失われた子どもたちの童話集  ――This is the story of Lost children.

青海汪

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第三部 剣を携える乙女

第二十話 錠を隠す子ども

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厚く頑丈な扉でも所詮は木製。耳を澄まし全神経を傾けていれば、室内の会話はある程度聞こえた。
「ぼくらはセトに新たな王になることを望む」
 ツインの宣言を聞き届けそっと生徒会室の扉から離れる。この向こうに集まる彼らのことを思うと、久しぶりに血が騒ぐような興奮を覚えた。
 「フフ……」
笑い出したいのを堪えて歩き出す。そうだね。ぼくもセトがバロになることを望むよ。この学園を美で溢れさせるには、まず統治者にも美を求めなくちゃいけないから。
道すがらにある談話室を開け、テーブルに用意されているお菓子をつまみながら腰を下ろした。リンコもミドリも、ユンまでも…頭はいいと思っていたのに。
―――この世界を否定したらだめじゃないか。
「ずいぶんご機嫌ね、レオ」
手元に落ちる影を見詰め、背後に立つ姉に向かって「まぁね」と喜びを隠せずに答えた。
「それよりさジャックを知らない?」
「さぁ…」
ぼくの隣りに座りキャンディに手を伸ばした。三種類のキャンディを一気に口に放り込むと、目を細めどこか遠くを眺めた。
「アパートが決まったわ」
キャンディをコロコロと鳴らしながらぼやく。
「へぇ、どんなとこ?」
「環境は申し分ない。独身の婦女子が住むには最高の環境ね。全体の評価としては今までで最高の値だわ」
と言ってシュカはほとんど無意識に親指を噛んだ。ガドレが終わってしばらくはその癖も見せなかったはずが、卒業を間近に控えた不安からか以前に増して爪を噛むようになった。
シュカが何かに不満を抱いている。まぁ、その原因は歴然としていたけど。彼女だけではなく、卒業を目前にする生徒たちはこの時期にはちょっとした鬱になる。みんなここを出ていくことに恐怖しているんだ。
「大丈夫だよ。教員免許をとって、また戻ってくればいいだろ?」
優しく姉の肩を叩き励ますが、いつもながら大して効果はない。
「そんなことを言っても、毎年教員の応募数を遥かに越える募集がくるのよ。私が、私がずっとここにいる為には…どうしたらいいのっ」
 「今のうちにセトに好かれておく必要はあるよね。いずれ彼がバロを継ぐんだし」
 「ファルバロに? 他の女子と同じようなはしたない真似ができる訳ないじゃない」
 金切り声で叫ばれたのでつい耳を塞いで嘆息した。まさに『あーいえばこーいう』の典型例になるので黙っておく。毎度のことながら、姉の将来が心配だ。外見はまずまずだからどっかのぼんくらを捕まえる分には大丈夫だろうけど、この性格である限りまず長期的な結婚生活は望めないだろうな。
姉さん。ぼくは、とっても心配だよ…
 爪を噛み続けるシュカを眺めそっと溜息を吐いた。
 
