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第二部 首を繋がれた王と姫君
第十八話 旅立つピーターと残された童話
しおりを挟むキラキラ…と雪が痩せ細った枝からこぼれ、微光を浴びて美しく輝く視界の隅で捉えた光景。瞬く間に散ってゆく光の数々は、彼が注意を向けると同時に疾走する列車の窓から姿を消していった。
次第に列車は山間部を越えて国道の脇を駆けていく。十二月の始まりの年末にかけてスケジュールが押され、誰もが慌しく街を行き来するこの時期に、降る積もった雪のおかげで道路が凍結しスタットレスタイヤを装備していないドライバーたちは速度を落としノロノロと運転をしていた。
かっこいいスポーツカーも深夜の間に固まってしまった道を恐れ、アクセルを踏まぬようにゆっくりと走っている。今や自分が乗っている列車の方が早いや。と少年は窓の向こうで小さくなっていく赤色の車を見てほくそえんだ。
「何がおかしいんだい?」
飲み物を買いにいっていた祖父が戻ってきて、少年にジュースを与える。
「道路さえ凍っていなければ車で三十分程度の所なんだがな…」
皺が刻まれた顔の中で青みがかった瞳に苛立ちが浮かぶと、少年は慌てて注意を他所へ逸らした。祖父には紳士的な態度や容姿とは裏腹に、短気で少々頑固な所がある。一度怒ったらなかなか機嫌を直さないものだから、親戚たちも神経を使って接していた。
特に今回のような『お見舞い』の時は要注意が必要だった。
ようやく駅に着くと待機していた運転手がお迎えにやってきた。へこへことおべっかを使うのでもなく、適度に礼儀を弁えた心地のよい青年だった。段取りよく事が進みこれから向かう病院までの道も空いていたので祖父はいつもの笑顔を取り戻し、青年と会話を弾ませた。
興味のない話題を聞き流しながら少年は窓の外を眺めていた。
人里離れた療養所は山間部にあり、都心から訪れる家族以外に誰も立ち寄らないような不便な場所にあった。元々は祖父が院長を務める病院だったらしいが、今は親族に経営を任せ、彼自身は学校経営に乗り出していた。
デコレーションケーキのように白砂糖のかかった雪山を眺めながら、少年は想像を巡らせていた。
この山がおいしいケーキだったら素敵だろうな。ヘンゼルとグレーテルが山を食べきる前にぼくもちょっとわけて欲しいな。魔女も砂糖菓子でできていて、朝日が昇ると溶けちゃうんだ。おいしい山を奪いにきたらみんなで戦っちゃえ。やっつけた敵は新しいお菓子になるんだ。
「お疲れ様です。到着致しました」
車が止まり後部座席に回った運転手がドアを開ける。冷たい風に吹きつけられて少年は夢想から返った。
「帰りもここに車を配置してくれ」
運転手に指示を出すと祖父は少年の手をひいて病院へ入っていった。
自動ドアが開くと両脇に並んだ医師たちが一斉に頭を垂れる。赤絨毯を踏み中心を歩く祖父の後ろ姿を見上げ、まるで王様のようだと思った。
「叔父さん! 久しぶりですね」
列に加わらず奥で待っていた見覚えのある男性が祖父の元へ駆け寄る。どこかで見た気がするなぁと考えていると、初めて視線を少年に向け
「きみも大きくなったなぁ」
と頭を撫ぜてくれた。
掌の感触で咄嗟に記憶が蘇る。父親の葬儀際に何かと世話を焼いてくれた親戚連中のにこの顔があったと、あまり好印象ではなかったことまで思い出してしまった。
それから祖父と二人で話し込むようだったので、少年は彼らから離れ本来の目的地である病棟へ向かった。通い慣れた道とはいえ一人でここまでくることは初めてだ。白色で統一された廊下には看護師たちの姿もなく、静まり返った沈黙が不思議と彼の登場を心待ちにしているように思え、心が震えるような感覚を覚えた。
白く磨き上げられた床を脚で確かめながら、ゆっくりと彼のいる病室へ進む。
耳が痛くなるような静寂が辺りを支配していたのに、病室へ向かうにつれ言い争うような言葉のやり取りが聞こえてきた。不安に駆られ足音を忍ばせながら歩く。すると声の主がこれから向かうはずだった部屋にいることがわかった。
「…結衣子から聞いたよ。まさか知らない間にそんなに沢山、世界中に学園を建てていたなんて……信じられない。信じたくない。ねぇ、藤谷くん。うぅん、雪生! 何とか言ってよ!」
聞いたことのない若い女性の声。
「どうして逃げることしか考えないの? 違うんだよ。これは貴方が一人で抱え込む問題じゃない。もっと…広く問題を共有して、みんなで、一番いい方法を考えていかなくちゃいけない。雪生にはそれだけの力があるのにも関わらず……逃げているだけ」
一方的に喚き散らすとふいに言葉を切り、妙な沈黙が流れた。その間ドアの隙間から漏れるすすり泣く声を聞きながら、少年はこの向こうで行われていることを考えて怖くなった。彼の頭がおかしいことは誰もが知っているのに、どうしてそんなに難しい言葉を使って責め立てるのだろう。伯父さんが何か悪いことでもしたの?
