔しげに歯を食いしばって直視してくるティルに向かって、否定的な意見にならないよう気をつけながら紡いだ。
 「現にこうして無事にガドレが行われようとしている。偽者であろうと…彼は生きていることになっているもの。証拠が……どこにも、ないのよ」
 まるで自分に言い訳をするような私に、ティルは鋭い眼差しを向けてきた。
視界の隅に映った彼女の顔は、これまで見てきたどの顔よりも強く美しかった。どこまでも真っ直ぐで決して挫けない、負けず嫌いのその眼差しは母によく似ていた。
似すぎて…直視できず、私から目を逸らした。
 「彼が消えてからずっとボーイフレンドたちを通じて貴方なりに調べて、それでも何も掴めなかった。だから私に助けを求めたんでしょう?」
 これは私の勝手な憶測だった。どこにも証拠はない。しかし今まで彼女が見せてきた一面を考えるなら、ティルがただのふしだらな……コルスティモだとは到底思えなかった。同時にその考えは、常に母とティルを重ねて考えていた私にも影響を与えた。母の強さの裏に隠された本音は、ただ、誰にも言えなかっただけかもしれない。
 そうだとするならば私と母にも共通点が生まれる。お互いに心から本音を語れる相手がいなかった……だけなのかしら。
 壁越しに他の生徒たちが動き出す気配が伝わってきた。対峙しながら二人の間に流れる沈黙に耳を澄まし、そうして数分かが過ぎた。突然、扉を叩きキッコがあいかわらずの大声で叫んだ。
 「リンコ! 起きてるぅ?」
 声に反応する私に向かってようやくティルは重たい口を開くと
 「私が貴方を選んだのは、この学園や思想に染まっていないから。そして今度こそ、ファルバロを助けてくれるんじゃないかって期待しているから」
 「グドゥの件は断ったけど、それは…別に誰かの為とかじゃないわ。セトだって助けるも何も…」
と言いかけて口を閉ざす。彼を特別視するつもりなんてないのに、どうしてか気づけば彼のことばかりを考えている。同時に思い出す激しい自己嫌悪と罪悪感。今更何を都合よく忘れようとしているの、ともう一人の私が必死に叫んでいる。
―――が、私を愛してしまったから…すべてが狂ってしまった。
「リンコ」
涙ぐんだ瞳で私を睨むと、ティルは両手を胸の前で組み嘆願した。
「お願いだから自分の気持ちに気づいて」
 そして勢いよく扉を押し開けると、外側にいたキッコを押し飛ばし走り出ていってしまった。
 「いったぁ。何、あれ? 喧嘩でもしたの?」
キッコを助け起こすと、当然ながら憤慨した様子でティルの後姿を睨んだ。
 「そうじゃない…けど」
 言い淀みながら私は、何か核心を突くその言葉の意味を考えて胸の奥でざわめく不安を覚えた。
 校舎に入るとスタッフの生徒が、手作りの目元だけを覆う仮面を配布していた。すべてのデザインが違い、生徒の見立てでドレスに似合うものが手渡された。私はドレスに合わせて銀と青の仮面を渡され、乳白色の着物姿のキッコは同じ色の仮面をもらった。
 ずいぶんと手の込んだ作品だなと感心する私に
 「一年間かけて美術部が準備するの。これは記念にもらえるわよ」
 「ガドレって仮面舞踏会なの?」
 と問いかけると、廊下の向こうから賑やかな楽器の音色が響いてきた。驚く私の手を慌てて引いてキッコと周りの生徒たちが廊下の隅に移動すると、色とりどりの薔薇の花びらを撒き散らして仮装行列がシンバルを鳴らして歩いてきた。
 先頭に立つパルトロが笛を鳴らしステップを踏んで飛び上がる。軽やかな身のこなしはプロの新体操選手のそのものだ。パルトロの後から兵隊や王様、お姫様姿の仮面をかぶった生徒たちが楽器を奏でながら行進してくる。
 「喜べ! 我ら同志たちよ!」
 リズムに合わせてみんなが歌うように叫んだ。
 「勇敢なるパルトロが 剣を持って! 帰ってきた!」
 声を揃える男子生徒たちのバックで女子たちがバックコーラスをつけた。間近に迫る声はまるでミュージカルだ。シンバルを叩きパルトロが軽やかなステップを踏むと、くるりと回転し見事に着地ポーズを決める
