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第二部 首を繋がれた王と姫君
断章 群れからはぐれた迷子の挿話
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若葉が生い茂る季節も雪が散る冬の日々も、月初めには必ず門の傍らにあの女の姿があった。チラチラと薄紅の花びらが舞う。冷たい雨が大地に叩きつける。皮膚を焦がす日差しが突き刺さる。木々が葉の色を変え、木枯らしと共に針のようになってしまった木々のシルエットが路上に描かれる。
どの景色の中にも彼女がいた。
白い息を吐き出し滑り台を上り順番を待ちながら、少し離れて佇む緑色のコートをまとった女を睨む。彼女はいつも天気に関わらず大きなサングラスをつけ、コートの不要な夏場には緑色の服を着て、園内で遊ぶ子どもたちを眺めていた。別に何をするでもなくただ一時間ほど子どもたちを見詰めて帰っていくだけの謎の女を、誰も気にせず父兄たちの間でも話題に出ることもなかった。
けれどいつも視線を感じる。
大きなサングラス。緑の色彩。怪談に出る幽霊とはほど遠い容姿だけど常にまとわりつく視線は、幼児であったぼくに十分過ぎる圧力をかけていた。
―――緑色の化け物。緑色の女。緑色の記憶。緑色の…みどり、い……
いつもの習慣で目覚ましが鳴る前に目が覚めた。
起き上がり枕元に置いていた眼鏡を取る。昨日は会議がやけに長引いてしまいベッドに入ったのも遅くなってしまった。副会長に就任し、周囲に告げることもなく転入してしまったキサメを楽しげに非難するジョナサンのしたり顔を思い出し硬くなった身体の筋を伸ばした。
馬鹿と愚か者は嫌いだ。
そう毒づくとベッドから抜けガウンを羽織る。ドアに向かって歩いた時、ふいに煙草の臭いを嗅いだ気がした。
「……」
ルームメイトは既に消えたのに壁にしみついた臭いは消えない。
振り向き誰もいない室内を一瞥してからドアを開ける。校舎へ向かう生徒たちで廊下は溢れいつもの喧騒とした朝の光景だった。そのうちの何人かがぼくを見つけ
「モーヴィエ、ミドリ!」
と挨拶をしてきた。それらに応えてから顔を洗っていると、後ろに並んできた男子生徒らが声をひそめ話をしていたのが耳に入った。
「だから冬休みもここにいるみたいだし、その間にデートに誘うんだよ」
「でも、今まで何人も断ってきてるって…」
年相応の悩みだな、そう思い持参したタオルで水滴を拭い振り向くと驚いた表情で
「あ、やぁ…ミドリ」
もう一人の生徒は直立不動のままだ。彼を一瞥し笑顔を浮かべると
「今朝も冷えるね」
軒先で連なる氷柱を睨み校舎と寮を繋ぐあの長い階段を思って憂鬱な気分に浸った。水場から離れようとしたぼくを見て、硬直していた男子生徒が突然息を吹き返した。
「リ、リンコは元気?」
赤く染めた頬に熱を帯びて潤んだ眼差し。息をするのも苦しげなその表情は、まさに恋をしている少年そのものだ。
「ここだけの話にしてやって」
隣で弁解する友人に頷き、失態に気づいて動揺し狼狽をあらわにする少年に向かって親切にアドバイスをしてやった。
「休みの間、暇を持て余すだろうから遊びに誘ってやったらいいよ」
「え、え? いいの?」
意外な反応だったのか彼は目を白黒させて驚いた。
「何言ってるんだよ。妹のいい友人になってくれたらぼくとしても嬉しいからね」
「ありがとう! 頑張って誘ってみるよ!」
「おいっ、やったじゃないか」
飛び跳ねて喜ぶ二人を視界から外し真っ直ぐ部屋へ戻る。クローゼットから制服を取り出し着替えていると、短いノックと同時にレオが入ってきた。
「やぁ、ミドリ」
「モーヴィエ」
首元のリボンを結んでいると、キサメの椅子に座りあいかわらずの調子で喋り出した。
「実はさぁ、来年の新入生と一緒にこの部屋を使ってくれないかなぁ? ほら、キサメが突然転入しちゃうもんだから、端数の三人で一部屋使う予定だった子をこっちに入れちゃおうってことになってね」
「構わないけど」
「助かるよ。ミドリの好みに近い、カワイィ子をチョイスしておいたからさ」
寝癖の残る髪を梳きワックスで簡単に固めながら「悪いけどそっちの趣味はないから」と苦笑を交えて断った。
「なかなか絵になる組み合わせだと思うんだけどなぁ」
鏡越しに腕を組んで思案するレオの様子を観察する。両刀使いと言うわりに、男女とも広範囲の支持を受けているのは、明晰な頭脳とは裏腹の態度が好感を得ているのだろう。普段から姉のシュカと共に薬が混入された菓子をよく摂取している所から、恐らく重度の中毒症だと疑われる。バロに絶対的な服従を誓うこの学園の典型的な生徒の姿だった。
「そういえばシュカはもう卒業だろ。どこにいくんだ?」
「ハンガリーへいくらしいよ。ほら、お土産にフォアグラとルービックキューブをもらった」
と言ってポケットから小さなルービックキューブを取り出した。確かハンガリーが発祥の地だったことを思い出し頷き返す。
「彼女、犬は苦手じゃない?」
意外そうに肩をすくめ「そうだけど、どうして?」と尋ねてきた。
「あそこは犬も電車に乗れる。もちろん犬専用の定期券だってある」
「そうなんだ! いやぁ…大丈夫かなぁ……アレルギーはないけど、それにもう家のものが住む所を探している最中なんだ。あっ、そうだ。なんなら住所が決まり次第教えようか? 姉は神経質だけど美人で、可愛い所もあるし」
「遠慮しておくよ」
笑いながら拒むとこちらの胸中を察した顔で、レオも苦笑いを浮かべた。そしてぼくが完全に着替えを終えたのを見計らって腰を浮かした。
「今日はこの前の試験結果が張り出されるよ。きっときみらは上位だろうね」
興味のない話題だ。
「ミドリも、リンコも…とても優秀だから、きっとバロにも可愛がられるだろうなぁ。素行がよければキサメだって、ね?」
貼りつけたようなつくり笑いに不穏な翳りが宿る。こいつはキサメの失踪の裏にあるものを知っている。死体などを確認した訳ではなさそうだが、十中八九彼が死んだものと察しているだろう。それとも手にした情報を利用し生徒たちの心理を操り、バロへの絶対的な恐怖と服従を促しているのか。
「あっまた増えたね」
壁に飾ったパズルを興味深げに眺めヒュウと口笛を吹いた。最近まとめて仕上げたものが床にも立てかけている。
「どれも難易度が高そうだぁ」
「そうでもないさ」
「いーや、こん何大きな奴を完成させるなんてかなりの根気もいるだろう?」
ふいにこれと同じ情景を眺めたことがある気がした。無条件にべた褒めをする大人たち。常に誰かの視線にさらされて、行く手まで理想を押しつけようとする。己が叶えられなかった夢を誰かに託すことでしか達成感を味わえない愚かな連中。
「こんなに沢山仕上げていったら、レベルを上げていくのも大変だろうね。最終的には尽きてしまいそう」
首を捻り傾斜にこちらを見やると「ミドリがライバルだって思う人間って、キサメぐらいだった?」と、やけに意味深長に問いかけてきた。
ライバル…か。おかしな響きだ、と苦虫を噛み殺したい気分を堪え答えた。
「どうだろうな」
納得いく返事を得られなかったレオはしばし考え込むように黙り込んだが、すぐに踵を返すといつもの愛想のよい態度を繕った。
「先にいくよ」
ドアが閉まると同時に空気の質も変わる。重たく、緊迫したこの感覚は常に視線を感じ続けたあの頃とよく似ていた。移り変わる季節によって変化する木々の色合いよりもグランドを駆ける砂塵に愛着を持ち、頭上で行き交う社交辞令よりも、雑踏に紛れて消えそうになる母の姿を探し求めた。
繋がっていたと思っていてもいつ裏切られるかわからない。延々と同じことを繰り返し日常は形成されるものと信じていたはずが、ぼくらが辿ってきた日々を振り返れば綻びばかりが目立つ。
『―――ただ翠に認めて欲しかった、だけ。翠の期待に応えたかった』
涙を溜めて歯を食いしばった琳子。目的の為に。と、ただ遂行することばかりに気持ちが捕らわれて、冷静な判断を下せずあいつを見る度にかつての自分を回顧して苛まれてきた。
これが結果か? 責めることでしか自分の価値を見出せなかったぼくは、視線を恐れていたあの頃となんら変わりない。それでも常に周りを大人で固められ、監視下で生きることに慣れていたはずが今さら、もっと別の手段を選ぶべきだったと後悔するべきなのか?
机の上に置いた未完成のジグソーパズルを見詰め、傍らに集めていたピースを手に取り適当な位置に置いた。同系色の背景部分なので、今の段階ではどこの部品にあたるのか見当がつかない。
学園に押し込められた生徒たち。同一に染めた仮面を片手に、バロが用意する舞台で演じることにだけに生き甲斐を見ている。そこに起爆剤を投与することが母の目的だったのだとすれば、それは確実に達成されつつある。けれど、ぼくの目論見は…
考えるのをやめキサメの枕カバーから封を切ったばかりのセブンスターを取り出し点火した。窓を開けると風が身を切るような寒さを運んできた。紫煙が風に掻き消されていく様を眺めながら
…ライバルと言うよりも、似た者同士だったのかもしれないな、と呟いた。
テストは常に紙面が赤く染まるくらい丸ばかりが並んでいた。採点の欄に満点とだけ書かれていれば満足する大人たち。誰もが相好を崩して手放しに喜んだ。
馬鹿げていると思った。
あいつらはいつも点数だけを見て納得している。なら評価の方法も変えてテストも数字だけ書けばいいじゃないか。いい成績さえ修めたら対象なんて関係ない。ぼくがぼくでいる必要もない。けれど同時に一種の喜悦も感じていた。
「お母さんの教育がいいのかしらね?」「偉いわぁ…お家の手伝いもしてこんなに成績がいいなんて」「おばちゃん、翠くんと琳子ちゃんが羨ましい」
口々にぼくら家族の欠点を補っていく言葉には素直に反応した。私生児扱いする親戚たちもぼくが優秀であればあるほど、認めざるを得ない。点数だけを見て満足する連中を軽蔑する一方で、常に向けられる視線には過敏になっていた。
「バッカねぇ。別にあんたがいてもいなくても、世界は回るのよ。何億人もいる地球上の人類の、それも世界を揺るがせるような人間はほんの一握りもいなぁいのっ」
煙草を吐き出す横顔は突き放すような冷たい口調の割に、どこかに慈愛に満ちた感情を感じた。
「大切なのはオリジナルの発想と創造。誰にも思いつかないものを考えて、それを形にしていくことで他人との違いを明確にすることができるのよ」
鏡に向かって髪をまとめピンでとめると、くわえていた煙草を灰皿に置き笑顔を作った。白いスーツに合わせて淡水パールのピアスをつける。薄紅色の口紅を塗り、アイシャドウを入れると、目の前で母親はまったく違う顔の女になり変った。
「要は個性がないって言いたいの?」
卑屈な思いを言葉にまじえ尋ねる。努力を認めようとしない返答に不満を覚えたが、ぼくの質問に数秒考えを逡巡しすぐに長い睫を上げ
「個性がない人間がいたとしたら、それが個性ってことになるんじゃないのかしら」
と言い残して部屋を出ていってしまった。その後を追いかけると玄関先で図書館から帰ってきた琳子と顔を合わせ
「今日は取引先と食事してくるから遅くなるわ。戸締りちゃんとしておくのよぉ」
と後半からはぼくに向かって叫び、外で待たせているタクシーに乗っていった。
部屋にランドセルを置きに行く妹の階段を登る音に耳を澄ませながら、母親の言葉を反芻して意味を考えていた。個性がないとしたら、それが個性になる? なら個性とは一体なんだ?
すべては数字になって評価される。用紙に印刷された数字が高ければ高いほど、それはぼくの代名詞になる。そこに個性はいるのか?