彼を擁護したい気持ちを横溢とさせながらドアに近づき耳を当てる。しばらく何も聞こえなかったが、
「…あの頃と何にも変っていない。変わりたくて学園を出たはずなのに……貴方はずっと、今もずっとそこにいる」
学園? もしかして伯父さんの同級生だったのかな。少年は時折くる伯父の同級生だったと言うカップルを思い出し彼らの知り合いだろうかと考えた。確か名前は忘れたが男性の方が祖父の学園で教鞭をとっていると聞いた。
「雪生……何を言っても…私たちは、わかり合えないのかなぁ」
自虐的な口調で呻くと突然ドアが開き――少年を押し倒したことにも気づかずに、黒髪の女性が出ていってしまった。
尻餅をついた臀部をさすりながら立ち上がり、病室の中を覗き込む。そこにはいつもと変わりない体勢でベッドに座る伯父の姿があった。
「……喧嘩したの?」
ベッドの端に腰を下ろしセトが問いかける。気の所為か普段よりも顔色が優れないように見えた。しかし大して気にもとめず、持参した鞄から大きな絵本を取り出し膝の上に広げた。
「今日はねぇシンデレラのお話をしてあげるよ」
冒頭の科白を読み上げようとしたその時
「―――乙女は世界を変えることを拒んだ」
と、ふいにユキオが開口した。
彼がこんな風に喋るのは何年ぶりだろう。何かに反応を示すことも、ここ最近なかったはずなのに。ベッドに座ったまま宙に向かって両手を差し出すと、指を動かし何かを作る動作を始めた。最初は大まかに、時間が経つにつれ次第に指先を微細に動かし空気を形にしていく。彼の様子を凝視して少年はハッと我に返り、引き出しにしまっていた写真を取り出した。
それは伯父がまだ十代だった頃に制作した、唯一の石像をシャッターに収めたものだった。
「伯父さん、ねぇ伯父さんは何を作っているの?」
震える声で問いかける。さっきの女性が一体彼に何をしたのだろう。
「ふふふ…誰の為? きみの為だよ。ぼくらはずっと、あの日のまま、何も、変わらないでいい。ぼくには作れる…。あの日を永遠にする世界を……。だから雪がやんでも童話を読んで暖炉の前に集えばいい…」
掌に乗るサイズで今度は作業をしながら紡いだ。
「でもあそこには王様がいた。ぼくはいらないのに、王様が君臨した。…きみの為の国なのに…ねぇ、どうしてきみはこないの?」
悲しげに涙を流しながら指先を操る。
「きみがいなくちゃ…ぼくは……一人…だから」
ずっと掌に向けられていた視線が投げかけられる。突然の行動に少年は戸惑いを隠しきれない様子で佇んだ。
「―――ファルバロに…なって」
尋常ではない伯父の態度に本能は警鐘を鳴らした。一歩後退ると、恐ろしい化け物を見るような目つきで彼を睨み
「…それって、レドヴァス語でバロ…王様に、すべてを捧げたものって意味だよね」
以前からレドヴァス語のレクチャーを受けていた少年は、『ファルバロ』という言葉に過敏に反応を示した。
「やだよ。だって、だって…バロになる為に本当に全部を捨てなくちゃいけないんでしょ」
首を横に振りながら少年は必死に拒んだ。例え彼の願いだとしてもそれだけは受け入れられない。
「……ぼ、くが戻る、まで、待って」
新たな提案に驚いて顔を上げる。伯父は少年から目を逸らし窓の向こうを注視しながら
「乙女が…世界を変えたいと思ったらぼくは剣を持って、力を、合わせ、て生きていける。彼女が戻ってくるまで、バロの元にい、て。蓮見の為に作ったあそこへ…いきたいんだ!」
突然、頭を掻き毟って叫んだ。