「ガドレの始まりだ!」
と大きな声で告げた。
「我らが王に栄光あれ! 我らが姫君に栄光あれ! さぁ、ガドレの始まりだ!」
「ガドレの始まりだ!」
大合唱で進行していく行列を見送り、興奮するキッコと顔を見合わせた。
「わくわくしてきた?」
「えぇ!」
 
 
 耳元で鳴る秒針の音に気づき、重たい瞼を持ち上げた。
 「ん……えっ! うわぁ!」
 寝坊だ! 目覚ましをセットするのを忘れていたっ。
 ぼくは跳ね上がった髪も放置して、慌てて用意していたタキシードを着て寮を飛び出した。早くも学内はガドレの雰囲気一色に染まっていた。もうここらは行列が行進した後と見られ床には沢山の花びらが散っている。
 リンコたちはもう食堂に行っているのかな? 普段と違いドレスアップした生徒たちで溢れ、なんだか異空間に紛れ込んでしまったような錯覚を覚えながら食堂へ向かう。
 いつもより強く薔薇の香りがする。咽返るような匂いに眩暈がした。あの恐ろしい記憶が思い出されて、歩いていくうちに自然と冷や汗が浮かんでいった。できるだけ他のことを考えながら、嫌な思い出を頭の外へ追い出し歩くスピードを速めた。生徒たちの姿はとても華やかで、上級生たちの思わずドキッとしてしまうような装いに緊張してしまう。
 リンコはどんなドレスだろう。確かシュカからもらったとか言っていたけど、見立てたレオが絶賛していたくらいだ。きっとよく似合っているんだろうな。小走りになりながらときめく胸を軽く押さえた。もっと彼女について知りたい。彼女を一番知る人間になりたい。
 ぼくは―――リンコが好きだ。
 すべてを話そう。ぼくの知っていることを全部話してこの気持ちも伝えるんだ。不吉な宴を前に勇気を出そう。例えぼくが殺してしまった人物が、あたかも生きているように振る舞っていたとしても…彼女に対する想いに嘘も偽りもないのだから。
「!」
新たな一歩を踏み出そうとするぼくの肩を誰かが叩いた。
 強張る身体を無理やり動かし、踵を返す。心臓が鼓動を早め息苦しさにまた眩暈がした。床に向けていた視線を憂鬱な思いで持ち上げ、そこに待ち受けていた笑顔を見て血の気が引いた。
 「きみの為に、最高の舞台を準備してきたよ」
 セトは棒読み口調で、そう呟いた。
 
 
 立食形式のバイキングパーティに変わった食堂でキッコと軽く朝食をとりながら、二人でいつもよりも賑やかな生徒たちの装いを眺めて回った。
 男子は主にスーツが主体だったけど、中には民族衣装を身につけ周りの注目を一身に集めている生徒も多くいた。遠目から見つけた翠は、白いシャツに黒いスーツを合わせたとてもシンプルなスタイルだった。ネクタイは締めず、解禁した首元がどこかワイルドで髪型もいつもと違って服装に合っていた。
 さすがに生徒会長として仕事が多くあるのか、彼の元には常にスタッフが指示を仰ぎに集まっていた。
 「はぁい、リンコ」
 赤紫のマーメイドラインのドレスに身を包んだベティが、両脇にジェニファーとサエを従えて立っていた。豊満な胸が惜しみなく露出し、同性ながら一瞬目のやり場に困ってしまった。
 「みんな素敵な装いね」
 「リンコも! 髪を下ろした所は、初めて見るわぁ!」
 「いっつも三つ編みだしね。意外と長かったんだね」
 和やかな雰囲気で談話が始まったが、テーブルに料理を取りに行っていたキッコが戻ると突然三人の態度が硬化した。
 「……仲直り、したのね」
 意味深にベティが呟くと、憎々しげに私を一瞥し取り巻きの二人を連れて去った。
 「…あたし、邪魔だった?」
 ベティたちの後ろ姿を眺めキッコが弱々しげに聞いてきた。
「ちょっと話していただけよ」
まるで狐に狙われたウサギのような表情の彼女を慰め、私は周囲を見回した。
 「それよりモリアはまだこないのかしら。私たちのエスコートを頼んでいたのに」