まるで謎々のようなその問いかけに似合う答えを探していると、チャイムが鳴った。もしかしたら母が忘れ物をしたのかもしれない。摺りガラスの向こうに浮かぶシルエットを見て、先入観を持ち疑うことなくドアを開けると緑色のスカートと黄緑のパンプスがあらわれた。
足元に落ちる影を見据えたまま身体が動かない。幼稚園に通っていた頃、よく入り口に佇んでこちらを見ていた女を思い出し身の毛が総立つ思いに駆られる。
「お兄ちゃーん?」
琳子が下りてきてこちらを見る。くるなっ、部屋に戻ってろと叫ぼうとしたが、琳子は大きな目をきょとんとさせて嬉しそうに訪問者に駆け寄ってきた。
「芹沢さん!」
予想外の名前に驚き、慌てて顔を上げて相手を確認した。
「こんにちは。妃紗子さんはもう出たかしら?」
縁の黄色い眼鏡をかけた、セミロングの女性は間違いなく母の第一秘書の芹沢夏美だった。パンツ姿の彼女しか見たことがないので珍しいロングスカートに戸惑った。
「お母さんならさっき出たよ?」
「そう。入れ違いになっちゃったわね。私も急いでいくわ」
こちらの心情を察してか「今日はちょっと気分転換してみたのよ」といって楽しげにスカートを翻して出ていってしまった。
再び閉ざされたドアを見詰めるぼくの前で、改めて玄関の鍵をかける琳子。不思議そうにぼくを眺め何げない口調で
「…むかしから緑色が嫌いね」
と呟いた。
「!」
今まで誰にも悟られたことがなかっただけに衝撃を受けた。学校でも友だちや母さえも、ぼくに好き嫌いがあるとは思ってもいない。これまで意識的に緑色に嫌悪感を抱くのを隠してきたはずが、どうして琳子には伝わっていたのだろう。おやつを求め台所に駆けていく彼女の背中を睨み、意外な所に侮れない奴がいるのだと思った。
冷蔵庫からオレンジジュースを取り出しながら、頭の片隅でちらつく記憶を回想した。
卒園と同時に姿を消した緑色の服の女。大学が付属する幼稚園だっただけに、卒園式には学内関係者など沢山の人間が溢れきていたとしても目につかなかっただけかもしれない。
心配していた小学校生活では一度も女を見かけなかった。けれど緑色の装いをした女性を見かけると、先程のように警戒心が頭をもたげることが何度もあった。
常に見られているストレス。それは卒園と同時に終わったはずだったのに…
「今日はドーナツだわ」
嬉しそうにテーブルに置かれたおやつを頬張る妹の顔を見て、強張っていた表情を崩す。二人分のコップにジュースを注いで渡すと琳子は嬉しそうに微笑んだ。
「お兄ちゃんが塾ない日って珍しいね」
そして思いついた様子でポケットから折り畳んだ作文用紙を取り出すと、琳子はテーブルの上にそれを広げた。
「今日ね学校でお話を書いたの。読んでみて」
「へぇ…変わったことをやるんだな」
作文を受け取りそこに書かれた文章を読む。
「最初にこれだけは守らないといけないっていう設定があるの。魔王が隠した世界の宝物を探す為に旅に出たってことになっていて、女の子が友だちを連れて旅に出るんだけど」
琳子の補足を聞きながら相槌を打つ。まだ文法を習ったばかりの稚拙な文章だが、物語の構成にはかなり工夫を凝らしているらしく、旅立ちを渋る友人を勧誘する時も宝物の価値を説きつつ、友人の弱みを衝くという妙な現実感があった。
「でも宝物っていうのが実は世界中から集めた人間の悪い気持ちだったの。本当は魔王も優しい神様だったけど、悪い気持ちを人間から取り除いた為に魔王になっちゃったんだ。そうとは知らずに人間たちは魔王が世界の宝物を奪ったって勘違いして……。主人公の女の子と友だちはそれを解放するかどうかを悩むってお話なのよ」
ぼくと比べ色素の薄い瞳が細められる。母親譲りの長い睫が目元に影を作り、光の微妙な加減が見慣れたはずの妹の横顔をまるで知らない他人のように演出していた。
独創的なストーリー展開。個性豊かな魔王の手下たちは主人公と触れ合ううちに、激しい葛藤を繰り返しながらも本来の善意を取り戻し次第に仲間を増やしていく。
最後まで目を通すのをやめ、琳子に返した。
「面白くなかった…?」
不安げに揺れ動く瞳を一瞥しかぶりを振ったが、彼女にかける言葉が思いつかなかった。
きっと同じ題材で物語を考えろと言われても、ぼくにはここまで伸び伸びと想像力を駆使して楽しく書けなかっただろう。拙いながらもキャラクターの性格を捉え、布石もしっかりと用意されている。何よりも琳子らしい、表現が目立った。
個性がない? 再び自問して、答えに窮した。琳子との違い。筋の通った鼻やくっきりとした二重瞼。肩まで伸びた髪の毛は、やはりぼくと比べて色が薄い。
もしかしたら、といつも思う。
もしかしたら琳子の父親は日本人じゃないかもしれない。しかし事実、そうだとしたらぼくらの父親は違うのかもしれない。デパートに展示されているマネキンが息を吹き返したような、整った面立ちの琳子。普段は大して意識することもないけど、客観的に観察してみるとやはり綺麗だ。何を取っても似ていない妹を見てふいに思いついたもう一つの可能性をあげてみた。
―――ぼくらは一切血の繋がりもない他人かもしれない。
喉に詰まらせたのか慌ててジュースを飲み込む妹を一瞥し、取りわけておいたドーナツに手を伸ばした。
食堂に入りさり気なく彼の指定席と化していた、乙女のステンドグラス下に視線をやる。案の定そこにはゲンジロウが一人で食事をとっていた。
彼の傍らにセトの姿を見なくなりもう十五日が経つ。隠し通路でぼくらを監視し、倒れたセトをジャックが連れ戻しにきて以来、誰も彼の姿を確認していない。
テスト期間を終え長期休暇を目前に控えた校内にはどこか浮き立った空気が漂う。休みの間、大半の生徒が学園に残るらしく例年として生徒会はいくつかの催しを考えなければいけなかった。
スープを啜りながら現在出ているいくつかの提案を検討した。また演劇部に公演を依頼してもいい。あの双子は上下層を越えて人気があるし、脚本も演出もなかなか工夫があって面白いので盛り上がるだろう。となると、他のクラブの顔も立てなければいけない。
キサメが抜けた後の美術部がどうなるかシュミレーションしてみようとしたが、ゲンジロウが顔を上げ一点に注目したので視線を追った。彼の見詰める先には琳子とティルに話しかける、あの男子生徒がいた。
頬を蒸気させる男子生徒に対しあいつは終始穏やかな態度を崩さない。傍目から見れば彼の片想いは歴然としているが、きっと彼の気持ちには気づいておきながら知らないふりを装っているのだろう。
それにしても先程から、ゲンジロウの視線はあいつに集中したまま動かない。目の前の妙な三角関係に冷笑を漏らす。ふいにティルがこちらに気づき、手を振ってきたので目を逸らした。ガドレで大いに活躍してくれた吹奏楽部や新体操部の連中にも声をかけて、何か役目を与えるか。どうせ同じ面子で新年を迎えるんだ。少々派手なことをしても構いやしないだろう。その為にもまず会計と相談して予算の見積もりも立てなければいけない。
「!」
突然腕に誰かが抱きついてきた。視界の端に映る黒髪を確かめた途端、それが誰のものかも察し内心溜息を吐いた。
「モーヴィエ! 今朝からミドリに会えるなんて、幸せだわぁ」
彼女の後ろでサエの分のトレー持つジェニファーが苦笑いを浮かべている。同情を滲ませた眼差しを受け止めぼくも肩を竦めて見せた。
「おはよう、サエ。ジェニー」
「朝からこんな子に捕まって、大変だね」
「どぉしてぇ? もしかして私がベティみたいだって言うの? 聞いてよぉ、最近ジェニファーったら私のこと、第二のベティとか言うのよぉ」
ようやく腕から離れすぐ隣に椅子を密接させて座った。何かとボディタッチをしてくる彼女に微笑みながら、十分その資質は備え持っているだろうとぼやいた。
「ベティの調子はどう?」
「それが全然だめ。今日こそは食堂くらい連れてこようとしたんだけど、部屋から一歩も出られないんだ。と言うより…」
言葉を濁すジェニファーの後をサエが続けた。
「ずっと点滴で栄養をとっているからよね。きっと。本当に痩せちゃって…私でも話しかけるのに躊躇しちゃうのよねぇ…」
目元に指を添える身振りをしたが彼女の眼もとには涙などなかった。
「ドクター・アンジーが看てくれるけど、ずっとつきっきりって無理でしょ? シュカが私らの代わりについてくれてるんだ」
同情の意を交え相槌を打ち慰めの言葉を伝えながら、意識は再び休み中の催しについて考えていた。
塾が終わり電車で近くの駅まで向かい歩いて帰る。子どもの足で約二十分ほどの距離だが、住宅街だけに電灯が少なく時間帯によっては人通りの少ない所でもあった。ぼくが通う塾では必修科目として英語の習得が義務づけられていた。しかし付属してもう一つの言語が学べることになっていたので、迷わずドイツ語を選択した。特に理由もなかったが、しいていうなら母に読み聞かせてもらったアンネの日記が多少なりとも影響していたかもしれない。
今日習った英単語とドイツ語を反芻しながら道を歩いていると、電柱の影に立つ誰かがこちらへ近づいてきた。暗がりでシルエットしか見えないが装いからして女らしい。防犯ブザーを握り締めて素知らぬ態度を演じながら歩き進める。帰ったら夕食を済ませて宿題をしなければいけない。明日の授業の準備もあるし…と違うことを考えて湧き上がる恐怖を押さえつけた。
ヒールが地面を叩く音が響く。確実に近づいてくる音に耳を澄ませながら、有事の際にはどういった段取りを組めばいいのか懸命に考え巡らせた。
このブザーだって相手を驚かせる程度の道具だ。いざとなればやはり女性といえど大人相手に体力には雲泥の差がある。ここから一番近い交番でも一キロも離れている。ならばそこらへんの家に入り込んだ方がいいだろうか。
迫るヒールに重なって自分の心臓の音まで聞こえてきた。いつの間にか掌は汗で湿っていて、滑り落ちないようにブザーを必死に握っていた。二人の距離が目測で五メートルほどまで縮まった。薄闇の下で女の顔が綻ぶのがわかった。こちらに向かって言葉を発そうと口を開いた瞬間、すぐ後ろで自転車のブレーキが鳴った。
「翠!」
ヘッドライトをつけた自転車に跨って祖父が片手を上げる。咄嗟に女は軌道を変え真っ直ぐ道を進んでいったが、身を翻した瞬間のライトに照らされた服の色は緑色だった。
それを見た途端、頭から血の気が引くのがわかった。間違いなくあの女だ。ずっと幼稚園からぼくを見てきた緑色の化け物。いや、ストーカーと言うのだろう。
「塾が終わる頃を見計らって迎えに行ったんだが…時間を間違えたのかな」
擦れ違った女には関心も示さず、恥ずかしげに頭を掻く祖父。仕事に没頭する母に代わって、よくこうして祖父母が家にきてくれていた。突然の登場に安堵しながら、辺りの闇に同化して消えていった女について考えた。
自転車の後部に乗せてもらい大きな祖父の背中に腕を回す。後ろを振り向いても点滅する電灯だけが漆黒の中にぼんやりと浮かんでいた。
「今日は何を勉強したんだ?」
「英語と第二外国語と算数」
と答えると、祖父はやや虚を衝かれた口調で驚いた。
「まだ小学二年生だというのに…お前はそんなに勉強するのか?」
「でも英語は中学に入れば覚えないといけないし、ドイツ語も発音が難しいけどなかなか楽しいよ」
「…ドイツ? ドイツに行くのか?」
「いつかは行ってみたいけど、まだ挨拶くらいしか覚えていないから無理だって」
頭上に広がる葉桜を見上げながら、どうして卒園以来あらわれなかった彼女が今更、それも積極的にぼくに接近してこようとしたのか悩んでいた。もし今後も出没するようなら母に相談し、警察に届けを出すべきだろうか。
「……血は争えんな」
祖父は独り言のように呟いた。
それについて言及しようとしたが、すぐに自転車を止めるとスタンドを立て「さぁ着いた。琳子が退屈にしていたよ」とぼくを抱き下ろしながら微笑んだ。
その顔を見て喉元まで出かかっていた言葉を飲み込む。こうしてぼくらに優しく接してくれる数少ない親族を追及することに、後ろめたさを感じて諦めた。家に入ると祖母が出迎えてくれた。すぐにご飯を温めなおすという彼女に礼を述べ鞄を置きに二階へ上がる。
さっき祖父が漏らした科白は、ぼくの父親に関する重要な証拠だろう。血は争えないということは、父も幼い頃からドイツ語を学んでいたのだろうか。すると彼はドイツにいる可能性もある?
ふっと溜息を吐き、だからといってドイツに飛んでいける訳もない。まだ行動に移すには足りないとぼやきながら部屋の電気をつけた。ベッドの上で琳子が大の字になって眠っている。手元に読みかけの児童文庫が置かれていた。
自分の部屋で読めばいいのに…
穏やかな寝息をたてる妹に布団をかけてやり机に向かった。と、机上に完成されたパズルを見て心臓が大きく飛び跳ねる。難易度が高く大の大人でも匙を投げ出した代物を、ぼくは二週間もかけてようやく大まかな部分を埋めたというのに、あいつはたった数時間で完成させてしまったのか?
驚きを隠せず妹を見やる。しかし苛立ちはまったく感じず、むしろ自分を越える人間の存在にほのかに胸を躍らせた。ぼくらを軽蔑しようとする大人たちに対し、共に戦える心強い仲間の出現に喜びを噛み締めた。
最初は軽い気持ちだった。
学校で父親参観が行われると言われ、職員室に呼び出されたぼくに教師はお祖父ちゃんでもいいのよ、と気遣うように説明した。別に憐れんでもらうことでもないが、周囲の人間からすればぼくらは片親だけの可哀想な子どもというレッテルを貼って見られている。
わかりました、そう答えると家に帰る途中で父親参観についての配布プリントをコンビニのゴミ箱に捨てた。同情するのは勝手だが一方的な気遣いは鬱陶しい。自己陶酔して喜んでいるだけだろうといつも軽蔑の対象としていた。電車に乗り塾へ向かう途中に市役所がある。いつも窓越しに通過していくそれを眺めていたが、ほんの出来心から市役所前で下りた。戸籍謄本を見れば今まで不可解だった家族の関係も一目瞭然になる。似ていない妹と何も語らない母親。彼女らとの繋がりを確かめることに特に意味はない。けれど、常に晒される私生児という視線に対抗するには何らかの知識を手に入れなければいけなかった。
小学生が市役所に訪れることに不審を抱かれそうだったので、受験の為、提出しなければいけないと説明しておいた。
そして手渡された書類に記載された母ではない母親の名前を見て、初めて我が目を疑った。事実を突きつけられて抗うこともできず、それでも自分の両親の名前だけはしっかりと脳裏に焼きつけた。
時任継男。小坂メグ。それがぼくを生んだ二人の名前。どこにも由良川妃紗子の名も、琳子の名前もない。まったくの、他人。それではこれまでのぼくの努力は、周囲から向けられる視線はまったく意味をなさないものだったのか? ただ独りよがりに奮闘していただけ?
「妃紗子もお前らみたいなガキを生まなきゃ、まだまだやり直せたのになぁ」
酔いに任せて吐かれた伯父の暴言が脳裏に蘇る。正月に祖父の家に遊びに行った時、嫌なことに顔を合わせてしまった。
顔を真っ赤にしもはや呂律さえ怪しくなった彼に判断能力があるとは思えなかったが、一方的に非難されることに不快を覚え居間に誰もいないことを確認してから反論した。
「伯父さんも年をとりましたね。今さらむかしのことを蒸し返して悔やむなんて、懐古趣味っていうやつですか? 子どもがいないならその分、貯金をしっかりしておかないと年金頼りの不安定な老後を迎えるのがオチですよ」
唾を飛ばして激昂する伯父を冷ややかに軽蔑し、騒ぎを聞きつけた大人たちの間をすり抜けて逃げた。生まれてきたことを否定されて、ぼくらの存在を無視して、悔しさのあまり歯軋りをする。馬鹿にされただけ見返してやる。侮辱された分、相手を上回る力を手にしてやろう。いつも屈辱をバネに努力してきた。けれど、血が繋がらないとわかった今、ぼくは一体何の為に頑張ってきたのか―――
わからないじゃないか。
塾が終わりいつもの道を通って帰る。電車を下りて今度は誰も迎えにきていないことを確認し、力の抜けた足取りで家路を辿る。
電柱の脇に佇む女を見かけても以前のように恐怖はあらわれなかった。春の陽気な夜空の下で、淡い光に照らし出された女の装いはやはり緑色で統一されていた。サングラスをかけていない、どこか鋭い眼差しは紛れもなくぼく自身が受け継いでいる遺伝子だ。
翠…か。と、自分の名前を反芻し自嘲する。自己主張の塊のような女だと侮蔑したが、それ以上彼女に関心を示さず、こちらに向かってくるのも無視して歩調を速めた。
「待ってちょうだい! 翠ちゃん」
馴れ馴れしい呼び方だ。
ぼくの後を追いながら女は必死に言葉を紡いだ。
「私よ、お母さんなの。覚えてない? あいつが浮気したくせに私から貴方を奪ったの。そのくせ自分はさっさとドイツへ逃げちゃって。ねぇ、私はずっと―――」
防犯ブザーを鳴らして女の顔に投げつけた。怯んだその隙を狙って咄嗟に走り出す。背後で「翠ちゃぁん!」と声が聞こえたが逆に背中を押され全力で疾走した。
途中で犬を散歩に連れ出していた中年の男と顔を合わせたので
「あっちにおかしな女がいたんです!」
と身体を震わせて叫んだ。
「え?」
男はすぐに駆け出した。走りながら携帯電話を耳に当てると
「お宅、警察? あのねぇ」
という声が聞こえたのでぼくはそのまま家に向かった。
玄関先まで琳子が出迎えにきてくれたけど、彼女はぼくの顔を見るなり怯えた様子で問いかけてきた。
「どうしたの…?」
大きな瞳が何度も瞬きを繰り返す。五感を使ってぼくから発せられる異常な空気の原因を探ろうとする琳子から逃れるようにして自室へ駆け上った。そして電気をつけず外の闇と同化した真っ暗な室内にこもって初めて、理性で押さえつけていた自分の感情が解き放たれた。
……両親の仲を裂いた女に育てられていた。父親はぼくを捨てた。あの女も…所詮は自分の将来でも憂いて助けを求めてきたに違いない。馬鹿馬鹿しい! 大人が用意した舞台で道化を演じさせられていただけなのか? 群れに紛れて従順であることを望む世間の目は、いつも型からはみ出ようとすることを否定してきたくせに今さら…
これまで築いてきたものを壊されるとは―――
優秀な成績を修め、特に反抗もせずに人当たりだって悪くはなかった。誰もがそれを満足げに眺めてきたじゃないか。例え片親だけの家族であろうと、息子のぼくがしっかりしていれば後ろ指を指すこともない。だから頑張ってきた。それも、家族を守る為に。
虚ろに宙を彷徨う視線の先に、母さんと琳子と共に過ごした思い出が浮かんでは消えてを繰り返した。けれどそれもすぐに目元から溢れる涙で見えなくなった。
それに比べてなんてあいつは自由なんだろう。そこにいるだけで自然と注目を集めている。生まれ持っての才能があるから母親によく似ているから血が繋がっているから―――
ぼくとは違う。努力して手に入れたものも、あいつにかかれば一瞬だ。
都合よく手を差し出す大人たち。でも奴らの掌で踊らされることのない琳子。強くて柔軟な発想を持つ自由な妹…だった。同じ立場にある存在だから、自分を超えた才能を手放しに喜ぶこともできた。容赦ない残酷な眼差しを向ける世間に、大人たちに、共に戦っていける仲間だと思っていた。それも、血が繋がっているからという、安易な発想から。
今まで一度も感じたこともない激しい思いがのた打ち回る。
頭を掻き毟り、とめどなく流れる涙を袖で乱暴に拭いながら嗚咽を漏らした。他人だとわかった途端、自分の中で理性と感情の歯車が噛み合わなくなった。
「…ちく…しょぉ……」
挫折を覚えた最初の瞬間だった。
窓際に席を構え壇上に立つ教授から目を逸らし、ぼくはずっと降り続ける雪を眺めていた。この国にはクリスマスを祝う習慣はないらしく、熱心なキリスト信者の生徒たちは一時帰国をし海外で過ごしてから帰ってくるそうだ。そうまでして学園に戻りたがる理由はなんだ? やはり薬物に対する依存からか?