獣のように喚く彼の豹変振りを見て少年は驚愕した。
ベッドの上で飛び跳ね、唸り声を上げて苦しむ。枕を両手で引き裂き白い羽毛を手当たり次第に投げつけた。裾がめくれた細い右腕からいくつもの針を刺した痕が見える。けれど少年が知る限り、伯父は点滴を常に左腕で受けていた。それも咀嚼運動機能の低下を恐れてあまり行わない。時間をかけてでも自らの顎を使って食事をとらされていたはずなのに。
嫌な予感が脳裏を掠める。
下で見た祖父と親戚のやり取りを思い出し、まさか、と自分の想像を否定した。真実を確かめたいがあまり、咄嗟にナースコールを押そうと手を伸ばした時、衝撃が走った。
地面に落ちた本を見てから現状を納得し、時間差で頭痛が芽吹く。こめかみのあたりが熱を帯びてリズミカルな痛みがした。
「……」
額を指で押さえると傷口に直接触れてしまい鋭い刺激が走った。生温かい液が指先にねっとりと付着しなんとも言えない臭いが鼻を突く。
「王様なんていらないんだ…バロなんて必要ないっ。どうして、どうして…」
血がもみあげから顎を伝って本にこぼれる。白い病室に散った血の色は、まるで薔薇のように赤くて恐怖心を掻き立てた。ベッドの上で狂乱する伯父の姿を直視できず、のろのろと身体を動かして足元で広がる本を拾った。が、持ち上げた瞬間に力が抜けて重力に抗えず座り込んだ。両手で大きな本を抱きかかえたまま、泣き出したいのをぐっと堪えた。けれど耐えきれず一筋の涙がこぼれる。
少年の頭には『何故?』の二文字があった。
何故、伯父が悲しまなければいけないの?
何故、乙女は彼を苦しめるの?
何故、必要もないのにバロがいるの?
その質問に満足に答えてくれる人はどこにもいない。
溢れ出る涙や床に滴る鮮血。ベッドで喚く悲痛な声。いつも祖父の機嫌を伺う親戚たち。安全だと決めつけられた籠に閉じ込められた、最後のピーター・パン。
幼い彼が自ら導き出した答えはただ一つ。
―――ユキオが求めた世界を完成させなくちゃいけない。
ナースコールを手繰り寄せ、ボタンを押しながら少年は身体の震えを堪えて腹の底から声を吐き出し誓った。
「ファルバロを継ぐよ…ユキオが戻ってくるまで……」
それは苦渋の決断だった。けれど幼い彼にはわかっていた。もしこの時彼を拒んだとしたら、世界中から哀れな伯父の仲間が消えてしまうのも同然なのだと。そして彼を苦しめる要因の一つにあるバロとは祖父であるハナブサ・イサムだということも。
白衣の看護師たちが駆けつけてくると共に、少年は部屋から押し出された。入れ替わりに入ってきたあの親戚の男が、暴れる伯父の右腕をねじ伏せ注射器を手に取った所で目の前でドアが勢いよく閉ざされた。
「薬の種類を変えるように指示をした」
呆然と立ち尽くす少年の肩を優しく叩き、祖父は穏やかな表情で呟いた。
「まだまだアレは手のかかる子どもだ…」
肩に乗せられた祖父の手が急に重みを持って感じられる。ファルバロの名を継いだこの時から、少年は自らのすべてをバロである祖父に捧げたのだと痛感した。
「セト。お前もいずれわかるだろう。その時までわたしが、お前の行く末を導いてやるからな」
頭を撫でる温かくて重たい掌の感触を確かめながら、セトと呼ばれた少年は小さな声で呟いた。
「バロ…の意味は、この世を統べる支配者」
小学校に上がった頃からセトは祖父に連れられてよくメール・ヴィ学園に出かけた。日本で暮らす時間が短い為に勉強に支障が出ると判断した祖父によって、途中から地元の寮つきの小学校へ通うようになった。