「そういえば……きてないみたい。どうしたのかな」
 徐々に食堂に人が増えてくる。全校生徒がここに集まるらしく、入り口でスタッフ生徒が廊下にいる生徒たちを誘導していた。騒然とする会場が突然、水を打ったように静まり返った。
壇上にバロが立った瞬間だった。ピンクのカラーシャツにスーツを合わせ、胸に赤い薔薇のコサージュを刺していた。
 「おはよう、諸君!」
 明朗な声調が響き渡る。同時に空気が幾分重みを増した気がした。
 「今宵、長く剣探しの旅に出ていたパルトロの帰還を祝い、聖なる儀式を執り行う。この地に古くから伝わる乙女の志を宿した少女を選び、聖なる剣を授けよう。宴はこれより始まった!」
 クラッカーの弾ける音と共に割れんばかりの大声援が起こる。拍手が収まるのを待って進行役がバロと替わり、二日間行われるガドレのスケジュールを説明した。
 「なおガドレの間は合言葉を遵守し、錠をかけられたものの封印を解くことを硬く禁じます。そして鍵を持つ者はそれを誰かに見られてもいけませんよ。もしどこかで鍵を見つけたら、ただちに報告してください。我々が持ち主を探し出し罰ゲームを課しますから」
 「…寮の鍵も?」
 不安になりキッコに尋ねると笑いながら
 「そーいうこと。それだけじゃなくて、鞄や本…鍵がつくものはぜーんぶなんだから」
 「でもそれじゃ寮へ戻れないじゃない」
 「だからお互いに相手をうまく騙して、スペアキーを監督生から盗ってくるの。誰が仲間か、密告者か…まったくわからないからとってもスリリングなのよ! とは言っても就寝時間が近くなったら強制的に帰らされるから心配ないわ」
 スリリングと言うか、なんだか擬似的に自分たちが置かれている立場を遊んでいるような気がしなくもない。このゲームを提案した人は何を考えて作ったのだろう、とやや皮肉な気分になった。
 食事を済ませてから食堂を出ると、壁一面に全学年から選ばれた絵画作品が飾られていた。中には美術部の作品も置かれ馴染みある空間が、違った雰囲気に塗り替えられていた。
 「見て、キサメの作品がいっぱい飾ってあるわ」
 舌を巻くような完成度の高い油絵やデッサンを眺め、改めてどんな人にも才能の一つや二つはあるのだと思った。
 「さすがね…。専門の分野にでも進むのかしら?」
 「さぁ、どうなのかな? これだけのものを作っている割には、展覧会やらに出品したこともないらしいから」
 あくまで趣味の範囲内に留めておきたいのだろうかとも思ったけれど、まったく納得できなかった。あの虚栄心の塊のような人が、自らの作品が陽の目を見ないなんて結果を許すはずもない。むしろそうせざるを得ない状況を作り出されているのだとしたら。彼が恐れる人となれば、それはもしかしたら―――父親なのかもしれない。どんなに優秀であろうと親という肩書を持つ人間の匙加減で、子どもの人生なんて簡単に転落してしまう。
 私たちはいつも、親と呼ばれる人たちの手の上でしか踊ることもできないのだから。
 「それより他のクラスも見てみましょうよ」
 周囲の雰囲気に感化されハイテンションになったキッコに手を引かれ、夕方から行われる儀式までガドレ一色に染まった校内を歩いて回ることにした。それぞれの部室を覗くと部活の発表も兼ね様々な催しがされていた。こんな機会がないと喋ることもないグドゥたちとも何度か顔を合わせ、少しばかりだが話すこともできたけれどユンとはなかなか会わなかった。
 吹奏楽部の生演奏を堪能してから時計を見ると、もう五時を指していた。けれどいっこうにモリアの姿は見当たらない。同じことを思っていたのかキッコも時計を見上げて溜息を吐いた。
 「もしかしてずっと擦れ違っているのかしら?」
 首を傾げるもなかなか会わない彼の身が心配になってきた。嫌な予感が燻る。
 信じられないような告白をした翌日から姿を現さないなんて、また、私たちの知らないうちに何かが起こって、いる?
