失われた子どもたちの童話集  ――This is the story of Lost children.

青海汪

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第三部 剣を携える乙女

エピローグ 招待状『Dina da doo,失われた子どもの国へ』

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 気がつくとベッドに横たわったまましばらく眠っていた。短い時間だったけど熟睡していたらしく、身体が少し軽くなった気がした。それでもまだ覚醒しきれていない頭を起こし、眠たげな眼を擦ると夕焼け色に染まる室内の電気をつけた。床には開けっ放しになったトランクと、そこに詰め込む予定の本たちで散らかっている。どれを持っていこうか選んでいるうちに棚に積もった埃が気になり、始めた掃除を半日かけて終えた途端、急に疲れが押し寄せてきたようだ。
 手元にあった小説を棚に戻して大きく伸びをする。
レポートの締め切りが近くて、ずっと徹夜をしていたからだわ。鬼のような教授たちの顔を思い出し、昨日やっと完成したレポートの結果を考えて憂鬱になる。最後の方は意識も朦朧としながら書き上げた。
 けれどそうでもしなければ、きっと決意できなかっただろう。
 トランクの蓋を閉め机の上に置いていた手紙を手に取った。指定された日取りは三日後。今日中に荷物をまとめ、出発しなければいけない。チケットはなんとか取れた。
 段取りだけは整っている。
 けれど、行くのが怖かった。そこで待っている事実と向き合うだけの勇気がまだない。こうして準備だけ進めながらまだ悩んでいた。
それにこれだけ持っていっても読みきれないかもしれないわね。
 何気なく手に取った本を見てつい目を見張った。あの時も、こうして鞄に入れ持っていったポール・エリュアールの詩集。導かれるように本を開き指でなぞりながら読んだ。
 
 希望のない不在に
 裸の孤独に
 死の歩みに
 ぼくはきみの名を書こう
 
 蘇った健康に
 消えた危機に
 記憶のない希望に
 ぼくはきみの名を書こう
 
 そして、ひとつの言葉の力で
 ぼくはまた人生を始める
 ぼくはきみを知る為に生まれた
 きみに名づける為に
自由(リベルテ)と
 
 ポールの作品の中でもとりわけこれが好きだった。読み返すたびに言葉から力をもらいもう一度、頑張ってみようと思えた。
 たった一つの言葉の力を借りて……
 本と閉ざしてトランクに入れる。他にも持っていくものをまとめると、ショルダーバックに航空券とパスポートをしまい立ち上がった。
 約束してくれた。だから信じよう。確かめよう。そしてその時、長く書き続けていた物語は終わるのだ。これから向かう場所に、きっと『彼』は待っている。
 
 
 五年前。私は十四歳の少女だった。これから向かう未知の世界に胸を躍らせて。不安を噛み締めジャックの運転する赤いケンジントンに乗り、翠と一緒に通った道を、今は黄色い塗装の剥がれたバスに揺られ辿っている。
 膝の上に乗せた本。革表紙に刻まれた文字を指でなぞり、記憶を回想してふっと笑みを漏らす。ずっとショルダーバックに入れていた手紙を取り出し、そこに書かれている言葉が事実であるのだと、はやる思いを抑え興奮を鎮めた。
 「!」
 舗装されていない道を走るバスは、少ない乗客を天井に突き上げようとばかりする。振動で膝から落ちてしまった本を拾い上げ埃を払う。と、開いた最後のページが目にとまり手を止めた。
 気づかなかっただけだろうか? でも、こんな所に書いてあったかしら…? 自問自答しながら空白のページに黒く浮かび上がる一文を読み上げた。
 『世界は再び 創造される』
 
