【完結】還俗の刃 ――能登・長連龍の復讐――

高杉 優丸

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第1話 魔王の謁見

第1話 魔王の謁見(後編)

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「……兵を、お貸しいただきとうございます」

 連龍は声を絞り出した。
 恐怖で喉が震えているのではない。渇きだ。全身の血が沸騰し、喉の奥が焼けるように熱い。

「能登は今、上杉の手に落ち、裏切り者どもが我が物顔で闊歩かっぽしております。ですが、民の心はまだ定まっておりませぬ。長家の名を持つ私が戻れば、必ずや呼応する者が現れます」

「呼応、だと?」

 信長が片方の口角を上げた。
 嘲笑。いや、もっと冷徹な、地に這う虫を見るような目だ。

「家を焼かれ、父を殺され、尻尾を巻いて逃げ出した男に、誰がついてくる。民が見るのは力だ。敗残の犬の遠吠えではない」

「敗残の犬……」

「違うか。七尾城で死んだ者たちは、貴様を待っていたはずだ。それを裏切り、おめおめと生き恥を晒した。その貴様に、何の器量がある」

 信長の声が、その場の空気を押し潰した。周囲の近習たちが、憐れむような目で連龍を見る。この男はここで斬り捨てられる。誰もがそう確信したはずだ。
 だが、連龍は顔を上げた。眼球が熱い。視界の端が赤く明滅している。

「器量など、ありませぬ」

 連龍は言い放った。開き直りではない。それが厳然たる事実だからだ。家臣を守れぬ主に、もはや値打ちなどない。

「ならば、死ね」

「死にまする。……ですが、ただでは死にませぬ」

 連龍は膝を進めた。床に敷かれた虎の皮を、汚れた指が強く掴む。
 信長との距離、あと三間さんげん。側近たちが色めき立ち、刀の柄に手をかける。構うものか。連龍は信長だけを、その瞳の奥だけを見据えた。

「上様は、能登を欲しておられる。違いますか」

「……」

上杉謙信うえすぎけんしんは老いたとはいえ、軍神。まともにぶつかれば、織田の兵とて無傷では済みませぬ。ですが、能登の地勢、裏切り者の性根、民の気質……それらを知り尽くした案内人がいれば、いかがでしょうか」

 信長が杯を止めた。目が、鋭く細められる。

「貴様を使えと?」

「使い潰してください。私は、能登へ戻るための手形が得られるならば、外道の羅刹にでも魂を売るつもりでした。ですが、ここにおられたのは魔王だ。これ以上の好都合はございませぬ」

「口の減らぬ坊主だ」

「坊主ではありませぬ!」

 連龍が叫んだ。喉が裂けるような感覚と共に、血の味が広がった。

「円山は死にました。ここにいるのは、ただの刃です。……人を殺すのではない。奴らに、死を運ぶための道具でございます」

 静寂が落ちた。雨音さえ消え去ったかのような沈黙。
 信長が、じっと連龍を見つめている。その瞳の奥に、初めて微かな光が宿ったように見えた。興味。あるいは、己と同じ血を持つ獣を認める目だ。

「死を運ぶ、か」

 信長が低く呟いた。そして、ふいと視線を逸らす。部屋の隅に控えていた男に目を向けた。

「又左」

「はっ」

 派手な衣を纏った男が進み出た。朱色の小袖に、傾奇かぶいた髷。腰には、不釣り合いなほど長大な太刀をぶら下げている。
 前田又左衛門利家まえだまたざえもんとしいえ。僧籍にいた連龍の耳にも、その勇名は届いていた。「槍の又左」。信長が最も目をかけている武辺者の一人だ。

「この野良犬を預ける。首輪をつけておけ」

「……よろしいので?」

「飼い慣らせとは言わん。噛みつくようなら、その場で斬り捨てろ」

「御意」

 利家が連龍に向き直った。にやりと笑う。だが、その目は笑っていない。獲物を狙う猛禽の目だ。

「聞いたな、坊主。いや、還俗げんぞく殿か。……俺の背中について来い。遅れたら置いていくぞ」

 信長はもう、連龍を見ていなかった。手元の地図に視線を落としている。用は済んだのだ。
 連龍は深く一礼し、立ち上がった。足が痺れている。だが、体は軽かった。道が開いた。地獄へと続く道が。

 外に出ると、雨は小降りになっていた。だが、琵琶湖から吹き付ける風が、濡れた着物に張り付き、容赦なく体温を奪っていく。連龍は身震い一つせず、利家の後を追った。

 利家の歩みは速い。泥濘ぬかるみなど気にする風もなく、大股で進んでいく。その背中からは、強烈な匂いが立ち昇っていた。香木の匂いではない。鉄と、油と、獣の匂い。戦場を呼吸する者の匂いだった。

「おい」

 不意に利家が足を止め、振り返りもせず声を投げてきた。

「貴様、人を斬ったことはあるか」

「……ない」

「だろうな。腰の物が泣いているぜ」

 利家が振り返り、腰の太刀に手を置いて、顎で連龍の刀をしゃくった。

「錆びた刀に、へっぴり腰。それで死を運ぶだと? 笑わせるな」

「笑いたければ笑え。だが、邪魔をするなら貴様でも斬る」

「ほう」

 利家の目が細められた。肌が粟立つような、鋭い殺気が二人の間を流れる。番兵に向けたものとは桁が違う。これが、本物の武士の放つ熱量か。

「いい目だ」

 利家がふっと殺気を解いた。懐から笹の葉に包まれた何かを取り出し、連龍に放る。冷え切った握り飯だった。

「食え。腹が減っては、恨み言も吐けまい」

「……恩には着ぬぞ」

「いらん。死人の恩など迷惑なだけだ」

 利家は再び歩き出した。連龍は握り飯を掴み、泥だらけの手のまま口に運ぶ。塩辛く、そして硬い。だが、噛み締めるたびに、胃の腑に熱いものが落ちていくのを感じた。

「行くぞ、長九郎左衛門」

 前を行く利家が、背中で言った。

「能登は遠い。……地獄への道行みちゆきだ。精々、楽しもうぜ」

 連龍は飲み込んだ握り飯と共に、こみ上げる何かを腹の底へ押し込んだ。楽しむだと。そんな感情は、もう死んだ。あるのは、飢えだけだ。

 連龍は雨上がりの空を見上げた。分厚い雲の切れ間から、北の空が見える。
 あの空の下に、仇がいる。
 温井景隆ぬくいかげたか遊佐続光ゆさつぐみつ。そして、一族を焼き殺した三宅長盛みやけながもり

 待っていろ。必ず、殺しに行く。

 連龍は泥を踏みしめ、利家の背中を追った。その足取りは、もはや僧侶のものではなかった。一匹の、飢えた狼のそれだった。
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