あれだけキサメが調べていたはずが、まったく証拠が掴めていない。あいつが消えて以来教授たちの視線が鋭くなった。一挙手一投足を監視するように目がついてくる。
警戒しなければいけない。
「……ふっ」
つい口元を歪め苦笑をした。目的の為にここまできのはずが、どうして怖気づく。
脚を組み替え黒板に数式を羅列していく教授の動きを眺めた。生徒たちも彼の講義に聞き入って、教室内は恐ろしいほど静まり返っている。が、少女の叫び声によって静寂は打ち破られた。
「いやぁぁ―――」
廊下を縦断する悲鳴と足音。続いて数人の教授たちの声が聞こえてきた。
「待ちなさい!」
「ベティ! 待って!」
入り口付近に座っていた生徒がドアを開ける。すると丁度のタイミングで赤毛を振り乱し走るベティが駆け抜けていった。後を追うドクター・アンジーを筆頭に数人の教授がものすごい形相であらわれた。
呆気にとられた壇上に立つ教授もしばし呆然と立ち尽くした。数分前の沈黙が嘘のように騒然とする教室。近くに座る生徒たちが声をひそめて
「ほら、キサメが転入しちゃったから…」
「あいつもひどいよな。後片づけくらいしてからいけばいいのに」
と愚痴をこぼした。
冷淡とした口調から彼らの本心を探る。彼女に同情的な態度を演じているが、心の奥では近くベティも消えるだろうと見切りをつけていた。容赦なく切り捨てていくことで、体勢を維持するバロの、あの男の真意はどこにあるのだろうか。
遠のいていく彼女の悲痛な声を聞きながら、白紙のままのノートに目を落とした。
母に頼んで塾の回数を増やしてもらった。時間も早め終わる時刻も伸ばした。家にいれば琳子とどうしても顔を合わせてしまう。それが何よりも苦痛だった。
小学校に入学したばかりで学校生活のことを色々と喋りたいのだろうが、できるだけ避けて会話も短く区切るようにした。口を開けば罵詈雑言が飛び出してきそうで、気をつけていても心許ない言葉が、何も知らない彼女を傷つけるのではと恐怖していた。
ぼくが態度を変えれば勘のいい母親は気づくかもしれなかったが、会社も軌道に乗り始め帰宅時間が深夜を回ることも多々あり、心身ともに疲れていた彼女はぼくと琳子の間が微妙に変化したことにも大して気をとめなかったようだった。
琳子は一人で過ごすことの多くなった時間を近くの図書館にいったり、ぼくが使った英語の教材を眺めるなどして潰すようになった。いつものように学校が終わり塾に向かおうとして、鞄に入れたはずの教科書を忘れたことに気づき慌てて家に戻ったことがあった。
鍵がかかっており静まり返った家の中を見て、琳子は今日も図書館にいるのかなと思った。二階の自室へ上がりドアを開けようとした時、中から見事な発音の英語が聞こえてきた。
テープの声に被さって琳子の声が響く。
ドアノブを握った指に汗が滲む。その箇所は一昨日ぼくが塾で学んだ単元だった。
玄関のチャイムが鳴り琳子がぼくの部屋から飛び出してきた。そしてぼくと目が合うと嬉しそうに頬を緩ませ
「あっ、お帰りなさい」
と言って下りていった。
邪気のない笑顔。まるっきり悪びれた様子もない、愛情を享受することが当たり前だと信じきった妹。
妹……だった、他人。
自分より優れたものを認められず、悔しさに混じって憧れに化けた特異な感情の正体を、この頃のぼくはまだ見抜けずにいた。
いつからか琳子は図書館の職員と親しくなり、よく家にも連れてくるようになった。母親も二十歳そこそこの男性に好感を抱いたらしく、時に珍しい三人が揃った夕食に誘うったりもした。
わざわざ二階から下ろしてきた椅子に座って男は上機嫌で二人に話しかけていた。別に中身にそれほど意味も教養も伺わせない、どうでもいい世間話に母も琳子も笑顔で応じた。
作り笑いではないが上辺だけの愛想のよさは、さすがによく似ていた。母子の一見してクールなようで、細やかな心配りや適度な相槌を受けるうちに男は顔を赤らめて延々と喋り続ける。
最近の新書や児童文庫の話から始まって、利用者がここ最近減っている、マナーが悪い。それに比べて琳子ちゃんは躾もいき届いているし、職員の中でも評判がいいとおだてた。いくら噛んでも味がわからずじまいだったハンバーグを胃に納めると、ぼくは早々に席を立った。この調子ならあの男はまだ居座るだろう。
デザートはいらないの? と問う母に宿題があるからと断って自室にこもる。
宿題が出されているのは本当だったが、やる気が起こらず製作途中だったパズルに向かった。完成図を頭の中で想像しながらピースをはめていく。けれどものの数分もしないうちに集中力は途切れた。全身の気だるさを覚えベッドに横たわると、急に胸が締めつけられるような感覚に襲われた。
三人の笑い声が聞こえる。久しぶりに母親と顔を合わせての食事だったが、大して言葉も交わさずに終わってしまった。それもこれも、全部あいつがあんな男を連れてくるからだ。せっかくの夕食なのに楽しくなかった。肉の味も、大嫌いなトマトの味さえわからずじまいだった。
男が母や琳子に向けて言葉を発するたびに、頭のてっぺんまで一気に血が駆け上ったような憎悪を感じてしまう。どうして同じ他人のくせして、あいつばかり喋るんだ。どうしてぼくだけがこんな疎外感を味わなければいけないんだ。
ベッドに向かって拳を振り下ろしながら、苛立ちを発散させる。男が帰れば下に戻れる。その時こんな気持ちを引きずっていたら絶対に見抜かれてしまう。
ちくしょう…ちくしょう……ちくしょう!
埃を立てるベッドに何度もパンチを繰り返しながら、声を押し殺して呻いた。
授業を終えて廊下に出ると生徒たちの動きに一定の流れができていることに気づいた。
成績発表が講堂で行われていることを思い出し納得する。特に結果は気にならなかったが、確かめておきたいことがあったので流れに乗って講堂へ移動した。壁一面を使って最下位から上位までをすべてリストにし展示してあった。生徒たちの数は上位が貼り出されている箇所に集中していたが、そちらには目もくれず最下位から順に名前を確認していった。
名前を辿っているとドーニャが駆け寄ってきた。
「生徒会長がどうしてそんな下を確かめているのよ。貴方は最高位よ」
「一応すべてに目を通しておきたくてね」
ふぅん、と肩を竦め黒い瞳を意地悪げに光らせた。
「貴方の妹も最高位よ。それより見て。意外にもコルスティモが中間にあったわ」
「そう」
あれだけ授業をエスケープしていただけに、基準値以下の生徒は退学と聞いていたので思わぬ朗報につい安堵してしまった。やはりファルバロのフィアンセという肩書きが効力を発揮しているのだろうか。ともあれ目的を達成したのでもう用はないが、ドーニャはまだもの足りなそうに立っていたので話かけてやった。
「きみはどうだった? 毎年女子の上位をシュカと争っているんだろ」
「えぇ、悔しいけれど負けたわ。言い訳のつもりでもないけれど、私にも内緒でリズが転入しちゃって…少しショックを受けちゃったの」
「随分仲よくしていたからね」
「でも貴方も同じよね。キサメとはよきライバルだったんでしょう? 寂しさのあまりベティみたいに発狂したりしないでよ」
片目をつむり去っていくドーニャに笑いかけながら、傍から見ればライバルと呼べる仲だったのか、と改めて感じた。
よく考えればこれまで誰も理解しようとしなかったぼくの、最も身近な所に立っていたのは、あいつくらいだったのかもしれない。
時計の針が十時を少し回った頃、ようやく男は帰宅した。最後に見送りだけ参加してリビングに戻った。母は琳子に先に風呂に入るよう促し洗い物を始めた。それを見てぼくのテーブルを拭くなどして手伝いに回った。
「あんたって意外と嫉妬深いのね」
傍らで洗っていった皿を乾いた布巾で拭いているぼくに、軽い口調で話しかけた。
本音を見事に衝かれ、恥ずかしさと動揺から「何のこと?」と素知らぬふりをして問い返した。
「母親を見くびらないでちょうだい。あんたがトマトを食べるなんて、犬が箸を使う並みに驚いたわ」
手についた洗剤を丁寧に流し、今度は拭いたお皿を棚に戻しながら紡いだ。
「何考えてるんだかしらないけど、琳子の面倒も見てもらってるんだし……あまり敵愾心を燃やさないでよ? まぁ、向こうは気づいていないみたいだからよかったけれど」
あの男が使った皿は特に念入りに雫を拭ってから母に手渡した。
「はい、お疲れ様。そうだ…お祖父ちゃんたちが夏休みに別荘にくるかって誘ってくれているんだけど、どうせだから行ってきなさいよ。兄妹二人で旅行ってのもなかなか楽しいわよ」
『兄妹』という形容につい卑屈な思いが込み上げてきたが
「夏期講習はキャンセルしとくよ」
と答えて台所から離れた。
リビングに向かおうとするぼくを呼び止め、母は真剣な面持ちで声をかけてきた。
「琳子は妹なんだから…優しくしてやるのよ」
そこに秘められた意味に気づき不意に顔を背ける。彼女の猫のような瞳に見詰められたら、心の奥で疼く気持ちをすべて吐き出してしまいそうだった。
「あ、ねぇ、もしかして琳子ちゃんのお兄ちゃんかな?」
校門を出た所を見知らぬ女に呼び止められた。三十代頃の地味な装いの化粧気のない女だった。普段から身だしなみには気を遣っている母親を見慣れている為、目の前の地味な女に密かに不快感を抱いた。
「そこの図書館に勤めている者だけど…佐久田賢治って知ってるかしら?」
「佐久田…?」
知ってるも何もつい昨日も琳子を家まで送り届けにきたあの男だ。頷き返すと、女は一瞬表情を緩め、しかしすぐに眉間を寄せると
「単なる取り越し苦労かもしれないんだけど、琳子ちゃんと仲よしになる前にも何人か女の子に声をかけていて……その、もしあまり彼がしつこいようなら誰かに相談」
「公的機関…つまり、警察にですか?」
女は、え? と声を詰まらせてぼくをまじまじと見詰めた。
「佐久田さんに幼児趣味があるとしたら、前科も結構あるんじゃないですか? まぁ泣き寝入りしていなければ、の話ですけど。もしも妹に何かあったら、貴方が責任を取ってくれます?」
「そ、そんな…あのね。貴方、お兄ちゃんでしょう? 妹さんのことが心配じゃないの?」
『妹』という単語が引き金となりぼくは露骨に嫌悪感をあらわにし反論した。
「だからこうして責任の所在をはっきりしろと、お願いしているんじゃないですか。警察も、何かが起こってからじゃないと動いてくれないんです」
恐らくこの女が単独で注意を促しにきたに違いない。もし職場にこのことが知れたらどうなるだろう。善意のつもりだろうがぼくには、単なる責任転嫁にしか映らなかった。有事の際にはきっと証言台に立ちこう言うだろう。
「私は…同僚を疑うことはできないけど、でも、心配だったからこうしてきたのよ」
予想通りの答えに冷笑を投げかける。
優しい、妹想いの兄貴はもうどこにもいない。ここにいるのは、そんな化けの皮を被ったただの捻くれ者だ。無関係の便宜上だけの他人。『妹』が他所の男と親しくするのを見て内心、腸が煮えくり返るような苛立ちを必死に隠している。
あいつを認めた時に得た仲間意識は、家族の輪から外れた途端にとんでもないものへと変化してしまった。男が幼女に恋するように、ぼくもまた、唯一自分を超えるものとして認めてしまった妹に憧れ以上の―――恋心を抱いてしまった。
昼食を終え食堂を出ようとしたぼくを、先程からずっと入り口で張っていたティルが呼び止めた。
「もう一度ちゃんとした話し合いの場をもうけたいの」
周囲の視線などまったく意に介さない鈍さ。彼女は自分の行動がどれだけ生徒たちの関心を集めているのかわかっていないのだろうか。