 
 寮の部屋までなんとか戻ってくると、ゲンジロウはとても驚いた顔でぼくを迎えた。持っていた虫かごを靴の上に落としその痛みで我に返ったのか
「…セト……」
わずかに開いた口元からぼくの名を呟くと、突然表情を変え肩を掴んできた。
「お前っ今までどこに、つうか、大丈夫なのか? なぁ、何があったんだよ!」
語尾が頭の中で残響する。なんだかゲンジロウの顔を見てると眠くなってきた。身体も重たいし…
「ふ、ふわぁ…」
大きな欠伸をすると眠気は一層強まった。拍子抜けしたゲンジロウを一瞥し襟からリボンを外してベッドに横たわる。柔らかい布の温かさは地下のあそこと大違いだ。
「石のベッドは……もう、やだな…」
ゲンジロウが何か言っていた気もする。だけど意識は限界に達していてすぐに夢の世界へ旅立った。
 ―――悲しい音楽が流れている。聞いたことのある……モーツァルト…? わからない。わからないけど……聞きたくない。
 空気が悲しい音色に染まって、呼吸をするたびにぼくの身体にも入ってくる。これ以上入らないのに肺を満たした空気はもっともっと、無理やりにでも押し込もうとしてくる。ふいに薔薇の匂いが鼻腔をくすぐり急に音楽も止まった。
 何も見えないと思っていたら、単に瞼を閉ざしていただけだった。張りついたそれをゆっくり持ち上げながら、広がっていく視界の隅で枕元に置かれた薔薇がぼくを覗き込むように飾られていた。
 寝心地のよいソファから起き上がり欠伸をする。ここはバロのプライベートルームだ。
 でもピアノに彼の姿はない。先程まで聞こえていた曲は一体誰が奏でていたのだろうと訝しんだが、すぐにテーブルの上にあったオルゴールを見て合点した。
 枕代わりにしていた本を取り膝の上でめくる。書きかけのまま眠ってしまったので、ぼくの手にはちゃんとペンまで握られていた。
 どこまで書いたっけ…ページをめくり思い出す。
 「よく眠っていたな」
 音もなくドアの開けるとバロは穏やかな面影を浮かべて歩み寄ってきた。
 「お前は何も心配しなくていい。ようやく先ほど正式な回答が得られたところだ」
テーブルの上にあるカップに、黄金色の紅茶を注ぐと香りを楽しむように顔を近づけた。同時にオルゴールの蓋を閉ざしたので突然舞い降りた沈黙が、ぼくの不安をより確かなものにした。
カップにつける唇を歪ませてバロは視界の端にぼくを捉え、眉根を寄せた。
 「国勢が悪化したそうだ。正当な王族の彼を処刑に科すことが急遽決定した為に、こちらには無断でベンジャミンの身柄を拘束したと連絡があった」
 その時になってようやくぼくは、ずっと片手に握ったままだった彼の靴の存在に気づいた。
 ―――彼は殺される為に国に連れ戻された。クーデターから逃れこの学園に安息を見出したところだったというのに。
「……ベンジャ…ミン…」
 掠れた声を絞り出すと遠くで誰かがぼくを呼んだ。確かずっとむかしにも聞いたことがあったけれど、声の正体を思い出す前に意識が途絶え、一切の記憶は失われた。
 気がつくとぼくは温室の傍に立っていた。外はとても寒いのに何故マントを羽織っていないのか疑問に思った。湿った髪の毛が外気にさらされてすごく冷たくなっている。
 どこに行こうとしていたんだろう。
 温室を見上げながら首を傾げる。曇り空を反射したガラスに映るぼくの姿は、なんとなくいつもと違った。糊のきいたシャツの襟首をひっぱり、こんな新品だったかな考えたがすぐにバロの言葉を思い出して手を叩いた。そうだった、今日は転校生がくると言っていた。確かジャックが迎えに行っているはずだから、ぼくも部屋に戻ろう。
踵を返し裏口に向かって走り出す。これから対面する新しい仲間を思うと胸が躍った。まず何から教えてあげよう。おいしい食事? それとも綺麗な校内? いや、それだけじゃ足りない。もっと大切なことをまっ先に―――
事務所から学園につながる石段まで辿りついた所で、煉瓦造りの事務と教員寮を兼ねた建物から出てくる見慣れない少年と少女を見つけ足を止めた。恐らく彼らが転校生だろう。暗がりでよく顔まで見えないけど、二人を案内するジャックの様子がいつもと違った。
石段を登りながら雑談を交わしているけど、ジャックは目の前にいる少女よりも少年に向かって喋りかけている。そのくせ視線は絶えず彼女に集中していた。
 バロの秘書として誰よりもこの学園に追従し、生涯を捧げる覚悟でいたはずのジャック。彼の心が今揺れ動いている。それだけですぐに転校生の正体がぼくにはわかった。
 
「そこは舌を巻いて息を吐き出すように」
 秘密の部屋でリンコにレドヴァス語を教えながら、ふと窓の外を眺めた。あいかわらずの曇り空。今にも雨か雪が降り出しそうな天候は憂鬱な気持ちにさせるのに、どうしてか今日に限って肩の荷が下りたような心地よさを感じていた。
 ページをめくりこの短い期間で目覚しい進歩を遂げたリンコが、美しい発音で言葉を綴る。長い髪をいつも三つ編みにしているけど、いつになったら彼女は髪を下ろすのかな。きっと下ろした方がよく似合っていると思うのに…
 微光を浴びて小麦色に輝くリンコの豊かな髪を見詰め微笑む。途中からぼくの視線に気づいたのか気恥ずかしそうに「何…?」と問い返してきた。
かぶりを振って先を促す。リンコはしばらく躊躇うように黙り込んだが、本に目を落とすと続けた。ぼくが流した噂は瞬く間に尾びれをつけ、面白おかしく誇張され生徒の間で充満した。お陰でリンコは孤立してしまったけど、表立てそれを悲しむ様子もなくいつも毅然とした態度で挑んでいた。
噂に目をつけたキッコが何やら動いているみたいだけど、最近ではリンコを見る周りの目も変わってきている。ひとたび侵食した汚名こそなかなか消せないけれど、高嶺の花の如く周囲から際立つリンコの存在は男女問わず注目を呼んだ。
朗読に合わせてページをめくる。
そこに書かれていた『オヒュルス(父親)』という単語を見つけ苦笑する。当初の目的ははっきりした。ジャックは役者だから見事に隠し通しているけど、やっぱりバロの前では気持ちが緩むんだね。
今の所ぼくだけが知っているリンコとジャックの関係。秘密を共有するって共犯者に近い享楽がある。綺麗なリンコ。聡明なリンコ。でもきみは、まだ何も知らない。兄が抱く憎しみの正体も、この学び舎で父親が行っている実験も。何より、きみ自身が封じたまま忘れようとしている忌まわしい過去のことまでも。
だからそんなに綺麗なままでいられるのかな? いっそのこと綺麗すぎたチュチュのように、永遠に閉じこめてしまえばいいかもしれない。
それともきみは―――
「さっきからニヤニヤしてる…」
「…なんでもないよ」
ねぇリンコ。きみは、ぼくが築く世界を認めてくれるかな? 
共に歩む、最高のパートナーとして。
心の中でそう問いかけると、ぼくは再び本に目を落とした。
 