 会場に指定された場所は、寄付金を募り大改造を行って豪華な造りに変わった麓にある村の教会だった。教会の所有地にあるホールを借りているらしく、町の外観は然程変わっていないのに、まるでここだけが突然進化してしまったような寂しさを覚えた。
五年前の神父様はおらず、今度はもっと若くはきはきした青年が務めていた。受付けの傍らに立ち笑顔で寄付金箱を差し出してくる抜け目ない性格で
「恵まれない子どもたちへ寄付を」
と頼まれ私もつい苦笑しながら紙幣を入れた。
 全校生徒による大がかりな同窓会。招待状を渡し受付けに座る懐かしい面々と挨拶を交わした。
署名を求められリストの上の方に名前を連ねる。ちらりと見ただけでも参加者は当初の見込みより少ないらしく、開始時刻を大幅に遅れてやってきた私でようやく八十七番目だった。さすがに世界中に卒業生たちが散らばり、それぞれのルートを歩んでいる今、過去を顧みる余裕などないのかもしれない。
 「きてくれて嬉しいわ。これを胸につけてね」
といって黄色い薔薇のコサージュが渡される。咄嗟にガドレの際に髪に結わえた薔薇を思い出し、感慨に浸る。
「ありがとう」
そう答え会場に入っていく。祭事などの食事会用のホールらしく、広い会場は立食式のパーティが行われていた。着飾り大人になった人々があちらこちらで輪を作り、思い出話に花を咲かせている。どうやら学年毎で薔薇の色をわけているらしく、黄色いコサージュを見つけた旧友たちが私に話しかけてきた。
「リンコなの? 髪が短くなっていて全然わからなかったわ!」
よく私に宿題を写させてくれと頼んできた、アンが感嘆する。
 「聞いて! ブリニーったらこの年で三回も結婚してるのよ!」
 「いいじゃない。私に似合う男を探し求めているのよ」
 「あーら、それをいうならジョナサンなんてもう二児のパパよぉ」
 口々にお喋りをする同級生たちを眺め、みんな外見こそ変わっても中身はちっとも成長していないのだと密かに喜んだ。
 「久しぶりねぇ。今は何をしているの?」
 通りがかったボーイにレモンスカッシュを頼み答えた。
「イギリスの大学へいっているわ。児童文学について勉強をしているの」
 「文学って言えば…モリアも確か本に携わっていなかったかしら?」
ワインを飲みながら、ほんのりと紅潮した顔で隣りに立つシィンに声をかけた。
 「そうそう。そっれがびっくりよ!」
 今度は彼の話題で盛り上がりを見せる集団からそっと離れ、私は別の面子を探した。事前に参加の有無を確認していたけれど、久しぶりの再会を思うと胸が高鳴った。
 「そんなことないよ!」
 綺麗に揃った二人の声聞きつけそちらへ向かう。壁際で集まるあの日の仲間たちが私を捉え感嘆の声を上げた。
 「本当に切ったのねぇ!」
高校を卒業後京都の大学へ進学したキッコは色鮮やかな赤い振袖に身を包み驚いた。彼女には事前に髪をばっさり切ったことを伝えていた。
 「えぇ! 本当にリンコなの?」
ナルキは父親の元で本格的にパティシエしての修行をしていた。対するハルキはアメリカの大学に留学したと聞いている。確か経済学を専攻していると言っていた。
 「へぇ…なんか、別人みたい」
ガドレの時も着ていたチマ・チョゴリ姿のユンが、ナルキの傍らで呟く。同級生たちの中でも彼女の活躍は目覚ましく、若き天才数学者として名を馳せていた。
 「女って失恋すると髪切るって言うけど…」
オーストラリアで動物の生態について勉強し、今は博士号を取る為に猛勉強中だといっていたゲンジロウが翠に耳打ちした。
 「失礼ね。単なる気分転換よ」
ショートボブにした髪に触れ断ると、先程のボーイが飲み物を届けてくれた。