足早に廊下を移動する後を必死に追いかけながら続けた。
「ゲンジロウは私たちの手伝いをしてくれるわ。だからみんなで協力しましょうよ」
みんなで協力…か。あいかわらず健全な考え方だな。人気のない所まで移動してからようやくティルと顔を突き合わせた。
「人目を憚らずそんなことを言わないでくれないか」
「そうでもしなきゃ、貴方ってば聞いてくれないでしょ」
悪びれる様子もない堂々とした態度で応えた。
「それにリンコとも喋っていないじゃない。あんな最悪な形で兄妹の会話を終えたままにするなんて、尋常じゃないわよ」
「四六時中ぼくらを監視しているような物言いだな」
ベティといい、サエといい……ここの女どもには異常に執着心が強いのか? 嘆息しながら彼女の顔をまじまじと眺めていると、頬を紅潮させ毒づいた。
「わ、悪い?」
良いも悪いもないが、ここで断ったとしても諦めないだろう。それにこれまでずっと、突き放してきたのに今さらまともに話し合えるとは思えない。
「……話すことは何もない」
「あるわよ! 貴方ってそうやって問題から逃げてるだけじゃない! 全然解決にもなっていないわ」
核心を衝いた言葉に、無意識に眉間に皺が寄ったのがわかった。
「ベンジャミンの件やファルバロのことについては協力するといった。けれどこれはぼくら家族間の問題だ。口出ししないでくれ」
「リンコも貴方を兄として慕っている。本当は二人とも、お互いを認め合っているのにどうして…目を逸らすのよ。彼女はいつも貴方が手を差し伸べてくれるのを待っているわ。それなのに先に傷つかないようにバリアーを張っているのは、貴方なのよ! ミドリ」
真摯な瞳がぼくを捉えて離さない。強靭な意志を感じさせる、それでいて今にも泣き出しそうな顔。深刻ぶった表情は昨日よりも血色が悪い。もしかしてこんな他人の問題について真剣に悩んでいたのだろうか。
……ただの馬鹿だな。
「何…よ」
「いや、別に…」
時計を一瞥し、つい引きつってしまった頬を緩めた。会議までまだ十分余裕がある。この時間なら誰もいないだろう。
「後で生徒会室にこいよ」
ただの気まぐれだったその提案に、ティルは飛び跳ねん勢いで喜んだ。
窓を叩く木と豪雨に混じって、一階から聞こえる悲鳴のようなものに気づき咄嗟に目を覚ました。いつの間にかこんなに天気が荒れていた。琳子を追い出してからどれぐらいの時間が経ったのだろう。
ふいに下が静まり返る。寝ぼけていた脳が急に我に返り、この部屋から出るなと警鐘を鳴らした。伊豆の別荘へきた初日。琳子と一緒に行く初めての旅行だった。ぼくがずっと黙っていさえいたら、上辺だけの兄妹は演じ続けられる。だからこれはその為の試金石なのだと言い聞かせ新幹線の中でもできるだけ平穏を装って会話をしていれた。
けれどあいつがぼくの本にジュースをかけ、それを謝らなかったことが癇に障り怒鳴ってしまった。これまで誰かに大声を出して怒るということがなかっただけに、琳子は顔をくしゃくしゃにして家を飛び出した。
近くに海があるだけの田舎だから大丈夫だろうと、祖父母は自己嫌悪に陥るぼくを慰めてくれたがあいつが戻るまで部屋に閉じこもっていようと決めて、そのまま寝入ってしまったようだ。
クーラーもかかっていないのに寒気を覚えて腕をさする。さすがにこんな天候だ。琳子も帰っているに違いない。そう、自分自身に言い聞かせて部屋から出る。
「……」
空気が違う。鼻を突く生臭い空気に一瞬吐き気を催した。
嫌な予感が脳裏によぎる。耳がおかしくなるくらいの静けさが不安を掻き立てる。震える身体を手摺で立て直しながら、沈黙を破らないように足音を消して階段を下りる。
階下から誰かが慌しく歩き回る気配が伝わった。
真っ白の壁に赤く染まった手形が残っている。磨き抜かれたはずの床が鮮血で汚れている。揃えて置かれていたはずのスリッパが乱雑に散って、玄関マットが水を含んだ雑巾のように赤い血でびしょびしょになっていた。大きな何かを引きずったような血痕が玄関からリビングまで続いている。
玄関に備えていた子機電話をポケットに無理やり押し込み、明日、ぼくと一緒にコースを回る為に用意していた祖父のゴルフクラブを握り締める。心臓の鼓動が頭の中でこだまして、冷静な判断能力を失っているのがわかった。
リビングから短い呼吸音が聞こえる。そっと足を踏み出し壁にくっつくようにして中を覗き込む。
そこは生臭い臭いが充満していた。まるで空気に色がついたみたいに、リビングは薄紅色の気体が漂っているように見えた。男が屈み込んで何かをしている。見覚えのある背中が、横たわった祖父の身体に食い込んだ包丁を抜こうと躍起になっていた。
テーブルの上に覆い被さるようにして祖母が倒れていた。床に滴る鮮血はまるで映画の中の出来事のように、信じられないくらい大量にこぼれていた。
全身から血の気が引く。思わず眩暈がした。
「ヒー…ヒィ……」
呻き声のような奇声が耳に届く。濡れた手で包丁の柄を掴むもなかなか力が入らないらしく、男は立ち上がったり座ったりしてなんとか祖父の体に深く突き刺さった包丁を抜き取ろうとしていた。
―――殺サレタ。
一瞬の恐怖の後に使命感が燃え上がる。殺された二人に代わってあいつを抹殺しなければいけない。今、実行しなければぼくが殺される。麻痺した感情を押さえつけ、本能が感じた恐怖に従い一歩踏み出す。
さっきよりも血の臭いが強く感じた。
「……っ」
わずかに開いた唇から不規則に呼吸音がこぼれる。ゴルフクラブを頭上高く構え、咄嗟に男の背後に回り渾身の力を込めて振り下ろした。
「!」
クラブの先端が脳に直撃する。骨に当たり振動が伝わってきた。男は全身を痙攣させると驚愕した表情で振り向いた。
佐久田……
そう認識すると同時に二打撃目がを横顔に打ち込んだ。バランスを崩し倒れ込む男の頭を狙って何度も打ち込む。男は両腕で防御しようとするがその隙間を狙って繰り返し攻撃をした。
力では勝てない。けれど多くダメージを与えれば、勝算はある。こんな奴、殺シテシマエバイイ。明確な殺意に従って本能が命じるがまま、ゴルフクラブがひしゃげるのも構わず振り上げた。次第に血が吹き出し顔や服にかかったが同じ行動を繰り返すうちに、感覚が鈍り自分が何の為に何をしているのか、その目的も曖昧になってきた。
泣き喚く男の声も、骨を打ち砕く音も、肉が切れる、音も、すべてがガラスを通した向こう側の世界の出来事のようで、赤く染まっていく指も、ゲームの疑似体験をしているような気がした。
助けを乞う男の姿。不自然な方向へ曲がった腕。深紅のペンキをぶっかけたような顔。もしこんなゲームがあれば、なんて不快感極まりないのだろう。すぐにでもリセットして、やり直したい。リトライしてもっといい方向へ進みたい。
もしかしたらどこかに、ボタンがあるかもしれない。
男がピクリとも動かなくなってから、ぼくは視線を彼から逸らし宙へ向けた。
見えないだけであるかもしれない。
生温かな液で濡れた顔に手を当てて、座り込んだ。
…ゴトッ
一切の音が遮断されていた世界に、床に落ちた電話の音が蘇る。ぼくの目にはまるでそれが電話に姿を変えたリセットボタンのように思えた。
人殺しになったけどこれでもう一度やり直せる。どこから始めようか。緑色の化け物も、形ばかりの家族も、何もいらない。次こそは、平凡で、誰も注目なんてしない……退屈なくらい自由な人生を歩もう。
1…1……0。
指は迷わずその番号を押した。
佐久田の部屋からは若き頃の母の盗み撮り写真が見つかり、長年に渡り母娘をストーキングしていたことが発覚した。また余罪についても明らかになり傷が回復し次第、逮捕起訴が予定された。
事情聴取でどういう気持ちで犯人を殴ったのかと聞かれ、ぼくは取り乱したふりをして答えた。
「…真っ赤になっていて……男がこっちを見た時、ぼくが殺されるって……怖くて」
あの男に対し芽生えた明確な殺意を否定した。祖父母の死体を目の当たりにし、パニックに陥った哀れな子どもを演じる。さすがの警察たちもそれ以上の追及はしてこなかった。後に裁判でぼくの元に忠告にきたあの女職員が証言台に立つこととなったが、母の強い反対によってぼくも琳子も裁判所には赴くことはなかった。
―――リセットボタンはどこにもない。
何をしても視線はつきまとう。マスコミが事件を騒ぎ立て、家の周りには常にカメラが並んだ。鳴り続ける電話。やまないチャイム。テレビや新聞の見出しを飾るゴシップ記事。琳子は入退院を繰り返した。一人になるとあいつの声が聞こえてくると訴え、ひどい時には泣き叫んで暴れた。それを見て母は自分自身を責めていた。けれど世間の関心は同情に大きく傾き、母が経営する会社は更にその名を馳せることとなったという皮肉な副産物もあった。
何かと相談に乗ってくれた芹沢や周囲の大人たちは、家族の中でもいち早く日常に戻ろうとしていたぼくの前向きな姿勢を褒め称えた。以前より向けられる視線にも悲劇を克服しようとする賞賛と羨望が混じった。
しかし過剰な報道はぼくらのプライベートまで嗅ぎ回り、二人の父親が違うことまで突き止めて面白おかしく誇張しそれをブラウン管に垂れ流した。真実が明きらかになるのを恐れた母は、退院したばかりの琳子とぼくを呼び異父兄妹だと嘘を告げた。
雨が降る夜だった。ショックを受けた琳子は泣きながら家を飛び出し、残ったぼくは母を罵った。
「どうしてそんな嘘を…! もう知ってるんだ。時任継男と小坂メグがぼくの両親だろ!」
紫煙を長く吐き出しながら母はやや視線を漂わせてから断言した。
「あんたが琳子を好きだからよ」
「!」
どうしてばれていたのかわからない。普段からそんな気持ち、押し殺して…必死に、必死にごまかしてきたはずなのに。灰皿にまだ長い煙草を押しつけ言い訳がましく呻いた。
「確かにあいつに奥さんがいたのを知っておきながら付き合って、それで結果的に二人は別れた。あんたから両親を奪ったからには…幸せになって欲しいのよ」
母の言葉に切実な願いを感じ、開けたままにしていた口をつぐむ。
「それに琳子はあんたを実の兄貴だって思って信じてるわ。今までみたいに三人でいい関係でいたいの」
懇願するように胸の前で手を組むと、真摯な眼差しを向けてきた。
―――またか…
どいつもこいつも、ぼくに向ける視線に何らかの見返りを求めている。理想を貫けと、これまでの平穏な毎日を続けろと、いつも、ぼく自身の希望は二の次だ。
苛立ちを溜息でごまかし、肩で息を吐き出しながら「わかったよ」と呟いた。
「代わりに、父親に会わせて」
母は一瞬目を見張ったが小さく頷いた。
ドイツへ向かう空港内で何年ぶりかにあの緑色の女を見た。他には誰も見送りにきていない。一人でも行けるとごり押しで断ったからだ。
ゲートに並び背中に向けられた女の視線を意識する。どこでぼくが留学すると聞いたのか、ストーカー気質の女から生まれた自分にまで、まさかその気はないだろうなと内心毒づく。
「次の方、こちらへどうぞ」
手招きされた方へ向かおうとしたその時、背後で声が上がった。
「翠! 身体に気をつけるのよ。頑張るのよ!」
人垣の向こうで必死に手を振る緑色のコートをまとった女。少しでも目立とうと飛び跳ねている。
恥ずかしさのあまり顔を真っ赤に染める。傍から見たら見送りにきた母親そのものだ。ぼくが何の為にドイツへ行くのか、その理由も知らないくせに能天気に母親気取りで声援を上げる小坂メグ。大人びた外見にそぐわずやることはどこか子どもっぽい。
やめてくれ。
声を張る小坂メグに心の中で願う。
みっともない、馬鹿にされるだろ。どこかで話のネタに使われるだろ。誰かにまた、噂をされてしまうだろっ!