 ―――キッコと呼ばれる少女は、すべてに於いて完璧を修める少女と親しくなることで自分の存在を証し立てようとしていた。
本にそう書き記すと枕の下に隠してゲンジロウが帰ってくるのを待った。なんだかお腹が減っちゃった。切ない悲鳴を上げるお腹をさすり、食べるものでもないかと机の引き出しを開ける。床に膝をついたらポケットに入っていた硬いものが当たった。
 何が入ってるんだろう? 身に覚えがないので中身を探ってみると、そこから白く細い骨のようなものが出てきた。
 首を傾げ記憶を回顧してみる。ふいにバロと一緒に、ジャックから差し出された壷の中身を覗いていたことを思い出したけど、それが何を意味するのかまではわからなかった。そういえばツインにベンジャミンが失踪したと聞いてからしばらくして、ぼくはバロに呼び出されその壷を確認したんだ。
 確か…ノーコツ? 納骨……は、いらないってジャックが言っていたような気もするけど、でも。なんだか珊瑚みたいで綺麗だな。浮き立つ思いで引き出しから木箱を取り出すと、そこに詰められた黒髪の上にそっと乗せた。
 あれ? でもこの髪の毛は誰のだろう? …だめだ。何にも思い出せないや。
 ぼくが箱を再び引き出しにしまうと同時にドアが勢いよく開き、ゲンジロウが入ってきた。
 「こんな所にいたのかよっ! 一緒に晩飯食べよーとずっと探し回ってたんだぜ」
 「ゲンジロウお腹減った」
 「俺はお前を探してたから、その倍は減ったっ!」
 まるで彼の主張を後押しするように腹の虫が大きな悲鳴を上げた。
 ぼくらは同時に吹き出して、そして夕食のメニューを言い当てながら一緒に寮の扉を出た。
 
 ガドレが迫りバロの部屋にも沢山の薔薇が飾られるようになった。しばらく腕組みをしたまま苦渋に顔を歪めていたが、確認するようにぼくを見ると「本当にモリアをこの国に滞在させるつもりなのか?」と問い返した。
 約束がある以上、何度聞かれてもぼくは主張を変えるつもりはない。即座に頷くぼくに心底困ったような表情を浮かべ小さく唸った。
 「約束した」
対峙するだけで相手を萎縮させる貫禄を持つバロに向かって、ぼくは静かに断言し決して退くつもりはないと伝えた。
 「………ならば扱いはわたしの言う通りにしてもらおう」
花瓶に挿した薔薇を一輪手に取り、茎を手折るとぼくの胸元に差した。
 「お前のわがままを聞いてやれるの機会はそうそうない。これもお前の為に、お前を救う為に選んだ道だとその胸に刻んでおくのだ」
 「ぼくの…為?」
 何を言っているのか理解できず仰ぎ見たが、傾斜な角度は彼に不敵な翳りを作りその表情を隠していた。
 
 色彩の渦に飛び込み、リンコとぼくはスローステップで踊った。バロの権力を見せびらかす為のガドレの宴。弧を描き踊りながら、人込みに紛れジョナサンたちが生徒に声をかけている様子を盗み見た。
 「下ろした方がよく似合っている」
 長い髪はゆるくウェーブをしながら腰まで落ちている。青いドレスがリンコの白い肌によく映えてとても美しかった。
 「青いドレスもリンコの雰囲気にぴったりだよ」
少し恥ずかしそうに俯いていたがふいに顔を上げると、正面からぼくを捉え「……モリアをどこへやったの」と詰問した。
「何のこと?」
しかしリンコは引き下がらなかった。それどころか負けん気のきかなそうな強い口調で
「とぼけないで。昨日の夜…彼はベンジャミンを殺したって告白してきたわ。余計なことを話す前に彼を、モリアまで殺したの?」
殺シ、タ? どうしてぼくがモリアを殺す必要があるんだろう。ぼくは今まで誰も、殺したことはない。消えてしまったベンジャミンだって―――
 頭の奥で誰かが怒鳴った。続いて何人もの声が聞こえる。話している内容までわからないけど、雰囲気から口々にぼくを非難し嘲笑を浴びせているようでもあった。幾重にもこだまして残響が広がっていく。
みんなが一斉に喋るから何も聞こえない。何も見えない。
Dina da doo.……
そっと耳元で『彼』の声がしたのを最後に意識が薄れた。辺りが漆黒に染まっていく中、ぼくの声で誰かが
「願いを叶えてあげただけだよ」
と代わりに答えていた。
 