祖父自身も彼を後継者にと考えていたようで、授業を終えたらすぐに学園へ向かい仕事の様子を見学していった。彼よりも年上の生徒たちはみんな彼に敬意を払い、優しく接してくれた。そして何よりも祖父をバロと呼び心から尊敬しているの姿が幼いセトにもよく伝わった。それを見るうちに伯父から教えられた独裁者的なバロのイメージも、バロに尽くす操り人形のファルバロのイメージも少しずつ払拭されつつあった。
卒業式の度に生徒たちはこの世の終わりとでも言わんばかりの勢いで嘆き悲しみ、新しく入ってきた生徒たちは、こんな学園は見たことがないと手を叩いて喜んだ。
共通の価値観を持つことで学園に暮らす人々に、強い連帯感と仲間意識が生まれた。しかし極、稀にその常識を認めない反乱因子が入ってくる。彼らをバロは『シィクンツッ』と呼び疎んだ。
学園長室でシィクンツッたちの処遇を会議する時もセトは同席を命じられた。彼らの辿る末路は似通っている。ガドレで選別を装い実験に使われるか、それか転入期間に自発的に祖国から離れた遠い地へ飛ぶか、もしくは様々な不幸な事故で亡くなる。
今年は数が少ないのでガドレを利用しよう。そう重役たちと相談する祖父を見守りながら、セトは伯父から聞いたもう一つの意味を思い出していた。
シィクンツッ…窓を開ける可能性がある子どもたち。
それは学園に縛りつける子どもたちを、外界へ連れ出そうとするものの思想を危険視する故につけられた意味だろう。けれどシィクンツッたちの考えが理解できなかった。ここにいれば、美味しいお菓子も温かいベッドだってある。一生いたって退屈しないでいられるのに、どうしてわざわざ出ていこうとするんだろう。
首を傾げながら重役たちが決めていく決定事項に耳を澄ませた。
四季の移り変わりと共に、学園を囲う湖の周りの木々も様々な変化を見せていった。落ち葉が散り黒い大地に雪が積もるようになった頃、セトは八歳になり、親しくなった女子学生チュチュにそういった塀の向こう側の出来事を伝えるようになった。セトにとって些細なことでも、チュチュからすればまるで別世界のようにとても新鮮に聞こえるらしい。
毎日のように外のお話を彼女に聞かせるうちに、セトの心には淡い恋心が芽生えていった。それはかつて伯父に物語を読み聞かせていた時とよく似ていて、彼が胸に宿る温かな感情を恋だと認識するにはまだ及ばなかった。
七つ年上の彼女はグドゥと呼ばれる英才教育を受ける特別な生徒だった。彼女らは他の生徒と違い専用の教室を持ち、同じく選ばれた子どもたちと常に行動を共にしていた。中でもチュチュは成績も優秀で人望も厚い優秀な生徒として、教授たちからも一目置かれていた。よく学園に遊びにくるセトに、故郷にいる年の離れた妹を重ねて遊び相手をしてくれた。
長く母と離れて暮らすセトにとっても彼女の存在は安らぎを与えてくれた。
時折り他の生徒たちと違った意見をするチュチュに疑問を抱きながらも、彼女に甘えた。彼女には何でも包み隠さず話し、家族のことや伯父についてもすべてを伝えた。伯父の発狂の裏に祖父の暴力があったと聞いた時、チュチュは言葉を失い黙り込んだのを覚えている。
彼女を傷つけてしまったと錯覚して、セトは慌てて言い繕った。
「でも今、伯父さんは幸せだよ。だってどこにも怖いものなんてないから」
と言ってから、ふいに右腕に克明に残る注射の痕を思い出したがその考えもかぶりを振って否定した。
