公爵家を乗っ取った男爵一家は、家系図から消えました 〜偽公爵令嬢は王太子妃を夢見たようですが、本物の私は公爵として並び立ちます

エスビ

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第二十六話 消えていく王都

第二十六話 消えていく王都

王都港には、朝霧がかかっていた。

海から吹く風は冷たく、潮の匂いがする。

セシリアは護送馬車の中で、膝の上に置いた手をぎゅっと握っていた。

指輪はない。

手袋もない。

綺麗に磨かれた爪も、昨日までのようには見えなかった。

扉の外で、兵士の声がする。

「到着した」

馬車が止まる。

扉が開けられ、朝の冷気が流れ込んだ。

「降りろ」

セシリアは動けなかった。

目の前に広がる港。

積み荷を運ぶ男たち。

帆を張る水夫たち。

そして、異国へ向かう大きな商船。

すべてが、自分とは無関係な世界のように見えた。

昨日まで、彼女の世界は王宮の舞踏会だった。

銀の燭台。

音楽。

ドレス。

王太子の手。

そのすべてが、自分の未来へ続いていると思っていた。

けれど今、その未来は海の向こうへ押し流されようとしている。

「聞こえないのか」

兵士が腕を掴む。

セシリアはびくりと震えた。

「触らないで……」

小さく言った。

すぐに、自分で言葉を飲み込む。

母が同じことを叫んでいた。

「触らないで! 私は、公爵夫人よ!」

その結果、母は労役施設へ送られた。

今の自分にも、触られることを拒む権利などない。

セシリアは震えながら馬車を降りた。

足元の石畳が冷たい。

簡素な靴は硬く、歩くたびに痛む。

港には、王宮の記録官と外国商会の男が待っていた。

記録官が書類を開く。

「セシリア。王宮管理労役奴隷。国外弁済契約により、西方海運商会へ引き渡す」

その声は、あまりにも平坦だった。

セシリアは顔を上げる。

「せめて……せめて、行き先をもう一度教えてくださいませ」

外国商会の男が答えた。

「西方海運都市。まずは倉庫作業場だ」

「そこで、私は何を……」

「働く」

短い答え。

それ以上の説明はない。

セシリアの唇が震える。

「私、働いたことなんてありません」

商会の男は表情を変えなかった。

「だから覚える」

それだけだった。

彼女の事情に、誰も興味がない。

公爵令嬢を名乗っていたことも。

王太子と踊ったことも。

綺麗なドレスを着ていたことも。

ここでは、何の価値もなかった。

記録官が書類を差し出す。

商会の男が署名する。

羽ペンが紙を擦る音がする。

その音が、ひどく怖かった。

自分が紙の上で、どこかへ渡されていく。

物のように。

荷のように。

「契約成立」

記録官が告げる。

セシリアの膝が崩れそうになった。

「いや……」

声はかすれていた。

「私、こんなところへ来るはずではなかったのに……」

誰も答えない。

「私は……王太子妃に……」

言いかけた瞬間、商会の男がちらりと彼女を見た。

その目に、憐れみはなかった。

ただ、面倒な荷物を見るような目だった。

セシリアは言葉を失う。

王太子妃。

その言葉は、ここでは笑い話にすらならない。

遠すぎる。

あまりにも遠すぎる。

その頃、公爵邸では、エレノアが朝の報告を受けていた。

「セシリア、王都港に到着。まもなく引き渡しが完了する見込みです」

ルークが静かに読み上げる。

エレノアは執務机で、領地の収支表を確認していた。

「分かりました」

それだけだった。

ルークは少しだけ間を置く。

「港へ向かわれますか」

「いいえ」

「最後に何か伝えることは」

「ありません」

即答だった。

エレノアはペンを置き、窓の外を見る。

薔薇の葉が朝露に濡れている。

「何度も止めました」

静かな声。

「そのたびに、彼女は公爵令嬢を選びました」

だから、今の結果がある。

セシリアが男爵令嬢であることを受け入れていれば、こんなことにはならなかった。

公爵家の名を借りなければ。

王太子の前で偽らなければ。

虚栄を夢だと思わなければ。