 暗闇の向こうで子どもたちの遊ぶ声がしていた。近づいたつもりもないのに、それは突然ぼくの目の前で騒いだ。
 『甘いもーの好きな子だぁれ?』
 「はーい。ぼく、ぼく! 大好きなんだぁ!」
 『辛いもの大好きっ子はいるのかな?』
 「ユンファからキムチをもらうのが密かな楽しみ…ってぼくのこと?」
 『酸っぱいものも食べられる子っているかしら?』
 「実は日本からよく梅干しを送ってもらっているの…」
 『じゃあ苦いものはどう?』
 それまで威勢よく答えていた子どもたちが名乗り出ようとしない。まるで暗がりに隠れお互いに目配せを交わし牽制し合っているようでもあった。
 声の主が再び問う。
『苦いものが食べれる子はいないのかぁ。それじゃあ質問を変えまーす』
 ほっと安堵の溜息が漏れた。同時に忍び笑いも聞こえる。場が和み、ぼくもつい口元を緩ませようとしたその時
 『チュチュを塔から突き落とした子だぁれ?』
それまで穏やかな口調を努めていた質問者が突如、声調を一変させ問うた。漆黒の帳に隠されて辺りにひそむ子どもたちの姿はまったく見えない。質問者もどこにいるのかわからないのに、何故かその指が示す先にぼくがいるような気がしてならなかった。
 鼓動が早まる音が伝わる。周囲の注目を一身に浴び、喉がひどく渇いた。
 「はい! セトだよ」
元気な声が上がる。少年の発言を皮切りに、それまで沈黙を決め込んでいた子どもたちが一斉に喋り出した。
 「チュチュを殺したのもセト」
 「モリアを殺したのもセト」
 「キッコを殺したのもセト」
 「キサメは殺されるってわかっていながら無視していたのもセト」
 「ガドレで選ばれた子どもたちが殺されるって知っていながら、ちゃっかり大切な子だけは守っていたんだよね。セト?」
すぐ目の前で少女が甲高い声で問いかけた。
『大切な子?』
 「リンコっていう子をダンスに誘ったの。他にクリーシャやマスべス、それにユニィもセトにパートナーを申し込んだのにみんな断ったの」
 「お目当ての子を誘えばその子は選ばれない」
 「薬を嗅がされた生け贄は地下の実験室へ直行さぁ」
 「ほぉら、否定しない」
 「でもセトは何も覚えてないみたいよ?」
 「違うよ。忘れたわけじゃない。思い出せないように彼は錠をかけたままなのさ。大切な鍵は、ずっと眠ったまま―――深い意識の底にいる『ユキオ』という人格に飲ませて」
 「チュチュを突き落としたその日、彼の中にはバロの息子と同じ名をした『ユキオ』が生まれた。そうすることで、身も心もバロに捧げファルバロになりきることを拒んだんだよ」
 「ずるーいぃ。じゃあ私たちだけがファルバロになっているの? 同じセトの中にいる人格なのにっ」
 「まぁまぁ…」
 「さて置き、いい加減『ユキオ』を目覚めさせるべきだね。こうしている間にもバロの与える薬は確実にぼくらの身体を蝕んでいく」
 「私たちから自由な翼を奪おうとしている」
 「永遠の子どもになろうとするぼくたちを否定している」
 『子どもたちを手にかけた罪の意識は?』
 「もちろん。『ユキオ』が殺害時の記憶を封じているから、セトは何も知らないまま。もし事実を知ったら彼は、自らもバロと同じ道を歩んでいることに気づいてしまうからさ」
 「知らないことが罪だけど、知らないからこそセトは汚れないままでいられる」
 『まるでネバーランドにいる子どもたちのようだね』
 「そうさ。言うなればバロの息子は先代ピーター・パン。セトは残された生徒たちの為に新たなピーターになろうとしている」
 「ならなくちゃいけないの」
 「けれど、いずれ彼はバロになる」
 「理想とするピーターではない、現実の」
 「この国と城を受け継ぐ王に―――」
 ……。
 子どもたちの喧騒が遠のいていく。誰もが足早にそこから去っていき、足音だけが耳に残った。暗がりに薄っすらと光が差し込んでくる。徐々に淡く染まっていく世界を見て、寝返りを打つとその先にゲンジロウの姿があった。
 「お? 起きたか」
相好を崩すとぼくが起き上がるのに力を貸してくれた。そしてココアを入れたカップを差し出し、照れ臭そうにそれを勧めてきた。
 「まぁ飲めよ」
 「……コーヒーがよかった」
ぼやきながら一口だけ啜ると、湯気が冷え切った頬を温めてくれた。
 「お前は! 人の厚意は黙って受け取れ!」
 熱くて猫舌のぼくにはそれ以上飲めなかったので、温もりを味わいながら膝の上に置いた。それを気に食わない様子で睨みながら、ゲンジロウはベッドの端に腰を下ろした。
 「で、全部話せよ。ずっと姿も見せねぇし…第一、お前。ここにあんな隠し通路があるとは一言も言ってなかっただろ?」
 ゲンジロウは怒ると真っ先に口に皺が寄る。だから一気に二十歳くらい老けたように見える。
 「なっ、何笑ってんだっ。俺が馬鹿だからとか、そんな言い訳は聞かねぇぞ!」
 「………怒ってばっかりいると、老けるよ」
眉間に刻まれた濃い皺を見詰めながらぼやく。この調子だとすぐに白髪になっちゃいそうだなぁと、頭から湯気を漂わせるゲンジロウを少し気の毒に思った。
「キッコとモリアは…生きているよ」
「え?」
きょとんとしたまましばし口を開けた顔はちょうど今、シーズンのフグみたいだ。
「刺身、食べたいな」
「意味わかんねぇよ」
かぶりを振り、今度は真剣な眼差しでぼくを捉えた。
「俺とリンコ。ミドリにティル、ユン。そしてツインはお前を助けるって決めたんだ」
意外な登場人物たちに虚を衝かれる。
「だからお前が知っていることをちゃんと、全部…」
「やっぱりゲンジロウはリンコにお熱なの?」
またもや肩を落とし反論するかと思いきや、しばらくぼくの目を見たまま「気には…なる」と呟いた。
「あんなタイプ初めてだし最初は嫌いだったけど、でも、あいつは…」
「今のぼくなら少しだけ喋ることができる。だけど他の子が出てくれば、みんなファルバロだから。バロに忠誠を誓っているから、何も言えない。ぼくと『ユキオ』だけはゲンジロウの味方になれるけど『ユキオ』はずっと……目を覚まさないんだ」
短い沈黙の後にゲンジロウは眉間の皺を更に深く刻み問いかけてきた。
「どういうことだよ?」
冷えてきたココアを口につけ舌先に広がるカカオの苦味を味わった。苦いものを食べられるのは、苦い薬に慣れているから……と、夢の中にあらわれた質問者に向かって答えながらカップを口から離した。仏頂面のゲンジロウが口火を切るのを待っている。
 「バロといる時はファルバロの名を冠した人格が出てくる。みんな、従順な後継者を演じてくれるんだ」
長い付き合い故にゲンジロウは人格について深く言及するような真似はしなかった。
 「必要に応じてみんなが協力するんだよ。生徒が平和な学園生活を送れるように、ぼくらがバックアップしていく。それがファルバロの役目でもある」
 ふと思い出したけど、ゲンジロウの前ではずっとぼくは『ぼく』のままでいれた。それは彼が何も求めずにいてくれたから?
 「…俺たち、仲間といる時も他の奴らは出てくるのか?」
 彼の瞳を捉えたままゆっくりとかぶりを振った。
「ゲンジロウとユンは、ぼくと一緒に理想の世界を築こうとしてくれたから」
 飾らず、気取る必要もない、あるがままの自分でいることができた。
 「チュ…」
彼女の名前を紡ぎかけてから乾いていた喉を唾液で潤した。
「チュチュを突き落とした後にもう一人の人格を作った」
 ゲンジロウは悲しげに目をしょぼめたが、涙を堪えて聞いてくれた。根からの善人の彼にはただただ、これは辛い物語に過ぎないのだろう。
 「それが『ユキオ』だよ」
 