 不安が大きく膨らみ胸を押し潰そうとする。
 「ねぇ、手分けしてモリアを探さない? 本当に擦れ違っているんだとしたら、このままじゃ会えないわ」
 初めて彼と会った時キッコが言っていた。モリアを探すならまずは図書室だと。
 逸る思いに急かされ走って地下へ続く階段を下りていった。いつもより灯りの数が少なく、一寸先は闇とも言える状態でなんとか図書室へ辿り着くと閉ざされた巨大な両開きの扉に触れた。
 「……鍵…」
 やはり錠がかけられている。押しても引いてもびくともしない。でもモリアの行きそうな所なんてここ意外に思いつかない。扉を強く押していると隙間から強い薔薇の香りが漂い出てきた。
 こんな所から匂いが? 誰もいないんじゃ…
 「何しているの?」
 背後から投げかけられた居丈高な口調に、心臓が大きく飛び跳ねた。
 「ガドレの間は閉鎖されるのに」
ゆっくりとこちらへ近づきながら、鮮やかな色合いのチマチョゴリ姿のユンが眉間に皺を寄せて詰問した。対峙すると爪先から頭のてっぺんまで値踏みするように私を睨むと
「地下の談話室を使いたいなら出直したら?」
「え?」
この下に談話室があるなんて初耳だ。図書室には何度も出入りしているのに、談話室の入り口なんて見たこともない。
私の反応にユンも意外な表情になった。
 「モリアを探しているの。図書室にいるかと思って…」
 「なんだ…」
さもそんなことで、といった風に再び顔をしかめるとユンはその表情を崩すことなく言葉を繋げた。
「バロ直々に会って、グドゥの件を断ったって聞いたけどどうして?」
 「学ぼうと思えばどんな所でも学べるわ。私は、私が望む方法でそれを見つけていきたいの」
 「どうして!」
特に怒らせるつもりもなかったけれど、ユンは突然声を荒げて叫んだ。
 「なんでそんなことを言えるの? お姉ちゃんと同じことを言わないで! 彼を一人にしようとしないでよ!」
珍しく感情を露出する彼女を、逆撫でしないよう調子に気を遣いながら尋ねた。
 「お姉さん…も?」
 「そうよ! 貴方だって本当はセトのこと好きなんでしょ? ならどうして彼から離れようとするのよ」
 両目に涙を溜めて私を睨むユンと対峙し、混乱する気持ちを整理しようと躍起になった。
 「ま、待って。確かにチュチュにしたように、私を町へ連れ出してくれたけど…でも、お姉さんと同じ気持ちなんて……」
 「そりゃあそうよね…」
感情が高ぶったのか涙を流しながらユンは卑屈な笑みを浮かべた。
 「だってお姉ちゃんと同じ道を辿るなら、貴方なんて…セトに塔から突き落とされて死んでいるはずだもん」
 「!」
 一瞬で全身から血の気が引いた。手足の感覚が麻痺して雲を踏んでいるように足元がふわふわし、目の周りが暗転した気がした。けれど聴覚だけはしっかりと残り、彼女の言葉の続きを捉えた。
 「だけど私はセトの傍にいる。仲間である限り、私は最後まで物語に登場できるから。出来損ないのお姉ちゃんとは違う。私は、私は……選ばれたのよ」
 自らにかける呪縛のように『選ばれた』と繰り返し呟くと、私には一瞥もくれずに駆け出していった。薄闇の向こうで階段を登っていく足音に耳を傾けながら、膝から力が抜けて扉に凭れ掛かるように座り込んだ。
 頭の中が混乱している。何から考えていけばいいのか、わからない。
 チュチュを殺したのは……セト。けれど彼女の妹はセトの仲間。選ばれた………
 私は……彼を、好キナノ?