「いつかここに、恋人を連れてくるって言ってた。それまでぼくがファルバロでいて、二人を待っているんだよ。へへ…なんだかチュチュが前教えてくれた湖の伝説みたいだよね。伯父さんたちが戻ってきたら、きっとこの世界も変わるんだ。もっと幸せな場所になるんだ」
嬉しくなりつい相好が崩れる。そんな彼を、チュチュは憐憫の情を交えた複雑な面持ちで眺めていた。
そして冬休みを利用して日本へ帰ろうとした前日、チュチュはセトに胸の内を明かした。
「貴方は伝説に理想を重ねているけど、でも待ち続ける乙女が幸せなのか、消えてしまった恋人は幸せなのか…わからない。どちらにしても、私たちは事実を知らないから自分の夢を伝説に求めているのね。私は、待ち続けることを苦痛に思う。たった一つの事柄に執着して、他のことに目を向けないのはとても視野が狭いってことかしらね」
そう言って語るチュチュは終始、貼りつけたような笑顔だった。
腑に落ちないものを抱えたままセトは日本へ発った。そこで彼を待っていたのはハスミの死だった。交通事故で亡くなったハスミの訃報を聞き、後を追うのではと心配した親族は伯父の病棟へ駆け込んだ。その時にセトはハスミと伯父が従姉弟であり、幼少時を短期間だが北海道で一緒に暮らしていた仲だったことを知ったが、二人の関係を茶化して親戚が「恋人だった」と言ったので、セトは額面のままの意味を鵜呑みにした。
意外にも普段と変わらない態度の彼を見て安心感から油断した。彼を病室に残してハスミの葬儀の段取りを相談していた。一緒に絵本を読んでいたセトの目の前で、伯父は窓から飛び降りた。享年二十七歳というあまりに若い人生だった。しかし誰も恋人の死を彼に伝えていなかったので、彼の死は事故という形でまとめられた。
セトにはむかし投げつけられた本を遺品として分け与えられた。遺族は解剖を頑なに断り、警察の手から逃れるように早々に葬儀を済ませ埋葬した。しつこく警察から受けた質問などを聞いてくる親戚から、突然あらわれた男の子がセトを救ってくれた。彼はセトの手をとって走った。その背中はまるで二人にまとわりつく、様々なしがらみから逃げ出そうとしているようだった。
逃げたくて、逃げたくて、逃げ切りたかった。でも、もう、どんなに待っていてもユキオは戻ってこない―――
走りながら息があがり苦しくなる。呼吸が短くなり次第に脚がもつれても、男の子は止まらない。セトは止まった瞬間に、捕まってしまうのだと錯覚した。
―――ねぇ、伯父さん。伯父さんが帰ってくるまで、ぼくはファルバロでいないといけないのかな?
彼が残した物語の中に。セトに与えられた役の中に。彼らは捕まったまま逃げられない。ファルバロの名を冠した時から、それは既に決定してしまった運命のように。
「明日出ていくことになったの」
グドゥの塔で彼女は明るく言い放った。
長い髪が窓から入り込む爽やかで、やや冷たい風に吹かれ光を受けて輝いている。彼女が眩しく見えるのはきっとそれだけが理由ではない。心の底から喜びを享受し、自らの手で窓を開けて出ていこうとしているのだ。
セトの目には見慣れたはずのチュチュの顔もまるで別人のように見えた。彼がこれから受け継ぐ学園に背を向ける反乱因子。ここにいれば幸せなはずなのに、どうして、どうして、どうして…
乙女は伯父が築いた理想の世界を拒んだ。彼女は伯父まで道連れにした。今度はチュチュまでも連れていくつもりなの?