 
 生徒会室での談合を終えてから、私はナルキのしつこい勧誘に負けて仕方なくツインと行動を共にしていた。これからミドリが(多分ティルもついていきそうだけど)メモを元に、ベンジャミンが隠した証拠を集めていく手順になっている。私たち三人は普段からよく調理場を借りるナルキがいることもあって、お菓子に混入された薬の正体を突き止める使命を与えられた。ゲンジロウはセトを探すことになっている。
 それにしてもどんな検査にも決してひっかからない薬だなんて、本当にバロが開発したとすればノーベル賞ものだ。でもその薬の正体さえ明らかにすれば……セトを助けることができるかもしれない。
 薬探しにあまり乗り気ではなかったリンコが気になったけど、一縷でも希望の光が見えてずっと胸を占めていた不安がほんの少し、薄らいだ気分だった。
 「ねぇ、なんだか少しすっきりしたよね」
 「まぁね。でもリンコに協力するつもりが、ミドリの方がリーダーシップを取ってたよ」
 いくぶん不満そうにぼやくハルキを尻目に、ナルキは嬉しそうに飛び跳ねながら私の顔を覗き込んだ。
 「ユン、やっと笑顔になったね」
 「!」
 不意打ちに瞬間湯沸かし器の如く私の顔は真っ赤になった。咄嗟に顔を背けたけど、すかさずハルキが追い討ちをかける。
 「随分と熱っぽい顔してるけど、ようやくナルキの片想いも報われるのかな?」
 「えっ、本当に?」
目を輝かせるナルキを見て、寸での所まで抑えていた本音が漏れた。
 「す……好き、よ」
 耳を貫くくらいの沈黙が辺りを制した。咄嗟に告白した自分を恥じたけど、こんな反応はあんまりだ。当のナルキまで放心した様子でいる。
 「わ、悪かったわね。そんなこと、どうでもいいでしょっ」
 もしかして今までのデモンストレーションもすべて冗談だったの? つい涙目になりながら悔しさのあまり奥歯を鳴らした。
「ほら、厨房に行くんでしょ!」
二人から離れてどんどん廊下を進んでいくと、背後からとんでもない大声で
「ぼくも、ユンが大好きだよ!」
ストレート過ぎる愛の告白はまっすぐ私の中に入った。受け止めた言葉を反芻してその意味を噛み締める。どんな時でも私を見守ってくれる温かな眼差しを知り、喜びのあまり胸が張り裂けそうだった。駆け寄ってきたナルキと、はにかみながらそっと手を握った。
 「ぼくも……ずっとずっとユンが好きだよ」
 優しく囁く彼の声に酔い痴れながら目元を拭って頷いた。まさに天にも昇る気持ちの私たちの傍らで
 「まっ、ぼくがいる限りそうそう二人っきりにはしないけどね」
冷ややかにハルキが毒づく。その一言で完璧に現実世界に引き戻されてしまった。ムードをぶち壊しにした憎きハルキを睨みながら、ナルキも困惑した表情で悲しげに
「えー! それじゃ困るよぉ」
 「そ、そうよ。どうしてあんたまでいなくちゃいけないの?」
 「ぼくらは生まれた時から一緒だろ? なら死ぬ時も同じ棺おけに入るものじゃない?」
 妙に説得力のある内容にナルキは思わず頷きかけたので、慌ててそれを制した。
「ちょっと待って。私をあれだけ好きといっておきながら、今さらハルキにつく気?」
「えぇ? そんな訳じゃないけど」
 「付き合いの長さでいったら絶対にユンには負けないね」
 「だって……ハルキとは双子だもん」
やけに納得するナルキを見て怒りに火がついた。こうなったら徹底して応戦してやろう。
 「私とハルキ、どっちを取るの!」
 「そりゃあぼくだよ。だってさっきも『ぼくらはぼくらの為に生きる』って宣言したもん。なっ、ナルキ」
 それでもどっちつかずの態度しか示さず、おろおろ戸惑うナルキにびんたを食らわせた。
「最低! ブラコン! 不潔!」
 精一杯の捨て科白を吐き出し厨房へ向かう私の後を、ナルキが必死の形相で叫びながら追ってきた。
 「待ってよ! ユン~」
彼の泣き声を聞きながら、なんて相変わらずの私たちなんだろうと、肩を落とした。けれど…と、もう一人の私が呟く。私たちは今の自分たちをいつか愛しく思う日がくると知っている。
「置いていくわよ」
なんてことない日常に幸せを見出し、私は密かに苦笑した。
 