 自問自答してからかぶりを振った。わからないというより考えたくない。あんな人を好きだと認めた途端、これまで築き上げてきた自分の世界が変わってしまいそうで怖かった。
沢山の人格が存在する。それなのに平然とした態度で日常に溶け込んでいる。怖くて目が離せない。でも、もっと知りたい。相反する感情がぶつかりせめぎ合い、苦しみに耐えられず唇を噛み締めた。何よりも大切だった人たちを傷つけた私に、誰かを愛する資格なんてないのだから。
 再び食堂へ戻ると仮面をつけた生徒ちの姿で溢れ、キッコを探すのも困難な状況にあった。予定ではこれから儀式が行われるはずだけど…
 辺りを見回すも特に緊張感もなく、シャンパンやワインなどを飲み交わしている生徒までいる。取りあえず隅の方へ移動しオレンジジュースを飲んでいると、視界の端に翠の姿が映った。
 例え仮面をつけたとしても独特の視線だけは隠せない。無意識に身構えると、周囲と談笑をしながらさりげなくこちらへ近づいてきた。翠と目が合う。言葉を発そうと彼が口を開いた瞬間、静かに照明が落ちた。
 ざわめきが湧くがスポットライトが一点に絞られると、必然的に辺りは静まり返った。
食堂の扉が開き厳かな音楽が流れ始める。スモークが焚かれる中から、仮面行列で見かけたパルトロの装いをした栗毛の少年が腰に剣を提げて登場した。
 白い仮面には薔薇をあしらった彫刻が施されている。
 「Dina da doo.」
 レドヴァス語が苦手なはずのベンジャミンの発音は、特訓したのかとても聞きとり易かった。
「『剣を探し求めて幾千年。我らが主、聖なる乙女よ』」
もしかしてセトからレッスンを受けたのかもしれない。ベンジャミンに化ける為に、きっと学園はツインを全力でバックアップしたのだろう。
「……新たな世界への導き手となり、我らを救うと誓いたまえ」
 傍らにいつの間にかワインを持って翠がそっと、和訳して呟いた。扉が閉まりパルトロは壇上に向かって歩き進んでいく。その動きを目で追いながら
 「ファルバロと町へ行ったんだってな」
 どこまで情報が筒抜けているのだろう。憂鬱な気分で軽く頷く程度に反応を示した。
 「前に同じようにチュチュを連れて町へ出たらしいわ」
 相槌を打ちながら目で続きを促す翠を一瞥し、言葉を選びながら紡いだ。
 「年に数回…学園の用務員が下山するついでに彼も町へいっているそうよ。それと……」
視線を逸らし壇上に到着したベンジャミンに向けた。
 「確信が持てないけどみんなが彼を違う名前で呼ぶの。その度に少しずつ印象が変わって―――」
「選ばれし乙女の名は―――」
 剣を頭上に掲げベンジャミンが叫んだ。
「解離性精神障害……か」
 「ティル・トラヴィス!」
 乙女の名前が辺りに響き渡り、会場からは大歓声が沸き起こる。
 みんながティルの名を連呼して叫び、群れから押し出されるようにして彼女が姿をあらわした。
 「ティル! ティル! ティル!」
 彼女が壇上に立つとすべての音を掻き消す勢いで拍手が鳴り、同時に四方から紙吹雪が吹きかけられる。
 壇上でベンジャミンが仮面を外しティルに微笑みかける。
 「で、でも…私の気の所為かもしれない」
 「確かに年頃の子どもがなりきることはよくある。けど、あいつなら納得できる点が多い」
 翠の自信に満ちた言葉に抗えず黙り込む。否定したいのは私の願望なのだ。
 「乙女よ、どうぞ剣を」
 恭しく一礼をして剣を差し出すベンジャミン。対するティルは今にも泣き出しそうな顔をしていた。何ていう茶番なの。いくら投票で選ばれたとしても、これではティルが可哀想すぎる。亡くなった恋人を装う偽物から剣を受け取るだなんて。
 憤慨し背を向けようとした私に翠は冷たく言葉を発した。
 「七年前のことを」
興味を惹きつける言葉に反応して振り返ると、漆黒の仮面をつけた顔に卑屈な笑みを浮かべた。
