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第2章

女神の兄

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 エドワードは、自身の執務室の奥に位置する机に向かい、レクタム国の要人を迎えに行ったジョーダンからの報告書を前にして、その情報の意味を考えていた。
 レクタム国の一行に、事前の打診には含まれていない想定外の人間が含まれていたのだ。
 様々な可能性を考えながら、全ての可能性において等しく沸き上がる感情をエドワードは無視することはできなかった。
 
――つくづく腹立たしいことだ。

 エドワードは報告書を机に置き、乱された気持ちを整えるため、息を吸い込んだ。
 焚いていたリズの香の香りが、ゆっくりと彼の身体を満たす。
 彼女の存在を体に感じて、エドワードの顔はふわりと和らいだ。
 
 自分を取り戻し、再び書面に目を落としたとき、部屋の空気が動いた。
 転移で執務室に入り込んだ険しい顔の銀髪の侵入者を認めて、エドワードはそっと溜息を付く。
 白の守護師は体裁を整えるため、リズだけでなく、エドワードの学友であり王位継承権も持つアンソニーについても結界が作用しないように魔法を組んでいた。
 アンソニーに自分への敬意を示すことなど端から求めていないエドワードであったが、転移で部屋に入り込まれることは、警備上、大きな問題であると感じたのだ。
 
 リズと出会い、結界を組みなおした当時と違い、もう彼女は公式にエドワードの婚約者である。リズだけがこの部屋に入れるようにしたとしても、白の守護師が体裁を気にかけることもないだろう。
 エドワードは明日にも結界の再構築を白の守護師に頼むことを決断した。
――警備を考えるなら、結界に特例を設けないことが最善であるが、エドワードにはリズを特例にすることは、いかに守護師を泣かせることであっても、いかにカーティスの豪快な笑いを浴びることになっても、外せない選択肢であった。

 そのようなエドワードの警備への憂慮、もしくはリズへの偏愛を読み取っているはずのアンソニーは、それには全く反応を示さず、焚かれた香の香りを嗅ぎ取り、一瞬、表情を緩ませ、その後、再び険しさを取り戻した。

「僕の天使は、君への想いを自覚したらしいね」

 アンソニーの声は凍てつくようなものであったが、エドワードは、状況も忘れて、瞬間、胸に光が差し込むのを感じた。
 彼女は自分を選んでくれてはいないが、自分に心をくれたのだ。
 彼女と出会ってからの6年間、エドワードの全てをかけて渇望していた幸せが訪れたことを再び味わい、身も心も蕩けきったエドワードに、アンソニーは眉間にしわを寄せ、大きく舌打ちして明確に不快を示したものの、紡がれた言葉は不快に対するものではなかった。

「エドワード。僕はヒューとポールの思念で君に毒草が送り付けられていると知ってから、ずっと考えていた」

 その言葉で、リズを見送るときに感じたアンソニーに対する違和感は腑に落ちた。しかし、今のアンソニーから感じる違和感を拭えるものではなかった。
 今のアンソニーが纏う気配は馴染みのないものだった。
 薄っすらと魔力を立ち上らせ、緩やかではあるが辺りを制するような覇気を放っている。
 エドワードは初めて素のアンソニーに向き合っているのだろう。
 
 彼とは10年ほどの付き合いがあるが、エドワードから見ればアンソニーと自分の本質は同じだった。
 リズを除いて、誰に対しても心を開かず自分に踏み込むことを許さない。リズ以外の存在は、何も意味をなさない。
 上辺を取り繕うか繕わないかの違いだけだった。
 そして、今、アンソニーは上辺を取り繕うことを放棄して、本心をぶつけている。

「僕は妹を、僕のただ一人の妹を幸せにしたいんだ。何としてでも」

 アンソニーの言葉は、エドワードにとっても真理であったが、エドワードは密かにゆっくりと呼吸をし、気持ちを整えることに努めた。
 アンソニーがこれから言わんとすることが予想できていた。
 果たして、アンソニーは予想に違わぬ結論を突き付ける。

「毒草を送りつけられたり、毒殺を警戒しなければいけない先に、僕の何よりも大切な妹を託すことは認めない。決して、断じて、認めない」

 正論を前にして引き下がるエドワードではなかった。
 エドワードは自分からも魔力が立ち上るのを感じた。
 彼の中では、彼女の心を手に入れた時点で、既に覚悟を決めた問題だ。彼女を手放すことなどもうできない。
 彼女の心が自分にない時ですら、彼女の幸せの為でも、自分以外の誰かとの幸せのために、彼女を手放すことができるか自信がなかったのだ。
 リズの心が自分にある今、エドワードは己の存在をかけてリズの隣を手に入れると誓っていた。
 私は彼女を諦めない。
 エドワードは眼前のエメラルドの瞳を見据え、口を開いた。

「私は彼女を愛している。そして――」

 エドワードはアンソニーの表情を見て、その先の言葉を飲み込んだ。
 アンソニーは表情を隠すために、目を伏せエメラルドの瞳を隠したが、彼の顔にはエドワードが目にしたことのない彼の思いが滲み出ていた。
 もどかしさ、諦観、切なさ、そのようなものが混ざった苦笑が、閉じられた目にも、ほんの僅かに上がった口の端にも表れていた。 

「僕は、僕の妹に対する君の愛情を疑ったことはないよ」

 アンソニーは目を閉じたまま小さく息を吐き、はっきりと口の端を上げた。

「――今も昔もね」
 
 エドワードは自分の胸がドクリと大きく鼓動するのを感じた。
 脈打つ耳に、香を欲しいと頼んだ時の、鈴を振るようなリズの声が蘇る。

――決して一般には受けない香りです。公爵家でも兄以外、全く好まれない香りです。

 もはや、鼓動はうるさいほどに大きかった。
 なぜ、聞き流していたのだ。
 溺愛する妹の作ったものだからだろうと、全く考慮していなかった。

 まさか、アンソニーがこの香を好きな理由は――

 浮かび上がった信じ難い可能性に、エドワードは喉の渇きを覚え、つばを飲み込んだ。それを合図としたように、エメラルドの瞳がゆっくりと開かれた。
 その眼差しは決して鋭いものではなかった。だが、目を逸らすことを許さない強さがあった。

「だけど、愛情だけでは妹を幸せにできないと、昔、他ならぬ君自身が教えてくれたじゃないか」

――!
 エドワードは、今生で初めて、リズ以外の存在から息が止まるほどの衝撃を受けた。
 感情が消え去り、血の気の引いたエドワードを目にして、アンソニーは微かに眉を寄せた後、口元だけを緩ませた。
 
「久しぶり。そう挨拶するべきかな。高直」

 かつての友であり、かつての妻の兄であった彼から投げかけられたその言葉は、全てが消え去ったエドワードの頭にゆっくりと入り込んでいた。
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