 
 シュカと別れてからぼくはジャックの姿を探した。しばらく職員室を張っていたけど、よくよく考えればジャックは教授じゃないし、あらわれるとしたら学園長室だろうと抜け目に気づき、恥ずかしい思いを抱きながら向かった。
 扉をノックしようと手をかけたのと同時に、中からジャックが出てくる。
 ナイス タイミングだ。そう思い声をかけようとしたが、疲労しきった彼の顔を見て喉元まで出かかっていた言葉がすぼんでしまった。
 「やぁ…レオ。どうしたのですか?」
野暮ったい笑顔が同情を誘う。そうとう無理して笑っているのが丸わかりだ。
 「バロに用だったら、もうすぐお客様がいらっしゃるのだけど」
 「いえ、違います」
慌てて首を横に動かしどうにか手短に要件を伝えようと頭の中で素早くまとめた。
「ミスター・ジャックに話しがあるんです」
 「ぼくにかい?」
意外そうに目を見開き相好を崩す。そうするとなんだか可愛く見えてしまうから不思議だ。
 「貴方の娘が反旗を翻しました」
 ぼくの第一声にジャックは硬直した。
 「気をつけて下さい。さっき生徒会室でミドリやツインたちを集め、学園を落としいれようと相談していました。メンバーにはグドゥのユンとゲンジロウまでいます」
 「………そう、か」
ぎこちない動作で唾を飲み込むと小さく頷き答えた。
「よく知らせてくれましたね。わたしから、バロへ…伝えておきましょう」
一礼してからついでにシュカのことも頼もうかと思ったが、動揺を必死に隠そうとするジャックを見て気の毒になり諦めた。
 再び丁重に頭を下げると、ぼくは心臓が早鐘を打つのを感じながら足早に歩き去った。
 
 
 夕食の準備が始まるまでだったら、という条件つきで私たちは厨房の利用を許可してもらった。初めて足を踏み入れる厨房内は綺麗に磨きぬかれ、すべてが銀色に輝いていた。ナイフに映る自分の顔もまるで鏡のように細部まで観察できる。
 スプーンを持ち上げ、驚いている私の背後にハルキが立ち「そんな小さな鏡じゃユンの顔なんて全部映らないよ」と嫌味をこぼした。
 「さっさと始めるわよっ」
ナイフを振り回しハルキを追い立てると、ナルキは手馴れた様子で厨房内を探し始めた。
 さすがはいつも借りて深夜までお菓子の研究に没頭しているだけあるわね。関心しつつ私も銀食器が並ぶ棚を開け、中をチェックし始めた。
 「でもさ、百パーセント検査にひっかからない薬って…どんなやつなのかな?」
小麦粉を入れた麻袋を開けながらナルキが聞く。
「味でわかるものなの? それとも匂い? 手触り?」
 「う~ん…」
妥当な質問に腕組みをしながら考えた。
「要はお菓子に混入しても違和感のないものが怪しいのよ」
 「あっ、なるほど~」
目を輝かせるナルキとは裏腹に蜂蜜の壷を確認しながらハルキが密かに毒づく。
 「そんなアバウトな意見で探しきれる訳がないのに」。
 「くっ!」
苛立ちを堪える私の元にナルキがきてそっと耳打ちをしてきた。
 「ちょっとショックなことがあったから、ハルキは機嫌が悪いんだよ」
 身内を弁護する言葉に卑屈な思いを抱きながらそっぽを向く。晴れてカップルになった記念の日だというのに、彼は何かとハルキの肩を持つ。
 「実はね、ハルキはキサメの大ファンだったんだ。もちろん作品の方だけど」
 「それくらいわかるわよ」
「カナムラ教授が実はキサメや、過去に優れた作品を手がけた生徒たちに無断で作品の横領を行って、賞とかを取っていたのがわかって…。ハルキはカナムラ教授のこと、すっごく慕っていたから」
 信じていた人に裏切られたショックか…。それならあまり人ごとでもない。黙々と瓶の中身を見極めていくハルキを眺め、少しばかり同情した。ここにいる限り、私たちは幸せなはずだった。セトを信じてついていけば未来は輝いていると思っていた。それが、現実は薬を使って私たちを意のままに操る虚構の夢物語だったとは―――
 