「そんなに知りたいなら、あのコルスティモと一緒に生徒会室にこいよ。脚色された情報を他人から得るのは愚か者のすることだ」
 口調や態度はいつもの冷徹さを秘めていたけれど、私に率先して情報を公開しようとするのはこれが初めてだ。
 「……わかったわ」
 肉親という一番近いポジションに立ちながらもこんなに心が離れている。人の気持ちなんてわからない。恋なんて、所詮は自己暗示の上に成り立つ気持ちだから。
 仮面の向こうから私を見詰めるその眼差し。冷たくて、底意地悪い負の感情しか見つけられない。けれど翠…と私は心の中で彼に話しかけた。
 ―――恋に落ちるのは、重力の所為ではない。貴方は誰よりもそれを知っている。
 ティルが剣を受け取り儀式は終わった。その後はこれまでの荘厳とした雰囲気を一変させる明るい音楽が流れ、中央を開け仮面舞踏会が行われた。
 乙女の証である冠と剣を頂いたティルは、バロの傍らに設けられた豪華な椅子に座り少し高い位置から生徒たちの踊りを眺めていた。けれど仮面を再びつけた彼女の表情はよくわからず、硬く閉ざされた一文字の唇がやけに悲しく見えた。
 最初のうちは適度にバロが喋りかけていたが、反応の薄さに諦めたのか隣に立つジャックと親しげに会話を始めた。黒いマントに身を包んだバロがまるで王のように見えた。そこにいるだけで見る者に安心感と、身分の違いを思い知らす生まれ持っての威厳を感じさせる。そして椅子に座ったままのティルは、美しい装いと冠の効果から捕らわれた姫君のようだった。
 今の彼女の胸中を察すると複雑な気持ちになる。
「せっかく選ばれたのに……なんだか元気がなさそうね」
 料理を皿に取りながらようやく合流したキッコがぼやく。同意以外に言葉が思いつかなかったので、無言でジュースを飲んだ。傍から見てもティルの落胆振りは露骨で、それが余計に悲壮感を煽っていた。
 「モリアは……どこにいっちゃったのかしら」
 独り言のように呟くと、チキンナゲットを頬張るキッコが大きく目を見開いた。気配を感じて振り返るとすぐ後ろにセトとゲンジロウが並んで立っていた。
 「わぁ、二人ともすっごく綺麗だよ」
 「って会う奴みんなに言ってるな」
嫌味っぽくゲンジロウがつけ足す。
 「ゲンジロウは一言多いのよ! 女子はみんな綺麗って言葉を待っているんだから」
 頬を膨らませて睨むキッコを見て笑い声が漏れた。
 グレーのスーツ姿のセトは銀色の仮面をつけていた。その冷たい輝きが彼をまとう空気をどこか恐ろしく感じさせる。
 「せっかくだから食べてばっかりじゃなくて、踊りにいこうよ」
 私の手を取るとキッコとゲンジロウに向かって声をかけた。
 「で、でも…私は踊れないから」
 「適当に歩いていたらそれなりに見える」
明るく笑い飛ばし、後からついてくる二人を置いてダンスの輪に入っていった。
 みんなが仮面をつけていて誰が誰なのかまったくわからない。普段とは違う色とりどりの衣装が花のように舞い、私とセトは色彩の坩堝の一部になった。
 見よう見真似でステップを踏んでみると、私の動きにセトが合わせてくれた。慣れてくると密接した手足と身体を意識し恥ずかしくなってくる。
 「下ろした方がよく似合っている」
 耳元でセトが優しく囁いた。その言葉を聞いた途端、顔に火がついたみたいに熱くなった。
 「青いドレスもリンコの雰囲気にぴったりだよ」
 まるで麻薬のように彼の言葉は私の警戒心を剥ぎ取っていく。絡めた指の感触が胸を熱くし、永遠に音楽が流れ続ければいいのにと思った。
―――食堂内に飾られた薔薇の香りがきつい。
心地のよい感覚に身を任せてしまえば、きっと幸せ。心臓が早鐘を打ちセトにまで届いてしまう。この感情の名前を知らなければ、私はいつまでも幸せなままでいられる。
「それも、会う度にみんなに言って回っているのかしら?」