 「なんだかそうして並ぶと…今はティルの方が髪が長いから、むかしの二人が入れ替わったみたいね」
 金色の巻き毛を肩まで垂らしたティルと顔を見合わせる。このメンバーの中でも、彼女とはよく連絡を取っていた。もちろん、翠絡みのことでだけど。
 懐かしい面々を見回し「あら? モリアは?」と尋ねた。
 すると翠がワインを飲みながら教えてくれた。
「彼なら校了前だとかいって、今日は遅れるらしい」
 ほとんどの生徒たちが大学へ進学したり、もしくは親の跡を継ぎ事業家として働く中。彼はほぼ唯一の例外として一般の出版社に勤めていた。
 「それにしてもすごいわよねぇ。あたしたちと同じ年で、もうモリアは自分で働いているんだもん。しかも家を出て自炊しているんですって」
 「噂ではキッコがちょくちょくお見舞いにいっているとか聞いたんだけど、そこらへんはどうなの?」
 「いいなぁ。ねぇ、ぼくらも同棲しようよぉ!」
無言でナルキの頭を叩くユン。この二人はあいかわらずだった。
 「キッコは単なるお節介で行っているだけでしょ?」
助け舟を出すと顔を赤らめて頷いた。
 「そーよっ! なんだかモリアって三日ともたずに死んじゃいそうじゃない?」
同意を求めティルを仰ぐも、ティルは素直にその願いを棄却した。
 「ミドリは私がいなくても全部、家事をやっちゃうからわからないわ」
 ドイツの大学に通う翠を追ってか、彼女も近くにアパートを借りて生活していた。それこそ同棲すればいいのにと思う私だったけど、何ごとにも慎重な彼らしく、未だに合鍵さえ渡してくれないと、よく愚痴を聞かされる。
 「意外と同校のカップルって多いんだよな」
 「ゲンジロウまで! あ、あたしは別に…」
 「もしかして、まだベンバー教授を引きずっているの?」
 結衣子さんと再会を果たしたベンバー教授だったが、その後の経過を聞いていると何度か食事を重ねたり遊びにいく程度の付き合いはあっても、ヨリは戻していないようだった。
崩壊したメール・ヴィ学園の教授たちは他国にある姉妹校へ移り、もはやバロもあの地に学園を復興させることは考えていないらしく廃墟になっていると伝え聞いた。ジャックは変わらず秘書としてバロに同行し、世界中を飛び回っている毎日だったが、月に数回の割り合いでメールを交わしている。私が大学を卒業するまでに是非イギリスに住むお祖父ちゃんとお祖母ちゃんに会ってくれと言われているけど、多忙の彼を見る限り実現するのはまだ難しそうだ。
 「そういえば、シュカはきているのかしら」
私の独り言にユンが反応した。
「さっき車椅子で移動しているのを見た」
 「車椅子? どこか怪我でもしているの?」
 かぶりを振りそっと胸に手を当てると
「心の病気みたい。でも、笑っていたよ。幸せそうに」
そう言って微笑むユンの表情につられ、私も自然と顔を綻ばせた。
 「そういえばさぁ、生徒会役員選挙で投票しようとした時のこと覚えてる?」
 「あぁ。ナルキが綴りを間違えてジャックに票を入れちゃったってやつだろ」
 「えっ、ど、どうしてゲンジロウまで知ってるの?」
「さぁて、どうしてだろうなぁ」
雑談を交わす仲間の笑顔を見て心許ない不安に駆られる。最後のピースを忘れたまま、完成したパズルを眺めているような気分。あと一つ。あと一人……足りない。
話の区切りがついた所で切り出した。
「ねぇ、あれから随分経ったけど…彼の行方について、何か進展はあったのかしら?」
 私の問いかけに、みんなは首を傾げた。
 「モリアなら」
 「違うわ、セトよ」
もっと明確に彼の特徴を挙げようとしたけど何も出てこない。思い出そうとすればするほど、そこだけ霞がかったように薄れていく。