 
 ゲンジロウはしばらく意味を玩味するように口をつぐんだ。
 彼が思案に暮れるのをただぼんやりとした気持ちで眺めながら、どうして二人を殺した記憶はあるのにその時の気持ちを覚えていないのか不思議に思った。
 鍵は『ユキオ』に飲ませている……
 夢の内容を反芻しそっと胸に手を当てる。ぼくが錠と鍵をわけて持つ限り、決してここから解き放たれることはないのだと自らに言い聞かせた。
 「ユキオさんは…その、バロの息子の。お前の伯父さんのユキオさんはだな」
長い前振りに適当に頷きながら続く言葉を促す。
 「今は天国で、ハスミさんと幸せに暮らしているんだよ。残された俺らがそう願わなくちゃいけないんだ」
 熱の入った科白は左耳から右へと素通りしていく。葬式の後によく似た慰めの言葉を何度も聞いてきたので今更ぼくの心に響くはずもない。けれどゲンジロウはぼくの両肩を掴み、少しでもいいから何か自分の想いが届けばいいのに、という顔をしていた。
「バロの息子が戻ってくるまで、ぼくは、ファルバロのままでいなくちゃいけない。約束を違えたらいけないから。それを誓う為にも、バロの息子の夢を忘れない為にも『ユキオ』がいる」
 「でも…それじゃいつまでも、お前が縛られる」
いつの間にかぼくの肩を掴む指が震えていた。
 「なぁ、俺たちは……力を貸してやりたいんだよ。俺たちの無理な願いがお前をここに縛りつけているなら、俺は…」
涙と鼻水を同時に流しながらゲンジロウは懇願した。
 「ごめんな…セト。俺たちにもっと力があれば……もっと勇気があれば、お前をここから連れ出せたのに」
 肩を掴んでいた腕から力が抜けていき下したゲンジロウの手が、ぼくの手首に触れた。
 「!」
 服の上から点滴の後に張ったガーゼに気づき、有無を言わさず袖をめくる。そして一箇所に集中して残る痣を見て、ゲンジロウは血の気を失った顔でぼくを見た。
 ばれてしまった以上隠す理由もない。袖を元に戻しながら淡々と説明をした。
 「ゲンジロウたちに与えられるお菓子に薬はないけど、ぼくには沢山、薬を与えるんだ」
 「どう…して……」
 「現実を拒んだらいけないってさ。お陰でさっきは変てこな夢を見たんだよ」
おどけた態度をとったけどゲンジロウの表情は硬いままだった。
どうやらぼくには、道化役は向いていないようだ。睫を伏せて残ったココアを飲み干すとお腹の虫が思い出したかのように騒ぎ始めた。
「お腹減った…」
カップを返しベッドから出ると夕食の為に校舎へ戻ることにした。マントを手に取るぼくの後ろで思い悩むゲンジロウが呻いた。
 「バロは…どうして、実の息子のユキオさんやセトにまで、そんな薬をっ」
 マントを羽織ながら泣きじゃくる彼に向かってぼくは、バロの代わりにこう答えた。
 「願いは―――世界の子どもたちの平和だから」
 子どもたちの安寧を願わない大人たちがいるだろうか。ぼくはその問いかけに対し最大限の否定を答えとしたい。
 どんな大人たちでも、彼らはみんな子どもだったのだから。だから幼いぼくらに救えなかった自分たちの過去を投影し、守り愛し、そして導こうと足掻く。あの頃の自分たちが求めたものを与えてやりたくて。けれど大人になった彼らには、かつての自分が見た景色はもう見えはしない。同じ目の高さで見つめ合い、同じ場所から辺りに響く声を聞き、同じ限られた世界で考えることはもうできやしない。
 何故なら大人たちは子どもたちだったけれど、もう、子どもには戻れないのだから。
 久しぶりに食堂に向かうと、ずいぶんと見覚えのある顔ぶれが減ったことに気づいた。その大半が他校へ転入し残りが実験の為に消え、後のわずかが新たに転校して入ってきた生徒たちだろう。
 乙女のステンドグラスの下に座ると、ゲンジロウが料理を持ってきてくれると言ったので甘えることにした。正直、立ち続けることが辛い。薬を変えたばかりだから身体がまだ調子を戻せずにいる。
 バロはぼくに現実を見ることを常に要求してきた。それは彼自身が医者として、一人の人間として、様々な場面で社会が隠す現実を目の当たりにしてきたからだろう。理想の世界に逃げ込むぼくの身体を押さえつけ、いつも無理やり薬で意識を取り戻させる。
 お前が暮らす世界はここなんだ。誰も成長を拒むことはできない。バロの息子の時のように、簡単に窓は開かないのだと―――
 何も知らずに食事を前に喜ぶ生徒たち。彼らに紛れてこのまま消えてしまえたら、どんなに幸せだろう。
 「やぁ、セト! どうしたの?」
 いつの間にかぼくはテーブルの上に突っ伏していた。誰かに肩を叩かれ起き上がると、隣にレオが座っていた。
 「熱でもあるんじゃないの? ドクター・アンジーを呼ぼうか?」
 つい数時間前までつきっきりだった彼女を思い出し、力ない笑みをたたえ返した。
 「平気だよ」
 「そっ?」
軽い調子で呟くと右肩に置いた指に力を込め、ぼくの耳元に顔を寄せると
「大切な身体なんだから。セトがいなくちゃ学園は続かないんだよ? そうしたらぼくらはどうすればいいか、わからないじゃないか」
 肉に食い込むレオの指を意識しながらぼくは優しく微笑んであげた。
「…そんなにぼくのことを、思ってくれているんだ……」
 「もちろん」
レオは冷たい笑みを浮かべた。
 「きみは、バロになるのだから」
 ゲンジロウが二人分のトレー持ってこちらに向かってくる。その瞳が訝しげにレオを捉えた瞬間、ぼくの肩を優しく叩いて離れていった。
 「それじゃ、ぼくは向こうで食事だから」
 「だいじょーぶか? すっげぇ顔色悪いぞ…」
 今度は紅茶を入れたトレーを目の前に置き、レオが陣取っていた位置に腰を下ろした。
 「……コーヒー…」
 恨めしげに呟くと仁王立ちし「ちょーど切れていたんだよっ」と叫んだ。
 仕方なく紅茶に砂糖とミルクを入れる。マーブル状にミルクが広がっていく所をスプーンで掻き混ぜながら、鼓膜に張りついたレオの言葉を反芻した。
 ―――セトがいなくちゃ学園は続かないんだよ? そうしたらぼくらはどうすればいいか、わからないじゃないか。
 トレーに盛られた料理はどれも滋養のあるものばかりだった。それほどぼくの身体を心配してくれているのだろうけど、こんなには到底食べられない。残すつもりでお粥に口をつけた。
 「うまいか?」
 不安げに聞いてくるゲンジロウに向かって微笑みを返す。ただそれだけのことに、彼は泣きそうな顔で喜んだ。
 「ゲンジロウと食べるの…久しぶり…」
道標を失った迷子を導くのがファルバロの使命。飛び出したバロの息子が戻るまで、ぼくは物語を書き続ける。彼から受け継いだお話を完結させるまでは、ユキオは戻ってきてくれない。
ねぇ『ユキオ』。
バロの息子が望んだ結末を一緒に考えて欲しいんだ。ぼく一人では決められない。ファルバロの名を冠するぼくの中の仲間たちには決められない。
きみが鍵を持つ以上、ぼくは錠を持ったままここを離れることもできやしない。
 『ユキオ』
……どうか呼び声に応えてよ。
終わらない物語を抱えたまま、ぼくはいつまでも彷徨い続ける。扉を前に鍵を探し求める迷子のように。いつか周りに仲間たちが集まったとしても、彼らの持つ鍵ではどれも合わない。
きみが目覚めてくれるまでは。
 「しっかり食べねぇと、もたねーぞ」
快活に笑うゲンジロウの姿が何故かとても遠くに感じた。
 