「ひどいなぁ。ゲンジロウの余計な一言の所為だ」
 目と目が合い、二人の視線が一つになると自然と私たちの間に笑い声が漏れた。ただ純粋に、私は目の前でセトが笑ってくれていることが嬉しくて仕方がなかった。
 「でもそうだね。確かに大切な言葉を安売りしていたら、金髪のプレイボーイと同じ扱いを受けちゃう」
 「キサメのことね」
 ニヤリと笑うと一気にセトの表情が幼くなって、まるで自分まで時を巻き戻したような純粋な喜びが胸に広がる。複雑な駆け引きなんて何も知らない、あの頃のまま。誰かを特別に想うその感情が―――私たちを兄妹という括りから追放してしまった。
回る景色の中から翠の鋭い眼差しを感じ、私は踊りながら静かに息を飲んだ。
「…If」
私の耳元に顔を近づけるとセトは静かにその言葉を贈った。
―――If I had a single flower for every time I think about you,I could walk forever in my garden―――もし貴方を想う度に一輪の花を手に入れられるなら、私は花畑の上を永遠に歩いて行けるでしょう―――
「!」
未だ周囲はダンスに興じている最中だというのに、私は熱くなった耳を抑えて思わず立ち止まってしまった。自覚できるほど赤くなった顔でセトを見上げると、彼は静かに微笑んでいた。
「ね? 大切な言葉だから覚えていて。そして…できることなら、ぼくに花畑を歩き続ける夢を見せて欲しい」
その眼差しに一縷の深い悲哀を混ぜて、セトは視線を落とした。甘い言葉に惑わされてしまいそうになる。彼の優しさに付け込まれてしまいそうになる。けれどそんな怠惰を、決して許さない氷の視線が背中に突き刺さる。
「……モリアをどこへやったの」
 「何のこと?」
 「とぼけないで。昨日の夜…彼はベンジャミンを殺したって告白してきたわ。余計なことを話す前に彼を、モリアまで殺したの?」
 ずっと逸らしていた目を直視して詰問すると、セトの表情から光が消え仮面の奥の瞳に翳りが宿った。
 「願いを叶えてあげただけだよ」
 淡々とした口調で語り出す彼を不安な面持ちで眺める。雰囲気が変わり、教会で見せたあの時のセトを連想させた。
 「彼の願いは永遠にこの国で生きること。過去に何千人もが、そうしてここの国で生きることを望んできた。彼は…七番目の山羊だったよ。最後まで狼に食われず暖かい家で暮らせるんだから、幸せでしょ?」
罪悪感も何もない冷ややかな態度。幸せだと言いながら、その意味を理解していないようでもあった。
 「……そうしてベンジャミンや、チュチュを殺したの? 気に入った生徒を地下に閉じ込めていくの? 現実から逃避する手段としていつも死を選ぶの?」
 涙ぐみそうになる視界を足元へ落とし、震える手で彼の身体を押し退けた。
「そんなの…間違ってる」
 「正しくなくっていいんだ。ぼくは仲間を救うだけだから。世界なんて関係ない。ぼくらが新しい世界を築いていくから」
 なんて強い意志を感じさせるのだろう。確信に満ちた力強い声にしばし言葉を失う。力のない子どもたちなら、彼のような有権者を信じその庇護下に集まろうとする。
彼なら、セトなら、ファルバロなら……私たちを裏切った大人たちと違う。そう心から信じることができる。もう傷つきたくない。同じ傷を負った子どもだけの世界なら、どこにも刃はないだろう。
例え涙を流したとしても誰も否定することもない。まさに理想の環境なのかもしれない。
成長しいつか子どもに同じ傷を与えてしまうのでは、と怯えるよりも永遠にこの鳥かごの中に閉じこもってしまえばいいんだ。
ぼんやりとする意識下でふいに、母の姿が蘇った。
私の手を握り、ベッドの縁で泣きじゃくる頭。何故か彼女の髪からは線香の匂いが漂い、傍らに立つ翠がずっと私から目を逸らしていたのが気になった。