「みーどーりぃ!」
大きなサングラスを外した目元に溢れる涙を見つけ、胸の奥で締めつけていた何かが弾けた。
「!」
気がつけば右手を大きく振っていた。何度も何度も、腕のつけ根からちぎれるくらいに動かし歯を食いしばって泣いた。
祖父たちが死んで以来、初めて流す涙だった。
ずっと片親だから、血が繋がらないから、兄だからと自分で自分を束縛していた。いつも現状に不安を抱え、それを打破する方法も見つけられず貼りつけた仮面を剥がせずにいた。むちゃくちゃな母親たち。一方的に影でぼくを見守っていた生母。引き取っただけで放任してきた育ての親。二人がいたからぼくがいた。二人の所為で、今の自分が生まれた。
何を否定すればいいのかわからない。でも、理屈で考えるのをやめて、こんな風に子どもみたいに泣いたっていいかもしれない。
―――まだぼくは弱冠十二歳の青臭いガキなんだから。
「それで…ドイツで父親に会ったの?」
コーヒーを差し出しながらティルは眉根を寄せて問いかけてきた。
「会ったさ」
カップを口元に近づけすぐに離す。匂いがきつ過ぎる。恐らくまた分量を間違えたのだろう。どういう訳か何度彼女にコーヒーの淹れ方をレクチャーしても、一向に上達どころか及第点すらとれない。
「で、どうしたの?」
じれったそうに先を促す彼女も、一口啜るなり顔をしかめて大匙で砂糖を入れた。
やはり自分で淹れた方がいいな。異様にどす黒いコーヒーを眺めながらしばらく黙り込んだ。
「ねぇってば」
「殴った」
「え?」
目を大きく見開き、手にしていたカップを落としそうになった彼女を一瞥する。
どうやったらこんなにまずいコーヒーができるのだろうか。半ば感心する思いでティルを見やると
「感動の親子再会を期待したなら…悪いけど、実際は呼び出して殴って帰った」
「えぇ…?」
更に目を開け口を半開きにしたまま呆然とする。
「ミドリって……意外とワイルドね」
的外れな感想につい苦笑を漏らした。ティルもつられてフフッと笑ったが、ふいにその動きを静止させた。
「認めていたのに、どうしてあんなに冷たくしていたの?」
率直な意見にしばし逡巡してから言葉を選び紡いだ。
「ドイツで生みの親について自分なりに決着をつけた。だから今度はあいつに気持ちの決別をさせたいんだ」
「…もしかして、わざと冷たく? リンコが自分で…どうしたいのかを決めさせる為に?」
「言っただろ、ぼくはあいつを認めている」
ぼくが唯一認めた人間。
帰国して久しぶりに会った琳子はとても綺麗に、そして以前より母に似ていた。ちょっとした動作や雰囲気に、母の面影を見つけるたび過去の未熟だった自分を思い出し自己嫌悪に陥った。
あいつが悪い訳ではない。けれどぼくの言葉一つで傷つく彼女に、もっと強くなることを望んだ。ぼくが許さない限り兄妹には戻れない。わかっている。わかっているけど、妥協したまま過去に縋りつきたくはない。辛かった記憶を踏み台に未来を切り開く強さを。父親の正体を知ったとしても、乗り越えられるだけの力を…
―――手に入れて欲しかった。
扉を叩く音。即座にティルが相好を崩し「リンコかしら」と立ち上がる。彼女の注意が逸れたこの隙にまずいコーヒーをシンクに流した。
「いらっしゃい、リンコ。今、飲み物を用意するわ」
女主人気取りの彼女の傍らで不安げに視線をこちらへ向ける琳子。先程まで彼女に話して聞かせた内容を反芻しぼくを恐れる『妹』に笑みを返した。
いつかこの瞬間が、ぼくらを束縛したものから解き放つリセットボタンになるだろうか。
ボタンを押すまで先はわからない。
けれど、今は伝えなければいけない言葉があった。
どの景色の中にも彼女がいた。
白い息を吐き出し滑り台を上り順番を待ちながら、少し離れて佇む緑色のコートをまとった女を睨む。彼女はいつも天気に関わらず大きなサングラスをつけ、コートの不要な夏場には緑色の服を着て、園内で遊ぶ子どもたちを眺めていた。別に何をするでもなくただ一時間ほど子どもたちを見詰めて帰っていくだけの謎の女を、誰も気にせず父兄たちの間でも話題に出ることもなかった。
けれどいつも視線を感じる。
大きなサングラス。緑の色彩。怪談に出る幽霊とはほど遠い容姿だけど常にまとわりつく視線は、幼児であったぼくに十分過ぎる圧力をかけていた。
―――緑色の化け物。緑色の女。緑色の記憶。緑色の…みどり、い……
いつもの習慣で目覚ましが鳴る前に目が覚めた。
起き上がり枕元に置いていた眼鏡を取る。昨日は会議がやけに長引いてしまいベッドに入ったのも遅くなってしまった。副会長に就任し、周囲に告げることもなく転入してしまったキサメを楽しげに非難するジョナサンのしたり顔を思い出し硬くなった身体の筋を伸ばした。
馬鹿と愚か者は嫌いだ。
そう毒づくとベッドから抜けガウンを羽織る。ドアに向かって歩いた時、ふいに煙草の臭いを嗅いだ気がした。
「……」
ルームメイトは既に消えたのに壁にしみついた臭いは消えない。
振り向き誰もいない室内を一瞥してからドアを開ける。校舎へ向かう生徒たちで廊下は溢れいつもの喧騒とした朝の光景だった。そのうちの何人かがぼくを見つけ
「モーヴィエ、ミドリ!」
と挨拶をしてきた。それらに応えてから顔を洗っていると、後ろに並んできた男子生徒らが声をひそめ話をしていたのが耳に入った。
「だから冬休みもここにいるみたいだし、その間にデートに誘うんだよ」
「でも、今まで何人も断ってきてるって…」
年相応の悩みだな、そう思い持参したタオルで水滴を拭い振り向くと驚いた表情で
「あ、やぁ…ミドリ」
もう一人の生徒は直立不動のままだ。彼を一瞥し笑顔を浮かべると
「今朝も冷えるね」
軒先で連なる氷柱を睨み校舎と寮を繋ぐあの長い階段を思って憂鬱な気分に浸った。水場から離れようとしたぼくを見て、硬直していた男子生徒が突然息を吹き返した。
「リ、リンコは元気?」
赤く染めた頬に熱を帯びて潤んだ眼差し。息をするのも苦しげなその表情は、まさに恋をしている少年そのものだ。
「ここだけの話にしてやって」
隣で弁解する友人に頷き、失態に気づいて動揺し狼狽をあらわにする少年に向かって親切にアドバイスをしてやった。
「休みの間、暇を持て余すだろうから遊びに誘ってやったらいいよ」
「え、え? いいの?」
意外な反応だったのか彼は目を白黒させて驚いた。
「何言ってるんだよ。妹のいい友人になってくれたらぼくとしても嬉しいからね」
「ありがとう! 頑張って誘ってみるよ!」
「おいっ、やったじゃないか」
飛び跳ねて喜ぶ二人を視界から外し真っ直ぐ部屋へ戻る。クローゼットから制服を取り出し着替えていると、短いノックと同時にレオが入ってきた。
「やぁ、ミドリ」
「モーヴィエ」
首元のリボンを結んでいると、キサメの椅子に座りあいかわらずの調子で喋り出した。
「実はさぁ、来年の新入生と一緒にこの部屋を使ってくれないかなぁ? ほら、キサメが突然転入しちゃうもんだから、端数の三人で一部屋使う予定だった子をこっちに入れちゃおうってことになってね」
「構わないけど」
「助かるよ。ミドリの好みに近い、カワイィ子をチョイスしておいたからさ」
寝癖の残る髪を梳きワックスで簡単に固めながら「悪いけどそっちの趣味はないから」と苦笑を交えて断った。
「なかなか絵になる組み合わせだと思うんだけどなぁ」
鏡越しに腕を組んで思案するレオの様子を観察する。両刀使いと言うわりに、男女とも広範囲の支持を受けているのは、明晰な頭脳とは裏腹の態度が好感を得ているのだろう。普段から姉のシュカと共に薬が混入された菓子をよく摂取している所から、恐らく重度の中毒症だと疑われる。バロに絶対的な服従を誓うこの学園の典型的な生徒の姿だった。
「そういえばシュカはもう卒業だろ。どこにいくんだ?」
「ハンガリーへいくらしいよ。ほら、お土産にフォアグラとルービックキューブをもらった」
と言ってポケットから小さなルービックキューブを取り出した。確かハンガリーが発祥の地だったことを思い出し頷き返す。
「彼女、犬は苦手じゃない?」
意外そうに肩をすくめ「そうだけど、どうして?」と尋ねてきた。
「あそこは犬も電車に乗れる。もちろん犬専用の定期券だってある」
「そうなんだ! いやぁ…大丈夫かなぁ……アレルギーはないけど、それにもう家のものが住む所を探している最中なんだ。あっ、そうだ。なんなら住所が決まり次第教えようか? 姉は神経質だけど美人で、可愛い所もあるし」
「遠慮しておくよ」
笑いながら拒むとこちらの胸中を察した顔で、レオも苦笑いを浮かべた。そしてぼくが完全に着替えを終えたのを見計らって腰を浮かした。
「今日はこの前の試験結果が張り出されるよ。きっときみらは上位だろうね」
興味のない話題だ。
「ミドリも、リンコも…とても優秀だから、きっとバロにも可愛がられるだろうなぁ。素行がよければキサメだって、ね?」
貼りつけたようなつくり笑いに不穏な翳りが宿る。こいつはキサメの失踪の裏にあるものを知っている。死体などを確認した訳ではなさそうだが、十中八九彼が死んだものと察しているだろう。それとも手にした情報を利用し生徒たちの心理を操り、バロへの絶対的な恐怖と服従を促しているのか。
「あっまた増えたね」
壁に飾ったパズルを興味深げに眺めヒュウと口笛を吹いた。最近まとめて仕上げたものが床にも立てかけている。
「どれも難易度が高そうだぁ」
「そうでもないさ」
「いーや、こん何大きな奴を完成させるなんてかなりの根気もいるだろう?」
ふいにこれと同じ情景を眺めたことがある気がした。無条件にべた褒めをする大人たち。常に誰かの視線にさらされて、行く手まで理想を押しつけようとする。己が叶えられなかった夢を誰かに託すことでしか達成感を味わえない愚かな連中。
「こんなに沢山仕上げていったら、レベルを上げていくのも大変だろうね。最終的には尽きてしまいそう」
首を捻り傾斜にこちらを見やると「ミドリがライバルだって思う人間って、キサメぐらいだった?」と、やけに意味深長に問いかけてきた。
ライバル…か。おかしな響きだ、と苦虫を噛み殺したい気分を堪え答えた。
「どうだろうな」
納得いく返事を得られなかったレオはしばし考え込むように黙り込んだが、すぐに踵を返すといつもの愛想のよい態度を繕った。
「先にいくよ」
ドアが閉まると同時に空気の質も変わる。重たく、緊迫したこの感覚は常に視線を感じ続けたあの頃とよく似ていた。移り変わる季節によって変化する木々の色合いよりもグランドを駆ける砂塵に愛着を持ち、頭上で行き交う社交辞令よりも、雑踏に紛れて消えそうになる母の姿を探し求めた。
繋がっていたと思っていてもいつ裏切られるかわからない。延々と同じことを繰り返し日常は形成されるものと信じていたはずが、ぼくらが辿ってきた日々を振り返れば綻びばかりが目立つ。
『―――ただ翠に認めて欲しかった、だけ。翠の期待に応えたかった』
涙を溜めて歯を食いしばった琳子。目的の為に。と、ただ遂行することばかりに気持ちが捕らわれて、冷静な判断を下せずあいつを見る度にかつての自分を回顧して苛まれてきた。
これが結果か? 責めることでしか自分の価値を見出せなかったぼくは、視線を恐れていたあの頃となんら変わりない。それでも常に周りを大人で固められ、監視下で生きることに慣れていたはずが今さら、もっと別の手段を選ぶべきだったと後悔するべきなのか?
机の上に置いた未完成のジグソーパズルを見詰め、傍らに集めていたピースを手に取り適当な位置に置いた。同系色の背景部分なので、今の段階ではどこの部品にあたるのか見当がつかない。
学園に押し込められた生徒たち。同一に染めた仮面を片手に、バロが用意する舞台で演じることにだけに生き甲斐を見ている。そこに起爆剤を投与することが母の目的だったのだとすれば、それは確実に達成されつつある。けれど、ぼくの目論見は…
考えるのをやめキサメの枕カバーから封を切ったばかりのセブンスターを取り出し点火した。窓を開けると風が身を切るような寒さを運んできた。紫煙が風に掻き消されていく様を眺めながら
…ライバルと言うよりも、似た者同士だったのかもしれないな、と呟いた。
テストは常に紙面が赤く染まるくらい丸ばかりが並んでいた。採点の欄に満点とだけ書かれていれば満足する大人たち。誰もが相好を崩して手放しに喜んだ。
馬鹿げていると思った。
あいつらはいつも点数だけを見て納得している。なら評価の方法も変えてテストも数字だけ書けばいいじゃないか。いい成績さえ修めたら対象なんて関係ない。ぼくがぼくでいる必要もない。けれど同時に一種の喜悦も感じていた。
「お母さんの教育がいいのかしらね?」「偉いわぁ…お家の手伝いもしてこんなに成績がいいなんて」「おばちゃん、翠くんと琳子ちゃんが羨ましい」
口々にぼくら家族の欠点を補っていく言葉には素直に反応した。私生児扱いする親戚たちもぼくが優秀であればあるほど、認めざるを得ない。点数だけを見て満足する連中を軽蔑する一方で、常に向けられる視線には過敏になっていた。
「バッカねぇ。別にあんたがいてもいなくても、世界は回るのよ。何億人もいる地球上の人類の、それも世界を揺るがせるような人間はほんの一握りもいなぁいのっ」
煙草を吐き出す横顔は突き放すような冷たい口調の割に、どこかに慈愛に満ちた感情を感じた。
「大切なのはオリジナルの発想と創造。誰にも思いつかないものを考えて、それを形にしていくことで他人との違いを明確にすることができるのよ」
鏡に向かって髪をまとめピンでとめると、くわえていた煙草を灰皿に置き笑顔を作った。白いスーツに合わせて淡水パールのピアスをつける。薄紅色の口紅を塗り、アイシャドウを入れると、目の前で母親はまったく違う顔の女になり変った。
「要は個性がないって言いたいの?」
卑屈な思いを言葉にまじえ尋ねる。努力を認めようとしない返答に不満を覚えたが、ぼくの質問に数秒考えを逡巡しすぐに長い睫を上げ
「個性がない人間がいたとしたら、それが個性ってことになるんじゃないのかしら」
と言い残して部屋を出ていってしまった。その後を追いかけると玄関先で図書館から帰ってきた琳子と顔を合わせ
「今日は取引先と食事してくるから遅くなるわ。戸締りちゃんとしておくのよぉ」
と後半からはぼくに向かって叫び、外で待たせているタクシーに乗っていった。
部屋にランドセルを置きに行く妹の階段を登る音に耳を澄ませながら、母親の言葉を反芻して意味を考えていた。個性がないとしたら、それが個性になる? なら個性とは一体なんだ?
すべては数字になって評価される。用紙に印刷された数字が高ければ高いほど、それはぼくの代名詞になる。そこに個性はいるのか?