 もどかしさを感じながら「約束したのよ…。私たち、セトと約束したじゃない」と叫ぶ。
 しかし誰もが不安げに顔を見合わせ、黙り込んでいた。そして静まり返る一同の気持ちを代弁するように「誰のことを言ってるんだ?」と翠が問うた。
 「誰って…」
続く言葉を紡ぎかけてから、私に向けられる視線に込められたものに気づく。
 ――可哀想に。炎上した学校を見た時のショックが忘れられないんだ――あぁ、疲れてるのかな? 気分転換とか言っていたし――やっぱり母校が廃墟になってるって辛いわよね―――
 ティルが優しく肩を叩き囁いた。
「ちょっと休みましょうか? あっちに椅子があるわ」
 「……貴方の…婚約者だった人よ…」
 目を見張り驚くと「そんな人、どこにもいないわ」と断言した。
 「!」
胸を貫く衝撃に弾かれて駆け出した。背後で私を呼ぶ沢山の声。けれど、あの夜もこうして走った。人の群れを掻き分けて、まだ校舎に残る彼を助けに向かった―――
 「きゃっ」
 ホールの扉を押し開けて誰かとぶつかる。謝罪の言葉もかけずにそのまま突き抜けようとしたけど見覚えのある顔を捉え足を止めた。
 「モリア!」
 彼は私の姿を認めると嬉しそうに相好を崩した。けれど旧友との挨拶を交わす暇を与えず、彼の胸にすがり問いかける。
「ねぇ、貴方は覚えてるでしょ? セトがいたことを!」
 「……セト?」
眉間に皺を寄せて呟く。一縷でも寄せた期待は見事に打ち砕かれた。嘘偽りなどない純真な瞳を見詰めたまま、その場に座り込む私にモリアは申し訳なさそうに佇んだ。
 誰も、誰も覚えていない…彼がいたことさえも、誰も覚えていない。
 「どうして……? 私たち、いつもセトのことを話題にして喋っていたじゃない。ガドレで彼と踊って…みんなが愛していたのに」
 何故、忘れてしまったのだろう。もしかしてこれも薬の所為なの? 私たちが薬を口にしないようになったから、その副作用か何かで、一番大切なこと失ってしまった?
 「リンコ、これ…」
おずおずと本を差し出すモリア。どうやらさっきぶつかった時に私の鞄から落としてしまったようだ。
 「…ありがとう」
力なく紡ぐと革表紙の本を受け取る。が、モリアは座り込む私の前で腰を下ろし、同じ目線の高さになると
 「ずっとむかしにリンコと約束していたよね。その本に書かれているタイトルの意味を調べるって」
 「え…?」
虚を衝かれて傷心した面持ちで顔を上げる。するとモリアは真っ直ぐ私の瞳を見詰めていった。
「Dina da doo.本来の意味は『それは残らない』なんだ」
 「それは…残らない……?」
 相槌を打つモリア。彼から目を逸らし、本を開ける。
 ―――塔から突き落とされたチュチュ。長い黒髪の少女でユンの姉だった人。彼女の死を皮切りに、彼の中で何かが大きく変わっていった。亡き伯父の意志を受け継ぎ物語を綴る。学内での出来事を詳細までこの本に書き残し、自らも学園と共に消えた。私たちは彼を助ける為に動いた。あの夜、絵画の裏に隠された通路で約束をした。
 そう。セトは私と、約束、した。
「その時は、もう一度『初めまして』から始めよう」
指先だけが触れた、最後の別れ。
「嘘ついたら 針千本 のーます 指切った…」
歌の終わりと共に離れていくセト。沢山の思い出を共有してきた。沢山彼の為に悩んだ。その足音を聞き身のよじれるような恐怖を味わったこともあったけれど、彼は確かに存在していた。
 「涙を拭いて……」
 モリアが差し出すハンカチが頬を掠める。彼の腕をすり抜けると、私は教会を飛び出した。そして教会の前に並ぶ卒業生たちの車に乗り込み、動揺する運転手に向かって命じた。
 「お願い! メール・ヴィ学園まで向かって!」
 