『ごめんね…ごめんね……私の、私の所為で』
 謝罪の言葉を何度も何度も繰り返す。私の所為だと呟く声を聞くうちに、すべての原因が彼女にあるのだと悟った。
「いつかぼくらの元に戻りたくなったなら、いつでも迎えるよ」
音楽が止まり新たにダンスに加わるものと、抜け出して食事に出るものとが入れ違い騒然となった。セトは恭しく頭を下げると、胸に当てていた私の手を取り接吻をする。
 「きみはぼくらの仲間だから」
 唇が指から離れる瞬間に向けられた眼差しに釘づけになり、ものすごい勢いで心臓が鳴り出した。赤面する頬を意識し、新しく音楽が流れる前に踵を返し駆け出した。
 違う。これは恋なんかじゃない…
 恋ハ人ヲ狂ワセル恐ロシイ感情ダカラ。スベテヲ打チ壊シテシマウモノ。
 私はそんなもの、知らない―――
 「……」
 人混みに紛れ込み脚を止めると、私はそれまで握ったままにしていた手をそっと広げた。彼が接吻をしたその時。恐らく誰の視界から見ても死角となる瞬間を狙って、セトは私にこの小さな鍵を手渡した。
 「リンコォ!」
 声のした方を見ると、タキシード姿のベンバー教授とキッコが並んで手招きをしていた。
 「ゲンジロウは?」 
 ベンバー教授に会釈をしてから彼の姿を探す。
 「ほら、あたし着物だから踊りにくくって途中でやめちゃったの」
 「あぁ…残念ね。でもユンもチマチョゴリを着て、ツインと踊っていたわよ」
 「彼女は毎年民族衣装を着るね」
ベンバー教授は会話に加わると私とキッコを交互に見て、嬉しそうに笑みを作った。
 「リンコは前よりもずっと元気そうだね。転校した頃はもっと近寄りがたい雰囲気があったから…なんだか安心したよ」
 「えぇ! そんなことないですよ」
苦笑しながらキッコと目配せを交わす。
 「いや、やっぱり例の事件でしばらく入院していたって聞いていたからね。心配していたんだよ」
 「例の事件……?」
小首を傾げて尋ねる。誰かの話と混合されているのかと思いベンバー教授を見上げた。
 「ヒサコさんもご両親を亡くされてずいぶんと気を落としていたから…。さすがにあの頃は、ぼくらも声をかけづらかったよ」
 お祖父ちゃんたちが亡くなった時? でも事件って……私は一度も入院したことなんてないはずなのに……
 けれどベンバー教授は私の困惑を他所に続けた。
 「不謹慎かもしれないけど、犯人は死刑になるからよかった。婦女子が狙われる事件が日本で多発しているらしい。単にストーカーと言っても大きな犯罪に繋がることだってあるから」
 頭の奥でガンガンと鐘が鳴り始める。ずっと長い間閉じ込めていたものを開けようとする力と、それを阻止しようとする力が働きひどく気持ちが悪くなった。耳鳴りがする。吐き気がしてきて、目の前が一気に暗くなった。
 あぁそうだった。いつだったかセトもキサメまでもが言っていたじゃない。私のお祖父ちゃんとお祖母ちゃんは、殺されたんだって。
 でも誰にどうして殺されたの?
 『何も知らない方が幸せだけど、すべてを忘れるのは難しい。だからぼくらは錠をかけて鍵を飲み込むんだ』
 ―――Dina da doo.
 あの時、私は錠をかけて鍵を飲み込んだ。
 ずっと、ずぅっと長い間記憶の奥に無理やり閉じ込めていた、あの頃の私が目を覚ました。
怖かったから時計の中に隠れていたの。とても怖かったの。時計の向こうで狼が兄弟を食べていったの。どんどん食べていって、床は一面の血に染まったの。真っ赤に染まった狼が時計を見た時、あぁ…私もついに食べられちゃうんだって思った。
でもね、お母さん。どうして狼は私の家を知っていたの? どうして私を選んだの?
ねぇお母さん。教えて。
どうして狼は、私の目の前で、お祖父ちゃんたちを殺したの?
 
 
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