まるで謎々のようなその問いかけに似合う答えを探していると、チャイムが鳴った。もしかしたら母が忘れ物をしたのかもしれない。摺りガラスの向こうに浮かぶシルエットを見て、先入観を持ち疑うことなくドアを開けると緑色のスカートと黄緑のパンプスがあらわれた。
足元に落ちる影を見据えたまま身体が動かない。幼稚園に通っていた頃、よく入り口に佇んでこちらを見ていた女を思い出し身の毛が総立つ思いに駆られる。
「お兄ちゃーん?」
琳子が下りてきてこちらを見る。くるなっ、部屋に戻ってろと叫ぼうとしたが、琳子は大きな目をきょとんとさせて嬉しそうに訪問者に駆け寄ってきた。
「芹沢さん!」
予想外の名前に驚き、慌てて顔を上げて相手を確認した。
「こんにちは。妃紗子さんはもう出たかしら?」
縁の黄色い眼鏡をかけた、セミロングの女性は間違いなく母の第一秘書の芹沢夏美だった。パンツ姿の彼女しか見たことがないので珍しいロングスカートに戸惑った。
「お母さんならさっき出たよ?」
「そう。入れ違いになっちゃったわね。私も急いでいくわ」
こちらの心情を察してか「今日はちょっと気分転換してみたのよ」といって楽しげにスカートを翻して出ていってしまった。
再び閉ざされたドアを見詰めるぼくの前で、改めて玄関の鍵をかける琳子。不思議そうにぼくを眺め何げない口調で
「…むかしから緑色が嫌いね」
と呟いた。
「!」
今まで誰にも悟られたことがなかっただけに衝撃を受けた。学校でも友だちや母さえも、ぼくに好き嫌いがあるとは思ってもいない。これまで意識的に緑色に嫌悪感を抱くのを隠してきたはずが、どうして琳子には伝わっていたのだろう。おやつを求め台所に駆けていく彼女の背中を睨み、意外な所に侮れない奴がいるのだと思った。
冷蔵庫からオレンジジュースを取り出しながら、頭の片隅でちらつく記憶を回想した。
卒園と同時に姿を消した緑色の服の女。大学が付属する幼稚園だっただけに、卒園式には学内関係者など沢山の人間が溢れきていたとしても目につかなかっただけかもしれない。
心配していた小学校生活では一度も女を見かけなかった。けれど緑色の装いをした女性を見かけると、先程のように警戒心が頭をもたげることが何度もあった。
常に見られているストレス。それは卒園と同時に終わったはずだったのに…
「今日はドーナツだわ」
嬉しそうにテーブルに置かれたおやつを頬張る妹の顔を見て、強張っていた表情を崩す。二人分のコップにジュースを注いで渡すと琳子は嬉しそうに微笑んだ。
「お兄ちゃんが塾ない日って珍しいね」
そして思いついた様子でポケットから折り畳んだ作文用紙を取り出すと、琳子はテーブルの上にそれを広げた。
「今日ね学校でお話を書いたの。読んでみて」
「へぇ…変わったことをやるんだな」
作文を受け取りそこに書かれた文章を読む。
「最初にこれだけは守らないといけないっていう設定があるの。魔王が隠した世界の宝物を探す為に旅に出たってことになっていて、女の子が友だちを連れて旅に出るんだけど」
琳子の補足を聞きながら相槌を打つ。まだ文法を習ったばかりの稚拙な文章だが、物語の構成にはかなり工夫を凝らしているらしく、旅立ちを渋る友人を勧誘する時も宝物の価値を説きつつ、友人の弱みを衝くという妙な現実感があった。
「でも宝物っていうのが実は世界中から集めた人間の悪い気持ちだったの。本当は魔王も優しい神様だったけど、悪い気持ちを人間から取り除いた為に魔王になっちゃったんだ。そうとは知らずに人間たちは魔王が世界の宝物を奪ったって勘違いして……。主人公の女の子と友だちはそれを解放するかどうかを悩むってお話なのよ」
ぼくと比べ色素の薄い瞳が細められる。母親譲りの長い睫が目元に影を作り、光の微妙な加減が見慣れたはずの妹の横顔をまるで知らない他人のように演出していた。
独創的なストーリー展開。個性豊かな魔王の手下たちは主人公と触れ合ううちに、激しい葛藤を繰り返しながらも本来の善意を取り戻し次第に仲間を増やしていく。
最後まで目を通すのをやめ、琳子に返した。
「面白くなかった…?」
不安げに揺れ動く瞳を一瞥しかぶりを振ったが、彼女にかける言葉が思いつかなかった。
きっと同じ題材で物語を考えろと言われても、ぼくにはここまで伸び伸びと想像力を駆使して楽しく書けなかっただろう。拙いながらもキャラクターの性格を捉え、布石もしっかりと用意されている。何よりも琳子らしい、表現が目立った。
個性がない? 再び自問して、答えに窮した。琳子との違い。筋の通った鼻やくっきりとした二重瞼。肩まで伸びた髪の毛は、やはりぼくと比べて色が薄い。
もしかしたら、といつも思う。
もしかしたら琳子の父親は日本人じゃないかもしれない。しかし事実、そうだとしたらぼくらの父親は違うのかもしれない。デパートに展示されているマネキンが息を吹き返したような、整った面立ちの琳子。普段は大して意識することもないけど、客観的に観察してみるとやはり綺麗だ。何を取っても似ていない妹を見てふいに思いついたもう一つの可能性をあげてみた。
―――ぼくらは一切血の繋がりもない他人かもしれない。
喉に詰まらせたのか慌ててジュースを飲み込む妹を一瞥し、取りわけておいたドーナツに手を伸ばした。
食堂に入りさり気なく彼の指定席と化していた、乙女のステンドグラス下に視線をやる。案の定そこにはゲンジロウが一人で食事をとっていた。
彼の傍らにセトの姿を見なくなりもう十五日が経つ。隠し通路でぼくらを監視し、倒れたセトをジャックが連れ戻しにきて以来、誰も彼の姿を確認していない。
テスト期間を終え長期休暇を目前に控えた校内にはどこか浮き立った空気が漂う。休みの間、大半の生徒が学園に残るらしく例年として生徒会はいくつかの催しを考えなければいけなかった。
スープを啜りながら現在出ているいくつかの提案を検討した。また演劇部に公演を依頼してもいい。あの双子は上下層を越えて人気があるし、脚本も演出もなかなか工夫があって面白いので盛り上がるだろう。となると、他のクラブの顔も立てなければいけない。
キサメが抜けた後の美術部がどうなるかシュミレーションしてみようとしたが、ゲンジロウが顔を上げ一点に注目したので視線を追った。彼の見詰める先には琳子とティルに話しかける、あの男子生徒がいた。
頬を蒸気させる男子生徒に対しあいつは終始穏やかな態度を崩さない。傍目から見れば彼の片想いは歴然としているが、きっと彼の気持ちには気づいておきながら知らないふりを装っているのだろう。
それにしても先程から、ゲンジロウの視線はあいつに集中したまま動かない。目の前の妙な三角関係に冷笑を漏らす。ふいにティルがこちらに気づき、手を振ってきたので目を逸らした。ガドレで大いに活躍してくれた吹奏楽部や新体操部の連中にも声をかけて、何か役目を与えるか。どうせ同じ面子で新年を迎えるんだ。少々派手なことをしても構いやしないだろう。その為にもまず会計と相談して予算の見積もりも立てなければいけない。
「!」
突然腕に誰かが抱きついてきた。視界の端に映る黒髪を確かめた途端、それが誰のものかも察し内心溜息を吐いた。
「モーヴィエ! 今朝からミドリに会えるなんて、幸せだわぁ」
彼女の後ろでサエの分のトレー持つジェニファーが苦笑いを浮かべている。同情を滲ませた眼差しを受け止めぼくも肩を竦めて見せた。
「おはよう、サエ。ジェニー」
「朝からこんな子に捕まって、大変だね」
「どぉしてぇ? もしかして私がベティみたいだって言うの? 聞いてよぉ、最近ジェニファーったら私のこと、第二のベティとか言うのよぉ」
ようやく腕から離れすぐ隣に椅子を密接させて座った。何かとボディタッチをしてくる彼女に微笑みながら、十分その資質は備え持っているだろうとぼやいた。
「ベティの調子はどう?」
「それが全然だめ。今日こそは食堂くらい連れてこようとしたんだけど、部屋から一歩も出られないんだ。と言うより…」
言葉を濁すジェニファーの後をサエが続けた。
「ずっと点滴で栄養をとっているからよね。きっと。本当に痩せちゃって…私でも話しかけるのに躊躇しちゃうのよねぇ…」
目元に指を添える身振りをしたが彼女の眼もとには涙などなかった。
「ドクター・アンジーが看てくれるけど、ずっとつきっきりって無理でしょ? シュカが私らの代わりについてくれてるんだ」
同情の意を交え相槌を打ち慰めの言葉を伝えながら、意識は再び休み中の催しについて考えていた。
塾が終わり電車で近くの駅まで向かい歩いて帰る。子どもの足で約二十分ほどの距離だが、住宅街だけに電灯が少なく時間帯によっては人通りの少ない所でもあった。ぼくが通う塾では必修科目として英語の習得が義務づけられていた。しかし付属してもう一つの言語が学べることになっていたので、迷わずドイツ語を選択した。特に理由もなかったが、しいていうなら母に読み聞かせてもらったアンネの日記が多少なりとも影響していたかもしれない。
今日習った英単語とドイツ語を反芻しながら道を歩いていると、電柱の影に立つ誰かがこちらへ近づいてきた。暗がりでシルエットしか見えないが装いからして女らしい。防犯ブザーを握り締めて素知らぬ態度を演じながら歩き進める。帰ったら夕食を済ませて宿題をしなければいけない。明日の授業の準備もあるし…と違うことを考えて湧き上がる恐怖を押さえつけた。
ヒールが地面を叩く音が響く。確実に近づいてくる音に耳を澄ませながら、有事の際にはどういった段取りを組めばいいのか懸命に考え巡らせた。
このブザーだって相手を驚かせる程度の道具だ。いざとなればやはり女性といえど大人相手に体力には雲泥の差がある。ここから一番近い交番でも一キロも離れている。ならばそこらへんの家に入り込んだ方がいいだろうか。
迫るヒールに重なって自分の心臓の音まで聞こえてきた。いつの間にか掌は汗で湿っていて、滑り落ちないようにブザーを必死に握っていた。二人の距離が目測で五メートルほどまで縮まった。薄闇の下で女の顔が綻ぶのがわかった。こちらに向かって言葉を発そうと口を開いた瞬間、すぐ後ろで自転車のブレーキが鳴った。
「翠!」
ヘッドライトをつけた自転車に跨って祖父が片手を上げる。咄嗟に女は軌道を変え真っ直ぐ道を進んでいったが、身を翻した瞬間のライトに照らされた服の色は緑色だった。
それを見た途端、頭から血の気が引くのがわかった。間違いなくあの女だ。ずっと幼稚園からぼくを見てきた緑色の化け物。いや、ストーカーと言うのだろう。
「塾が終わる頃を見計らって迎えに行ったんだが…時間を間違えたのかな」
擦れ違った女には関心も示さず、恥ずかしげに頭を掻く祖父。仕事に没頭する母に代わって、よくこうして祖父母が家にきてくれていた。突然の登場に安堵しながら、辺りの闇に同化して消えていった女について考えた。
自転車の後部に乗せてもらい大きな祖父の背中に腕を回す。後ろを振り向いても点滅する電灯だけが漆黒の中にぼんやりと浮かんでいた。
「今日は何を勉強したんだ?」
「英語と第二外国語と算数」
と答えると、祖父はやや虚を衝かれた口調で驚いた。
「まだ小学二年生だというのに…お前はそんなに勉強するのか?」
「でも英語は中学に入れば覚えないといけないし、ドイツ語も発音が難しいけどなかなか楽しいよ」
「…ドイツ? ドイツに行くのか?」
「いつかは行ってみたいけど、まだ挨拶くらいしか覚えていないから無理だって」
頭上に広がる葉桜を見上げながら、どうして卒園以来あらわれなかった彼女が今更、それも積極的にぼくに接近してこようとしたのか悩んでいた。もし今後も出没するようなら母に相談し、警察に届けを出すべきだろうか。
「……血は争えんな」
祖父は独り言のように呟いた。
それについて言及しようとしたが、すぐに自転車を止めるとスタンドを立て「さぁ着いた。琳子が退屈にしていたよ」とぼくを抱き下ろしながら微笑んだ。
その顔を見て喉元まで出かかっていた言葉を飲み込む。こうしてぼくらに優しく接してくれる数少ない親族を追及することに、後ろめたさを感じて諦めた。家に入ると祖母が出迎えてくれた。すぐにご飯を温めなおすという彼女に礼を述べ鞄を置きに二階へ上がる。
さっき祖父が漏らした科白は、ぼくの父親に関する重要な証拠だろう。血は争えないということは、父も幼い頃からドイツ語を学んでいたのだろうか。すると彼はドイツにいる可能性もある?
ふっと溜息を吐き、だからといってドイツに飛んでいける訳もない。まだ行動に移すには足りないとぼやきながら部屋の電気をつけた。ベッドの上で琳子が大の字になって眠っている。手元に読みかけの児童文庫が置かれていた。
自分の部屋で読めばいいのに…
穏やかな寝息をたてる妹に布団をかけてやり机に向かった。と、机上に完成されたパズルを見て心臓が大きく飛び跳ねる。難易度が高く大の大人でも匙を投げ出した代物を、ぼくは二週間もかけてようやく大まかな部分を埋めたというのに、あいつはたった数時間で完成させてしまったのか?
驚きを隠せず妹を見やる。しかし苛立ちはまったく感じず、むしろ自分を越える人間の存在にほのかに胸を躍らせた。ぼくらを軽蔑しようとする大人たちに対し、共に戦える心強い仲間の出現に喜びを噛み締めた。
最初は軽い気持ちだった。
学校で父親参観が行われると言われ、職員室に呼び出されたぼくに教師はお祖父ちゃんでもいいのよ、と気遣うように説明した。別に憐れんでもらうことでもないが、周囲の人間からすればぼくらは片親だけの可哀想な子どもというレッテルを貼って見られている。
わかりました、そう答えると家に帰る途中で父親参観についての配布プリントをコンビニのゴミ箱に捨てた。同情するのは勝手だが一方的な気遣いは鬱陶しい。自己陶酔して喜んでいるだけだろうといつも軽蔑の対象としていた。電車に乗り塾へ向かう途中に市役所がある。いつも窓越しに通過していくそれを眺めていたが、ほんの出来心から市役所前で下りた。戸籍謄本を見れば今まで不可解だった家族の関係も一目瞭然になる。似ていない妹と何も語らない母親。彼女らとの繋がりを確かめることに特に意味はない。けれど、常に晒される私生児という視線に対抗するには何らかの知識を手に入れなければいけなかった。
小学生が市役所に訪れることに不審を抱かれそうだったので、受験の為、提出しなければいけないと説明しておいた。
そして手渡された書類に記載された母ではない母親の名前を見て、初めて我が目を疑った。事実を突きつけられて抗うこともできず、それでも自分の両親の名前だけはしっかりと脳裏に焼きつけた。
時任継男。小坂メグ。それがぼくを生んだ二人の名前。どこにも由良川妃紗子の名も、琳子の名前もない。まったくの、他人。それではこれまでのぼくの努力は、周囲から向けられる視線はまったく意味をなさないものだったのか? ただ独りよがりに奮闘していただけ?
「妃紗子もお前らみたいなガキを生まなきゃ、まだまだやり直せたのになぁ」
酔いに任せて吐かれた伯父の暴言が脳裏に蘇る。正月に祖父の家に遊びに行った時、嫌なことに顔を合わせてしまった。
顔を真っ赤にしもはや呂律さえ怪しくなった彼に判断能力があるとは思えなかったが、一方的に非難されることに不快を覚え居間に誰もいないことを確認してから反論した。
「伯父さんも年をとりましたね。今さらむかしのことを蒸し返して悔やむなんて、懐古趣味っていうやつですか? 子どもがいないならその分、貯金をしっかりしておかないと年金頼りの不安定な老後を迎えるのがオチですよ」
唾を飛ばして激昂する伯父を冷ややかに軽蔑し、騒ぎを聞きつけた大人たちの間をすり抜けて逃げた。生まれてきたことを否定されて、ぼくらの存在を無視して、悔しさのあまり歯軋りをする。馬鹿にされただけ見返してやる。侮辱された分、相手を上回る力を手にしてやろう。いつも屈辱をバネに努力してきた。けれど、血が繋がらないとわかった今、ぼくは一体何の為に頑張ってきたのか―――
わからないじゃないか。
塾が終わりいつもの道を通って帰る。電車を下りて今度は誰も迎えにきていないことを確認し、力の抜けた足取りで家路を辿る。
電柱の脇に佇む女を見かけても以前のように恐怖はあらわれなかった。春の陽気な夜空の下で、淡い光に照らし出された女の装いはやはり緑色で統一されていた。サングラスをかけていない、どこか鋭い眼差しは紛れもなくぼく自身が受け継いでいる遺伝子だ。
翠…か。と、自分の名前を反芻し自嘲する。自己主張の塊のような女だと侮蔑したが、それ以上彼女に関心を示さず、こちらに向かってくるのも無視して歩調を速めた。
「待ってちょうだい! 翠ちゃん」
馴れ馴れしい呼び方だ。
ぼくの後を追いながら女は必死に言葉を紡いだ。
「私よ、お母さんなの。覚えてない? あいつが浮気したくせに私から貴方を奪ったの。そのくせ自分はさっさとドイツへ逃げちゃって。ねぇ、私はずっと―――」
防犯ブザーを鳴らして女の顔に投げつけた。怯んだその隙を狙って咄嗟に走り出す。背後で「翠ちゃぁん!」と声が聞こえたが逆に背中を押され全力で疾走した。
途中で犬を散歩に連れ出していた中年の男と顔を合わせたので
「あっちにおかしな女がいたんです!」
と身体を震わせて叫んだ。
「え?」
男はすぐに駆け出した。走りながら携帯電話を耳に当てると
「お宅、警察? あのねぇ」
という声が聞こえたのでぼくはそのまま家に向かった。
玄関先まで琳子が出迎えにきてくれたけど、彼女はぼくの顔を見るなり怯えた様子で問いかけてきた。
「どうしたの…?」
大きな瞳が何度も瞬きを繰り返す。五感を使ってぼくから発せられる異常な空気の原因を探ろうとする琳子から逃れるようにして自室へ駆け上った。そして電気をつけず外の闇と同化した真っ暗な室内にこもって初めて、理性で押さえつけていた自分の感情が解き放たれた。
……両親の仲を裂いた女に育てられていた。父親はぼくを捨てた。あの女も…所詮は自分の将来でも憂いて助けを求めてきたに違いない。馬鹿馬鹿しい! 大人が用意した舞台で道化を演じさせられていただけなのか? 群れに紛れて従順であることを望む世間の目は、いつも型からはみ出ようとすることを否定してきたくせに今さら…
これまで築いてきたものを壊されるとは―――
優秀な成績を修め、特に反抗もせずに人当たりだって悪くはなかった。誰もがそれを満足げに眺めてきたじゃないか。例え片親だけの家族であろうと、息子のぼくがしっかりしていれば後ろ指を指すこともない。だから頑張ってきた。それも、家族を守る為に。
虚ろに宙を彷徨う視線の先に、母さんと琳子と共に過ごした思い出が浮かんでは消えてを繰り返した。けれどそれもすぐに目元から溢れる涙で見えなくなった。
それに比べてなんてあいつは自由なんだろう。そこにいるだけで自然と注目を集めている。生まれ持っての才能があるから母親によく似ているから血が繋がっているから―――
ぼくとは違う。努力して手に入れたものも、あいつにかかれば一瞬だ。
都合よく手を差し出す大人たち。でも奴らの掌で踊らされることのない琳子。強くて柔軟な発想を持つ自由な妹…だった。同じ立場にある存在だから、自分を超えた才能を手放しに喜ぶこともできた。容赦ない残酷な眼差しを向ける世間に、大人たちに、共に戦っていける仲間だと思っていた。それも、血が繋がっているからという、安易な発想から。
今まで一度も感じたこともない激しい思いがのた打ち回る。
頭を掻き毟り、とめどなく流れる涙を袖で乱暴に拭いながら嗚咽を漏らした。他人だとわかった途端、自分の中で理性と感情の歯車が噛み合わなくなった。
「…ちく…しょぉ……」
挫折を覚えた最初の瞬間だった。
窓際に席を構え壇上に立つ教授から目を逸らし、ぼくはずっと降り続ける雪を眺めていた。この国にはクリスマスを祝う習慣はないらしく、熱心なキリスト信者の生徒たちは一時帰国をし海外で過ごしてから帰ってくるそうだ。そうまでして学園に戻りたがる理由はなんだ? やはり薬物に対する依存からか?
