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第2章

殿下とのお茶3

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 リズが部屋を飛び出した先には、護衛に立つポールがいた。こぼれんばかりに目を見開き、驚愕を存分に表したポールを一瞥したリズは、もう一つ、氷解したことがあった。
 最近のポールに憂いが付きまとっていたのは、王城に来て殿下の近況を知らされた為だったのだ。
 リズは小さく息を吸い、僅かに冷静さを呼び戻す。
 
――ポール様を責めることができないわ。職務には守秘義務もあったのでしょうから。

 務めて穏やかに、リズはポールに伝えた。
「殿下の部屋へ行きます」

 取り戻した冷静さは紡いだ言葉と共に掻き消え、先導するポールを追い越さんばかりの早足でリズは殿下の執務室に向かい、その勢いのまま、ポールのノックも待たずに部屋に飛び込んだ。

 部屋の奥の机で真剣な面持ちで書類を読んでいた殿下は、ハッと顔を上げ、けれども、リズを認めるとふわりと緊張を解き、蕩けるような笑顔を見せた。
 このような時でも殿下のその笑顔を見て、自分の胸が明るくなるのを感じたリズは、「誤魔化されません」と唱えて歯を食いしばり、出迎えるために立ち上がってくれた殿下へと、足を緩めることなく歩み寄った。

 通り過ぎたテーブルに茶器の用意がされているのが視界に入ると、とうとう瞳が潤み始めてしまったが、殿下のサファイアの瞳から視線を逸らすことはなかった。
 形の良い金の眉が微かに顰められた。

「貴女の潤んだ瞳も美しいが、私の胸まで哀しみで湿ってしまうのが残念だ」
「私の瞳が潤んでいるのは、殿下が悪いからです」

 サファイアの瞳に驚きが走るのを見て、リズの悔しさが増した。
――何が私の瞳を潤ませているのか、思いついても下さらないのね。
 リズは瞳に力を込めた。
「どうして隠していらしたのです」

 ここまで口にして、ようやく原因を察した殿下から一瞬にして表情が抜け落ち、端正な美貌が浮き彫りになる。氷の美貌を目にして、リズは一層潤んだ瞳を隠すために、殿下の胸に額を当てた。殿下は息を呑んだ。
 乱れた気持ちのままに言葉が零れだすのを、リズは止められなかった。

「私は、殿下の隣に立つことが恐いです。死にたくはないのです」

 廊下で受けた悪意の鋭さが、どうしても、頭から、体の芯からぬぐい切れない。
 何度も、前世で突然訪れた最期の瞬間までもが蘇る。
 あの日から幾度も小さく治癒の光が瞬いても、ふとした折にまたあのときの苦しさが過る。

「恐かったのです。…苦しかったのです。魔法石があっても、それでも、どうしても恐かったのです」

 兄にもヒューにも、口に出して伝えられなかった言葉が、殿下の前では零れていた。
 そして、弱さをさらけ出したリズは息ができない程に抱きしめられた。
 頭に落とされる口づけに、殿下からほのかに香るリズの香に、とうとう涙が零れた。
  
「それでも…!貴方の心配はさせて下さい…!」
 殿下の身体が強張った。
 リズは殿下の服を縋り付くように、握り締めた。自分に隔てを置いた殿下との距離を詰めるかのように、強く握りしめた。
  
「隠さないでください。お願いですから」
 胸の悲鳴を感じながら、心を絞り出すようにリズは囁いた。
 はっきりと殿下の鼓動と熱が伝わり、彼の存在を感じ取る。
――このまま時が止まれればいいのに――
 そう思ったときに、リズ自身思いもかけない言葉が溢れていた。

「私は、貴方が殿下でいらっしゃるのが、憎い…」

 驚きから彼の腕が緩んだ瞬間に、リズは顔を上げ、大きく見開かれたサファイアの瞳を見つめた。

「私、貴方が殿下でなければ…、せめて、貴方が国に欠かせない有能な殿下でなければ…」
 リズの眼差しを受け止めてくれる、澄んだサファイアの瞳を見つめ返し、すっと心の霧が払われた気がした。
 するりと、そっと、奥底にあった心が零れ出る。
「私、貴方を攫っていました」
 はっきりと彼が息を呑む様を見て、リズの頬に涙が伝った。
 