ここまでは来なかった。

「情はございませんか」

ルークの問いに、エレノアは少しだけ考えた。

「情で帳簿は消えません」

そして続ける。

「情で王宮記録も書き換えられません」

それが答えだった。

王都港。

セシリアは船へ続く板の前で立ち止まった。

板の向こうは、もうこの国ではないように見えた。

商船の甲板では、異国の言葉が飛び交っている。

意味は分からない。

それが余計に怖い。

「進め」

兵士に促される。

セシリアは首を振った。

「嫌……嫌です……」

「契約は成立している」

「お願いです! エレノア様に会わせてくださいませ!」

叫んだ。

港の人々が振り返る。

「一度だけでいいのです! 謝ります! もう公爵令嬢なんて名乗りません! 宝石もドレスもいりません! だから……!」

声が涙で乱れる。

「だから、帰してください……!」

記録官は冷たく告げた。

「公爵エレノア殿より、面会希望は出ていない」

セシリアの顔が凍りついた。

「……来て、くださらないの?」

誰も答えない。

それが答えだった。

彼女は港の先に王都を見る。

遠くに、王宮の塔が見えた。

そのさらに向こうに、公爵邸があるはずだった。

あの庭。

あの廊下。

あの広間。

自分のものになると思った場所。

けれど、一度も自分のものではなかった場所。

「エレノア様……」

小さく呟く。

もう「お姉様」とは呼ばない。

呼べない。

呼んでも、戻れない。

兵士が彼女の背を押す。

セシリアはよろめきながら板を渡った。

靴音が木板に響く。

一歩。

また一歩。

船に乗る直前、彼女はもう一度振り返った。

誰もいない。

父はいない。

母はいない。

王太子はいない。

エレノアもいない。

見送る者は、誰もいなかった。

甲板へ上がると、商会の男が水夫に合図をした。

「下へ」

セシリアは驚いて顔を上げる。

「下?」

「契約労役者の区画だ」

彼女は甲板に残ることすら許されなかった。

水夫に促され、船底へ続く階段を降りる。

暗い。

潮と木材と、人の汗の匂いが混じっている。

狭い区画に、何人もの契約労役者がいた。

皆、疲れた目をしている。

誰もセシリアを特別には見ない。

彼女は隅に座らされた。

手枷こそ外されたが、扉は外から閉められる。

逃げられない。

船が揺れた。

セシリアは壁に手をつく。

怖い。

本当に怖い。

王宮舞踏会で王太子の手を取ったとき、自分は世界で一番幸せな娘だと思った。

その同じ手で、今は粗い木の壁を掴んでいる。

爪が割れそうに痛む。

「お父様……お母様……」

声は暗い船底に溶けた。

公爵邸。

エレノアは午前の執務を終え、記録庫へ向かった。

ルークが新しい報告書を棚に収める。

「セシリア、国外商会へ引き渡し完了」

書類の背に、日付が記される。

それだけ。

一人の少女が国を出たことも、王太子妃を夢見たことも、泣き叫んだことも、記録の中では短い一行になる。

エレノアはその背表紙を見た。

「これで、三人の処分はすべて執行段階に入りましたね」

「はい」

ルークが答える。

「アルベルトは北部鉱山。妻は労役施設。セシリアは国外商会へ」

「分かりました」

エレノアは記録庫の扉を閉める。

重い扉が、静かに閉まった。

王都港では、商船の帆が上がっていた。

風を受けて、船がゆっくりと岸を離れる。

セシリアは船底の小さな窓から、消えていく王都を見た。

白い塔。

赤い屋根。

遠ざかる港。

涙で景色が歪む。

「戻りたい……」

誰にも届かない声だった。

船は進む。

王都は小さくなる。

やがて、水平線の向こうに消えていく。

セシリアが欲しがった公爵令嬢の名も。

王太子妃の夢も。

華やかな社交界も。

すべて、遠ざかっていく。

そして今、彼女に残されたものは、ひとつだけだった。

偽りの名で得た夢の代償。

それを、海の向こうで払い続ける未来だけだった。
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