あれだけキサメが調べていたはずが、まったく証拠が掴めていない。あいつが消えて以来教授たちの視線が鋭くなった。一挙手一投足を監視するように目がついてくる。
警戒しなければいけない。
「……ふっ」
つい口元を歪め苦笑をした。目的の為にここまできのはずが、どうして怖気づく。
脚を組み替え黒板に数式を羅列していく教授の動きを眺めた。生徒たちも彼の講義に聞き入って、教室内は恐ろしいほど静まり返っている。が、少女の叫び声によって静寂は打ち破られた。
「いやぁぁ―――」
廊下を縦断する悲鳴と足音。続いて数人の教授たちの声が聞こえてきた。
「待ちなさい!」
「ベティ! 待って!」
入り口付近に座っていた生徒がドアを開ける。すると丁度のタイミングで赤毛を振り乱し走るベティが駆け抜けていった。後を追うドクター・アンジーを筆頭に数人の教授がものすごい形相であらわれた。
呆気にとられた壇上に立つ教授もしばし呆然と立ち尽くした。数分前の沈黙が嘘のように騒然とする教室。近くに座る生徒たちが声をひそめて
「ほら、キサメが転入しちゃったから…」
「あいつもひどいよな。後片づけくらいしてからいけばいいのに」
と愚痴をこぼした。
冷淡とした口調から彼らの本心を探る。彼女に同情的な態度を演じているが、心の奥では近くベティも消えるだろうと見切りをつけていた。容赦なく切り捨てていくことで、体勢を維持するバロの、あの男の真意はどこにあるのだろうか。
遠のいていく彼女の悲痛な声を聞きながら、白紙のままのノートに目を落とした。
母に頼んで塾の回数を増やしてもらった。時間も早め終わる時刻も伸ばした。家にいれば琳子とどうしても顔を合わせてしまう。それが何よりも苦痛だった。
小学校に入学したばかりで学校生活のことを色々と喋りたいのだろうが、できるだけ避けて会話も短く区切るようにした。口を開けば罵詈雑言が飛び出してきそうで、気をつけていても心許ない言葉が、何も知らない彼女を傷つけるのではと恐怖していた。
ぼくが態度を変えれば勘のいい母親は気づくかもしれなかったが、会社も軌道に乗り始め帰宅時間が深夜を回ることも多々あり、心身ともに疲れていた彼女はぼくと琳子の間が微妙に変化したことにも大して気をとめなかったようだった。
琳子は一人で過ごすことの多くなった時間を近くの図書館にいったり、ぼくが使った英語の教材を眺めるなどして潰すようになった。いつものように学校が終わり塾に向かおうとして、鞄に入れたはずの教科書を忘れたことに気づき慌てて家に戻ったことがあった。
鍵がかかっており静まり返った家の中を見て、琳子は今日も図書館にいるのかなと思った。二階の自室へ上がりドアを開けようとした時、中から見事な発音の英語が聞こえてきた。
テープの声に被さって琳子の声が響く。
ドアノブを握った指に汗が滲む。その箇所は一昨日ぼくが塾で学んだ単元だった。
玄関のチャイムが鳴り琳子がぼくの部屋から飛び出してきた。そしてぼくと目が合うと嬉しそうに頬を緩ませ
「あっ、お帰りなさい」
と言って下りていった。
邪気のない笑顔。まるっきり悪びれた様子もない、愛情を享受することが当たり前だと信じきった妹。
妹……だった、他人。
自分より優れたものを認められず、悔しさに混じって憧れに化けた特異な感情の正体を、この頃のぼくはまだ見抜けずにいた。
いつからか琳子は図書館の職員と親しくなり、よく家にも連れてくるようになった。母親も二十歳そこそこの男性に好感を抱いたらしく、時に珍しい三人が揃った夕食に誘うったりもした。
わざわざ二階から下ろしてきた椅子に座って男は上機嫌で二人に話しかけていた。別に中身にそれほど意味も教養も伺わせない、どうでもいい世間話に母も琳子も笑顔で応じた。
作り笑いではないが上辺だけの愛想のよさは、さすがによく似ていた。母子の一見してクールなようで、細やかな心配りや適度な相槌を受けるうちに男は顔を赤らめて延々と喋り続ける。
最近の新書や児童文庫の話から始まって、利用者がここ最近減っている、マナーが悪い。それに比べて琳子ちゃんは躾もいき届いているし、職員の中でも評判がいいとおだてた。いくら噛んでも味がわからずじまいだったハンバーグを胃に納めると、ぼくは早々に席を立った。この調子ならあの男はまだ居座るだろう。
デザートはいらないの? と問う母に宿題があるからと断って自室にこもる。
宿題が出されているのは本当だったが、やる気が起こらず製作途中だったパズルに向かった。完成図を頭の中で想像しながらピースをはめていく。けれどものの数分もしないうちに集中力は途切れた。全身の気だるさを覚えベッドに横たわると、急に胸が締めつけられるような感覚に襲われた。
三人の笑い声が聞こえる。久しぶりに母親と顔を合わせての食事だったが、大して言葉も交わさずに終わってしまった。それもこれも、全部あいつがあんな男を連れてくるからだ。せっかくの夕食なのに楽しくなかった。肉の味も、大嫌いなトマトの味さえわからずじまいだった。
男が母や琳子に向けて言葉を発するたびに、頭のてっぺんまで一気に血が駆け上ったような憎悪を感じてしまう。どうして同じ他人のくせして、あいつばかり喋るんだ。どうしてぼくだけがこんな疎外感を味わなければいけないんだ。
ベッドに向かって拳を振り下ろしながら、苛立ちを発散させる。男が帰れば下に戻れる。その時こんな気持ちを引きずっていたら絶対に見抜かれてしまう。
ちくしょう…ちくしょう……ちくしょう!
埃を立てるベッドに何度もパンチを繰り返しながら、声を押し殺して呻いた。
授業を終えて廊下に出ると生徒たちの動きに一定の流れができていることに気づいた。
成績発表が講堂で行われていることを思い出し納得する。特に結果は気にならなかったが、確かめておきたいことがあったので流れに乗って講堂へ移動した。壁一面を使って最下位から上位までをすべてリストにし展示してあった。生徒たちの数は上位が貼り出されている箇所に集中していたが、そちらには目もくれず最下位から順に名前を確認していった。
名前を辿っているとドーニャが駆け寄ってきた。
「生徒会長がどうしてそんな下を確かめているのよ。貴方は最高位よ」
「一応すべてに目を通しておきたくてね」
ふぅん、と肩を竦め黒い瞳を意地悪げに光らせた。
「貴方の妹も最高位よ。それより見て。意外にもコルスティモが中間にあったわ」
「そう」
あれだけ授業をエスケープしていただけに、基準値以下の生徒は退学と聞いていたので思わぬ朗報につい安堵してしまった。やはりファルバロのフィアンセという肩書きが効力を発揮しているのだろうか。ともあれ目的を達成したのでもう用はないが、ドーニャはまだもの足りなそうに立っていたので話かけてやった。
「きみはどうだった? 毎年女子の上位をシュカと争っているんだろ」
「えぇ、悔しいけれど負けたわ。言い訳のつもりでもないけれど、私にも内緒でリズが転入しちゃって…少しショックを受けちゃったの」
「随分仲よくしていたからね」
「でも貴方も同じよね。キサメとはよきライバルだったんでしょう? 寂しさのあまりベティみたいに発狂したりしないでよ」
片目をつむり去っていくドーニャに笑いかけながら、傍から見ればライバルと呼べる仲だったのか、と改めて感じた。
よく考えればこれまで誰も理解しようとしなかったぼくの、最も身近な所に立っていたのは、あいつくらいだったのかもしれない。
時計の針が十時を少し回った頃、ようやく男は帰宅した。最後に見送りだけ参加してリビングに戻った。母は琳子に先に風呂に入るよう促し洗い物を始めた。それを見てぼくのテーブルを拭くなどして手伝いに回った。
「あんたって意外と嫉妬深いのね」
傍らで洗っていった皿を乾いた布巾で拭いているぼくに、軽い口調で話しかけた。
本音を見事に衝かれ、恥ずかしさと動揺から「何のこと?」と素知らぬふりをして問い返した。
「母親を見くびらないでちょうだい。あんたがトマトを食べるなんて、犬が箸を使う並みに驚いたわ」
手についた洗剤を丁寧に流し、今度は拭いたお皿を棚に戻しながら紡いだ。
「何考えてるんだかしらないけど、琳子の面倒も見てもらってるんだし……あまり敵愾心を燃やさないでよ? まぁ、向こうは気づいていないみたいだからよかったけれど」
あの男が使った皿は特に念入りに雫を拭ってから母に手渡した。
「はい、お疲れ様。そうだ…お祖父ちゃんたちが夏休みに別荘にくるかって誘ってくれているんだけど、どうせだから行ってきなさいよ。兄妹二人で旅行ってのもなかなか楽しいわよ」
『兄妹』という形容につい卑屈な思いが込み上げてきたが
「夏期講習はキャンセルしとくよ」
と答えて台所から離れた。
リビングに向かおうとするぼくを呼び止め、母は真剣な面持ちで声をかけてきた。
「琳子は妹なんだから…優しくしてやるのよ」
そこに秘められた意味に気づき不意に顔を背ける。彼女の猫のような瞳に見詰められたら、心の奥で疼く気持ちをすべて吐き出してしまいそうだった。
「あ、ねぇ、もしかして琳子ちゃんのお兄ちゃんかな?」
校門を出た所を見知らぬ女に呼び止められた。三十代頃の地味な装いの化粧気のない女だった。普段から身だしなみには気を遣っている母親を見慣れている為、目の前の地味な女に密かに不快感を抱いた。
「そこの図書館に勤めている者だけど…佐久田賢治って知ってるかしら?」
「佐久田…?」
知ってるも何もつい昨日も琳子を家まで送り届けにきたあの男だ。頷き返すと、女は一瞬表情を緩め、しかしすぐに眉間を寄せると
「単なる取り越し苦労かもしれないんだけど、琳子ちゃんと仲よしになる前にも何人か女の子に声をかけていて……その、もしあまり彼がしつこいようなら誰かに相談」
「公的機関…つまり、警察にですか?」
女は、え? と声を詰まらせてぼくをまじまじと見詰めた。
「佐久田さんに幼児趣味があるとしたら、前科も結構あるんじゃないですか? まぁ泣き寝入りしていなければ、の話ですけど。もしも妹に何かあったら、貴方が責任を取ってくれます?」
「そ、そんな…あのね。貴方、お兄ちゃんでしょう? 妹さんのことが心配じゃないの?」
『妹』という単語が引き金となりぼくは露骨に嫌悪感をあらわにし反論した。
「だからこうして責任の所在をはっきりしろと、お願いしているんじゃないですか。警察も、何かが起こってからじゃないと動いてくれないんです」
恐らくこの女が単独で注意を促しにきたに違いない。もし職場にこのことが知れたらどうなるだろう。善意のつもりだろうがぼくには、単なる責任転嫁にしか映らなかった。有事の際にはきっと証言台に立ちこう言うだろう。
「私は…同僚を疑うことはできないけど、でも、心配だったからこうしてきたのよ」
予想通りの答えに冷笑を投げかける。
優しい、妹想いの兄貴はもうどこにもいない。ここにいるのは、そんな化けの皮を被ったただの捻くれ者だ。無関係の便宜上だけの他人。『妹』が他所の男と親しくするのを見て内心、腸が煮えくり返るような苛立ちを必死に隠している。
あいつを認めた時に得た仲間意識は、家族の輪から外れた途端にとんでもないものへと変化してしまった。男が幼女に恋するように、ぼくもまた、唯一自分を超えるものとして認めてしまった妹に憧れ以上の―――恋心を抱いてしまった。
昼食を終え食堂を出ようとしたぼくを、先程からずっと入り口で張っていたティルが呼び止めた。
「もう一度ちゃんとした話し合いの場をもうけたいの」
周囲の視線などまったく意に介さない鈍さ。彼女は自分の行動がどれだけ生徒たちの関心を集めているのかわかっていないのだろうか。
足早に廊下を移動する後を必死に追いかけながら続けた。
「ゲンジロウは私たちの手伝いをしてくれるわ。だからみんなで協力しましょうよ」
みんなで協力…か。あいかわらず健全な考え方だな。人気のない所まで移動してからようやくティルと顔を突き合わせた。
「人目を憚らずそんなことを言わないでくれないか」
「そうでもしなきゃ、貴方ってば聞いてくれないでしょ」
悪びれる様子もない堂々とした態度で応えた。
「それにリンコとも喋っていないじゃない。あんな最悪な形で兄妹の会話を終えたままにするなんて、尋常じゃないわよ」
「四六時中ぼくらを監視しているような物言いだな」
ベティといい、サエといい……ここの女どもには異常に執着心が強いのか? 嘆息しながら彼女の顔をまじまじと眺めていると、頬を紅潮させ毒づいた。
「わ、悪い?」
良いも悪いもないが、ここで断ったとしても諦めないだろう。それにこれまでずっと、突き放してきたのに今さらまともに話し合えるとは思えない。
「……話すことは何もない」
「あるわよ! 貴方ってそうやって問題から逃げてるだけじゃない! 全然解決にもなっていないわ」
核心を衝いた言葉に、無意識に眉間に皺が寄ったのがわかった。
「ベンジャミンの件やファルバロのことについては協力するといった。けれどこれはぼくら家族間の問題だ。口出ししないでくれ」
「リンコも貴方を兄として慕っている。本当は二人とも、お互いを認め合っているのにどうして…目を逸らすのよ。彼女はいつも貴方が手を差し伸べてくれるのを待っているわ。それなのに先に傷つかないようにバリアーを張っているのは、貴方なのよ! ミドリ」
真摯な瞳がぼくを捉えて離さない。強靭な意志を感じさせる、それでいて今にも泣き出しそうな顔。深刻ぶった表情は昨日よりも血色が悪い。もしかしてこんな他人の問題について真剣に悩んでいたのだろうか。
……ただの馬鹿だな。