「だから私は出ていく」
明るい日差しの中にある少女の後ろ姿がとても儚く見えた。手を伸ばせば届く。窓を開けたイヒヌゥならば、そこから出ていけばいい。理想を貫くぼくらに牙を剥くなら、この世から抹消したって構わない。
「もう自分の未来を誰かに委ねたりしない。自分の家族を憎んだりしない。私は―――」
背中に指が触れた瞬間、渾身の力を込めて窓の外へ突き飛ばした。
宙を掻く指。驚愕したまま見開かれた双方の瞳がセトを捉えたまま、スローモーションのように降下していく。乱れた髪が左右に広がり地面に、羽根を伸ばした鳥のような影を落とした。
「!」
一瞬、視界の隅に茂みの脇に佇む金髪の少女の顔が入った。彼女の視線を感じ慌てて窓を閉めて鍵をかけると、セトは震える手でそれを飲み込んだ。
全身の震えが止まらない。自分は何も悪くないんだ。バロに逆らう奴を処刑してやったんだと、何度も言い聞かせ
「Dina da doo.」
と呟いた。
『彼女は舞台から消えた』ただ、それだけだと―――白紙のままだったユキオの本に、第一行として書き記した…とさ。さぁ。回想はそのくらいで終わってしまおう。物語のナレーターばかりを演じさせられては飽きてしまう。この程度の役なら他の連中にもできたはずだよ。
ねぇ、ユキオ。いい加減起きてよ。きみが今、意識の座にいるからぼくらは誰も動けずにいるんだよ。
…あいかわらず無視だね。それとも死んでいるのかな?
最初の人格のきみが生まれて、もう七年も経つんだね。チュチュを突き落としたあの日セトは初めてユキオを作った。バロの息子が望んだ理想を忘れない為に、セトはベッドの中でずっと繰り返し呟いていた。
Ⅾina da doo.って。
彼も本当は気づいていた。バロが求めるものは、バロの息子が望んだ姿とかけ離れすぎているって。でも否定した途端、セトは学園に集う子どもたちをも否定することにもなる。
ユキオ。だからきみが生まれたんでしょ? セトの本当の願いを叶える為に生まれたはずが、ずぅっと黙り込んだまま。
ぼくらはずっと前から知っていたよ。セトは常にみんなの要望に応えようとしていた。必死に方法を模索する上でぼくらは生まれてきた。完璧な存在なんてどこにもない。誰にでも分け隔てなく接してくれる、学園長の孫。しかも生徒たちそれぞれの悩みだって知り尽くしどんな時でも力になってくれる、まさにスーパーヒーローだ。
そんな奴がいる訳がない。一人の人間にそこまでできるはずがないから、ぼくらが分けて演じていくしかないじゃないか。みんなそれぞれに与えられた場面で役を完璧にこなしてきた。ファルバロの名を受け継いだ時から、バロへの忠誠を誓っていたからぼくらは誰もバロに嘘を吐けないし文句も言えない。
でもユキオとセトだけは違ったよね。きみたち二人は、まだファルバロになりきれていない。王にすべてを捧げきれていない。だからセトはあの女の子。リ、ン、コだったかな。彼女に助けを求めることができた。本来なら裏切り。死に等しい行為だけど、まだファルバロじゃないから見逃してあげることができた。
だってぼくらはみんな、セトのことが大好きなんだ。
けれどユキオ。きみはずっと眠ったままだね。彼を助けようともせず、ただそこにいるだけで、潜在的に彼を威圧しているだなんて知らないでいる。あんな約束をしたばかりにセトはいつまでも、いつまでも、物語の結末を決められずに悩んでいる。
ねぇ、いい加減……起きてくれよ。きみが戻ってくれなくちゃ困るんだ。
セトの身体は再び薬に侵されてしまっている。かつてバロの息子がそうであったように。彼の意識は遥か遠くに飛んでいる。こうしている間にいいように使われてしまう。
ユキオ。きみはいつまでも眠り続けるんだね。
彼が死んでしまっても、きみは永遠に眠り続けるんだろうね。ピーター・パンが死んだ後、残された迷子たちがどんな運命を辿るのか……
きみは何も知らないまま、物語は進んでいく。
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