 彼の立場など誰も知らない場所で、二人で、二人だけで過ごせればいいのに。
 リズは瞳を閉じて、自分を見つめた。もう、溢れ出た心を見ないふりをすることはできなかった。

 私は、この方が殿下でなければ、お慕いしていた。共に人生を歩んでほしいと願っていた。
 
 リズは自分の往生際の悪さに、苦笑した。

 そうではないわ。
 私はもうこの方をお慕いしている。この方が殿下であるから、この気持ちを認めていないだけ、許していないだけなのだわ。

 悟った事実の甘さと苦さに、リズが目を伏せると、不意に、大きな手に頬を包まれ、上向かされた。
 サファイアの瞳は、今まで目にしたことのない熱を帯びていた。その熱に捕らえられ、リズが目を瞠ったとき、彼はリズの濡れた頬に口づけていた。
 彼が触れた頬にリズの全てが集まるような心地がして、リズは喘いだ。
 彼の熱を持った唇が頬を伝い、リズの唇に熱い吐息がかかり――、

 そっと熱は離れた。
 信じられず、そして体と心が冷えていくのを感じながら、リズは目を見開いた。
 サファイアの瞳は熱を帯びたままだったが、切なさを宿していた。
 綺麗な、哀しくなるような美しい笑みを浮かべながら、彼の指が優しくリズの唇を押さえた。

「貴女に王太子であっても攫ってもらえるときまで、取っておく」
 
 リズの瞳から涙が溢れた。
 再び、息ができないほど強く抱きしめられながら、リズは静かに涙を零し続けた。
 前世で突然に死を迎えた自分が、恐さを乗り越えられる日が来るとは思えなかった。
 頭にいくつも口づけを受けながら、リズは涙を零し続ける。

「貴女が生きていてくれれば、それでいいと、生きてさえいてくれればそれだけで私は幸せだと、私は生きていけると、思ったこともある」
 何かに追い立てられたかのように、彼はリズの身体がきしみそうなほど抱きしめた。
 そして、彼はゆっくりと息を吐き、「何か」を打ち払うと、柔らかく穏やかにリズを抱きなおした。

「貴方の心が私になくとも、貴女の側に居たかった。けれども、もし、貴女を得ることができなくとも、貴女が幸せなら、それだけで幸せだと、思っていた。貴女の幸せが私の幸せだと」
 優しく頭に口づけを落とされる。その優しさに胸が温まると同時に、やるせなさともどかしさを覚えた。
 彼自身の幸せは、二の次になっていないのかと、疑念がぬぐえなかった。
 リズは、彼が幸せになって欲しかった。
 舞踏会で殿下たる笑顔を浮かべ、一人佇んでいた姿を、側近のいない殿下を思い出し、リズは体を離して彼を見上げ、――目を瞬かせた。

 そこには、心から滲みだしたような、眩しいほどの笑顔があった。
 リズはその笑顔に時を忘れて見入った。

「リズ。私の命。覚悟してほしい。私は貴女を諦めない。必ず、王太子として貴女の心を手に入れる。私は、貴女と二人で幸せになってみせる」

 二人で――、その言葉を耳にして、リズの身体に歓喜が走った。
 ふわりとリズの心は軽くなった。
 沁みついた恐怖は、まだ確かにリズの中にある。けれども、彼ならいつか自分にその恐怖を乗り越えさせてくれそうだと、根拠もなく、しかし、はっきりとした期待が芽生えていた。
 リズはゆっくりと微笑んだ。
「そう思って下さるなら、毒草のことを教えてください」

 サファイアの瞳に珍しく悪戯めいた光が過った。
「分かった。貴女の紫水晶が間違いなく輝くものを見せられるよ。約束できる」

 リズの趣味を知り尽くした彼の言葉に、リズは声を立てて笑い出した。
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