 
 一人の身なりのいい紳士が、城へ続く石段を慎重に登っていた。階段は除雪されているものの踏み外したら即、雪の中に埋もれてしまうのではないかと恐怖するくらい辺りの積雪量は半端なかった。
 老体には過酷な道とも言えたが主人の代理としてきた以上、家名を汚す真似はできない。新調したばかりのスーツを濡らさないよう、細心の注意を払いながら階段を登っていたがふいにその足が止まった。
 白雪の中に赤毛が舞うのを見た気がしたのだ。
 しかしそんなはずがない。見間違えたのだろうと納得し、紳士は再び足を動かした。そうしてようやく長い階段を踏破し、待ち構える城の扉と対峙したその時。背後から彼の名を呼ぶ者があらわれた。
 「セバスチャン……」
 驚き振り向くとなんとそこには母国で嫌というほど顔を見てきた、主人の政敵の娘。ベティ・レイラ・クレンディ嬢が立っていた。奇しくも彼が現在の勤めるリトバルスキー家の執事となる前に、彼女の屋敷で務めていた経緯があったのだ。彼女が生まれる前から知るセバスチャンは、ベティとの再会に胸を震わせた。
 「お嬢様…! まさかこんな所でお会いできますとは」
感動に言葉をつかえながらもベティの手を握った。冷たさのあまり血の気が引いた。一体何時間、彼女はこの寒い外に出ていたのだろう?
 「どうして…どうして? 貴方は今……キサメのお家に…」
 本来なら、この時点で彼女の異変に気づくべきだったろうが、主から言いつかった使命を思い出しセバスチャンは目頭を押さえた。
 「ご存知でありましょう。そのキサメ坊ちゃまがお亡くなりになられ、わたくしめは坊ちゃまの遺体を引き取りに参ったのです」
 「キサ……メ…?」
 セバスチャンは主であるキサメの父から、学内の不慮の事故で亡くなったと聞かされていた。ハンカチで目元を拭いながら「えぇそうです」と頷いた。
 「お父様がご多忙の為、こうしてわたくしが参った次第です」
 「死ん………キサメ…どうして……」
もはや彼女にはセバスチャンの声など耳に入っていなかった。
 ふらり、と身を翻すとベティは再び雪景色の中へ消えていった。
 
 
 
 
 
 
 
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