 傾斜な山道を登りながら、ずっと本を胸に抱きかかえたまま想像した。これから、私は、私たちの物語の本当の結末を知る。もしかしたら、そこにセトの姿はないかもしれない。すべては一夜の夢幻だったと思うかもしれない。
 けれど、それでもいい。どんな結果が待っていたとしても、これまでの自分を否定したりしない。悲しみごと受け入れよう。そう、強く言い聞かせた。
 森林が抜け眩しい日差しが注ぐ。目の前に広がる巨大な湖は、五年前と変わらず青い色を宿し穏やかな波をたてていた。まるで、天を焦がす勢いで燃えた空を仰いだあの日の出来事さえも、すべて過去のことなのだと思い知らせようとばかりに。木々は再生し花はつぼみをつけ、それでも戻らないものが人間なのだと、輝かしい光に包まれて景色は私にそう教え諭す。
 湖の中心に立つ島に向かって一本の吊り橋が繋がっている。橋を渡りながら、次第に近づいてくる丘を見据え深呼吸を繰り返した。
 「………」
 車を下りかつて丘の周辺を囲っていた粉々に破壊された石造りの塀を見詰める。ここに両手開きの大きな扉があったけれど、今は朽ち果てて茨の苗床になっていた。
 足場に気をつけて門の残骸をくぐる。
 かつてはあんなに綺麗に整備されていた石畳は罅が走り、割れ目から様々な植物が芽を生やしている。事務所兼教員の寮だった煉瓦造りの建物も、長い間風雪にさらされ荒れ放題だった。建物の脇を通って裏手に続く石段を見上げる。視線の先にかつての城はなかったけれど、青く澄んだ空がスクリーンのように広がっていた。
 空を見上げながら階段を登る。一歩、また一歩と足裏でその感触を確かめながら。
 あんなに沢山のことを経験してきたけれど、私は時々懐かしく思う。そしてあの頃に戻れたら、と願ってしまう。目の前の問題にただがむしゃらに突き進んでいた私。周囲の助けがあって初めて立ち上がることもできたのに、それすら知らず、世界は自分の中にのみあるのだと信じて疑わなかった。
 再会した同級生たちを見てそれぞれの個性に気づいた。少し伸びた身長に合わせて私の視野も広がった気がした。見ようとしなかったものに目を向けて、否定してきたものに手を差し伸べることができるようになった。
 私は……成長してしまった。世界が私たちに大人になることを望んだ。
 そう、今だから言える。
私は貴方に、永遠の子どもでいることを望んでいた。成長と共に失い、奪われ、そして置いていかなければいけない数々を拾い集め、誰の手にも侵すことのできない。決してない世界を求めていた。
 セト……
 あの学園も、貴方という存在も未来へ『残せない』ものなのかもしれない。
 こめかみにたまった汗を拭い頂上を見上げ再び脚を動かした。
 それでもいい。私は永遠なんて、望まない。未来永劫に続く幸せなんて認めない。だから伝えられなかった想いを―――
 最後の一段を登り終えた。
 白い壁の名残りがいくつも積み重なり、大地に灰色の影を落とす。文字通り廃墟となった校舎の跡に、彩りを加えるかのように色とりどりの花が所狭しと咲いていた。
 湖から吹き上げてくる風が木々を揺らす。毛先を弄び、いたずらに音を立てて私を嘲り笑った。
 「セト…?」
諦めきれず彼の名前を口にする。
 応えてくれる人のいない私を今度は慰めるように風が吹き木々の葉を鳴らした。静まり返る廃墟にあるのはただ一人の影。青く晴れた空を見上げこぼれそうになった涙を堪えた。
 夢だったのだろうか? すべて、学園で経験したことは夢だったの? 彼が存在したことも、バロが薬を使って私たちを操ろうとしていたことも。すべて虚構の世界の話で、現実に起こりえるはずがない―――
「セト!」
呼んでも、叫んでも、誰もいない。反響することもせず、語尾が空に伸びて遠のき消えていった。
ここにはすべてがある。過去を追憶するには十分すぎるくらい、舞台にはすべてのセットが揃っている。けれどそこには誰もいない。ただ一人、最後まで物語を書き続けた孤独な少年の面影さえも、誰も記憶にとどめていなかった。
「……」
どこからか薔薇の香りが漂ってきた。
バロが愛しやまなかった花。温室にも、校舎にも、城内はいつもあの香りで充満していた。
匂いに導かれ、私はゆっくりと歩き出した。ここには…食堂があって……その先の階段を登っていくと彼の秘密の部屋があったわ。談話室にはいつも焼きたてのお菓子が用意されていて…
湖から吹きつけてきた一際勢いのよい風が薔薇の香りごと吹き飛ばしていった。咄嗟に瞼を閉ざし過ぎ去るのを待つ。と、どこからかワルツを口ずさむ声が聞こえてきた。
ガドレで踊った懐かしいリズム。焦がれるような切なさを感じながら、私はそっと振り向いた。頬を撫ぜたそよ風は、瓦礫と向かい合い佇む一人の少年に向かって流れていった。
 胸が高鳴る。私だけ成長してしまったのに、あの日と何ら変わらない、少年の面影をそのままに宿した彼は、軽やかに身を翻すと頭を下げてこう言った。
 「初めまして。ぼくはセト。どうか一曲、お相手願えませんか? そしてダンスが終わった後」
 ――――ぼくと一緒に、新たな世界を築きませんか?
「……えぇ、喜んで」
差し出された手にそっと指を添え、裾を持ち腰を下げてお辞儀をする。笑顔を作った途端に涙が溢れてきた。
「ちょうど私も…貴方に伝えたいことがあったの」
「それはよかった。是非、ぼくらの物語の締め括りに、その言葉を刻んでよ」
 
 
 これは、ぼくの物語
 きみと出会い再び会えることを望んで考えた
幸せを手に入れたくて考えた
 
 これは、きみの物語
 築き上げる世界を認めて欲しくて考えた
共に生きて欲しくて考えた
 
 そして、これは新たに綴られる物語
 世界を作るのは、本を探したきみなのだと伝えたくて―――
 
 
 「私…セトが大好きよ」
 
 
 やがて最後の観客が席を立つと、舞台に立つ子どもは踊るのをやめそっと頭を垂れてお辞儀をした。
 虚構の世界に幕が閉じる。貴方が再び、物語を創造するその日まで。
そして舞台は静寂に包まれた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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