「何…よ」
「いや、別に…」
時計を一瞥し、つい引きつってしまった頬を緩めた。会議までまだ十分余裕がある。この時間なら誰もいないだろう。
「後で生徒会室にこいよ」
ただの気まぐれだったその提案に、ティルは飛び跳ねん勢いで喜んだ。
窓を叩く木と豪雨に混じって、一階から聞こえる悲鳴のようなものに気づき咄嗟に目を覚ました。いつの間にかこんなに天気が荒れていた。琳子を追い出してからどれぐらいの時間が経ったのだろう。
ふいに下が静まり返る。寝ぼけていた脳が急に我に返り、この部屋から出るなと警鐘を鳴らした。伊豆の別荘へきた初日。琳子と一緒に行く初めての旅行だった。ぼくがずっと黙っていさえいたら、上辺だけの兄妹は演じ続けられる。だからこれはその為の試金石なのだと言い聞かせ新幹線の中でもできるだけ平穏を装って会話をしていれた。
けれどあいつがぼくの本にジュースをかけ、それを謝らなかったことが癇に障り怒鳴ってしまった。これまで誰かに大声を出して怒るということがなかっただけに、琳子は顔をくしゃくしゃにして家を飛び出した。
近くに海があるだけの田舎だから大丈夫だろうと、祖父母は自己嫌悪に陥るぼくを慰めてくれたがあいつが戻るまで部屋に閉じこもっていようと決めて、そのまま寝入ってしまったようだ。
クーラーもかかっていないのに寒気を覚えて腕をさする。さすがにこんな天候だ。琳子も帰っているに違いない。そう、自分自身に言い聞かせて部屋から出る。
「……」
空気が違う。鼻を突く生臭い空気に一瞬吐き気を催した。
嫌な予感が脳裏によぎる。耳がおかしくなるくらいの静けさが不安を掻き立てる。震える身体を手摺で立て直しながら、沈黙を破らないように足音を消して階段を下りる。
階下から誰かが慌しく歩き回る気配が伝わった。
真っ白の壁に赤く染まった手形が残っている。磨き抜かれたはずの床が鮮血で汚れている。揃えて置かれていたはずのスリッパが乱雑に散って、玄関マットが水を含んだ雑巾のように赤い血でびしょびしょになっていた。大きな何かを引きずったような血痕が玄関からリビングまで続いている。
玄関に備えていた子機電話をポケットに無理やり押し込み、明日、ぼくと一緒にコースを回る為に用意していた祖父のゴルフクラブを握り締める。心臓の鼓動が頭の中でこだまして、冷静な判断能力を失っているのがわかった。
リビングから短い呼吸音が聞こえる。そっと足を踏み出し壁にくっつくようにして中を覗き込む。
そこは生臭い臭いが充満していた。まるで空気に色がついたみたいに、リビングは薄紅色の気体が漂っているように見えた。男が屈み込んで何かをしている。見覚えのある背中が、横たわった祖父の身体に食い込んだ包丁を抜こうと躍起になっていた。
テーブルの上に覆い被さるようにして祖母が倒れていた。床に滴る鮮血はまるで映画の中の出来事のように、信じられないくらい大量にこぼれていた。
全身から血の気が引く。思わず眩暈がした。
「ヒー…ヒィ……」
呻き声のような奇声が耳に届く。濡れた手で包丁の柄を掴むもなかなか力が入らないらしく、男は立ち上がったり座ったりしてなんとか祖父の体に深く突き刺さった包丁を抜き取ろうとしていた。
―――殺サレタ。
一瞬の恐怖の後に使命感が燃え上がる。殺された二人に代わってあいつを抹殺しなければいけない。今、実行しなければぼくが殺される。麻痺した感情を押さえつけ、本能が感じた恐怖に従い一歩踏み出す。
さっきよりも血の臭いが強く感じた。
「……っ」
わずかに開いた唇から不規則に呼吸音がこぼれる。ゴルフクラブを頭上高く構え、咄嗟に男の背後に回り渾身の力を込めて振り下ろした。
「!」
クラブの先端が脳に直撃する。骨に当たり振動が伝わってきた。男は全身を痙攣させると驚愕した表情で振り向いた。
佐久田……
そう認識すると同時に二打撃目がを横顔に打ち込んだ。バランスを崩し倒れ込む男の頭を狙って何度も打ち込む。男は両腕で防御しようとするがその隙間を狙って繰り返し攻撃をした。
力では勝てない。けれど多くダメージを与えれば、勝算はある。こんな奴、殺シテシマエバイイ。明確な殺意に従って本能が命じるがまま、ゴルフクラブがひしゃげるのも構わず振り上げた。次第に血が吹き出し顔や服にかかったが同じ行動を繰り返すうちに、感覚が鈍り自分が何の為に何をしているのか、その目的も曖昧になってきた。
泣き喚く男の声も、骨を打ち砕く音も、肉が切れる、音も、すべてがガラスを通した向こう側の世界の出来事のようで、赤く染まっていく指も、ゲームの疑似体験をしているような気がした。
助けを乞う男の姿。不自然な方向へ曲がった腕。深紅のペンキをぶっかけたような顔。もしこんなゲームがあれば、なんて不快感極まりないのだろう。すぐにでもリセットして、やり直したい。リトライしてもっといい方向へ進みたい。
もしかしたらどこかに、ボタンがあるかもしれない。
男がピクリとも動かなくなってから、ぼくは視線を彼から逸らし宙へ向けた。
見えないだけであるかもしれない。
生温かな液で濡れた顔に手を当てて、座り込んだ。
…ゴトッ
一切の音が遮断されていた世界に、床に落ちた電話の音が蘇る。ぼくの目にはまるでそれが電話に姿を変えたリセットボタンのように思えた。
人殺しになったけどこれでもう一度やり直せる。どこから始めようか。緑色の化け物も、形ばかりの家族も、何もいらない。次こそは、平凡で、誰も注目なんてしない……退屈なくらい自由な人生を歩もう。
1…1……0。
指は迷わずその番号を押した。
佐久田の部屋からは若き頃の母の盗み撮り写真が見つかり、長年に渡り母娘をストーキングしていたことが発覚した。また余罪についても明らかになり傷が回復し次第、逮捕起訴が予定された。
事情聴取でどういう気持ちで犯人を殴ったのかと聞かれ、ぼくは取り乱したふりをして答えた。
「…真っ赤になっていて……男がこっちを見た時、ぼくが殺されるって……怖くて」
あの男に対し芽生えた明確な殺意を否定した。祖父母の死体を目の当たりにし、パニックに陥った哀れな子どもを演じる。さすがの警察たちもそれ以上の追及はしてこなかった。後に裁判でぼくの元に忠告にきたあの女職員が証言台に立つこととなったが、母の強い反対によってぼくも琳子も裁判所には赴くことはなかった。
―――リセットボタンはどこにもない。
何をしても視線はつきまとう。マスコミが事件を騒ぎ立て、家の周りには常にカメラが並んだ。鳴り続ける電話。やまないチャイム。テレビや新聞の見出しを飾るゴシップ記事。琳子は入退院を繰り返した。一人になるとあいつの声が聞こえてくると訴え、ひどい時には泣き叫んで暴れた。それを見て母は自分自身を責めていた。けれど世間の関心は同情に大きく傾き、母が経営する会社は更にその名を馳せることとなったという皮肉な副産物もあった。
何かと相談に乗ってくれた芹沢や周囲の大人たちは、家族の中でもいち早く日常に戻ろうとしていたぼくの前向きな姿勢を褒め称えた。以前より向けられる視線にも悲劇を克服しようとする賞賛と羨望が混じった。
しかし過剰な報道はぼくらのプライベートまで嗅ぎ回り、二人の父親が違うことまで突き止めて面白おかしく誇張しそれをブラウン管に垂れ流した。真実が明きらかになるのを恐れた母は、退院したばかりの琳子とぼくを呼び異父兄妹だと嘘を告げた。
雨が降る夜だった。ショックを受けた琳子は泣きながら家を飛び出し、残ったぼくは母を罵った。
「どうしてそんな嘘を…! もう知ってるんだ。時任継男と小坂メグがぼくの両親だろ!」
紫煙を長く吐き出しながら母はやや視線を漂わせてから断言した。
「あんたが琳子を好きだからよ」
「!」
どうしてばれていたのかわからない。普段からそんな気持ち、押し殺して…必死に、必死にごまかしてきたはずなのに。灰皿にまだ長い煙草を押しつけ言い訳がましく呻いた。
「確かにあいつに奥さんがいたのを知っておきながら付き合って、それで結果的に二人は別れた。あんたから両親を奪ったからには…幸せになって欲しいのよ」
母の言葉に切実な願いを感じ、開けたままにしていた口をつぐむ。
「それに琳子はあんたを実の兄貴だって思って信じてるわ。今までみたいに三人でいい関係でいたいの」
懇願するように胸の前で手を組むと、真摯な眼差しを向けてきた。
―――またか…
どいつもこいつも、ぼくに向ける視線に何らかの見返りを求めている。理想を貫けと、これまでの平穏な毎日を続けろと、いつも、ぼく自身の希望は二の次だ。
苛立ちを溜息でごまかし、肩で息を吐き出しながら「わかったよ」と呟いた。
「代わりに、父親に会わせて」
母は一瞬目を見張ったが小さく頷いた。
ドイツへ向かう空港内で何年ぶりかにあの緑色の女を見た。他には誰も見送りにきていない。一人でも行けるとごり押しで断ったからだ。
ゲートに並び背中に向けられた女の視線を意識する。どこでぼくが留学すると聞いたのか、ストーカー気質の女から生まれた自分にまで、まさかその気はないだろうなと内心毒づく。
「次の方、こちらへどうぞ」
手招きされた方へ向かおうとしたその時、背後で声が上がった。
「翠! 身体に気をつけるのよ。頑張るのよ!」
人垣の向こうで必死に手を振る緑色のコートをまとった女。少しでも目立とうと飛び跳ねている。
恥ずかしさのあまり顔を真っ赤に染める。傍から見たら見送りにきた母親そのものだ。ぼくが何の為にドイツへ行くのか、その理由も知らないくせに能天気に母親気取りで声援を上げる小坂メグ。大人びた外見にそぐわずやることはどこか子どもっぽい。
やめてくれ。
声を張る小坂メグに心の中で願う。
みっともない、馬鹿にされるだろ。どこかで話のネタに使われるだろ。誰かにまた、噂をされてしまうだろっ!
「みーどーりぃ!」
大きなサングラスを外した目元に溢れる涙を見つけ、胸の奥で締めつけていた何かが弾けた。
「!」
気がつけば右手を大きく振っていた。何度も何度も、腕のつけ根からちぎれるくらいに動かし歯を食いしばって泣いた。
祖父たちが死んで以来、初めて流す涙だった。
ずっと片親だから、血が繋がらないから、兄だからと自分で自分を束縛していた。いつも現状に不安を抱え、それを打破する方法も見つけられず貼りつけた仮面を剥がせずにいた。むちゃくちゃな母親たち。一方的に影でぼくを見守っていた生母。引き取っただけで放任してきた育ての親。二人がいたからぼくがいた。二人の所為で、今の自分が生まれた。
何を否定すればいいのかわからない。でも、理屈で考えるのをやめて、こんな風に子どもみたいに泣いたっていいかもしれない。
―――まだぼくは弱冠十二歳の青臭いガキなんだから。
「それで…ドイツで父親に会ったの?」
コーヒーを差し出しながらティルは眉根を寄せて問いかけてきた。
「会ったさ」
カップを口元に近づけすぐに離す。匂いがきつ過ぎる。恐らくまた分量を間違えたのだろう。どういう訳か何度彼女にコーヒーの淹れ方をレクチャーしても、一向に上達どころか及第点すらとれない。
「で、どうしたの?」
じれったそうに先を促す彼女も、一口啜るなり顔をしかめて大匙で砂糖を入れた。
やはり自分で淹れた方がいいな。異様にどす黒いコーヒーを眺めながらしばらく黙り込んだ。
「ねぇってば」
「殴った」
「え?」
目を大きく見開き、手にしていたカップを落としそうになった彼女を一瞥する。
どうやったらこんなにまずいコーヒーができるのだろうか。半ば感心する思いでティルを見やると
「感動の親子再会を期待したなら…悪いけど、実際は呼び出して殴って帰った」
「えぇ…?」
更に目を開け口を半開きにしたまま呆然とする。
「ミドリって……意外とワイルドね」
的外れな感想につい苦笑を漏らした。ティルもつられてフフッと笑ったが、ふいにその動きを静止させた。
「認めていたのに、どうしてあんなに冷たくしていたの?」
率直な意見にしばし逡巡してから言葉を選び紡いだ。
「ドイツで生みの親について自分なりに決着をつけた。だから今度はあいつに気持ちの決別をさせたいんだ」
「…もしかして、わざと冷たく? リンコが自分で…どうしたいのかを決めさせる為に?」
「言っただろ、ぼくはあいつを認めている」
ぼくが唯一認めた人間。
帰国して久しぶりに会った琳子はとても綺麗に、そして以前より母に似ていた。ちょっとした動作や雰囲気に、母の面影を見つけるたび過去の未熟だった自分を思い出し自己嫌悪に陥った。
あいつが悪い訳ではない。けれどぼくの言葉一つで傷つく彼女に、もっと強くなることを望んだ。ぼくが許さない限り兄妹には戻れない。わかっている。わかっているけど、妥協したまま過去に縋りつきたくはない。辛かった記憶を踏み台に未来を切り開く強さを。父親の正体を知ったとしても、乗り越えられるだけの力を…
―――手に入れて欲しかった。
扉を叩く音。即座にティルが相好を崩し「リンコかしら」と立ち上がる。彼女の注意が逸れたこの隙にまずいコーヒーをシンクに流した。
「いらっしゃい、リンコ。今、飲み物を用意するわ」
女主人気取りの彼女の傍らで不安げに視線をこちらへ向ける琳子。先程まで彼女に話して聞かせた内容を反芻しぼくを恐れる『妹』に笑みを返した。
いつかこの瞬間が、ぼくらを束縛したものから解き放つリセットボタンになるだろうか。
ボタンを押すまで先はわからない。
けれど、今は伝えなければいけない言葉があった。
0
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